34 per annum

 王であるキリストの祭日と典礼暦の終わり

この祭日を含む典礼暦の終わりの時期の聖書朗読は、とくに終末的な性格を帯びた箇所が選ばれています。今週は第1朗読ではダニエル書が、福音朗読ではルカ福音書の終末に関するキリストの説教の箇所が含まれています。そこではキリストが再び来られることへの待望、神の支配の到来と救いの完成へへの待望が中心主題となっています。そしてこの救いの到来を待ち望む主題は、次の日曜日から始まる待降節へと受け継がれていきます。こうして典礼暦は常に循環して、救いの完成に向かってキリストの救いのわざを記念していきます。

 

年間第34月曜日
ルカ21・1-4

「 長者 ( ちょうじゃ ) の 万灯 ( まんとう ) よりも 貧者 ( ひんじゃ ) の 一灯 ( いっとう ) 」ということばがあります。これは「 阿闍世王 ( あじゃせおう ) 受決経 ( じゅけつきょう ) 」に出ていますが、信心深い貧しい女が仏に一灯(ともしび)をささげた功徳が国王や 富者 ( ふしゃ )の万灯にまさった、ということです。確かに神の前でささげる額は問題ではない。しかし、それはど
うでもよいということではない。ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した部分によってきまる、と言いましたが、なるほどなと思う言葉です。貧しいやもめは生活費全部をささげたのだから、残るものはないということになります。だからこれほど大きななものはない。
 献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくるものでなければならない。いかに敬虔な思いをもってささげても、信頼の伴わない献金は、どぶへ投げたようなものです。やもめの献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊い。(榎本) 
イエスも神にすべてをささげる生き方を十字架の死において示します。

年間第34火
ルカ21.5-11

ニセ救世主、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天変‥‥。福音は、人生の苦しみや悩みに目をつぶった非現実的な楽天主義ではなく、世の終わりまで続く人間社会の困難を知った上での、イエスの愛と命と希望のメッセージです。
様々な暗いニュースに沈みがちな心を奮い立たせながら、この世の現実のまっ只中に共にいて、闇に光をもたらしてくださる神の愛を、今日も信じて生きることができますように。sese04
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イエスはこの世の見事な飾りや権力はいとも簡単に崩れ去ることを予告なさいます。また、自然現象や戦争、世の不調和にいたずらに脅(おびえ)えないように諭されます。「惑わされないように気をつけなさい。」外にあるものに目を奪われるのではなく、心の深いところにある神からの静かな声に耳を傾け、神に信頼する心の平和のうちに歩み続けることができますように。sese06


年間第34水
ルカ21.12-19



神の愛の宣教者会の2代目総長としてシスター・ニルマラ・ジョシーが選ばれたのは1997313のことであり、マザー・テレサは半年後の199795日に87歳で亡くなった。なお、カトリックの女子修道会の総長は「マザー」と呼ばれるのが通例であるが、ニルマラは「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人である」という理由により、総長職を継いだ後もマザーを名乗ることはなく、2015623日に亡くなるまでずっとシスターを名乗り続けていた。これは3代目総長のシスター・メアリー・プレマも同様である。

バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。

マザーテレサの宣教を引き継いだ人は、カトリックに回心したとき、父親(Brahmin family)が刃物を持って娘のところにやって来たということを読んだことがあります。

親に憎まれる。

2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。

 1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるというわけではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命をかち取る」ことができるということです。

 「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。19節の「命をかち取る」の「命」はギリシア語では「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」は「たましい」とも訳される言葉です。ある辞書には、「なまの人間の人格生命の本質的部分」という説明がありました。決して奪われることのない本当に大切なものは、この「本質的な部分」だと言えるでしょうか。なお、「忍耐」と訳された言葉の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、「神のもとに踏み留まること」と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない「本質的な部分」だと言うこともできるでしょう。


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日常の只中で自分の立場が脅(おびや)かされる恐れや、裏切られ、悲しみの淵に沈み込むことがあります。そのような時、神は私たちに言葉と知恵を授けてくださるから、自分で、あれこれ勝手に動かないように決心することを促されます。髪の毛一本に至るまで守り抜いてくださる神への信頼に留まり、忍耐するように望まれています。神からの憐れみが必ずある、そういうことに信頼をおいて、「待つ」恵みをいただくことができますように。sese06
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末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
 キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所の後、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
 「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
 わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
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 ダニエル書 第5章

   歴史の中で、権力を持っている者が、神とキリストのご性質に対して挑みかかるエピソードは、いくらでもあります。卍(まんじ) 鉤十字(かぎじゅうじ)ナチスのシンボルを選んだヒトラーもそうですし、レーニンやスターリンも、メシア信仰の真似をしていましたのです。これはまさにアッシリヤやバビロンが行なったことであり事態は深刻です。戦前には、天皇を高く引き上げ、キリストを引き下げる動きがありました。また、民主党の幹事長だった頃の小沢一朗は、唯一神また西洋の神は排他的であるとし、批判する人々がいます。自民党と古くからつながりのある団体に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。これは単なる政治家の一発言だとして看過している人がいますが、ダニエル書によれば、国の行く末を決めてしまいかねない、神の裁きを招きかねない恐ろしいことなのです。

ダニエル書のメッセージは、軍事)力によらず、信仰によって、この迫害の時代を乗り越えていく。これこそが信仰による戦いのあり方であり、仮にそこで目に余るような不幸な出来事が起こったとしても、「神は必ず、そうした暴虐による人的損失、生命の損失に対して報いてくださる」という確信に立つのです。
 
  その意味で、この二つの物語は、アンティオコス4世の治世において、迫害下に生きるユダヤ教の人々にとって、そうした信仰によってこの迫害を生き抜く、そうした希望を与えるものとなっているのです。
 


年間第34木
ルカ21.20-28

人生の荒波を越えて 


 この世の中にも戦争や暴動や飢饉や疫病が起きてくるように、私たちの人生もまたすべて順調に行くという人は少ないでしょう。「なぜこんなひどいことが起きるのか?」と不審に思うことも起きてきます。絶望するような時もあります。しかしイエスさまのみことばは、常に私たちに希望を与える言葉です。そしてその言葉は、天地が滅びても決して滅びない、無駄にされることのない確かなみことばであると言われます。 

 年前から話題となった映画「ザ・テノール」という映画があります。これは日本と韓国の共同制作映画で、韓国人オペラ歌手べー・チェチョルさんと、べー・チェチョルさんを支えてきた日本人の輪嶋東太郎(ワジマトウタロウ)さんというプロデューサーの、2人3脚の物語です。このことについて、その輪嶋東太郎さんが、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」で取り上げられていました。 

 輪嶋さんは2003年に初めてべー・チェチョルさんの歌を聴いて、「おそらくこれ以上のテノール歌手に人生のなかで出会うことはないだろう」と思い、惚れ込んで、一緒に仕事をするようになったそうです。そして2005年には日本での全国ツァーも成功させる。ところが、べーさんに甲状腺ガンが見つかった。そして手術によって、歌声を出すために必要な三つの神経を切断するに至りました。医者からは、「以前のように歌うことはあきらめて下さい」と絶望的な宣告を受けたそうです。 

 そういう中でも輪嶋さんは、べーさんをサポートし続けた。そういう支えにより、クリスチャンであるべーさんは祈りを通して神と向き合い、次第に平安と希望を得ていったそうです。そしてついに、「ぼくは病気になって良かったのかもしれない。おかげで、人生で何が一番大切で、何にために歌うのかあらためて教えられた」という心境に至ったそうです。その言葉に感動した輪嶋さんは、さらにべーさんの回復のために奔走することになりました。そして2008年、べーさんは再び舞台に復帰することができました。 

 さて、輪嶋さんのほうはクリスチャンではないどころか、キリスト教が大嫌いだったそうです。事務所には神棚を置いて欠かさず水を替え、コンサートがある時は、般若心経を唱えながら会場を歩き成功を祈願するような人でした。もらった聖書も神棚に置いたままだったそうです。ところが、2012年、制作中の映画「ザ・テノール」が暗礁に乗り上げたそうです。すでに制作費として億単位のお金を投じていた。それで自殺まで考えたそうです。神社仏閣や、先祖に手を合わせてお祈りした。そんなとき、韓国人牧師にもらった1冊の信仰書を手にとって読み出した。読み進めていくうちに、乾いた降る雨のように言葉がしみこんで、それからは聖書を手放せなくなったそうです。そして聖書を夢中で読むようになった。そしてキリスト教信仰を持つようになりました。 

 雑誌の中で彼は言っています。「聖書の言う通りに生きれば、どんな課題も必ず越えていける。あの挫折を通して、本当の意味で導いていただいたと感じています」。 

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われた主の言葉の通りだと思います。私たちは危機を恐れます。苦しみを恐れます。しかし、今日の聖書は、私たちが依り頼むべきものがある。それはイエス・キリストご自身であり、その変わることのないみことばであることを教えています。 


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上があるからには下がある。左があれば右はある。物質あれば精神もある。目に見えるものはあれば、目に見えないものもあるだろう。過ぎ去る世界があれば、過ぎ去らない世界もある。キリストは過ぎ去るものの類(たぐい)と違う、と。
わたくしたちの命をお造りくださり、わたくしたちを御手の内に置いてくださっている天の父なる神さまは、たとえわたくしたちが死んでも、それによって何かもう、一仕事終わったと、手を離しておしまいになる御方ではありません。最後の最後にわたくしたちを死から呼び覚ます、救いの日に至るまで御手の内に抱いてくださっています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。あなたは見ることになる、と主イエスはわたくしたちに約束してくださいました。
この約束の内容が確かであることを、天の父なる神さまは御子イエスを死から復活させてお示しくださっています。さらに神さまは礼拝において、御言葉と聖礼典とによって御霊を降し、この救いの日がわたくしたちにやって来ることを約束してくださっています。わたくしたちはこの約束と共にあって、生きるにも死ぬにも、天の父なる神さまの懐へとこの身をお献げしてまいるのです。
私共は、東西ドイツの壁の崩壊を見ました。ソ連の崩壊も見ました。本当に驚きました。しかし80歳代の方は、先の大戦において日本の敗戦、日本の滅びを体験されました。私共はバブルの崩壊の後、銀行の倒産も見ました。どんなに確かに見えるものも、やがて滅びる時が来る。そのことを私共は何度も見てきたのであります。この肉体もそうなのです。一つ一つ衰えていき、やがて死を迎える。しかし、それは終わりではないのです。本当の終わりの時、それは主イエスが再び来られる時なのです。生ける者と死ねる者とが裁かれる時なのです。
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自分が生きている間には起きて欲しくない災害(人災や天災)の描写が続きます。しかし、イエスは言うので
す。それらが起こったら、怖れて逃げまどうのではなく、「身を起こして頭を上げなさい。あなたが
たの解放の時が近いからだ。」私たちを愛してくださる神がいます。どんな災いも怖れることはない
のです。要は私がそれを信じるかどうかです。信じられるでしょうか?信じたいです。主よ、信じさ
せてください。sese04 パウロも言うように、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ロマ8:35)
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この世が終わってしまう、しかしそれがすべての終わりではないというのです。そこからさらに先があるということなのです。それが主イエスが語る終末であり、聖書の語る終末なのです。この世が終わってあとに、新しい事が始まるというのです。そこから真の新しい事が始まるのだ、そのときに、人の子が、つまりメシアがもう一度来る、今度は大いなる力と栄光とをもって雲に乗って来るというのです。

終末というのは、いつやってくるかわからないのです。そうであるならば、終末がいつくるか、その前兆はなにかと、終末に備えて、晴れ着を着るようにして、なにか改めよう、などと、そんなことばかり考えるのてはなく、いつ来てもいいように、今の日常の生活において、この平凡であるかも知れないこの毎日の生活において「絶えず目を覚まして祈っている」ということが大事なのだというのです。あの羊のほうに分けられるとイエスに言われた人々は、ひとつも大げさな愛をした人ではないのです。ごくごく日常の生活において、われわれがしているようなこと、自分の目の前に困っている人がいたら小さな親切をしてあげる、どこか難民がいるところに出かけていって命がけの愛の実践をしにいく人のことではないのです。病気の人がいたら、ただ見舞いにいくだけ、そんなことはわれわれが今日常の生活においてできることです。

  終末に備えるには、われわれはまず神の愛を信頼し、望みをそこから与えられて、耐え忍ぶということです。耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取る、救われる、というのです。耐え忍ぶということは、自分からじっとしている、動かないことだと、思われがちですが、しかし、二○節からをみますと、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げよ。市内にいる者は、そこから出ていくがよい。」と言われております。ここでは「逃げなさい」といわれています。何もじっと忍耐していなさいとはいわないのです。耐え忍ぶということは、何か我慢することではないということです。我慢して自己を主張したり、我を張ることではないのです。そんなかたくになってはいけない。逃げなくてはならない時にはさっさっと逃げなくてならないのです。

 つまり、忍耐するということは、我慢して歯を食いしばって我慢する、我を張るということではなく、あくまで、神の愛を信じて、神が守ってくださるのだから、何があっても、天体に変化があったとしても。われわれの髪の毛一本も失われることはないということをどこに行っても信じていけ、ということなのです。 神の愛をどこまでも信じていきなさいということです。それが終末への備えなのです。 愛と信仰と希望、それがわれわれが終末に耐えさせる力なのです。
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霊魂の不滅

肉体は決して自己同一を保つことのない物体的なもの、目に見えるものであり、合成的なものである。(五才の時の私の体と今の体を比べると、前者は今の半分だった。それから、五十年間の間、私の細胞は何回も死んで、新しくなっています。五歳の時の体の物質は一つも残っていません。)7~10年間ですべての細胞は変わる。
したがって、肉体は散り散りになる。
これに対して、魂は、常に自己同一を保つ神的なもの(イデア)、目に見えないものに似て、常に自己同一を保つ、目に見えないもの、非合成的なものである。そして、非合成的なものが散り散りになることはない。
したがって、魂が死後、散り散りになることはない。

「全世界を手に入れても、魂を失ったら、どうなるのか」ということばがあるが、今日の福音書は同じことを逆の観点から述べています。「全世界は滅びても魂は滅びない。魂は大事だよ」と。

Different types of cells have different lifespans, e.g.:

・we shed our skin cells about every 35 days
・red blood cells 赤血球 せっけっきゅう live about 120 days, platelets 血小板けっしょうばん 6 days and white cells 白血球はっけっきゅうless than a day
・most of the adult skeleton is replaced about every 10 years
・the average age of a fat cell seems to be about 10 years
・a 25-year-old heart replaces about 1% of all its cardiomyocytes (heart muscle cells ) over the course of a year, while a ・75-year-old heart replaces about half a percent
・our neocortical neurons, the cell type that mediates much of our cognition, are produced prenatally and retained for our entire lifespan



年間第34金
ルカ21.29-33

この世の混乱とか危機の時に、われわれを支えてくれるのは、われわれの意志とか決意とかと
いうものではなく、希望なのです。
ドイツのナチスによって造られた強制収容所のアウシュビッツでの過酷な生活に耐えて生き延びた人は、な
んらかの意味で希望をもっていた人だと、その体験を記したV・フランクルという心理学者が書いています(『夜と霧』)。
それは丈夫な体の持ち主がその過酷な中を生き延びたのではないというのです。希望をもっ
ていた人が生き延びたというのです。どんなに弱々しそうな体つきをしている人でも、その人が何か
希望できるものをもっていたら生き延びたというのです。その希望はたとえば、愛する妻との再会と
いう希望というようなことです。そういう希望をもてる人が生き延びたというのです。そういう希
望をもてなくなっている人はどんなに体力があっても、気力が衰えて死んでいったというのです。
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世情(セジョウ)の不安や天変地異(てんぺんちい)などが起こるとき、神の国が近づいているとあります。この世の終わりかと思われるようなとき、神の御言葉は生きて働かれます。すべてを失ったように思えるとき、やっと曇りのない目で神を仰ぎ見ることが出来ることがあります。
この世のものの変化に心を騒がせず、神から送られてくる徴(しるし)だけに、心を留めることができますように。sese06
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イザヤ書(四○章)では、イスラエルの民がバビロンで囚われの身の生活を強いられていた時に、そのバビロンから解放される救いの時がきたと預言するのです。その時にその預言者はこう語るのです。
 神がこう言われるというのです。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役(ふくえき)の時期は終わり、そのとがはすでにゆるされた」と慰めを語れと神から告げられたというのです。そしてこういいます。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ、しかし神の言葉はとこしえに変わることはない」というのです。
 これは人を慰める言葉として大変不思議な慰めかたです。つまりいってみれば、人間は所詮死ぬ運命にある、野の花が枯れてしぼむように、人間はやがて枯れ果てるというのです。そういって、慰めを語りだすのです。不思議な慰めかたです。所詮人間は人間に過ぎない、そう言ったあと、しかし神の言葉はかわることはない、というのです。つまり、神ご自身の愛の言葉は変わることはないということです。 
終末というのは、「天地は滅びても、神の言葉は決して滅びることがない」ということが明らかにされる時なのです。
いちじくの木が枯れて朽ち果てるだろう、その時に終末が来るといわれたのではなく、木が芽を出したときに、夏が近づいたとさとりなさい、というのです。イエス・キリストが終末というものをどんなに輝かしい時として、希望の時として考えおられるかということです。  
終末というのは、大地震が起こったり、戦争が起こったり、天変地異(てんぺんちい)が起こったりして、この世が混乱し、滅亡してしまう。それが終りではないのだと主イエスはいうのです。それは終末の前兆にすぎない。終末はそこから始まるのだというのです。なぜなら、終末というのは、ただこの世が終わる日だというのではなく、この世が終わったあと、神が神として立ってくださる時が来る日だからです。(第一朗読で言えば、「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21・2)が見えてくる日です。)
終末というこの世の破滅の時に、なお希望をもつことができるのだというわけです。われわれには神が神として裁きの座にたってくださる、そして神が本当の救いをわれわれすべての人に与えてくださる時なのだ、だからわれわれにはこの日は希望の日なのだというのです。
終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているなら、その悲惨さから逃れようとするでしょう。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思います。

年間第34土
(ルカ21.34-36)

イエスから私のところに、“急だけど、今日会いにおいで”あるいは“突然だけど、今日会いに行く
から”というメッセージが届いたら、どう反応するでしょうか。今日が「その日」かもしれません。
“はい、喜んで!”という答えが出るでしょうか。
明日から教会の暦は待降節に入ります。主の降誕を祝うクリスマスを準備すると同時に、主の再臨に
心を向ける季節でもあります。今日一日を本気で大切にするかどうか、私の姿勢が問われています。
sese04
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生きている中で世の色々なものに心は支配され、鈍くなっています。目を覚まして祈り続けることの
難しさを感じます。けれど、私たちの喜びの源はどこにあるのかを心の底から解るとき、そこへ至るために、ただ、神に心を向けて祈り続ける以外に出来ることはないと気づきます。
神よ、目を覚まして祈り続ける恵みをお与えください。sese06
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「放縦や深酒や生活の煩い」は心を鈍らせ、生活の優先順位を狂わせ、ひいては神と人への愛を損なうものです。
今私にとって、具体的に何をいうのでしょうかイエスはすべてをよくご存知で小さな声でそっとささやかれることが多いようです。
私たちはそのささやきを聴かず容易に無視してしまいがちです。
明日から待降節。希望と喜びのうちにキリストの到来に心を向ける季節が始まります。私たちが
いつも目を覚まし神の促しに敏感になっていることができるよう祈りましょう。sese07

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