箕面市 聖ヨセフ修道院にて

箕面市 聖ヨセフ修道院にて

民 槍で目を刺された 戦争に負けた人たちは君主に従属させる。

「聖なる者たち」という表現は、9章13節をはじめとして多くの箇所で使われていますし(9章41節、26章10節など)、旧約聖書では「聖なる民(国民)」(『申命記』7章6節など)という表現が用いられ、新約聖書でもパウロ書簡や『ペトロの手紙1』2章9節などでもたくさん用いられる言葉で、言うまでもなく、「神に属し、神を信じる人々」を意味し、新約聖書ではキリスト者を意味するものです。

この表現が、旧約聖書の「神の民(聖なる民)」の概念の流れを受けていることは明らかですが、キリスト者が「聖なる者たち」や「聖徒」と呼ばれ、教会が「聖徒の交わり」(信仰告白』)のは、「清く立派」というのではなく、「神に属する」ということで、これは、誰かほかの人間(王や権威ある者など)や人々、世の中に属するのではなく、「ただ神にのみ属する人間である」という「キリスト者の自由」の自覚と深く関係していることだろうと思います。

中風の患者を癒す奇跡、
『ルカによる福音書』8章40−56節に記されている「イエスによるヤイロの娘の復活の出来事」を彷彿させるものでもあります。『使徒言行録』のペトロやパウロの行為は、意識的にイエスの行いと平行して記述されているのです。

いやし」は、人間のわざではなく、どこまでも「神のわざ」です。「起きよ」は、復活を意味する言葉が使われていますが、これもそういう意味でしょう。アイネアにイエスによる復活がペトロを通してもたらされたというのです。

弟子はキリストのみ名によって、父と子と聖霊のみ名によって、キリストと同じわざを行うことができる。

聖体拝領の前に司祭は、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と呼びかける。信徒は信仰告白で答える。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちのかて、あなたをおいて、だれのところに行きましょう」。
「なんだか芝居役者のセリフのような言葉」と言われていますが、実は
�ペトロのこの積極的な信仰告白を拝領前の信仰告白としてみんなで唱えてから拝領する。

 ですから、ペテロは、「私たちがだれのところに行きましょう。あなたの他にはないではありませんか」と言ったわけです。
多くの人がイエス様のもとを去っていきました。しかし、イエス様を離れて、どこに行ったら本当のいのちがあるでしょうか。どこで罪が赦され、平安が与えられるでしょうか。イエス様のもとにこそ、いのちがあり、いつも共にいて支えてくださる方がいるという孤独からの解放があるのです。イエス様のもとにこそ死を乗り越えた希望があるのです。
 残念ながら、イエス様のもとから離れてしまう人はいます。いろいろなつまずきや、この世の忙しさなど様々なことで去ってしまうのです。しかし、いったい、イエス様の与える救いの約束と匹敵するものを、どこに行って手に入れることが出来るでしょう。
 皆さん、人生につまずくことはあります。だからこそ、イエス様のもとに踏み留まる必要があるのです。信仰を持続すること、信仰の粘り強さをもつことは、とても大切なのです。一生涯、イエス様を食べ続け、飲み続けていきましょう。
「すねかじり」



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