死者 2

死者     (お盆、泉南91)

今日は終戦の記念日でもあります。戦争でたくさんの人々が死んだ。
不幸に亡くなった人のために、どのように供養してあげたらいいのか、教会にも死者のための供養がありますかと聞かれたことがあります。「供養」ということばの意味もさまざまでしょうが、成仏(ジョウブツ)しきれずにさまよっている霊を慰めるということになると思います。
教会では、亡くなった方々は今どういう状態にあるのかを知るよしもありませんと言うことになっています。一人ひとりの生涯と、心に秘めた思いをご存じなのは、ただ神様おひとりですから、私たちはただ神の慈しみ深いみ手に、亡くなった人をお委ねするよりほかありません。でも、亡くなった先祖や家族の人々のことを大切にするのはとても美しい習慣だと思います。これはキリスト教的にもおおにに奨励(ショウレイ)すべきことです。キリスト教では、すでにこの世を去った人も、まだ世に在る人も、神の一つの家族として時間と空間を越えて結ばれていること、神において互いに交わり、神のいのちをともにし、恵みを分かちあったり、助け合ったりすることを信じて、これを「生徒の交わり」と呼んでいます。とくにカトリック教会で、聖母マリアをはじめ諸聖人たちへの尊敬を大切にしているのは、その理由です。これは、お盆に行なわれるさまざまな習慣の心につながると思います。
 実は、死者の冥福のために祈るという教会の伝統的な信心は、本当に深い意味を持っています。今私たちが生きていることと、明治や大正時代の人たちと、どう関係するのか考えてみたことがありますか。その時代の人たちの苦労や、つらい労働が、今の私たちを生かすことに、大きな働きがあったのです。ですから、明治・大正時代に生きてきた、まったく知らない人であっても、今の私たちと、深いかかわりがあるのです。その人たちのためにも、キリスト信者はお祈りします。それは、神様を通して、感謝するためです。そしてその人たちが、神様のもとで、安らかにやすめるように、報いられるようにと、お祈りするとともに、私たちもいつかその人たちと出会えるようにと希望をあらわすわけです。私たちは、未来のことを前向きにとらえ、死後の世界に対しても希望をもつことのできるオプティミスト(楽天家、楽観論者)であるか、あるいは未来を否定して、すべては死によって無に帰すると考えるペシミスト(悲観論者)であるかによって、特に中年期からの人生は大きく左右されます。私たちはどちらのタイプといえば、やはり「ぜひ天国に行きたいな」というタイプでありたいですね!誰しも、いつかは、必ず死ななければならない、この大前提に立って、今まで大切だと思ってきた物事が、本当に価値あるものかどうかを考え直すきっかけが与えられます。もし死がすべての終わりで、もう愛する者と再び会うことがないということなら、人生のさまざまの苦労や犠牲は本当に慰めのないものだろう。(たとえすべては滅びるのだという「諦観(テイカン)」、「無常観」に達したとしても結果は同じです)キリスト教も死別についてこのようにしか考えられないでしょうか、そうではない、イエススは十字架上で死んでから、三日目に復活され、弟子たちに会われたのです。これが復活の事実です。主イエスが復活したのだから、私たちも必ず復活すると言ったのはイエス様ご自身でした。私たちは人生において愛する人を失うときにも「また会う日まで」(「かみともにいまして」、カ660)と歌うように、主イエスのうちに慰めと力を見いだすのではありませんか?

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