出エジプト記 1

1)モーセの誕生

イエスは生まれた時に、ヘロデ王から命を狙われました(二歳以下の赤ん坊を殺せ)。モーセも生まれた時から死ぬ定めにいました。奇跡的に(摂理によって)助かりました。
人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。 この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、 全く新しい神認識に至ったと言うことである。出エジプトの救いの体験以前に、 ヘブライ人が自分たちの神をどう考えていたかと言えば、近隣の諸民族がその神々を考えるのと同じように、 守護神とか、豊饒多産をもたらす神とか、神話で語られる神々のひとつと見ていたのではなかったか。 しかし、ヘブライ人は出エジプトという救いの歴史的な出来事を事実として体験し、 自分たちの神は実際の歴史的な出来事に関わってくださるおかただという認識を得るにいたった。 歴史というのは、一回かぎりの出来事の連続である。 そこで、かれらは自分たちの神がこのような歴史を導く神であることを考えるようになったとしても、 不思議ではない。つまり、周期的に巡る自然を通じて人に恵みをもたらす神々とはちがって、 歴史を導く神であるというイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか。

2)モーセの神体験

これが、モーセと神様との最初の出会いです。
この「柴の間の炎」が何を象徴しているのか、ということをあまり深入りして考えることは読み込みになってしまうでしょうが、敢えて少し踏み込んで考えてみるならば、この炎は、情熱を象徴していると言えるのではないでしょうか。モーセは成人した頃、同胞であるイスラエルの民を救おうという情熱を燃え上がらせ、立ち上がったのです。しかしその情熱の炎は、同胞によって水をかけられ、すぐに消えてしまいました。人間の情熱の炎は、そのように簡単に消えてしまうものです。柴が一時激しく燃え上がっても、すぐに燃え尽きて消えてしまうようなものです。「燃え尽き症候群」という言葉もあります。情熱を傾けて仕事をしてきても、定年になったり、あるいは挫折を体験することによって、ぱったりと火が消えたようになってしまうということが私たちには起るのです。しかしモーセが見たこの炎は、燃え尽きない炎です。自分の中の炎が燃え尽きてしまったことを感じているモーセは、この燃え尽きない炎の不思議さに引かれて近付いていったのではないでしょうか。燃え尽きない炎は、神様の情熱を表しています。人間の情熱は燃え尽きてしまいますが、神様の情熱は決して燃え尽きることがないのです。

3)神の名

私たちが神様を信じて生きる信仰者となることにおいても、これと同じことが起ります。私たちが神様のことを、ただ「神様」としてのみ意識している間は、その神様は私たちにとって言わば匿名の存在であり、そこには先ほど申しましたように深い人格的な関係はありません。神様は多分いるだろうとただ漠然と思っていることは、信仰と呼べるような神様との人格的な交わりではないのです。私たちが本当に神様を信じるようになるのは、神様が具体的なお名前を示して下さり、私たちの歩み、人生と具体的に関わって下さり、この私をご自分のものとして背負い、救って下さるご決意を示して下さることによってなのです。その時神様は匿名の存在ではなくなります。具体的なお名前を持った方となります。漠然とした神様ではなくて、この私の神となって下さるのです。
主の名をみだりに唱えてはならない
 神様がこの私の神となって下さる、というのはきわどい言い方です。それは神様が私の所有物のようになってしまう、ということにもつながりかねないからです。古代の世界には、相手の名前を知ることによってその相手を自分の支配下に置くことができる、という考え方がありました。相手の名前を知り、呼ぶことは、相手を理解することであると同時に、相手を自分の所有物にし、支配してしまうことにもつながるのです。それゆえにあの十戒の第三の戒めが与えられていったのです。「主の名をみだりに唱えてはならない」。神様のお名前をみだりに唱えるとは、自分の所有物のように、自分のために利用してしまうことです。それが戒められているのですが、そもそも神様のお名前を自分のものとして好き勝手に利用してしまうようなことが起るのは、神様がお名前を民に示して下さったからです。お名前を示さず、民とは距離を置いて、深く関わらずに匿名の神として遠くから支配していれば、そんな危険はなかったのです。しかし主なる神様は敢えてお名前をイスラエルの民に示し、この民と深く関わり、その歩みを背負い、この民の神となって下さいました。お名前がみだりに唱えられ、冒涜され、利用されてしまうかもしれない危険を敢えて犯して下さったのです。そこに、神様の私たちへの大きな愛があるのです。

4)出エジプト宗教的意義

また自分たちを救ってくれたのがこの神だいうことで、その後ヘブライ人にとって結び付く神はこの神以外にはなく、 他の神々は排除すべきだということになり、実践的な意味で唯一神信仰が始まった。 これが十戒の第一戒に表現されている。理論的な意味での唯一神信仰、 つまり他の神々は存在しないという明確な認識にいたるのは、かなり時代が下がってからのことである。
  さらに出エジプトは救いの原体験のようなものであったから、 その後くりかえし体験される救いも出エジプトをモデルに考えられるようになったとしても不思議ではない。 すなはち、同じパターンで救いは考えられ、表現されるようになった。 束縛の状態からの解放というパターンである。こうして、新しい出エジプトということが言われる。
  キリスト教徒にとって罪の束縛状態から解放され、 恩恵の世界に生きる道を開かれたイエスの死と復活こそ新しい出エジプトである。 これを過越しの秘義という。主の復活の大祝日に祝うのは、まさにこの過越しの秘義である。

Jan Assmann, Moses der Ägypter: Entzifferung einer Gedächtnisspur. Munich 1998.
Moses the Egyptian: The Memory of Egypt in Western Monotheism (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1997; 1998)
エジプト人モーセ 〔ある記憶痕跡の解読〕 単行本  – 2016/12/21
ヤン・アスマン (著),    安川 晴基 (翻訳)

大論争の書! “事実史"から“記憶史"へ!
一神教誕生の神話に描かれる根源的な行為、すなわち、真の宗教と偽の宗教を分かつ行為を、ヤン・アスマンは「モーセの区別(mosaic distinction)」と名づける。アスマンによれば、一神教の目印は、神の単一性か多数性かではない。そうではなく、一神教に内在する排他性にある。己が体現する絶対的な真理への固執と、他者の否定だ。それゆえヤン・アスマンは、一神教を「対抗宗教」とも呼ぶ。なぜならそれは、自己に先行するものや外部にあるものを「虚偽」として排除する、否定の潜勢力を内に含んでいるからだ。
 聖書で想起される「ヘブライ人モーセ」は、このモーセの区別を象徴している。この区別は、この根源的なエクソドスの神話では、「イスラエル=真理」対「エジプト=虚偽」という敵対の布置となって現れる。
 他方で、この「ヘブライ人モーセ」に対して、モーセをエジプト人とする、それゆえにモーセの告げ知らす真理の起源をエジプトに求める試みが、繰り返しなされてきた。「エジプト人モーセ」を想起することは、「イスラエル=真理」と「エジプト=虚偽」の対立の布陣を脱構築し、モーセの区別を克服することを意味する。(「訳者解説」より)
答えは、J. Ratzinger, Truth and tolerance, Ignatius, 2004参照。しかし、これはまだ(2017年)に訳されていない。

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