December 17 - 24

待降節の前半から後半へ

待降節は12月17日から後半に入ります。この日から24日にいたる週日は降誕前の八日間として、いっそう直接にキリストの誕生の準備に当てられます(『典礼暦年と典礼暦に関する一般原則』42参照)。福音を中心とした聖書朗読は降誕祭が目前に迫っていることを感じさせる内容となり、司祭が唱える叙唱も主の降誕に直接結びつく出来事を述べるようになります。また、アレルヤ唱の旋律も変わり、待降節の前半から後半に入ったことがはっきりと分かります。
 
12月17日
マタイ1・1-17

イエスは、当時、偉大な人物として評判の“時の人”だっただけではありません。世の初めから神のうちにあり、救いの計画の中に預言されてきた方です。連綿とつながっている系図の中には、立派な人ばかりではなく、不名誉な人の名も記されています。すべての人の救い主となるために、何も包み隠すことなく、人間の弱さの中に入って来られたのです。人となってくださったイエスよ、あなたのうちに神の限りない愛を悟らせてください。sese04
主イエス、私たちの罪の只中に来て下さったことを心から感謝します。今日もあなたの救いの業を喜んでほめ歌います。sese05
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系図は、イエスがダビデの子孫であることを証明しようとしています。淡々と語られていく祖先の名を通して、あるいはタマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻ベトサベなどの女性の名を通して、神が私たちとともにいてくださる(イザヤ7・14)、ドロドロとした歴史を通った、罪びとと連帯していることが伝わってきます。(荒)
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「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」‥‥実はここに全新約聖書のテーマがあります。「主なる神様が、アブラハムと結んだ契約をダビデが受け継いだ。そして、それがさらにイエス・キリストへと至った」、ということになります。 つまりこれは、未解決のままいったん閉じられた旧約聖書の扉が、開かれた、ということなのです。そのむかし、アブラハムと主が交わした契約、ダビデにされた約束、それが尻切れトンボのままわけが分からなくなってしまったのではないということです。‥‥私たちに当てはめて言えば、どうしたら救われるのか、私たちはどこに向かっているのか、それが不透明なまま終わってしまっているのではない。
聖書を探偵小説に例えると、犯人はみつからないまま終わるのではない。
 今、ここについにその答えを与えるページが開かれたのです。イエス・キリストというお方、ここにいたって解決を見るというのです。それが1章1節の意味するところです。ここに救いがあります。マタイは、旧約聖書の続編をここに書いているのです。(ちなみに、「旧約聖書続編」と名の付いたものが出回っていますが、正しく言えばそれは「続編」ではありません。新約聖書が本当の続編です。
)‥‥神さまが一度約束されたことは、決してうやむやになったのではなかった。イエス・キリストにおい て果たされたというのです。
 私たちは、この世のはかない命を、先行き不透明なまま滅びに向かって歩んでいるのではないのです。救いの扉が開かれたのです。イエス・キリストによって成就した神の約束の中を歩むことができるのです。
 その約束のしるしが、十字架です。キリストの血潮による平和と永遠の命。アドベントはこのことを私たちに向かって約束してくれているのです。


12月18日
マタイ1・18-24

ヨセフは、マリアとの結婚を待っていた婚約中に、主の天使から、マリアが聖霊によって受胎していることを告げられます。そこで、身を引こうとしますが、命名権をもつ父としての使命を与えられます。思いがけない出来事に直面し、世間の評判も神に委ねて、全人類の救いにかかわる大きな任務を
引き受けたのです。ヨセフのように、心を開いて、神の招きに応える力と助けをいただくことができますように。sese04
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「信仰」というものを考える時に、たぶんにそういう人間の目から見たら、確実には思えないことを受け入れるという面があるのは事実です。
 もし神の言葉が受け入れやすいものであったなら、信仰というものはいらないのです。たとえば、「神さまを拝むには、1年に1回初もうでをすればよい」というならば簡単なことです。何の抵抗もなく、世の人々は受け入れるでしょう。しかし、主の天使はヨセフに、簡単には受け入れがたいことを言われました。
 そこで、その天使の言葉が、本当に主なる神様の言葉であるかどうかが、いったいどうやって分かったのか、ということになるのです。 これが神の言葉であるのかどうか、ヨセフはいったいどうやって判断したのでしょうか。
 そのことについてきょうの聖書の箇所には、次のように書かれているのです‥‥(22-23)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは、これらのことがイザヤ書に預言されていた「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という言葉の約束の成就だと信じ、その共におられる神にその後のすべてをゆだねてイエスさまを身ごもったマリアを迎えたのです。
 私たちも、インマヌエルの君、共におられる神であるイエスさまにゆだねて、その主イエスにすがりながら歩んでまいりたいと願います。そこにあかしがうまれます。

12月19日
ルカ1・5-25

神の前で正しい人はすんなりと道を進むことができると、思いがちですが、エリサベトとザカリアの例を見ると様々な心配がありました。
われわれが神を信じることは気がかりがなくなることではありません。日々の心痛(しんつう)の中から、神のみ旨を見出し、従うことでしょう。
主よ、困難な状況の中で示されるあなたのみ心を悟り、行なう力をお与えください。sese05
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ザカリヤは信じられなかった。それに対して、天使は、今までお前が祈り願ってきたことが実現するというのに、どうして神の言葉を信じなかったといって、ザカリヤを叱り、そのために「お前は口が利けなくなる」と言われるのです。そうしたことを背景にして、マリアに対する受胎告知、御子イエスの誕生の告知が語られているのです。ザカリヤの不信仰に対して、マリアの信仰が対比されているのです。
神を信じるということはどういうことでしょうか。それはマリアに天使がいわれましたように、「神にできないことは何ひとつない」という事を信じることです。ザカリアはこの時、その信仰をもてなかったということです。ザカリアは子供が与えられるようにと祈っていたのです。しかし子が与えられなかった。そしてとうとうもう年をとってしまった。もうその時、ザカリアは、「ああ、神にもやはりできないことがあるのだ」という心境になっていたのではないでしょうか。「やはり」というのは、われわれ人間と同じように、「やはり」ということです。「やはり、神様にもできないことがあるのだ」、これはもはや神を信じていないということです。神を自分たちと同じ人間のレベルに降ろしてしまっているということです。それが自分達に子が与えられると告げられた時に、そんなことは信じられません、というザカリアの言葉です。この時、ザカリアの信仰というものが暴露されてしまったのです。
 信仰とは、神にはできないことは何一つないということを信じることであります。しかし、われわれがそのことを、自分達の人間的な浅はかな思いで考えようとすると、自分達の利己的な、自己中心的な思いで、考えようとしますと、われわれの信仰は行き詰まってしまうのではないでしょうか。ザカリアがそうであったように、熱心な信仰もやがて諦めの境地になってしまうのではないでしょうか。われわれはすべてのことをあまりにも人間的な思いで、ある時には人間的な合理主義的な考えで、考えようとするから、処女降誕なんかばかばかしくて信じられるかということになるのではないか。復活なんて信じられるかということになるのではいか。神はわれわれの浅はかな思いよりも、もっと深くお考えになって、われわれの祈りに応えようとしているのかもしれないのに、その神の御心を知ろうしないで、神さまを乗り換えようとしていないか。神を信じなくなっていないか。
マリアは天使から「神にできないことは何一つない」と告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、ただちに告白しました、その信仰をこのクリスマスを待つ待降節にあたえられたいと思うのです。
Ekyamada1/luke1a.htm
私たちは、人間的な力に信頼をおくことがあります。その態度を改め、ゆるしを願いましょう。
 

12月20日
ルカ1・26-38

「恵まれた」とはどんな意味でしょうか。自然に恵まれたとか、環境に恵まれた、健康に恵まれたと言いますが、今日の福音を見ると、恵まれるとは主と共にいることです。今、主と共にいる、その恩恵を一層深く悟ることができますように。sese05
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私たちには、いつも恐れというものがあります。将来への不安、生活の不安、年老いていくことへの不安、死への不安。この恐れ、不安というものに、マリアもヨセフもけっして無縁ではなかった。そのことにほっとする思いもします。神様に信頼するということは、自分の計らい、計画を捨てることでもあります。しかしこれがなかなかできません。その代わりに、金、学歴、健康、保険、そして外国であれば銃、国レベルともなれば武力。そのようにいろいろなもので身を固めようとします。あるねずみは、いつも猫を恐れてびくびくして生活していました。そこで神様にお祈りしまして猫にしてもらいました。これで安心と思いきや、今度は犬にいつもほえられるようになりました。
そこで虎にしてもらいました。これで一安心と思いましたが、そうしたところ今度はハンターに狙われるようになりました。そこでやっぱり神様に頼んでねずみに戻してもらいました。 この話は何を言っているのでしょう。
 私たちはいつも金・地位を得ることによって、力を身につけ、大きくなっていくことによって安心を得ようとします。しかしそのようにしてもきりがない。むしろより大きな敵に狙われやすくなるのです。私たちにとって最大の武器は、そのようなことよりむしろ、小さいままであったとしても、神さまにしっかり信頼していく。そのことの大切さなのではないでしょうか。
 いつも主の僕であることを忘れずに、今のありのままの弱い自分であっても、それでもすべてを完全に支配している神様、私をそのようなものとしてここに置いてくださっている神様をすっかり最後まで信頼すること。そして恐れずに今の場を受け止め、そこでしっかり立って歩んでいく。そのことが大事です。
 人生にはいろんな荒波が襲います。時にもうだめ、「どうして」と思うことがあるでしょう。しかしマリアやヨセフが、そしてイエスさ
ま自身が最後には、神様に委ね、自分を明け渡した。そのことを思い起こし、また神様のみ前にしっかり立ちなおして歩んでいきましょう。神様にはできないことは何一つないのですから。


12月21日
ルカ1・39-45



現代社会の大きなテーマは、世代間格差とか世代間の連帯です。今の大人の世代は、国レベルで、大きな借金をつくって、今日生まれる赤ちゃんはすでに何百万円の借金をかかえることになるということとか。原子力発電で何百年も続くゴミをつくってしまって、次の世代はそれを背負わなければならないこと。今の世代は、石油など、資源を使い過ぎて次に世代は困るだろう、と言われているようなことです。 
これでは、アンバランスが出てきて平和な社会は生まれないでしょう。そのために、世代間の連帯が必要です。 
今日の福音書のマリアはまだ二十歳になっていないと言われています。エリザベトは、子供をうめない年齢で、60をこえているでしょう。世代の違うこの二人の女性の美しい出会い、助け合いは今の社会の問題に光を投げかけています。

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ダビデが「契約の箱」をエルサレムに運んだように(Iサムエル6・21、IIサムエル6.12)、マリアは新しい契約の箱となって、神の子を、「ユダの町」(恐らくエルサレムの西6KM離れたAin-Karim)の方へ運びます。「祝されよ」というエリサベトのあいさつは、イスラエルの母デボラ(士師5章)、ユディト(ユディト13・17-18、15・9-10)と同じように、勝利をもたらす女性への賛歌になっています。
ヨハネは胎内で、主の訪れのために喜び踊ります(ダビデが契約の箱の前で踊ったように。ヨハネはイスラエルを代表している)。契約の箱が三ヶ月間、オベド・エドムの家にとどまり、祝福をもたらしたように、マリアも三ヶ月間とどまり、恵みをもたらします。契約の箱が象徴的に示していた「神の現存」は、明白に、イエスご自身の存在によって示されるのです。(荒)
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人を受け入れるエリサベトの態度は素晴らしいものです。彼女の胎内の子が、最も敏感にマリアの挨拶の声に救い主の来訪を感じ取り、その動きに促されて、エリザベトはマリアとその子イエスへの賛美を声高らかに口にします。われわれも出会う人々のうちにキリストの来訪の声を聴き、受け入れていくことができますように。sese05
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私たちは生きている間、たくさんの人々と出会います。利己的な出会いの場合は長続きしませんが、喜びや悲しみ、労苦と楽しみを共有する出会いなら、深く心に残ります。マリアとエリサベトの出会い、それは、互いに力と勇気を与える美しい出会いではなかったでしょうか。その出会いの中に、あらゆる難しさを越えるための慰めと励ましがあったことでしょう。今日もそのような出会いに気づかせていただけますように‥‥。
sese04
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マリアも、エリザベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方である」。その点でキリスト信者の模範になる方です。
私たちはどれほど主のおっしゃることは実現すると信じたものでしょうか。主のおっしゃること、つまり聖書に書かれていることがらを私たちはどれほど信じるものになっているでしょう。いまだ単に、良いことを記した書物ととらえているだけで、それを生活の中心においていない、肉となっていない、と言うことがたくさんあるのではないでしょうか。
 物理学の用語で、「応力」という言葉があります。応じる力と書きます。その意味は簡単に言えばこう言うことです。
 皆さんの座っている椅子。1人で座っているのもあれば、3人座っているのもあります。当たり前のようですが、これは不思議なことです。 一人が座っているとき、椅子はちょうどその1人を支えてびくともしません。なぜでしょう。実は50kgの重さが椅子にかかったとき、椅子の方からもまったく同じ50kgの、1人を支える力が下から上に出ているのです。だからこそ椅子はつぶれることもなく、また人を飛び跳ねさせることもなく、ちょうどぴったり支えることができるのです。
 2人が座ります。やはり同じです。100kg人が座って重荷がかかった時、椅子の方からもまったく同じ100kgの、2人を支える力が出ているのです。今度は3人が座ります。すると今度は椅子からは150kgもの、3人を支える力が出てくる。
 どれくらいの重さが椅子にかかっているか、それがその人の信仰の度合い。この椅子の人間を支える力が、神様から発せられる力。そう捉えたらどうでしょう。椅子はとても頑丈で、300kgの力が掛かってもつぶれることはありません。なのにほとんどの人は、その椅子に、中腰で、恐る恐る、そっと座っているだけです。自分の足に頼って支えようとして、腰からすっかり、じっくり自分の全体重をかけて座ろうとしていません。そのために人はいつもふらふらしているし、また椅子の方も、力を出しきらずに置かれているだけ。そんなことがあるのではないでしょうか。
 私たちはこの椅子にどれだけ腰を据えて座っているでしょうか。自分の足を頼りにし、椅子に深々と座ろうとしないうちは、けっして椅子が本当の力を発揮することはないのです。しかもこのように信じると言うこと、それは本当は簡単なことなのです。自分の足を頼りにすることをやめて、自分で何とかしようとすることをやめ、心配することを忘れ、恐れを捨て、すっかり神に任せ、深々と座ってみたらどうでしょうか。それが主がおっしゃることは必ず実現すると信じるものの姿です。すべて重荷を置いて、椅子に座りなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。


12月22日
ルカ1・46-56

誰でも自分が身分の低い者として扱われることを厭うでしょう。自分をそのような者と認めることは、難しいことです。しかし神の中で喜ぶためには自分の低さ、弱さ、限界をよく知る必要があります。自分の弱さの中で神の働きに委ねることができますように。sese05
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このマリアの賛歌をよく味わってみると、マリアがどんな信仰をもっていたか、知ることができます。私たちが幸せだと感じるのは、だれかが自分を愛してくれているとわかった時です。だれかが自分を認めてくれたときのうれしい経験もあるでしょう。しかし、もっと幸せなのは、他の人を愛するとき、認めるときです。
マリアは幸せな思いでしたが、神もまた、喜ばれたでしょう。神の喜びとなるマリアのような信仰を与えてくださいますように‥‥。sese04
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マリアと心をあわせて、神の恵みを賛美しましょう。高ぶるものがしりぞけられ、神のみをたよりにする貧しい人々が選ばれます。その選びも、恵みをすべての人々にもたらすためです。恵みそのものであるキリストを宿したマリアが幸いなのは、その恵みをすべての人に与えようとされるからです。(荒)
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イギリスの貴族院の一人であるロングフォード(Longford)侯爵の語ったことですが、ある人は謙遜について本を書きました。そして、「謙遜について最もよい書物はどれですか」と聞かれて、「じつは自分が書いた本がベストだ」と答えたそうです。おかしな話ですね。自分の謙遜について自慢するのは矛盾ですよね。さて、今日の福音書の中でマリアは、「身分の低い、このはしため(は)、いつの世の人も幸いな者と言うでしょう」と言っています。マリアも自分の身分の低さについて自慢しているでしょうか。そうでなければ、違いはどこにあるのでしょうか。マリアは、神に対する身分の低さを言っています。「主が目を留めて下さった」。神に目を向けて初めて謙遜になれます。神を信じない人は本当の意味で謙遜になれません。
クリスマスの喜びを迎え入れるために謙遜でなければなりません。人の目ばかり気にしていて、人の評判ばかり考えては謙遜なれません。神の目を気にする必要があります。



12月23日
ルカ1・57-66

名前をザカリアと名付けるのはその時代の慣習ですが、エリサベトは頑固に「いいえ、名はヨハネになければなりません」と断りました。
神に従うためには、世の習慣に逆らわなければならない時があります。私たちにも、エリサベトのように神に従っていく勇気が与えられますように。sese05
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しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分
はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
 指揮者バーンシュタインは、一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言って技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。
 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんなカルト的な誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働いてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持ちましょう。
 そのような地道なヨハネとの再会を機に、イエス様は30年の隠れた生活から、世に出て、宣教活動を始めます。イエス様もそもそも人間になったときから謙そんな生き方を始めたのでしたが、それは十字架にまで降ることによって、さらに完全に示されていきます。
 私たちもまっさきにイエス様のみを指し示しましょう。イエス様よりも自分のことを先にすることのないように気をつけましょう。そしてイエス様のみを伝えることに専念し、自分については何も期待しないときにこそ、天の報いがあることを信じましょう。
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「教会の祈り」(聖務日課)の一番最初のことばがあります。「神よ、私の口を開いてください」、「私はあなたの賛美をささげます」。これは、「一日の初めに用いる」とあります。つまり、神を賛美するために、まず口を開いていただく必要があります。今日の福音書のザカリアは、「口が開き、神を賛美しはじめた」とつながります。ザカリアは年をとった祭司で、長年自分の任務を忠実にこなしてきた人です。けれども、神の訪れを受けたとき、それを信じなかったために、口が閉ざされた。順番に従って神殿でいけにえを捧げながらも、しかし、神の賛美をとなえることができなくなった。ザカリアは、おそらく長い人生の中でマンネリ化していたかもしれない。神のことを諦めていたかもしれない。そしてその諦めは馴染み深いものになっていたかもしれない。私たちもおなじかもしれない。長い信者生活の中で、神の訪れを受けて(例えば、「その人を許しなさい」)、信じなかったために、心から喜んで神を賛美することができなくなったことはあるのではないでしょうか。クリスマスを迎えて、喜びのうちに来られる救い主を賛美することができるために、やはり口を開いていただく必要があります。ザカリアのように、自分が受けた神の訪れに戻って、それを受け入れる、言われたとおりにすることによって口が開かれる。

12月24日
ルカ1・67-79

ザカリアの賛歌はとてもスケールの大きい、個人的なことはほとんど出てきていない、イスラエルの民、神様の大きな契約・救い、イスラエルの民を越えて世界に約束されている、そういう契約が前進しているということを歌っているのです。
 私たちは弱い者で、広い視野を持ちなさいといっても、なかなか持ちえない者であり、また一方に、身近なところを大事にする。自分の生活や家族の生活を大事にしていく。そのこと抜きに神様の救いの歴史に預かるということはないといっても良いでしょう。
 でも、自分一人の生活や自分の家族だけの生活ではない。足元の生活をしっかり見つめることによって、そこにクリスマスの出来事は新しい出来事を起こしてくださっている。2007年のクリスマス、私たちもよくよく身の回りを見ますときに、きっといずれかの形で、神様が救いの出来事を新たに起こしてくださる兆しが、私たちの生活の中にはあるはずです。
 クリスマスの出来事はステージや劇の上で向こうで行われていることを、こっちで眺める、そしてそれが済んだら、またもとの生活。クリスマスの出来事は、そういう出来事ではないのです。私たちを巻き込むんです。
 そして私たちの喜びに満ち溢れているとはいえない楽しいことばかりとはいえない、つらいことや、どうしていいかわからないこと、よくよく思いを寄せると本当にどうしたらよいかわからない、そのような只中に主が来たりたもうて、主の御力によって私たちの閉塞(へいそく)状況が変えられる。
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ザカリアは主の天使に、合理的(常識的)な質問をしました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」そして口が利けなくなりました。しかし子供の名前を付ける時、非合理的な答えで口が開きました。こうして今日の福音の預言をしています。神の道に従う時、非合理的な、理解できない、説明できない場合があります。
われわれもザカリアのように、自分の考えをはるかに超える神を知り、賛美することができますように。sese05
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ザカリアの預言の歌を聴くと、彼が神の協力者になったことがわかります。ルカ福音書の初めから、神は協力者を探しておられます。最初にザカリア、次にマリア、その次は、私かもしれません。
神は私たちに協力を求められます。私たちは皆、例外なく、神の協力者です。さて、私は、協力しているでしょうか?sese04
どういう事柄で協力するようによびかけられているでしょうか。

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