Ash wednesday week

灰の水曜日

「断食するとき、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。」

マタイ6・1-6、16-18


四旬節の目的、キーワードは回心です。B・ロナーガンという神学者によれば回心には4種類(4段階といった方がよいかもしれません)があります。
神を信じない人は神を信じるようになる。神のみ旨に従っていない人は従うようになります。これは、「宗教的回心」(religious conversion)と言います。
その前に「道徳的回心」(moral conversion)、行動に関する回心があります。例えば悪口を言う人は、悪口を言う分だけ神様のことは分からなくなるわけです。モーセの十戒を守れない人は神を認めにくくなります。
さらに前に、「知的回心」(intellectual conversion)があります。例えば、今日の福音書にあるように、宗教行事は「人に見てもらう」ためにあります。「僕は何も悪いことしてない、何で回心せなあかんか」というかもしれない。けれどもあんたは世間からよく思われたいでしょ。それでしたらファリサイ派と一緒ではないか。あるいは、「お金はすべてであるとか。お金さえあれば大丈夫」という考えがある。他に、固定観念となっている考えはいろいろあります。また、唯物論や汎神論というような考えを持っていたらキリストの復活は分からないでしょう。
また、「感情の回心」(affective conversion)というのがあります。例えば、腹が立つと考えが硬くなり、誤った行動になり勝ちというように。愛情は生ぬるくなっているかもしれません。心がかたくなになっているかもしれない。恐れがある、人を憎んでいる、快楽に走りすぎている、愛情不足のため食べ過ぎているなどなど。
断食、節制はこのレベルで働きかけます。感情に刺激を与えて、回心を促します。そこから、知的回心がしやすくなり、誤った行動を正し、生き生きとした、豊かな信仰になります。
回心は一回限りではなく、実は人生の最後まで必要というわけです。四旬節はそれを思い出させるのです。
ロナガンは言うように、固定観念は堕落を呼びます。考えを広げるのは進歩を呼びます。
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寂しい時、失敗した時、心が弱っているとき、あたたかな思いやりの人に元気づけられることがあります。批判したりせず、そばにいて、いっしょに悲しみやもがきを共感してくれると、心は軽くなります。
神の訪れが来るときも、神はわたしたちを裁き、押しつぶしてしまうのではなく、ありのままのわたしたちを受け入れ、わたしたちを内部から回復させてくれます。悔い改めるとは、神がどんなにあたたかなかたであったか、ハッと気づき、そのかたに手を合わせ、頭をさげることです。いのちを与えてくれた神に感謝し、いのちをおろそかにしてきたことを思って胸を打ち、いのちの尊さを体を通してわかるために灰を頭に受け、断食をします。
ファリサイ派にとって、断食は義人になるための修業でした。貧しい人びとに施しをするために食費を切り詰め、断食をしました。
 キリスト者にとって、断食はさらに深い意味が加えられました。イエスは述べたように(マタイ9・14ー15)、「花婿の友人たちは、花婿がともにいるとき、悲しむことができようか。断食できようか」。やがて受難と復活を体験した弟子たちは、イエスのことばに加えます、「花婿が取り去られる時が来る。そのときには断食する」。断食は、キリストの死を悲しむ愛の象徴行為になりました。悲しくて、苦しくて、胸がつまってなにも喉を通らない。心の悲しみが体にまで影響するほど深い愛で大切なかたの死を悲しみたい。花嫁である教会は、花婿キリストへの愛を深めるために、貧しくなられたキリストに似るために断食します。(荒)
「施し」「祈り」「断食」。この3つのどのテーマにも「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」というメッセージが鳴り響いています。十字架上で完全に無となり、純粋な愛を全うされたイエスに従っていくために、なんと大きな力となるみ言葉でしょうか。

内面の自分の在りように眼をむけ、隠れたことを見ておられる御父に「よし」としていただけることだけをひたすらに望んでいくことができますように。
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施し・祈り・断食はよい行いです。これを実行していると人々から誉められます。しかし、神にも誉められるかどうかは分リません。神は外的行為から判断する方ではなく、心の奥を見るからです。
私たちが言う本音と建て前のことでしょう。実際には、理想としていることと現実に生きていることには大きなギャップがあることに気付きます。今年の四旬節はいいかっこしいことをやめて、もっと本質的なことを心がけましょう。
主よ、隠れたことを見ておられるあなたの目にふさわしく生きることができるよう、助け導いて下さい。sese07
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 今日から四旬節が始まります。四旬節は伝統的に、回心の季節として大切にされてきました。そして今日の福音は、回心の業として重んじられてきた「祈り、節制、愛の行い」についてのイエスの説教です。現代の教会は「祈り、節制、愛の行い」と言っていますが、福音書の言葉では「施し、祈り、断食」ですね。イエスはこの「施し、祈り、断食」にせっせと励みなさいと言っているでしょうか。そうではありません。むしろ、「施しをするとき、わたしたちの心がどこを向いているか」、「祈るとき、わたしたちの心がどこをむいているか」を問いかけています。施しをするのは、最低限、生活に必要なものにも事欠いている人に心を向けるということのはずじゃないか。人に見せたり、自己満足のために施しをするのは、まったくおかしなことではないか。イエスはそう問いかけています。祈るのは神に心を向けることではないか。それなのに、祈っている姿を人に見せびらかそうとしているなら、それはまったくおかしなことではないか、そう問いかけるのです。
 断食はどうでしょうか。今日は特別に断食する日。今も大斎・小斎と言って、この灰の水曜日と聖金曜日だけは全世界のカトリック教会で断食が呼びかけられています。断食とは何のためにすることでしょうか。それは決して我慢大会のようなものではありません。自分がどれだけ断食できるかを自慢するためのものではないのです。
 昔、ある本でイスラム教の断食について書かれている言葉を読んで感動したことがあります。さすが「ラマダン」という断食を実践している宗教だけのことはあると思いました。確かこのような言葉でした。
 「ムスリムが断食するのは、食を断つこと自体に意味があるのではない。食物なしに生きることのできない自分を見つめ、この自分を生かしてくださる神の愛を思うこと。また必要な食べ物にも事欠く兄弟のことを思うためである」
 実に見事な定義だと思いました。断食している人の心が向かうのは、神に対して、そして貧しい兄弟姉妹に対してであるはず。その断食さえ、人に見せびらかし、自分を誇る道具にしてしまう。イエスはそういう態度を厳しく批判しています。問われているのはそういうことなんですね。
 四旬節を迎えて、わたしたちの心がどこを向いているか?
 ミサにあずかり、灰の式で頭に灰を受け、黙想会に参加して、ゆるしの秘跡を受け、愛の献金をし、祈り・節制に励んで、じゃあ、本当に神に心を向けているのか、助けを必要としている兄弟姉妹に心を向けているのか。
 心から回心する恵みを願いながら、灰の式を行いましょう。


灰の式後の木曜日

ルカ9・22-25



「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあります。つまり、二匹のウサギを同時に追いかけるならば一匹もつかめないということでしょう。今日の聖書朗読はまさにこういう論理を表しています。「自分を捨てなければ」キリストに従うことはできない。全世界を手に入れても肝心なことを失う。この世のいのちを追求するなら、神が約束するいのち(第一朗読)を得ることはできないと。
この世を捨てなければあの世は得られないという論理は、現代人にとっては受け入れにくいように思われる。どちらかというと、感情的に嫌う面があります。せっかくこの世に生まれてきたのだから、この世を楽しんで何が悪いのか。いくらか開き直りにも聞こえるが、これにも、一理ありと考えられます。結論から言いますと、程度の問題です。神のいのちを妨げない程度でこの世のいのちを楽しむことは悪くないはずです。ですから、二者択一の問題ではないでしょう。
ところが、もう一歩を進んでみましょう。一日に私はどのぐらい(何分)神のいのちについて考えているのでしょうか。気にかけているのでしょうか。一ヶ月に、一年にどうでしょう。そもそも、神のいのちについて私はどの程度の認識があるのでしょうか。その現実性をどの程度感じているのでしょうか。その美しさ、その魅力を理解しているのでしょうか。これらの質問に対する私の答えは、「極めて少ない」「ゼロに近い」というのであれば、結局この世のいのちばかり追及してるではないか。つかめないウサギを選んだのではないでしょうか。ここで、「知的回心」について考えるところがあるでしょう。四旬節はまさにそのような反省をさせていただく時期なのです。
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現代人の十字架はなんでしょうか。家族を支える大変さ、病気、仕事、借金、人間関係など、心配事は数限りなくある。生きているからには「必ず多くの苦しみを受ける」ことが確実。仏教でも、「四諦(したい)」(四つの聖なる真理)には「一切皆苦」という根本的な教えがあって、すべては苦であると言われている(四苦八苦)。生まれるのも苦であり、人に出会う喜びもあるが、しばらくして分かれるからこれも苦(愛別離)、いろいろのものを求めるが得られないのも苦、死ぬのも苦である。
だれでも自分の十字架を背負っている。キリスト者は、その十字架をキリストにささげ、キリストの十字架にかえていただく。自分のいのちをキリストのために消耗させ、自己防衛のエネルギーを、自分を必要としている人、キリストのために燃焼(ねんしょう)する。

キリストのために日々の苦労をささげる決心を新たにしよう。


四旬節 灰の式後の金

「花嫁がいるときは断食できない」

マタイ9・14-15


ユダヤ人たちは断食をしていたのは、メシアの到来を早めるためでした。洗礼者よはねの弟子もそうでした。イエスの弟子たちは、メシアはすでにきているので、断食をしていなかった(面白いことに、ここにイエスの運動の独自性を見ることができます)。
花婿が取り去られる時だけは断食をするでしょう。これは明らかにイエスの死を意味しています。教会でも断食をしますが、それはきわめて少ない。灰の水曜日と聖金曜日ぐらいで、六十歳をこえていれば免除されます。ユダヤ人の断食はk未来に向かっていたのに対して、教会の断食は過去に向いています。つまり、キリストの死を思い起こす時だけです。後はずっと「花婿と一緒」なのです。断食という修行はさまざまな宗教に見られますが、キリスト教の場合は独特の意味をもっています。
私たちはどのような「時」に生きているかを見極める必要があります。「花婿と一緒にいる間」とはどう言うことなのか、これは四旬節の意味であり、課題です。
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神の国の到来は神と人類の結婚にたとえられてきました。イエスはその神の国が到来し、婚宴が始まったことを宣言します。神がすべての人を差別することなく愛し、婚宴に招きます。それがイエスと罪びととの食事によって示されます。神は私たちの負い目にもかかわらず、私たちをゆるし、親しい交わりに招いています。神は以前から私たちを愛していましたが、私たちはそれに気づきません。しかし、神の愛に気づいたとき、感謝の念が湧き上がってきます。ちょうど親のありがたさを、しみじみ懐かしく思うのに似ています。断食は、徳をつんで義人になるためではなく、キリストに似た者になるためである。キリストの十字架によって示された神のあわれみに感謝したい心から生まれます。
感謝の気持ちをなにかの形で表したいのです。(荒)

私たちは、喜ぶ時があれば、悲しい時もあります。花開く嬉しい時があれば、心沈む時もあります。晴れる時があれば、雨が降るときもあります。私たちは変化の多い状況の中で生きています。そのような中にあっての時の見極めではないでしょうか。
主よ、あなたと共に、あなたのうちに、時を見極める術を教えてください。sese07
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物質主義の現代社会では、精神或いは心を豊かにするtぴうことは、物質的な豊かさを前提にしています。「貧すれば鈍す」(人は貧乏になると頭が鈍くなる),衣食足りて、礼節を知る、という諺があり、逆に「健康な肉体には健康な精神が宿る」というオリンピックのクーベルタン伯爵が言ったとされる標語も日本人は大好きです。昨今の健康ブームを見れば分かります。
  この「心・精神」は「霊」とは違うと思います。人は、心身二元論でなく、心と体は「一体」と考える傾向があります。そこで、心を鍛える為には、体を鍛えるべしとされ、その典型として、学校の運動部での「しごき」「猛練習」「体をいじめ抜く」などが精神修養として美化されてしまい、ブレーキが利きません。大人になると、それが「過労」「企業戦士」の美化となり、その結果、皮肉なことに心も身体も壊れ、うつ病や自殺にまで至ってしまうのです。
他方では、豊かな心を育むためといって、親は子供に欲しいものを何でも買い与え、身も心もスポイルしてしまいます。
結局、身体と精神をはっきり分けないため、精神の為の身体となのか、身体の為の精神なのかわからなくなり、鍛えたり育んだりする目的が見えなくなってしまうのではないかと思います。先述の健康ブームは最たる好例で、健康そのものが自己目的化して、健康になったその次の目的が何もないのです。
だいえっとぶーむも同じです。一見斎戒(修行)に似ていますが、目的が全く違います。ダイエットは、肉体を美く見せる為のものでしかありません。確かに、ダイエットを続け、成功させるには精神の強さが必要です。しかし、その精神力は、美しくなりたい!という感覚的な自己愛が育むものであり、それ以上のものではありません。
聖書のいう霊的生活は、全く次元が異なります。その生活では肉体的なことは重視されません。そうなると、物質的な充実を前提とする心・精神の充実というものも、霊的いのちの成長や充実とは関係がなく、しばしば邪魔にさえなり得るでしょう。


四旬節 灰の式後の土

「私は来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」

ルカ5・27-32



「あなたの罪はゆるされた」という言葉があります。「神は決してお前を見捨てていない」という励ましの言葉です。われわれの死に至る病とは、絶望である、とある有名な哲学者がいっていますが、病の最大の問題は、それがわれわれから望みを失わせてしまうということなのです。それは罪とは絶望であるということです。聖書では、罪とは絶望であるという言葉はありませんが、内容的にはそのことを言っているのです。なぜなら、われわれが救われるということは、どんな時にも望みが失われないことである、と言われているからであります。パウロが救いについて述べて、結論のようにして最後に希望は失望に終わることはない。」というのです。その理由は「なぜなら、わたしたちに賜っ
ている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからである」というのであります。
そうして「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とイエスは言われたのであります。ここでイエスが招いた罪人とは、ただ罪を犯した人間、罪を犯し続ける人間のことではないのです。自分の罪に気づき、自分の罪に絶望している罪人を招いておられる。それはもちろん悔い改めた罪人を招くというのではないのです。われわれは自分ひとりで悔い改めるなんてことはできないのです。ですから、まず自分で悔い改めて、それからイエスのところにいくなんてことはできないのです。イエスに招かれて、そうして、イエスの言葉を聞いて、始めて悔い改めることができるのです。Ekyamada

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