5 Lent

四旬節 第五月曜日
ヨハネ8・1-11


ヨハネは光と闇のコントラストを用いて、イエスが光であり、まことの証しと正しい裁きを行うかたであることを述べます。そのために姦通の女とイエスとの出会いを描きました。彼女は光の中を胸を張って歩くことができません。彼女は神を裏切り続けてきたイスラエル、全人類、わたしたちの象徴です。イエスは女を罪に定めず、救います。それが神の裁きです。イエスの裁きが正しく、その証しが真実なのは、イエスが父なる神と一致しているからです。ヨハネはイエスと父との一致を、イエスの由来と終極目標の面から述べます。「わたしは自分がどこから来たか・どこへ行くかを知っている」。イエスは父から派遣され、父のもとにもどることを知っているのです。人々はその秘密をしりませんから、イエスと御父との一致もしりません。人々には御父は見えません。だから、イエスは自分のことを自分だけで証ししているうそつきにすぎません。イエス一人の証言は無効だという結論になります。この世がイエスを受け入れない以上、イエスの父を知ることはできません。イエスを知れば、父についてもわかるはずです。イエスと父とは一致しているからです(ヨハネー4・7-10)。(荒)
私達は今住んでいる社会は平和な社会、民主主義に基づいた社会だと思っている人が多いでしょう。ところが本当の姿は違います。弱い立場の者を踏みつける、管理教育によって子供の人権を無視する社会でもあります。表向きの顔しか見えていない人に、現実を見えるように、イエスは光になって下さいます。
イエスと姦通の女が大勢の民衆、律法学者たち、ファリサイ派の人々に取り囲まれています。しかし、イエスが女と言葉を交わすのは、その女と一対一になってからです。イエスと真の意味で出会うには一対一となる時が求められるようです。イエスの「罪を犯したことのない者が...石を投げなさい」
という言葉は私たちを原点に立ち返らせます。大義名分を振りかざして人を裁く時、自分の貧しさは見えなくなっています。この世で唯一人を裁く権利のある方の「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、なんと私たちの心を解放し、真の自由へと向かわせてくれるものでしょう。
主よ、あなたともっと親しく出会わせてください。そしてあなたの言葉を私の心の奥深くに響かせてください。

四旬節 第五火曜日
ヨハネ8・21-30


イエスが上げ られることが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ことと重ね合わされています。それは主イエスの十字架を意識した言葉です。つまりここ で主イエスは、「私はまもなく十字架につけられ、竿の先に上げられ た蛇のように地上高く上げられる、そのことを通して、父なる神のも とに、天に上げられるのだ」と言っておられるのです。そしてそれは 同時に、この主イエスの十字架が、モーセが掲げた青銅の蛇と同じ く、罪に陥った民に赦しを与えるものだということです。青銅の蛇を 見上げた者が救われたように、上げられた人の子を見上げて信じる者 が皆、永遠の命を得るのです。天から降って来た神の独り子であられ る主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって、神様に背 き逆らい、神様からの恵みのボールを受け止めようとせず、交わりを 求めておられる神様のみ心を無にしてしまう罪の赦しが与えられ、神 様との新しい関係、交わりが与えられるのです。このようにモーセが 掲げた青銅の蛇は、主イエス・キリストの十字架の死を予告し、指し 示すものでした。神様は主イエスの十字架の死によって、罪に陥って いる私たちに向けて新たに、恵みのボールを投げかけて下さっている のです。このボールをしっかり受け止め、神様に向かってそれを投げ 返していくことが私たちの信仰なのです。 

私たちの荒れ野の旅を支えるもの 
信仰をもってこの世を生きていくことは、神様の恵みの約束を信じ て荒れ野を旅していくようなものです。そこには様々な妨げや苦しみ があり、気力をそがれてしまうような出来事が起ります。けれどもそ れは、神様の恵みがそこにない、ということではありません。神様は この荒れ野の旅の中で、私たちとの間に真実な交わりを造り出そうと しておられるのです。そのために、いつも神様の方から、恵みのボ ールを投げかけて下さっているのです。独り子イエス・キリストをこ の世に遣わし、その十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の命の 約束を与えて下さっていることが、神様が私たちに与えて下さってい る最大の恵みです。私たちの周りには蛇がいます。蛇は聖書では、人 間を神様の恵みから引き離し、罪に陥れようとする悪魔、サタンの象 徴です。私たちはいつもこの蛇の攻撃、誘惑にさらされているので す。そして私たちはまことに無力な者であって、この蛇の攻撃や誘惑 によってすぐに神様の恵みを見失い、信頼を失い、神様との交わりに 生きることができなくなってしまいます。しかしそのような私たちの ために神様は救い主イエス・キリストを与えて下さいました。私たち の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエスを見上げるだけ で、蛇の毒はその力を失うのです。なぜなら主イエスの十字架と復活 とにおいて、神様は罪の力、サタンの力を打ち破り、私たちに救い を、新しい命を与えて下さっているからです。十字架と復活の主イエ スを仰ぎ見る信仰こそが、荒れ野の旅を続けていく私たちを支え、約 束の地へと導いていくのです。 
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 四旬節は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、苦しみを受け、死なれたことを覚える季節です。それゆえ、私たちが自分の罪を深く覚え、悔い改める季節ですし、同時にイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちが救いに入れられた恵みを感謝する季節でもあります。
 ヨハネ福音書はやや難解に見える言葉かも知れませんが、この季節にふさわしい、味わい深い御言葉だと思います。
 今日の箇所で、まず私の目に飛び込んできたのは、21節の「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉でしょう。この言葉は、24節で、更に2回繰り返されています。
 何か私たちを不安にさせる言葉ではないでしょうか。
 しかし私たちは、このことは聖書が私たちに突きつけている厳しい現実であるということを、心に留めなければならないでしょう。このことがわからないでは、四旬節の恵みも、本当には一体何が恵みであるのかがわからないのです。パウロも、ヨハネがこのように言ったのと同じことをローマの信徒への手紙の中で言っております。それは「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という言葉です。
(2)聖書が言う「死」と「いのち」
 聖書が言う「死」というのは、必ずしも肉体的な死ということではありません。もちろんそれと無関係であるわけでもありませんが、聖書が「死」と呼ぶのは、肉体的な「死」よりももっと根源的な死であります。一体それがどういう状態であるのかは、それと反対の「いのち」について考えるのがいいでしょう。聖書が「いのち」と呼ぶのは、あるいは「生きている」というのは、神様とつながっている状態のことです。そこからすると、「死」というのは、神様から切り離された状態であるということがわかります。私たちが恐れるべき「死」とは、まさにこの状態のことであって、この神様から切り離された状態、その「死」の状態から救いの道をつけるために、イエス・キリストは十字架におかかりになったのです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25)
 という有名な言葉も、「生きる」とは神様とつながっていること、「死ぬ」とは神様から切り離されていることと理解すれば、よくわかるのではないでしょうか。
 「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節、24節)という言葉は、私たちを不安にさせますが、注意深く24節の前後を読めば、どうすればそうならないかということも、わかります。
 (4)天の国籍  下に属するもの 上に属するもの
 パウロはそのことを別の言葉で、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と言いました。口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」となっておりました。この方がわかりやすいかも知れません。わたしたちは、今は、この世、この地上を生きていますけれども、それは言わば外国人として寄留しているようなものだ。本当の国籍は別の国、天の国にある。だからあちらの国籍をもっている。天国のシチズンシップをもっている。天国の市民権をもっている。天国のパスポートを持っているということです。
 私たちはこの世で生きている限り、ある意味でこの世に束縛されて、この世の法則(科学など)の中で、あるいはこの世のしがらみの中で生きています。またこの世で生きている限り、当然、この世のルールを守って生きなければなりません。しかしそのような中で、寄留者のように、外国人のようにして生きているのです。
 それは二重国籍というのとも、ちょっと違うと思います。二重国籍というのは便利ですね。私の知り合いも二重国籍をもっていますが、あっちの国に入る時はあっちのパスポートを見せて、こっちの国に入る時はこっちのパスポートを見せる。ただし天国とこの世では必ずしもそううまくはいきません。そういう風にうまく使い分けているかのように見えるクリスチャンもありますが……。ある時はクリスチャンとして、ある時はクリスチャンでないかのようにして生きている人もあります。もちろんクリスチャンに対する偏見のあるところで、「そうじゃないクリスチャンもいるんだよ」と証しをするのはいいかも知れません。しかしクリスチャンであることを隠すことによって、この世を生き延びるような生き方は、それはどこかで自己分裂してしまうのではないでしょうか。あるいはそのようなダブルスタンダードに自分で気づかないこともあるかも知れません。そうした生き方は、本質的にはこの世に属しているのではないかという気がします。これは微妙なところです。確かにどちらでもいいところでは蛇のように賢く生き抜きながら、肝心のところでは鳩のような素直さ(率直さ、真っ直ぐさ)が求められるのであろうと思います(マタイ10:16参照)。私自身、自戒の念を込めて、そう思うのです。
 しかしそのように命の根源であるイエス・キリストに連なる時に、私たちも上に属する者とされる。天の国籍が保証される。上のものへの道が開かれるのです。これが一つ目であります。

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ヨハネは、イエスが十字架にあげられることを、栄光へ高かめられたこととして捉えなおしました。信仰をもって受難の出来事を振り返ると、十字架は父の愛、子の愛の現れとなります。と同時に、イエスを信じない人びとのかたくななさも、大きな悲劇としてクローズアップされてきます。パウロはすでに、ユタヤ民族の救いと滅びについて、辛い思いで書きました。「かれらの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、かれらが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくてなんでしょうか」(ローマ11・15)。
パウロの宣教から五十年後、ヨハネの教会は、ユダヤ人よりも異邦人の方が多くなって、ユダヤ教の伝統や律法は過去の問題になっていました。ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教との対立を激化させ、イエスをメシアとして信じるかどうかをめぐって戦っていました。
ヨハネはイエスを信じないかたい心を、光に敵対する闇、「この世」、「下からの者」として表現しました。「あなたがたは下からの者、この世の者、自分の罪のうちに死ぬ」。
イエスが上からの者、「わたしはある」、すなわち、神の現存であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬでしょう。それは不信仰の罪であり、不幸でもあるのです。(荒)
イエスはご自分の行くところに人々が来ることができないと言われます。人々は、イエスがどこに行かれるかを知らず、また、イエスがどこから来られたか、イエスが何者なのかをも知らないからです。その彼らからイエスは「あなたはどなたですか」という問いを引き出し、最後には、「多くの人々がイエスを信じた」とあります。イエスの言葉に注意深く耳を澄ませ、その行いをよく見る時、イエスの背後におられる方が見えてきます。私の日々の生活の中に、このイエスがどのように息づいているでしょうか。今日、イエスを一層知り、イエスに信頼して委ね、イエスの行くところに私も行くことができますように。


四旬節 第五水曜日
ヨハネ8・31-42


差別や偏見が自由を奪います。現代社会にも、差別や偏見によって自由を奪われた人びとがいます。難民、飢えた人びと、自分自身の衝動や欲にとらわれた人びと。
今日の第一朗読と福音書をつなげるキーワードは「自由」です。三人の青年はこの世の権力に対して自由を主張することが出来たのは、本当の神を信じたからです。ユダヤ人は神から選ばれた民族として、自由の子、アブラハムの子であることを誇りとしていました。そのプライドに妨げられて、真理に反対し、アブラハムが喜んで礼拝したであろうかた、イエスを殺そうとします。
イエスは父への愛のために自分をささげ尽くしました。それによってこの世の本当の姿が見えて、人は自己にとらわれている状態から解放されました。
イエスのことばに留まるなら(現代的に表現すれば、イエスと連帯する、イエスにつながることによって)真理はわたしたちを自由にし、解放します。イエスのいのちに結ばれることによって、自分のいのちを愛している孤立状態から、愛と奉仕によるいのちへと高められます。ヨハネは、「いけにえ」・「あがない」といった祭儀用語よりも、「自由」、「解放」という表現を用います。これはそのまま、現代的なことばとなって語りかけてきます。
イエスと連帯し、無知と不信仰から解放され、あらゆる偏見と束縛から自由になろう。真理そのものであるイエス、正義そのものであるイエス、自由を与えてください。信仰の自由を与えてください。(荒)
「真理は君たちを自由にする」とイエスは言っています。つまり私達はもともと自由ではありません。様々な偏見の奴隷になっています。
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イエスを信じて、従っているつもりでも、知らず知らずのうちに世の価値観に汚染され、奴隷になってしまうことがあります。今、わたしは何の奴隷になっているでしょうか。わたしの言動の源はどこからくるのでしょうか。神のみことばであるイエスを自分のうちに迎えて、耳を傾けているでしょうか。空しいことに心を向けず、さまざまな偶像に惑わされることなくみことばに宿る愛が、わたしたちの心を照らし、強め、清め、自由にしてくださいますように。sese07


四旬節 第五木曜日
「私はアブラハム以前からある」
ヨハネ8・51-59


イエスは自分自身については語らず、もっぱら神の自由について、神の働きの偉大さについて語りました。自分については神の沈黙に委ねました。それは、自分をメシアとして宣伝することよりも大いなることでした。
受難と復活を体験した弟子たちは、神の霊に満たされて、イエスのことばと生涯を振り返りました。かれは世の光だった。いのちのパンだった。かれは神のためにのみ生きた。自分の名誉を求めなかった。これらの考えはイエスの口に移され、イエスが自分の存在秘義を啓示する形で表現されました。「わたしは世の光である。わたしはいのちのパンである。道、真理、いのちである。わたしはアブラハム以前からある」。「わたしは自分の栄光を求めない。わたしの栄光を求めるかたがおられ、そのかたが裁いてくださる」。
アブラハムは神の子の栄光を待ち望んでいたのに、その子孫は、神の子がほんとうに来たとき、信じようとせず、石殺しにしようとします。神と人との和解の場、神殿からイエスは追放されます。イエスこそ神の現存の場、神殿そのものであったのに。罪の女を石殺しから救ったイエスは、ご自分の民から出て行かれました。(荒)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫といいながら、実はアブラハムらしくない生き方をしているように、私たちもキリストの弟子と自称しながら、実はキリストらしくない生き方をしているではないか。キリストを教会から追い出そうとしているのではないか。このような反省を促す福音です。
イエスの考えている「死」と、ユダヤ人の考えている「死」の間には、隔たりがあるようです。
イエスが、「わたしの言葉を守るなら、決して死ぬことがない」と断言できるのは、歴史を超え、この世を超え、永遠に生きておられる天の父を知っておられ、その方から聞いたことを語っているからでしょう。私たちもユダヤ人のように、生きるとは何か、本当のいのちとは何かを知っていると思い込んでいる。実は知らない…。キリストは私たちが知らないことを知っている。
こうしてイエスは私たちを永遠の命に招いておられます。
主よ、アブラハムのように信仰のまなざしでイエスを見、喜び、イエスの招きに応えていくことを教えてください。
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ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇~五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。


四旬節 第五金曜日
ヨハネ10・31-42


イエスは父に由来する善い業を行いました。その業によって、イエスを信じることができます。ところがユダヤ人(「ユダヤ人」のかわりに、「不信仰者」ということばを入れかえるとよくわかります)は、イエスの善い業よりも、イエスのことばを問題にします。善い業を認めることによって、それを行っている人物を受け入れ、またその人物を信じているので、言っていることも信じるというのが人間関係の基本です。ことばに振りまわされず、まず、その人の行為をよく見て判断しなければなりません。そのためには、じっくりと見ることが必要です。早急に、神の子かどうか、神からのものかどうか、いい人か、悪い人か、きめてしまおうとするところに、人間の浅はかな態度があります。(荒)
「わたしを信じなくても、わたしが行っている父の業を信じなさい。そうすれば、父なる神がわたしにおり、わたしが父なる神と一致していること、すなわち、神の子であることを悟るだろう」。
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エレミヤ預言者と同じようにイエスも大変せっぱ詰まった状況の中にいて、反対者から殺されそうです。けれども、神のささえを得て勝利をおさめる。イエスが誠意をつくし、どのように関わり続けてくださっても、頑なに、歯向かい続ける心がある。ヨハネ福音書が言いた
いのはこういうことだろう。
神を知りたいならイエスを見れば十分です。私達人間にとっては、神に出会う、神を知るチャンスは、イエス・キリストをおいてほかにありません。問題は、私達は神を本当に知りたいかどうかです。
イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだと。ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。
私たちも、ユダヤ人のように、日常生活で示される多くの善い業を見ても、それに気づかず通り過ぎてしまうことが結構あるのではないでしょうか。例えば、教会制度のお陰(業)で毎年四旬節と復活際を祝うことができます。様々な修道会のお陰(業)で色々な活動がなされている。様々なサービスに与ることができる。それは、当たり前ではない。ユダヤ人たちのように、「~が当たり前」というのであれば、それは自分の考えや価値観からしか、物事を見ていないからではないでしょうか。イエスは、御自分の「善い業を信じなさい」と言われ、そうすれば「父なる神とイエスとが一つである」ことを悟るだろうと言っておられます。
主よ、日頃何気なく見過ごしているあなたの善い業に気づかせて下さい。今も働かれるあなたの業すべてを通して父なる神を讃えることができますように。


四旬節 第五土曜日
ヨハネ11・45-56


大祭司カヤファは・知らずに預言しました。「一人の人が民にかわって死に、それによって全国民が滅びない方がよい」。イエスの死は、人間的な政治判断の結果であっても、神の目から見れば・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のためのあがないの死、身代わりの死でした。
ヨハネは・パウロほどあがないの死を強調しませんが、散らされた神の子らが一つになるための死を強調します。
とうとう最高法院を招集させるほど、イエスの存在はやっかいなものになっていました。民衆や弟子もイエスのメッセージの意味をよく理解できませんでしたが、権力者側はその意味をいやになるほど理解しました。そのメッセージが民衆に理解されたら自分たちが握っている権力は問われる可能性があると彼らには分かっていました。
これは大変な歴史の皮肉(運命)かもしれない。メッセージを必要とする人々はその意味を理解できず、自分の利益を何より考える人々にはピンと来ました。民衆はファリサイ派の話になれていて、全く違った観点からの話をするイエスの言葉の意味をよく読み取れませんでした。もしかすると私達もイエスのものの考え方にまだなれていないのかもしれない。
やはり、イエスのメッセージはすべての人、すべてのものを一つにまとめるものですから、それを理解するために広い心、開かれた姿勢が必要です。
私たちは、一人ひとりのひとが大切なんだと十分に知っています。しかし、カイアファの言葉「ひとりの人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなた方に好都合だとは考えないのか」という言葉は、私たちの心深くにも巣くっているのではないでしょうか。このことに気づくとき、「主よ、多くのひとのためという大義名分によって、小さくされた人々の中にいるあなたを滅びヘと運ぶことが無いようにお守り下さい」と祈らずにはおられません。どうか、わたしたち小さな者のために十字架の道を歩まれたとてつもないあなたの恵みを悟らせて下さい。

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