使徒言行録 16章25−40節 フィリピの牢獄からの脱出

使徒言行録 16章25−40節 フィリピの牢獄からの脱出

突然、大きな地震が起こったと『使徒言行録』は伝えます。パウロ自身は『テサロニケの信徒への手紙1』2章2節などでもこの時のフィリピでの迫害については語りますが、大地震について語っていませんから、これは著者ルカが他の伝承を採用したか、あるいは「捕らわれ人が解放される」という神による救いと解放の象徴的な出来事として記したかのどちらかだろうと思われます。

「牢」は、この世の法による裁きと刑罰の象徴ですし、この世の仕組みを支えるものですが、「牢の土台が揺れ動いた」(26節)というのは、あたかもこの世の仕組みの堅固な姿に思える「牢の土台」だえも、確かなものではなく、神の御心と導きの前では何の意味もないということです。そして、それは、この牢の責任を負っていた看守の身にも起こったことと言えるでしょう。

牢の看守は、脱獄などが起こると、その責任を問われ死罪を免れません。一瞬にして彼の人生は崩れてしまいます。彼はローマ帝国の看守としての自己意識も責任感も強かったのでしょう。彼だけでなく彼の家族もすべてを失うことになり、汚名を着せられるよりも自ら死を選ぼうとします。すべてを失い、汚名を着せられて生きなければならない時、誇り高い人であればあるほど自ら死を選ぼうとします。彼は、ほかの看守に「明かりを持って来させる」(29節)ほどの人でしたから、おそらく、看守の中でも上役だったかもしれません。部下の責任を自らが負うという気概もあったかもしれません。彼の人生の土台は一瞬にして崩れ去ったのです。

しかし、牢が壊れても直ちに逃げ出さないでその場に留まっていたパウロは、この看守の自殺を止めます。彼は、パウロとシラスが投獄されて死を前にしても静かに賛美と祈りをしていた姿を見ていたのかもしれません。すべてを失う中でも祈りをする、そういう姿が、今、一切のものを失おうとする自分とは異なっていることを心底から(「震えながら」29節)知っていくのです。だから、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と切実に尋ねます。牢が壊れても逃げなかったパウロたちに対する大きな信頼も起こったかもしれません。

牢が壊れても囚人たちが逃げ出さなければ彼の責任が問われることはないでしょう。すべてを一瞬にして失うこともないでしょう。力と権力を行使して再び囚人たちを押込めることもできたかもしれません。しかし、彼はそうせず、そんなものが砂上の楼閣に過ぎないことを悟り、囚人であったパウロとシラスに「真実の救い」を尋ねるのです。ここに、この人とその家族が先にキリスト者となった紫布の証人リデアと共にフィリピの教会を形成して行った源流があると言ってもいいかもしれません。

 20世紀になっても、アウシュビッツで殺されたコルベ神父やルーテル教会の牧師であり神学者であったD.ボンヘッファーがナチス・ドイツの手によって処刑された時も、彼らの深い祈りの姿に廻りの人々が深く心を動かされたことが伝えられています。夙川教会で働いた
ブスケ神父は、戦時下に大阪憲兵隊に連行され「天皇かキリストか」と迫られた。


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