使徒言行録 8章26〜40

今日の第一朗読で注目すべきことは、このエピソードの主人公は誰であるのか、ということであります。ここにはフィリポ、エチオピアの宦官、名前だけなら女王カンダケ、なども出てきますが、フィリポと宦官の対話にのみ注目してしまうと思います。しかし、結論から言いますならば、この箇所は徹頭徹尾、神の見えない力によって導かれていると言える。事の発端は「主の天使はフィリポに言葉を掛けた」ことから始まっておりまして、29節で「“主の霊”」が語り掛けたのも、また偶然にもフィリポが追いかけることの出来る程度の速さで馬車が動いていたのも、宦官が声に出してイザヤ書を「朗読」していたことも、道を進んで行くうちに、水のあるところに来たことも、それは主によって準備が整えられていることを示しているのです。また洗礼を授けたフィリポが、主の霊によって連れ去ってしまうことも、このエピソードの主人公が、主であることを示しているのです。洗礼に導いたフィリポという人間の力に注目してしまうことの多い私たちですが、しかしその後すぐにフィリポは宦官との関係を絶たれてしまいます。それは決して残念なことでもなく、むしろ洗礼によってそれを受けた者は、人間同士の関係の中にではなく、神との関係性の中で生きるという事を表しているのではないでしょうか。 
 つまり私たちは、人生を歩む中で、また信仰を貫く中で、様々な障壁や障害、課題や問題に突き当たります。それはエチオピアの宦官が異邦人であることや、律法では去勢者が認められていなかったという事に示されているとおり、自分ではどうすることも出来ない外面的な障壁、束縛、人生の呪縛を抱えるのです。それは自分ではどうすることも出来ず、ただ密かに神に自らをゆだねるだけです。この宦官がたった一人でイザヤ書を読んでいたのは、このような悶々とした思いの中での神への問い掛けだったのかもしれません。
 そうであるならば、今日の箇所は全き恵みとなって私たちに答えます。それは「あなたの障壁は、キリストによって取り払われた」という救いです。人間の力を遥かに超えたところに存在する、神の力と導きが、私たちを取り囲んでいる。このことを信じて生きることき、全ての障害が、また恵みとなり、全ての困難が、主の導きへの礎となるのであります。このことを心に留めて、今日も主に導かれて歩んで生きましょう。

そこにエルサレム巡礼を終えて、国に帰るエチオピアの高官が通りかかった。彼はイザヤ書を読んでいたが、その内容がわからずにいた。聖書は解き明かしを必要とする書だ。だから、共に読むことを必要とする。
高い身分の人で謙虚に教えを乞い願う。知ったかぶりをしない。
エマオのように フィリポはキリストのようにきえる。
・彼が朗読していたのはイザヤ53章「主の僕」の記事だった。ピリポはその主の僕こそ、十字架に死なれたイエスであることを解き明かし、高官はそれを信じ、その場でバブテスマを受けた。
・何故、このエチオピア人はピリポの説明でこんなにも簡単に信じたのだろうか。彼は宦官であり、ユダヤ教では会衆からは除外されていた(申命記23:2)。その除外に対して「宦官もまた神の愛の中にある」と述べたのはイザヤであった(イザヤ書56:3-5)。だから彼はイザヤ書を熱心に読み、イザヤが指し示す預言者がキリストであることを知り、キリストを救い主として受けいれた。彼は熱心に求めたゆえに与えられたのだ。


iPhoneから送信

No comments:

Post a Comment