使徒言行録14・19-28

ところで、パウロは死んだようになってしまいました。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

 これはすごいことですね。けれども、クリスチャンは、この復活の力を日々、経験して生活するのです。パウロは言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(コリント第二4:8-10)」コリント人への第二の手紙は、この出来事の14年後に書かれたものと考えられています。12章で、パウロは、自分がパラダイスに行った経験を語っています。「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、・・それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(コリント第二12:2-4)」したがって、パウロは石に打たれたとき、実は、第三の天に引き上げられたという可能性があります。このように、神は、石打ちで殺されるような目にあっても、パウロを守ってくださり、そればかりかすばらしい啓示を与えてくださったことが分かります。私たちも同じです。人生のなかで、キリストにあって苦しまなければいけないときがあっても、それにまさる神の慰めをいただくことができます。

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