ヨブ記3
列王記上
くかたち
古代において行われた神判。『日本書紀』はこれを「盟神探湯」と記しているが,「くか」は,けが,けがれと同語であって,つみ (罪) というに等しく,「たち」は断 (裁) であって,決定の意であると考えられる。
罪の疑いを持たれた者に、神に潔白などを誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、小石や泥土(ひじ)を,当事者に素手で取り出させ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。
うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓(ちかい)などと書く。(アマテラスとスサノオの誓約)
実際に盟神探湯を実行した場合は、容疑者に恐怖感を与えて犯罪行為を自白させるための手段としての効果があったと考えられる。つまり盟神探湯の実効性を信じている者であれば、真犯人でなければ躊躇する事なく湯に手を入れようとし(その直前で制止すればよい。あるいは実際に手を入れて火傷をしてしまっても、犯人ではなかったとする)、真犯人であれば神への畏れもあり、湯に手を入れる前に自供するという事である reign of Ahab (9th century BC),
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史料としての『新約聖書』
史料としての『新約聖書』
歴史書 | いつ書かれた | 最古の写本 | ギャップ | 写本数 |
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ヘロドトス (歴史の父) | 紀元前485年頃 ~ 紀元前420年 | 紀元後900年 | 1300年 | 8冊 | |
トゥキディデス『戦史』 | 紀元前460年頃~ 紀元前395年 | 紀元後900年 | 1300年 | 8冊 | |
タキトゥス『年代記』『同時代史』 | 紀元後100年 | 1100年 | 1000年 | 20冊 | |
『ガリア戦記』 | 紀元前58~50年 | 紀元後900年 | 950年 | 9-10冊 | |
ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』 | 紀元前59年~紀元後17年 | 紀元後900年 | 900年 | 20冊 | |
新約聖書 | 40~100年 | 130年(完全な写本350年) | 30~310年 | 希語5000冊以上+ 羅語1万冊+ その他9300冊 | |
古事記 | 紀元後712年 | 伊勢本1371-2年 | 650年 | 2冊 | |
日本書紀 | 紀元後720年 | 佐佐木本 9世紀写 | 100年 | 4冊 |
般若心経 | 紀元後1世紀 | 8世紀後半(法隆寺所蔵) | 700年 (仏陀入滅紀元前383年?) | 1冊 |
法華経 | 紀元前後 | 紀元後286年(漢訳) | 200年 | 数冊 |
For if one subscribes to the notion that the Gospels are essentially unhistorical, he is confronted with numerous insurmountable obstacles, not the least of which is an explanation for how this sudden micro-burst of the most extraordinary literary output the world has ever known occurred from some anonymous source –or, even more problematic, sources– containing the most uplifting and influential spiritual content ever written, in a brevity both beautiful and baffling, and in four editions, one of which is markedly distinct in its own right. In other words it truly would be a greater "miracle" for man/men to have produced the evangelium in a flash of "inspiration", than it to be, quite literally, true!
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使徒言行録14・19-28
これはすごいことですね。けれども、クリスチャンは、この復活の力を日々、経験して生活するのです。パウロは言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(コリント第二4:8-10)」コリント人への第二の手紙は、この出来事の14年後に書かれたものと考えられています。12章で、パウロは、自分がパラダイスに行った経験を語っています。「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(コリント第二12:2-4)」したがって、パウロは石に打たれたとき、実は、第三の天に引き上げられたという可能性があります。このように、神は、石打ちで殺されるような目にあっても、パウロを守ってくださり、そればかりかすばらしい啓示を与えてくださったことが分かります。私たちも同じです。人生のなかで、キリストにあって苦しまなければいけないときがあっても、それにまさる神の慰めをいただくことができます。
使徒言行録13
使徒言行録11・9-26
使徒言行録9・1-20
使徒言行録8・1ー8
使徒言行録7
使徒行伝には、殉教者ステパノが「天を仰いだ」ことが記されています。イエス・キリストを力強く証ししたステパノはそのために議会に連れてこられ、大祭司の審問を受けました。ステパノの弁明に人々は激しく怒りましたが、ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていました。するとそこにイエスが神の右に立っておられるのが見えました。ステパノは思わず「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言いました。聖書の他の箇所では、イエスは神の右の座に座っておられるとありますが、このときは「立っておられた」のです。それは、議会での法廷に対して、主イエスご自身がステパノの弁護人として立っていてくださるということを意味していたと思います。また、この後ステパノはエルサレムの街の外に引き出され、石打ちの刑を受けますので、主イエスが立っておられたのは、ステパノの霊を天に迎えるためだったかもしれません。ステパノは石で打たれている間、自分に石を投げつける人たちのために「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈り続けました。
たしかに、「殉教」というのは特別なこと、殉教するほどの人は並外れてすぐれた信仰者なのかもしれません。しかし、天を仰ぐことは特別な信仰者だけのものではなく、すべての信仰者ができることです。殉教の時だけ天が開くのではなく、日常の祈りの中でも、天が開けて、神の栄光を、主イエスの栄光を見ることが許されるのです。主イエスは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)と言われました。「開けてもらえる」というのは「天の扉」のことです。真心から、また、熱心に祈る者のために天の扉は開き、その中にある神の恵みが与えられるのです。「主の祈り」を祈るとき、天を見上げ、神を仰ぎ見、心を込めて、「天にましますわれらの父よ」と呼び求めましょう。そのとき神は、わたしたちに、天におられるお方としてのご自身の栄光をわたしたちに示し、また、天の栄光を示してくださるのです。そのようにして、天がわたしたちにとってももっと身近なものになり、天を仰ぐことが喜びとなるのです。
(祈り)
神さま、あなたは天におられ、すべてを治めておられます。地上のものに、この世のことに思いが行きがちなわたしたちに、もっと天のことを思う思いを与えてください。そのために天からの書物、聖書に親しみ、天とのコミユニケーションである祈りに励むわたしたちとしてください。「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださった、主イエスのお名前で祈ります。
ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)➅
霊的成長
霊的成長とは?
Ⅰ、無力さの中での神との出会い
・自分の無力さ(限界)に気づいた。「すべてを自分でしなければならない」「わたしが頑張ればなんとかなる」という考えが自分を行き詰まらせていたことを知った。
・自分を超えたもの(神)に心を向けた。「神」「永遠」「目に見えないもの」とのつながりを感じた。それでもなお自分を生かしているものに気づくことができた。神の愛を体験的に知ることになった。
Ⅱ、自分についての新しい見方
・自分のすばらしさを知った。「よいものすべてが失われたわけではない」ということに気づいた。自分を大切にするとはどういうことかが分かってきた。
・人との比較の中で自分を見ることをやめ、自分との比較の中で人を見ることをやめた。わたしは自分の価値を確認するために他人を利用する必要がない。
Ⅲ、人との新しいかかわり方
・わたしは、自分の人生の主人になった。自分の人生を人のせいにすることがなくなった。神の前に立つ者として周囲に振り回されない生き方を見いだした。
・人とのつながりを再発見した。いかに人から愛されてきたかということを発見したし、どう人に向かっていけばよいかが分かってきた。
Ⅳ、困難の中で前向きに生きる
・現実をありのままに見つめ、受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても、希望を失わず、前向きに生きることができる。
・死に直面してなお、いのちのすばらしさを信じている。この世のものをいとおしみ、かつこの世のものに縛られないと感じている。
Ⅴ、祈りと愛と奉仕に生きる
・祈りの中でいつも自分を見つめ、神のみ旨を見つめている。神のみ旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった。みことばと聖体によって生かされるということの意味を知った。
・わたしは神に遣わされたものだと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている。
(2008.05.10 koda)