黙示録10


黙示録

巻物を食べるヨハネ 

10章5~11節

黙示録5章には、封じられた巻き物が出てきたのを覚えているでしょうか?だれも、その封印を解くことができませんでした。けれども、神の右の座にすわっておられる小羊なるイエスが、封印を解く権利を持っておられました。世界を贖うことができるお方は、ご自分の血を代価として世界を神のもとに買い戻された、イエス・キリストのみです。そしてイエスさまは、封印を一つ一つお解きになりました。

再び天から声が響き、ヨハネは特別な指令を受けます。天使の手にしている巻物を食べなければならない、というのです。

旧約聖書には、似たようなケースが二つ記されています。エレミヤは神様の御言葉をむしゃむしゃ食べました(「エレミヤ書」15章16節)。エゼキエルもまたヨハネと同じ指令を受けました(「エゼキエル書」2章8~9節、3章1~3節)。

巻物を食べる行為には、より深い意味がある。神様の御言葉が書かれた巻物をヨハネが食べるのは、神様のメッセージが彼の内に取り込まれ、彼自身の一部となったことを示しています。
 
今や神様の御言葉はヨハネの中にあります。それゆえ、彼はそれについて黙してはおれません。ヨハネには、この巻物ははじめ口には甘く、次に腹には苦く感じられました。これは、神様の御言葉がどのようなものか、よく表しています。
神様の御言葉は蜜のようです。それはとても美味しく、読むのは愉しいものです。
しかし、神様の御言葉には別の一面があります。嫌に感じられる面です。御言葉は、私たちが聴きたくないようなことも語ります。

聖書には、神のことばを食べることがたくさん書かれています。有名なのは、イエスさまが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と引用された申命記のことばなどです。私たちは、みことばを知識的に知っているだけでは不十分ですね。悪魔でさえ、みことばを知っています。けれども、みことばを自分のうちにとどまらせる、住まわせることによってはじめて、みことばによって生きることができます。食べるというのは、そういうことです。


私たちも、ある意味で、ヨハネのようです。神のみことばを語ることは、いつも甘いわけではありません。良薬口に苦しではありませんが、人の腹に苦くなることも語らなければいけません。人はキリストによって救われるのですが、その前に人は罪人であることを知らなければいけません。人は永遠のいのちを持つのですが、その前に死んでいることを知らなければいけません。そして、神の祝福は無尽蔵にありますが、神ののろいと怒りは激しいことを伝えなければいけません。甘いことばだけでなく、苦いことばも語ります。

 ですから、「開かれた巻き物」です。すでに主は輝かしい将来を約束されています。けれども今は、そのようには見えません。けれども主は、ご計画を粛々と進めておられます。

黙示5:1~5


黙示5:1~5

 「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、だれひとりその巻物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。巻物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。」


 御座に座っておられる方の右の手に、巻物が握られていました。これは、三つの意味があります。3つの巻物を握っておられます。聖書と大宇宙(人類の歴史全体)とあなた自身です。黙示録の人生観は「一巻の巻物のようなものである」ということを教えていると思います。人生は、一望(いちぼう)のもとに見える平面的なものではなく、予測のつかない不可解な巻物だと教えています。
 しかし、はっきりとわかっていることは、全知全能全愛の神の御手に、それが握られているということです。そこに、安心が生まれます。
 二つ目に、はっきりわかっていることは、その巻物は、裏も表も文字が書いてあったということです。これは、逆境も順境もみな神の支配の中にあり、すべてに意味があるのだと教えています。神は、万事を働かせて我々の祝福と変えてくださる方です。信仰とは、この人生の意味を汲み取る力だと思います。