ヨブ記3

こどもは好奇心の塊で、赤ちゃんのころから、何でも触ったり、口に入れて確かめたりします。おもちゃでも、それで遊ぶだけでなく、すぐに口に入れてしまいますから、注意が必要ですね。ところで、こどもは小さい時は、「あれは何?、これは何?」という質問をします。何でも知りたいという欲求があるのですね。そういう欲求によって知識を増やしていくのですが、やがて、「何?」という質問が、「どうして?」「なぜ?」に変っていきます。人は成長するにつれて、ものごとの本質について深く考えるようになるのです。そして、「なぜ?」という疑問をつきつめていくことによって、知識だけでなく、知恵を得るようになるのです。
 おとなになると、「どうして?」「なぜ?」という疑問は、人生に起こるさまざまなことに向けられていきます。ものごとが順調な時は、「なぜ?」という疑問を持つことは少ないかもしれませんが、苦しみに遭うと、かならずと言ってよいほど、私たちの心に、「どうして?」「なぜ?」という疑問が起こってきます。英語では、大変な目に遭った時、はじめに口にすることばが "Why me?" ですが、苦しみの時に「なぜ」という思いを持つのは、どこの国の人にも共通しています。ヨブも、家族と財産を一瞬にして失い、彼自身も、全身に腫(は)れ物ができて醜い姿になるという大きな災いに遭った時、やはり「なぜ」と叫んでいます。ヨブ記第三章だけでも、「8回も「なぜ」と言っています。
 どんなことにおいても「なぜ」と問わなければ、ものごとの本質が見えてきません。「なぜ」という疑問なしに、答えは得られません。それは、人生についても同じで、人は苦しみの時に「なぜ」という疑問を持ち、その疑問によって人生を深く考え、今まで見失っていた大切なものを見出すことができるようになります。順調な時には気付かなかった多くの貴重な真理を学ぶのです。ヨブ記のテーマは「人はなぜ苦しむのか」「苦しみにはどんな意義があるのか」ということですが、苦しみは、私たちに、自分の人生を再発見させるという意義があるのです。ヨブの質問に対する究極の答えは、キリストの十字直ですが、その意義を理解するために、ヨブのような行き詰まりを体験しなければならないかもしれない。

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