使徒言行録7

 使徒行伝には、殉教者ステパノが「天を仰いだ」ことが記されています。イエス・キリストを力強く証ししたステパノはそのために議会に連れてこられ、大祭司の審問を受けました。ステパノの弁明に人々は激しく怒りましたが、ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていました。するとそこにイエスが神の右に立っておられるのが見えました。ステパノは思わず「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言いました。聖書の他の箇所では、イエスは神の右の座に座っておられるとありますが、このときは「立っておられた」のです。それは、議会での法廷に対して、主イエスご自身がステパノの弁護人として立っていてくださるということを意味していたと思います。また、この後ステパノはエルサレムの街の外に引き出され、石打ちの刑を受けますので、主イエスが立っておられたのは、ステパノの霊を天に迎えるためだったかもしれません。ステパノは石で打たれている間、自分に石を投げつける人たちのために「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈り続けました。

 たしかに、「殉教」というのは特別なこと、殉教するほどの人は並外れてすぐれた信仰者なのかもしれません。しかし、天を仰ぐことは特別な信仰者だけのものではなく、すべての信仰者ができることです。殉教の時だけ天が開くのではなく、日常の祈りの中でも、天が開けて、神の栄光を、主イエスの栄光を見ることが許されるのです。主イエスは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)と言われました。「開けてもらえる」というのは「天の扉」のことです。真心から、また、熱心に祈る者のために天の扉は開き、その中にある神の恵みが与えられるのです。「主の祈り」を祈るとき、天を見上げ、神を仰ぎ見、心を込めて、「天にましますわれらの父よ」と呼び求めましょう。そのとき神は、わたしたちに、天におられるお方としてのご自身の栄光をわたしたちに示し、また、天の栄光を示してくださるのです。そのようにして、天がわたしたちにとってももっと身近なものになり、天を仰ぐことが喜びとなるのです。

 (祈り)

 神さま、あなたは天におられ、すべてを治めておられます。地上のものに、この世のことに思いが行きがちなわたしたちに、もっと天のことを思う思いを与えてください。そのために天からの書物、聖書に親しみ、天とのコミユニケーションである祈りに励むわたしたちとしてください。「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださった、主イエスのお名前で祈ります。

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