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列王記上

列王記上17・7-16
今度はシドンに行きなさい、と命じられます。ひとりのやもめに養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度がある今日と異なり、こじきより多少ましかなっという程度の貧しい存在だからです。
 そして、もっとすごいのは、シドンという国です。まさに、イゼベルがでてきたところ、異邦人の地です。先ほどの烏といい、異邦人の地といい、主はエリヤを、イスラエルやユダヤ人の枠組みから離れたところに連れて行かれようとします。
 けれども、これは旧約聖書と新約聖書の中で、貫かれている原理です。イスラエルが悪くなったとき、そこではなく異邦人の世界の中で主が、ご自分の器を用いられます。兄たちに奴隷として売り払われたヨセフは、エジプト人のところに行きました。イスラエル人に嫌われたモーセは、ミデヤン人のところでお嫁さんをもらいました。ダビデもそうですね、サウルが神にさからって、ダビデを殺そうとしたために、彼はイスラエルとユダの地にいるのが困難になり、それでペリシテ人のところにとどまったりしています。
 そして、イエスさまご自身が、ユダヤ人の中で拒まれたために、その名は主に異邦人の中でほめたたえられるようになっていきます。主がナザレで受けいれられなかったとき、こう言われました。「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。(ルカ4:25-26)」今、私たちが読んでいる出来事です。私たちの間でも、主が喜ばれないことが起こっていて、主にあって改善することがなければ、主はここにはおられなくなって、違うところでご自分の働きをされます。

列王記上18・20-39

くかたち
古代において行われた神判。『日本書紀』はこれを「盟神探湯」と記しているが,「くか」は,けが,けがれと同語であって,つみ (罪) というに等しく,「たち」は断 (裁) であって,決定の意であると考えられる。
罪の疑いを持たれた者に、神に潔白などを誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、小石や泥土(ひじ)を,当事者に素手で取り出させ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。
うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓(ちかい)などと書く。(アマテラスとスサノオの誓約)
実際に盟神探湯を実行した場合は、容疑者に恐怖感を与えて犯罪行為を自白させるための手段としての効果があったと考えられる。つまり盟神探湯の実効性を信じている者であれば、真犯人でなければ躊躇する事なく湯に手を入れようとし(その直前で制止すればよい。あるいは実際に手を入れて火傷をしてしまっても、犯人ではなかったとする)、真犯人であれば神への畏れもあり、湯に手を入れる前に自供するという事である  reign of Ahab (9th century BC),
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ここには、三つのグループがいます。主の預言者であるエリヤが一つ、バアルとアシェラの預言者が二つ目のグループ、そして一般のイスラエル人が三つ目のグループです。エリヤは一般のイスラエル人たちに、どちらかに従いなさい。なぜよろめいているのか、と聞いています。イスラエル人はヤハウェを完全に捨てたわけではなく、ヤハウェも礼拝しながら、なおかつバアルを拝んでいたからです。けれども、それは無理なことです。主は、「二人の主人に仕えることはできません」と言われました。またヤコブは手紙の中で、「二心の人たち。心を清めなさい。(4:8)」と言っています。
確かに、公に主を証ししているのはこのエリヤだけです。けれども、これが彼にとって後で致命傷になります。たった一人の女イゼベルの脅し文句で、彼の精神力は一気に崩れて、自殺願望まで出てくるほど落ち込みました。その時に言った彼の言葉が、「イスラエルの人々は、あなたの預言者たちを剣で殺し、ただ私だけが残りました。」です(1列王19:10参照)。けれども主はその答えとして、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。(19:18)」と言われています。オバデヤも、自分が百人の預言者をかくまっていることを話していました。
 確かに、たった一人でも主にあって、立ち向かうその勇気は必要です。けれども、「戦っているのは私だけだ。」という孤独感は実は禁物です。なぜなら、主は必ず残された人たちを、同じ思いを思っている人たちを置いておられて、ともに主にあって働くことを望まれているからです。自分だけが・・・と思ってはいけません。

列王記上18・41-46
 エリヤは、主のことばがあったのにも関わらず、祈りつづけました。いや、主のことばがあったからこそ、祈りました。私たちは、祈りについて二つの過ちを犯します。一つは、約束されているのだから、祈らなくても主が行なってくださるだろう、と考える過ちです。聖書のことは知っていますが、主が生きてその人には働いてくださいません。もう一つの過ちは、聖書に書かれている主のみこころをわきまえないで、ただやみくもに祈ることです。先ほど話した、空を拳で打つようなものです。
 けれどもエリヤは、主からことばをいただき、そして、一度ならず、七たびも祈りました。そして、もう一つ気づくことは、地中海のほうを見ていたであろう若者が、小さな雲だけしか見ていないのに、それをエリヤは大雨の前兆だと悟ったことです。私たちは、祈り待ち望んでいなければ、見えるものも見えなくなります。けれどもエリヤのように、祈り求めているときに、確かに約束がかなえられていることを、まだその徴候がわずかなときでも気づくことができるのです。

 エリヤは確かに、すごい人です。車に乗っているアハブと同じぐらい早く、足で走りました。こうしてアハブに対する、ヤハウェなる神の証しを立てましたが、次の章を見ると、彼はマザー・コンプレックスならず、ワイフ・コンプレックスにかかっているようで、ただ妻のイゼベルに、起こった事をすべて告げるだけでした。

列王記上19・9-16
ホレブは、モーセが燃える柴の中から語りかけられる神様と出会った所であり、エジプトを脱出したイスラエルの民が神様と契約を結び、十戒を授けられたシナイ山の別名です。
エリヤは自分が主に召されたところに留まらないで、自分の好きなところに来てしまったのです。けれども主は優しい方です。このような我がままになっているエリヤに、優しく、彼が悟ることのできる形で付き合ってくださっています。これは実に面白い移行です。主は、火や風、また地震などの大きな目に見える業によって、エリヤを通して働いてくださっていました。エリヤはこれらの目覚しい主の働きをずっと見ていました。
このような働きが目によって、自分の体に入ってきて、それが刺激となって自分の内に溜まっていました。主が大きく働いてくださると、そこで見える徴を見ると、それは魂を喜ばせると同時に、その刺激が強すぎて魂を疲れさせていきます。
 けれども、主はいつまでもエリヤにそのように関わるのではありません。ここに「静かにささやく声、かすかな細い声」とあります。主がエリヤに対して、これまでのようには劇的な奇蹟によって働きだけでなく、かすかな細い声に聞き従うことによってエリヤを用いられようとしておられるのです。
主は失意のエリヤに新しい使命を与えられた。失意の中にある人を励ますのは、彼に為すべき使命が、為すべき業が与えられる時だ。
私たちが、閉じこもっている自分の心の洞穴から出て、神様のみ顔の前に立つことができるのは、何か大きな出来事、あるいは恐ろしい出来事を体験することによってではありません。私たちの心の扉の外で、どんな大風が吹いても、大地震が起っても、燃え盛る火があっても、それで私たちが心を開いて神様の前に立つことはないのです。しかし神様は、そういう仕方によってではなくて、静かな、ささやくようなみ声によって、私たちに語りかけて下さいます。静かなささやくような声ですから、私たちはなかなかそれに気付かないし、聞き流してしまうことも多いのです。しかしある時ふと、その静かなささやくようなみ声に気付き、自分も心静めてそのみ声に聞き入るようになる、そこにおいて、私たちと神様との出会いが与えられていき、そのみ声に導かれて、自分の心の扉を開いて、神様のみ前に出ることができるようになるのです。それが、ここに語られていることの第二の意味であると思います。

列王記第二22−23章 「最後のリバイバル」

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終わりの時は、実はこのような時であります。神の歴史の中で、何度か、徹底的なさばきをもたらすことによって、初めからやり直させるということを神は行なわれました。ノアのときの大洪水、ソドムとゴモラ、イスラエルによって聖絶されることになったカナン人などです。罪が積み上がり、神が介入されなければ自ら全滅してしまうような状態になっているとき、神は一度滅ぼされて、それから建て上げるわざを行なわれます。それがイスラエルの身にも起こり、一度バビロンによって滅んで、それからエルサレムに帰還してエルサレムを再建させるという計画を立てておられたのです。

 私たちも、そのような時代に生きています。もはや修復不能というところまで来ています。しかしだからといって、私たちが何もしなくて良い、ということではありません。ヨシヤのように、心からへりくだり、心を尽くして主に仕えることができます。その中で、もう修復不能かもしれませんが、やれることはあるのです。そして何よりも、自分自身が取り上げられるまで、神のさばきは下ることはない、ということです。

列王記上 18・41−46

列王記上 18・41−46

エリアが祈ったところ、天から雨が降った (ヤコブ5・18) 

アハブは神をあまり信じないタイプ。現代人のように。

そしてまた、次にも祈りが書かれています。18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」

 先ほど、主がエリヤに雨を降らせると告げられたとおり、今、アハブに告げています。

18:42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。18:43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」

 エリヤは、主のことばがあったのにも関わらず、祈りつづけました。いや、主のことばがあったからこそ、祈りました。私たちは、祈りについて二つの過ちを犯します。一つは、約束されているのだから、祈らなくても主が行なってくださるだろう、と考える過ちです。聖書のことは知っていますが、主が生きてその人には働いてくださいません。もう一つの過ちは、聖書に書かれている主のみこころをわきまえないで、ただやみくもに祈ることです。先ほど話した、空を拳で打つようなものです。

 けれどもエリヤは、主からことばをいただき、そして、一度ならず、七たびも祈りました。そして、もう一つ気づくことは、地中海のほうを見ていたであろう若者が、小さな雲だけしか見ていないのに、それをエリヤは大雨の前兆だと悟ったことです。私たちは、祈り待ち望んでいなければ、見えるものも見えなくなります。けれどもエリヤのように、祈り求めているときに、確かに約束がかなえられていることを、まだその徴候がわずかなときでも気づくことができるのです。

18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。18:46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。

 エリヤは確かに、すごい人です。車に乗っているアハブと同じぐらい早く、足で走りました。こうしてアハブに対する、ヤハウェなる神の証しを立てましたが、次の章を見ると、彼はマザー・コンプレックスならず、ワイフ・コンプレックスにかかっているようで、ただ妻のイゼベルに、起こった事をすべて告げるだけでした。次回、その続きを読んでいきましょう。

列王記上 19・9a、11−16


自分が主に召され たところに留まらないで、自分の好きなところに来てしまったのです。そうですね、私に例えれば、 私が今の務めを放棄して、関西空港に行き、ミラノ空港まで飛行機で飛んで、子供の頃通った教会に戻ってそこで一人でこっそり祈るような感じでしょうか􏰀霊の故郷に 来たのですが、そこに神が呼ばれているのではないのです。
エリヤは、主の呼びかけや命令に応答 するのを放棄してしまっています。その代わりに、自分が熱心に主に仕えたのに、いかに人々が 主のことばに応答しなかったのか、そのことについての落胆の思いを吐露しています。そして、自 分の命を狙っているという人への恐れも明かしています。

神との対話、付き合い方
2C かすかな細い􏰂 11-18 主は優しい方です。このような我がままになっているエリヤに、優しく、彼が悟ることのできる形で付き合ってくださっています。
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎら れ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。 風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があっ たが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い􏰂があった。
これは実に面白い移行です。主は、火や風、また地震などの大きな目に見える業によって、エリ ヤを通して働いてくださっていました。エリヤはこれらの目覚しい主の働きをずっと見ていました。 このような働きが目によって、自分の体に入ってきて、それが刺激となって自分の内に溜まっていました。主が大きく働いてくださると、そこで見える徴を見ると、それは魂を喜ばせると同時に、そ の刺激が強すぎて魂を疲れさせていきます。
けれども、主はいつまでもエリヤにそのように関わるのではありません。ここに「かすかな細い 􏰂」とあります。主がエリヤに対して、これまでのようには劇的な奇蹟によって働きだけでなく、か すかな細い􏰂に聞き従うことによってエリヤを用いられようとしておられるのです。
19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。する と、􏰂が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」19:14 エリヤは答えた。「私は 万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの 祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のい のちを取ろうとねらっています。」
エリヤは、かつてのモーセと同じように、主の御姿のすべてを見ることがないように、外套で顔を おおって外に出ました。すると、その静かにささやく声は、再び「ここで何をしているのか。」という尋 ねだったのです。ここまで主が語られたにも関わらず、エリヤは再び「私だけが残りました」と同じ 事を繰り返しています。そこで主は、ご自分で答えられます。
19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を そそいで、アラムの王とせよ。19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王と せよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者 とせよ。19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが 殺す。
主は、エリヤがここまでやって来たことを咎めることなく、次に行なわなければいけないことを教 えられました。三つあります。一つは、当時アラムあるいはシリヤが、ベン・ハダデ二世が王でした が、その家来であるハザエルがアラムの王となるので、彼に油を注ぎなさいというものです。そし て、北イスラエルの将軍エフーに油を注ぎなさいというものです。そして、エリシャという後継の預 言者を育てなさいということです。最後の三つ目はエリヤは行いましたが、初めの二つはエリシャ とエリシャのともがらが行ないました。でも、エリシャが行なったことで、間接的にそれを手助けした ということもできます。
エリヤが知らなければいけなかったのは、「あなたが受け継いだエリシャが、アハブ家の滅びを 行なうよ。」ということであります。王となったハザエルがイスラエルと戦うことによって、傷を負って イズレエルに戻ります。その時にエフーに油が注がれて王となります。そしてエフーがイゼベルを 殺し、バアル信仰をイスラエルから根絶させます。したがって、エリヤによってイスラエルが主に立 ち返ることはしなかったが、主はさらにご自分の働きは知っておられて、それを後継者で完成することを初めから知っておられたのです。ですから、エリヤがすべてを抱え込む必要はなかったので すが、それを彼は自分にすべて背負い込んでしまっていたのでした。そしてエリヤが最も見失って いたのは、次です。
私たちも決して、自分がたった独りだと思わないでください。そして肩肘(かたひじ)を張らないでください。自 分に責任を、神から与えられていない責任を背負わないでください。主は恵みの中で、着々と、少 しずつご自分の事を行なっていってくださいます。
ところでここの箇所は、パウロがローマ 11 章で引用している箇所です。ユダヤ人が福音に敵対 して、かたくなにされているけれども、実はイエスを信じるユダヤ人がいて、残された者たちがいる のだという話の中で引用されました。


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