使徒言行録 18章1−11節 コリントでの働き

使徒言行録 18章1−11節 コリントでの働き

 パウロはアテネを去ってコリントへ向かいました。前にも少し記しましたが、パウロはアテネでの活動は失敗に終わったと考えていたようで、『コリントの信徒への手紙1』2章3節で、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と述べています。アテネでは、哲学的論議に長けた人々(エピクロス派やストア派の名前が『使徒言行録』17章18節であげられていますし、アレオパゴスでの説教の部分(17章28節)には二人の古代ギリシャの詩人、クレタ島のエピメニデス(紀元前6世紀ごろ)とストア派の詩人アラートス(紀元前3世紀)の言葉が引用されています。もちろんアレオパゴスの説教の内容は著者ルカによるものですが、パウロの活動がアテネでは受け入れられなかったことは事実でしょう)に対して、一般的な事柄から真実の神の姿を伝えようとしましたが、成果が上がらずに、話の途中で人々が中座するという屈辱などを味わい、相当な疲労感を覚えていたようです。

 だから、コリントでは、もうそのような方法はとらずに、「わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵をもちいませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(コリントの信徒への手紙1 2章1−2節)とありますように、ただキリストに集中することを堅く決心していたと思われます。「十字架につけられたキリスト」というのは、罪のゆるしと人間の救いという意味です。
福音宣教には、例えば大学でレベルの高い学問を扱うことも含まれるし、街に住む人々に証をすることも含まれる。

 パウロはコリントで、コリントのユダヤ人に対して語ったのが「メシア(救い主・キリスト)はイエスである」ということだったと5節で述べられていますが、「人々が待望していたメシアはイエスである」というのは、キリスト教の最も古い信仰告白のひとつでした。

 しかし、コリントのユダヤ人たちも、改宗以前のパウロと同様、自分たちが待望していたメシアが十字架にかけられて殺されたイエスだという考えを受け入れることはできませんでした。自分たちを救う者はそのようなものではないし、そのイエスを十字架につけたのはユダヤ人でしたので、それを認めることはメシア殺しの大罪を認めることでもありましたので、彼らは憤って、パウロを罵ったのです。

 そのことに対して、パウロは「服の塵を払った」のですが、これは、もはや無関係であるということを宣言するための行為です。6節の「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ」というのは、自らの罪の責任を自らで負え、という意味で、ユダヤ人とは決別して異邦人の方へと活動の転換を宣言したと述べられています。


こうして、ユダヤ教の会堂では人々に口汚く罵られたりしましたが、これらの人々を中心にしてコリントでは異邦人を主流にした「家の教会」が設立されました。コリントの教会の始まりです。8節の「コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」というのは、そうした事情を反映したものだろうと思われます。

そのことについて、さらに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」というパウロへの主の語りかけの言葉として『使徒言行録』は記します。この言葉は、おそらく、初代の教会の人々を励ます神の言葉として人々の間で語り続けられた言葉でもあったでしょう。パウロはコリントに一年六カ月もの間滞在し続けました。そして、この時に、新約聖書の最古の文書となった『テサロニケの信徒への手紙』を書きました。おそらく、50−51年ごろだったと思われます。


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