Solo Dios basta

「なにものにも乱されるな
  なにものにも驚くな
  すべては過ぎ去るが
  神は変わらない
  忍耐が
  すべてに至る道
  神を体験している人は
  なにも欠くことがない
  神のみで満ち足りる」(『詩』:Poesias 9〔『アビラの聖女テレサの詩』高橋テレサ訳、聖母の騎士社、1992年、51頁〕)。


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十二国記

十二国記 


じゅうにこき
小野不由美
新潮文庫で出版されているシリーズ、累計1200万突破
ファンタジー小説(アニメにもなった)、古代中国の神話にもとづいている。
「人生の指針のような小説。十二の国で息づく人たちの言動が、今生きている自分の糧になるのが不思議で、そしてとても素敵なことだと気づいた物語です」(22歳、女性)
新聞広告のキャッチフレーズ
「裏切られてもいいんだ。裏切って卑怯者になるよりずっといい」


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奇跡について

奇跡について

昔の人々は科学、つまり自然法則を知らなかったので、奇跡を信じていた(ヒューム)。

ナンセンス。死んだ人は皆死んだままにとどまる。起きることはない。これは、昔の人も常識として知っていた。だからこそ、死んだ人は蘇ったら、これは奇跡と呼んだ。法則を知らなかったからではない。マリアの夫ヨセフは、子供はどのように生まれるかを知っていた。だからこそ、マリアが子供を待っていると聞いた時に、びっくりして、静かに離婚しようと思った。

第2。自然法則は破られないから奇跡はありえない(ヒューム)。

自分のデスクの中に先週木曜日二千円を入れた。その次の金曜日にさらに二千円を入れた。計算すると、トータルは四千でしょう。けれども。今日見たら二千円しかない。
皆さんは何と思いますか。誰かが計算の法則を破ったというのですか。それとも。倫理の法則を破ったと言わないのでしょうか。私とお金というシステムは閉じられたシステムではない。外から、第三者がこっそり入った。
創造主ということは、世界は閉じられたシステムではないということをいみする。


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誓願宣立50周年(金祝)

誓願宣立50周年(金祝)

皆さん、神のお告げの祝日に、今日のミサは、シスターマリア、スザンナ……の修道誓願宣立50周年(金祝)にあたって、感謝のミサを捧げたいと思います。
この50年はやさしいことばかりではなかったでしょう。人間ですので弱い時もあったでしょう。50年という奉献生活の歩みの中では、挫折や悲しみや喜びなど色々なことがあったと思います。そんな時にもきっといつも、イエス様と共に歩んでこられたので今日という日を迎えることが出来たのだと思います。
今、若いシスターたちは後ろ姿をみているでしょう。
金祝の姉妹のように多くの出来事の中にイエス様の姿を見、多くの経験を通して成長していくのです。修道生活は「神の国」の証とよく言われます。生まれも育った環境も違う人が、同じカリスマのもと兄弟姉妹として歩むのです。すべてを越えて、一つになるのです。確かにこれは理想です。現実は、姉妹を受け入れられない時や大切にできない時もあります。しかし、そこにとどまっているのではなく、神様に力をもらいながら、姉妹同士手を取り合って、歩んでいくのです。聖ヨセフ会の姉妹となろうとしている若い人たちもまた金祝を迎えた姉妹も、聖ヨセフ会の姉妹が一つになって神の国のために、同じ道を歩んでいくのだと確信した日になるように祈りたいと思います。
多くの人々に感謝し、共同体と共に喜びを分かち合う日になるように。

この日、皆さんの会は大きな喜びをいただいたことはもちろんですが、新たに神の御国のために、主とともに働く人となるため、一粒の麦になることを確信する日でありますように。


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現代日本における霊性 スピリチュアリティ

現代日本における霊性 スピリチュアリティ

脱宗教化の時代と言われるが、しかし人々は霊性を持ちたい。スピリチュアルでありたい、スピリチュアリティを持ちたい。個人化し現世的な仕方で霊的なものを求めている。
20世紀後半から、社会変動が加速し、高度情報社会となってからは、世界観が急速に変化し、もはや親子の間でさえ共有することが難しい時代となった。安定した価値観、大きな枠組みを実感することのない世界になってきた。価値観と幸福感が個人化するということは、個人の自由な領域を拡大すると同時に、人は孤独化、孤立していくことでもある。自分で判断し、自分で体験しなければならなず、それが正しいかどうかの判断も自分でするしかないとしたら、人々は不安を抱くことになる。そんな多くの人々が、その都度安心を与え、不安を和らげてくれる何かを求め、個人的霊性として「癒し」を求めるのは当然であろう。
しかし、その癒しは、大きな枠組みの中に受け入れること、つまり回心によるのではなく、あくまで、現状を維持し向上させることができるようになるための癒しだ。不安と危機の中で弱まっている自分を癒し、自分への信頼と自身を取り戻させてくれる霊性をもとめている。社会的にうまくやっていけるようになること、自分に自信を取り戻すこと、学校、仕事、家庭などの共同体でのかんけいをうまく維持し成功へとむすびつけること。それらが霊性の目的だ。こうした霊性の特徴は、霊性が個人の内部で完結するものとみなされていることだと思われる。ただ、そのような霊性は、人の生涯ぜんたいを導くものではないため、人々に究極の目的地を指し示して巡礼へと旅立たせることはない。
現代日本社会において一般に霊性とみなされているのは、こうした個人の内的再生であり、一時的回復であり、元気を取り戻すための癒しだ。これは人間性の変革ではなく現状回復であり、新たに生まれ変わるといった意味での霊性とはだいぶ異なっている。人々を寄留の民へと変化させるのではなく、この世の定住者として生きるためのサポートを提供することが、今日一般社会で人々が霊性に求めていることだ。

(越川弘英編、『宣教ってなんだ』、キリスト教新聞社、2012年、42-43)


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ヨハネの黙示録について

ヨハネの黙示録について
H. U. von Balthasar, Teodrammatica, vol. IV

日常生活の中では説明不要のシンボルもたくさん使われている。例えば、「あの方はまるで観音様だ」と言えば、話題の人が情け深い人であると分かります。「あのキツネめが」と言えば、「ずる賢いやつ」ということになる。黙示録は、私たちの文化とは違う文化圏で生まれたので、説明がないとわからない。また、著者は旧約聖書に精通していて、旧約の内容を独特の仕方で自由自在にシンボルとして利用するので、旧約の知識なしには理解できないことが非常に多いのです。著者は一つのシンボルの上に他のいくつかのシンボルを重ねて用いる。そして、著者は例に満たされて受けた啓示内容をシンボルに込めて表現しているわけですから、同じ霊によらない限り、私たちにはわからないことがある。
自分の信じる信仰を公に生きるのは難しい社会の中で、神が歴史を導き、歴史に現世を超える意味を与えることができるだけでなく、歴史を目的地に導いていかれるという確信のもとで、現実の歴史の出来事をどのように解釈したらいいのか、を教えています。

子羊は勝利者として、歴史全体の主として紹介されると同時に、いつも戦いに向かっていかなければならないという者として描かれている。宣教のパラドックス(19、11以下)。福音宣教は、勝利の宣言と同時に、絶えざる戦いでもある。
ヨハネが見ているヴィジオンは、「天と地の間」におこる。地は全てではない、天もある。また、天は地において神の臨在を示す特権的場である。その場は、空間的というより神学的な場である。6、14で天は「巻物が巻き取られるように消え去る」といことからもわかります。天は神であるとは言われない。天は地上の対局として描かれている。
ヨハネは、地上に生きながら、同時に自分のことを天にある24人の老人の一人として描いている。死ぬ前に、天における自分の役割を語っている。幼きイエスの聖テレジアが天にいる時に地上のために取りなすというように、宣教は天には不要となるが、その重心は天にある(von Speyr)。


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