2 advent

待降節 第二月曜日
「人よ、あなたの罪はゆるされた」
ルカ5・17-26

中風を患った人は癒された。確かに体のいやしは必要であった。私たちは、命にかかわる病気にかかったら、必死になってできるだけのことをするだろう。費用が足りなければ、何とかして工夫するに違いない。また、私たちは人間関係を正しく保つためにも努力する。大きくは国際的な問題から小さくは家庭内の問題に至るまで、正常な状態を維持するためには大変た努力が払われている。しかし、人間にとってはそれらのこと以上に、神との関係を正しく持つことの方がはるかに重要である。この神との関係が正しい状態にないために、人々はそれを何とかして得ようと、昔からさまざまたことをしてきた。
 いろいろの宗教の話を聞くが、私は、キリスト教以外の宗教の話を聞くたびにいつも考えさせられることがある。それらの人々は真剣に努力しながら話をしているのであるが、彼らの姿勢は、結局一生涯が求道者のままで終ってしまうものなのである。それは、彼らの勧める道においては、「あなたの罪は赦された」という声が、いつまでたっても、どこからも聞えてこないからである。
私たちキリスト者は、この世界で、イエスから罪のゆるしのことばを与えられている。現在の我々の状態は、過去において自分がやってきたこと(罪)の結果である。例えば、毎日食べ過ぎる結果、病気を起こす。五十数年前に、東南アジア諸国を戦争に巻き込んだから、現在に至るまで不信がられることがある。過去のことは確かに重い、身動きをとれない気持ちになる場合もある。しかし、イエスのお陰でそれにこだわる必要はなくなるのです。罪の重荷から自由になれる。全く新鮮な再出発ができる。この自由を体験し、それを世界につげなければならないのはキリスト者の役割である。

待降節 第二火曜日
「迷い出た一匹を捜しに行く」
マタイ18・12-14

羊の乳は牛の乳と比べると四倍の栄養分があるそうです。つまり牛の乳でチーズを作る場合、羊の乳の四倍を使わないと同じ重さのチーズにならない、ということになる。多分そのために昔の人々は牛よりもたくさんの羊を飼っていたのかもしれない。しかも羊は小さいので小回りが聞くし、かわいくて、毛まで与えてくれます。やさしさの象徴としてよく使われている。このような「目に入れても痛くない」羊のイメージは、罪によって弱い立場におかれている人々に当てはめられている。(ステ)
 神のいつくしみは、失われた者を見つけたときの喜びに似ている。神の愛は、民と結んだ契約(約束)に忠実であるという面、すなわち、信頼するに足るかたであるという面と、心のやさしさという面をもっています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34:16-17)
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「11月(2013年)のフィリピンの台風のあと被災地で撮影された1枚の写真に衝撃を受けた。十字架を担(かつ)ぐ女性を中心に、幼児キリストの象その他をもった数人の人々は歩いている。破壊された教会から持ち出されたものなのか。その小さな行進の図は17世紀スペインかオランダの宗教画のようで、胸をしめつける。傷ついた土地で行政が機能しないとき、帰ってくるのは宗教的感情。フィリピンの人々のカトリック信仰の強さを思った。
 思い、また、考え込んだ。中途半端に世俗化され、どこか聖性を求めながらもそれに至る道を知らず、経済に代わる生活の原理をもたない自分のような心はいつ生まれたのか。たとえばカトリック教会が人の想像力をまるごと支配しているような社会=時代には、人々は何を考え生きていたのか」
(菅 啓次郎 明治大教授、読売新聞・2013年12月8日朝刊、10ページ)

世俗化、宗教離れ、無宗教はやはり一つの迷いであり、それとして今日の迷える羊に似ている。そこから考えると、今年もクリスマスは祝われる意味は何なのか。クリスマスは伝統行事、楽しい祭りだけではない。信仰的にみれば、主なる神が迷える羊を探しに来られる。もう一度。こういうことになるのではないかと思います。
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「広い道を通せ、谷はすべて身を起こし」
イザヤ40、1-11


車が走りやすいように、カーブを減らし、高速道路のようになるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
 それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。車は渋滞し、なかなか進みません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡って走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちにあこがれる生活)、谷は失望する時(鈍い心や貧しさを嘆く生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
 キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。ベルリンの壁が崩壊したときに、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。これはイザヤのような預言と言えるでしょう。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様、力を与えてください』と。
  クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。



待降節 第二水曜日
「疲れた人、出荷を負わされた人は皆、私のもとに来なさい。」
マタイ11・28-30

? 私たちは少なからず、この世の生活に疲れ果てています。複雑な人間関係、仕事、育児、家庭生活、社会生活などなど、身も心も疲れ果てます。そういう時、私たちはどこに安らぎを見いだすのでしょう。趣味、レジャー、パチンコ、競馬、酒、あるいは、もっともっと仕事に没頭する…。しかしおおむね、もっと疲れてしまうことが多いように思います。「私のもとに来なさい。私が休ませてあげる」とは何とすごい言葉なのでしょうか。けっして他の人間には、口にできない言葉です。疲れ果てて相談に行っても、お説教されたり、よく聞いてもらえなかったり、変に同情されたりで、よけい疲れることがあまりにも多いからです。
私たちが疲れきった時、自分の心を本当に分かってくれる人のそばで、ゆっくりくつろぐことで十分なのです。何も話さなくても、疲れきった自分を、ありのままに受け入れてもらえる時、疲れがいやされていくのを感じます。そしてゆっくり休んだら、「さあ、がんばろう」と、自分の重荷をかつぐ気力がわくのです。
私の重荷はだれかが背負ってくれるわけではなく、私が背負わなければならないからです。
私も人の重荷を背負うことはできないのです。その人の重荷は、その人がになわなければならないものであって、人は人の重荷を身代わりになってになうことはできないからです。しかしそれぞれ自分の重荷をになう者同士として、互いに思いやることこそ大切なのです。
信仰とは本来、疲れた人に安らぎを与え、またその重荷をになう力を与えるものです。
疲れた人をよけいに疲れさせるお説教をたれたり、高飛び車にしかりつけたり、よけいなお荷物を負わせてはいけないのだと思います。イエス様はご自分を、人のために完全に御父にささげました。だからこそ、ご自分のもとに来る人に安らぎを与えられるのです。本当に、その人をその人として受け入れてくださるからです。エゴイストこそ、他の人を疲れさせるからです。
私たちはいったい人を休ませているのでしょうか、あるいは疲れさせている方でしょうか。
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「重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい」
マタイ11・28-30
神の知恵イエスは、律法の重荷のかわりに安らぎを与え、神の愛のくびきを受けるようにと呼びかけます。愛のおきては難しいものではなく(Iヨハネ5・3)、イエスのため、人々のために、労苦、疲れを受けることを、かえって誇り、慰めとさせます(Iコリント15・10、Iテサロニケ2・9)。主が力づけてからである。
主は「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・29-31)
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疲れると頭の働きも鈍くなる。では、疲労が解消されないまま蓄積されると、どのような症状が出てくるでしょうか。
一般的に疲労というと、注意力が散漫となって、物事が考えられなくなり、うたたねをするような状態をいいます。
具体的に書いてみましょう。

・注意力の低下=間違いが多くなります。
・反応時間が遅くなる=頭がぼんやりして、反応が遅くなります。
・何かに執着する=頭が切り替えられなくなります。
・無関心=周囲のことに興味を示さなくなります。
・無気力=受身の状態で、自分からは何もしません。
・居眠り=起きているつもりでも瞬間的に寝ている時間があります。
・忘れやすい=ちょっとしたことが思い出せません。
・決断力の低下=漫然とした現状維持を続けてしまいます。
・会話の減少=話をするのがいやになります。

ひどく疲労している場合、本人は、これらの兆候を認識する能力が落ちてしまうため、疲れを自覚できなくなる、ということもあります。長時間仕事をして疲れてくると、眠くなったり、頭が痛くなったり、ミスが多くなったりします。

霊的に、この世のものに目を奪われやすくなる。世間の声に耳を奪われやすくなる。そんな私たちは、今日のイザヤ書の言葉、あるいは福音書の言葉「私に学びなさい」という力強い呼びかけの前に、もう一度信仰の姿勢をしっかり正すか、あるいは無視するか、今年のクリスマスもそういう選択に直面させられます。



? 待降節 第二木曜日
「洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」
マタイ11・11-15

? 洗礼者ヨハネに出会って、その話を聞いた人々はたくさんいましたが、ヨハネの一番伝えたかったことを理解した人はあまりいませんでした。それだけ人間の心はにぶいのです。歴史は神の計画にそって動いていますが人間は全体図が見えてきません。そのために私たちはあまり自分の見解に自信を持ち過ぎることなく、いつも神の光を受け入れるような姿勢でいた方が望ましいのです。要するに、神は歴史の出来事、日常生活の出来事を通して人間に語りかけていますが、多くの場合は人間はその出来事の面(おもて)だけで判断して、本当のメッセージが読めないのです。
「人間に対する神の語りかけは、われわれがみなそれぞれに営んでいる生活のうちにおける出来事、われわれを取りまく世界のうちにおける出来事(…)に浸透し、そしてそれらすべてを通して、あなたにそして私に対する呼びかけ、使命となる。(…)われわれはあまりにもしばしば想いこむ、そのような語りかけなどいささかも聞き取れはしない、と。だがしかし、われわれはすでに久しく耳を蝋(ろう)で封じているのだ」(M・ブーバー、『我と汝』)。世間では「空気を読めない」という言い方がありますが、神様のことに関しては、私たちはまさに「空気を読めない」状態にいます。イエスがヨハネのことを聖書の中で教えてくれたので、私たちはヨハネが最後の預言者だと分かりました。私たちの周囲に起こるたくさんの出来事をイエスの光に照らして識別しなければならないと思います。
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「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(12節) 天の国と言えば神の国のことです。全能の主なる神さまの国が、人間によって暴力的につぶされるはずがないではないか、と思います。神さまが支配しているところが天の国である、となると、「この世も、目には見えないが、神さまが支配しているのではないか?」と思われるかもしれません。もちろん、神さまがこの世界を支配し、治めておられるので、宇宙が法則に従って動き、存在し、地球も存在し、その中の命も保たれているわけです。主イエスは、雀一羽さえも、父なる神のお許しがなければ、地に落ちることはないとおっしゃいました。神さまは、雀一羽さえも、養い育ててくださるのです。 しかし人間はどうでしょう? もちろん人間も神さまに養われているわけです。雀と同じように、人間もまた神さまは愛し、養ってくださる。しかし人間のほうはそうは思っていない。?
毎日のようにテレビのニュースでは、人が殺されたことが報道されています。しかも変な事件が多いですから、先日のテレビのワイドショーで、あるゲストが、「神さまなんているのか、と思う」と言っていました。殺人事件はともかく、自分の理解できないことに出くわすと、神を非難し、神を否定するのです。聖書を通して神が語りかけているのに、そんなものを聞こうともしない。従おうとしない。?
神さまは、神の支配のもとで調和のとれた世界を用意したのに、人のほうが神を信じることをせず、自ら神の支配を離れていったと、聖書は説明しています。そういうわけで、神は確かにこの世の支配者であるのですが、人のほうがその支配から離れていったということです。神の支配から離れていった、神さまの支配を受けるのがイヤだといって去っていった。神を信じ、神に従って生きるところをやめてしまったのです。
さて、洗礼者ヨハネは、天の国の近づいたことを宣べ伝えました。ところが、そのヨハネは、領主ヘロデによって捕らえられ、牢獄に入れられ、処刑の日を待つばかりになっている。‥‥まさにイエスさまのおっしゃるように、天の国は、力づくで襲われているのです。天の国は奪い取ろうとされている。?
神は約束通り、天の国を持ってこられた。そのイエスさまが来られたとき、まさに人々は、天国の持ち主であるイエスさまを、暴力で襲い、力ずくで奪い取ろうとしたのです。それが人間の罪です。「神さまなんかいるものか」と思い、「このイエスというものが、キリストであるはずがない」「神はこんなキリストを送られるはずがない」と、人間の物差しで測ったのです。
相撲で言えば、ヨハネは横綱の土俵入りの、露払い(つゆはらい)役です。旧約の預言者は、言ってみればすべて、やがて来るキリストを指し示していたと言ってよいでしょう。「天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」。‥‥ヨハネは天の国を指し示した人です。ですから実際にその天の国に入る者は、もっと偉大である、もっとすばらしいというのです。
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待降節 第二金曜日
「知恵の正しさは、その働きによってしめされます」
マタイ11・16-19

今日のテーマは優柔不断です。神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。海の汚染が余りにひどくなると赤潮(あかしお) が発生し魚が死んでしまいます。大気汚染のレベルが高くなると赤ちゃんの突然死、若い母親の流産、森林の木が枯れる等の現象が頻繁に起きます。アレルギーのケースが多いことも現代社会に生活している私たちの体の機能がおかしくなっていることを示しているのかもしれません。これだけの自然からの警告があるにもかかわらず、現代人は自分の手で、自分の死の宣告を書いています。その中で、「神の知恵の正しいことは、その働きで認められる」ことになっています。つまり、もし私たちは神の知恵に従って働けば必ず良い結果があるということです。まだ希望があるというわけです。(ステ)
ヨハネは砂漠での厳しい生き方を通して、メシアの出現をしめしました。イエスは人々を食事に招き、神のいつくしみを示しました。神の業は色々な形をとっています。どれ一つとっても、知恵にみちている。後はこちらの決断を待つだけです。
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『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった』‥‥これは要するに、結婚式ごっこのことを指しているのですね。また、『葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』というのはお葬式ごっこです。神様の呼びかけに答えない人々のことがこういう風に描かれているのです。 この神様の御心が分かるでしょうか? 神様がどれほど、私たちを愛し、救おう、取り戻そう、天の国に招き入れようとして、ずーっと招き続けてこられたことが、分かりますか??
きょうのイエスさまの最後の言葉、“しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される”。
 「知恵」というのは、神の知恵、イエスさまのことです。神の知恵の正しいことは、その働きによって証明される。‥‥この言葉は、イエスさまの働きをよく見よ、ということです。イエスさまのなさっていることを、目を見開いて、よく見よ!と。
 地上でのイエスさまの歩みの行き着く先はどこですか?‥‥十字架です。ゴルゴタの丘の上の、十字架です。イエスさまの働きは、この十字架の姿に結晶しています。神の知恵の正しさは、十字架を見れば分かるのです。
 十字架、イエスさまが私の代わりにかかってくださった十字架。イエスさまがご自分の命に代えても、私たちひとりひとりを救ってくださった十字架。ここまで神は導かれる。ここまでして神様は、私たちを愛し、救おうとされているのです。この事実に、目を開いて、礼拝する者でありたい。
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メシアの到来、イザヤの時代から洗礼者ヨハネまで、長い年月待たれて、すべての預言者から告げられたメシアの到来は実際に起こった時に誰が気づいたでしょうか。ほとんど誰も気づかなかった。数人の羊飼いだけです。また、メシアが救いを成し遂げた時(十字架)、それは全人類の贖われる時、だということに気付いた人はどのぐらいいたでしょうか。弟子たちでさえ逃げていました。
こうして、私たち人間は、神のこと、神の世界となると、イエス・キリストのこととなると、本当のことは極めて見過ごしやすい資質となっています。
今年もクリスマスの祝いがあることにそれなりの意義があるでしょう。そういうことに関しても注意しないと見過ごしてしまう可能性があります。
神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。けれども、私たちは今日の福音書の子供たちのように、さまざまな遊びを見せられても、全部勝手に断ってしまうようなことにならないように判断力を高めたいと思います。


待降節 第二土曜日
「好きなようにあしらった」
マタイ17・10-13

人間は自分勝手な生き物です。自分のつごうによって、相手をあつかい分けるのです。自分にとって必要な時は大切にしますが、そうでなければふり向きもしないのです。役に立つ時はちやほやしますが、役に立たなくなれば古い靴のように捨てるのです。自分がそういう目にあったなら、怒るくせに、人には平気でそれをし、役に立たないのが悪いのだと考えます。神についてもまったく同じです。必要な時だけ神にたのんで、必要がなくなればサヨナラなのです。
どうして人が、こんなに高慢になってしまったのかというと、聖書によれば、それは人の高さから生じたのです。神はあまりにも人を高貴につくったので、人はすっかり思いあがってしまい、神をさえ不要と考えるようになったというのです。
しかし創世記によれば、人間は土のチリで造られている。粘土からつくられたということは、人の卑しさ、低さを表します。つまり人の中には、高さと低さ、偉大さといやしさが同居しているというのです。(荒)
ですからこそ、いと高き神の独り子が、高い天から下って低い人間の姿を取ってくださったのです。神に出会うために、やはり自分の低さ、卑しさを思い出す必要があるのです。

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