年間第一 Mark 1, 21-28

年間第一 Mark 1, 21-28

イエスは、他のラビのように、他のラビの言葉を引用しながら律法を説明しませんでした。そうではなく、「わたしは、あなたがたに言います。」と権威をもって教えられたのです。福音のことばには権威があります。これを、学校の授業のようにして、知識のために聞くのであれば意味がありません。むしろ、親が子供にこれをしなさい、と言うのを聞いていくように、自分の行動を決めてしまうような言葉として受け入れていく必要があるのです。
イエスは悪の力を滅ぼすために来られたのです。この世をサタンから奪い取って、神のものに返すために来られました。イエスは、権威のあるように教えられただけではありません。実際に権威をお持ちだったのです。それで人々は驚きました。私たちは、目に見える世界が、目に見えない世界によって支配されていることを学びました。汚れた霊は、目に見えない霊の領域に属します。人々は、彼をどうすることもできなかったのですが、福音のことばには従わせるカがありました。イエスは確かに、ヨハネよりもさらに力のある方です。こうして、福音が霊の領域において現わされました。

Mark 1, 29-39

シモンのしゅうとめが、熱病からいやされました。イエスは、ことばをかけることなく、ただ手を取って起こされました。そして、彼女は彼らをもてなしたのですから、熱が完全にひいたことがわかります。こうして、イエスは、肉体、つまり肉の領域において福音を現わしてくださいました。
 人々は、汚れた霊が追い出されて、熱病がいやされたことを聞きつけて、イエスが病を治され、悪霊を追い出すことができると知りました。そして、彼らがやって来たのが夕方、日没の時であることに注目してください。ユダヤ人の暦は、一日が日没から始まります。安息日が終わってから彼らはイエスのもとに集まって来たのです。彼らは、ユダヤ人教師から教えられていました。病気をいやすことは神の禁じる「働くこと」になる、と。 したがって、彼らは、そのようなおきてや規則に縛られて、イエスに病人と悪霊につかれた者を連れて来るのを控えていたのです。イエスは、そのような規則に縛られている彼らをかわいそうに思われました。本当は、安息日の日に連れて来れば、夜遅くまで奉仕をする必要はなかったのです。でも、イエスはご自分のことはお構いなしに、彼らに仕えられました。イエスは、彼らを愛されていたのです。このように、福音は愛の行ないによって現われたのです。
 そして、再び、悪霊が、ご自分のことを話すのを禁じられています。イエスは、人々がご自分のことをどう見ているのかを気にされていました。もし、その時点で、ご自分が神の聖者、つまり神の御子であることを人々に知られたら、彼らは理解できなかったか、イエスを誤解したに違いありません。聞く相手に合わせて、ご自分のこと、つまり福音を紹介されていたのです。したがって、ここにも、人々に仕えるイエスの姿を見ることができます。 ところが、人々の心は、イエスの意図していたことから離れていきました。次に、イエスは、ご自分が奇跡を行われている自的を明確にされています。人々は、福音以外のものを求めてイエスを探していたのです。おそらく、魔術師とか、悪霊払い師のようにイエスを求めているのでしょう。しかし、イエスの願われていたのは、ただ一つ、人々が悔い改めて、福音を信じることなのです。しかし、そこから人々が離れていきました。奇跡だけを求めるようになりました。人々の心がそうなったとき、イエスは、他の村里に行くことを選ばれたのです。

Mark 1, 40-45

この出来事は、福音の自的が象徴的に示されています。 らい病人が、イエスのみもとに来ました。そして、「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。彼は、イエスにある力と権威を認めています。つまり、彼はイエスを信じたのです。そして、彼の病がらい病であることに注目してください。らい病は、進行性の病気でした。しだいに体を蝕む病気です。神経を殺して、感覚を破壊しました。そのため、例えばストーブに手が触れても何も感じないので、二義的な災害も多かったのです。そして、当時は治癒が不能でした。だから、らい病はこのような病気だったので、律法の中では、らい病人はイスラ工ルの共同体からはずされていたのです。らい病人は、人に近づいてはならず、誰かが近づいたら、「私は汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。でも彼は必死だったので、イエスに近づいたのです。次を見てください。
 イエスは、だれもが触れることのなかったらい病人にさわって、「きよくなれ。」と命じられました。ここにイエス・キリストの福音がはっきりと現われています。なぜなら、らい病は罪を指し示す型として用いられるからです。しだいに体を蝕む姿は、少しだけと思っていた罪がどんどん悪影響をもたらす姿を表しています。ヤコブは、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(1:15)」と言っています。また、治癒不能であることは、罪がガンのように直しようのないことを示しています。ソロモンは言いました。「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。(箴言20:9)」このようにして、罪は人を滅ぼします。しかし、イエスは、このらい病人に触れられました。同じように、イエスは、罪人をかわいそうに思って、その人に触れられるのです。イエスがこのらい病をきよくすることがおできになるように、どのような恐ろしい罪でも赦すことがおできになります。イエス・キリストの福音は、罪を悔い改めて、イエスを信じる者を拒まずに、豊かに赦してくださるというものです。私たちは、逆のことを考えてしまいます。自分が良い子であったら、神に近づくことができるかもしれないが、悪い子であったら神に近づくことができないと思いがちです。そうではありません。むしろ、罪を赦そうと思って待っておられるのです。罪を悔い改めて、神のみもとに来るものを、腕をいっぱいに広げて受け入れてくださるのです。

Mark 2,1-12

 今から学ぶ2章と3章では、この福富宣教がどんどん広がっているのを見ます。と同時に、この福音に反対し、福音をけなす人が現われます。つまり、福音の内容を見つつ、私たちが気をつけなければいけない、福音を妨げる要因を見ます。人々がその家に入ってきました。当時は、人々を家にもてなす習慣がありましたから、見知らぬ人が入って来てもおかしくありませんでした。 中風をわずらっている人が、4人の人にかつがれています。彼らは、多くの群衆に遮られていました。でも、失礼ではないかと思われる方法で、中風の人をイエスのみもとに連れて行きました。他の記事を見ても、イエスの奇蹟を体験する人々は、世間体や常識から出て行ってイエスに近づいています。イエスに近づいたらい病人は、自分は汚れているので人にさわってはいけませんでした。長血をわずらう女もそうですね。また、カナン人の女は、異邦人なのにイエスに近づきました。取税人ザアカイは、なんと木によじのぼってイエスを見ています。彼らに共通することは、イエスに近づくのに大胆であることです。自分の霊的な必要に関して、決して遠慮をせず、食らいつくようにしてイエスに近づいたのです。この律法学者たちは、罪が赦されたという喜ばしい知らせに難癖をつけています。確かに、その言っていることは正しいものでした。つまり、神のみしか罪を赦すことができない、というものです。人に嘘をついたり、人のものを盗んだりしても、究極的には神に対して罪を犯しているのです。さすが、律法を調べている者であり、洞察は正しいものでした。しかし、彼の態度が間違っています。理屈を言っている、つまり、批判的になり、分析をしているのです。そもそも、なぜ、彼らはそんなところにいるのでしょうか。イエスのあら探しをするためですね。イエスが言われること、イエスが行われるすべてに、悪いものを見出そうとしています。このような態度で人々に臨むとき、たとえ自分の言っていることが正しくても、福音の働きを閉ざしてしまいます。どちらが、やさしいでしょうか。罪が赦されたと言うほうがやさしいですね。なぜなら、罪が赦されたこと自体は目に見えないからです。証拠を提示する必要がありません。起きて、歩け、と言っても歩かなかったら、その人の言葉には権威がないことがわかります。つまり、「罪を赦すことを見せることはできないが、「起きなさい。」とわたしが言うことで、わたしのことばに権威があることを示そう。それで、わたしに罪を赦す権威があることを知りなさい。」と言われたかったのです。これは、私たちにとても大切なことを教えてくれます。すなわち、人間的には不可能な命令であっても、イエスの御力を信じて従うこと。そうすれば、従うのに必要なカが与えられることです。


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