2 Lent

四旬節 第二月曜日

ルカ6・36-38


人間の歴史は、復讐と憎悪の歴史でもあり、怨念がいつまでも残って、民族の間で戦争が繰り返される。それも事実です。
敵を愛する。それは自分という枠の中に留まっている限りは不可能なことです。私にとって敵である者をも神が愛しておられ、その人のためにキリストは十字架につけられたという事実を思うとき、私たちははじめて敵を愛することができるようになります。どうしても赦せない、押さえ切れない憎しみがあったとしても、それは無理に押さえつけるのでなく、すべて神に委ねてみたらどうでしょう。神はきっと私に代わって、罰を与え、あるいは回心させてくれるに違いない。その神にすべてを委ねたらと思います。神の目で人を見、その人も神のもとにあり、神から愛された人間、神から救われるべき人間に過ぎないと確認する。神は私に代わってすべてご存じである方と確認する。そうするともしかしたら人を見る視点が変わってくるかもしれません。


四旬節 第二火曜日
マタイ23・1-1



律法学者やファリサイ派の人々が厳しく批判されます。その理由は、「言うだけで、実行しない」からです。言うことと行動のギャップは、普段他の箇所で「偽善」とよばれるが、ここはちょっと違うかもしれません。彼らが言うことは否定されるわけではなく、むしろ「すべて行い、また守りなさい」と言われるぐらいです。ここで、偽善性というより、表面性が問題となっているようです。言っていることが、人の肩に載せる重荷になったり、人に見せるためで、自分たちの生き方、生活を変えるに至っていない。軽い、浅いことば(認識)となっています。知っているつもりで、いわゆる知ったかぶりしているにすぎない、と。私たちも、様々な祈りのことば、たとえば主の祈りを唱えます。「み名が聖とされますように」、「み心が行われますように」とか言いながら、その意味を深くとらえていないかもしれません。四旬節には黙想会が行われたりします。それも、お話を聞くだけで、たいてい面白かったか面白くなかったかで終わることは多いわけで、生活・生き方を変えるに至らない。新しい情報を得たとしても、新しい命を得たことにならないのです。新しいイデアにすごく興味をもち、深く理解し生きることは少ない。
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福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。大分前のことになりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判を思い出します。全国第一人者とされていた大学教授が、自分の権威を利用して、非加熱製剤(加熱処理しなければならないのにしない)を患者に輸血し、エイズに感染させたという事件が大きく新聞やテレビ放映で取り上げられた。そういう決定に至った会議には違う意見も出されたが、出席した他の人は意見は無視され、会議自体は「見せ掛け」にすぎなかったことが判明されました。この事件で私は人間の地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思いました。社会の最前線で活動していない者でも人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが「仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」という生き方をモデルにし
ているだろうか。キリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心として僕にふさわしい生活を送るべきであろう。
一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)
今日の福音で、イエスは、律法学士やファリザイ派の人々を批判しています。彼らは言うだけで実行しないからです。この批判は、そのまま私にもあてはまりそうです。私たちの行いの動機も問われています。どこかに不純な動機が潜んでいないでしょうか。ファリサイ派の人々と律法学者が、イエスの語られることを受け入れることができないのはなぜでしょうか。私は、唯一の師であるイエスの言葉を聴く耳をもっているでしょうか。唯一の主であるイエス、あなたのみ言葉を聴くことを教えてください。sese07

 
四旬節 第二水曜日
マタイ20・17-28


近代社会を支える大きな柱には平等と自由があります(日本国憲法参照)。けれども、この二つの間には大きな矛盾が働いています。自由な人間はよく働いて金持ちになり、別の人は政治家になって権力を握るようになります。こうやって、競争原理が働き、不平等に導きます。
今日の福音書はこうした現実、問題を描いています。最近のマスコミには、教皇の辞任をめぐって、ヴァチカンには権力争いがあるのではないかと疑っています。それは、当たり前でしょう。今日の福音書が明らかにしているように、弟子たちの間で権力争い、競争がありました。現在でも神学者の間で競争があります(ConciliumとCommunio)。修道会にも、一般の小教区にもあります。教会は近代社会に生きている限り、競争の原理が働くでしょう。
それでは、どうしたらよいのでしょうか。これは、理論の面でも実践の面でも大変難しい問題です。平等を強調すると共産主義社会になります。自由をなくす傾向になります。自由を強調すると、自由主義経済、資本主義経済のよう社会になります。平等をなくす傾向です。
解決へのヒントは「違いを認める」という言葉と、奉仕精神にあります。たとえば、男女平等というときに、男女はお互いの違いを認めながら共存します。そこに多少競争が生まれるかもしれないが、その分だけ助け合い、連帯が無ければならない。学校には学長と生徒があり、一般社会にはお巡りさんと一般市民があり、ある意味では不平等な立場ですが、学長とお巡りさんは、学校のために市民のために奉仕しなけらば絶対うまくいかないでしょう。やはり、福音書の言う奉仕がなければ、近代社会はうまくいかないでしょう。
さて、教会(ヴァチカでも、修道会、小教区でも)を外から見た場合、そこに競争が大きく感じられ、奉仕はあまり感じられないとなると、それは教会が福音を証ししていないということを意味することです。そであれば、この四旬節に回心する必要があるというメッセージになります。
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 「人間、最後まで残るのは“名誉欲”である」と誰かが言っておりました。偉くなりたい、認められたい、人々から賞賛されたい、ほめたたえられたい、人々を自分の思い通りに動かしてみたい‥‥そういう思いは、弟子たちのうちにもあったのです。だから、ヤコブとヨハネの母がそのようにイエスさまに頼んだことを知って、他の弟子たちは腹を立てました。「抜け駆け(ぬけがけ)はゆるさん」といったところでしょうか。  偉くなりたい者は、仕える者になりなさい、と。‥‥これは、「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。そうすれば偉くなれる」ということではありません。それでは昔のテレビの「おしん」のようになってしまいます。そうではなく、そもそも「仕える」ということが主イエスに従う者のあり方であるということです。ですから、「偉くなりたい者は、そのような思いを捨てて、仕える者になりなさい」ということになります。


四旬節 第二木曜日
ルカ16・19ー31


富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。
 さらに、回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。
 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。
キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにはつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
生きることは、すなわち旅することです。旅路には山あり谷あり、深い海、暗い森もあり、複雑怪奇(かいき、あやしかく不思議)、危険に満ちた交差点も通ります。ある人は、リネン多彩で高価な衣服を纏い、他方、贅沢三昧な生活に明け暮れ、あたかも何の苦労も心配もない生活をしているかのように見える人たちもいます。
一方ラザロのように生活しているホームレスのような人々もいます。
私達は、このような中で旅をしています。その中で主は、私に何を呼びかけておられるのでしょう。
どんな挑戦を受けているのでしょう。主よ、あなたの言葉を聴き、悟り、生きることができますように。sese07
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なぜラザロの行ったところではいるのが神様ではなく、イエス様でもなく、アブラハムなのかということなのです。イエス様の譬え話には、父親であるとか、主人であるとか、王であるとか、羊飼いであるとか、明らかに天の神様やイエス様のことを指し示していると思われる登場人物が出てくることが多いのです。しかし、この譬え話にはアブラハムはいるけれども、天の神様やイエス様がいないのです。どうしてなのでしょうか。ここにこの譬え話を読み解く大切な鍵があるように思えて成りません。
  アブラハムというのは、神様から救いの約束を受け取った最初の人間で、それを信じて生涯を歩んだゆえに神の友、信仰の父と言われるようになった人物です。このアブラハムへの約束は、アブラハム個人に留まるものではなく、アブラハムの子々孫々に及ぶものでありました。それゆえ、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちこそ救われる民であるという選民意識をもっていたのです。
  しかし、イエス様のこの「金持ちとラザロ」の譬え話は、そのようなユダヤ人の選民思想をうち砕くものではないでしょうか。つまり、同じアブラハムの子孫であっても、ラザロは慰めの場所に行き、金持ちは苦しみの場所に行きます。しかも、その間にはアブラハムですらどうすることもできない大きな淵が横たわっているというのです。アブラハムは確かに神の友であり、信仰の父であり、ユダヤ民族の父祖であるかもしれませんが、決して救い主ではないのです。イエス様は、あえてここに神様でもなく、イエス様でもなく、アブラハムを登場させることによって、救いはアブラハムによってではなく、イエス様によって与えられるのだということを語ろうとしているように思えるのです。

このイエスの話はファリサイ派の人々にとっては大変な皮肉であり、挑戦でもある。彼らこそ、実は聖書の専門家として自他共に認められていたのである。ところが聖書の専門家であるはずの彼らが「あの世」での価値の転換を否定し、この世での価値観がそのままあの世でも通じるかのように説教し、金持ちたちを喜ばせている。彼らはそのために聖書を利用している。ここが重要なポイントである。彼らも聖書の専門家として聖書を解釈し、聖書の教えを説く。しかし、貧乏人にいくらいい説教をしても金にならないが、金持ちが喜ぶ説教をすれば金になる。しかしイエスの視点は異なる。イエスは貧乏人の立場に立って聖書を読み、聖書を語る。
ドイツの教会の人たちは、この聖書の御言葉を読むと、自分たちは金持ちだ、豊かな人間だと理解する。一方、貧しい人はアジアやアフリカの人々だと考える。そして、自分たちはぜいたくに暮らしているから、このままでは陰府に落ちてしまう。だから、貧しいアジアやアフリカの人々のために献金しよう、という発想になるのだそうです。
 その考えに対し、ある牧師は問いかけた。あなたがたは金持ちで、アジアやアフリカの人は貧しいと思い込んでいるが、その通りですか?あなた方の近くにも貧しいひとはいないのか。あなたがたが本気で、自分たちは金持ちだから地獄に落ちると思っているなら、金持ちであることをやめられますか?自分の生活には少しも変化が起こらないような献金だけをして、ことが変わると思いますか?ただ憐れみの施しをするだけで、あなたがたは天国に行ける権利を得られると思っているのですか?

金持ちだろうと、権力があろうと、地位があろうと、学力が優秀であろうと、色々なことができようと、また人格的に非の打ちどころがなかろうと、神さまに命を与えられ、生かされ、やがて召されていく者として、自分の力ではなく神さまを信じて依り頼み、ゆだねて生きることこそアブラハムの宴席へとつながる道だと、聖書は語っているのです。


四旬節第2金
マタイ21・33-43,45-46


ヨセフの物語(第一朗読参照)は歴史の中で何回も繰り返される。善と悪! その戦いは世紀に渡り継続しています。イエスは的をついた譬え話を使って真実を語るので、人々は反発し、傷付き、ついには抹殺しようとします。真理を語り、闇を照らす光は、闇に住む者にとっては邪魔だからです。イエスが、今日語られる言葉は、現代社会、そして私のどのような闇にどんな光を与えられるのだろうか。光を受け入れる準備はできているのだろうか。
主よ、あなたが語られる真理の言葉に心を開かせてください。sese07
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人間の強欲、力への渇望がこのような恐ろしい殺害にいたる。

 しかしこれは別に2000年前のユダヤ人のことだけを言っていると言うわけでもありません。人間はなんだかんだと言っても、自分の力・地位と言うものをより上に保とうとするものです。この世、社会の仕組みは、明らかに権力・力関係に支配されています。それは愛の場であるはずの家庭においてもまったく同じでしょう。夫婦の間でも、兄弟の間でも、また親子の間でも、いつもそのようなものが支配しています。たとえば夫が妻を虐待し、そのはけ口に妻が自分の子どもを虐待し、そしてその子どもは弟・妹を虐待する。そのようなことはとてもよくあることです。夫婦や子どもを自分の当たり前の持ち物と思い、感謝することがなくなるからです。
 しかし絶対的な権威者は神しかありません。そして配偶者や子どもは、親は、神様からこの世の生活の助けとなるため、愛の学びの助けになるために、一時的に神様から委ねられた、尊い預かりものです。けっして自分のものではないし、当たり前のものではない。自分の思い通りにならないから、虐待したり、無視したりしていい。そのようなものでは決してない。そのようなことをしたものは、神から預かったものを大切にしないために、神殺しに並ぶほどの大きな罪を犯すことになりかねません。
 神様は不信仰な人間を救いたいほどの愛そのものの方です。だから私たちが神の子イエス殺しをしたとしても、そのような私たちに対して、「この人たちは何をしているのか分からないから赦してください」と必死で祈ってくださるイエス様がいるのも事実です。だからこそ、私たちはそれほどまでの愛の方である神の独り子を殺してはならない。神様から託されたものを、本当に尊重し、大切にすることが必要です。この世はキリスト教にとっては、あまりに「現実的な世」なのですが、神様から借りていると言う意味では「借りの世」だからです。 
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見立て違い
 「隅の親石」というのは、家の土台に据えられる石のことではなくて、石を積んでアーチが造られる、その一番上の真ん中に据えられる石のことです。その石がしっかりとはまることによってアーチ全体が堅固な構造物となり、その石がはずされてしまうと、アーチ全体が崩れてしまう、という石です。最初は役に立たないと思われていた石が、そこに丁度はまる最も大事な石となる、それはそのことを見抜けなかった家を建てる者たちの見立て違いなのです。そのことが、ぶどう園の農夫のたとえと結びつきます。僕たちを侮辱し、息子を殺した彼らは決定的な見立て違いをしています。僕を追い返せば利益を独り占めできる、さらには、跡取り息子を殺せば相続財産であるこのぶどう園が自分たちのものになる、それは決定的な見立て違い、判断ミスです。世の中そんなに甘くない、そうは問屋が卸さない、誰でもそれが分かるような話として主イエスはこのたとえを語られたのです。それは、そういう見立て違いをしている者たちがいる、ということを示すためです。それは誰か。19節に、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。このたとえを民衆に語っておられる主イエスは、実はその周りで敵意ある目で見つめている律法学者や祭司長たちに向けてこれを語っておられたのです。彼らは、ユダヤ人の宗教指導者です。神様を信じ、礼拝し、信仰に生きることにおいての指導者、専門家と目されている人々です。その彼らは、神の国の到来を宣べ伝えつつエルサレムに来られた主イエスを全く受け入れようとしていません。むしろ何とかして殺そうと思っているのです。家を建てる者が、本当は隅の親石となる石を、この石はいらない、役に立たないと言って捨ててしまうのと同じ大いなる見立て違いを彼らはしているのです。しかもその見立て違いは今に始まったことではありません。息子の前に遣わされた僕たちは、昔の預言者たちのこと、さらには洗礼者ヨハネのことを指しています。神様がその人々を遣わして語りかけても、彼らはそれに耳を傾けることなく、拒み、侮辱したり殺したりしたのです。そして今、神様が愛する息子、独り子である主イエスを遣わして下さったのに、彼らはその独り子を殺そうとしているのです。



四旬節第2土
ルカ15・1-3,11-32


放蕩息子の譬え話は、有名な聖書の箇所で、登場人物は三人。一人は放蕩の末に父のもとに帰った息子、もう一人は、常に父のもとで真面目に忠実に仕えてきた息子。二人は対照的であっても、それぞれかけがえのない父の子です。そして三人目は、この物語の中心であり、大切な役割を演じる父です

この物語をもって、神の心、神の愛とはどんなものであるかが啓示されました。まさに福音です。
私たちは、おそらく自分のなかに、この三人のそれぞれの部分をいくらか持ち合わせているのではないでしょうか。時によって、場合によって、割合は異なっているでしょう。大切なのは、いつもどんな時にも、神は無条件、無償の愛で愛し続けていてくださることを信じることではないでしょうか。それこそ父を最も喜ばせる子の生き方に他なりません。
主よ、あなたの無条件、無償の愛に感謝します。信頼をこめて委ねることを教えてください。sese07

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