Feriae Nativitatis et Epiphaniae

12月26日(月) 聖ステファノ殉教者

マタイ10.17-22
 
「話すのはあなたではなく、あなたがたの父の霊である」ステファノは反対と迫害を受けましたが、それはかつてイエスが弟子たちに予告されたことでした。そして、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」ことを確信したステファノの最後は、イエスの十字架上の姿と二重写しでした。神の霊に満たされ、神が語る言葉を授けられたのです。
主よ、あなたの霊に生かされて、迫害する者のためにゆるしを願い求め、イエスの永遠の命に与ることができますように。
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この世の価値観と逆行して生きるとき、私達はしばしば孤独におちいります。そのような時、父の霊が私の内に注がれていることに信頼し、さまざまな困難に惑わされないように心を鎮め、忍耐のうちに授けられる力に身をゆだねて生きるようにとイエスは諭して下さいます。何事も待つことができず、世俗的知恵を巡らして、何とか自分の力で生きて行こうとしがちな私達に「待つこと」、「ゆうだねること」の大切さが身に浸みます。
主よ、あなただけを頼りにして生きてゆく勇気と忍耐をお与え下さい。
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いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかったいのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった(星野富弘、『鈴の鳴る道〈花の詩画集〉』)



12月27日 聖ヨハネ使徒福音記者

ヨハネ20.2-8

ペトロより速く走って、先に墓に着いた弟子。そして、「イエスの頭を包んでいた覆い」の場所の違いを、「見て、信じた」とあります。
私たちも、日常の中で起こる出来事を、先入観なく、事実をそのまま受け入れて、神の働きを素直に信じることができますように。
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日常生活の中で、時として、思いもよらない出来事が起こり、全く新しい目で物事を見るように招かれる時があります。今まで持っていた価値観、こだわり、執着を捨て、新しい目で見ることが出来たとき、はじめて、その中に隠された真実を見つけることができます。
この信仰の眼を通して受ける宝は、すでに私達の心の奥深くに与えられていたのではないでしょうか。
主は今も生きて私達の生活に関わってくださっているという現実に心の目を開かせ、主をより深く信じることが出来ますように導いてください。
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ヨハネは神の子の受肉、上からのキリスト論を述べましたが、同時に、イエスの人間性、肉であること、すなわち下からのキリスト論を強調しています。私たち人間が神になるという神化(theosis)の思想は、アレキサンドリア(エジプト)をはじめ、小アジアのアンティオキア(今のトルコ)に影響を与えました。イエスの栄光は、この地上ではベールに覆われていました。父のもとにのぼり、栄光を受けられる復活では、もはやベールは必要でなくな
ります。巻かれているベールを見て弟子は復活の神秘を信じたのです。(荒)


12月28日 幼子殉教者

マタイ2.13-18
 
「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)。「損する人があれば、そのために得する人もある」。ホロコスト、ロシア革命、中国、ミャンマーなど。
一人の権力者の罪によって幼子たちが殺害され、母親たちの嘆きと声なき幼子たちの叫びが、聞こえてきます。
命を与え尽くして信仰の賛歌を捧げている人々を思い起こし、私たちの行いの中に信仰を表す恵みを願います。
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人生には、「こんな筈ではなかった」という思いにかられながら、当然の権利も主張できずに耐え忍ばなければならない時期があります。そのような時、なぜこのような苦しい目に会わなければならないのか、不当な扱いを受けなければならないのか、などと思い勝ちです。
しかし、何か目に見えない力に身を任せることができて、その時期を何とか通り過ぎることができたとき、イエスが共にいてくださったこと、確かに自分は守られていて、自分の人生で救いの業が成し遂げられたことを感謝の内に感じるときがあります。
人の思いをはるかに超えた幸せにあずかることを約束してくださった主よ、不条理と思える苦しみをもあなたと共に乗り越える力をお与えください。
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北朝鮮の今の状態でたくさんの子供が餓死していると言われいます。また、今月は、真珠湾攻撃の70周年にあたります。これもたくさんの犠牲者を出しました。なぜ神様はこんなこと許しているのでしょうか。これは、哲学的にも神学的にも難しい問題なのですが、簡単に説明してみます。人間には血圧があります。血圧は上がりますと具合悪いので下げないといけません。食生活を変えたり、薬を飲んだりします。けれども、無理やりに下げるととんでもないことが起こります。やはり、自然のリズムや条件に合わせなければうまくいきません。人間にはある程度の自由がありますが、同時に自然に従わなければなりません。神様に従わなければなりません。Von Balthasarの言う「有限的自由と無限的自由のドラマ」(Theo-Drama, II)。ヘロデ王もキム・ジョンイルもこの点は一緒です。二人とも自分の限られた自由は絶対と思って、好き勝手に人の命を扱います。自分を神にしてしまっている。人間の自由はうまく使われるためには、神様の自由と相談しなければならない。そうしないと、とんでもない犠牲者を作ってしまします。イエス様の到来はこの世に光をもたらしました(第一朗読 参照)。その光で闇も見えてきました。人間が神を無視することによって、自分自身を神に仕立ててしまいます。こういうことを悟る人は一人でも多く増えたら、これ自体は一種の購いであり、救いとなります。


12月29日 主の降誕節 第5日

ルカ2.22-35


イエス様が30歳になったころは、安息日に自分の町ナザレの会堂に入り、イザヤ書の一ヶ所を朗読した後、「今日、この聖書のことばは実現した」(ルカ4・21)と話した。イザヤの告げたメシア的な働きはここにあるということですが、認めてもらえなかった。むしる、町から追い出されて崖っぷちから皆落としいようしました。
それなのに、今日の福音書のシメオンは、赤ちゃんを見て、これは「イスラエルの慰め」だとさとった。不思議ですね。赤ちゃんはこれからどうなるのかわからないでしょう。元気に育つのかそうではないのか。どうしてシメオンは断言できたのか。
シメオンは「正しい人で信仰があつく」、「聖霊がかれにとどまっていた」とあります。
たとえてみれば、これはモーセの「燃える柴」(出エジプト3)の体験に似ている。柴が燃えるが「燃え尽きない」(つまり、神と被造物は共存できる、非競争的関係)。これは、モーセの神体験、召命を受ける時です。シメオンも慰めを受けて、赤ん坊について証しする使命を受けていた。、
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シメオンが腕に抱いた幼子は、すべての人のために与えられた救いの光です。一緒にこの幼子を見つめてみます‥‥耳を澄ましてみます‥‥。
そこに、闇を照らす光、私たちへの神からの語りかけが与えられているのです。
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ごく当たり前の日々の暮らし、その中で行われる日常のしきたり、そこに送られてくる神からのメッセージ。絶えず祈り、「待つ」ことによって私達の心は敏感になります。
自らにあたえられた使命に気付き、定められた時を見逃すことのないように、主よ、あなたの救いの光を私達の上に照らしてください。


12月30日  主の降誕節 第6日

ルカ2.36-40

先週もらった名刺にある人の様々な情報がのっていました。「どこそこの大学」、「何々研究室」など。一週間前なのに今は何も覚えていません。今日の福音書ではルカはアンナ預言者について大変詳しい情報を伝えています。ルカはアンナ預言者の名刺をもらったのかなと思ったりします。ルカの情報源は何だったでしょうか。
専門家(Ratzinger, L'infanzia di Gesu', p. 24-25, Joachim Gnilka)によりますと、ルカ自身ヒントを与えています。2章51節にこのようなことばがあります。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2章19節参照。「思い巡らしていた」)。母マリアはルカの情報源だったのです。確かに、お告げの場面を伝えうるのは、立ち会う人間はいなかったので、マリアだけでしょう。
マリアはすべてを心に納めて、思い巡らしていたのは事実なのか、それともルカはでっち上げたのか。恐らく、イエスの死と復活の後に、イエスは生まれたのはどうだったのか、子供のころどうだったのか。皆興味を持ち始めたでしょう。それで、母マリアは親戚や家族の人びとに伝えた事柄は伝承になってルカの情報源となったと言われています。教会の信者さんでも、子供は洗礼を受けた時に、神父は誰だったのか、誰が立ち会っていたのか、母親なら何十年経っても覚えるでしょう。
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女預言者アンナは、「救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」私たちは、何を信じてよいのかわからない情報過多の時代に生きています。幼子に心を開き、その語りかけを聴くことができる私に戻らせてください。
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特別な実を結びそうも無い平凡な日々でも、心の深いところでかき消されることのない希望、憧れ、渇き、何かを求め続けている自分の心。そして、やっと気付きます。その何も生まれてきそうもない日常生活を誠実に生きる中にこそ幼子イエスと出会い、主とともに成長し、イエスの弟子となる恵みに満ちた道があることを。
主よ、わたしが与えられた場で感謝のうちに、真心こめて生きることができるよう支え導いてください。
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シメオンもアンナも共に、信仰厚く祈りの日々を過ごしていた人であった。
私たちも日々の生活の中に祈りの時を持ちたい。人に知られることの少ないガリラヤのナザレで、幼子とマリアとヨゼフの生活が祈りに満ちたものであったように、神の恵みに包まれるために。
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聖家族

「私は父の家にいるのは当たり前でしょう」。しかし、「両親はイエスのことばの意味はわからなかった」とあります。これは、マリアがお告げの時以来、イエスが神の子であることを知っていたことと矛盾するものではないとおもいます。イエスが神の子であると十分分かっていても、それが実際の生活の中でどのような形をとり、どのように展開していくか、その具体性に関するかぎり、マリアにもヨセフにも明らかでなかったということなのです。甘いつながりの中に、ともすると憩(いこ)い、しがみつき、ときにはそこに眠り込んでしまう私たちにとって、現実の中で、自分たちの究極が、神のみ旨の中にあり、神に向かうものであることをみつづけるのは、ほうんとうに難しいということなです。互いのつながりを大切にしながらも、神に向かう旅であるという人生の現実をしっかりとみつめて生きるという課題が、マリアとヨセフにも私たちにも与えられているのです。



12月31日 主の降誕節 第7日

ヨハネ1.1-18
 

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」「わたしたちの間」とは、私たちの家庭・職場・教会・地域‥‥人々の出会いと交わりの中でしょう。
今も宿り住んでおられる神を、今日も見つけることができますように。
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「言は肉となった」天地創造はまず「光あれ」という神の言にはじまりました。今日の福音では「言の内に命があり、命は人間を照らすひかりであった。」とあります。
洗礼者ヨハネは光であるキリストを人々に証するために遣わされました。
そして私たちも、先駆者、預言者と同じ使命をいただいています。
主よ、今年もずっと共にいて、恵みで満たしてくださったことに感謝と賛美をささげます。
来たる新たな年、あなたの恵みを一層深く悟り、救いを求める周囲の人々に神の愛と真の喜びを伝えることができますように。
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私たちは善きにつけ悪しきにつけ、両親の言葉によって育てられます、神も“ことば”によって私たちを育てます。しかしそれはいつも善です。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。耳を傾けて聞き、魂に命を得よ。(イザヤ55・2-3)神のことばそのものであるイエスはその全てをもって父である神を示しました。
それは私たちを神の子とするほど、恵みと真理に満ちている方です。


1月 2日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・19-28


イスラエルの人々は、ヨハネのもとへ祭司やレビ人たちを送って、ヨハネがどういう人なのか尋ねさせた。わたしたちを救うメシアなのか?それとも、わたしたちの進むべき道を教えてくれる、預言者なのか?私たちはいろんなものに救いを求める。どう生きればいいか、失敗しない道はどの道なのか・・・。ヨハネははっきり言っている。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。
私たちの中に隠れておられる、真の救い主に気づくことができますように。
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ヨハネは言う。「わたしはその履物の紐を解く資格もない」。人の履物の紐を解くのは、当時最下層の人たちの仕事だった。「その人」の前では、そうした最下層の人たちが持つ資格もないと、ヨハネは明言する。神の子の前で自分が何者なのか、神の子のために自分は何をするべきなのかを、ヨハネは知っていた。私はどうだろう。少しでも自分を偉く見せたい、人より優れていたいなどという思いによって、自分を見失っていないだろうか。
いつも神の子の前に立ち返りながら、自分の本当の姿を知り、使命を果たしていくことができますように。


1月 3日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・29-34

ヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しします。人間的な関わりの中では、その方を知りませんでしたが、神が教えてくださり、自分に与えられた使命も、この方のためであったと確認します。私たちも今、出会う人々の中にイエスを観て、「見よ、神の小羊だ」と指し示すことができるのではないでしょうか。今私に与えられているすべての恵みを、この方のために差し出すことを通して。
主よ、日々の出会いの中で、あなたを証ししていくことができますように。


1月 4日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・35-42

イエスは弟子たちを振り返り、「何を求めているのか?」と問われた。私はなんてこたえるだろう。頭の中が真っ白になって、戸惑って、満足のいくこたえはできないんじゃないのかな。お金、健康、友情、家族愛、いろいろなことが頭をよぎる。すべてはこの目の前にいるイエスあってのこと。イエスは続けて私に言われる。「来なさい。そうすればわかる。」
そこにイエスがいるだけで、満たされることがわかる。どうかいつもイエスだけを求めていくことができますように。


1月 5日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・43-51

イエスは、ナタナエルとまだ一言も話をしていないのに「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われた。その根拠は、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たから。イエスは、いちじくの木の下で、何をしているナタナエルを見たのだろう。
泣いているナタナエル、それとも必死で何かを祈っているナタナエル?分からないけど、イエスは、誰にも見られたくないこと、知られないこともちゃんと見ておられる。
「見られたくない」「知られたくない」というわたしのエゴを超えて注がれるイエスのまなざしに、少しでも一致していくことができるよう、祈りたい。



1月 6日 主の降誕節 主の公現前

マルコ1・7-11

その当時、人の履物のひもを解くのは奴隷の仕事だった。それなのに洗礼者ヨハネは、イエスの前ではその奴隷よりも自分は値打ちが無いと言った。謙遜な人だ。実際、神の前で人間は何者でもないのだ。しかし、イエスに向けられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という天からの声は、今、イエスを通して私たちの内にも行き渡る。
神の前で塵にすぎない私が、神の子として愛されている恵みに気づき、感謝と喜びの内に生きることができますように。


1月 7日 主の降誕節 主の公現前 

ヨハネ2・1-11

カナでの婚礼で、イエスは水を上等のぶどう酒に変えられた。でも、もしわたしが召使だったら、どう振舞っただろう。「水瓶に水をいっぱい入れなさい」。「え、なぜ水なんか汲まなきゃいけないの?」。「それを宴会の世話役のところへ持っていきなさい」。「エー、お客に水を出すなんて。やめましょうそんなこと・・・」。実際のところ、イエスを世間の尺度で測ってしまい、奇跡の邪魔をたくさんしているかもしれない。信頼しなければ、奇跡は起こ
らない。イエスがその力を発揮できるのは、わたしの信頼があってのことだから。
自分の貧しさを知り、主に全面的に信頼して、従っていくことができますように。


主の公現後月曜日

マタイ4.12-17,23-25
 
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
」今日で正月の三が日も終わります。明日から初仕事の方もあるでしょう。新たな歩みの中で、周りにいる人々の叫びに耳を傾け、その人にどのように寄り添い、具体的にどうすることが必要なのかを知る恵みを願います。
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主の公現後火

マルコ6.34-44
 
弟子たちは、大勢の群衆を前にして、こんなに多くの人に食べさせることはできない、と諦めます。
イエスは、群衆の姿に心を動かされ、何かをせずにはいられませんでした。
普段の生活の中で、他人の困難な状況に対して、いろいろな理由で自ら手を出さないことがあります。自分の判断基準ではなく、イエスのように他人の苦しみに心を向け、行うことができますように。
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全能の神、宇宙の作り主、時間と空間に縛られない神様は、小さな赤ん坊、弱い存在となったというクリスマスのパラドックスは、今日の福音書にも現れます。大勢の群衆の飢えに対して、神の子の力を発揮して、なんでもできるはずなのですが、イエスはむしろ人間の持っていいる不十分なもの(五つのパンと二匹の魚)を求めます。全能の神は一番弱い者になる。全能の神は足りないに決まっているものを求めます。でも、足りないものの背景に神の愛がある(今日の第一朗読、「神が[先に]私たちをしました」)ということを悟れば、足りないものの中に神の愛があると分かれば、そしてそれを惜しみなく差し出すと、大群衆の満足につながります。パウロのことばで言えば、私たちは神から慰めていただいた慰めで人々を慰めることができる、と。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(コリントの信徒への手紙二 1章1節~11節)また、「何 よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」、その他のものは与えられる」ということばにもつながると思います。



主の公現後水

マルコ6.45-52
 
イエスは、おびえる弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、すぐに語りかけます。恐れていると、真実の姿が見えなくなります。
主よ、あなたが助けを求める人をすぐに力づけてくださることを、私は知っています。
いつも、あなたを信頼し、心の深いところで安心していることができますように。
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逆風や大波に飲み込まれそうになった弟子たちは、湖の上を歩いて来るイエスを見て、自分たちを滅ぼそうとする幽霊であると思い込み、恐れおののき大声で叫びました。しかしイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言い弟子たちを安心させ、力づけます。第一朗読にヨハネは言います。
「神の愛に留まる人は恐れることはない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハネ4・18)私たちも私たちに対するイエスの限りない愛とケアに信頼するならばどんな恐れも私たちを征服することはできないでしょう。
私たちも弟子たちのように振舞うとき、苦しいとき、問題とぶつかるとき、また、物事がうまくいかないとき、神がわたしを見捨てたと思い込み、希望と信仰を失うことがあります。
しかし、このようなときこそイエスはわたしたちのすぐそばにおり、私たちと共に歩んでいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といつも言っているイエスの声に耳を傾けましょう。
主よ、どんなときにもあなたへの希望を失わないように、あなたへの信頼と愛を一層深めてください。
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海の上を歩くことは神のすることである。また、出エジプトのときに紅海を渡った出来事を思わせる言葉です。

ヨブ9:8 神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
詩編77:20 あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
イザヤ43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方「わたしだ」(ego eimi)というのは、神が民を救いに来られるときを思わせる言い方です。(出3,14、申命記32,39、イザヤ41,4、43,10-13参照)

弟子たちはまだ神としてのイエスとそのミッションを受け入れる準備ができていない。


主の公現後木
ルカ4.14-22a
 
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
「貧しい人」とは、迷ったり、うまくいかないことだらけだったりする私かもしれない。
苦しい時にイエスの語りかけを耳にした私には、実は、もうすでに、御言葉が実現しているのです。あとは、当面自分を惑わすものから自由になりますように。
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「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主の恵みの年を告げるためである。」
これは、イエスが朗読した聖書の箇所であり、また公生活においてイエス自身が実際に生きたことでもあります。私たちも、イエスのように洗礼によって神の子とされ、また堅信の秘跡によって、イエスのように神の国の福音を告げ知らせる恵みと任務を受けました。
イエス自身の福音宣教が、自分が育ったナザレで始まったように、私たちも、自分の最も近い者から福音宣教をするように招かれています。
神の子である私たちも、主の霊をいただくことによって捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を告げるために主の道具として遣わされています。
主よ、まだあなたを知らない人々にあなたがもたらした救いを告げ知らせることができるようわたしたちに必要な恵みをお与えください。
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「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った信仰です。世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ 5:4,5)


「いわしの頭も信心から」といいまして、魚でも何でも信じていればご利益が与えられる、といったような考えをします。「念じれば道が開ける」ともいわれます。そこには信仰の内容は問われません。何を信じていようが信じることが尊いという考えでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。信じるということは漠然としているというようなことではないと思います。何を信じているか、そのことが問われているのではないかと思うのです。それは、この箇所から言うと、「イエスのキリストであることを信じる」(1)信仰、「イエスを神の子と信じる」(5)信仰であるということができます。イエスを神の子、まことの神と信じる信仰のことです。あのナザレのイエスがわたしたちの救い主であるということなのです。神の救いが、わたしたちと同じ顔かたちをとられて、イエスという存在として現れた、ということなのです。

 私達が生きている「この世」を浮き世、また、憂き世と言いあらわす事があります。それは、浮いたようで、はかない世。定まらない世。辛いことの絶えない世の中、と言う意味が込められています。
 一生の間には、何をやっても調子よく事が運び、世の中、自分を中心に廻っているかのような上り調子の時もあれば、その反対に、どんなに真面目に努力しても、報われず、わが身の不運を呪いたくなるような時もあります。
 また、他人には到底わかってもらえないような悲しみに襲われ、悶々とした日々を過ごすこともあります。

 しかし、そのような世にあっても、勝利する秘訣があります。
 それは、イエス・キリスト(神)に対する「信仰」です。この「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」と言いますが、その言葉はイエス・キリスト(神)に対して用いられる場合には「真実」と訳されます。ですから、イエスの真実に信頼して歩んで行くことが信仰であり、そこにこそ勝利の鍵があるのです。

 イエス・キリストの真実さは、私たちに対して、様々なかたちで現されます。 その一つは「助ける、守る」ということにおいてです。
 聖書に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け」(詩46:1)とあります。
 またその「真実」は時には、「慰め、励ます」と言うかたちで現されることもあります。ガンに冒され、あと数ヶ月と宣告された婦人が、私に言いました。「私は、イエス・キリストを信じてきて、今、本当によかったと思っています。何故なら、イエスさまは私に『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じるものは、死んでも生きるのです。』と約束してくださったからです。それが私の大きな慰めです」と。

ヨハネがこの手紙を書いた頃は、「イエスは主である」という告白は、即当局者からの迫害の対象とされるという外からの戦いがありました。また、「イエスは人であって神ではない」という、いわゆる「異端」、教会内における戦いも熾烈を極めていた時代です。このような時代の只中にあって「イエスは主である」という告白は、並大抵のことではなかったであろうと思うのです。しかし、彼らは大胆にこの告白をしたのです。それは、その背後に聖霊がおられたからです。聖霊がその告白をさせたのです。背後に聖霊がおられる戦いは「勝利」以外の結果は生じないのです。人間の力、人間の告白、自分の‥、という「肉」の行いや告白は、しばしば「敗北」という結果を生じさせ、時には落胆し、時には高ぶり、時には破滅へと至るものです。しかし、「私たちの主であり救い主であるイエスを信じる信仰」は聖霊によってのみ生まれるものであり、そのもたらすところは勝利なのです。

ヨハネ文書及びパウロ書簡は「世」を神から離れた自立的悪しき存在と考えているようです。ヨハネ伝3章16節の「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」と語られた「世」は、神から離れて、永遠の命を持たない存在と観ている事がわかりますし、パウロは復活への信仰を記す中で「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と記した後「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである」と宣言しております。それは、世(コスモス)というものがどれほど美しく秩序だっているとしても神から離れて、「運命と死」の力が支配しているのが「世」であると見ていたと考えることができるでしょう。

「死と運命」に打ち勝つ力は主イエス・キリストへの信仰であり、キリストの十字架と復活を信ずる者になったということは「死と運命」の思いに勝った事であるというのがここで言おうとしていることではないでしょうか。なぜなら、当時のギリシャそして今の日本において「死と運命」は100パーセントの力を持って人々を支配していると考えていましたし、そのように確信しているのが、私たちを取り囲んでいるこの世です。それに勝つのが「我らの信仰」であると言うのです。

 



主の公現後金

ルカ5.12-16
 
ヨハネ第一 5:6~13 
 ヨハネはイエス様の歴史的事実を、イエス様の御生涯のうちに極めて重要な二つの出来事に要約し、象徴して、「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」(6節)と書いています。ここで「水によって」という言葉が象徴しているのは、洗礼のことです。この時、神様は「これはわたしの愛する子」と宣言されました。こうしてイエス様が神の御子キリストと証されたのです。また「血によって」という言葉が象徴していることは、十字架の上での死のことです。イエス様は十字架にかかって死ぬことによって、購い主としての務めを成し遂げられ、ご自身がキリストであることを証されたのです。そしてこの二つの歴史的事実を私たちの心に絶えずあかし続け、わからせてくださるのは聖霊様なのです。(伊藤)
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この重い皮膚病の人は、どれほどの差別を受け生きてきたのか。どれほど自分の存在価値をないがしろにされてきたのか。人間としての尊厳を無視されたような悔しさ、全身が火照るほどに悔しい経験をしたことがあっただろう。今もその最中かもしれない。だから、イエスに頼む前に、自分はイエスによって病気を癒されるという確信を持つことができたのです。イエスに対するこの病人の信仰はわたしたち、信仰の薄い者にとって良い模範です。イエスは神の子キリストであると言うことを疑わずに信じることができるならば、私たちもこの病人のようにイエスに直接打ち明け、必要な恵みを頼み、祈ることができます。
イエスはわれわれの心の中を強引にこじあけるようにして、入ってこられるのではなく、場合によっては、そうする時もあるかも知れませんが、イエスは大変辛抱つよい深い愛のかたですから、われわれが心を開くまでじっと待っていてくださる、そのようにしてわれわれを招こうとしてくださっているのです。この重い皮膚病の人のように絶望感に包まれる時でさえ、イエスに駆け寄る勇気が与えられます。 大変希望に満ちた福音書です。
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主の公現後土

ヨハネ3.22-30

 三つの確信 ヨハネ第一  5:14~21 
 ここには神の子が持つべき三つの確信が書いてあります。第一の確信は、永遠のいのちを持っているという確信です。13節の「神の子の御名を信じる者」とは、クリスチャンのことです。著者の目的は、彼らに「永遠のいのちをもっていること」を悟らせることです。即ち、永遠のいのちを持っているという事実に確信を持ち、その上で「世に勝つ」(4節)歩みをしてもらいたいのです。第二の確信は、祈りの確信です。神様が私たちの祈りに耳を傾けて聞いてくださるという確信です。そしてただ自分のためにのみ祈るだけでなく、兄弟のためにとりなしの祈りを勧めているのです。第三の確信は、自分は神のものであるという確信です。自分が神によって生まれ、神から出たものであるという確信こそ、罪に対する勝利の原動力だからです。(伊藤)
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「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ヨハネにとっては、自分が崇められることなどどうでもよいことで、それよりも「花婿」の到来に心から喜びを感じたのでした。
降誕節の終りを迎えながら、人として来られたイエスが私たちを支えてくださっていることに、喜びと感謝を味わうことができますように。
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