死と復活


人が死ぬ。亡くなるといいます。しかし無くなっていない。滅んでもいない。どこかに見失ったわけでもない。
 どこに行ったかはもう分っています。天です。ただ天に帰っただけ。帰天しただけ。
 死は確かに怖いこと。見たことがない。行ったことがない。


< 「空間」と「時間」の突破としての復活 >
 
 確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
 私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
 墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
 これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。

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