渡辺和子

渡辺和子

一生涯の間、何も波風がないと思ったら、大間違いです。長い間には、いろいろ迷いもあれば、失望もあり、疑いに苦しむ日もあるでしょう。
それらが「ない」ことが大切なのではなくて、それらを「乗り切る」ことが大切なのです。


今という瞬間は、今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。人生は点のつながりとして一つの線であって、遊離した今というものはなく、過去とつながり、そして未来とつながっているわけです。


女性が、一日の間に鏡をのぞきこむ回数ほどに、自分の心をのぞきこみ、内省し、心の手入れを怠らなかったならば、どんな高価な化粧品や装身具も与えることができない美しさが、いつしかその人に備わることでしょう。
それは年とともに色あせるどころか、むしろ深まっていく「美しさ」なのです。

人生の終わりに問われるのは、
生きている間に伐った樹の数でも、種類でもない。
切り続けた斧そのものである。


人生はいつもいつも第一志望ばかりを歩けるものではありません。
そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。

どんなに忙しくても、いや、むしろ、忙しいからこそ、一日の中、5分でも、10分でも静かな時間、一見「無駄な時間」をつくらなくてはいけないのです。

人間は寂しさの中で成長します。寂しさを感じない時には気づかなかった自分の無力さと限界を知り、他人と自分の間に横たわる必然的な距離について考察するようになります。
寂しさの苦杯をなめて、はじめて、他人もまた味わっている孤独感へのやさしいいたわりの心を育てることができるのです。

水にさざ波が立ち、平静でない時、そこに写る月が歪んで見えるように、私たちの心が歪んでいる時、そこに映るすべてのものが歪んで見えてしまうのです。こだわりは心を歪めるものなのです。

闇の中に置かれたがゆえに、それまで知らなかったさまざまの「明るさ」のありがたさがわかるのです。
それこそ、「当たり前が輝いて」見えてくるのです。

胃の存在が否が応でも知らされるのは、胃の調子が悪い時であり、自分に歯があると気づくのも、歯が痛いときでしかない。
ふだんはあっても無くても別段かまわないような、小指の存在の大切さは、その小指に怪我をして、顔一つ洗うのにも不自由する時に、はじめてわかるものなのだ。
言葉を換えていえば、そのものを忘れていられる時は、健康な証拠なのだ。

神様は私たちの「願ったもの」よりも、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。
それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。
しかしすべて必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることが大切です。



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