3 Lent

四旬節 第3月曜日
ルカ4・24-30


“よく知っている”という思いは、人を盲目にさせる。先入観、決め付け、思い込み、勝手な判断という眼鏡を通してしか見えないため真実を見極めることができない。すべてのことに自分の知識を遥かに超える神の働きがあることに気付くことはできない。そのような者の目の前をイエスは通り抜けて行かれる。
主よ、“知っている”というわたしの思いを取り除き、あなたの存在、あなたの働きに気づく、澄んだ目を与えてください。sese07


四旬節 第3火曜日
マタイ18・21-35


一デナリオンは一日の賃金です。かりに一日の給料は五千円とすると、百デナリオンは50万円となります。一タラントは6千デナリオンなので3千万円で、一万タラントは3千億円になります。
イエスのたとえ話は、次のようになります。超一流の有名な銀行で監査があり、支店長が三千億円の損をさせたことが明るみに出ました。妻も子供もマンションも全部売って負債を返すように命じられました。どんなにしても、生命保険にいのちをいくらかけても、払うことは不可能です。理事会はあわれに思い、負債の支払いの無期延期を決議してくれました。ところが、支店長が会議が終って外に出ると50万円貸している同僚に出会います。かれののどもとを締め付け、「借金を返せ」と迫る。そして返せないとみて、サラ金地獄に閉じ込めます。あとは同僚たちの告げ口、支店長の逮捕で話は終ります。
神から借りた恵みを返済する唯一の方法は、兄弟の小さな負い目を見のがすことです。(荒)
さて、一万タラントンものわたしの借金とは何だろう。わたしの兄弟を赦さないでいるというのは、どのことなのだろう。わたしの過去を遠く振り返って見と、わたしのDNAには、遠い祖先の血塗られた歴史が刻まれている。わたしの負債は、一生かかっても償いきれないものかも知れない。天の父は、
その負債を帳消しにするばかりではなく、そのわたしを慈しんでくださる。
それに引き換えわたしは、友、隣人に対してどんな態度をとっているだろうか。正直に、戦慄せざるを得ない。主よ、あなたは、善人にも悪人にも太陽を照らし、雨を降らせ、食べ物で養って下さいます。あなたの愛で、七の七十倍、きょうだいを赦すことがますように。sese07
また、「自分に厳しい、人にやさしい」という生き方はなにかと考えさせられます。
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誰かが私たちに赦しがたい罪を犯した。そんなことは私たち生きている限りどうしてもつきまとうことです。私たちが本当に大切にしているものが、無神経に踏みにじられることがあります。そして、その相手は何も気づかず、あるいは、気づいていても決して反省しないのです。そんなとき、果たして、私たちはその相手を赦せるでしょうか。
「赦す、でも忘れない」という言葉があります。この言葉は、「赦し」の本質を突いています。端的に言えば、罪を犯した誰かを「赦す」ということは、その人が犯した罪をすべて水に流す、何もなかったことにして全部、忘れてしまうということではないのです。「赦すこと」と「覚えていること」は本質的に結びついています。それゆえ、過去、多くの人々がこの言葉を語りました。名の有る人も、名の無い人も、「赦し」という真理に誠実に向き合おうとする多くの者が、「赦し」と「記憶」の関係について、そして、「赦し」と「正義」の関係について、真剣に考えざるを得なかったのです。
例えば、ネルソン・マンデラという人がいます。南アフリカの政治家ですね。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容されましたが、釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の議長に就任し、アパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導きました。1994年には、とうとう大統領になりました。「真実和解委員会」を作り民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施したのです。そのマンデラが語るのです。「赦す、でも忘れない」と。
しかし、今日の聖書箇所は私たちに「赦しとは、本来的に無条件なものであり、赦しとは、突き詰めると、罪を犯された被害者の決断の自由にまで行き着く」と、語りかけます。もちろん、一方で、私たちは、赦しには正義が必要だということも知っています。つまり、赦しは無条件な赦しでなければならず、しかし一方で、赦しには正義が必要なのです。これは矛盾です。解消できない矛盾です。
この矛盾を前に、神を求めて生きていきたいと願う者の一人として、私はこう考えます。私が誰かを赦すとは、その人が犯した罪を忘れることではない。私も決して忘れない。でも、できれば、私は、その罪を犯した人のことを憎み続けて、残りの一生を過ごしたくない。私は相手を誰かを憎む気持ちから自由になりたい。もちろん、それは簡単なことではないし、人間の力を超えたことのように思える。だから、私は祈りたいと思うのです。「私はたとえ怒りを覚え続けたとしても、他の人を憎まずに生きていきたい」と。そして、「私自身も赦されたい」と。
[名]殺鼠(さっそ)剤 “In fact, not forgiving is like drinking rat poison and then waiting for the rat to die.” Anne Lamott, Traveling Mercies: Some Thoughts on Faith (1999)


四旬節 第3水曜日
マタイ5・17-19


ヤコブの手紙には次のように書いてあります。「2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
パウロはローマ人への手紙の中でつぎのように言っています。「13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」
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ヨハネ福音書の受難物語に、例えば「イエスの衣服のことでくじをひいた」とか、「イエスの脇腹は槍でつらぬかれた」という大変細かい記述がありますが、ヨハネは一々それぞれの箇所で、「それは聖書のことば実現するためであった」と記しています。聖書のことばは人間の言葉を通して私たちに伝わりますが、単なる人間のことばと違って、時代によって文化によって変わったりするようなものではなく、永遠に残るものであり、必ず実現するのです。
私たちは聖書の言葉を大事だとは思うのですが、それは現実から遠いことと感じられ、神様のお言葉をまともに聞くことに妥協するわけですね。そういう姿に対してイエス様は「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。神様の律法は人間がその中から勝手に選んでそれを生きるもんじゃありません。むしろ人間が神様の救いから、どんな小さなすき間からもこぼれていくことがないように守るものとして与えられたのです。
イエス様は決して私たちに「あなた方が律法の一点一画もおろそかにすることなく、完成するように努めなさい」とおっしゃったのではありません。「わたしがそれを完成するために来た」とおっしゃっています。神様が律法の一点一画を完成するためにイエス様を送ってくださったということですね。
神様は私たちの生活の一つ一つを、それがどんなに小さなことであっても、その目でご覧になり、そこで私たちが救いから漏れ落ちることなく、救いに与って生きることを願っておられるということなんです。


四旬節 第3木曜日
ルカ11・14-23




四旬節の典礼の間では、「聞く」、「聞き従う」という言葉がよく出てきます。今日の第一朗読もまさにそうです。信仰は「聞くこと」からとパウロは言います。また、四旬節の目的である回心も聞くことから始まります。聞くだけで救われるのか?簡単じゃないか。簡単そうで、実は難しいことです。聞くことのむずかしさどこにあるのか。
まず、聞くために自分の殻から出なければならない。自己中心から相手中心にならなければならない。自分のことを忘れる、脇に置いておく。相手のことを真剣に受け止める。「あなたは私にとって大事だ、というような心構え。心を開く。聞きたくないこと、耳に痛いこと、都合の悪いことを聞く覚悟がなければならない。また、偏見と先入観を無くす必要がある(福音書では、イエスに対する偏見が邪魔になると述べられています)。
聞かないものはどうなるかと言いますと、「うなじが固く」なる。「真実が失われ」る、とあります。人間同士ですと、これだけのむずかしさがある。相手は神となると、もっと難しくなるだろう。神の「声に聴き従う」とはどういうことか、やはり深く考えるべきでしょう。
私たちは、親の声を聴きながら成長してきた。親のことばの中に、親が生きてきた人生、経験、知恵、力、人格などすべて込められています。親(または先生)のことばをきくことによって、親のいのち、力、知恵を受けるように、神の声に聴き従うことによって、神の命、力、恵みをいただけるのです。

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「彼ら(わたしたち)のかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み」、「先祖よりも悪いものとなった」というエレミヤの預言(第一朗読)はイエスの時代にも私たちの時代にも実現されます。「その口から真実が失われ、断たれている民」に対してイエスは「口を利けなくする悪霊」を追い出します。けれども、悪魔呼ばわりにされる。

一般に「悪魔」ということばは、しっぽのある黒い動物を想像させます。そこでは「悪魔」はマンガ化されています。「悪魔」のような奴だ」という表現は、人間の 悪気 ( わるぎ ) 、冷たさを示そうとしています。イエス様も「悪魔のような奴だ、悪魔のかしらだ」と非難されました。わざわいをもたらしたからではなく、人々を病気や不幸から解放したからです。
イエスはユーモア(皮肉)を込めて反論します。内部で分裂していたり、仲間割れしていても、外部の敵に対しては結束して戦うのが人間の集団の特色ではないか。悪魔の集団でも、悪いことをするためには一致協力しているのではないか。悪魔が人の病気を治したり、ほかの悪魔を追い出したりしたら、善いことをしていることになり、悪魔としては失格ではないか。
イエスはこのようにからかったあと、一転して神の国の到来を告げます。神の力、神の指によって悪魔が追い出されているのであれば、神の支配がすでに来ているのではないか。神の力を認めようとしない人々の頑固さに対するイエスさまの悲しさ、怒りが感じられます。(荒)


四旬節 第3金曜日
マルコ12・28b-34



人間的な愛には、甘えや駆け引き、煩わしさ、誤解がつきまといます。相手の幸せを願っていても、その通りにならず、よかろうと思ってしたことが逆効果になることがあります。ですから、うまくやる必要がある。人間的な愛にはテクニックが要ります。
しかし、「神を愛する」というときの愛には、そのようなテクニックは不要です。神は心を見るからです。さらに創造主と被造物の区別があるからです。すべてをさしおいて神を礼拝し、賛美し、感謝し、ゆるしを願い、恵みを祈り求めます。それが人間にとっての第一の掟です。「神を愛せよ」という第一の掟から、「兄弟を愛せよ」という第二の掟が当然でてきます。兄弟を愛することによって、父への愛が深められ、確かめられます。(荒)
「あなたは神の国から遠くない」というのは、神の国はだんだん近づいて、もう少しで来るというようなものではなく、悔い改めたらそこは天国であるということだと思う。律法学者に対して神の国は遠くないと言われたのは、知識として納得するのと、神の国に入るということとは次元は違うと示すためでしょう。L・ダビンチの有名なモナ・リザの絵が大阪に来ても、見に行かなければフランスにあるのと同じで遠い存在である。神の国は知識の問題ではなくて、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促した言葉でしょう。(榎本) キリストは私たちから遠くない、十字架と復活は遠くない。私たちはそれに与りたいか否かです。


四旬節 第3土曜日
ルカ18・9-1



私たちは、ファリサイ派と罪人の二つの傾向をもっています。現代のファリサイ派は、罪人のふりをして祈ります。「主よ、私は罪人です。しかし、あの傲慢なファリサイ派ではないことを感謝します。
真面目に働いているときは、仕事の遅い人や病人に対して厳しく、自分を正義の尺度のように思い込みます。律法を守っていながら、その根本精神である愛にそむいています。
仕事うまくいかず、ストレスがたまると、本来、善意で小心で真面目な性格のため、自分だけ苦労が多く、理解されていないといった被害者意識にとらわれ、殉教者のように自分を美化し、そのゆとりもなくなると、謙虚を通り越して卑屈になり幸せな人をねたみはじめます。
何か変化が起こって自分がついていけないと、急にいらいらしたり、当たり散らし、コントロールの能力もなくなって、落ち込んでしまいます。
ファリサイ派と罪人の二つの傾向は、自分を神の立場、裁く立場に置くことをやめ、神の裁き、神の恵み、神の自由にまかせることによって乗り越えられます。(荒)

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