十二国記

十二国記 


じゅうにこき
小野不由美
新潮文庫で出版されているシリーズ、累計1200万突破
ファンタジー小説(アニメにもなった)、古代中国の神話にもとづいている。
「人生の指針のような小説。十二の国で息づく人たちの言動が、今生きている自分の糧になるのが不思議で、そしてとても素敵なことだと気づいた物語です」(22歳、女性)
新聞広告のキャッチフレーズ
「裏切られてもいいんだ。裏切って卑怯者になるよりずっといい」


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奇跡について

奇跡について

昔の人々は科学、つまり自然法則を知らなかったので、奇跡を信じていた(ヒューム)。

ナンセンス。死んだ人は皆死んだままにとどまる。起きることはない。これは、昔の人も常識として知っていた。だからこそ、死んだ人は蘇ったら、これは奇跡と呼んだ。法則を知らなかったからではない。マリアの夫ヨセフは、子供はどのように生まれるかを知っていた。だからこそ、マリアが子供を待っていると聞いた時に、びっくりして、静かに離婚しようと思った。

第2。自然法則は破られないから奇跡はありえない(ヒューム)。

自分のデスクの中に先週木曜日二千円を入れた。その次の金曜日にさらに二千円を入れた。計算すると、トータルは四千でしょう。けれども。今日見たら二千円しかない。
皆さんは何と思いますか。誰かが計算の法則を破ったというのですか。それとも。倫理の法則を破ったと言わないのでしょうか。私とお金というシステムは閉じられたシステムではない。外から、第三者がこっそり入った。
創造主ということは、世界は閉じられたシステムではないということをいみする。


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誓願宣立50周年(金祝)

誓願宣立50周年(金祝)

皆さん、神のお告げの祝日に、今日のミサは、シスターマリア、スザンナ……の修道誓願宣立50周年(金祝)にあたって、感謝のミサを捧げたいと思います。
この50年はやさしいことばかりではなかったでしょう。人間ですので弱い時もあったでしょう。50年という奉献生活の歩みの中では、挫折や悲しみや喜びなど色々なことがあったと思います。そんな時にもきっといつも、イエス様と共に歩んでこられたので今日という日を迎えることが出来たのだと思います。
今、若いシスターたちは後ろ姿をみているでしょう。
金祝の姉妹のように多くの出来事の中にイエス様の姿を見、多くの経験を通して成長していくのです。修道生活は「神の国」の証とよく言われます。生まれも育った環境も違う人が、同じカリスマのもと兄弟姉妹として歩むのです。すべてを越えて、一つになるのです。確かにこれは理想です。現実は、姉妹を受け入れられない時や大切にできない時もあります。しかし、そこにとどまっているのではなく、神様に力をもらいながら、姉妹同士手を取り合って、歩んでいくのです。聖ヨセフ会の姉妹となろうとしている若い人たちもまた金祝を迎えた姉妹も、聖ヨセフ会の姉妹が一つになって神の国のために、同じ道を歩んでいくのだと確信した日になるように祈りたいと思います。
多くの人々に感謝し、共同体と共に喜びを分かち合う日になるように。

この日、皆さんの会は大きな喜びをいただいたことはもちろんですが、新たに神の御国のために、主とともに働く人となるため、一粒の麦になることを確信する日でありますように。


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現代日本における霊性 スピリチュアリティ

現代日本における霊性 スピリチュアリティ

脱宗教化の時代と言われるが、しかし人々は霊性を持ちたい。スピリチュアルでありたい、スピリチュアリティを持ちたい。個人化し現世的な仕方で霊的なものを求めている。
20世紀後半から、社会変動が加速し、高度情報社会となってからは、世界観が急速に変化し、もはや親子の間でさえ共有することが難しい時代となった。安定した価値観、大きな枠組みを実感することのない世界になってきた。価値観と幸福感が個人化するということは、個人の自由な領域を拡大すると同時に、人は孤独化、孤立していくことでもある。自分で判断し、自分で体験しなければならなず、それが正しいかどうかの判断も自分でするしかないとしたら、人々は不安を抱くことになる。そんな多くの人々が、その都度安心を与え、不安を和らげてくれる何かを求め、個人的霊性として「癒し」を求めるのは当然であろう。
しかし、その癒しは、大きな枠組みの中に受け入れること、つまり回心によるのではなく、あくまで、現状を維持し向上させることができるようになるための癒しだ。不安と危機の中で弱まっている自分を癒し、自分への信頼と自身を取り戻させてくれる霊性をもとめている。社会的にうまくやっていけるようになること、自分に自信を取り戻すこと、学校、仕事、家庭などの共同体でのかんけいをうまく維持し成功へとむすびつけること。それらが霊性の目的だ。こうした霊性の特徴は、霊性が個人の内部で完結するものとみなされていることだと思われる。ただ、そのような霊性は、人の生涯ぜんたいを導くものではないため、人々に究極の目的地を指し示して巡礼へと旅立たせることはない。
現代日本社会において一般に霊性とみなされているのは、こうした個人の内的再生であり、一時的回復であり、元気を取り戻すための癒しだ。これは人間性の変革ではなく現状回復であり、新たに生まれ変わるといった意味での霊性とはだいぶ異なっている。人々を寄留の民へと変化させるのではなく、この世の定住者として生きるためのサポートを提供することが、今日一般社会で人々が霊性に求めていることだ。

(越川弘英編、『宣教ってなんだ』、キリスト教新聞社、2012年、42-43)


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ヨハネの黙示録について

ヨハネの黙示録について
H. U. von Balthasar, Teodrammatica, vol. IV

日常生活の中では説明不要のシンボルもたくさん使われている。例えば、「あの方はまるで観音様だ」と言えば、話題の人が情け深い人であると分かります。「あのキツネめが」と言えば、「ずる賢いやつ」ということになる。黙示録は、私たちの文化とは違う文化圏で生まれたので、説明がないとわからない。また、著者は旧約聖書に精通していて、旧約の内容を独特の仕方で自由自在にシンボルとして利用するので、旧約の知識なしには理解できないことが非常に多いのです。著者は一つのシンボルの上に他のいくつかのシンボルを重ねて用いる。そして、著者は例に満たされて受けた啓示内容をシンボルに込めて表現しているわけですから、同じ霊によらない限り、私たちにはわからないことがある。
自分の信じる信仰を公に生きるのは難しい社会の中で、神が歴史を導き、歴史に現世を超える意味を与えることができるだけでなく、歴史を目的地に導いていかれるという確信のもとで、現実の歴史の出来事をどのように解釈したらいいのか、を教えています。

子羊は勝利者として、歴史全体の主として紹介されると同時に、いつも戦いに向かっていかなければならないという者として描かれている。宣教のパラドックス(19、11以下)。福音宣教は、勝利の宣言と同時に、絶えざる戦いでもある。
ヨハネが見ているヴィジオンは、「天と地の間」におこる。地は全てではない、天もある。また、天は地において神の臨在を示す特権的場である。その場は、空間的というより神学的な場である。6、14で天は「巻物が巻き取られるように消え去る」といことからもわかります。天は神であるとは言われない。天は地上の対局として描かれている。
ヨハネは、地上に生きながら、同時に自分のことを天にある24人の老人の一人として描いている。死ぬ前に、天における自分の役割を語っている。幼きイエスの聖テレジアが天にいる時に地上のために取りなすというように、宣教は天には不要となるが、その重心は天にある(von Speyr)。


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『三日目に』

福音書には、「イエスは三日目に復活する」という言葉があります。これは日数(にっすう)を数えることではない。三日目とは、わりあい短い期間という意味です。どんなにひどい苦しみであっても、わりあい短い期間のあとに、すばらしい喜びがやってくることを伝えるために「三日目」を用いているのです。
そのすばらしい喜びは、その前のひどい苦しみと比べようもないほど大きいのですと。ひどい苦しみを忘れてしまうほどの喜びなのです。話すことも、書くこともできないほどの喜びを表現するために、「二日の後」とか、「三日目」というのです。
「三日目に死者の中から復活する」というのは、次のような意味になります。あの十字架での恐ろしい苦しみと痛み、弟子たちが離れて行ってしまった悲しみ「、父なる神からさえも見捨てられてしまったほどの、見ていられないような痛々しい苦痛と死。それほどの苦しみと比べようもない、言葉にも表せない「大きな喜び」であり、すべての人々を救う神の勝利を示す「復活の栄光」を、どうにかして伝えようとして「三日目」を用いているのです。
私たちは、毎日の生活の中で、苦しいことやいやなことがあります。けがをしたり、病気になって苦しむこともあります。いやなことを言われるとか、人と喧嘩をするとか、いじめられたりして悩むこともあるでしょう。仕事が思うどおりにうまくいかないで、がっかりすることもあります。
そのようなとき、ただその苦しみ、悲しみ、悩みなどでがっかりしているだけでは、キリストを信じる者の新しい生き方とはいえないでしょう。
苦しければ苦しいほど、そのあとにやってくる神様の癒しのすばらしさに希望を持たなければならない。神様の助けを祈り求めながら、苦しみにぶつかり、苦しみに打ち勝った時、本当の喜びが与えられるのです。
苦しみや悲しみにあっても、いつも、それとはくらべられないほどの喜びがあることを知って、毎日の生活を希望を持って明るく生きるならば、それが、新しい生き方なのです。それが自分のためだけにするのではなく、苦しんでいる人、悲しんでいる人に勇気を与え、生きる力をあたえるものです。

出エジプト記 1

1)モーセの誕生

イエスは生まれた時に、ヘロデ王から命を狙われました(二歳以下の赤ん坊を殺せ)。モーセも生まれた時から死ぬ定めにいました。奇跡的に(摂理によって)助かりました。
人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。 この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、 全く新しい神認識に至ったと言うことである。出エジプトの救いの体験以前に、 ヘブライ人が自分たちの神をどう考えていたかと言えば、近隣の諸民族がその神々を考えるのと同じように、 守護神とか、豊饒多産をもたらす神とか、神話で語られる神々のひとつと見ていたのではなかったか。 しかし、ヘブライ人は出エジプトという救いの歴史的な出来事を事実として体験し、 自分たちの神は実際の歴史的な出来事に関わってくださるおかただという認識を得るにいたった。 歴史というのは、一回かぎりの出来事の連続である。 そこで、かれらは自分たちの神がこのような歴史を導く神であることを考えるようになったとしても、 不思議ではない。つまり、周期的に巡る自然を通じて人に恵みをもたらす神々とはちがって、 歴史を導く神であるというイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか。

2)モーセの神体験

これが、モーセと神様との最初の出会いです。
この「柴の間の炎」が何を象徴しているのか、ということをあまり深入りして考えることは読み込みになってしまうでしょうが、敢えて少し踏み込んで考えてみるならば、この炎は、情熱を象徴していると言えるのではないでしょうか。モーセは成人した頃、同胞であるイスラエルの民を救おうという情熱を燃え上がらせ、立ち上がったのです。しかしその情熱の炎は、同胞によって水をかけられ、すぐに消えてしまいました。人間の情熱の炎は、そのように簡単に消えてしまうものです。柴が一時激しく燃え上がっても、すぐに燃え尽きて消えてしまうようなものです。「燃え尽き症候群」という言葉もあります。情熱を傾けて仕事をしてきても、定年になったり、あるいは挫折を体験することによって、ぱったりと火が消えたようになってしまうということが私たちには起るのです。しかしモーセが見たこの炎は、燃え尽きない炎です。自分の中の炎が燃え尽きてしまったことを感じているモーセは、この燃え尽きない炎の不思議さに引かれて近付いていったのではないでしょうか。燃え尽きない炎は、神様の情熱を表しています。人間の情熱は燃え尽きてしまいますが、神様の情熱は決して燃え尽きることがないのです。

3)神の名

私たちが神様を信じて生きる信仰者となることにおいても、これと同じことが起ります。私たちが神様のことを、ただ「神様」としてのみ意識している間は、その神様は私たちにとって言わば匿名の存在であり、そこには先ほど申しましたように深い人格的な関係はありません。神様は多分いるだろうとただ漠然と思っていることは、信仰と呼べるような神様との人格的な交わりではないのです。私たちが本当に神様を信じるようになるのは、神様が具体的なお名前を示して下さり、私たちの歩み、人生と具体的に関わって下さり、この私をご自分のものとして背負い、救って下さるご決意を示して下さることによってなのです。その時神様は匿名の存在ではなくなります。具体的なお名前を持った方となります。漠然とした神様ではなくて、この私の神となって下さるのです。
主の名をみだりに唱えてはならない
 神様がこの私の神となって下さる、というのはきわどい言い方です。それは神様が私の所有物のようになってしまう、ということにもつながりかねないからです。古代の世界には、相手の名前を知ることによってその相手を自分の支配下に置くことができる、という考え方がありました。相手の名前を知り、呼ぶことは、相手を理解することであると同時に、相手を自分の所有物にし、支配してしまうことにもつながるのです。それゆえにあの十戒の第三の戒めが与えられていったのです。「主の名をみだりに唱えてはならない」。神様のお名前をみだりに唱えるとは、自分の所有物のように、自分のために利用してしまうことです。それが戒められているのですが、そもそも神様のお名前を自分のものとして好き勝手に利用してしまうようなことが起るのは、神様がお名前を民に示して下さったからです。お名前を示さず、民とは距離を置いて、深く関わらずに匿名の神として遠くから支配していれば、そんな危険はなかったのです。しかし主なる神様は敢えてお名前をイスラエルの民に示し、この民と深く関わり、その歩みを背負い、この民の神となって下さいました。お名前がみだりに唱えられ、冒涜され、利用されてしまうかもしれない危険を敢えて犯して下さったのです。そこに、神様の私たちへの大きな愛があるのです。

4)出エジプト宗教的意義

また自分たちを救ってくれたのがこの神だいうことで、その後ヘブライ人にとって結び付く神はこの神以外にはなく、 他の神々は排除すべきだということになり、実践的な意味で唯一神信仰が始まった。 これが十戒の第一戒に表現されている。理論的な意味での唯一神信仰、 つまり他の神々は存在しないという明確な認識にいたるのは、かなり時代が下がってからのことである。
  さらに出エジプトは救いの原体験のようなものであったから、 その後くりかえし体験される救いも出エジプトをモデルに考えられるようになったとしても不思議ではない。 すなはち、同じパターンで救いは考えられ、表現されるようになった。 束縛の状態からの解放というパターンである。こうして、新しい出エジプトということが言われる。
  キリスト教徒にとって罪の束縛状態から解放され、 恩恵の世界に生きる道を開かれたイエスの死と復活こそ新しい出エジプトである。 これを過越しの秘義という。主の復活の大祝日に祝うのは、まさにこの過越しの秘義である。

Jan Assmann, Moses der Ägypter: Entzifferung einer Gedächtnisspur. Munich 1998.
Moses the Egyptian: The Memory of Egypt in Western Monotheism (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1997; 1998)
エジプト人モーセ 〔ある記憶痕跡の解読〕 単行本  – 2016/12/21
ヤン・アスマン (著),    安川 晴基 (翻訳)

大論争の書! “事実史"から“記憶史"へ!
一神教誕生の神話に描かれる根源的な行為、すなわち、真の宗教と偽の宗教を分かつ行為を、ヤン・アスマンは「モーセの区別(mosaic distinction)」と名づける。アスマンによれば、一神教の目印は、神の単一性か多数性かではない。そうではなく、一神教に内在する排他性にある。己が体現する絶対的な真理への固執と、他者の否定だ。それゆえヤン・アスマンは、一神教を「対抗宗教」とも呼ぶ。なぜならそれは、自己に先行するものや外部にあるものを「虚偽」として排除する、否定の潜勢力を内に含んでいるからだ。
 聖書で想起される「ヘブライ人モーセ」は、このモーセの区別を象徴している。この区別は、この根源的なエクソドスの神話では、「イスラエル=真理」対「エジプト=虚偽」という敵対の布置となって現れる。
 他方で、この「ヘブライ人モーセ」に対して、モーセをエジプト人とする、それゆえにモーセの告げ知らす真理の起源をエジプトに求める試みが、繰り返しなされてきた。「エジプト人モーセ」を想起することは、「イスラエル=真理」と「エジプト=虚偽」の対立の布陣を脱構築し、モーセの区別を克服することを意味する。(「訳者解説」より)
答えは、J. Ratzinger, Truth and tolerance, Ignatius, 2004参照。しかし、これはまだ(2017年)に訳されていない。