通夜の説教


通夜の説教


私たちはいつ、どういうふうに死ぬのでしょうか・・・。長い病気を経て、ゆっくり立派に死の準備ができ、ゆるしの秘跡、ご聖体、並びに病者の塗油を意識しながら受けて、それから静かに死ぬ恵みをいただけるのでしょうか。それとも、突然に倒れて、意識不明になって死ぬのでしょうか。あるいは、事故にあって、自分が知らないうちにあの世へ渡るのでしょうか。
 イエズスさまがおっしゃったとおり、死は泥棒のように、予想していないときに襲ってくることもあるから、いつも目覚めていなさい、準備しなさい、ということになります。

人には死という最後があります。草や木、空の鳥や野の生き物、自然界に生きるすべての物に終りがあるように、人にも死という最後があります。その死という最後を、私たちは毎日の忙しさ、あわただしさ、わずらわしさに、思い浮かべることも稀にしかありません。
しかし、私たちが、日常生活の忙しさ、あわただしさ、わずらわしさに、いくら束の間忘れ去っていようとも、死は私たち一人ひとりに確かな足音をもって、そして誰一人例外なく忍び寄って来るのです。

 死とは何でしょうか。人の死とはいったい何でしょうか。肉体と霊魂の破滅でしょうか。生きていた人間が無へと帰っていくことでしょうか。それとも、ただ謎なのでしょうか。

 死を体験したことのない私たちは、経験から死を語ることは出来ません。しかし、キリストを信じる私たちは、キリストの言葉から死の神秘を解き明かす術を知っています。

 キリストによれば、死は復活する日までの仮の住まいの場なのです。人は皆、新しい命へと復活するために、死という暗く、悲しい闇を通らなければならないのです。

 生きている私たちは、親しい者の死を体験する時、そのあまりに辛く、悲しい闇の深さに、身を焼かれる程の苦しみを味わわなければなりません。親しい者との別れほど私たち人間にとって悲しいことはないからです。

 別れは誰にとっても辛く、別れは誰にとっても悲しい出来事です。しかし、キリストを信じる者の死は、何も見えぬ真っ暗な中の悲しみではありません。死の彼方に、悲しみの彼方に一筋の光の見える悲しみです。

 その光とは、復活という光。キリストが約束して下さった復活という光。私たちは、死という暗闇を前にした時でも、その一筋の光から目をそらしてはいけないのです。

 今、平田さんは、私たちが遥か彼方に小さく見えている光、その光を体いっぱいに浴びて、暖かな神の恵み、永遠の憩いの中で、やすらかに生きているに違いないのです。

 教会のたくさんの方に慕われた平田さん。その平田さんが亡くなられてまだ3日。家族の方、生前親しかった方、皆さんの悲しみの涙が、まだ乾いていようはずもありません。

 しかしこの場は、ただ悲しみの場ではありません。もう一度悲しみを呼び起こす場ではありません。

何よりもこの場は、残されたご家族が、皆さん一人ひとりが、自分の人生を精一杯生きることを誓う場なのです。なぜならば、そのことだけが天の国へ召された平田さんに対し、私たちが送ることのできる、ただ一つの捧げものだからです。

 神を信じ、その生涯を誠実に生きた平田さん。その平田さんに今イエス様はこう言っているに違いありません。

「平田○○、来たれ我がもとへ。休ませてあげよう、お前は最後まで私の十字架を担ったのだから。

地上のあらゆるものは、時とともに過ぎ去り、消えていきますが、それらのものの奥にある永遠のものに思いを向けたいと思います。この信仰の基礎は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエスの約束です。今日、世を去った人々のために祈り、また、私たちのためにも、御心を行う勇気と光を願います。sese04

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