15 per annum

年間第15月
マタイ10・34~11・1

ここで主イエスがおっしゃりたいことは、37節に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより、息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とありますように、父や母よりも第一にイエスさまを愛しなさい、息子や娘よりもさらにイエスさまを愛しなさい、ということです。‥‥すなわちここで主イエスがおっしゃっていることは、他の誰よりも第一にイエスさまを愛しなさい、ということです。言い換えれば、他の誰よりも、まずイエスさまに従いなさい、ということです。
 その結果、反発が起きることがあるのです。家の者の理解が得られず、対立することがあるのです。アシジの聖フランシスコは出家したときに、父親の反対を受けました。今でも、家族の反対を押し切って、あるいは親に勘当(かんどうdisinheritance)されてまでして、神父やシスター道を歩むために献身する人がいるのです。そのようなことは、聖職者だけのぶつかる問題ではありません。普通の信者の中にも、家族の反対、あるいは無理解の中から、いわば戦いの中から教会に集まってこられる方々がいるのです。
 そういう者にとって、きょうのイエスさまの言葉は、なんと慰めに満ちていることでしょうか。親に勘当されてまで、神様に献身して神学校に入る者、父母、嫁姑の反対を押し切って、礼拝に集う者‥‥。もちろん家族を愛していないわけではない。だからこそ、悩むのです。「これでいいのだろうか?」と。「もしかしたら自分は間違ったことをしているのではないだろうか?」と。「聖書も、父母を敬うことを教えているではないか?」と。

なぜ、ここまで問い詰められるのであろう、なぜ、自分の生活の中で、自分の家族との生活の中で、その平和を奪うような言葉を、聞かなければならないのであろう。そういう思いで、ですから、この言葉もまた、父母や、息子娘を愛さなくてもよい、というのではないのです。父母や、息子娘を愛する以上に、まず主イエスを愛し、主イエスに従うことを求めておられるのです。niban

年間第15火
マタイ11・20-24

 例えば、私が外務大臣に対して、「辞職してもらう」と言っても、何も起きません。そんな権限は私にはないからです。しかし、内閣総理大臣が同じことを言えば、外務大臣は辞めざるを得ないのです。総理大臣にはその権限がある、力があるからです。それと同じように、イエスさまに与えられている力、イエスさまにある力、その力の現れがここで言う「力あるわざ」ということであり、「奇跡」のことです。
ここに私たちは、「奇跡」=力あるわざ、というものが何のために行われるのか、ということの意味を知ることができるのです。すなわち、奇跡は悔い改めさせるためにある、ということです。言い換えれば、奇跡を行うことがイエスさまの目的なのではない、ということです。あくまでも奇跡を行うということは、悔い改めさせるために行われるのであることがよくわかります。そしてイエスさまの目的は、人々が悔い改める、ということであることが、よく分かります。そこを間違えてはなりません。 niban
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生き物に欠かせないものの一つには、水があるでしょう。水は化学的には、水素と酸素からなっています。水素二つと酸素一つ、H2O。この水素と酸素の結合は非常に安定したもので、しかも大量にできるのはなぜでしょうか。不思議のものです。水は氷ると氷は水より少し軽くなります。実際、氷を見ずに中に入れると浮かびます。もし、氷は水より重いのであれば、海洋は底から凍り、地球は氷の塊になってしまう。これは、水素原子の独特な特性によります。これも不思議なことです。
生き物は吸っている空気には、二酸化炭素があります。炭素一つと酸素二つ、CO2。空気の4.5%までになっても問題ない。不思議なのはこのCO2はなぜ、一酸化炭素(CO)にならないのか。簡単にできそうなのに。これも不思議です。

問題に出会った時、救いの手が差し伸べられて恵みに感謝したり、自分の小ささを認めることはあるかもしれません。しかし、空気のようにあまり意識していない恵み、人間の理解を超える奇跡によって今の私の命があることにどれほど気づいているでしょうか。
主よ、あなたの恵みと憐れみなしに生きていけないことに気づかせてください。そして、いつも感謝してあなたの愛に応えていくことができますように。sese05
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奇跡などないと言う人がいます。奇跡を信じず、自分の行動でのみを信じます。
人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、奇跡など何も起こらないと思って生きること。
もうひとつは、あらゆるものが奇跡だと思って生きること。

"There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle." これはEinsteinの言った言葉として伝えられることはあるのですが、実はそうじゃない。とにかく,生きていること、今ここにいること、目の前に広がる全てを奇跡だと思って見てみてくだい。あらゆるものが奇跡だと感じて過ごしてみてください。

大正生まれの平均寿命は50歳以下でした。私は大正生まれでしたら、もう生きていない。
ちょっとしたきっかけで脳梗塞や認知症を起こすことがあります。だから、今朝、早いのに、私は皆さんの前で、ちゃんと話しできるのは、奇跡。いとも簡単にできなくなりますから。
今日は、私はシスターたちのところでご馳走になります。もし、私はアフリカで生まれていたら、今日は食べられないかもしれない。そういう子供たちは実際何百万人います。
 

年間第15水
マタイ11・25-27

神の知恵は人間的な知恵をはるかに超えています。そのすばらしさを世に示すため、天の父は幼子のような者をお選びになりました。イエスが私たちに天の父を示されるのは、ひとえに私たちの小ささゆえです。
父なる神をよりよく知り、その愛のうちに生きることができるように、主よ、いつも幼子のような単純さを、お与えください。sese05
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自分のことをえらいと思っている人や、権力や名誉を求める人ではなく、幼子のように力のない人たちに、神さまは自らを現されるのだ。物事を神様の観点からみるのは、自分の力に頼っていては、不可能なことだといやというほどしめされた。自分は30年以上神学・哲学(神のことを調べる学問)をやってきたが、このように言われると、 なんだかふりだしにもどった感じです。 ここで思いますのは、von Balthasarのすばらしいことば。Von Balthasarは20世紀の偉い神学者であるが、彼は神学は「跪いた神学」(„kniende Theologie“ つまり、神の前で祈りながら営まれる神学)
Cfr Hans Urs von Balthasar, Theologie und Heiligkeit, Aufsatz von 1948 in: Verbum Caro. Schriften zur Theologie I, Einsiedeln 1960, 195-224でなければならないと訴えた。
「神はその力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、見捨てられた人を高められる」(ルカ1)
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イスラエルで子どもは、律法をまだ学んでいないのだから、人間ではないとさえ思われていた。律法を学んで初めて人間になると考えられていたからです。 しかしイエスはむしろ「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。これは御心に適うこと」といって、子どもであることに価値を認めました。実際子どもをとても大事にしました。
 別の箇所で、「子どもにならなければ、神の国に入ることはできない」とありますが、ここでむしろ0歳児をイメージする必要があります。 今日の言葉は、「神様が本当の親なのだから、神様にすべて委ねるしかない赤ん坊になれ!」と言う意味です。 赤ん坊はまったく無力です。しかし親の愛に守られながらしっかり育っていきます。親がいるから何の恐れも要らない。安心していられる。 ましてその親が神様ならば、完璧です。
神はいるかどうか分からない。いたとしても、とにかく確かな認識ではない。だから自分だ頑張るしかない、と思う人は多いかも知れません。けれども、それもどの程度の認識であろうか。それは聖書で言う傲慢の罪ではないか。それこそ「知恵ある者や賢い者」の認識ではないか。むしろ、神が父であることを誇りにすべきではないか。そして自分が無力であること、小さいことを誇りにできるではないか。 イエス様でさえそうだったのでした。赤ん坊として生まれたとき、そして十字架にかけられたとき。  たとえば年をとることも無力になること。これこそイエス様が大切にした神の子どもであり、幼きイエスのテレジア(リジューの聖テレジアの目指した小さきものです。 神を親として持っている。だからその神様を信じ、すべて神様に委ねる、赤ん坊の心を持って、小さいものとして生きる決意を新たにしましょう。


年間第15木
「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」
マタイ11・28-30

。‥‥「くびき」というのは、牛の首の所にあてる木です。牛の首にくびきという木をあてて、車を引かせたり、すきを引かせて土を掘り起こさせたりします。つまり、牛を農作業で働かせるために自由を奪う道具です。
 不思議なことをイエスさまはおっしゃる。私たちは「この世のくびき」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのではないか。だから、「休む」というのは、そういうこの世の重荷、この世のくびきから解放されて、自分の好きなようにすることではないか。自分にかけられたくびきがなくなってしまうことが、重荷が取り去られて、休まることではないのか‥‥そう思うでしょう。
 それなのに、イエスさまは、この世のくびきをおろす代わりに、イエスさまのくびきを負え、と言うのです。「これでは、また違う重荷が負わせられるのではないか?」と私たちは思うのではないでしょうか。「私たちを縛りつけるくびきなど、なんにもなくて、自分の好きなようにして、自分の思ったとおりにできる。それが、重荷をおろすことであり、休むことだ」‥‥そう思う。ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、イエスさまのくびきを首にかけなさいとおっしゃるのです。

「疲れる原因がなくなりさえすれば、疲れることはないのではないか」と私たちは思います。  例えば、生活上の不安を覚え、重荷を負い疲れている人は、大金持ちになればもう疲れることはないだろう、と。もっと言えば、大金持ちになって、しかも権力を手にして、何でも自分の意のままにすることができたとしたら、どんなに楽だろうか、と。食べることに心配せずにすみ、住むところも広い屋敷で、自分をしばる律法もおきてもない、自由で、何でも手に入る‥‥そんなふうになったら疲れるということはないだろう‥‥そのように思います。しかしそれは違っているのです。

くびきがとれて何もなくなったのは、一見良いことだと思う。しかしそれは、また別のくびきがいつの間にか自分の首に掛かって苦しめていくようになっているのです。新しい別の重荷がのしかかっている。 人間関係で、疲れ果てる。職場の人間関係、家庭内の人間関係‥‥。そういう煩わしさから離れて、「誰もいないところに行って、一人になりたい!」と思うでしょう。誰もいないところで一人で‥‥無人島でしょうか。最初はよいでしょう。しか
しすぐに、猛烈な孤独感に襲われるでしょう。「誰でも良いから、話し相手になってくれ!」と言って、叫び出したくなるでしょう。
イエスさまのくびき(つまり、その教え)を掛ける。その結果、この世の他のくびきは取り除かれるのです。イエスさまの荷を負う。しかしそれは軽い荷です。そして、他の重い荷物は取り除かれる。そういうことなのです。
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くびきとは家畜に鋤や鍬などの農具を引かせるために首に背負わせる木です。ピッタリしていないとなかなか労働がつらい。名説教家は、ナザレのイエスの作ってくれるオーダーメイドのピッタリしたくびきのことだと語ったことがあるようです。
また、くびきには二頭のウシを並べてかつがせたようです。旧約聖書の中には異なった種類の家畜を一つのくびきにつけることは禁じられています(申命記22:10には「牛とろばとを組にして耕してはならない」とある)。キリストの軛とは、片方はイエスさまが背負ってくださり、もう片方は自分で背負うようなものなのでありましょう。主ご自身が私の重荷を背負ってくださる。主の軛は負いやすく、その荷は軽いと言われるのは、主が私と(四国のお遍路様ではないですが)同行二人(どうぎょうににん))で歩んでくださることを意味しています。
 実は人生においても自分にピッタリの居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。

このキリストのみ声の中に、このお方との軛を背負い合う関係の中に、私たちのための居場所がある。心からホッとできる安らぎの場所がある。
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「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。このイザヤ書で示される苦難のしもべは、イエス・キリストのことを預言しています。 「富んでおられたのに、貧しくなられた。それは、彼の貧しさによって私たちが富む者になるため」(IIコリ8)。--私たちに代わって、イエスはこの世の貧しさを担って下さった。経済的な貧しさ、あらゆる人間の苦悩、重荷、病、そして罪を担ってくださった。イエスは私たちと共にいて、痛み・苦しみを取り、代わりに担いで、元気を与えて下さっている。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
 私たちは、それなのに、なかなか自分の重荷を降ろそうとしません。神様に委ねるどころか、自分ひとりで一生懸命抱え込もうとしていることすらあります。一所懸命誠実であろうとして、自分のだけでなく、他人の重荷まで負おうとして、押しつぶされそうになっている人さえいます。 しかし、ただ自分の今の十字架を背負えばいい。他のさまざまな十字架は、イエス様がすべて負ってくださっているのです。 私たちには罪を赦してくださる神様がいます。永遠の命の希望があります。私のことを特別に大切だと思ってくださっている神様がついていてくださっています。 だからまず第一に、自分で解決できないような重荷や思い煩いは神様に負ってもらいましょう。 次に、強い確信に基づく自分の訴えや、それに反対するものへの裁きも、神様にお委ねし、お任せしましょう。
 

年間第15金
マタイ12・1-8

ここで注意しなければならないことは、イエスさまは、「そんな細かいこと言わなくても良いじゃあないか。大目に見なさい」とおっしゃったのではないということです。「そんな固いことを言うな」という理由で、反論なさったのではない。そこを注意しなければならないと思うのです。
 今ファリサイ派の人々が、イエスさまの弟子たちを律法違反の罪でとがめた。そのことが、いかに間違っているか、ということを、イエスさまは他の聖書の個所を取り上げて、まじめに反論なさっているのです。決して、「固いことを言うな」とおっしゃったわけではない。「聖書」というのは、私たちにとって、まさしく宗教的な書物です。つまり、神の国、神様をおぼろに映し出す鏡そのものと言って良い。神の国と、この世の私たちをとりなす聖書
。その大切な聖書を、あなた方ファリサイ派は間違って用いているというのです。


律法はもともと、神への愛、人への愛を実行するために与えられたものでした。イエスは、憐れみの心が律法の規則よりも先にあることを、私たちにさとします。
主よ、あなたが私たちの心に与えてくださった愛の掟を第一として、実践していくことができるよう、導いてください。sese05
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ダビデに、神聖なパンを与えたのは祭司であるから問題ない。また、律法は神様のものだから、神様が麦の穂を積んで食べても良いとおっしゃれば、それはよいに決まっている。同じように、弟子たちに今、麦の穂を積んで食べることをゆるしたのがイエスさまだから、律法違反にならないのです。なぜなら、イエスさまは、神の子だからです。神様の御心に従うために律法がある。その神様が、良いと言ったのだから、良いに決まっているのです。
 例えば、わたしがだれかに自分のものをあげようとする。すると、そこに関係のない第3者がやってきて、「これこれ、それをもらってはダメですよ。それはアンドレア神父のものだからですよ。」‥‥これはおかしなことです。持ち主本人が、あげると言っているのですから、良いに決まっているわけです。
 神の御子が「良い」と言っているのに、ファリサイ派の人々は、「それは神様の御心に背くことだからダメだ」というのはおかしいのです。持ち主が「良い」と言えばよいのです。それをとがめるのは、「本末転倒」というものです。すなわち、ファリサイ派の人々は、イエスさまが実はどなたであるのか、ということが全く分かっていないのです。

     イエスがどなたであるかが分かれば、すべてが分かってくる

 祭司が安息日に仕事をしても良い、という例を引き合いに出されたのも同じことです。祭司というのは、神様にお仕えする人です。だから安息日に仕事をしても良いというか、安息日に祭司が仕事をしなかったら、人々は神様を礼拝する事ができない。まさに、牧師が日曜日に仕事をしなかったら、教会の礼拝が成り立たないのと同じです。
 これもイエスさまが神の御子であるとすると分かってくる。イエスさまのそばで、イエスさまに従っているのが弟子たちです。その御子イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕えているとしたら、それは良いことなのです。
 今わたしは、弟子たちがイエスさまに仕えている、と申しました。しかし弟子たちがイエスさまに仕えて働いているようには見えない。むしろ弟子たちのほうが、イエスさまに助けていただき、イエスさまに仕えていただいているように、聖書を読んでいると思えます。でも、イエスさまは弟子たちがご自分に仕えていると言わんばかりです。弟子たちはただ、イエスさまのそばにいるに過ぎないのに、です。
 ここにイエスさまのメッセージがあります。ただイエスさまのそばにいる、何もイエスさまのお役に立っているわけではない。しかし、それにもかかわらず、イエスさまは喜んでくださるのです。ただイエスさまのそばにいるだけしかできない。しかしその弟子たちを、イエスさまは、神殿で神様に仕えている祭司と同じように扱ってくださるのです。
 「神殿よりも偉大なもの」‥‥神殿よりも偉大なものと言えば、それはもう、神様しかありません。「神殿よりも偉大なものがここにある」というイエスさまの言葉は、その神様がここにおられる、ということです。言い換えれば、イエスさまのいるところが、神様のいるところだ、ということをおっしゃっているのです。
 すなわちきょうの聖書は、イエスさまこそ神の御子だ、ということを認めないと、何も分かりません。イエスさまはそのことを、はっきりとではないが、鏡におぼろに映すようにおっしゃっているのです。そしてこのことは、やがて、イエスさまが十字架にかけられ、そして復活なさったときに、明らかとなったのです。
 祭司しか食べてはならないパンをダビデに与えた祭司アヒメレクは、サウル王によって殺されていまいました。言わば、祭司アヒメレクは命がけでダビデにパンを与えたことになります。主イエスも、そうでした。弟子たちに、そして私たちに、命のパンを与えるために、命をかけてくださったのです。十字架で命を投げ出して、私たちに命のパンを与えてくださったのです。


年間第15土
マタイ12・14-21

私たちひとりひとりは、まるで、ここに書かれているように、傷ついた一本の葦のようではありませんか。‥‥川や湖の岸辺に群生している葦。その一本が傷ついたとしても、誰も気にもとめないのではないでしょうか。葦の茎が一本傷ついている。今にも折れそうだ。どうしますか? そんなことはどうでもよいことでしょう。あるいは、いっそのこと折って捨ててしまうでしょう。
 ところが、主イエスは違うというのです。そこに引用されているイザヤ書の言葉のように、「彼は傷ついた葦を折らず」というのです。イエス様から見ると、傷ついて、今にも折れそうな葦を折らない。つまり何とか再びピンと立つように、なさるというのです。この「葦」は、原語では単数形なのです。つまり、たくさん生えているうちのたった一本の葦。それがどうなろうと誰も気にもとめない。しかし主イエスは、そんなどうでもよいような一本の葦でさえ、目を留めて、あわれんで、何とかして再びたつようにしてくださる方だというのです。これが私たちの主イエス・キリストという方です。

     たった一人のこのわたしのために

 まさに私自身も、私たちひとりひとりも、今にも折れそうな一本の葦かもしれない。なかなか神様の御言葉を信じきることのできない自分があり、また様々な問題を抱えている。私という人間一人ぐらい、折れても捨てられても、誰も何ともないし、世界から見て何の影響もないかもしれない。どうでもよいことです。しかし主イエスから見ると違う。一本の葦が傷ついているのをあわれんで、このわたしたちのところに近づき、やっていけるようにして
くださるというのです。

     希望のともしびを消さない主イエス

 「くすぶる灯心を消さない」‥‥昔の部屋の中の照明は、灯火でした。ランプと言えるほどのものではなく、お皿に油を入れ、糸を寄りあわせて造った芯を浸して火をつける、というものです。それがくすぶるというのは、お皿に油がなくなったのでしょうか。主イエスは、その油をつぎ足して、消えないようにするというのでしょう。
 私たちは、希望を失ってしまいそうになることがあります。パレスチナの平和もそうです。あるいは、そんなに大きなことではなくても、毎日の生活の中で、その人間関係で、あるいは健康のことで、あるいは生活の心配のことで、子育てや親子の関係のことで‥‥。神様への信仰も、くすぶって、消えてしまいそうになることがあります。希望が失せてしまいそうになることがあります。
 しかし主イエスは、そこに油を足して、再び灯が明るくともるようにしてくださる。それが私たちの主イエス・キリストであるというのです。どうかこの主イエスが、この1週間も皆さんと共に歩んでくださいますように。そして、なるほどその通りであった、というあかしの生まれますように。 niban
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