年間第一月
マルコ1・14-20
イエスは、悔い改めて、福音の勧めに従って日々歩いていきなさいと、励まされます。四人の漁師たちは、舟、網、父親さえも後に残して、イエスの呼びかけに応えます。彼らは、それまで当然としていた生き方を、イエスの意向、望みにサッと切り替え、予想される心配事もすべて委ねてイエスに従います。
「わたしについて来なさい」というイエスの力強い招きに信頼して、イエスの望みを選び、行うことができるよう恵みを与えてください。sese04
年間第一火
マルコ1・21b-28
イエスの権威ある教えにもっとも鋭く反応したのは人間ではなく、悪霊でした。人間は霊的な事柄に鈍感なものですが、悪霊はイエスの聖なる本質と権威を知っています。イエスの出現によって自分たちの存在が根底から脅かされることを恐れていました。現代社会で悪霊のことなど話題にすれば、笑われるかもしれない。しかし、現代社会の狂った様子を見ますと、それはまさに悪霊のしわざであり、悪霊の意のままに動いている人々もいます。新聞やテレビが毎日のように伝えている暗いニュースはそのことをよく表わしていると思います。
このような世界の中でも、私たちはキリストにあって悪霊の支配を打ち砕き、勝利を得ることが出来ます。イエスは私たちの救い主として私たちを縛っている悪の鎖から解放するために来られました。しかし、悪からの解放は一生続く戦いでもあります。最近、子供を殺してしまった親たち、また親を殺してしまったこどもたちのために祈りたいと思います。彼らは悪から解放され、人間性を取り戻すことができるように祈りたいと思います。
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今日の福音書では、人間のほうは鈍いのに、汚れた霊のほうが、すぐにイエス様の正体を「神の聖者」(まだメシアまではいかないかもしれませんが)とはっきり見分けていることも興味を引く部分です。 でもそれも当たり前かもしれません。たとえば警察官とすれ違って一番びくびくするのは、おそらく指名手配中の人でしょう。加えて、制服を着ていない私服の警察官もいるでしょうから、それを見分けることは、そのような逃亡中の犯人にとって死活問題となります。私服の警官をも見破るほどの敏感さ。そのようなものを悪霊も持っていました。だからイエスが誰かすぐ見分け、また神の権威を持つイエスが、こうして自分の前にいることに、耐えられなくなって叫びだしたというわけです。「神の聖者。我々を滅ぼしに来たその正体を知っている。かまわないでくれ」。
さて、悪霊も恐れ、逃げ出してしまうほどの神の権威を持った、最高のみ言葉、真理そのものを、私たちはこうして毎日聞きます。
私たちもいろんな「汚れた霊」をもっています。皆と仲良くさせない不和の霊とか、エゴイズムの霊とか、見栄っぱりの霊などです。
そして私たちには、いろんな恐れがあります。将来への不安、犯罪にあうこと、事故にあうこと、自分をおびやかす人。しかしそんなことより何より、神の言葉を聞くことに恐れましょう。何の回心もなく、ただ聞き流して終わる。そうでなく、私たちの悪霊に恐れをなしてもらって、恐れて、神の御言葉に本当に聞き従うものになりましょう。
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ヘブライ2・5-12
ちょっとわかりにくいと思います。大切なことだけを申しますと、イエス様は神の御子であり、天使に勝れる者であるにもかかわらず、天使よりも低き者、弱き者、貧しき者、つまり人間となられたのだということが言われているのです。人間としての低さ、弱さ、貧しさを身に負われて、私たちのところに来てくださったということなのです。その人間イエスの弱さ、貧しさがここで語られているのです。
ある意味でとんでもないことが書かれています。イエス様は神様の御子であり、万物の創造者、支配者であるならば、それに従わないものは何一つないはずなのに、《しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。》と、現実はそうなっていないと語られているのです。万物の創造者だ、支配者だ、神の子だと言っても、イエス様はこの世に対して何の力もないじゃないか。それどころか、人々の手にかかって十字架につけられ、殺されてしまったのではないか・・・そういう風に言われても仕方がないような現実があると、言っているのです。
こういう現実は、私たちも日常の生活で経験しているのではありませんでしょうか。イエス様は救い主だと教えられているのに、私の生活は苦しいことばかりじゃないか。ニュースを見ても悲惨なことばかりだし、戦争はなくならないし・・・いったいイエス様は何をしているのか? どこにその救いがあるのか? 『ヘブライ人への手紙』は、実はそのようなイエス様の弱さの中にこそ、神様の恵みが、救いがあるのだと言われるのです。9節
私たちは、イエス様に強き力を求めます。「神の御力をもって病気を治してください」、「立ちはだかる問題を打ち砕いてください」、「私たちの弱さを強めてください」(都合の良い神)・・・しかし、私たちに本当に必要な救いはそういうことなのでありましょうか? 病気が治ったら、問題が解決したら、自分が強い人間になったら、私たちの人生はバラ色だと本当に言えるのでしょうか。そうではないと、聖書は語っているのです。むしろ、私たちに必要なのは、イエス様の弱さ、貧しさ、小ささなのだというのです。いと高き神の子であるイエス様が、そのような者になってくださった。私たちと同じものになってくださった。私たちの弱さを、貧しさ、小ささを分かってくださるお方になってくださった。そこに神の愛、神の恵みがあるのだというのです。
年間第一水
マルコ1・29-39
「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。この奇跡は主婦の役割を引き立たせています。
イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間
が渇望する、救いではないでしょうか。
主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07
年間第一木
マルコ1・40-45
モーセの律法も救うことのできない領域があります。ハンセン病は罪によるけがれともされ(レビ記13~14章参照)、病人
は社会から締め出されていました。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。神の働きはイエスの愛、さしのべられた手からあふれ、病人を清めます。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを詳しく伝えるのです。
らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。らい病人に触れることは、病気への恐れだけでなく、自分も宗教上の汚れに陥ることとして極度に嫌われていた。しかし、イエスはすでに浄・不浄の差別を超えた次元におられ、ただ社会から疎外され、治癒の見込みもない絶望的な病人へのあわれみから、その人に「さわり」、その人とひとつになって、ご自身の中にある神の力を注ぎ与えられるのである。
らい病人が清められることは何を意味するのか、らい病人本人はまだ十分に自覚していなかったであろうが、イエスはそれを知り、それがユダヤ教社会でどう受け取られるのかを知っておられた。それで、イエスはあわれみにより病人を癒しながら、メシヤであることを自称する者であると理解されることを極力避けようとして(すくなくともマルコの描くイエスはそうである)、この出来事の公表を厳しく禁じられるのである。
「御心ならば…」と、重い皮膚病を患った人はイエスに願い出ます。イエスの「よろしい」という言葉は、「私はそれを望む」(Autos thelo)と訳すこともできます。私たちが癒され、周りの人々とより良い交わりを持ち、喜んで生きることはイエスの望みでもあります。イエスはご自分の業が、名声を得たり、いたずらに好奇心を駆り立てるために用いられることを望まず、純粋な憐れみの交わりの中に留まることを望まれます。
主よ、あなたの憐れみの心に生かされる者としてください。sese05
イエスはいつもわたしに「よろしい。清くなれ」と言ってくださっている。それは私の痛みへの深い憐れみから。イエスのこの心をしっかりと受けていきたい。イエスのこの愛に触れた喜びを告げ知らせたい。主よ、日々の出来事の中であなたに清められる喜びを見出す恵みをお与え下さい。sese07
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ヘブライ3・7-14
『ヘブライ人への手紙』は、ひとりで読んでいても、なかなか難しい書物であるかもしれません。しかし、ところどころに信仰の核心をずばりと言い当てた珠玉の御言葉が出てまいります。とくに文語訳聖書で読みますと、心に響きます。たとえば、
《心をかたくなにしてはならない》とあります。かたくなな心とは、自分自身のねじれた考えに凝り固まってしまって、何も受け入れなくなってしまう心です。先ほどからくり返し言っていますが、人生には自分の意のままにならないものがあります。自分の力を超えたものが働いています。実はそこに神様の御心があったり、御業があったりするんですね。
こんな話を聞いたことがあります。ある老牧師が、目を輝かせ愉快そうにこう言うのです。「長い間、仕事に邪魔が入ると、つねに文句を言ってきましたが、その邪魔というのが、じつはわたしに与えられた仕事であることが、だんだんと分かってきました」
数多くの思いがけない出来事を、単に自分の計画を邪魔するやっかいな出来事として恨みがましく思うのではなく、そこに何らかの神様のご意志があるのだということを認め、信じると、人生の色がガラリと変わるのです。
年間第一金
マルコ2・1-12
目に見える状況がどんなに良くなったように見えても、内面が癒されなければ、人は本当に幸せにはなれません。イエスは私たちの最も深い望みに応えてくださいます。神から罪を赦された者は、外面的なことがどうであろうと、真の自由と喜びの内に生きるのです。
主イエス、私を罪の力から解放し、いつも神の子の自由と喜びを生きる者としてください。sese05
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イエスはその非常識で突飛な行動の中に彼らの信仰を見ておられる(五節)。聖書は信仰の内面の心理を説明しない。やむにやまれず外に現れる行動によって信仰を描く。イエスは彼らの、とくにそのからだの麻痺した人の「信仰を見て」こう言われる、「子よ、あなたの罪は赦されている」。病気だからつれてきたのに、イエス様は病気のことは何も言わずに、ただ罪が赦されたとだけ言い
ます。考えてみればおかしな話です。病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉でしょう。神の言は人間の願いにとってまことに意外です。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからです(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。
また、私たちは恐れるべき病気は、体の病気よりも心の病気であると言うことが示されているのだと思います。実際、風邪を引いたなどの体の病気は、何日か寝ていれば治ります。治らない病気もありますが、多くの病気は治るようになってきました。神の「安息にあずかれない」(ヘブライ4・1-5 第一朗読参照)ような心の病気は人間の力だけでは治りません。意地悪な心、自分中心の心、不平不満ばかり言う心、優しさに欠けた心、人を傷付けるような心。この心の病気のために体は死ぬことはありませんが、そのために魂が滅びてしまうなら、それこそ恐ろしいことです。だから体を治す方が、心の重い病気によって犯し続けている罪を赦すことよりも簡単だと言っているのです。
ですからイエス様にとって、心の病気のほうが大変なことでした。そこでまず何よりも、心の癒し、罪を赦すことを宣言したのです。(マタ10:28体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。)
年間第一土
マルコ2・13-17
神の前では同じ罪人にすぎない私たちの間で、互いに批判したり、裁いたりすることがよくあります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」神のこの憐れみこそが救いです。自分の罪を自覚する者は神の憐れみに触れ、神の国に招かれます。そして今度は、他のすべての人を憐れみをもって迎え入れることにより、救いを告げ知らせるよう招かれます。
主よ、罪人の私を招いてくださったあなたの憐れみの心を一層深く味わわせてください。その心を人々と分かち合っていくことができますように。sese05
私がどういう人間か、イエスはすべてご存知です。その上で、『わたしに従いなさい』と声を掛けて下さっています。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』と。主よ、あなたの招きに応えてゆきたいのです。素直に従っていく勇気を与えて下さい。sese07
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2 per annum
年間 第二月曜日
「婚礼の客は断食できるだろうか」
マルコ2・18-22
信仰生活には目的と手段があるとすれば、断食は手段の方に入るでしょう。目的は神との生きた関係をつくることです。神と親しくなるためにさまざまな手段がある。悔い改めて、失った関係を回復するために断食するのも、よいことです。が、今は結婚式場に招かれているのに、喜ぶべきときに、悲しみの断食をするわけにはいかない。
信仰生活には目的意識が必要である。さらに動機も大切です。キリスト信者は断食をするのは、律法を守るためではなく、キリストの十字架を担うためです。神とつき合うためにこちらが手段を選ぶのではなくて、神から与えられた目的があるから、それにそって選ぶべきである。今は喜ぶときなのか、それとも悲しむときなのか、自分の動機はどうなっているのか。キリストと共に喜び、あるいは悲しむ。キリストに合わせる自由(覚悟)があるのか。新しい関係が生まれようとしているのに、態度を根本的にかえず、ただ習慣に固執するなら、よいことでもその価値を失ってしまいます。
年間 第二火曜日
「人の子は安息日の主である」
マルコ2・23-28
神は、戒めを設けられたとき、人間の益になるように設けられました。しかし、人間の側でそれを曲解し、おきてで人間をがんじがらめにしてしまいます。そのような掟と福音は、根本から対立するのです。不思議なことに、人間は、自分に益を与える福音よりも奴隷にするおきてを選ぶことが多いのです。
「人の子は安息日にも主です。」
イエスはここで、「あなたがたは、選ばなければなりませんよ。あなたが絶対に譲れない安息日にまさって、わたしを一番にすることができますか。」と言われています。絶対視しているものをイエスのために捨てるかそれともそれにしがみ続けるのか、どちらかを私たちは選ばなければなりません。
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私たちは御言葉に従って生きて行こうとするとき、どこかでこの世の道理とぶつかることがある。しかし、従って生きることは神の御旨であるならば、神が荒れ野でマナを降らせたように、この世の道理を超えて、私たちに必要なものを備えて道を開いて下さるのである。イスラエル人は安息日を守ることができるために、神は必ず備えをして下さると信じていました。そこから考えると、キリストは「安息日の主」だということは、安息日(日曜日、「主日」)はキリストに従って生きるための備えであるということになる。
信仰生活のために休むことは大事であって、そのために安息日(主日)を守ることが大切である。やはりこれは信仰生活の一つの知恵だと思う。
ところが、安息日には、仕事をしないということ自体が目的となってしまった。神は安息日に仕事をするなと言われたのではなくて、神を礼拝するために仕事をしばらく止めることであった。けっしてそれは目的ではなく、一つの手段である。手段の目的化ということは、信仰生活において起こる誘惑である。やはり、健全な信仰生活には、目的と手段をしっかり見分ける勉強は必要である。(榎本)
科学技術の発展と共に人間の生活も便利になり、人間についての研究も進歩しましたが、人間自体は軽視されているのが現状です。人間のための技術なのか、人間のための経済なのか、それとも経済成長そのもの自体が目的なのか、わからなくなるときがある。神は人を愛して創りましたが、人は自分に都合のよいものを作り、これに愛着するようになりました。私たちが作ったものを神が創ったものより尊ぶことのないよう、いつも主に心を向け、御心を行なうことができますように。
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ヘブライ人
《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、
『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。
クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。
イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。
年間 第二水曜日
「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」
マルコ3・1-6
この人の手は、前からなえていたので、安息日にいやす必要はない、しばらく待っていただければ、と人々は考えていただろう。しかし、イエスは、安息日にその手をいやされた。今まで手がなえていたから、いつか直ればよいというのは、他人の考えで、本人は一刻も早くその不自由さから解放されたいと願っていたであろう。本人の立場に立てば、今その手をいやしてもらうことが大切なことであった。イエスは官僚主義的な考え(ちゃんとした手続をふまえてからという)にとらわれず、事柄の本質を問います。安息日はそもそも何のためにあるか。それによって弟子たちは、安息日をどのような心構えで祝うべきかを理解しました。ただ単に仕事しないことによってではなく、善をなすことによって、神の栄光を証しすべきだと。
なえた手を伸ばしなさいとイエスが言われたとき、この人は自分の手は今まで伸びなかったという慣れきった現実に左右されないで、神の言葉には無から新しい現実を生じさせる力があり、神には可能であると信じ、自分の立場を神に委ねた。そのとき、彼の手は直った。慣れた現実に捕われない(こだわらない)で、神の可能性を認める、これは信仰である。
会堂の中には手の萎えた人が一人いました。しかし、心が萎えた人はたくさんいました。かたくなな心は外には見えません。善を行なうために、命を救うために、かたくなな心を治すことが何よりも大切でしょう。私たちも心の中の萎えたものを探し、癒していただくよう、イエスに差し出しましょう。sese07
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「動物はその飼い主に似る」と言われています。先日、類人猿の優劣を比較して論じているテレビ番組がありました。ゴリラの研究者、チンパンジーの研究者、オランウータンの研究者が出ていましたが、面白いことに、永年つき合って心を通わせている動物に、それぞれの研究者が似ているのです。 夫婦は、性格は相当に違いますが、暗黙の了解ができています。テレビ番組も好んで見るもの、どうでもよいもの、絶対に見ないもの、の分類はほぼ一致しています。
仏教徒は釈迦に似るはずですが、日本では釈迦は遠い存在ですので、各宗派の始祖、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などの教えを学び、生き方に感化されて、それらの人格に似る者になります。キリスト教徒はイエスの愛に学んで、それをお互いの間で実行することによって、イエスに似る者になります(ヨハネ13・34他)。その場合、いかなるイエス、どのようなイエス像がその教会に伝承されているかということによって、教会の性格が形成されます。
マタイとルカは、「彼は怒りに満ち…深く悲しんで…」のマルコの記事を省きました。マタイとルカは一貫して、マルコの記事にある、イエスの人間的な感情の表現を省きました。きっと時代が下ってマタイやルカの頃になると、神の子イエスを崇敬する念が高まり、神の子が怒ったり、憤慨したり、悲しんだり、驚いたり、恐れおののいたりするのは相応しくないと考えてのことでしょう。その結果、カトリック教会の聖像や、ギリシャ正教会の聖画(イコン)のような、人間的な感情を表わさないイエス像になってしまいました。彼ら以前のマルコのイエスは、人の子イエスです。マルコは神の子イエスを信じていましたが、それは隠れた姿にしておいて、不義不正を見ては憤り、偽善を見ては腹を立て、世の罪を見ては深く悲しみ、十字架を前にしては恐れおののく人の子イエスを描きました。
このように福音書を学んで私たちは、人間的な感情を殺して信仰生活をする必要はなく、人間的な感情を豊かにもちながら、イエスに徒うことが許されていることを知るのです。
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自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき、Automated External Defibrillator, AED)というものは最近いろいろなところでよく見かけます。十万円前後もするそうですが、教会でも備えておこうかと検討されています。心臓がとまった場合、こういう機械をあてると心臓の働きは戻ります。
とことが、今日の福音書を読むと、安息日に人を助けてはいけない、救急車を呼んではいけない、医者は働いてはいけないみたいな印象を受けます。けれども、それは正しい捉え方ではないのです。マタイ12、11やルカ14、5を見ると、牛や羊が穴に落ちた場合、安息日でも助け出すことはできると書かれています。安息日という制度にはちゃんと例外が認められたのです。問題は、どちらかというと縄張り争いです。イエス・キリストは「メルキゼデクのような司祭」であった、つまり人間によって造られた制度での司祭ではなかった。安息日を守る祭司階級は人間によって決められていたもので、そこにキリストが入り込むと縄張り争いが起こるわけです。
現代教会にも縄張り意識は結構あります。そこにキリストが入り込むときは、縄張り争いが起こりうるのです。キリストの働き、癒しに抵抗するのです。キリストを追い出そうとして現状維持を図るのです。その場合、私はどうでしょうか、キリストの働き、癒しを受け入れるのか、それと既成の縄張りにこだわるのか、どちらにつくかを問いかける福音書です。
年間 第二木曜日
「イエスは群集が自分に押し迫るのを避けた」
マルコ3・7-12
愛の人であり、救い主であるイエスが多くの群集がきたのに、その人たちを避けて、のがれるために「小船を用意しておけ」と命じられた。それは「多くの人をいやされたので、押し寄せてきたから」である、とある。この個所は、救いを熱心に求めていればよいものではない、ということを示していると思う。群集は非常に熱心にイエスを求めたが、その熱心さの動機は、自分たちの苦しみ、病気をいやしてもらおうという、自分の都合ないし欲望であった。そういう求め方をするとき、イエスは避けていかれる。(榎本)
人々が病気や悩みから解放される状態は、神の国が実現しつつある状態なのである。あらゆる悪が追い出されていることは、神の国においては悪には用がないことを示している。ところが、人々の心の中に分裂を起こすために、一所懸命活動している悪霊がいることも事実である。神の国は何であるかを見えなくして、自分の悩みや苦しみばかりが見える、そんな目を作っている。(ステ)
イエスに従おうとする私たちは、ともすると、自分勝手な望みでいっぱいになって、イエスを押しやってしまいます。そんな時、イエスは少し私たちから離れるようですが、イエスの心が離れるわけではありません。イエスこそ、私たち一人一人の必要を最もよく知っています。私たちにとって大切な
ことはイエスと共に、イエスを中心に歩むことです。人間関係でも同じことが言えるでしょう。
自分を押し付けて近づくより、ある程度の距離を取りながら相手の内におられるイエスを尊重する中で、信頼関係を深めていくことができますように。sese07
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『ヘブライ人への手紙』は、ヘブライ人つまりユダヤ人に向けて書かれたものです。したがって、ユダヤ人ならではの問題が、この書の中に含まれています。もちろん、私たちに関係ないということではありませんが、一義的には、ユダヤ人の抱えている問題ということがあるのです。祭司制度の問題も、その一つであります。これを読む場合、まずユダヤ人の知っている祭司制度とは、どういうものかを知ることから始めないと、わかりにくいのです。できるだけ分かりやすく、お話ししたいと思います。
祭司とは、神殿に奉仕して、礼拝や祭儀を司る人たちのことです。「祭司」を逆さに読みますと、「司祭」になります。「司祭」は、カトリック教会で、礼拝や典礼を司る聖職者のことです。礼拝や礼典を司るという意味では、ユダヤ人の「祭司」も、カトリック教会の「司祭」も、そしてプロテスタント教会での「牧師」も、同じ働きをすると言ってもよいのです。司祭は、神父とも呼ばれ、信者たちの魂への父親的な配慮の働きもいたします。牧師は、信者たちを神の羊たちとして牧するという働きもします。それにたいして、イスラエルの祭司は、もっぱら神殿礼拝を司る働きをしていたのでした。
ヘブライ人への手紙とマルコ福音書のイエス・キリストの描き方は非常に対照的です。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天より高」いとしている手紙。一方福音では、あらゆる病気を患った大勢の人々、汚れた霊どもに囲まれ、触れられ、「押しつぶされ」そうというほどであった。大変大きなギャップが描かれています。このギャップを埋めるには、「執り成し」、「仲介者」、「大祭司」というような言葉があります。イエスは、人間は手のどこかない世界、創造主の世界とつながっているからこそ、この世にいた間は、人々を癒す力、悪を追い出す力をもったのです。
今も、キリストの体である教会を通してキリストはあらゆる民族の人々から触れられる。と同時にキリストは父なる神の世界におられる。そのギャップの間に生きている私たちはどうすればかと言いますと。今日の答唱詩編に答えがあります。「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び」。キリストのようにへりくだって、謙虚に人々に奉仕することではないでしょうか。
年間 第二金曜日
「十二人を任命した」
マルコ3・13-19
弟子たちは、来たのではなく、「呼び寄せられた」とある。信仰とは自分から進んでいくというのではなく、イエスによって呼び寄せられたことである。それは、「従う」ということにつながる。イエスに従うのと、イエスを従えるのとは大きな違いがある。私たちはともすると、イエスを従えようとしている。しかしイエスは私に従ってきなさいと言われたのであるから、いつもイエスのあとに従う存在であることを覚えたいと思う。
「そこで十二人を任命した」とある。弟子たちから言えば、任命されたのであり、受け身の立場である。さらに、「彼らを自分のそばに置くため」である。私たちは常にイエスのそばで養いを受ける必要がある。全く平凡な十二人が、ニ、三年後には、偉大な宗教家として働くようになった。彼らはそれを神から授かったことである。(榎本)
現代に生きる私たちにも、救いの歴史を担う役割が与えられている。
イエスに選ばれた十二人を見てみましょう。家族の名を取り上げたのは三人。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、アルファイの子ヤコブ。仕事と行動の説明があるのが二人、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。その他は名前しかない平凡な七人です。イエスの時代にも、優秀な学者、金持ち、力ある官僚はいましたがイエスは彼らを選ばれなかったのです。その意味をじっくり味わいましょう。イエスの力が私の弱さの中に働き、神の栄光が現されますように。sese07
年間 第二土曜日
「あの男は気が変になっている」
マルコ3・20-21
一般常識に反する行動をする人がいれば、気違いと言われる。これは昔も今も同じである。イエスの時代から今日に至るまで、一般常識と言われるものがそれほど変わっていないと思われる。福音書ではイエスが気違いと言われている理由は、民衆が抱えている問題に真剣に取り組もうとしているだけのことである。考えてみれば他人のことを気にするだけのことである。ごく普通の当たり前のことであるが、我を忘れるまで、食事の時間を惜しんでまでも、人のことを心配することが、常識的には許されない。当然イエスはそのような常識を無視して自分なりの常識、つまり愛の常識(論理)、に従って行動する。
一般常識のもう一つの原則は、皆がやらないことは自分もやらないことである。この原則を守らないと、自分の行動は、何もしない人への批判と受け取られる可能性がある。
私たちは普段どういう常識に従っているのであろうかと、反省させられる。(ステ)
イエスに従っていた人は食事をする暇もないほどでしたが、私はどうでしょう?イエスは気が変になっていると噂され、家族の者が恥ずかしくて取り押さえに来るほどでしたが、私はどうでしょう?
イエスに従うとはどういうことか、よりよく悟り、イエスと共に様々な苦難を受け入れていくことができますように。sese07
「婚礼の客は断食できるだろうか」
マルコ2・18-22
信仰生活には目的と手段があるとすれば、断食は手段の方に入るでしょう。目的は神との生きた関係をつくることです。神と親しくなるためにさまざまな手段がある。悔い改めて、失った関係を回復するために断食するのも、よいことです。が、今は結婚式場に招かれているのに、喜ぶべきときに、悲しみの断食をするわけにはいかない。
信仰生活には目的意識が必要である。さらに動機も大切です。キリスト信者は断食をするのは、律法を守るためではなく、キリストの十字架を担うためです。神とつき合うためにこちらが手段を選ぶのではなくて、神から与えられた目的があるから、それにそって選ぶべきである。今は喜ぶときなのか、それとも悲しむときなのか、自分の動機はどうなっているのか。キリストと共に喜び、あるいは悲しむ。キリストに合わせる自由(覚悟)があるのか。新しい関係が生まれようとしているのに、態度を根本的にかえず、ただ習慣に固執するなら、よいことでもその価値を失ってしまいます。
年間 第二火曜日
「人の子は安息日の主である」
マルコ2・23-28
神は、戒めを設けられたとき、人間の益になるように設けられました。しかし、人間の側でそれを曲解し、おきてで人間をがんじがらめにしてしまいます。そのような掟と福音は、根本から対立するのです。不思議なことに、人間は、自分に益を与える福音よりも奴隷にするおきてを選ぶことが多いのです。
「人の子は安息日にも主です。」
イエスはここで、「あなたがたは、選ばなければなりませんよ。あなたが絶対に譲れない安息日にまさって、わたしを一番にすることができますか。」と言われています。絶対視しているものをイエスのために捨てるかそれともそれにしがみ続けるのか、どちらかを私たちは選ばなければなりません。
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私たちは御言葉に従って生きて行こうとするとき、どこかでこの世の道理とぶつかることがある。しかし、従って生きることは神の御旨であるならば、神が荒れ野でマナを降らせたように、この世の道理を超えて、私たちに必要なものを備えて道を開いて下さるのである。イスラエル人は安息日を守ることができるために、神は必ず備えをして下さると信じていました。そこから考えると、キリストは「安息日の主」だということは、安息日(日曜日、「主日」)はキリストに従って生きるための備えであるということになる。
信仰生活のために休むことは大事であって、そのために安息日(主日)を守ることが大切である。やはりこれは信仰生活の一つの知恵だと思う。
ところが、安息日には、仕事をしないということ自体が目的となってしまった。神は安息日に仕事をするなと言われたのではなくて、神を礼拝するために仕事をしばらく止めることであった。けっしてそれは目的ではなく、一つの手段である。手段の目的化ということは、信仰生活において起こる誘惑である。やはり、健全な信仰生活には、目的と手段をしっかり見分ける勉強は必要である。(榎本)
科学技術の発展と共に人間の生活も便利になり、人間についての研究も進歩しましたが、人間自体は軽視されているのが現状です。人間のための技術なのか、人間のための経済なのか、それとも経済成長そのもの自体が目的なのか、わからなくなるときがある。神は人を愛して創りましたが、人は自分に都合のよいものを作り、これに愛着するようになりました。私たちが作ったものを神が創ったものより尊ぶことのないよう、いつも主に心を向け、御心を行なうことができますように。
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ヘブライ人
《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、
『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。
クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。
イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。
年間 第二水曜日
「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」
マルコ3・1-6
この人の手は、前からなえていたので、安息日にいやす必要はない、しばらく待っていただければ、と人々は考えていただろう。しかし、イエスは、安息日にその手をいやされた。今まで手がなえていたから、いつか直ればよいというのは、他人の考えで、本人は一刻も早くその不自由さから解放されたいと願っていたであろう。本人の立場に立てば、今その手をいやしてもらうことが大切なことであった。イエスは官僚主義的な考え(ちゃんとした手続をふまえてからという)にとらわれず、事柄の本質を問います。安息日はそもそも何のためにあるか。それによって弟子たちは、安息日をどのような心構えで祝うべきかを理解しました。ただ単に仕事しないことによってではなく、善をなすことによって、神の栄光を証しすべきだと。
なえた手を伸ばしなさいとイエスが言われたとき、この人は自分の手は今まで伸びなかったという慣れきった現実に左右されないで、神の言葉には無から新しい現実を生じさせる力があり、神には可能であると信じ、自分の立場を神に委ねた。そのとき、彼の手は直った。慣れた現実に捕われない(こだわらない)で、神の可能性を認める、これは信仰である。
会堂の中には手の萎えた人が一人いました。しかし、心が萎えた人はたくさんいました。かたくなな心は外には見えません。善を行なうために、命を救うために、かたくなな心を治すことが何よりも大切でしょう。私たちも心の中の萎えたものを探し、癒していただくよう、イエスに差し出しましょう。sese07
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「動物はその飼い主に似る」と言われています。先日、類人猿の優劣を比較して論じているテレビ番組がありました。ゴリラの研究者、チンパンジーの研究者、オランウータンの研究者が出ていましたが、面白いことに、永年つき合って心を通わせている動物に、それぞれの研究者が似ているのです。 夫婦は、性格は相当に違いますが、暗黙の了解ができています。テレビ番組も好んで見るもの、どうでもよいもの、絶対に見ないもの、の分類はほぼ一致しています。
仏教徒は釈迦に似るはずですが、日本では釈迦は遠い存在ですので、各宗派の始祖、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などの教えを学び、生き方に感化されて、それらの人格に似る者になります。キリスト教徒はイエスの愛に学んで、それをお互いの間で実行することによって、イエスに似る者になります(ヨハネ13・34他)。その場合、いかなるイエス、どのようなイエス像がその教会に伝承されているかということによって、教会の性格が形成されます。
マタイとルカは、「彼は怒りに満ち…深く悲しんで…」のマルコの記事を省きました。マタイとルカは一貫して、マルコの記事にある、イエスの人間的な感情の表現を省きました。きっと時代が下ってマタイやルカの頃になると、神の子イエスを崇敬する念が高まり、神の子が怒ったり、憤慨したり、悲しんだり、驚いたり、恐れおののいたりするのは相応しくないと考えてのことでしょう。その結果、カトリック教会の聖像や、ギリシャ正教会の聖画(イコン)のような、人間的な感情を表わさないイエス像になってしまいました。彼ら以前のマルコのイエスは、人の子イエスです。マルコは神の子イエスを信じていましたが、それは隠れた姿にしておいて、不義不正を見ては憤り、偽善を見ては腹を立て、世の罪を見ては深く悲しみ、十字架を前にしては恐れおののく人の子イエスを描きました。
このように福音書を学んで私たちは、人間的な感情を殺して信仰生活をする必要はなく、人間的な感情を豊かにもちながら、イエスに徒うことが許されていることを知るのです。
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自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき、Automated External Defibrillator, AED)というものは最近いろいろなところでよく見かけます。十万円前後もするそうですが、教会でも備えておこうかと検討されています。心臓がとまった場合、こういう機械をあてると心臓の働きは戻ります。
とことが、今日の福音書を読むと、安息日に人を助けてはいけない、救急車を呼んではいけない、医者は働いてはいけないみたいな印象を受けます。けれども、それは正しい捉え方ではないのです。マタイ12、11やルカ14、5を見ると、牛や羊が穴に落ちた場合、安息日でも助け出すことはできると書かれています。安息日という制度にはちゃんと例外が認められたのです。問題は、どちらかというと縄張り争いです。イエス・キリストは「メルキゼデクのような司祭」であった、つまり人間によって造られた制度での司祭ではなかった。安息日を守る祭司階級は人間によって決められていたもので、そこにキリストが入り込むと縄張り争いが起こるわけです。
現代教会にも縄張り意識は結構あります。そこにキリストが入り込むときは、縄張り争いが起こりうるのです。キリストの働き、癒しに抵抗するのです。キリストを追い出そうとして現状維持を図るのです。その場合、私はどうでしょうか、キリストの働き、癒しを受け入れるのか、それと既成の縄張りにこだわるのか、どちらにつくかを問いかける福音書です。
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メルキゼデクは、旧約聖書においてもたったの二回しかその名が記されていません。一つは創世記14章17-20節です。アブラハムは彼に戦利品の10分の1を贈ったとあります。この短い記述があってから1000年後、ダビデの記した詩編の中に再びメルキゼデクの名が登場します。詩編110編4節です。
主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。』
この言葉は、神様によって、ダビデがメルキゼデクの後継者に任じられたということを意味しています。そして、さらに1000年後、イエス・キリストが誕生し、この『ヘブライ人への手紙』の著者が、もう一度メルキゼデクに光を当てます。新約聖書の中には、この手紙を除いて、この名を見ることはできません。しかし、この手紙は、旧約聖書における上記のたった二回の記述をもとに、イエス・キリストこそはメルキゼデクに等しい大祭司であると、大胆かつ緻密に論じるのです。
メルキゼデクは王であり、祭司でした。王とは、人間と人間の間を結ぶ、社会を治める者です。祭司は、神と人間の間を結ぶ宗教を治める者です。今日では、政教分離こそが、先進国の印のようになっていますが、それは無用な争いを避けようとする方便にすぎません。
このようなことから、『ヘブライ人への手紙』は、メルキゼデクが、アブラハムに優るものであるということ、4-10節で語ります。そして、アブラハムに優るということは、その子孫であるレビ族にも優るということだとも言われています。さらに、先ほど丁寧にお読みしたところですが、11-19節では、イスラエルに与えられている神の掟、つまり律法にも優るのだということが言われているのです。もう一度、16節を見ていましょう。
メルキゼデクが、律法による祭司ではなかったように、そしてアブラハムを祝福したということからも分かるように、律法による祭司よりも優れた者でした。イエス様もまた、律法による祭司ではなく、アブラハムや、アロンや、レビ族や、律法すらも超越した祭司なのです。
メルキゼデクは、旧約聖書においてもたったの二回しかその名が記されていません。一つは創世記14章17-20節です。アブラハムは彼に戦利品の10分の1を贈ったとあります。この短い記述があってから1000年後、ダビデの記した詩編の中に再びメルキゼデクの名が登場します。詩編110編4節です。
主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。』
この言葉は、神様によって、ダビデがメルキゼデクの後継者に任じられたということを意味しています。そして、さらに1000年後、イエス・キリストが誕生し、この『ヘブライ人への手紙』の著者が、もう一度メルキゼデクに光を当てます。新約聖書の中には、この手紙を除いて、この名を見ることはできません。しかし、この手紙は、旧約聖書における上記のたった二回の記述をもとに、イエス・キリストこそはメルキゼデクに等しい大祭司であると、大胆かつ緻密に論じるのです。
メルキゼデクは王であり、祭司でした。王とは、人間と人間の間を結ぶ、社会を治める者です。祭司は、神と人間の間を結ぶ宗教を治める者です。今日では、政教分離こそが、先進国の印のようになっていますが、それは無用な争いを避けようとする方便にすぎません。
このようなことから、『ヘブライ人への手紙』は、メルキゼデクが、アブラハムに優るものであるということ、4-10節で語ります。そして、アブラハムに優るということは、その子孫であるレビ族にも優るということだとも言われています。さらに、先ほど丁寧にお読みしたところですが、11-19節では、イスラエルに与えられている神の掟、つまり律法にも優るのだということが言われているのです。もう一度、16節を見ていましょう。
メルキゼデクが、律法による祭司ではなかったように、そしてアブラハムを祝福したということからも分かるように、律法による祭司よりも優れた者でした。イエス様もまた、律法による祭司ではなく、アブラハムや、アロンや、レビ族や、律法すらも超越した祭司なのです。
年間 第二木曜日
「イエスは群集が自分に押し迫るのを避けた」
マルコ3・7-12
愛の人であり、救い主であるイエスが多くの群集がきたのに、その人たちを避けて、のがれるために「小船を用意しておけ」と命じられた。それは「多くの人をいやされたので、押し寄せてきたから」である、とある。この個所は、救いを熱心に求めていればよいものではない、ということを示していると思う。群集は非常に熱心にイエスを求めたが、その熱心さの動機は、自分たちの苦しみ、病気をいやしてもらおうという、自分の都合ないし欲望であった。そういう求め方をするとき、イエスは避けていかれる。(榎本)
人々が病気や悩みから解放される状態は、神の国が実現しつつある状態なのである。あらゆる悪が追い出されていることは、神の国においては悪には用がないことを示している。ところが、人々の心の中に分裂を起こすために、一所懸命活動している悪霊がいることも事実である。神の国は何であるかを見えなくして、自分の悩みや苦しみばかりが見える、そんな目を作っている。(ステ)
イエスに従おうとする私たちは、ともすると、自分勝手な望みでいっぱいになって、イエスを押しやってしまいます。そんな時、イエスは少し私たちから離れるようですが、イエスの心が離れるわけではありません。イエスこそ、私たち一人一人の必要を最もよく知っています。私たちにとって大切な
ことはイエスと共に、イエスを中心に歩むことです。人間関係でも同じことが言えるでしょう。
自分を押し付けて近づくより、ある程度の距離を取りながら相手の内におられるイエスを尊重する中で、信頼関係を深めていくことができますように。sese07
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『ヘブライ人への手紙』は、ヘブライ人つまりユダヤ人に向けて書かれたものです。したがって、ユダヤ人ならではの問題が、この書の中に含まれています。もちろん、私たちに関係ないということではありませんが、一義的には、ユダヤ人の抱えている問題ということがあるのです。祭司制度の問題も、その一つであります。これを読む場合、まずユダヤ人の知っている祭司制度とは、どういうものかを知ることから始めないと、わかりにくいのです。できるだけ分かりやすく、お話ししたいと思います。
祭司とは、神殿に奉仕して、礼拝や祭儀を司る人たちのことです。「祭司」を逆さに読みますと、「司祭」になります。「司祭」は、カトリック教会で、礼拝や典礼を司る聖職者のことです。礼拝や礼典を司るという意味では、ユダヤ人の「祭司」も、カトリック教会の「司祭」も、そしてプロテスタント教会での「牧師」も、同じ働きをすると言ってもよいのです。司祭は、神父とも呼ばれ、信者たちの魂への父親的な配慮の働きもいたします。牧師は、信者たちを神の羊たちとして牧するという働きもします。それにたいして、イスラエルの祭司は、もっぱら神殿礼拝を司る働きをしていたのでした。
ヘブライ人への手紙とマルコ福音書のイエス・キリストの描き方は非常に対照的です。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天より高」いとしている手紙。一方福音では、あらゆる病気を患った大勢の人々、汚れた霊どもに囲まれ、触れられ、「押しつぶされ」そうというほどであった。大変大きなギャップが描かれています。このギャップを埋めるには、「執り成し」、「仲介者」、「大祭司」というような言葉があります。イエスは、人間は手のどこかない世界、創造主の世界とつながっているからこそ、この世にいた間は、人々を癒す力、悪を追い出す力をもったのです。
今も、キリストの体である教会を通してキリストはあらゆる民族の人々から触れられる。と同時にキリストは父なる神の世界におられる。そのギャップの間に生きている私たちはどうすればかと言いますと。今日の答唱詩編に答えがあります。「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び」。キリストのようにへりくだって、謙虚に人々に奉仕することではないでしょうか。
年間 第二金曜日
「十二人を任命した」
マルコ3・13-19
弟子たちは、来たのではなく、「呼び寄せられた」とある。信仰とは自分から進んでいくというのではなく、イエスによって呼び寄せられたことである。それは、「従う」ということにつながる。イエスに従うのと、イエスを従えるのとは大きな違いがある。私たちはともすると、イエスを従えようとしている。しかしイエスは私に従ってきなさいと言われたのであるから、いつもイエスのあとに従う存在であることを覚えたいと思う。
「そこで十二人を任命した」とある。弟子たちから言えば、任命されたのであり、受け身の立場である。さらに、「彼らを自分のそばに置くため」である。私たちは常にイエスのそばで養いを受ける必要がある。全く平凡な十二人が、ニ、三年後には、偉大な宗教家として働くようになった。彼らはそれを神から授かったことである。(榎本)
現代に生きる私たちにも、救いの歴史を担う役割が与えられている。
イエスに選ばれた十二人を見てみましょう。家族の名を取り上げたのは三人。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、アルファイの子ヤコブ。仕事と行動の説明があるのが二人、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。その他は名前しかない平凡な七人です。イエスの時代にも、優秀な学者、金持ち、力ある官僚はいましたがイエスは彼らを選ばれなかったのです。その意味をじっくり味わいましょう。イエスの力が私の弱さの中に働き、神の栄光が現されますように。sese07
年間 第二土曜日
「あの男は気が変になっている」
マルコ3・20-21
一般常識に反する行動をする人がいれば、気違いと言われる。これは昔も今も同じである。イエスの時代から今日に至るまで、一般常識と言われるものがそれほど変わっていないと思われる。福音書ではイエスが気違いと言われている理由は、民衆が抱えている問題に真剣に取り組もうとしているだけのことである。考えてみれば他人のことを気にするだけのことである。ごく普通の当たり前のことであるが、我を忘れるまで、食事の時間を惜しんでまでも、人のことを心配することが、常識的には許されない。当然イエスはそのような常識を無視して自分なりの常識、つまり愛の常識(論理)、に従って行動する。
一般常識のもう一つの原則は、皆がやらないことは自分もやらないことである。この原則を守らないと、自分の行動は、何もしない人への批判と受け取られる可能性がある。
私たちは普段どういう常識に従っているのであろうかと、反省させられる。(ステ)
イエスに従っていた人は食事をする暇もないほどでしたが、私はどうでしょう?イエスは気が変になっていると噂され、家族の者が恥ずかしくて取り押さえに来るほどでしたが、私はどうでしょう?
イエスに従うとはどういうことか、よりよく悟り、イエスと共に様々な苦難を受け入れていくことができますように。sese07
3 per annum
年間第3月
マルコ3・22-30
サタンとはどのようなものなのでしょうか?祈りのうちに過ごす日常生活においても私達の心は常に揺れ動きます。イエスはたとえ話の中で「内輪もめ」という言葉を繰り返されます。それは閉ざされたところで起こる、閉ざされた考え、他を受け入れようとしない頑固な態度、自分を守ろうとする心の狭さを感じさせます。それがサタンではないでしょうか。聖霊は御父から注がれるものであり、「内輪」ばかり見ていてはその存在に気づきません。
開かれた、柔軟な、広い心で聖霊を受け、聖霊に導かれて日々の生活を送ることができますように。sese07
ファリサイ派の人々はイエスをせめるための口実を一所懸命探していますが、それがなかなか見つかりません。そして最後に「おまえは悪魔たちの親分だから悪魔を追い出せるのだ」という、矛盾に満ちた理屈を言い出します。ここまで来ますと、彼らはイエスの人気を落とさせるために、手段を選びません。彼らはイエスに対して激しいうらみを持っているので、理性が効きません。
イエスは目指しているのは、周囲の目を気にせずに、正しいことを正しいこととして受けとめることの出来る人の育成です。自分の心のわだかまりからも、周りの抑圧からも自由な人間の養成です。
ところがファリサイ派の人々は言われる通りにふるまうおとなしい人間を求める。疑問を持たない人間、疑問に思っていることでも、質問したり、問い掛けたりしない人間、世間の価値観をうのみしながら、行動する人間です。さて、私たちはどういうタイプの人間になりたいと望んでいるでしょうか。
年間第3火
マルコ3・31-35
イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。それまでイエスの周りに座りイエスだけを見ていた人達の信仰は「私と神」の間だけのものだったのではないでしょうか。それがイエスを通して、「私と人」「人と人」との間にも信仰が生まれます。「神の御心を行う心」すなわち「清らかで愛に満ちた心」は全ての人の心の奥にあるのではないでしょうか。今日出会う人達を私の兄弟、姉妹、また母として受け入れ、互いに支え合い分かち合いながら信仰の道を歩むことができますように。sese07
家族というのは、本来は、血のつながっている、一番の近親者のことです。ですから、それは血のつながっていないものから見たら、いくらその家の家族になりたいと思っても、なることは出来ない。そういうある意味で、閉鎖性を感じるものが家族です。何かのサークルだとか、組織だとかとは違って、開かれていないのです。 しかしイエスさまにあっては、血のつながりも何もない、幼なじみであるわけでもない、同じ出身地だというわけでもない。別々の家庭に育ち、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、イエスさまのもとに一つに集められている。この弟子
たちを指して、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃる、わたしの家族だというのです。
イエスさまのあとに従い、みことばに耳を傾けているならば、私たちもイエスさまの弟子なのであり、それゆえイエスさまから、「わたしの母、わたしの兄弟」と呼ばれるのです。わたしの家族、と言われるのです。
みことばを自分の中に受け入れることによって、イエス様が自分のなかに生まれるということだと思います。私たちは母マリアと同じようにイエス様を生んで、育て、世界にプレゼントすることができるというわけです。なにか照れくさいような、嬉しいような感じがするかもしれないが、それは教会という変わった家族のなかに毎日のように文字通り起こっていることなのである。
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『ヘブライ人への手紙』10章
みなさんもご経験があると思いますが、健康診断で再検査を言い渡されまして、お腹のCTとエコーの検査をいたしました。あるいは、レントゲンを考えてみてください。画像の写真を見ますと、白黒の陰影画像です。それを見せられて、「ほら、ここが○○ですよ」と、お医者さんのお話を聞いていましたが、白いものがみえたり、くろっぽいものがみえたりするだけなので、いったいお腹の中がどうなっているのか、私にはさっぱり分かりませんでした。わからなくても、「まあ、心配はないでしょう」と言われてホッとしたわけです。それにしましても、陰を見て実体を知るといいますか、お医者さんというのは、知識とか経験を駆使しまして、そういう陰影だけでできた写真からお腹の中のようすが手に取るように分かるようです。凄いことだなあと思いました。このように、実体そのものをみなくても、その影を見て、実体そのものを知ることができる人たちがいます。そういう影の話が、『ヘブライ人への手紙』10章1節に出て来ます。
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
律法は《影》に過ぎず、役に立たないと、律法否定みたいなことが書いてあるようにも読めますが、《影》を否定的な意味にとる必要はありません。律法は、十戒をはじめとして神様が与えてくださったお言葉です。しかし、神様の言葉と言いましても、神さまの言語で語られているわけではありません。神様の御心を、人間に分かる言語に置き換えて、語られているのです。ですから、それは神様の御心そのものではなく、《影》であると、『ヘブライ人への手紙』は注意をしているのです。
その際、ただちに「だから、それは実体がないんだ」と結論に持っていくのは危険です。
年間第3水
マルコ4・1-20
イエスは私達のことをよくご存知です。このたとえ話の結論として「だから良い土地を持つ人になりなさい」とは言われません。私達の心の中には、道端、石だらけの所、茨の生えた所が常に存在することを承知しておられます。そのうえで全ての人の心の奥には神が創造された良い土地が存在する、という確信のもとにこのたとえを話されているのではないでしょうか。神の御言葉は私達への信頼、希望、愛なのです。たとえ今日実を結ばなかったとしても、この信、望、愛は決して途絶えません。
神の深い愛に満ちた御言葉を今日、誠実に受けとめることを通して、聖霊の助けによる実を結んでいくことができますように。sese07
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イエスは、群衆にたとえで言われる理由を話されています。彼らは、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」なかったのですが、とても面白いですね。彼らは、みことばの裏に秘められた、暗された意味を解読できなかったのではありません。あまりにも明らかで、あまりにもはっきりしていることを理解できなかったのです。オウム真理教の事件が起こった後に、ある雑誌の編集長がハルマゲドンのことを知るために、ヨハネの黙示録を読みました。 しかし、彼は、何が何だかさっぱり分からなかった、ということをあるテレビ番組で話していました。しかし、本の内容というのは、たいてい初めのほうにその主題が書かれています。ヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と書き始めています。黙示は現れることを意味しますから、イエス・キリストの現われがこの書物のテーマです。実際に19章には、ハルマゲドンの戦いのときに、イエスご自身が白い馬に乗って現れます。ですから、この事はキリストが現れることについて書かれているのです。こう説明して、わかる人はわかります。小学生でもわかるでしょう。なぜなら、あまりにも当たり前のことを話しているからです。
しかし、多くの本を読んでいるはずのインテリが、そうした当たり前のことがわからないのです。見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りません。なぜなら、「悔い改めて赦されることがない」からだ、とイエスは言われています。弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、悟ることができません。真理を悟ることは、やはり、イエスとの関係なのです。イエスとともにいることなのです。これが、私たちが真理を悟るための鍵となります。
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『ヘブライ人への手紙』10章
イエス様は、唯一の救い主である。これはイエス様の他に、私たちの救いはないということです。私たちは日々、いろいろな問題に直面しています。仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、健康のこと、お金のこと・・・・この世にある限り、そういう様々なこの世的な問題を免れることはできません。そういう問題を、ひとつひとつ担ったり、解決したりしていかなければなりません。そういう時におきましても、イエス様は唯一の救い主であるということを信じ、イエス様への信仰をもって生きていくのが、クリスチャンの生活、つまり信仰生活でありましょう。
ところが、うっかりすると信仰生活が、「信仰と生活」に分離してしまうことがあります。信仰がなくなってしまうわけではないのですが、その信仰が、日々の生活に結びつかなくなってしまうのです。本来は、仕事においても、家庭においても、人間関係においても、健康上の問題でも、あらゆることにおいてイエス様が私たちの唯一の救い主でいらっしゃる。これが私たちの信仰です。しかし、心の問題、魂の問題は、イエス様に祈り求める。けれども、毎日の生活においてはこの世の富、知恵、力を頼みとし、この世的な評価を追い求めて生きている。言ってみれば、ダブルスタンダードです。こうなりますと、最初のうちは、あまり気づかないかもしれませんが、イエス様の御救いに対する喜び、感謝、讃美が、だんだんおろそかにされていき、ついには何の力もなくなってしまうのです。これについては4章1-2節に、こういうことが記されています。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
年間第3木
マルコ4・21-25
ここで「持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」ということが起こる。聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を聴く者、さらにイエスと同じ御霊による理解力をもって聴く者は、イエスの言葉を真剣に受け入れるので、神の国の奥義をいよいよ深く示し与えられて、霊の次元でますます豊かになるが、それに対して、聴く耳を持たない者、すなわち悟りのない者は、だんだん神から遠ざかり、本来与えられている神への感受性をも失い、霊の生命の枯渇に至る。
マルコが、本来はイエスご自身のことを言われた「あかり」の譬を、この「秤」の譬と組合せてここに置いたのは、「種まき」の譬を御言葉を聴く態度の大切さを説く譬と解釈した結果、その主題をさらに拡大強調するために、「あかり」の譬も弟子たちが受けた御言葉の光を輝かすことの大切さを説く譬として、御言を真剣に聴くことの大切さを訴える「秤」の譬と一組にしたのであろうと考えられる。
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「持っている人」「持っていない人」――何を、持っていたり、持っていなかったりするのでしょうか?神の言葉、福音の「ともし火」を燭台の上に置き、神の前で、自分の持っているものを一つ一つ見直してみなさい、ということです。自分の持っているものを量って、その重みはどのぐらいのものか。そうすると、持っていないものも見えてくるかもしれません。
自分の持ち物、自分の力や考えにより頼むなら、限界にぶつかり、暗闇に迷い込んでしまいます。神の愛とゆるしを信じないことから、恐れ、不安、疑いなどが生じてきます。それは、持っていない状態で、人間の心に害と病いをもたらすでしょう。それは人間にとって滅びの状態そのものではないでしょうか。信仰はこのような限界を乗り越える恵みをもたらします。主よ、いつもあなたに心を向け、すべてを越えてあなたを信じる恵みをお与えください。神の望みを知り、行う者となり、真理の光のうちに歩むことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
『ヘブライ人への手紙』は、第一部と第二部に分けることができます。第一部は、これまで読んできたところで、「イエス・キリストこそ唯一の、永遠の、完全なる救い主である」ということが語られていました。今日から、第二部に入ります。第二部の主題は何か。それが今日お読みしました19~25節に記されています。この部分は、新共同訳では七つの文章によってなっていますが、ギリシャ語の原点を当たりますと、長い一つの文章となっています。1955年訳の口語訳聖書は苦労しまして、それに少しでも近くなるように、これを二つの文章でまとめています。
これが一つの文章であるということは、この文章全体の主語と動詞があるということです。主語は《わたしたちは》ということでありますけれども、動詞は何かといいますと、22節の《神に近づこう》(新共同訳)というのがそれにあたります。つまり、この文章のすべての言葉は、《神に近づこう》という一点に集中するのです。
ちょっとくどい言い方になりますが、「イエスの血によって聖所に入れるという確信をもって、神に近づこう」、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのだから、神に近づこう」、「わたしたちには神の家を支配する偉大な大祭司がおられるのですから、神に近づこう」、「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのだから、神に近づこう」、「約束してくださった方は真実なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保って、神に近づこう」、「ある人たちの習慣に倣って集会を起こったりせず、むしろ励まし合って、神に近づこう」、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合って、神に近づこう」、そのようにこの部分は語られているわけです。
そこで、先ほどの二つの側面が大事になってきます。一つは、イエス様の御業に注目することです。もう一つは、イエス様を心から信じて自分を委ねることです。『ヘブライ人への手紙』は、まず第一部でイエス様の御業に注目をしました。そして、これから第二部において、イエス様を心から信じて自分を委ねることについて語り始めるのです。
年間第3金
マルコ4・26-34
「種まき」の譬と同様、ここでも「神の国」が蒔かれた種と収穫を対比する譬で語られている。先の「種まき」の譬では、種がまかれる時の徒労に見えるような状況と豊かな収穫が対照されていたが、この譬では収穫に至る過程が人間の理解や努力を超えたものであることが焦点となっている。農夫は種をまいた後、作物が自然に成長して実を結ぶ時をひたすら待つ。農夫は作物が成長する仕組みを理解しているわけではない。土地に作物を成長させる力があることを信じて、夜昼寝起きして収穫の時が来るのをひたすら待つだけである。農夫は直接作物に働きかけて、芽を出させ、つぎに穂を出させ、実を実らせることができるわけではない。ただ「夜昼寝起きして」いるだけで、何をすることもできない。けれども種がまかれた以上、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになる。農夫は土の力を信じて、忍耐強く時を待っている。
「神の国」も同じである。種はすでにまかれた。刈り入れの時は必ず到来する。神はすでに業を始めておられる。時が来れば神は審判の鎌を入れて、神の民を栄光の中に集められるであろう。イエスはご自身の中に「神の国」が到来していることを知っておられる。イエスの中に隠された形ではあるが、神の業はすでに始まっている。神においては隠された始まりは顕にされた終わりを含んでいる。どうして終わりが顕現するのか、その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできない。ただ神の力と神の信実に委ねて、時を待つだけである。こうして、ここでも「隠されているもので顕れないものはない」という「神の国」到来の原理が語られているのである。
からし種を見せていただいたことがあるが、それはゴマ粒をずっと薄くしたような大きさであった。わたしたちが「ゴマ粒のように小さい」とか「ケシ粒のように小さい」と言うように、イエスの時代の人々にとっては、「からし種」は小さいものを象徴するものであったのであろう。ところが、その目にもとまらない「からし種」が成長すると二メートル半から三メートルの高さになり、木のように枝を張って、人の目を驚かせる。この譬では小さな始まりと大きな終わりとの驚くべき対比が語られている。その小さい始まりの中にすでに大きな終わりが含まれて実在しているのである。
軍隊を従えて王宮に座し、一国に命令している人物であれば、その支配は目の前に見ることができる。ところがイエスは漁師などの小さい弟子の群れを率いてガリラヤの町を巡回する一人のラビー(宗教教師)にすぎない。しかも宗教当局から神聖な律法の違反者としてにらまれて、ついに支配権力によって処刑される人物である。そのような人物が「神の支配はわたしの中に来ている。わたしこそその支配を体現する者である」と言っても、誰が信じることができようか。それは人の目には見えない現実である。「神の支配」はイエスの卑しい姿や弟子たちの貧しい群れの中に隠されている。しかしどのように隠されていても、それが「神の」現実である以上、必ず顕れる時が来る。
たしかに、「神の支配」がすべての人の目の前に栄光をもって顕れる日はまだ来ていない。しかし「神の支配」の現実はすでに隠された形で来ている。そしてその目に見えないような小さい現実の中に、終わりの時に顕される大きな栄光が含まれている。「神の支配」はすでに始まっている。その中に含まれる終わりが圧倒的な力と栄光をもって顕れる時がすぐに来る。イエスはこのような終末の到来の「すでに」と「いまだ」との間の緊迫した関わりの場に生きておられるのである。
ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、「神の国」という終末的現実の「すでに」と「いまだ」の緊迫した二つの面の関係を見事に指し示している。今わたしたちもこの譬を聴く時、いま自分が置かれている終末の場がどのようなものであるかを自覚させられる。わたしたちは聖霊を受け、すでに「神の支配」の現実の中にいる。しかしその現実は、神に敵対する生まれながらの人間本性の中に覆い隠されたり、世界の中であまりにも微弱な勢力であってこの世の権力に圧倒されているように思われ、旅路の途中で立ちすくむような思いをする。その時、これらの譬がわたしたちを励ます。どのように小さくて覆い隠されていても、またどのように悪い地に蒔かれていても、それが神の現実である以上、その全容が栄光の中に顕れる時がかならず来る。この滅びの世界、死の存在が栄光の天地、復活のからだに変えられる。それがいつ、どのようにしてであるかは知らない。しかしわたしたちの中にすでに始まっている現実の中にそれが含まれていることを確信し、その時を待ち望みつつ今を生きるのである。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_027.htm#top
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イエスは私達の「聞く力」に応じて語られました。私達が聖書を読む時そのたとえ話から受け取るメッセージは一人一人違います。読む時期や心のありかたによっても神は違うメッセージを与えてくださいます。それは「神」と「私」との個人的な関わり、ふれあいです。長い間聖書を読んでいると、
「ああ、このたとえ話ね」とわかったような錯覚に陥ることがあります。天の父は、今日私にどんなメッセージを送ってくださるのでしょう。心を静め謙虚な態度でみ言葉を味わうことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
明治時代のキリスト者で、多くの人に影響を与えた内村鑑三と言う人がいます。内村鑑三には、ルツ子という愛娘がおりました。ルツ子は、いろいろな意味で、内村鑑三の心を支える娘で、彼は、彼女に格別なる愛を注いでおりました。しかし、ルツ子は、実践女学校を卒業したばかりの、17歳という若さで病死してしまったのです。ルツ子の死は、内村鑑三にとって、人生にあってはならないことの一つでありました。
内村鑑三は、その打撃の大きさを、「神の手、余輩(よはい)に加はりて、余輩の腿(もも)のつがい挫(くじ)け、余輩はあゆむことを能はざるに至れり」と語っています。「腿のつがい挫け」とは、ヤボクは、神様と闘ったところ、ヤコブと自分を重ねているのでしょう。ヤコブは、、神と格闘したと、聖書に記されています(『創世記』32章23~27節)。その時、ヤコブは、腿のつがいを負傷したのです。内村鑑三も、愛娘の癒しを願い、ヤコブのように、神に挑む祈りを捧げてきたのでありましょう。しかし、あえなく死んでしまった。それを、「腿のつがい挫け」と表現しているのです。つまり、神様の愛を疑った。そして、イエス・キリストの十字架の意味は分かった。神様も大事なひとりごを失った、と。
今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』10章26-39節は、少し長いところですし、その中にいろいろとハッとさせられる言葉があり内容豊かなところです。しかし、その中心は35節にあります。
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
確信を捨てないとはどういうことか? 間違った確信は、試練の時に必ず打ち砕かれます。そういう確信をいつまでも持ち続けるのはよくありません。私たちに与えられている確信とは、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの救いであり、そこにこそ神様の愛がこよなく現れているという確信です。どんな時にも、平和な時にも、戦いの日にも、この確信を捨ててはいけないというのです。それが私たちの持つべき信仰なのです。
年間第3土
マルコ4・35-41
このたとえ話のように私達の信仰の成長も「どうしてそうなるのか、その人は知らない」のだと思います。しかし御父は私達一人一人に対しその成長の道すじを用意しておられるのではないでしょうか。日常生活において辛く苦しいこと、また信仰の道からは遠ざかるような出来事も、それはもしかしたら「茎」であり、その出来事を通らなければ「葉」は出てこないのかもしれません。私達は自分が今、信仰の成長過程のどの段階にいるのか知ることはできません。しかし私達はイエスと共に舟に乗っています。突風が吹こうと舟が水浸しになろうと、また神から見捨てられたと思える時も、ただ信じること。イエスはそう私達に語っています。
主よ、私達に信じる力と、神の国へと成長していく希望をお与えください。sese07
マルコ3・22-30
サタンとはどのようなものなのでしょうか?祈りのうちに過ごす日常生活においても私達の心は常に揺れ動きます。イエスはたとえ話の中で「内輪もめ」という言葉を繰り返されます。それは閉ざされたところで起こる、閉ざされた考え、他を受け入れようとしない頑固な態度、自分を守ろうとする心の狭さを感じさせます。それがサタンではないでしょうか。聖霊は御父から注がれるものであり、「内輪」ばかり見ていてはその存在に気づきません。
開かれた、柔軟な、広い心で聖霊を受け、聖霊に導かれて日々の生活を送ることができますように。sese07
ファリサイ派の人々はイエスをせめるための口実を一所懸命探していますが、それがなかなか見つかりません。そして最後に「おまえは悪魔たちの親分だから悪魔を追い出せるのだ」という、矛盾に満ちた理屈を言い出します。ここまで来ますと、彼らはイエスの人気を落とさせるために、手段を選びません。彼らはイエスに対して激しいうらみを持っているので、理性が効きません。
イエスは目指しているのは、周囲の目を気にせずに、正しいことを正しいこととして受けとめることの出来る人の育成です。自分の心のわだかまりからも、周りの抑圧からも自由な人間の養成です。
ところがファリサイ派の人々は言われる通りにふるまうおとなしい人間を求める。疑問を持たない人間、疑問に思っていることでも、質問したり、問い掛けたりしない人間、世間の価値観をうのみしながら、行動する人間です。さて、私たちはどういうタイプの人間になりたいと望んでいるでしょうか。
年間第3火
マルコ3・31-35
イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。それまでイエスの周りに座りイエスだけを見ていた人達の信仰は「私と神」の間だけのものだったのではないでしょうか。それがイエスを通して、「私と人」「人と人」との間にも信仰が生まれます。「神の御心を行う心」すなわち「清らかで愛に満ちた心」は全ての人の心の奥にあるのではないでしょうか。今日出会う人達を私の兄弟、姉妹、また母として受け入れ、互いに支え合い分かち合いながら信仰の道を歩むことができますように。sese07
家族というのは、本来は、血のつながっている、一番の近親者のことです。ですから、それは血のつながっていないものから見たら、いくらその家の家族になりたいと思っても、なることは出来ない。そういうある意味で、閉鎖性を感じるものが家族です。何かのサークルだとか、組織だとかとは違って、開かれていないのです。 しかしイエスさまにあっては、血のつながりも何もない、幼なじみであるわけでもない、同じ出身地だというわけでもない。別々の家庭に育ち、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、イエスさまのもとに一つに集められている。この弟子
たちを指して、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃる、わたしの家族だというのです。
イエスさまのあとに従い、みことばに耳を傾けているならば、私たちもイエスさまの弟子なのであり、それゆえイエスさまから、「わたしの母、わたしの兄弟」と呼ばれるのです。わたしの家族、と言われるのです。
みことばを自分の中に受け入れることによって、イエス様が自分のなかに生まれるということだと思います。私たちは母マリアと同じようにイエス様を生んで、育て、世界にプレゼントすることができるというわけです。なにか照れくさいような、嬉しいような感じがするかもしれないが、それは教会という変わった家族のなかに毎日のように文字通り起こっていることなのである。
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『ヘブライ人への手紙』10章
みなさんもご経験があると思いますが、健康診断で再検査を言い渡されまして、お腹のCTとエコーの検査をいたしました。あるいは、レントゲンを考えてみてください。画像の写真を見ますと、白黒の陰影画像です。それを見せられて、「ほら、ここが○○ですよ」と、お医者さんのお話を聞いていましたが、白いものがみえたり、くろっぽいものがみえたりするだけなので、いったいお腹の中がどうなっているのか、私にはさっぱり分かりませんでした。わからなくても、「まあ、心配はないでしょう」と言われてホッとしたわけです。それにしましても、陰を見て実体を知るといいますか、お医者さんというのは、知識とか経験を駆使しまして、そういう陰影だけでできた写真からお腹の中のようすが手に取るように分かるようです。凄いことだなあと思いました。このように、実体そのものをみなくても、その影を見て、実体そのものを知ることができる人たちがいます。そういう影の話が、『ヘブライ人への手紙』10章1節に出て来ます。
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。
律法は《影》に過ぎず、役に立たないと、律法否定みたいなことが書いてあるようにも読めますが、《影》を否定的な意味にとる必要はありません。律法は、十戒をはじめとして神様が与えてくださったお言葉です。しかし、神様の言葉と言いましても、神さまの言語で語られているわけではありません。神様の御心を、人間に分かる言語に置き換えて、語られているのです。ですから、それは神様の御心そのものではなく、《影》であると、『ヘブライ人への手紙』は注意をしているのです。
その際、ただちに「だから、それは実体がないんだ」と結論に持っていくのは危険です。
年間第3水
マルコ4・1-20
イエスは私達のことをよくご存知です。このたとえ話の結論として「だから良い土地を持つ人になりなさい」とは言われません。私達の心の中には、道端、石だらけの所、茨の生えた所が常に存在することを承知しておられます。そのうえで全ての人の心の奥には神が創造された良い土地が存在する、という確信のもとにこのたとえを話されているのではないでしょうか。神の御言葉は私達への信頼、希望、愛なのです。たとえ今日実を結ばなかったとしても、この信、望、愛は決して途絶えません。
神の深い愛に満ちた御言葉を今日、誠実に受けとめることを通して、聖霊の助けによる実を結んでいくことができますように。sese07
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イエスは、群衆にたとえで言われる理由を話されています。彼らは、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」なかったのですが、とても面白いですね。彼らは、みことばの裏に秘められた、暗された意味を解読できなかったのではありません。あまりにも明らかで、あまりにもはっきりしていることを理解できなかったのです。オウム真理教の事件が起こった後に、ある雑誌の編集長がハルマゲドンのことを知るために、ヨハネの黙示録を読みました。 しかし、彼は、何が何だかさっぱり分からなかった、ということをあるテレビ番組で話していました。しかし、本の内容というのは、たいてい初めのほうにその主題が書かれています。ヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と書き始めています。黙示は現れることを意味しますから、イエス・キリストの現われがこの書物のテーマです。実際に19章には、ハルマゲドンの戦いのときに、イエスご自身が白い馬に乗って現れます。ですから、この事はキリストが現れることについて書かれているのです。こう説明して、わかる人はわかります。小学生でもわかるでしょう。なぜなら、あまりにも当たり前のことを話しているからです。
しかし、多くの本を読んでいるはずのインテリが、そうした当たり前のことがわからないのです。見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りません。なぜなら、「悔い改めて赦されることがない」からだ、とイエスは言われています。弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、悟ることができません。真理を悟ることは、やはり、イエスとの関係なのです。イエスとともにいることなのです。これが、私たちが真理を悟るための鍵となります。
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『ヘブライ人への手紙』10章
イエス様は、唯一の救い主である。これはイエス様の他に、私たちの救いはないということです。私たちは日々、いろいろな問題に直面しています。仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、健康のこと、お金のこと・・・・この世にある限り、そういう様々なこの世的な問題を免れることはできません。そういう問題を、ひとつひとつ担ったり、解決したりしていかなければなりません。そういう時におきましても、イエス様は唯一の救い主であるということを信じ、イエス様への信仰をもって生きていくのが、クリスチャンの生活、つまり信仰生活でありましょう。
ところが、うっかりすると信仰生活が、「信仰と生活」に分離してしまうことがあります。信仰がなくなってしまうわけではないのですが、その信仰が、日々の生活に結びつかなくなってしまうのです。本来は、仕事においても、家庭においても、人間関係においても、健康上の問題でも、あらゆることにおいてイエス様が私たちの唯一の救い主でいらっしゃる。これが私たちの信仰です。しかし、心の問題、魂の問題は、イエス様に祈り求める。けれども、毎日の生活においてはこの世の富、知恵、力を頼みとし、この世的な評価を追い求めて生きている。言ってみれば、ダブルスタンダードです。こうなりますと、最初のうちは、あまり気づかないかもしれませんが、イエス様の御救いに対する喜び、感謝、讃美が、だんだんおろそかにされていき、ついには何の力もなくなってしまうのです。これについては4章1-2節に、こういうことが記されています。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
年間第3木
マルコ4・21-25
ここで「持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」ということが起こる。聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を聴く者、さらにイエスと同じ御霊による理解力をもって聴く者は、イエスの言葉を真剣に受け入れるので、神の国の奥義をいよいよ深く示し与えられて、霊の次元でますます豊かになるが、それに対して、聴く耳を持たない者、すなわち悟りのない者は、だんだん神から遠ざかり、本来与えられている神への感受性をも失い、霊の生命の枯渇に至る。
マルコが、本来はイエスご自身のことを言われた「あかり」の譬を、この「秤」の譬と組合せてここに置いたのは、「種まき」の譬を御言葉を聴く態度の大切さを説く譬と解釈した結果、その主題をさらに拡大強調するために、「あかり」の譬も弟子たちが受けた御言葉の光を輝かすことの大切さを説く譬として、御言を真剣に聴くことの大切さを訴える「秤」の譬と一組にしたのであろうと考えられる。
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「持っている人」「持っていない人」――何を、持っていたり、持っていなかったりするのでしょうか?神の言葉、福音の「ともし火」を燭台の上に置き、神の前で、自分の持っているものを一つ一つ見直してみなさい、ということです。自分の持っているものを量って、その重みはどのぐらいのものか。そうすると、持っていないものも見えてくるかもしれません。
自分の持ち物、自分の力や考えにより頼むなら、限界にぶつかり、暗闇に迷い込んでしまいます。神の愛とゆるしを信じないことから、恐れ、不安、疑いなどが生じてきます。それは、持っていない状態で、人間の心に害と病いをもたらすでしょう。それは人間にとって滅びの状態そのものではないでしょうか。信仰はこのような限界を乗り越える恵みをもたらします。主よ、いつもあなたに心を向け、すべてを越えてあなたを信じる恵みをお与えください。神の望みを知り、行う者となり、真理の光のうちに歩むことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
『ヘブライ人への手紙』は、第一部と第二部に分けることができます。第一部は、これまで読んできたところで、「イエス・キリストこそ唯一の、永遠の、完全なる救い主である」ということが語られていました。今日から、第二部に入ります。第二部の主題は何か。それが今日お読みしました19~25節に記されています。この部分は、新共同訳では七つの文章によってなっていますが、ギリシャ語の原点を当たりますと、長い一つの文章となっています。1955年訳の口語訳聖書は苦労しまして、それに少しでも近くなるように、これを二つの文章でまとめています。
これが一つの文章であるということは、この文章全体の主語と動詞があるということです。主語は《わたしたちは》ということでありますけれども、動詞は何かといいますと、22節の《神に近づこう》(新共同訳)というのがそれにあたります。つまり、この文章のすべての言葉は、《神に近づこう》という一点に集中するのです。
ちょっとくどい言い方になりますが、「イエスの血によって聖所に入れるという確信をもって、神に近づこう」、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのだから、神に近づこう」、「わたしたちには神の家を支配する偉大な大祭司がおられるのですから、神に近づこう」、「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのだから、神に近づこう」、「約束してくださった方は真実なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保って、神に近づこう」、「ある人たちの習慣に倣って集会を起こったりせず、むしろ励まし合って、神に近づこう」、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合って、神に近づこう」、そのようにこの部分は語られているわけです。
そこで、先ほどの二つの側面が大事になってきます。一つは、イエス様の御業に注目することです。もう一つは、イエス様を心から信じて自分を委ねることです。『ヘブライ人への手紙』は、まず第一部でイエス様の御業に注目をしました。そして、これから第二部において、イエス様を心から信じて自分を委ねることについて語り始めるのです。
年間第3金
マルコ4・26-34
「種まき」の譬と同様、ここでも「神の国」が蒔かれた種と収穫を対比する譬で語られている。先の「種まき」の譬では、種がまかれる時の徒労に見えるような状況と豊かな収穫が対照されていたが、この譬では収穫に至る過程が人間の理解や努力を超えたものであることが焦点となっている。農夫は種をまいた後、作物が自然に成長して実を結ぶ時をひたすら待つ。農夫は作物が成長する仕組みを理解しているわけではない。土地に作物を成長させる力があることを信じて、夜昼寝起きして収穫の時が来るのをひたすら待つだけである。農夫は直接作物に働きかけて、芽を出させ、つぎに穂を出させ、実を実らせることができるわけではない。ただ「夜昼寝起きして」いるだけで、何をすることもできない。けれども種がまかれた以上、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになる。農夫は土の力を信じて、忍耐強く時を待っている。
「神の国」も同じである。種はすでにまかれた。刈り入れの時は必ず到来する。神はすでに業を始めておられる。時が来れば神は審判の鎌を入れて、神の民を栄光の中に集められるであろう。イエスはご自身の中に「神の国」が到来していることを知っておられる。イエスの中に隠された形ではあるが、神の業はすでに始まっている。神においては隠された始まりは顕にされた終わりを含んでいる。どうして終わりが顕現するのか、その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできない。ただ神の力と神の信実に委ねて、時を待つだけである。こうして、ここでも「隠されているもので顕れないものはない」という「神の国」到来の原理が語られているのである。
からし種を見せていただいたことがあるが、それはゴマ粒をずっと薄くしたような大きさであった。わたしたちが「ゴマ粒のように小さい」とか「ケシ粒のように小さい」と言うように、イエスの時代の人々にとっては、「からし種」は小さいものを象徴するものであったのであろう。ところが、その目にもとまらない「からし種」が成長すると二メートル半から三メートルの高さになり、木のように枝を張って、人の目を驚かせる。この譬では小さな始まりと大きな終わりとの驚くべき対比が語られている。その小さい始まりの中にすでに大きな終わりが含まれて実在しているのである。
軍隊を従えて王宮に座し、一国に命令している人物であれば、その支配は目の前に見ることができる。ところがイエスは漁師などの小さい弟子の群れを率いてガリラヤの町を巡回する一人のラビー(宗教教師)にすぎない。しかも宗教当局から神聖な律法の違反者としてにらまれて、ついに支配権力によって処刑される人物である。そのような人物が「神の支配はわたしの中に来ている。わたしこそその支配を体現する者である」と言っても、誰が信じることができようか。それは人の目には見えない現実である。「神の支配」はイエスの卑しい姿や弟子たちの貧しい群れの中に隠されている。しかしどのように隠されていても、それが「神の」現実である以上、必ず顕れる時が来る。
たしかに、「神の支配」がすべての人の目の前に栄光をもって顕れる日はまだ来ていない。しかし「神の支配」の現実はすでに隠された形で来ている。そしてその目に見えないような小さい現実の中に、終わりの時に顕される大きな栄光が含まれている。「神の支配」はすでに始まっている。その中に含まれる終わりが圧倒的な力と栄光をもって顕れる時がすぐに来る。イエスはこのような終末の到来の「すでに」と「いまだ」との間の緊迫した関わりの場に生きておられるのである。
ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、「神の国」という終末的現実の「すでに」と「いまだ」の緊迫した二つの面の関係を見事に指し示している。今わたしたちもこの譬を聴く時、いま自分が置かれている終末の場がどのようなものであるかを自覚させられる。わたしたちは聖霊を受け、すでに「神の支配」の現実の中にいる。しかしその現実は、神に敵対する生まれながらの人間本性の中に覆い隠されたり、世界の中であまりにも微弱な勢力であってこの世の権力に圧倒されているように思われ、旅路の途中で立ちすくむような思いをする。その時、これらの譬がわたしたちを励ます。どのように小さくて覆い隠されていても、またどのように悪い地に蒔かれていても、それが神の現実である以上、その全容が栄光の中に顕れる時がかならず来る。この滅びの世界、死の存在が栄光の天地、復活のからだに変えられる。それがいつ、どのようにしてであるかは知らない。しかしわたしたちの中にすでに始まっている現実の中にそれが含まれていることを確信し、その時を待ち望みつつ今を生きるのである。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_027.htm#top
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イエスは私達の「聞く力」に応じて語られました。私達が聖書を読む時そのたとえ話から受け取るメッセージは一人一人違います。読む時期や心のありかたによっても神は違うメッセージを与えてくださいます。それは「神」と「私」との個人的な関わり、ふれあいです。長い間聖書を読んでいると、
「ああ、このたとえ話ね」とわかったような錯覚に陥ることがあります。天の父は、今日私にどんなメッセージを送ってくださるのでしょう。心を静め謙虚な態度でみ言葉を味わうことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
明治時代のキリスト者で、多くの人に影響を与えた内村鑑三と言う人がいます。内村鑑三には、ルツ子という愛娘がおりました。ルツ子は、いろいろな意味で、内村鑑三の心を支える娘で、彼は、彼女に格別なる愛を注いでおりました。しかし、ルツ子は、実践女学校を卒業したばかりの、17歳という若さで病死してしまったのです。ルツ子の死は、内村鑑三にとって、人生にあってはならないことの一つでありました。
内村鑑三は、その打撃の大きさを、「神の手、余輩(よはい)に加はりて、余輩の腿(もも)のつがい挫(くじ)け、余輩はあゆむことを能はざるに至れり」と語っています。「腿のつがい挫け」とは、ヤボクは、神様と闘ったところ、ヤコブと自分を重ねているのでしょう。ヤコブは、、神と格闘したと、聖書に記されています(『創世記』32章23~27節)。その時、ヤコブは、腿のつがいを負傷したのです。内村鑑三も、愛娘の癒しを願い、ヤコブのように、神に挑む祈りを捧げてきたのでありましょう。しかし、あえなく死んでしまった。それを、「腿のつがい挫け」と表現しているのです。つまり、神様の愛を疑った。そして、イエス・キリストの十字架の意味は分かった。神様も大事なひとりごを失った、と。
今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』10章26-39節は、少し長いところですし、その中にいろいろとハッとさせられる言葉があり内容豊かなところです。しかし、その中心は35節にあります。
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
確信を捨てないとはどういうことか? 間違った確信は、試練の時に必ず打ち砕かれます。そういう確信をいつまでも持ち続けるのはよくありません。私たちに与えられている確信とは、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの救いであり、そこにこそ神様の愛がこよなく現れているという確信です。どんな時にも、平和な時にも、戦いの日にも、この確信を捨ててはいけないというのです。それが私たちの持つべき信仰なのです。
年間第3土
マルコ4・35-41
このたとえ話のように私達の信仰の成長も「どうしてそうなるのか、その人は知らない」のだと思います。しかし御父は私達一人一人に対しその成長の道すじを用意しておられるのではないでしょうか。日常生活において辛く苦しいこと、また信仰の道からは遠ざかるような出来事も、それはもしかしたら「茎」であり、その出来事を通らなければ「葉」は出てこないのかもしれません。私達は自分が今、信仰の成長過程のどの段階にいるのか知ることはできません。しかし私達はイエスと共に舟に乗っています。突風が吹こうと舟が水浸しになろうと、また神から見捨てられたと思える時も、ただ信じること。イエスはそう私達に語っています。
主よ、私達に信じる力と、神の国へと成長していく希望をお与えください。sese07
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