ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)➅

13  啓示のことば

ミサ聖祭は行為ではあるが、無言のままで行われるのではなく、することと話すこととを組み合わせたものである。様々な異なった種類の言葉を含み、それらの違いに気づき、それぞれの使われ方の区別を学ぶことは、ミサに対する理解だけではなく、典礼における効果的な参加にも助けとなるだろう。
  まず第一に、啓示[聖書]からの言葉がある。それらの言葉で神が自らの姿を示し、神がこの世をどのように見ておられるかを教える。ご自分のみ旨を示し、約束を与えてくださる。それらは聖書に含まれる言葉であり、主の記念の聖祭において我々はいたるところそれらに直面する。ミサの前半は、まさにほとんど話で構成されている。行為は、最も単純な動き、一定のジェスチャーと立ち位置、または象徴的な場所から別の場所に移動することに限られている。
  書翰と福音書の朗読箇所は、直接に聖書から取られている。前者の呼び名が示唆するように、使徒たちの書翰だけではなく、使徒言行録と旧約の諸文書から選ばれたものである。後者も、呼び名の通り、主の生涯の報告書、つまり諸福音書から取られている。聖書朗読の延長戦に説教がある。説教は、神のみ言葉を解説し、詳しくつながりを述べ、適応し、生き方に当てはめるためにある。神のみ言葉を直接にではなく、むしろ説教の担当者の個人的な意見や人間的な考え方を表している分は、説教はその本質的性格を失うだろう。
  神のみ言葉は偉大なる神秘である。み言葉を通して神ご自身は語るが、その語り方は人間達の話し言葉においてである。これとは異なる、もう一つのコミュニケーションの形態があると思われる。所謂、「純粋に神的」な形態。それで神が、話し言葉という媒介を通してではなく、内面からのみ動かす思い、音にならないが直接に把握される思いを通して、魂を照らし導く形態である。
  このようなタイプのお便りは、他人に伝達されることはない。それを受けた人だけに当てはまるのである。啓示と言われるものは、それとは異なる。啓示は、あらゆる時代のあらゆる人間のためにある。従って、人間の精神世界を成り立たせる形態、つまり話し言葉という形態をとる。啓示も、すべての話し言葉のように、思いと音との、純粋に人間的な混成物である。神の知恵が、人間コミュニケーションのこうした手段に置かれたのである。いかなる時でも、そこから取り出して吟味され得るのである。その時、神の知恵とそれを含む言葉が有機的統一物として扱う必要があある。
  単なる自然的言葉でさえ、聞こえる音から切り離して、それだけで扱うことはできない。なぜなら、霊魂は身体にしがみ付いているように、言葉もその音にしがみ付いている。
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訳注: 「言は肉となった」(ヨハネ1・14)参照。
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この統一物は、今や言わば新たな「霊魂」、つまり神的なもの、の身体となる。それは、霊魂身体をすでに持った人間が恩恵で満たされるのと似ている。恩恵はその人間を新たにし、より高度な存在者にさせる。聖パウロに描かれた「新しい創造」または「霊的人」である。
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原注:  一コリ2・15, エフェソ2・15。
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  神のみ言葉は、形色と音調を備えた丸ごとの言葉としてとらえる必要がある。その言葉が表す理解可能な概念にのみ注目することは愚かなことである。根のない草のような知的理論に成り下がってしまう。実は、言葉というのは驚くべき現実である。形色と内容、意義と愛、理解と心、深みのある生き生きとした丸ごとである。我々はそれを省察し、知識として受け取る不毛な情報ではない。人格のレベルで出会うべき現実である。我々は、み言葉をこの世のものとしてその性格を丸ごと受け止め、その独自のスタイルと心像をも受け止め保存しなければならない。そのようにしてみると、その力が発揮される。種まきの譬えにおいて主ご自身が、み言葉をよい土を求める種に譬えている。命を生み出し、発展させ、成長させる力を持っている。従って、我々はアイディアを把握するように知性でではなく、土が麦の粒を受けるように、受け取らなければならない。
  世界は、神の言葉によって創造されたと聖書は言う。神は言われた「…あれ」と。我々もその言葉によって創られている。啓示において神が与える言葉を聴くことのできる存在者として創られた。また、み言葉を聴くことによって新しい始まり、恩恵の新しいいのちに招かれるものとして創られた。み言葉に出会うたびに、我々は神の創造する力に出会う。み言葉を受け入れることは、可能性の聖域に入ることであり、新しい人間、新しい天と新しい地が始まろうとしている瞬間に立つことである。
  概念を受け止め、掟を理解するだけでは不十分である。彼方からやってくる他力に心もマインドも開かれる必要がある。
  神のみ言葉が、従って、知性にだけではなく、人間全体に向けられている。神のみ言葉には人間的側面があり、それは人間のマインドと血、魂と身体と生きた統一物になろうと求めている。人間が、人間全体が神のみ言葉の意義全体、形と口調全体、ぬくもりと力全体を受け入れなければならない。種まきの譬えが求めているのはそういうことである。
  聖なる言葉は、「読書される」のではなく、「読んで聞かせる」ものでなければいけない。色と形式は、話に置き換えてではなく、眼を通して我々に届くように、聖なる言葉は眼を通してではなく、耳を通して我々に届くようになっている。届き方と内容は切り離すことはできない。活字となって黙って読書される言葉は、音質をもった丸ごとの新鮮な言葉とは異なる。活字を黙って読む言葉は縮小してしまう。活字は、鳴り響く丸ごとの言葉の乏しい代行物にすぎない。典礼における聖書朗読は、読書会のようなものと考えるならば、読書会らしく参加者は皆、司祭も信徒も、同じ書物を手に持ち、黙って文書読みに没頭する。結果は、読書会の会員共同体となる。ミサの聖書朗読は、これに成り下がることは珍しいことではない。本来は、そうなってはいけない。み言葉は、朗読書から、朗読者の唇に踊り上がり、そこから辺り一面に響き渡り、注意深い耳に聞き取られ、熱心な心によって受け止められる、ということになっている。
  以上のことに対して、典礼は外国語(ラテン語)で祝われていて、そうはいかないではないかと反論されるだろう。その支障を乗り越えるために、説教の前に書翰と福音書は国語で読み直される。が、それは一時しのぎで、主日にのみなされるのが現状である。週日や多くの主日には、参列者は祈祷書を頼りにしなければならないきらいがある。み言葉はミサ聖祭の始めから、聴衆全体に同時に届くのは本来のあり方である。が、今日の典礼の事情では、それは不可能となっている。
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訳注: グアルディーニはこれを書いているのは、第二ヴァティカン公会議の25年前(1939年)で、当時のミサ典礼はラテン語であった。
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  にもかかわらず、現状を生かすように手を尽くすべきである。何よりもまず、国語で朗読される時に、注意深いマインドと受容力のある心と魂で聴く必要がある。聴く言葉は何回も聴いたことのあることは多いので、このような心構えはますます必要になって来る。耳にタコができたほどの状態なので、簡単に印象づけられることはないだろう。我々は、例えば山上の説教やイエスの譬え話やパウロの書翰についてよく知っていると確信しているので、朗読されるときは、「結構だ、結構だ、よし分かった」と、あたかもそういうようになってしまいがちである。我々は、こういう態度を乗り越えなければ、我々の魂は、無数の足や車輪が通った舗装されていない道、極めて硬くなって種の一粒たりとも受け容れることのできない道のようになってしまうのである。
  毎日変わる、季節固有または祭日固有(入祭唱、奉納唱、拝領唱)の聖書引用は、短くてその意味は受け取りにくいかもしれない。それらはより広い箇所(たいてい、詩篇からだが、聖書の他の部分からもある)から取られていて、それらを調べ、全体を黙想することがためになる。書翰と福音書もより広い箇所で読み、文脈を把握し、難解のところについて注釈を考慮に入れるべきである。聖書の箇所は聖堂で声を出して朗読されるときに、我々は極力注意深く聴くようにすべきである。口から出る言葉には、インクの言葉より力強さがある。
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付録

(森一浩、『神のやさしさの中で』, 女子パウロ会、1985年、27ページ以下)

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