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年間第33月
ルカ18・35-43
目が見える群衆はイエスを「ナザレのイエス」と言っています。しかし目が見えない人はイエスを「ダビデの子イエス」と言っています。イエスが誰であるかがわかるのは外面的なことによるのではありません。イエスを見るのは心の目、ここにこそ、人格的な出会いがあるのではないでしょうか。
主よ、あなたを見る眼を開いてください。sese06
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これは弟子達がイエスの十字架の出来事を理解できなかったということと結びつけられての記事であると思います。弟子達がいかに盲目であったかということです。そうした中でわれわれが今求められていることは、求めなくてはならないことは、「見えるようになる」ということなのではないかと思います。「主よ、見えるようになることです」と私たちは今切実に求めなくてはならない。
何が見えるよになるのか、それはイエスの十字架の死です。それが見えるようになること、それをイエスは今私たちに求めておられる。「主よ、見えるようになることです」とイエスに求める、それが私たちの信仰でなくてはならないということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke69.htm
年間第33火
ルカ19・1-10
ザアカイ
ザアカイにはハンディキャップ(低身長)と希望(イエスを見たい)があり、矛盾するこの二つに対して積極的にそして勇気で対応しました。自分の限界に閉じられらこちなく、あきらめずに行動を起こします。人生では、恐れではなく、希望に向けて行動する人だけが前進する、というようなことを教えてくれます。
ザアカイは若い時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとある人聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、まわりからは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。
イエスが通り過ぎて上を見上げました。 イエスの眼差しは、人の罪とまるのではなく、常にその人のの貧しさ、完全な人生にまだ欠けているものに目を向けるものです。そこで、美しい出会いがあります。喜びが生まれます。改心が起こります。
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ザアカイがイエスを見つけるより先に、イエスのほうが先にザアカイを見つけて、イエスのほうから声をかけてきたということです。
それはちょうど、あの放蕩息子を待っている父親の姿を思いださせるのです。父親は自分から去っていった息子がいつ帰ってくるかを毎日のように待っていた。畑仕事を終えた夕方、息子が去っていったほうを見つめて待っていたのです。それで息子が帰ってきた時には、父親のほうから先に見つけて声をかけたというのです。
これも考えてみればおもしろいところです。といいますのは、あの金持ちに対しては、イエスは「持っているものすべてを売り払って貧しい人々に施せ、そしてわたしに従ってきなさい」と言われているからです。それなのにここでは、ザアカイは「自分の財産の半分を」といっている。それをイエスはそのまま何も文句もいわずに、それを受け入れて「救いがこの家にきた」といわれているのです。
金持ちの場合には、救いを得ようして、何をしたらいいかという問いから始まった問題でありましたので、イエスは救いというのは、自分が何をしたら、という問題ではない、何をしたらという問いそのものを捨ててしまうことだ、つまり自分を捨てることだ、それにはあなたのもっているものすべて、すべての財産を捨てることだ、つまり自分を捨てることだというのに対して、このザアカイの場合にはもうイエスとお会いして、イエスにきていただいて、救われているのです。イエスは罪人の客となったのです。それでもう救われているのです。救われるために何かをするのではなく、救われた感謝の証として、自分の財産の半分を貧しい人々に施すということなのです。
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ある青年は、川で祈るインドの神聖な老人を見た。終わったときに、その青年は言った、「祈りを教えてください」。そうすると聖なる老人は青年の頭を捕まえて水の中に入れてしばらくそこに保持した。しばらくしてから頭を放した。息を取り戻してから青年は言った、「なぜそんなことをしたのですか」。老人は答えて言った、「今私はあなたに祈りの第一レッスンを与えた。水中にいる時のように呼吸することを望むほどに祈りたい気持ちがあれば、祈ることは学べます。」
イエスを知ることも同じです。ザアカイはイエスを知りたいがために木に登った。私にとって「木に登る」ことはなんでしょうか。私はどのぐらいキリストを知ることを望んでいるのでしょうか。
"Christ is not valued at all unless he is valued above all" (St. Augustine)
「キリストはすべてに勝るものとして評価されなければ、十分評価したことにならない」(アウグスティヌス)
年間第33水
ルカ19・11-28
ヘロデ大王の息子、アルケラオがユダヤを治める王権を得ようと、当時ユダヤを支配していたローマまで旅立った。当時はローマの皇帝からそのような権限、お墨付きをもらわないと、王位にはなれなかったわけです。ところがすぐそのあと、ユダヤ人の代表者五十人の人がローマを訪れ、彼を王にしないようにという陳情(ちんじょう)をしたというのです。しかしアルケラオはローマから王位を受けて帰り、ただちにこの五十人を殺した。この事はユダヤ人に衝撃的な事件だったというのです。そういう記述がヨセフスという人が記した古代史に残っている。イエスもその話を知っていて、それでこの話を用いたのだろうといわれているのです。(マタイ2・22参照)http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke71.htm
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このイエスの話の中心は、最後の僕のことです。一ムナ(タラントの1/60)を主人が帰ってきた時に、そのまま差し出して、主人からひどく怒られたと言う話です。彼はなぜそうしたか。つまり、この一ムナをなくすことを恐れて、そのままにしたのは、彼の主人に対する誤解がそうさせたと言ってもいいと思います。私たちも神というかたを悪いことをしたらただちに地獄に落とすかただと思いこんでいたら、私たちの人生はずいぶん暗い人生になるし、戦々恐々(せんせんきょうきょう)として、人生を送ることになってしまうと思います。
私たちはイエス・キリストを通して、父なる神はもうそのようなかたではないことを示されたのです。従ってこのかたにこそ、本当の神であり、本当の王になって欲しいかたです。
アケラオは確かに残虐な人物であったからそんな人間が王になっては困ると訴えるのも当然かもしれません。しかしイエス・キリストはアルケラオとは違うのです。このかたこそ私たちの王になって欲しいかたなのです。このかたこそ私たちの王にしなくてはならないのです。もう現代は神なんかいらない、私たち人間がすべてを支配すればいいのだというところに、今日の世界の危機であり、そこにこの物語のひとつの意義があると思います。もし私たちに私たちを超えた存在としての神を認めないとすれば、報復に対しては報復という、復讐という連鎖反応を絶ち切ることはできないと思います。弱肉強食の世界になります。
私たちはイエス・キリストが再び来る終末の時まで、それぞれ与えられた一ムナを生かしきっていきたいと思います。そのためには、あの十字架と復活において示されたイエス・キリストこそ本当の王であることを、そのかたが終末の時に実際に王となってくださることに望みをおいて、この地上での生を生きたいと思うのであります。
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僕たちはそれぞれ同じ金額を預けられました。しかし返した額は同じではありませんでした。私たちはみんな同じ恵みを頂いています。しかしその恵みをどのように管理しているかが問題です。みんなが同じ出発点に立っていると認めない人もいるでしょう。しかし神様のほうから見ると同じです。
ある人には知力がある、ある人には体力がある、ある人には技能があります。皆自分なりの賜物を持っています。各人がいただいた宝を主にお返しするためにどのように活かすかが大事でしょう。
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恐れ、不安の中にいるときは出来ることもできなくなります。緊張状態のスポーツ選手や受験生のようです。信仰生活も同じだといえます。いつも怖い神の姿、イメージをもっているならば信仰は萎縮します。悪い僕は主人は厳しい恐ろしい方であると自分の考えで見ています。私の神のイメージはどんなものでしょう。あらためて今日の福音の私へのメッセージを心を込めて受け止めてみましょう。
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ホミリア:知恵の書6・1-11と現代の大国政治・中堅国の視点から
兄弟姉妹の皆さん、
今日の朗読では、知恵の書が「知恵を求める者は幸いである」と語ります。ここでいう知恵とは、単なる知識ではなく、正しい判断と行動を導く神の賜物です。
現代を見渡すと、世界は大国同士の政治・経済・軍事の駆け引きによって揺れ動いています。核兵器や国際的な影響力、経済制裁といった大きな力が動く中で、私たち日本のような中堅国は、しばしば自分の立場をどう守り、どう貢献できるか悩まされます。大国の間で揺れる小国の現実は、日常の決断にも似ています。自分の利益だけに目を奪われれば、不安と混乱に巻き込まれてしまう。
知恵の書は、こうした状況に対して、まず神の知恵に耳を傾けることの重要性を教えてくれます。大国の力や政治的圧力に惑わされるのではなく、正しいこと、善なることを見極め、慎重に行動する力が求められています。日本のような中堅国が国際社会で果たすべき役割も、この知恵に根ざした判断と行動によってこそ可能です。単に強国に追随するのではなく、平和の維持、地域の安定、人道的貢献など、善を選ぶ勇気が問われます。
また、知恵は行動と結びついています。知恵を得ただけでは不十分で、それを実際の外交や社会的判断に生かすことが大切です。例えば、経済や技術の分野での選択も、他国との関係を慎重に見極めながら、国民と世界全体の幸福に貢献する道を探る必要があります。これはまさに、知恵の書が説く「正しい行いを伴う判断」の現代的な表れです。
兄弟姉妹の皆さん、
私たち一人ひとりの生活にも同じことが言えます。情報や意見が氾濫する中で、何を信じ、どう行動するかは、大国政治で揺れる世界の縮図とも言えます。神の知恵に耳を傾け、正しい判断と行動に生かす者は、混乱の中でも幸いを見出すことができるのです。
どうか、私たちが日々の選択においても、個人としても国家としても、神の知恵に導かれ、平和と善の道を歩むことができますように。アーメン。
年間第33木
ルカ19・41-44
イエスがこれから歩もうとする十字架の道、自分が死ぬ道、つまりは自分が負ける道、それこそが平和の道なのだ、そのことを今エルサレムの都の人々は知らないというのです。だからやがて周りの国に滅ぼされることになる、というのです。そして事実この時から40年経って、エルサレムの都はローマ軍によって破壊されてしまうのです。
イエスはこの時、「もしおまえも、この日に平和をもたらす道を知っていさえしたら、・・
しかし、それは今おまえの目には隠されている」と言っております。しかし今日私たちにはもう隠されていないのです。イエス・キリストの十字架のことはもう今日全世界に隠されていない筈なのです。それなのに、今日まだこの平和の道を歩むことはできないでいるのです。
もちろんこのことは容易なことでないことは痛いほどわかります。個人と個人の争いにおいても、これを実際に行うということは容易なことでないことは明らかです。自分の問題になったら、こんなことは言っておれないということも明らかです。まして、これが国家と国家の問題、あるいは、国家とテロの問題となった時に、こんなことで平和の道が来る筈はないと誰でも思うかもしれません。
しかしこの時のこのイエスの言葉が、今日実際にこの通り実現されるかどうかはともかく、この言葉は今や隠されていないということはあきらかです。このイエスの言葉は個人の問題においても、国家の問題としても、重みのある言葉として今日あるということは、われわれは知っておかなくてはならないと思います。しかしこの言葉が今や隠されてはいない、報復に対しては報復という道では真の平和は来ない、その事はもはや隠されていない、そのことを知って報復するのと、それを全く念頭に置かないで行動に移るのとではやはり違ってくると思います。
今イエスはご自分を十字架につけようとしているエルサレムの人々のことを思い、その将来がやがて滅亡の道をたどることを思って、泣いたというのです。子どもが親に反抗し、そして自分勝手な道を歩みだす、それは親から見れば確実に子どもにとって滅亡の道であることがわかっている時には、親も子の将来を思い、涙を流し、悲しむと思います。今もイエスはそのように私たち人類の将来を思い涙を流されているのではないでしょうか。
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パウロのフィリピへの手紙(2:6-8)にこういう有名な箇所があります。「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
この言葉今日の福音書を一番よく説明する箇所ではないかと思います。キリストは自分の長い旅の終着点エルサレムを前にして、自分のメッセージが受け入れてもらえない、そして十字架に上らなければならい、つまり自分の(人間的に考えれば)全面的な失敗を前にして泣きました。全知全能の神はそこまで低くならなければならなかったのです。私たちはこういう言葉で表される考えにとてもついていけない面があります。私たちの考えでは、全知全能の神ならさっさと問題を片付けてもらいたいということでしょう。だから、私たちは「平和への道をわきまえて」いないのです。「神の訪れの時」をわきまえていないのです。「平和への道」と「神の訪れの時」は深く結ばれています。だから、私たちは「神に心を閉じてはならない。きょうこそ神のことばを聞こう」(アレルヤ唱、詩編95)ではありませんか。
年間第33金
ルカ19・45-48
イエスは、「神殿の境内に入った」ように、私たちの内にも入ってこられ、時には厳しいやり方で、生きるべき道を教えてくださいます。祈りを通して神とつながっていなければ、私たちは自分が創られた目的を果たすことはできません。すべては神からいただいた恵みであることを忘れ、神の住いとされた私自身をも自分の利益のためにだけ使ってしまうかもしれません。
主よ、私の内から自分勝手な思いを取り除いてください。そして、あなたのみ心を行なわせてください。sese05
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神殿の中には祈る人もいれば商売をする人もいます。善人もいれば悪人もいます。イエスと、イエスに従う人々もいれば、商人もいるのが現実です。私たちの心も同じです。いつもよい心を持っているとは限りません。だからこそイエスの強い働きが必要です。私たちの心が祈りよりも利己的な打算に傾くとき、イエスの叱責は私たちを救います。主よ、私の心を清めてください。sese06
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知恵の書13章は、世界の美しさや力強さを見て、そこに神の存在を悟らない人間の愚かさを告げます。
「彼らは火や風や星を神々としたが、これらを造られた方こそ、さらに優れている方ではないか」と。
つまり、被造物の中にある神の痕跡(トレース)を見ながら、その源である創造主にまで目を上げない――それが人間の根本的な誤りなのです。
ルカ17章では、イエスがノアやロトの時代を引き合いに出して、「人の子が現れる日」について語られます。
人々は飲み、食べ、結婚し、売り買いし、建て、植え、まるで永遠にこの世が続くかのように暮らしていた――
その時、突如として裁きが訪れました。
この二つの箇所を重ねると、一つのメッセージが見えてきます。
それは、「被造物に酔いしれると、被造物のはかなさを見失う」ということです。
自然や技術や経済、私たちが手にしているものは確かに輝きを放っています。
しかしその輝きが、創造主を思い起こさせる窓ではなく、創造主を忘れさせる鏡になってしまうとき――
人は、ノアの時代のように「気づかぬうちに」滅びの時を迎えてしまうのです。
イエスは言われます。「思い出しなさい。ロトの妻を。」
彼女は、神に呼びかけられたのに、なおも後ろ――つまりこの世の栄光に心を残してしまった。
私たちも、被造物の中に神を見いだすのではなく、被造物に心を奪われているとき、同じように振り向いてしまうのです。
けれども、知恵の書はこうも語ります。
「被造物の美しさを通して、これらを造られた方を思いめぐらすなら、彼らは許されよう。」
つまり、世界の驚異は罪のきっかけにもなり得ますが、同時に、信仰への入り口にもなり得る。
それを決めるのは、私たちのまなざし――見る角度なのです。
今日、私たちはあらためて祈りましょう。
主よ、あなたの被造物の中に、あなたの栄光を見いだす知恵をお与えください。
あなたが来られる日、私たちの目が地上の眩しさではなく、
天の光を見つめていますように。
年間第33土
ルカ20・27-40
大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。sese06
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