1 Lent

毎日の福音
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四旬節 第一月曜日
「私にしてくれたことである」
マタイ25・31-46


羊と山羊はよく似ているので、普通、同じ群の中に混じり合っていた。しかし、羊は山羊よりも価値があり、必要な場合には、羊飼いは両者をより分けるのである。右の方は左よりも貴い場所と考えられていた。羊と山羊をより分ける基準となったのは、イエスに対して行ったわざである。つまり、この世の日常生活において、どんな小さなことえも、イエスに対してするのと同じ気持ちでせよと言うのである。(参照コロサイ3・23、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」)。創世記十八章においてアブラハムが知らずにもてなした三人の旅人が、実は主と、主の使いであったということ、非常に似ている。
 ここには愛のわざばかりが強調されていて、信仰のことが一言も出てこないではないかと、不思議に思う人がいるかもしれない。最後のさばきの時に重要なのは、イエスを救い主として信じる信仰である。しかし、イエスがここで言おうとしたのは、その信仰が日常生活において実践されることである。しかもその愛のわざを、主に対してするように、人に対してするのだから、そこには当然信仰が必要なのである。信仰と愛とは決して別なものではない。(山口)従って、ボランティア的な活動をすれば、誰でも救われるという意味ではないであろう。


四旬節 第一火曜日
「こう祈りなさい」
マタイ6・7-15


 
 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 だから、彼らのまねをしてはいけません。
 異邦人の祈りは、同じ言葉をただ繰り返すものであり、言葉数が多ければ聞かれると思う類のものです。私たちも異教的な国にいますからすぐに想像できるでしょう。一万回お経を唱えたら、祈りがかなえられるという教えです。神社仏閣には百度石があって、百度参りをする。けれども教会にも同じような祈りを見ます。「ハレルヤ、ハレルヤ」とか、「イエス、イエス」と何回もくり返して祈りをします。あるいはロザリオでは、アヴェマリアを何回も切り返されるわけです。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
 私たちの祈りの対象は、父という人格のあるお方です。誰かが私のところに来て、「きよきよ、きよきよ。」と何回も繰り返したら、私はこの人、変だ、と思います。人に対して話す時は、知性や感情を持って話します。同じように、神に対しても、知性と感情を持って祈らなければなりません。また、イエスは、父が私たちの必要を、私たちが願う前にすでに知っておられる、と話されています。ここに、祈りについての根本的な教えがあります。祈りは単に、私たちの願いが実現されるための手段ではありません。神はもうすでに、私たちの必要はご存じなのです。それでは一体なんのために祈るのでしょうか。
最近「リップサービス」ということばをよく新聞などで見かけます。もともと、英語で「口先だけのお世辞を言う」という意味ですが、たとえば政治家は「国民の生活は一番」と言ったりするが、実は全然違うことを考えているわけで、国民にリップサービスしているのです。リップつまり唇でサービスしているというわけです。
私たちは、毎日のように日課やミサなどで唱えている様々な祈りは、神様に対するリップサービスなのではないかと、祈りの理想である主の祈りに照らして、四旬節の間、自分の祈りのあり方について反省するように勧められます。
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「アラジンのランプ」のようにおとぎばなし(童話)の中には、魔法の使いが三つだけ願いを聞いてくれるという場面が時々ある。もし神が三つだけ願いを聞いてくださるとしたら、私達はいったい何を祈るだろうか。神に喜ばれる祈りができるだろうか。そう考えて、自分の祈りの姿勢を反省する必要があるかもしれない。「主の祈り」には七つの願いが並べられているが、私達はそのうちどれを自分の心からの要望にできるだろうか。「御名があがめられる」こと、ただ父なる神のみを神とすること。「御国」、神の支配がこの地上に、この私の中に実現すること。「御心」、「私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26・39)というように、無条件で神に服従すること。「必要な糧」、私達は、自分の生活は自分で働いて支えているように思いがちであるが、神の支えなしには働くことさえできない。私達が常に神の前に赦されなければならい存在であることを思い起こすと、人のまえで威張れるはずがないこと。人生に試練は、この世に悪いことがたくさんある。自分の力を過信せず、神に信頼し、悪の力から救い出される必要がある。ものすごく豊かな内容があるのに、私達は機械的にそれらを繰り返している。やはり、時々立ち止まって、何を願っているかをちゃんと考えるべきである。

四旬節 第一水曜日

ルカ11・29-32



「ヨナのしるし」とは何でしょうか。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。ヨナがニネベに派遣されたように、キリストもこの世に派遣された。ヨナが嵐にまきこまれたように、キリストもこの世の様々な問題にまきこまれたのです。救われる道は他にないというわけです。これは最高の知恵というのです。四旬節には私たちは傍観者ではいられない。ましてや人生にも傍観者ではすませることはできないでしょう。野球の試合を見ているように上手な選手はだれなのか。あるいはテレビのドラマを見ているように、視聴者で終わるのではなくて、試合に、ドラマにまきこまれる必要があります。種が地に落ちて死ななければ新しい命が生まれないように、自分の何かが死ななければ復活の恵に預かれない。
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ヨナが説教した時には、ニネベの人々は、その神の声を認め、それに答えた。最後の審判の日には、ニネベの人々は立ち上がって、イエスの時代の人々を訴える、と書いてあります。イエスと同時代のユダヤ人たちは、かつてないほどの特権に恵まれたにも関わらず、キリストを受け入れるのを拒んだのです。このユダヤ人達の罪は、その特権があまりにも大きいだけに、いっそう徹底して訴えられるだろう。
特権と責任は同じものの「おもて」と「うら」なのです。特権のもっているこの二面性に心を留めて、それをどのように使うかを考える必要があります。
 例えば、私たちはみことばにふれる機会はたくさんもっています。そうでない人々もたくさんいます。みことばにふれる機会、祈る時間、共同体の支えなど、非常に恵まれた立場にいる。聖書ほど高価な書物はない。ところがそれはともすれば、「誰でもがその名を耳にするが、誰も読むことのない書物」という、ある人の皮肉な定義にあてはまりかねないありさまです。私たちは聖書にいつでもふれることのできる特権が与えられています。そして、その特権は、それに対して答えるという責任を伴っています。
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信仰とは、自分勝手な基準を作って、救い主を試そうとする態度から生まれないのです。むしろ、へり下って神を求める者に神は信仰を与えて下さるのです。
死人の世界から誰かをおくってと願う金持ちに対してアブラハムは言いました。「もし彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても彼らはその勧めを聞き入れはしないだろう」(ルカ16・31)。しるしを求める人間ではなく「神の言葉を聞いてそれを守る人たち」が「めぐまれている」(28)のです。
それでも、神は救い主を信じ得るために豊かなしるしを与えて下さいます。それは「ヨナのしるし」です。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。
イエスの十字架と復活こそ、天からのしるしに匹敵する意味で、救い主のしるしです。現代人にとって、処女降誕や復活は、特別につまづきとなっているようです。「そういう非科学的なことをいうからキリスト教は信じられない」というのです。イエスの時代、悪霊の追い出しを見た人々は、そんな小さな奇跡では、イエスを信じられない、と言いました。現代、復活を聞く人々は、そんな大きな奇跡では信じられない、というのです。不信仰は証拠の問題ではなく、心の「邪悪」(29)のためであることを思わされます。(山中)

「しるしを求める心」に相対する心は、「信じる心」でしょう。信じる心は愛の注入口のようなものです。信じることによって、もともとそこにあるけれども、十分気づいていなかった愛が心に入り、その愛の「しるし」が見えてきます。私たちが心から神を信じ、心に注ぎ入れられる神の愛をしっかり受けとめて、日々の生活の中でその愛の「しるし」となっていくことができますように。sese07


四旬節 第一木曜日
「あなた達は子供に良いものを与えることを知っている」
マタイ7・7-12



今日のテーマは願い求める祈りです。ドイツの有名な神秘家、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260 - 1328)には、こういう言葉があります。「人々は、神様のことを自分の牛のように大事にしている。」牛は毎日牛乳をくれるから、毎日えさをやると。私たちの毎日の祈りはこの程度のものなのでしょうか。現代風に言えば、自動販売機に100円を入れるとジュースが出てくる。神様はこの程度のものなのか。もし、この程度の信仰しかなければ、この四旬節に知的回心をする必要があるでしょう。
確かに、第一朗読でエステルは非常に困った時に神にお願いする祈りがありました。けれども、そこに先祖の語った神、先祖に対する神の約束という文脈があります。つまり、人格と人格の付き合いです。神を牛とか自動販売機と見なしているわけではない。福音書となると、そこではっきりと神は父親として語られています。親は子供の必要なものを子供以上に知っていて、子供の未来を気にかけています。なるほど、子供のわがままでも聞き入れる無責任な親もいます。しかし、本来は親は今すぐ子供が喜ばなくても、子供の成長に必要なものを与えます。父親との関係は、飼っている牛や自動販売機との関係とは違うでしょう。私たちは目指すべきは父親のように神と付き合うことでしょう。


“Some people want to see God with their eyes as they see a cow, and to love Him as they love their cow – for the milk and cheese and profit it brings them. This is how it is with people who love God for the sake of outward wealth or inward comfort. They do not rightly love God, when they love Him for their own advantage. Indeed, I tell you the truth, any object you have in your mind, however good, will be a barrier between you and the inmost Truth.”
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今日の福音の中で気になることばは「あなた達は悪いものでありながら子供に良いものを与えることを知っている」という個所である。今時の子供たちは昔の子供の生活と比べるとはるかに恵まれていると思う人が多いと思います。ところがこの個所を読んで疑問を感じました。子供に教育の場を与えたり、たくさんの菓子を食べさせたり、テレビ・ゲームを買ってあげたりすることが、子供にとってよいものになるのだと果たして言えるだろうか。体をこわすような添加物をたくさん含んでいるお菓子を与えること、能力の一面しか育たないテレビ・ゲームを与えることも、いったいどういう意味があるだろうか。もしかすると子供に邪魔されたくないだけのことかもしれない。子供によいことを与えることは簡単なことではないと思う。(ステファニ)
 さて、悪い親でも、自分の子供には幸せを願うという矛盾と、善そのものである天の父が、人々に幸せだけを与えるという面を対比させて、信頼をもって祈るようにイエスは進める。子供の心を失い、父を捜し求めようとしない、心の扉を閉ざしている私達に、イエスはなんとやさしく語り掛けていることでしょう。
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「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 このイエスさまの御言葉は、一般に「黄金律(おおごんりつ)」と呼ばれています。つまり、聖書の中でももっとも重要な戒めであるということです。この言葉を聞きますと、何か他でも聞いたことがある教えのように感じるのではないでしょうか。しかしそれは似ているようでちょっと違うものだと思うのです。つまりそれは「人様に迷惑をかけてはいけない」という言葉ではないかと思うのです。「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが、私たちの社会では小さい頃からいちばん大切な教えとして教えられて来たのではないでしょうか。
 そのような言葉は古代 ローマ の 思想家 セネカや論語にもあります。「あなた自身が願わぬことを、他人に行ってはならぬ」(論語、15:23)。そしてこれはやはり世の中で生きていく上では、たしかに大切な教えであると思われます。
 けれども福音書の場合は、「神」抜きには成り立たない。神様が私たちに「良い物」をくださる。だから、その神様の愛の御心を信じて、また、私たちも神様の御心にならって生きようとする。隣人に「良い物」を与えようとする。神様の心を自分の心として生きる。隣人に「良い物」を与えようと志す。その生き方の中で、私たちは、私たちに「良い物」を与えて下さる神様の御心を、より深く味わうことができるでしょう。

私たちは今与えられている恵みに秘められた神よりのご期待に気づいているのか。健康、能力、財産、一つとして神から与えられなかったものがあるのか。もし、今私たちが、現在の恵みに感謝せず、いたずらにそれを誇り、わが身の安全に心安しとして過ごしているなら、私たちの道は滅びの道になる。私たちのすべては神の賜物であり、神から預けられたものです。もし神の栄光のためならば、それを投げ出す覚悟なしには、私たちは神のものを盗んでいることになりかねません。


四旬節 第一金曜日
「兄弟と仲直りをしなさい」
マタイ5・20-26


「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」(マザー・テレサ)
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兄弟姉妹に対して腹を立てることなど、日常茶飯事として片付けてしまい、取りたててとやかく言う人などいない。しかしイエスは腹を立てることも本質的には殺人と変わらないと言う。これは実に驚くべきことである。常識から言って、イエスの論理は飛躍しすぎだと思うだろう。だが、イエスは人間の心の奥底まで読んでおられる。殺人はそう簡単におこるものではない。そこに至る原因が必ずあるはずである。殺人の三大原因は、「恨み」「物とり」「痴情(ちじょう) 」(狂った感情)だと言われる。他人に対する怒りが高ぶって恨みとなり、やがては殺人となる。殺人というような恐るべき罪の発端も、もとをただせば腹を立てることである。このような原因から解決しなければ真の解決はないとイエスは言うのである。
物事は表面だけを見ていては解決できない。その根源を見抜いて、抜本的な解決をはかることが大切である。律法学者は、自分は人を殺したことがないから正しいのだと自認していた。これは自己正統化である。しかし、神の前にはこのよう自己義認は通らない。私達も、自分の心の状態を根源にさかのぼって考えてみなければならない。(山口)
イエスにも腹を立てるような反対者(敵)がいました。そしてイエスは彼らの気持ちを考えて、活動を控えたり場所を変えたりしましたが、結局何の役にも立ちませんでした。私達の場合、相手の気持ちを考えずに行動して、そして「相手が悪い」と決め付けてしまうことがないでしょうか。(ステ)今日は、人を裁くことから自由になる恵み、また、間違った時には、それを悟って軌道修正することができる勇気と謙遜さを、祈り求めたいと思います。
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腹を立てることは、人間の攻撃性からくるもので、はけ口として暴力になりやすいと言われています。ところが、人間社会では、ほんの僅かな暴力でも,大動乱をひきおこす可能性を持っています。エスカレーションの源になり得る.断じて古びることのないこの真理が,たとえ今では,すくなくともわれわれの日常生活においてほとんど見えにくくなっているとはいえ,われわれは誰でも,暴力を目の前にした時,何か《伝染する》(伝染病のように)ものがあることを知っている.実際,時には,そうした感染からほとんど身をかわす(守る)ことができないのである.暴力に対する非許容も,結局のところ,暴力を許容することと同様,持って生まれた運命的なものであることがわかる.暴力がはっきりとした姿をあらわした時,進んで,むしろ嬉々(きき)として身をまかせる人々がいる.逆に暴力の展開に抗する他の人々がいる.だが,暴力が席捲(せっけん)することを可能にするのは,しばしば彼らである.そして暴力はしばしば、「本来」ふるわれるべきであった相手の代わりに、単に暴力をふるい易いというだけに過ぎない手近な対象に矛先を変えることがある。そうして集団・共同体全体が感染して暴力がたまって、スケープゴート(身代わりの山羊)を探します。キリスト自身もこうしたメカニズムに巻き込まれて十字架に付けられたのです。(ルネ・ジラールの「スケープゴート・メカニズム」を参照)。

四旬節 第一土曜日
「完全な者となりなさい」
マタイ5・43-4


他人のいのち、財産を尊重する義務は社会生活の基本だと言って、それを子供たちに教えます。ところがその基本は覆(くつがえ)されるときがあります。裏切り、欺瞞、殺人や掠奪(りゃくだつ)でさえも(当たり前)合法とされるばかりでなく、何と手柄になります。これは戦争の状態なのだが、経済においても競争に勝つために同じようなことが見られます(やはり、経済は「きれいごとだけではうまく行かない」)。例えば、日本の森林を伐採すればものすごく非難されますが、東南アジアの森を倒しても文句を言う人は少ないでしょう。これは「閉じられた宗教」の働きなのです。キリストは、開かれた宗教、全人類への愛を教えたのです。自分の仲間を愛するのは割りと簡単にできるけれども、自分の(仲間の)ことばかり考えると様々な社会問題がおこります。正義と平和の問題はこれに尽きるといってよいと思います。(ベルグソン)
 キリストは問題解決への手掛かりである。教会として社会問題に取り組んでいろいろな貢献ができると思いますが、一番肝心なところ、それなしには解決への道は見えないことを伏せてかかるのはどうかと思います。これから、グロバリゼーションということで経済の面でもさらに発展していくでしょうが、問題も増えるかもしれません。そのとき「閉じられた道徳、宗教」だけでは間に合うでしょうか。
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敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることが出来るほどに、こだわりのない広い心、私たちが招かれているのは、そこまでの自由な境地なのです。神の似姿である私たちの心には、例外なく、神の性質が「遺伝」しています。聖書を読むこと、祈ること、思い巡らすこと、そして、そこから理解した神の御旨を行うことによって、神の広い心と交わり、受け継いだ遺伝子をONにしましょう。今日も天の父は、完全な自由へと私たちを招いておられます。sese07

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