4 Lent

四旬節 第四月曜日
ヨハネ4・43-54


 イエスさまは「預言者は自分の故郷では敬われない」とおっしゃった。その故郷のガリラヤに再び戻られたのです。「敬われない」その故郷に行かれた。すなわちイエスさまにとって、ご自分が敬われるかどうかは関係ないということになります。ところが続きを読むと、45節に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と書かれてあります。これは一体どういうことでしょうか?‥‥「敬われない」はずが「歓迎された」のです。これは、「ガリラヤでは敬われないと思われたが、しかし予想に反して実際はそうではなかった」ということでしょうか?
「預言者」というのは神の言葉を語る人です。ですから「預言者を敬う」というのは、神の言葉を敬うこということなのです。しかしガリラヤの人々は、イエスさまのなさる不思議な業、奇跡は歓迎するのだけれども、神の言葉を敬い、耳を傾けて聞いて受け入れるということをしなかった、ということになります。こういうことは私たちにもあることです。すなわち、「イエスさまの奇跡は期待するけれども、その御言葉を第一に受け入れて従うのではない」‥‥ということが。
父親は「お出で下さい」とイエスさまに頼んだのに、イエスさまは一緒に行かない。そして父親に、一人で帰れと答えたのです。それは父親の願いに反していました。しかしただ帰れとおっしゃっただけではない。「あなたの息子は生きる」とおっしゃったのです。御言葉を下さったのです。「帰りなさい。もうあきらめなさい」ではない。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と約束の言葉をおっしゃったのです。イエスさまは行かないけれども、御言葉を下さった。
 父親は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。父親が願ったこととは違うけれども、今イエスさまを「主」と呼んで、イエスさまを信じた父親は、イエスさまのおっしゃった御言葉を信じたのです。すなわち、イエスさまを信じるということは、イエスさまの御言葉を信じることだと、聖書は語っているのです。
父親は、イエスさまの御言葉を信じて帰っていきました。死につつある我が子を助けていただくために、30キロの道のりを駆けつけて来た父親。床に寝ている我が子の苦しそうな顔が脳裏に焼き付いたまま駆けつけたことでしょう。一縷の望みを持って。イエスさまに来ていただこうと。しかし今、イエスさまは一緒には来られない。ただ御言葉を下さった。「あなたの息子は生きる」という御言葉を。今はただそれを信じるしかありません。我が子の命は、そのイエスさまの御言葉が真実であるかどうかにかかっているのです。父親は、本当にイエスさまのその御言葉にすがる思いで帰って行ったことでしょう。「本当ですね。イエスさま、本当ですよね」と、不安を打ち消すように心の中で繰り返し問うようにしながら帰って行ったことでしょう。
御言葉を体験するというのは、何か「ことわざ」や「名言」に感銘を受ける、ということとは違います。そういう第3者的なことではありません。イエスさまの御言葉を聞いて、実際にそれに従ってみる。信じるのです。そうしてその通りになる。イエスさまのおっしゃった通りになる。そうしてイエスさまがまことの救い主であることが分かる。‥‥それが御言葉を体験する、ということです。この父親は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉を信じて帰ったのです。そしてその御言葉が本当であることを知ったのです。


能楽や歌舞伎などの古典芸能にとって「型」は大事な所作である。日々の練習を積み重ねて体得していく。神に信頼して生きていく「信仰」も同じような要素を持っているのではないだろうか。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とイエスは言われた。群集は「しるしや不思議な業」を見て信じたが、熱し易く、冷め易かった。日常に働かれる神の業を見るには、祈りによってイエスから手ほどきを受ける必要がある。
「委ねて生きていくこと」も小さな学びの積み重ねなのだろう。主よ、忍耐の少ない私たちですが、あなたに向かって精進していくことができますように。        
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 田中角栄さんは生まれ故郷の発展のために多くの国費を使ったので、新潟県の人々から神様のように崇(あが)められています。しかし、それは新潟県にとってプラスになっても、全国にとってはむしろ大変な迷惑になったかもしれません。昔も現代も、この点にでは世の中はあまり変わっていません。政治家は人気取りのために一部の人を特別扱いをしますが、イエスはそうしたくありませんでした。政治家は人が聞きたいことしか言わないで、本当のことを隠すことがあります。マスコミも人が知るべきことを伝えずに、聞こえのいいことだけ伝えています。現代においてイエスは信仰者の口を通じて本当のことを伝えたいし、隠されていることを知らせたいのです。(ステファニ)


四旬節 第四火曜日


エゼキエル47・1-9、12

神殿から湧き出る水が、やがて川となり、大きな流れとなっていく。その川は四方を清めるものであり、その水のほとりに大きな木が繁茂する。その葉は枯れず、その実は常に新しく実り、食用に使われ、薬にもなる。神殿から川が流れ四方の人々を喜ばせる、こういう風に預言される。
雨の少ない所であり、水の流れている所にだけ植物がある。川の流れる所に木々が育ち、人が住み、そこだけ豊かな地となる。すこし離れるとカサカサの砂漠であり、人も住まない土地柄である。水は命の水であり、人に命を与えるような働きをする。水が湧き出て川となり、大きな川となって、ということは、神の恵み、神の命が神殿から四方に及んでいくことが示されている。神殿の敷居の下から水が湧き出てくるというのは、砂漠のような所から湧いて、四方の人に豊かさをもたらす、という意味である。
エゼキエルの時代(紀元前600ー587年)には、エルサレム神殿は14年間荒らされ、民はバビロンに連れていかれて25年間も苦労し、貧しい生活を送っていた。世界の人々に対して、あるいは諸国に対して影響を与え、施していく力などまったくなかった。そのイスラエルに、昔栄えたソロモンの神殿を立て直せと神は言われるのである。神がともにいてくださるとき、貧乏人も金持ちもない。プラス無限大の世界がある。信仰の世界のすばらしさがある。すなわち神の国の世界である。現実のことを見ても、自分が生きていくのに精いっぱいという人が、人を信仰に導いていったりするようなもの。必ずしもこの世の力がものをいうのではなく、神がともにいてくださるかどうか、というのは肝心なところである。
 ユダは奴隷であり、敗戦国であり、当時の世界に影響を与えていく力などなかった。しかし、エゼキエルは預言する。神がユダを用いられるとき、世界の人に貢献し、豊かにしていく基(もとい)になるのだと。エルサレムが世界を富(と)ませていく基になるのだと。本当に神に仕え、神に聞き、礼拝を守るなら、必ず世界に影響を与え、遺産を残していくことができるのだ、と。
 この預言(神の啓示)は、今聖書となって、世界の果てまでも神を伝えることとなっているのである。神殿から流れ出る信仰の遺産の川は枯れることなく、人を潤し、木々を茂らせ、その葉は枯れず、その実は絶えず、いつも新たに実る。食用となり、薬となって人を豊かにし、絶えることがないのである。


ヨハネ5・1-16


八十歳のおじいちゃんのお見舞いに行ったことがあります。彼は五年間の寝たきりの方です。寝たきりで毎日を過ごすことは大変な苦痛だろうと思いました。イエスが出会った人も病気になってから三十八年間と書き記されています。気の遠くなるような年月です。 
彼を治したイエスを、イスラエル人の指導者はどうして批判しているのか、どうして治った病人と共に喜べないのかとつくづく思います。(ステファニ)
イエスが奇跡を行っても、それが必ずしも信仰をもたらさず、つまづきのしるしとなることがあります。治された病人にとっても、奇跡は信仰ではなく、もっと悪いこと、罪を犯すきっかけになりました。二度目にイエスに会った時、ユダヤ人にイエスを訴えた(5・15)と書いてあります。
いやされるのは当然だなどと思わないかぎり、訴えたりするでしょうか。この人の行動のうちに、イスラエルの民と私達の忘恩の歴史が描かれています。本当の奇跡は、受けた恵みを悟り、感謝することにあります。(荒)
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三十八年間の長い間毎日同じところ(ベテスダの池)に来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれて、神の力を見ていこうとせず、また神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちはせっかく「恵みの家」(ベテスダの意味ですが)に来ておりながら(毎日)そこで自分は恵みにあずかりたい、恵みにあずかるのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。(榎本)
三十八年間病に苦しんだ人が自由になった姿を見ても律法のことしか考えられないユダヤ人。「あなたは良くなったのだ」とイエスに言われてもその偉大な業、神の愛に気がつかない人。それら姿は時に、今を生きる私達とだぶります。神からの「いやし」は私達のすぐそばにあるのかもしれません。それが自分の律法で見えなくなったり、鈍感な心で感じられないのかもしれません。主よ、私に何ものにも縛られない自由な心、あなたの愛を感じることのできる素直な心をお与えください。


四旬節 第四水曜日
ヨハネ5・17-30 

私は、子どものころ、父親から用事を言いつけられたことが良くあります。私のこどものころ、私の町では、まだまだ電話が普及していませんでしたから、たとえば親戚の家などに届け物がある時などは、その家に行ったら、こう言って、これを渡すように。風呂敷は持って帰ってくるようになどと、言い含められたものです。たいてい、風呂敷を返してもらう時にはお駄賃(だちん)をもらったりしましたので、こういう用事は喜んでしました。時には、行ったきり、その家にあがりこんで、将棋で遊んで、なかなか家に帰らなかったので、兄が迎えに来るというようなこともありました。時には、父は私にお金を扱う仕事も任せてくれたことがあります。もっとも、わが家には使用人などいないので、家族の中で一番暇な私が使い走りをしたのでしょうが、父は、自分の子だから、安心して任せることもできたのでしょう。また、親戚や近所の人々も、私が父の子であるから、私の言うことを信用してくれたのだと思います。たとえ小さい子どもであっても、私が父の子であるというのは、大きな意味を持っていて、その時の私は、父を代表しており、人々は、私のことばではなく、私の口を通して、私から父のことばを聞いて、その言葉どおりにしてくれたのです。
 神は、さまざまな人をご自分のしもべとしてお用いになりましたが、イエスは、そのような人々のひとりではありません。子が父を表わすように、イエスは神の存在とご性質をそのまま反映しておられます。父と子がひとつであるように、神とイエスはひとつです。イエスの語られることは神が語っておられることであり、イエスのなさっておられることは、神がしておられることなのです。
 ユダヤの指導者たちは、このイエスの言葉に、激しい怒りを覚え、イエスを迫害しました。それは、彼らが「神はただおひとりである。神以外の何ものも神としてはならない。」という教えに忠実であったから、イエスがご自分を神と等しくすることを許せなかったからだけではありません。彼らがイエスを斥けたのは、実は、彼らがほんとうには神も、神のことばをも敬っていなかったからです。彼らにとっては、神よりも自分たちの名誉が大切であり、神のことばよりも自分たちの作った規則が大切だったのです。イエスは「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」と言われました。彼らがイエスを斥けたのは、本当には神を敬い、神に従っていなかったからです。人が神になることは出来ませんが、神が人になることは不可能ではなく、それは旧約聖書にも預言されていました。彼らが、もし本当に神に聞いていたなら、神がイエスを通して語っておられることに耳を傾けることができたでしょう。
 私たちは、二千年前のユダヤの指導者たちと同じ失敗を繰り返さないように。

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旅に目的地がるように、人生にも目的地がある。それは神の裁きですが、四旬節には、自分は堂々巡りしているか、それとも迷子なっているか、チェックする時なのです。「未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります。」(『希望による救い』 2)

イエスが説明している裁きと、一般的に考えられている裁きと大分違います。つまり、イエスは裁判官のように裁判所で前に並んでいる人達に判決を言い渡すといったようなものではありません。裁きは自分の信仰によって決まるのです。一生涯神を無視した生き方をした人間は死ぬときに、神を無視し続けます。そして神を無視することは自分にとって一番不幸なことだったと悟ります。これは地獄です。一生を無駄にしたという思いは地獄です。地獄は、場所というよりも、こうした状態なのです。逆に、神を求める生き方をした人は、たとえ多くの失敗があったにしても、死ぬときに自然に一生を通じて求めたものの方へ行きます。これは天国です。死ぬ前にどういう方向に向かっていたかが永遠を決めるのです。イエスの判断が問題ではなくて、自分の生き方が問題です。人生の最期というのは、人生の中で最も大事な時期であり、そこで一番大事な仕事をしなければなりません。
イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われ、父とはどういう方か話されます。そして「わたしの意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と結ばれます。そこには御父の真の権威に裏打ちされた 御子の謙虚さと権威が感じとれます。今この時に働いておられる御父に、私達はどれほどの信頼をおいているでしょうか。誰も裁くことなく、命を与えてくださる御父の愛に支えられ生かされている私達。イエスのように御父への強い信頼を持ちながら,今日を生きることができますように。 
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たしかに、地上の一人の人間にすぎない者が、「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」というようなことを言ったら、それは狂気かサタン的な涜神でしょう。しかし、ヨハネ福音書のイエスには、復活されたイエスが重なっています。この福音書は復活されたイエスを父と一つである子として告知し、その方を神として拝むのです。ここで「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」と語っておられるのは、復活者イエス・キリストです。死者の中から復活された方として、イエス・キリストは「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)となっておられます(コリントI一五・四五)。パウロが告白したこの現実を、ヨハネは「子が命を与える(復活させる)」と表現するのです。

ユダヤ教では、律法を順守するユダヤ人はみな終わりの日の死者たちの復活にあずかるとされていました。それに対して、子であるイエスは「自分の望む者たちに」命を与える、すなわち復活させます。もはやユダヤ人である(ユダヤ教徒である)から復活にあずかるのではなく、子であるイエスが復活させるかさせないかを決めるのです。もはやモーセ律法を順守することは復活にあずかることの根拠ではなく、復活者イエス・キリストに属するかどうかがその根拠になります。その復活させるかどうかの決定が「裁き」という用語で次節に取り上げられます。

人はすべてやがて世界に臨む神の終末審判を受けて、永遠の死か永遠の命に定められると考えられていましたが、それに対してこの福音書は、そのような終末の審判を待つまでもなく、神から遣わされたイエスを信じてイエスの言葉を聞く者は、現在すでに死から命に移っているのだと宣言します。 そうすると、この死は人生を終わらせる死ではなく、現在人間が陥っている霊的状況としての死であることが分かります。この死と対立する命も、死後の命ではなく、現在生きている生まれながらの命とは別種の命を指すことになります。三章で「新しく生まれる」とか「上から生まれる」と言われていたことが、ここでは「死から命に移る」と表現されます。

ヨハネ福音書は、神の子であるイエスの言葉を聴いている者はすでに永遠の命を持っているという現在終末論の立場を基本にしながら、この箇所(二七~二九節)のような黙示思想的な終末待望を語る言葉も含んでいます。現形の福音書を生み出したヨハネ共同体の信仰の質を理解することです。この福音書は、なお黙示思想的終末待望を強く残している原始キリスト教の諸文書の中で、その終末待望をもっとも徹底的に現在化している特異な文書ですが、それでもなおユダヤ教会堂との論争の場にあって、ユダヤ教黙示思想独特のイメージと概念を用いて論争せざるをえなかったのだと理解できます。ヨハネ共同体は、このような黙示思想的用語も駆使してユダヤ教会堂と論争しつつ、自分たちは現在すでに復活者イエスにあって終末的な命を生きているのだという独自の現在終末論を、内外に証言するのです。

四旬節 第四木曜日
「私は父の名によって来ました」
ヨハネ5・31-47




聖書は、はっきりと、イエス聖書は、はっきりと、イエスを神の子、神としています。しかし、イエスを神の子と信じる信仰は、聖書の証拠を研究するだけで持つことができるものではありません。聖書を研究すると共に、自分の心をも研究しなければなりません。自分の中に、神に対する冷たい思いや高慢な思いがないだろうか、それが、神の真理を見ることを妨げていないだろうかと、反省し、素直に悔い改めることによって、イエスを神の子と信じる信仰が与えられるのです。もし、私たちが、自分勝手な生き方をしようとしているなら、イエスが神の子であり、私たちの人生の主であるということは、まことに都合の悪いことになってしまいます。私たちは、たいていの場合、それが、真理かどうかというよりも、それが自分にとって都合が良いか悪いかで、ものごとを信じたり、信じなかったりするものです。しかし、イエスが神の子であり、救い主であることが、私たちの人生のどんなに大きな祝福になるかを知って、その祝福を求めるなら、イエスが神の子であるというこれらの証しを心から受け入れ、それに応答することができるのです。
 (祈り)
 父なる神さま、私たちは、たとえ自分たちが十分に理解できないことでも、権威ある人々や専門家たちがそのことについて証言をすれば、簡単にそれを受け入れますのに、最も権威あるあなたの証言を、すべての知恵と知識を持っておられ、真実なあなたのあかしを受け入れようとはしません。私たちをそのような頑固なこころから解放し、あなたの証しに耳を傾けるものとしてください。イエスを神の子と信じることの喜びと感謝で満たしてください。神の御子イエスの御名で祈ります。
The flower does not bear the root,
but the root the flower.
The rose is merely the evidence
of the vitality of the root.
Woodrow Wilson ウッドロウ・ウィルソン  (1902-1910 US President) 
花は根っ子に証ししている。ねっこなしには花もない。この論理で考えると、今日の第一朗読で民は花だけ求めていた。モーセは一所懸命根っ子こそ大事だと民に悟らせます。
福音書ではイエス様はイスラエル人に根っ子について証ししています。荒れ野の先祖は大変苦労して信じるようになった。自分が先祖が信じていた根っ子から来たのにあなた達は認めないのはどういうわけか。やはり、あなた達も頭のかたい先祖のように花ばかり求めて根っ子を認めようとはしない。
私達ももしかすると表面的にしか考えていないかもしれません。私たちは読んでいる聖書、与っている典礼の根っ子を認めていないかもしれない。聖書は、典礼は証ししている現実を受け入れていないかもしれないというふうに考えさせられます。
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自分で自分がキリストである、神の御子である、あるいは神であることを証言しても、それは証拠にならないということです。それはその通りです。本当ならば、神さまがご自分のことを証拠を挙げて説明するというのは、おかしなことです。神さまは神さまであって、なにもへりくだって人間にそのように証拠を示す必要などないはずです。信じないならば滅ぼしてしまう、ということもおできになるはずです。しかし私たち人間を、あくまでも救うため残られたイエスさまは、へりくだって丁寧に説明なさるのです。
イエスさまは4つの証拠をあげて説明されます。
1.まず最初は、「洗礼者ヨハネ」を証人としてあげられるのです。
2.次にイエスさまの行っている業が証ししている。
 イエスさまがなさっておられる業、働き。それは、このお話のきっかけとなったベトザダの池での癒しの奇跡を見ても分かることです。そして4つの福音書に記されているすべての業が、イエスさまが神の御子であることを証言しているということです。そこには奇跡が現れ、またそれが単なる奇跡というだけではなく、一人一人の弱い者を顧みる神の愛が現れているのです。
3.第3番目に、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」ということです。すなわち天の父なる神さまが、イエスさまが御子であることを証しして下さるというのです。
4.そして第4番目に、「聖書」がイエスさまのことを証言しているということです。
人間は、他のことは証拠をあげれば信じても、神さまについてはなかなか信じようとしない傾向があります。その原因は、聖書によれば、旧約聖書の創世記の失楽園の物語があらわしているように、人間の罪、人間の高慢に由来するものです。
 私たちは神さまの造られた世界の中に生きています。にもかかわらず、なかなかそれを認めない。神さまなどいない、と思っている人が多い。「神さまが存在する証拠はあるのか?」と言うことでしょう。
この世の人々が神さまを認めるように、聖霊の働きを求めて祈り続けましょう。
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イエスさまは、人間からの誉れを受けようとおもって働きをなさっているのではなく、ただ天の父なる神さまからの誉れを求めて働いておられるのです。そして「あなたがた」と言われているユダヤ教の宗教家たちは、反対に、神からの誉れを求めないで人間からの誉れを受けようと思って信仰している。‥‥そういうことをおっしゃっているのです。

 自分自身の名によって来る人は、この世に受け入れられやすいのです。自分の名誉、栄光を求める人をコントロールしやすいのは、この世の誉れで釣ることができるからです。しかもこの世の栄光は、持ちつ持たれつの関係にあるものです。お互いが「先生」「先生」と呼び合って、栄光を与え合い、受け合っているのです。ですから有名な人のところに人が集まるのは、集まった人々も、有名な人を知っているということで、誉れを受けるからです。
 しかし神の名によって来る人は、この世では受け入れられません。この世の価値の規準に従うのではなく、永遠の価値規準で行動するからです。この世の人からしたらコントロールしにくい、あつかいにくい相手なのです。この世の栄光を与えて、自分の味方に取りこむこともできません。むしろ世の誉れに、永遠の栄誉をつきつけて、私たちをこそ、ご自分のほうに取りこもうとするからです。私たちの立場をゆるがし、私たちにこそ改心を迫るからです。(静)
モーセが神をなだめてイスラエル人のためにとりなした(第一朗読)ように、キリストも全人類のために御父にとりなしておられる。私達は常に働いておられる神、今も注がれている神の愛を感じているでしょうか。どの程度信じているでしょうか。今私が頼りにしている「若い雄牛」の偶像、ないしは律法は、真の命を生きるためのものでしょうか。御父の大きな愛、ご自分を無にし私達のために働いてくださる御子の愛、そして聖霊の力によって生かされていることを心にとめ、今日を生きることができますように。

四旬節 第四金曜日
「あなたがたはその方を知らない」
ョハネ7・40-53


 
 「弱い者いじめ」とか、「弱肉強食」ということばがあります。強いものは弱い者をいじめ、食い物にするという現実をかたっています。この世の論理。今日の第一朗読は、神を信じる者は弱い立場に置かれ、いじめられやすい存在となると語っています
信仰者は試される、今日のテーマはこれですね。キリストでさえ、神のひとり子でありながら試された、いじめられました、馬鹿にされた。誘惑を受けた。四旬節の第一日曜日の福音書テーマですね。信仰者も、信仰者であるが故に侮辱されたり、いじめをうけたり、冷たい目でみられたり、誤解されたり、指さされる。キリストの弟子となるために、キリストの力を受けるために、試練を恐れない必要がある。むしろ、立ち向かう姿勢が必要。
「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。とパウロはいっています。邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。」霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい、どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よくお乗り続けなさい。」(エフェソ6、10ー18)
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何と鋭い、何ときつい言葉でしょう。それでも、聖書の専門家(神の専門家)、いっしょにいたユダヤ人の民衆に、投げつけられた言葉です。世界中の民族の中で、自分たちユダヤ人こそ本物の、真実な神を知っていると思っていたのですから、そのショックの大きさは想像できるでしょう。この言葉に反発するか、あるいは胸を打ってへりくだるか、または無視するかによって、人は自分自身を裁くのです。
 そういう意味では、聖書学者も神学者む、まだ一度も学んだことのない人も、すべての人が皆平等な生徒になって、神のことを学ぶ必要があるのでしょう。(静)
イエスについての話しは一般論から個人的なレベルにおりてきたとき、面白いことに皆同じイエスの話を聞いたのに、それに対しての判断はそれぞれ違います。個人の生活レベルによって、今までの体験、受けた教育、生活する環境によって、判断が大きく変わります。
信仰者は皆同じキリストを信じていると思っているが、中身を掘り下げてみると、案外かなりの違いがあることに気が付きます。たとえば、ある者は心の平和を得るための信仰だと思ったり、ある者は社会問題に取り組むための信仰と理解したりします。信仰理解についてもっと一緒に考えてみる必要があるかもしれない。(ステファニ)

四旬節 第四土曜日
「今まで、あの人のように話した人はいません」
ヨハネ7・40-5


 「今まで、あの人のように話した人はいません」とは、何という立派な信仰告白なのです。 たちは、イエス様をつかまえるために遣わされたのに、その話にすっかり感心して帰ってきたのです。このような人は、今まで見たことはない、と宣言しているのです。ここに神様の皮肉、ユーモアを見ることが出来ます。
 同時にこの言葉は、彼らを遣わした祭司長たちやパリサイ派の人に対する、痛烈な批判を含んでいます。下役たちは今まで、宗教家たちに仕えてきた人間です。たくさんの立派な説教を聞いたでしょう。耳にたこができるくらいありがたい話を聞いてきたはずです。もう、あきあきしていたのかもしれないのです。いやだからこそ、今まで自分たちが会ったどんな「先生」よりも、すばらしい語り手であるイエス様を知ったのでしょう。
 パリサイ派の人たちは、自分たちの話が下手くそだと言われて腹を立て、「お前たちも、まどわされたのか」とバカにし、有力な人はだれも信じていないぞ、と集団の力の論理をおしつけて、下役たち個人の素直な判断を殺そうとするのです。
 しかし彼らが軽蔑していた群衆のほうが、イエス様のことを「預言者」とか「キリスト」とかとらえていたのです。祭司長たちもパリサイ派の人たちも、自らを心から恥じる必要があります。自分の愚かさを恥じるところから、救いが始まるからです。(静)

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