32 per annum


年間 第32月曜日
「赦してやりなさい」
ルカ17・ 1-6

長くまた立派な信仰生活を送っている人でも、自分に対して罪を犯した人をなかなか許せないことがある。自分自身も苦しみ、もんもんとした生活をしていることさえある。でも、私たちがイエスに許されたことを思えぼ、人がどんなことをしてもそれはとるに足りないものである。しかし私たちにはイエスの十字架を感謝しながら、他方では人の罪が許せない弱さがある。イエスがわたしの来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだと言われるのを聞くことは、自分の罪にもだえ、自分ではどうしようもないと気づかされた者にとって、大きな喜びである。罪は私たちが神の言葉に従って生きるときに、はじめて気づくものであり、自分の罪に気づくことは信仰生活にとって大事である。
 御言葉に従って生きるとは、御言葉に従いきることではなく、従ったときに自分がどんなに罪深い者であるかに気づかされることである。聖書の言葉を私への語りかけとしてまじめに聞いていくとき、私たちは自分の姿を知ることができる。だからイエスは、私たちに自分の罪に気づかせるために、一日に七度罪を犯し七度悔い改めますと言って、あなたのところへ帰ってくれば許してやりなさいと言われたのである。人間が自分の罪を具体的に知るのは、人を許すことにおいてである。(榎本)
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御言葉に従って生きるとは、御言葉に従いきることではないのです。私たちはみ言葉を自力で完全に実践できないのです。み言葉を人生の道しるべにしてみると、自分がどんなに罪深い者であるかに気づかされることである。聖書の言葉を私への語りかけとしてまじめに受けとめていくとき、私たちは自分の本当の姿を知ることができる。罪は私たちが神の言葉に従って生きるときに、はじめて気づくものであり、自分の罪に気づくことは信仰生活の始まりといってもいいと思います。
イエス様は、私たちに自分の罪に気づかせるために、今日の言葉を語っておられるのではないかと思います。「一日に七度罪を犯し七度悔い改めますと言って、あなたのところへ帰ってくれば許してやりなさい」。人間が自分の罪を具体的に知るのは、人を許さなければならない時である。(榎本)実は、「一日に七度罪を犯」すのは、この私であって、その都度主のところに行って、心から「悔い改める」と言えば、再出発できるというわけです。
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人を赦すことの出来ないわたしが居る.「あなたは間違っている。わたしが正しい。」という人間的な思いに留まっている。イエスの言われるとおり、気をつけなければ、私こそ神の無限の愛と赦しから離れてしまう。
主よ、裁くのはわたしではないということを悟らせてください。あなたの愛により頼むからし種一粒ほどの信仰をお与えください。sese06

年間 第32火曜日
「私は取るに足りないしもべです」
ルカ17・ 7-10

神様と私たちとの関係は、主人としもべの関係なんですね。ですので信仰というのは、神のしもべとして生きることなんです。ただ、そうは言っても、なんだかはっきりしませんね。しもべというのは奴隷のことです。奴隷というとなんだか、大変な重労働を一日に何時間もさせられそうな気がします。私たちは我慢して我慢して、そんな大変な思いをしなければならないんでしょうか。実は、当時の奴隷というのはそういうものではなかったんですね。私たちが持っている奴隷のイメージは、近代の奴隷のイメージです。200年とか300年前の奴隷のイメージです。聖書の時代の奴隷は違ったんですね。例えば、エジプトのピラミッドは奴隷が作ったんですが、その奴隷たちの出勤簿が残されています。出勤簿というのは仕事に来た時にチェックするリストですね。そこには仕事を休んだ場合には仕事を休んだ理由も書かれているんですが、それがなんと、「二日酔いのため」と書かれていたりするんですね。前の日にお酒を飲みすぎてしまって、今日は体の具合が悪いです、だからお休みします、ということですね。私たちがイメージする奴隷は、「二日酔い」では休めないですよね。そもそも、お酒なんて飲めるのか、という感じですよね。では、奴隷とはどのようなものだったのかといいますと、それは、「雇われ人」ということです。わかりやすく言いますと、土地を持っていないので、土地を持っている人に雇われて働く、ということです。
もちろん、主人の指示通りに動かなくてはなりません。けれども、主人は奴隷が働くために必要なモノを提供しなければならないという義務を負っていました。主人の配慮があるので、奴隷はスムーズに働くことができたわけです。
ですから、古代には、自分から進んで奴隷になる人もいたんです。要するに、ここで言われている主人と奴隷の関係というのは、現代の会社とサラリーマンの関係と同じです。聖書の時代の人が現代のサラリーマンを見れば、「サラリーマンというのは私たちの時代で言うところの奴隷だ」と言うんだろうと思いますね。ですので、ここで言われているのは、あなたがたはサラリーマンで、神様は社長なんだ、ということですね。その自覚を持ちなさい、ということなんです。
こうなりますと、だいぶん話は変わってきますね。サラリーマンというのは言われたとおりに仕事をするんですけれども、その代わりに給料をもらって、休みをもらって、会社にいろいろ面倒を見てもらっているんですよね。
仕事をするために必要な知識や技術も教えてもらって、トレーニングも受けさせてもらって、会社に養われているんです。それと同じように、あなたがたも神様に養われているんだよ、ということですね。そのことに気づきなさいということですね。サラリーマンが会社の手の内に置かれているように、あなたがたも神様の手の内に置かれているんだよ、ということです。それに気づいていることが信仰なんですね。そして、そういう信仰があるのなら、赦すために戒めるということができるようになるんだと思いますね。
考えてみればこれ、赦すために戒めるというのは、神様がなさったことですね。私たち罪びとを赦すために、神様ご自身が人間として生まれてくださって、私たちの罪を代わりに背負って十字架にかかってくださった。だからもう私たちは裁かれない。
神様に逆らって、神様の前から迷い出てしまっていた人間が、神様とつながって生きていくようにされた。だからこそ私たちは悔い改めるんですね。神様が命がけで私たちを赦したいと思っておられることを知るからこそ、私たちは悔い改めるんです。
そして、だからこそ、私たちは、神様が私たちになさってくださったのと同じように、赦すために戒めるということをしていくようにされるんだと思います。社長がやっていることを社員がまねるんですね。
そうは言っても簡単なことではないかもしれません。けれども、今日、約束の御言葉が与えられていますね。
6節ですが、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。ほんのわずかでも、自分は神様の御手の内にあって養われているという気持ちがあれば、考えられないようなことだって起こるんだということですよね。要は、神様と同じように、赦しの心で戒めるときには、神様の力が働くということなんです。
それを約束してくださっているんです。そして、それを目指すとき、私たちは、もう、弟子とは呼ばれないで、5節にあるように、「使徒」、遣わされた者、神様のもとから派遣された者、と呼ばれるようになるんじゃないですか。
出かけていきましょう。私たちそれぞれに、派遣される場所があります。その場所で、神様と共に働きましょう。
その時、考えもしなかったような素晴らしいことが起こる。
そのことを、神様は約束してくださっているんです。
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普段私たちは空気が吸えるからといって神様に特に感謝することはないでしょう。空気を大量に作ってくれる原始林に対してありがたく感じることはあまりない。車に乗れるから石油にたいして、魚が食べれるから海に対して、特に感謝することはない。
考えてみれば、感謝すべきことがたくさんあるのにもかかわらず、普段私たちは感謝しません。ところが私たちは何か人に役ったようなことをしたときに感謝を期待します。自分が受けている恩は気づかないが、人に感謝の気持ちを押し付けたがります。
イエス様は弟子に警告を発します。自分たちのやったことで感謝を期待するとき、思い出しなさい、毎日ただで受けている恵みを。神の豊かな気前よさに感謝しなさい。(ステファニ)。
パウロによれば、アダムの罪は、結局神に「感謝をしなかった」(ロマ1・21)。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
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わたしは誰から何を命じられているのか。それをどのように果たしているのだろうか。わたしの力でそれをしているという思いがあるのではないだろうか。わたしがしていることは、させて頂いていることだと悟ろう。
「わたしは取るに足りない僕です。」主よ、いつもこのように言える心をお与えください。sese06


年間 第32水曜日・パウロ会  96/11/13    
ルカ17・ 11-19

  「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)
イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。
主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。

「あなたの信仰があなたを救った」

十人のハンセン病者は、村のはずれで、遠くから、大声で助けを求めることしかできませんでした、彼らが身体的ケガレヤ社会的差別から解放されたとき、自由になって、イエスに感謝したのは、そのうちの一人、サマリア人だけでした。いま、かれはイエスの足もとにひれ伏します。神の権威に服従し、感謝をささげることこそ、人間が自由になったしるし、救いのしるしです。
誰でも、体の健康と社会的尊厳を求めています。そして、それさえあれば神などはいらないと思う人は多い。9割まででしょうか。



年間 第32木曜日
「神の国はあなたがたの間にある」
ルカ17・20-25

 神の国は、死後のはるか遠い出来事ではなく、すでに私たちの間にあると言われる。神の国は愛、平和、正義に基づいた世界ですので、それを目で見ることができません。しかしそれを実現させたときに人間の間に感じられるようになります。平和がないところに平和をもたらす人が出てくれば、その違いがわかるように。神の国は健康あるいは空気(あるいは忘れ物)と同じように、普段は意識しないが、なくなればすぐわかります。
私たちは全世界に神の国を実現させることはできないかもしれませんが、自分の生活している周りに、神の国を実現させることができます。また、神の国を完全に実現できなくても、それに近い状態を目指すことができます。
人の悪口を聞いても、中身を聞き流して、次の人に伝えない。差別がなされる場に立ち会うならそれに加担しない。若い人たちにに平和とゆるしの大切さを教える。周囲の人々のなかで一致を創るために努力する。誰にでもできる、このような生き方をする人は神の国を造っているのです。それははでなものではなく、地味なもので、目を引かない。また、ときどき苦しみを伴いますが、それを受け入れるかは私たち一人一人に問われています。
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「神の国は実にあなたがたのただ中(entos hymon)にあるのだ」といわれています。この句をめぐってはいろいろな解釈がありますが、これは人間の心の内面にある、心の中にあるというように解釈されるのです。
しかしそうしますと、これを語る相手はファリサイ派の人々ですから、神の国はパリサイ派の人の心の中にあるということになっておかしなことになります。そうでなくても、神の国は人間の心の内面にある、それは結局は人間の心の持ちようにかかっているということなりますと、神の国というのは大変人間臭いものになってしまいます。
最近の聖書学者の説明では、これはそういう人間の内面性の中に神の国は存在するとか、始まるとか、という意味ではなくて、イエス・キリストがこの地上に来たことによってすでにあなたがたの中に始まっているのだという意味だということです。
 神の国はもうすでにあなたがたのところに来ているのだ、どうしてそれがわからないのかと、イエスはここでパリサイ派を叱っているのだということです。ルカ福音書の別の箇所(11,20)では、主イエスが「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」という言葉があります。
そしてその後、イエスは今度はイエスのほうから弟子達に終末について語るのであります。
「あなたがたは人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るだろう」と語るのです。ここで言われている「人の子」というのは、まずはメシアのことを意味しております。そしてこの場合は主イエス・キリストご自身のことです。
  神が遣わされるメシア、人の子、つまり神の子が十字架で殺される、その神の子の死を通らない神の国などは実現しないということです。つまり神の国というのは、なにか人間の善意とか神の国運動とか、そうした人間的な理想主義的な努力によって実現されるものではないということです。「憲法9条を守ろう」というような運動、ある意味では楽天的な運動によってはこないのだということです。
 神の子が十字架で殺されるという出来事、人間の罪があらわにされ、神の子が十字架で殺されるという出来事を通して、神の国は来るというのです。
 従ってそれ以外のメシアと自称する者があらわれてもまどわされるなというのです。人々が「見よ、あそこにメシアが現れた、ここにメシアが現れた」と言っても、ごまかされるな」というのです。メシアは十字架で殺される以外のメシアはいないからだというのです。
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地震学の専門家によりますと、21世紀中に起こるだろう大地震はいくつかあります。近い将来に発生すると指摘されている南海地震と東南海地震の2つの巨大地震に備えるための防災対策が各地で進められています。NHKラジオ第1放送で、毎週月曜日から土曜日の午後0:55から放送しているラジオ防災キャンペーン「地震ひとくちメモ」から、役立つ防災知識、防災の知恵、地震や津波の基礎知識を紹介しています。
そんなしているうちに、誰も予想できなかった東北大地震が起こったかけです。結局人間がまだ具体的にいつどこで地震が起こるのか言い当てることはできないのです。この意味では、神の国の到来に似ています。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と同時に「稲妻のように」突然起こるというのです。結局、具体的な場所と時間を言い当てることはできないので、いつも準備していなければならないのです。
地震の場合は、いつも日ごろの建物作りや街づくりなどは怠ることはできないでしょう。どのような地震にも耐える建物と町が備えていれば少なくともダメージは少なくてすむ可能性は高い。
同じように信仰生活では、神の国の到来にいつも備えていなければならないでしょう。いつも日ごろ神様を受け入れる姿勢、心作りは大事だと教えてくれる福音です。

年間 第32金曜日    
「人の子が現れる日」
ルカ17・26-37

こんなふうに言われる、カトリックとか古い教会はいつも昔話をしている。昔イエスさまは、一九九九年昔にイエスさまが現われて、まだイエスさまは成功していない。新宗教は、そうではなくて、これからの宗教である。「今、あらわれて、これからです」といわれることに魅力を感じて、若者はそっちについていく。私たちはやはり正しい信仰をもって再び来られる主を信じる。本当に、待降節の時だけでなく、私たちは再び来られる主を待つことが大切です。
ミサの度毎に「再び来られるまで」ということを唱えます。ところで再び来られる主を信じるとは、どういうことでしょうか。それは、イエスさまはもう昔来られたけれども、個人としても世界としても、充分よく受けとめていないのです。イエスという人物、出来事はあまりにも大きくて一発で理解できない。ニ千年も足りない。毎週ミサにあずかって少しずつかじって味わうしかない。もっと良く受けとめるチャンスが与えられる。それが再び来られる主を信じることではないかと想います。新しい啓示が、ではなくて、もっと良く受けとめる。受け取るチャンスが与えられている。それはミサです。(沢田)
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人の子が現れる時、わたしは他の何をも顧みずに人の子に従うことができるだろうか。きっと今わたしが大切にしているものにその時も心を向けるだろう。イエスは永遠のいのちをとるか、死をとるか、という厳しい選択を今も私たちに迫られている。実際に自分の執着のあるところに、あたかもはげ鷹が集まるような死のしるしがあらわれてくるのではないか。
主よ、わたしから執着を取り除いてください。真に大切なものを知り、それ以外のものから自由になれますように。
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ノアの大洪水の時のように、のんきに、食い、飲み、買い、売り、植え、建てたりしていた時に、人の子は突然現れてこの世を裁くのだというのです。
神がくだされる裁きのときは、私たちが予想したり、期待するような人間的な価値判断、意味づけはすべて無視されていく。それは私たちが大震災やそうした災害に遭う時と同じようなことが起こる。そうした災害では、誰が生き残るかなどということは、誰にもわからない。ひとりは残され、ひとりは連れ去られる、その間に一切の価値判断はない、少なくも人間的な価値判断はないというのです。これが神の裁きです。
 私たちがこの世に生きている時には、まるで偶然のような出来事がいくらでもあります。まるで偶然のようにしてある人は九十歳まで幸福に生き、まるで偶然のようにして、ある人は小さい時から病苦に苦しめられて、若くして死んでいく人もいる。その時、私たちはそこにどんな意味づけをしようとしてもできるものではないことを知るのです。
 私たちはそうした不条理な出来事が起こる時に、人間の浅はかな小賢しい(こざかしい)意味づけは断念せざるを得ない、そうして神のなさるわざにひれ伏す以外にないのではないか。私たちが神が生きて働いているということを信じるのは、むしろこうした私たち人間の目には不条理としか思えないことが起こることを通して、ああ、神は人間を超えて働いておられるということを感じ取り、その神の前にひれ伏さなくてはならないのではないか。
 パウロにも、こういう言葉があります。「わたしたちはみな、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」とあります。これはもう偶然というような裁きではなく、私たちがこの世にあって、どれだけ真剣に生きたかということが問われる、そうして裁かれるというこが言われております。
 ただこの言葉を私たちが読む時に、うっかりしますと、自分の人間的な価値判断を神に押しつけて、神に期待して、自分がほめられたり、裁かれたりすることを予想する場合が多いのではないか。
 「自分の命を救おうと思うものは、それを失い」というのは、「自分の命を自分の持ち物とか、自分の業績とか、自分の行いというもので、つまり、自分で自分の命を救おうとする者はそれを失う」という意味です。もうそうしたことをやめて、ただ神の憐れみにすがるものは、助けられるというのです。
  「死体のあるところには、また禿げ鷹が集まるものである」というのは、現代風に言えば、食べ物があるところにゴキブリが集まる、ゴミのあるところにクラスは集まるというようなことです。「死体」というのは人間の罪、あるいは不正のことで、人間の罪があるところには、かならず禿げ鷹が死体に集まるように、神の裁きがあるという意味です。これは死体のあるところには、差別なく、至るところに禿げ鷹が群がるように、この終末の裁きには、「どこで」というある特定のところにということではなく、いたるとこに起こるのであるという意味だというわけです。
 迫害の中にあって苦しめられていた初代教会の人々は「マラナ・タ」「われらの主よ、きたりませ」と教会の中で叫びつづけて、終末の裁きが来て、主イエスが再臨してくれることを切実に望んだということです。それは「終末はいつくるのか」というのんきな問いではなく、ただ神の憐れみにしか自分達の慰めも救いもないという切実な信仰、それがマラナ・タという叫びです。私たちも「いつ来るのか」というのんきな問いではなく、マラナ・タという切実な祈りをして、終末を待ち望む信仰をもちたいと思うのです。
www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke64.htm


年間 第32土曜日    
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」
ルカ18・1-8

私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りである。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。
パウロも次のように証言している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあ癒たがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは、神の言葉をまともに聞いていないからである。
イエスの祈りはどうであったろうか。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。このときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。
神に祈っているのか、人に聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにかわからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)

                                                                                                 

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