1 advent

毎日の福音
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 待降節は、かつては四旬節と同じように回心の期間としての面を強調する傾向がありましたが、現在の教会は、待降節を「もはや悔い改めの期間とは考えず」(「ローマ典礼暦」規範版の待降節の解説)、むしろ「愛と喜びに包まれた待望の時」(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)と考えています。そして、希望と喜びのうちにキリストの到来に心を向け、降誕祭の準備をするよう勧めています。待降節中、ミサと「教会の祈り」で使用する祭服等は紫色が用いられます。ただし、待降節第3主日には、習慣のあるところでは、ばら色を用いることができます。(『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』346参照) (毎日のミサより)

待降節第1月  第1周年(遇数年)
マタイ8・5-11

イエスはみことばを語るだけでなく、ご白身がみことばであり、存在そのものを通して教えます。新しいモーセとして教えるだけでなく(マタイ5-7章)、旧約の律法によっては救われなかったけがれから、ハンセン病者、異邦人、婦人を救います。
異邦人の百夫長はイエスのもとに来て願います。「みことばを送って治してください」(詩編107・20)。
マタイは、みことばに対する希望を示し、神の愛がすべての人に向けられていることを述べようとしています。
モーセに律法がみことばとして与えられ、イスラエルは律法に聴従するように命じられました(中命記6・4など)。いま、みことばイエスが与えられています。わたしたちはイスラエルの祈りを、イエスヘの祈りとして用いることができます。「あなたのしもべに言われたことば、希望のことばを思いおこしてください」(詩119・49)。「主よ、苦しんでいるわたしに、みことばによっていのちを与えてください」(詩119・107)。(荒)


待降節第1火
ルカ10・21-24

今日は待降節の三日目ですが、早速人間となった神の子の深い意味が示されます。イエスは悪霊を追い出し、神の救いの秘義を啓示しました。それによって弟子たちはイエスがメシアの権能を持つことを知ります。さらに、イエスが父なる神と特別なかかわりを持つかた、父の子としても理解できるようになりました。。「天地の主である父よ」と叫ぶ親密な関係は、父と子の関係の深さを示しています。
父は子にいのち、愛を与え、子はそれを受けて、父のいのちに生き、父を愛しているために、父にすぺてをささげます。
三二五年、ニカイア公会議はイエスの神秘を、「神の子」という信条によって表しました。神の子イエスは神と人との一致であり、「まことの神にして、まことの人間」です。父との一致を(ヨハネ10・30)「至福直観」(visio beatifica)ということばでも表すことができます。
イエスは人間の霊魂と体を持ち、人間の意志によって、自由に、父に従おうと決断します。「至福直観」はイエスの人間としての苦しみや体験に基づく知識を無にするものではありません。むしろ、そのような苦しみにおいて・父との一致はますますはっきりと示されています。ゲツセマネの祈りはその一例です(マルコ14・36)。その祈りは神の権能に対する人間の従順とともに、いつくしみあふれる父に対する親密な愛にみちています。
神の愛の息吹に生きるイエスは、その同じ愛の息吹をわたしたちに注ぎます。聖霊を通して、父と子の親密な交わりにわたしたちを招きます。エスが聖霊によって喜びにあふれて祈ったその同じ祈りを・わたしたちの心にも湧きあがらせます。「天地の主である父よ」と。(荒)
降誕説の第一叙唱にはこういう言葉があります。「人となられたみことばの神秘によって、わたしたちの心の目にあなたの栄光の光が注がれ、見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれます。」 

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オランダの著名な画家ヴァン・ゴッホは、生きている間1700枚の絵を描いたそうです。そして、生きている間売った絵と言えば、一枚だけです。その一枚でおよそ8000円もらったそうです。今は、ヴァン・ゴッホの絵と言えば、何百万もします。ヴァン・ゴッホは生きている間実現しなかった夢を見続けたわけです。今日のイザヤ預言者のように。一生美の理想を追求し続けた。これは待降節の精神ではないかと思います。


待降節第1水
マタイ15・29-37

マタイはイエスの活動を要約し、奇跡をイザヤの預言の成就として捉えます(マタイ8・16-17=イザヤ53・4、マタイ12・15-21=イザヤ42・1-4)。奇跡は神は全能であると示すためではなく、苦しみのしもべが貧しい人と連帯していることを示すために行われます。
マタイ15・31では、「耳の不自由な人が書物のことばを聞き、もやとやみから解放され、盲人の目は見え」(イザヤ29・18)、「足の不自由な人は鹿のように飛び、口の不自由な人の舌が喜び叫ぶ」(イザヤ35・6)といわれていた預言が成就します。(荒)
福音書の深みを知るためにやはりイザヤ書をもう一度読みたいな。また、ここで耳、口、足などすべての不自由から解放してくれる方がいます。私の不自由はどのようなものでしょうか。そこから解放される希望をもっているでしょうか。
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主は私たちのために「会食を整え」、私たちの「杯を満たされる」という約束がなされています。それに対して私たちは、今日の答唱詩編にあるように、「乏しいことがない」と歌うことができるでしょうか。私たちの住んでいる社会はものが有り余って、飽食(ほうしょく)社会と言われています。食事をおいしくいただくために、条件として、お腹はすいていなければならりません。いくら豪華な宴に呼ばれても、お腹がすいていなかったら、おいしい
と思うどころか、むしろ不愉快に感じるでしょう。
自分の悩みで心がいっぱい。他人をそこに入れる余地はない、毎日のように他人に対する恨み、不満、嫉妬、怒りなどをなめていては、ほかのものは何も入らないのです。
せっかく、主が準備してくださった会食を味わうことができるように、心を整えて、お腹をすかしておきたいものです。


待降節第1木
マタイ7・21,24-27

「裁くな」(1-2節)、「偽預言者を警戒せよ」(15節)、「父のみ旨を行え」(21節)といういましめが、具体的な場面によって描写されています。
「兄弟の目にあるおがくずと自分の目にある丸太」(3-5節)、「いばらとぷどう」(16-20節)、「岩の上の家」(24-27節)。「父のみ旨を行う者」とは、同時に、「わたしのことばを聞いて実行する者」(ルカ6.46、マタイ7・24)のことです。
初代教会は、みことばを聞くだけで実行しない人びとに対していましめました(ヤコブ1.22-23)。
「 1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
グノーシス主義者は、知恵についての悟りを重んじ、愛の実践を忘れます。ファリサイ派は愛のおきてを知っていても、愛の心を持っていません。カリスマに恵まれて奇跡を行っても、岩であるキリストにたよる貧しい人の生きかたを忘れるならば、砂上の楼閣(ろうかく)にすぎないのです。(荒)
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立派な家を建てるかどうかが問題ではないのです。どこに家を建てるかです。もし立派な丈夫な家を建てることだとしたら、力のある人、才能のある人、有能な人が建てることができるだけです。しかしそういうことをイエスさまは言っておられません。‥‥どこに家を建てるのか、ということです。
それが問題なのです。その家を、私たちのやぐらであり岩である(イザヤ書)=父なる神さまの上に建てるのかどうか、ということです。
 イエス・キリストを信じること、それを告白してイエスさまに信頼して行くことが、岩の上に家を建てることです。どんな嵐が来ても、倒れることがありません。世界が滅びるような洪水が来ても、しっかりと立っています。
他の家は、立派に見えても、しばらくはとても丈夫に見えても、実は嵐がきたら簡単に流されます。
私はどこに信頼をおいているのでしょうか。
イエスの言葉に耳を傾け、それを行動で示すことはとても難しいことですし、なかなかそれができていない現実もあるでしょう。しかしみことばが私たちの生活を変えた分だけは、私たちはすでに岩の上に立っているのです。すなわちイエス・キリストという硬い土台の上に立っているのです。とてもありがたいことです。感謝したいものです。私たちは「風見鶏」(かざみどり)にならなくてもいいのです。私たちがイエスの言葉に応えられない時にでも、常にイエスに希望を持ち続けることができますように。
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野田阪神駅の付近に「松下幸之助ゆかりの地」というのがあって、覗いてみたらそこに松下 幸之助(こうのすけ、1894年 - 1989年)が1918年に最初の工場を作った跡があった(後にパナソニック、ナショナルとなる)。そこに記念碑があって、こういうことばが刻まれています。

「自分には
自分に与えられた道がある
広いときもある
せまいときもある
のぼりもあればくだりもある
思案にあまる時もあろう
しかし心を定め
希望をもって歩むならば
必ず道はひらけてくる
深い喜びも
そこから生まれてくる」

「主こそがとこしえの岩」(今日のイザヤ書)、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(福音書)ということばとかさねて考えますと、自分はどういうことに希望を置いているか、希望はどこに置くべきか、あらためて考えさせられます。

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待降節第1木
「神のみ心を行う者」
マタイ7・21,24-27

「神のみ心を行う者」はどのような者でしょうか。例えば、マザーテレサは若いときにかなり悩んだそうです。自分にとって神のみ旨はなんなのかと。修道会に残って学校の先生として働くべきか、それとも違う道に進むべきなのか。悩んだ結果、そしてさまざまな人と相談した上で、自分にとっての神のみ心がわかったわけです。晩年には、こうしたはっきりとしたお示しはなくなったと手紙のなかで嘆いていたのです。
けれども、貧しい人を助けること、祈りの生活を続けることは間違いなく神のみ旨だろうと思って、忠実にそれらを守りました。それで、しっかりとした土台に据えられた家を建てました。
神のみ心というと、それは何なのか、なかなかわからない時と場合があります。けれども、間違いなく神の御心だと思われることもあります。例えば、今日のミサに参加したこと、今日しなければならない仕事など、これは心をこめてやっていれば神様は喜ぶでしょう。
救い主は二千年前にもすでに来ているし、(ほとんど誰も気がつかなかったが)、今日も来ているでしょう。けれども私たちには見えないのです。気がつかないのです。見えるために、気がつくようになるためには、「神のみ心を行う」姿勢を育てる必要があります。待降節の観点から見て、今日の福音書はこのようなこと教えているでしょう。




待降節第1金
マタイ9・27-31

この奇跡物語はエリコの二人の盲人のいやし(マタイ20・29-34)に似ています。エリコでは、二人がイエスのあとについていくのに対し、ここでは、「だれにも言うな」と沈黙を命じられています。しかし、二人は、その地方一帯にイエスを宣教します。
この物語は盲人をいやす奇跡物語であると同時に、イエスをメシアとして認める信仰物語です。
旧約の預言がダビデの子について述べていたことは、すべて、イエスにおいて成就します。二人の盲人は旧約時代のメシア信仰に基づいて、イエスに祈ります。かれらは貧しい人たち、取り残された人たち、神をたよりにする以外に、なに一つ誇りとするものを持たない人たちです。イエスは、か
れらの信仰のゆえに奇跡を行っています。それによって、かれらはキリストの宣教者にかわります。(荒)
信仰は奇跡をおこす力があると改めて示されます。
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私たちは、今日の答唱詩編にあるように、今日の答唱詩編を見ると、そこに強い希望を感じます。27:1神はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰も恐れない。神はわたしの命の砦/わたしは誰をはばかろう。27:13 神に生きる人々の仲で私は神の美しさをあおぎみる。27:14 神を待ち望め/強く、たくましく、神を待ち望め。ところが、今の社会を見ると先はどうなるか、全く見えないので不安になります。占いを頼りにして生きる人もいますが、でもそれは一時的な気休めにすぎない。先の詩編のような歌は歌えない。救い主を待ち望むことにおいて、このように歌うことが出来ルためにはどうしたらよいか。そのために、今日の二人の盲人はさんこうになるでしょう。まず、自分は見えないということを認める。自分の力で自分を救うことはできないと気づくこと。貧しい人、弱い人のようにへりくだって、謙虚に助けを求めること。キリストに「さわって」もらうことが必要条件です。この「さわる」(haptomai)というのはなんでもない、地道な動作ですが、秘跡において行われるようなものを思わせるのです。私たちは秘跡においてキリストに触れることができる。「さわって」もらうことができるのです。

待降節第1土
マタイ9・35~10・1,5a,6-8

羊の群れは唯一の大祭司キリストによって養われます。あらゆる時代、あらゆる場所でキリストの祭司職が行われるために、弟子たちは召命を受けます。司祭は司教の按手(あんしゅ)によってキリストの祭司職を授与され、みことばと食卓の奉仕に一生をささげます。司祭は、信者たちの霊的いけにえ、信徒の一般祭司職のいけにえを一つに合わせ、父なる神にキリストの代理者としてささげます。教会はよき牧者が与えられるよう祈ります。「キリストのために生涯をささげる司祭、修道者の召命をお与えください。聖霊の恵みと力が与えられ、多くの青年があなたの招きにこたえることができますように」(召命を求めるミサの集会祈願)。

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