31 per annum

毎日の福音
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第31月曜日  
ルカ14・12-24
「お返しのできない人を招け。」

神が人を招く場合には、お返しができる人ではなく、到底お返しができない貧しい人、からだの不自由な人を招いてくださったということであります。それは神が人を招く場合には、わざわざそういう人を招くというのではなく、すべての人が実は貧しい人、病の人なのだというのです。主イエスは「わたしは義人、正しい人を招くためにきたのではなく、罪人を招くために来たのだ」と言われたのです。それはわれわれ人間には義人と罪人という区別があるというのではなく、われわれ人間には、自称義人と自分のことを思っている人と自分は罪人だと思ってうなだれている人がいる、わたしは自称自分を義人だと思っている人などを相手にしないのだ、自分は自分の罪に悩み苦しんでいる人を招くために来たのだということです。

 われわれができるただひとつの神の愛に対するお返しは、わたしは到底お返しなどできません、ただこのような自分を愛してくださったことを感謝して、神に対して砕けた魂、悔いた心を神に捧げるたげですと告白するということです。そして、私達は神のこのような与え方を少しだけでも真似すれば、世の中はどれだけよくなるか、ということです。
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ねたみ深い神は、わたしたちが愛の業を、神のため以外の意向で、たとえば、人からお返しや感謝のためにすることを嫌われます。それは、もはや神への清いささげものではないからです。むくわれず、不毛だと思うときこそ、神はわたしたちをいけにえとして受けいれてくださいます。すべての人が神の恵みの祝宴に招かれています。きさげるいけにえは、神のみをたよりとする貧しい心です。しかし、パンの形のうちに、もっとも貧しくなられたイエスをいただくことによって、豊かにされた自分白身をささげます。聖体祭儀がすべての人に差し出されているように、ご聖体をいただいたキリスト者は、恵みを人びとにもたらすために派遣されます(イテ・ミサ・エスト)。(荒)
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見返りが期待できないのに何かをする時、自分の持っている何かが減ることへの恐れがありませんか。この恐れは、私たちを真の喜びから遠ざけ、物々交換という狭い枠の中へと追いやる落とし穴ではないでしょうか。そこでは自分の行いが常に人からの感謝や評価などに依存しているので、私達の心は不安定です。この世での報いに期待して振り回される自分から解放され、天の国に心を根ざして生きることができますように。sese05
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「報われたい」という想いを、自分の中に探してみる。それは、何について求めているのか。誰によ
って報われることを望んでいるのか。この世において受ける報いはその場限りで消え去る。そのはかない報いを追い求めてしまう自分がある。しかし確かに、この世でお返しができない人々こそ正しい者たちが復活する時に来られる主であり、その時に実現される「あなたは幸いだ...あなたは報われる」という約束は、永遠に消えることがない。主よ、私にいつも永遠の報いを求める心をお与えください。sese06

年間第31火曜日 
みんな招待をことわった。 
ルカ14・15-24

1 イエスが語った「盛大な宴会」は、神の国に譬えて語られた言葉です。質素な食生活を送っ ていた当時の人々にとって「宴会」は、その言葉自体がとても大きな喜びを想起させるものでした。宴会の主人とは、真の神です。真の神は、大きな喜びの待つ祝宴に全ての人を招いているのです。

2 ところが最初に招待された人々は、何かと理由をつけてその招待を断りました。財産、仕事、結婚と理由は様々でしたが、そこに共通していたのは結局彼らが自分の事ばかり考えていたという点です。この人々は第一義的には先に神の招きを受けたユダヤ人を指しますが、神の招きを受けつつも自分の都合、希望、願いばかりを優先させてしまうという点においてはあなたも無関係とは言えないのではないでしょうか。信仰における優先順位を「私」でなく、「神」にしていますか。生活、信仰のあり方において自分を脇に置き、神を中心に据え直すべき点はありませんか。

3 怒った主人はしもべに命じて町中の貧しい人、身体の不自由な人を片端から宴会に招き入 れました。なぜ、そこまでするのでしょう。ここには真の神の熱情が表されています。裏切られても拒絶されてもなお人の救いを取りやめにせず、神の国の祝宴即ち神と人が共に生きる喜びを実現したいと神は願っておられるのです。それはお返しなどできない者に与えられる、恵みの招きです。御子の十字架による救いという大きな恵みを与えられたあなたも、その招きを受けた一人なのです。

4 この大きな愛から何を学びますか。①恵みの招きを受けた者としてどう生きるか⇒どんな 人も十字架に表された神の大きな愛に釣り合う愛など持ち合わせていません。ならばせめて救われた我が身の全てをもって神の愛を素直に受け止め、心からの感謝をささげましょう。②恵みの招きはまだ継続中である⇒「まだ席はあります」と聖書は告げています。神の愛と恵みには限界がなく、御国の席はまだ空いています。一人として滅びる事を望まない神の御心を我が心として、まだこの恵みを受けていない人々に福音を伝え、キリストを証し、招待しましょう。
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招待をことわる理由は、自分の問題のぼうが重要だと思っているとき、いくらでも作ることができます。例えば、インカルチュレーションを口にする人の中で言い訳に聞こえるときがある。「典礼が変わらないと人々が教会に来ない」とか。イエスは人生の諸問題にもまして、あるいは文化の諸問題にもまして神の呼びかけに耳を傾けなければならないと述べます。そのために、旧約の預言者たちの「おどし」をかけます。「父は怒って、招待客を追い出し、貧しい人を招く。
お返しのできない人を招きなさいという昨日の教え(ルカ14・12-14)が、具体的に示されています(ルカ14.21)。 同時に、招かれた側の心構えについても教えています。すべてをさしおいて、福音の呼びかけに答えなければならないのです。本当に神に、救いに飢えていれば、昔の人々のように、ラテン語のミサでも十分満足できます。
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「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という発言の背景には、おそらくそれは「難しいだろう」、「手の届きにくいこと」、「できる人は少ない」、「いつのことなのか分からない」というような考えがあったでしょう。イエス様の答えはそのような考えを覆します。招かれる人は「大勢」だとか、断る人もいるので席があまることもあると。そして、「宴会の時刻になった」とか、「もう用意ができました」ということばからすると、それはすでに起こっていますと。

神の国で食事をする幸いは、私たちの前にすでに用意されている。私は今、この幸いへの招きを受け入れ、味わっているだろうか。主の宴会への招きに「一切の待ったなしで」応えられるのは、貧しさの中にある人だけ。主と共に生きるなら、主の惜しみない歓待を受けて悦びに満たされる。
主よ、あなたの愛をいただく招きの声を聴き分ける耳と応えていく心の貧しさを与えてください。
sese06


  年間第31水
ルカ14・25-33

聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということとは違います。それでしたら、まだ自分中心的な生き方となるのです。
 「自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのです。
 自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的にはイエスに従って生きるということなのです。ですから、それは無我の境の悟りを開くというようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾けながら、神に従順になろうとして生きるということなのです。
 自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかです。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
 自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのです。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということです。
この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかります。これは今の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいというようなことでしょうか。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということです。
大事なことは、イエスに従うというとです。イエスの「前」に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完璧主義者になるのです。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
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長田弘(おさだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何か
をやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩であります。
 何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
 そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられたということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
 

年間第31木
ルカ15・1-10



バッハには、《心地よきヴィーデラウよ》BWV30aと呼ばれる有名なカンタータがあります。ヴィーデラウ(Wiederau)は町の名前で、バッハの研究者、礒山雅((いそやま ただし)さんがドイツに行って現地を訪れたという話が最近聞きました。お店すらほどんどない町で宿を探したいきさつを報告していました。隣町からタクシーを呼んでもらって訪れた現地の閑静な一角には、小さな小さな離宮が、ぽつんと立っていました。バッハの時代には、今ある住宅もなく、田野の中だったことでしょう。この地域を与えられた荘園領主へニッケのために、52歳のバッハはカンタータを作曲し、離宮の庭園か内部で初演したわけです。

イメージを蓄えて聴くこの曲は、驚くほどみごとな作品です。運命、幸運、時、エルスター川という4人の寓意的人物が登場して「ドラマ・ペル・ムジカ(dramma per musica)」を展開し、トランペット・グループを擁する大編成の音楽です。その壮大な音楽を、見聞した現地とのミスマッチを感じつつ聴いた磯山さんは、「バッハさん、あなたもとことん手抜きを知らない人ですね!」と心で呼びかけてしまったというわけです。
今日の福音書の喩えは、まさに「とことん手抜きを知らない」神様の姿を描いています。

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ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのです。
一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使
たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということです。神はひとりの人
間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということな
のです。
主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一
緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということです。どうしてお前たちにはそれがで
きないのかということです。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えてい
るのです。自分たちが天国にいければいいと考えていたのです。

できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増す
というものなのであります。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己
的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということでありま
す。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります。
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何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。
今日の福音書の神様の様子はそれに似ています。「悔い改める見込みのある人を必死で捜し
出すこと」とまとめてることができると思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一
匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込み
があると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(
「へそくりがね」だと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だ
としたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。
私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学び
なのではないかと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見
込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、そこでわたし
たちの生活に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会(共同体)のなかには、手を付
ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかと思うようになります。
羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会
に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということ
です。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。
または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいる
として、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだなあということも
あるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみることでしょう。
イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値が
あると仰っているのです。


年間第31金
ルカ16・1-8

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「旅の恥は掻き捨て」という諺がある。旅先では知っている人もないから、どんなに恥ずかしいことをしてもその場限りのものだと、という意味だそうです。
今日の福音書の男(管理人)は、はっきりと自分のおかれた状況を見つめています。ぎりぎりの状況の中に追い詰められて、それを切り抜けるために、恥を掻き捨て、生き抜こうとしています。イエスは、この男の不正な行為をみならえといっておられるのではない。ぎりぎりの状況を意識して、そこから抜け出そうとする切実さを、弟子たちに示そうとされたでしょう。イエスの目から見れば、彼らの心はどこかにゆるみがあり、どこかのんびりしています。切迫感がありません。イエスはそうした弟子たちの姿勢をもどかしく思って、危機の迫った状況に置かれた男の必死に生きようとする姿をもってこられたのではないかと思います。
なりふり構わず救いを求めようとする姿勢、それは自分が滅びの危機にあるという飢え・渇きから生まれてくるのだ、ということをイエスは私たちに伝えたかったのだと思います。弟子たちと同じように私たちにも生ぬるいところがある、迫った危機にあるという意識は促される。
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(文:西経一神父=神言修道会/カット:高崎紀子)

ひたむき、という美しいことばがあります。ひたむき、ということばの響きが思い描かせる振舞いの美しさがあります。人生を歩みゆく者の生きる姿そのものの美しさを映し出します。「ひたむき」に対して、これが「ふたむき」になると途端に印象が悪くなります。ふたごころ、うらおもて、かげひなた、二枚舌、いずれも一連の共通した心象風景の中にあります。「ふたむき」とは、「二人の主人に仕えること」あるいは「神と富とに仕えること」であって、それはひたむきな信仰に反する姿となります。

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」という教えも同じ方向を指し示しています。ここに「忠実」と訳されている語は、日本古来の表現で言えば「まこと」を尽くすという意であって、誠実で裏表のない生き方を表現するものです。それは「ま水」「ま心」といった語と同じ線上にあって、混じり気のない、純粋な、分かたれない心で事に対するということであって、ひたむきに生きる者の姿にほかなりません。

今日の福音に登場する「不正な管理人」と呼ばれる人物もまた、「二人の主人に仕える」ことの放棄、を迫られています。それは、財産の管理を委ねている主人と、その主人の下で働く小作人(こさくにん)、そのどちらの立場に立つかの選択です。地主である主人と、年貢(ねんぐ)として納めるべきオリーブ油あるいは小麦を納めることができずに、その累積負債に苦しむ小作人との二者択一です。あるいは、管理人が上乗せした手数料。

この管理人は、地主である主人ではなく、負債に苦しむ小作人の側に立つ決断をしたのです。「百バトスの油」の借用書を「五十」に、「百コロスの小麦」の借用書を「八十」に、それぞれ書き換えさせる、それはたしかに主人にとっては不正であります。しかし、当の主人は、管理人の賢いやり方をほめたといいます。なぜなら、負債に苦しむ小作人の側に立つことが、同時に管理人自身の生活を立てることにもなるからです。

ひたむきに生きる者は決断を迫られます。それはわが身を削る痛みを伴います。「あれもいいし、これも捨てがたい」という態度から、「これを捨て去る」という痛みを引き受ける決断を要します。もっとも、わたしたちの日常は「とりあえず」と「さしあたって」そして臨機応変によって対処されるのであって、そうした決断は人生途上にあって頻繁にあるものではありません。しかしながら、「神のみを神とする」という信仰者の姿は、すでにひたむきであります。つまずいても、ころんでも、傷だらけになっても、なおまた立ち上がって神とひたむきに向き合い、主に向かって歩み続ける者に対して、イエスさまは「天の国は彼らのものである」という祝福を与えられることでしょう。

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要するに友達を作っておけば、いざというときに役に立つよ、ということぐらいでいいと思います。
 ただここで主イエスが言わんとしていることは、案外はっきりしております。それは富の奴隷になってはいけないが、富を敬遠してはいけない、富に対して賢くふるまわなてはならないということを、光の子、弟子達に語っているということであります。それでも主イエスがここで、「不正な富をもちいてでも、友達をつくれ」といわれた時、それはお金をばらまいて、友達をつくれと、ただいわれたのではなく、その人の借金をゆるすことにそのお金を用いて友達をつくれといわれていることは大事なことだと思います。主イエスがいつも人を裁いてはいけない、いつも人のあやまちを許しなさい、そうしたら天の父もあなたのあやまちをゆるしてくださると繰り返しいわれているのがこういうところにもあらわれているのではないかと思います。友達をつくるということは、その根底にはその友達のあやまちを許す、罪を赦すということによってしか、友達をつくることはできないということであります。それも大変難しいことだけどそうしなさいということであります。不正な富をもちいてでも、そのようにして友達をつくりなさいというのであります。天国への賢い入り方は、他人の負担を軽くすることである。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm


  年間第31土
ルカ16・9-15

握っている物を手放さなければ、他の物をとることは出来ません。人生は手放すことの連続ではないでしょうか。私達が従いたいと願っているイエスは、名声・富…あらゆるものを手放され、
最後は十字架上で命を手放されました。それは、神と罪人である私たちへの愛を選び取られたからでした。手放すことには痛みが伴うものですが、今、私達には、その痛みに共に耐え、支えてくださるイエスがいます。
イエスよ、この世の富よりあなたに従おうとする私達の歩みを助け、強めて下さい。sese05

                                                                                                  
 

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