通夜・葬儀


【通夜・葬儀】【マコ5:21ー43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女】

ちょうど今生きているこの世というのは、お母さんの中の子どものようです。そこから出たくない。そして思います。今のところがいい。このまま留まり続けたい。暖かいし、いつも守られているし。
 しかし本当は体内は闇の中。本当の世界は、お母さんのお腹の外に出たところにこそあります。
 そして最初は、外に出てそのあまりの明るさのショックで、大声で泣き、この世の空気を吸い始めるけど、そこではお母さんが「あぁ、かわいい。やっと生まれてきたね」。そういってニコニコ抱きしめてくれる。歓迎してくれる。
 それと同じように、人間も死ぬと、イエス様が迎えて、抱きとめてくれる。もしも仮にきびしい神様がたとしても、イエス様が守ってくれる。「もうこの人の罪の身代わりに、私がなった。だからゆるして」と神様にお願いしてくれる。だから何も恐れることはない。安心していい。

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 イエス様が、死者を甦らせたことは3度あります。ナインでやもめの一人息子を(ルカ7:15)、ベタニアでマルタとマリアの兄ラザロを(ヨハ11:43;ラザロの場合は4日も墓に入り腐敗が始まっていた)、そして今回、会堂長の12才の娘を。
 死んだ少女を取り巻く人々にイエス様は、言いました。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」。この少女は「本当」に死んでいました。しかしイエス様は「眠っていた」と言ったのです。そして死から甦らせました。ここに記されたことは、間違いのない奇跡物語です。しかしまたヤイロの会堂長の少女だけでなく、すべての人に当てはまる話なのです。
 アダムとエバの罪によって死が入り込んだと聖書は教えていますが、とにかく人間は死ぬものです。それは避けられない現実で、死というどうにも超えられない壁があるのが、人間の常識です。
 しかし人間の死は、イエス様、そして神様にとってみれば、ただ眠っているようなものに過ぎないと聖書は述べるのです。この世的に見て確かに人間は死ぬのですが、それだけで終わることはない。永遠の命を人間は持っており、いつか魂・霊が肉・体と共に起きあがり、すべて人は神の御前に立つことになる。
 「神は人間を不滅な者として創造し、御自分(神)の本性の似姿として(人間を)造られた」(知恵2:23)のです。キリスト者が信じるのはこの永遠の命ということです。死んで、肉体が滅んだようにみえても、それで終わりではない。命は続く。人間の生はこの世限りのものではない。

 キリスト教は死と言う常識に挑戦し、ついに否定します。人間はだれもが永遠の命を持っており、世の終わりには、この私という人間も、すべての他の人と共に、体を持った形で復活し、永遠の命を確かに味わうことになる。そしてこの永遠の命があることは、イエス様の十字架と死と、その後に起こった復活の勝利によって、確約されているのです。
 キリスト教を知らない人にはまったく馬鹿げた話でしょう。しかしこの点をどうしても抜くわけにはいかないのです。キリスト教はこのばかげたこと、イエスの死と復活、そして永遠の命の保障を信じ、そのことを証するために、自分の命を本当に投げ捨てた。そういう弟子、証人たちによってできあがった宗教だからです。「永遠の命」と、その証明としての「イエスの十字架の死と復活」。これがキリスト教の中心点です。
 パウロは次のように述べています。
 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。
 こう述べたパウロは、実はかつてイエス・キリストを迫害していました。そしてキリスト教の最初の殉教者ステファノの殺害に加わり、多くのキリスト者を捕らえた人でした。そのパウロがこのように復活を証言し、実際命がけでキリスト教を伝えるようになったのはなぜか。なぜ180度生き方が変わったのか。それはパウロが、復活した主に直接呼びかけられ、出会ったからでした。だからこそパウロは、死者の復活、キリストにより与えられた永遠の命の保障を、命をかけて、宣教することになったのでした。
 ○○さんの人生にもいろいろなことがあったと思います。その中には、この世での悲しい別れもあったでしょう。人との誤解やいさかいもあったかもしれません。人との関係の中で、さまざまやり残したことがあったかもしれません。しかしとにかく、○○さんや○○さんとかかわったすべての人たちが、死んで、肉体の眠りにつき、魂が浄めを受けた後、「起きなさい」と呼びかけられる。その時、霊と肉が再び結びついて、皆、起きあがる。この世で傷つけ合った人、会えないつらさを抱えた別々に生きた人、別れた人、そういう人が再会し、互いに認め合い、和解し合い、喜びに浸る。そんなことがあると、私たちは確信し、そのために祈ります。
 「死んだのではない。ただ眠っているだけ」「起きよ」。そのことを信じ、安心し、希望を持ち続けるのが私たちの務めです。こうして私たちも、この世で残された命の使命を、立派に果たしぬいて、いつか○○さんとの再会を果たせるよう努力したいと思います。


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