エゼキエル 年間第19水

ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし……

                エゼキュル書10・2

エルサレム滅亡についての幻である。炭火というのは神の火であり、さばきをされる火である。さばきの火がエルサレムにまき散らされるのである。
エルサレムは、現実にはバビロンの軍隊によって壊滅に帰したわけであるが、そのエルサレム滅亡は、神が亜麻布を着た人に言った言葉が成就したのである、と示しているのである。バビロンの軍隊によって壊滅したということは、当時の王様が若かつたとか、軍隊が弱かったとか、政治家が怠慢であったとか、いろいろ考えられるだろう。しかし、それらは表面的なことであり、その奥では、不信の都エルサレムを滅びにいたらせたのは神であったのである。神殿の申でいまわしいことが行なわれ、町には神の嘆かれることが行なわれている。町はもはや神の選び、神の恩寵を受けて存在する意味がなくなっている。
だから神の意志によって神が臨まれたのである。ただ単にそのような思想を持つというのではなく、一つの歴史解釈を、上からの示しによって可能ならしめているのである。
 戦後まもなく、私たちが奪い合うようにして読んだ本に「日本の傷をいやすもの」というのがあった。矢内原忠雄先生が書いたもので、当時の青年たちがむさぼるようにして読んだものである。町にはまだ本らしい本も出ていない頃であった。矢内原先生はその本に「日本はアメリカに負けたのではないのだ、日本は神によって滅んだのだ、その滅んだ日本をいやすものは神以外にはない、本当に神に帰る以外に日本の復興はないのだ」という意味のことを書かれた。
 当時、軍隊やエ場から帰った人たちがキリスト教に目標を見いだし、神のご用に役立ちたいと献身していった。エゼキエルは、壊滅に帰したエルサレム、バビロンによって打ち負かされたエルサレムは、神によってなされたものであったことを、幻によって示されたわけである。
 神殿は、もはや神の住むべき所ではなくなったので神は去られた。あるじのいない神殿、あるじのいない教会になってしまった。
 神殿のすばらしさは外側の荘厳さにあるのではなく、そこに神が臨在しているかどうかにあるのである。教会もまた同じである。そこがどんなにみすぼらしくとも、キリストが臨在している所、すべてのものを満たしているかたが、満ち満ちている所が教会であると言われでいるが、本当に神が臨在し、神の手、神の言葉が見られたり、聞かれたりする所が教会でなければならない。
 教会は、キリストの血潮にあがない取られた所であって、キリストのいましたもう所であり、神のみ霊の満ちている所であらねばならない。そしてキリストの臨在する場として自らととのえていく努力をしなければならないと思う

榎本保朗、『旧約聖書一日一章』、主婦の友社、1977年

日本の傷を医す者 白日書院 1947

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