エフェソ 1-3

エフェソ 1

宅急便の荷物のラベル

パウロがここで賛美しているご聖霊の働きは、一言でいうと、「証印」であります。私たちが、キリストにあって、真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたら、聖霊によって証印を押されます、とパウロは言っています。「証印」というのは、かつて、貿易の貨物がだれのものであるかを明らかにするためのスタンプでありました。昔は、今のように紙のラベルに印刷するのではなく、蝋(ろう)があって、自分の指輪の印を、まだ柔らかい蝋に押しつけました。それが固まったのが証印であるわけです。
  この手紙を読んでいるのは、エペソにいる信徒たちでした。エペソは、当時、貿易中継都市としてもっとも栄えた都市の一つでした。東の国々から、世界の中心地であるローマに対して数多くの貨物が輸送されました。そのエペソにおいて、貿易商人たちは、自分たちが売るための商品を梱包して、それから、今話しました「証印」を押しました。これが自分たちのものであることを、こうして証明したのです。積荷された船は次に、コリントの町を通って、イタリヤのポテオリという港町に行きます。ポテオリからローマは近くにあり、この港からローマじゅうに製品がポテオリで積荷は降ろされますが、そのときに、どの荷物がだれのものか証印によって判断するのです。貿易商人は使いを送って、自分の荷物を探させます。その使いは、「あった、あった!」と言って、主人の指輪の証印と、ろうそくに型どられた印の跡と照合した荷物を持ってくるのです。
  パウロは、エペソにいる人たちがよく知っている、この出来事を用いて、神の贖いのご計画について説明しているのです。私たちは、この貿易商人の商品であります。貿易商人、つまり所有者は神でありキリストです。私たちが、救いの福音を聞いて、信じたときに、神は私たちに、私たちがキリストのものであることの証印を押してくださったのです。それは、目に見える証印ではありません。神の聖霊ご自身が、証印となってくださっているのです。
  これはとてつもない霊的祝福です。私たちは、まだすべてのものが贖われているのを見ていません。私たちのからだは、相変わらずアダムから引き継いだところの罪を宿しているし、この世界もまだキリストの支配に従っていません。キリストの血によって、すべてのものは神の支配下にあるのですが、すべての者が神に従っているわけではないのです。ダビデが油注がれて、王となったのにもかかわらず、サウルがしばらくの間、王位に着いていました。同じように、キリストは今、神の右の座に着いておられるのに、悪魔は不法に、自分の王座をこの世に置いています。しかし、すべてのものがキリストの足下に来る日が来るのです。まず、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者になる時が来ます。そして万物が変えられて、すべてのものが、自然も、国も、経済も、政治も、文化も、教育も、家族関係も、すべてがキリストに服従する時が来ます。したがって、神は、すべてのものをご自分のものにしておられますが、その所有権をまだ行使されていないのです。
  その間、私たちも、また被造物も、自分たちが贖われるのをうめいて、待っているような状態にいるのです。しかし、私たちには、その道程にともにおられて、助け、慰めてくださる方がおられるのです。その方がパレクレトス、聖霊であります。創世記の学びをおぼえおられますか、アブラハムのしもべエリエゼルは、イサクの妻になる人を探しに行きました。リベカがいました。リベカは、エリエゼルの言い寄りに従い、彼とともにイサクのところに行くことを決めました。そこからイサクが住んでいるところまでは、かなり長い道のりです。しかし、その道すがら、エリエゼルはリベカに花婿イサクのことを話したことでしょう。彼がどのような人であるか、彼が父からどれほどの財産を受けているのかなどを話し、さまざまな言葉で彼女を励まし、慰め、助け、イサクに目を向けさせたはずです。これがご聖霊の働きなのです。聖霊は、この暗き世において、私たちを慰めてくださいます。キリストの栄光を知らせてくださり、私たちが苦しみの中にいても、希望を持つことができるようにしてくださっているのです。
  私たちはちょうど、証印を押されて、ポテオリに向かっている貨物のようであります。まだ所有者のものとなっていません。しかし、証印があるので、確かに所有者の手の中に入ります。その時が待ち遠しいです。所有者が、「これはわたしのものだ。」と言ってご自分のものとされる時が近いのです。このように、ご聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われていることを確認してくださるのです。
それでは次の節に行きます。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
  ここの「保証」というのは、「手付け金(てづけきん)」とか「頭金(あたまきん)」と訳すことができます。高い買物をするとき、自分が必ずそれを購入することを確かにするために、手付け金を払いますね。例えば家やマンションを買うときは、売主と買主の間で契約を結びます。そのときには、買主は購入代金の一部を売主に払います。それは、買主が、他の良い物件が見つけて、それに乗り移ってほしくないからです。買主が買うと言っているので、その間、他の人には売らないようにしておきます。けれども、途中で気が変わって、契約をキャンセルしたら、その間に本当は他の人が買ったかもしれないその機会を失ってしまいます。ですから、手付け金を受け取って、確かに買主が購入を完了させる保証としているのです。
  そして、パウロは、聖霊が、この手付け金であると言っています。神が私たちを贖ってくださるのですが、本当に贖ってくださることを保証するために、その祝福の一部を、私たちに与えてくださったのです。私たちが今得ているのは、神が与えてくださるところの祝福のごく一部です。ご聖霊によって、私たちに平安が与えられ、キリストの愛によって満たされ、言葉で言い表すことのできないほどの喜びに満たされ、私たちは、ああ、なんと祝福されているのであろうかと思います。けれども、それは頭金でしかないのです。天における祝福のほんの少しなのです。ですから、神の御国がいかに栄光に富んでいるものであるかを、知ることができるのでしょう。

エフェソ 2

組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
新しいマンションの建設現場
 これは面白いですね。エルサレムのヘロデの神殿がまだ完成していませんでしたが、私たちもまだ完成しておらず、建築中であるとされています。私たちが集まるときに、相手に期待しすぎる傾向がありますね。けれども、「鉄が鉄を研ぐ」という箴言の言葉があるように、互いに成長するために存在するのです。相手の不完全さを見てもがっかりしないでください。むしろ、不完全な者どおしで、成長できることを喜びとしてください。
イスラエルは、神を礼拝するために神殿に行きましたが、なんと私たちは、その神殿そのものになっているのです。それは神の御霊が私たちのうちに生きてくださっているからです。
 このように、私たちは、遠く離れていた者たちから、神の御住まいそのものになってしまいました。また、罪の中に死んでいた者から、天にキリストとととに座する者となってしまいました。「以前のあなたと今のあなた」です。私たちはどれほど、このすばらしい恵みの豊かさに浴しているでしょうか。あたかも、だれかから請わなければいけないように、貧乏人を装っていることはないでしょうか。神は、すべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。キリストにあって、私たちは満ち満ちています。

エフェソ 3

神が私たちに秘められた計画を持っておられるとは、どういうことなのでしょうか。ちょっとたとえで話してみましょう。あなたが有能な大工さんで、棟梁であるとします。自分の愛する人と結婚することになりました。その人は、この女性を愛し、その愛をどのように示せばよいか考えています。そうだ、彼女のために別荘を建築してあげよう。だまって内緒でそれを建てるのだ。彼女が好きなデザイン、色彩、好みなどを考えながら建てよう。そして、あなたは、妻に隠して建築をはじめます。二年の歳月が経ちました。結婚記念日のときに、「ちょっとプレゼントがあるんだ。」と言って、彼女を別荘まで連れていきます。まさにあなたのあらゆる技能をもって出来上がった最良の別荘です。
 これがmusthrion(ムステリオン)、秘められた計画であります。神は、永遠の昔から、私たちのために計画を立てておられました。神のあらゆる知恵と思慮深さをもって、ご自分の恵みを明らかにする方法を考えられました。そしてそれを、ずっとお隠しになっていたのです。旧約時代の聖徒たちにさえ隠しておられました。おぼえていますか、ダニエルが御使いから受けた幻について、理解できずに悩んでいたときに、御使いは、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(12:4)」と命じました。あの神の人ダニエルでさえ知らなかったこと、また他の偉大な預言者も知りたいと思いながら知らされていなかったこと、それを私たちは今、知らされているのです。
2C ともにあずかる者 6-7
 そして、この計画は次のとおりです。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
 異邦人がユダヤ人とともに、神の相続人となること。一つのからだ、あるいは神の家族の中に入ること。そして、ユダヤ人とともに約束にあずかることです。これは実はすでに、エペソ書2章で、パウロが語っていることでした。異邦人は、神もない希望もない者たちであったけれども、キリストの十字架によって隔ての壁が壊され、二つが一つになる。新しいひとりの人に作り上げられる、とありました。
ユダヤ人でもなく異邦人でもない、まったく新しいアイデンティティーを持つことになりました。つまり、「キリストにある者」です。「だれでもキリストのうちにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされたのです。」という言葉です。

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