年間 第十月曜日
「心の貧しい人は幸い」
マタイ5・1-12
「心の貧しさ」は精神的な貧困を指しているのではない。「貧しい」と訳されたことばは、物乞いをするという意味の語からきています。だからこのことばは、「心のこじきは幸いである」と言い換えることもできます。常識で言えば、富んでいるものの方が貧しい者よりはるかに幸せなはずである。それなのに「こじきが幸せ」だとは、一体どう言う意味になるだろうか。誰に何を物乞いをするのだろう。これは心の問題であるから、ローマ政府やユダヤの為政者にたいしてではない。富んでいる人に対してでもない。神に対してである。私達は皆自尊心を持っている。「いまさら神に頼らなくても、自分は自力で生きていける」と考えている。「神を信じるのは弱い人のすることだ。努力さえすれば神など必要ではない」という人もいる。だがイエスは、「人間の力には限界がある。それを認めて、全能の神に頼るのが、心のこじきなのだ」、その人こそ幸いだと教えます。これは一見して、自分の主体性を捨てて弱者になってしまうようであるが、決してそうではない。自分には罪があり、限界のある存在だということを認め、人間の本来の姿に立ち返ることである。そうすれば、神は私達に真の生き方といのちを与えてくださる。(山口)
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「悲しむ人は幸いである」
なぜ嘆き悲しんでいる人々が幸いなのでしょう。嘆き悲しみを知る人は、慰めというものを知るからなのでしょうか。でもそうであったら、たんなる人生訓です。もちろんイエス様の言葉が人生訓でないとは思いません。でもそれだけでなく、つねに宗教的な意味を持っているからです。ですから慰めというのは、人からのものでもあるでしょテが、それ以上に神からのものと考えられます。なぜなら、神から受ける慰めこそ絶対的なものであり、けっして失われることのないものですから。だとするならば、嘆き悲しみというものも、神のための嘆き悲しみでしょう。私の理由で悲しいのではなく、神の悲しみを私の悲しみとして嘆く、ということではないでしようか。
神は人が不幸になると悲しみます。人が幸せになると慰められます。神の悲しみを私の悲しみとする時、私は私の本当の幸せを望んでいることになり、神の慰めを味わうのです。私の罪を、私のためでなく、神のために嘆く時、神のゆるしと慰めを受けるのです。(静)
年間 第十火曜日
「地の塩」
マタイ5・ 13-16
塩は料理に入れると溶けてしまって塩としての形は完全に消えてしまいます。消えますが、塩がもたらす味は全体を包んでおいしくします。料理全体から考えると、塩はとてもわずかですが大きな影響を与えます。キリスト者はそのような存在だとイエスは言います。全体の中ではわずかですが、社会全体に大きな存在の意義を持っています。社会を人間のための社会に変える力を持っています。大きな力、圧倒するような力によって社会に影響を与えるのとは意味が全く違います。大きさでもって影響を与えるのではなくて、その社会のなかに溶け込んで、たとえば市場経済の社会、お金のための社会を人間のための社会に変えます。(ステ)キリストの受肉の原理にもとづいて、キリスト者も目立たないような形で、皆から喝采(かっさい)してもらわない、業績が見られないような形で、社会を中から変えて来たし、これからも世界を変えるために十分な力をいただいています。もし私達には無力感があるならば、今の社会とはタチウチ出来ないと思うことがあるならば、おそらく私達は、深く反省すべきであろう、塩気を失ったかどうかと。
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ともし火は昼の明るさの中では不要のもの。しかし、そのかすかなともし火も、夜の闇の中では辺りのものを照らし出す。イエスは、弱さや貧しさがたくさんあるわたしの中に、塩味や闇を照らす光を見て、呼びかけてくださっているようです。
主よ、わたしの中にある塩味、光に気付かせて下さい。あなたの愛の道具となれますように。
年間 第十水曜日
「律法の完成」
マタイ5・17-19
「他力本願」という言葉があります。たいてい、マイナス的な意味で使われることが多いかもしれません。他人任せ、他人依存、成り行き任せ。
それに対して、「自力本願 」という言葉もあります。これは、もっぱら自分の力に頼っていきることでしょう。
律法を守るということに関しては、自力はだめでしょう。今日の第一朗読にもありましたように、民は預言者の働きにもかかわらず、神から逃げる。人間は自力で正しく生きることはできない、これは旧約聖書の長い経験が教えることでしょう。
キリストが必要であった。キリストだけが、キリストお一人、律法を成就させました。キリストは、できない人間の「身代わり」になって、道を示しました。私たちは、このキリストに結ばれてこそ、正しく生きることができるのです。
やはり、他力です。マイナス的な意味ではなくて、プラス的な意味で。他人任せの代わりに、キリストに任せ、他人依存ならぬ神依存、成り行き任せではなく、神のみ旨のままに、と。ところが、他人任せという時に、他人ということには、強い実在感があります。キリスト任せという場合は、どれだけの実在感があるでしょうか。また、自分はどのような傾向でしょうか。他力傾向なのか、それとも、自力傾向なのか、今日、これについて考えてみましょう。
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と預言者は、「神と隣人を愛せよ」というただ一つの命令を実践することによって成就します。「小さなことにも忠実であれ」(ルカ16・10-12)というイエスのことばを、ユダヤ人キリスト者の指導者たちに適用すると、愛について教えるだけでなく、実行しなければならない、小さな掟を実行する者こそ偉大なものだということになります。
律法を守るというのは大変難しいですので、外面的なものになってしまいがちです。「そうしなさい」と言われても、それを聞いているだけでよいはずがない。ところがユダヤ人はそうなっていた。これは律法のワナだと言えます。どの時代でもそういう問題があると思う。献金さえしていればそれでいいとか、日曜日のミサにだけ出ておればそれでいいとか、、、、。信者の義務は、これとこれです、これだけしておれば、「それでいい」ということを言い出すと、信仰はおしまいです。たとえば、親子の間でも、親の義務はこれとこれですというようなことになると、親子の関係はこわれてしまいます。信仰というものは、そのように何かこれを持っているとかこんなことをしているとかいうことでうすっぺらになってしまったのでは、心からのものは死んでしまう。キリストはただ一人律法を全部守り、完成されました。私達は自力で律法を部分的にでも守ることができない、ですからキリストに頼るしかないのです。
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推理小説は、最初に犯罪が起き、それを刑事や探偵が犯人を突き止めていきます。わずかに残された物的証拠、目撃者の証言、アリバイの裏付け‥‥。そういったものを丹念に集めて、犯人へとたどり着いていきます。
しかし旧約聖書はいわば小説の前編(第一巻)です。ですからまだ犯人は捕まっていないのです。未完成です。未完成ではありますが、その前編がなければ、新約聖書という後編(第二巻)もまた、ないのです。旧約聖書という前編は、少しも間違っていない、「一点一画」に至るまで、失われてはならないのです。証拠や証言が一つも失われてはならないのです。
わかりやすく「推理小説」と言ったので、これは「純愛小説」でも構わないし、「歴史小説」でもかまわない。ただ違うのは、ふつうの小説と違うのは、推理小説や純愛小説などは、他人事であるということですが、これは私たち自身の運命に関わる物語だということです。そしてそれは事実である、私たちの運命に関わるノンフィクションの物語だということです。
旧約聖書だけで終わっていたとしたら、それは失敗と挫折の歴史です。未完成です。しかしそこに究極の「神の義」があらわされた。それが新約聖書です。イエス・キリストの出来事です。こうして私たちの命運を握る物語が完成していくのです。救いが完成していくのです。(nibanmati)
年間 第十木曜日
「律法学者やパリサイ派の人以上の義」
マタイ5・20-26
アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)
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律法学者やファリサイ派の人以上に義しくなければならないとは、大変厳しいお言葉です。彼らほど義しさを追求した人々はいないのですから。ただイエス様は「天の国へ入れない」と言います。これは宗教の分野のことを指し、当然のように「宗教的義しさ」を言っていることがわかります。律法学者やファリサイ派の人が追求した義しさは、むしろ道徳的義しさと言ってよいでしょう。道徳的に正しい人は人間の国で受け入れられ、賞賛されるのです。人をだまさず、うそをつかず、不正をせず、宗教の定めをきちんと守っていれば立派な人と見なされ、人々の尊敬を集めるのです。しかし宗教的義しさは、人の目に義しくあることではなく、神の目に義しくあることです。外的な行為の義しさではなく、内的な思いの義しさです。いくら外の行動が美しくても、心の中に美しさがなければ、宗教的美しさはないのです。逆もそうで、外的に美しくないように見える行為も、心のあり方によって、宗教的に美しいこともあるのです。(静)
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律法学者やファリサイ派の義(正しさ)が外面的なものです。キリストが求めているのは、内面的な正しさ、心が正しいこと、です。例えば、誰かに腹を立てていてどうしても腹の虫が収まらないとき、私の心は穏やかではありません。その一点を深く見つめてみると、腹を立てていることで私自身が裁きを受けているのだということに気づかされます。
主よ、兄弟と和解するために、私に落ち着きと勇気を与えてください。(seseragi06)
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今日の福音書は、近くにいる隣人を愛しなさいと教えています。兄弟に対するののしりや怒りは隣人にまで燃え広がることになることもあるのですと。心に灯(とも)された愛の火は平和を、人々の幸せを、そして和解をもたらします。これは神の喜ぶささげものです。会神へのささげもの、神への礼拝と同等に紹介されています。兄弟との和解と神を礼拝することは同一のことなのですと。
主よ、あなたがお喜びになる供え物をささげることができるよう、人を心から愛する恵みをお与えください。
年間 第十金曜日
「しかし、私は言っておく」
マタイ5・27-32
イエスは外見的に悪い事していなければそれで十分なのだという安易な考え方に挑戦します。殺人、姦淫、偽りなどという行為は、突然現われるものではないはずです。衝動的と思われるものでも本をたどってみれば、形となって外に現われるまでには、心の中でのつみかさねがあったはっずです。大きくはっきりとだれにでもつかめるあやまちとなる以前に、隣人を傷つけたり、おとしめたり、自分のわがままのために他人を押しのけたり、人を人とも思わず、傲慢に人を批判したり、軽蔑したりする心のうちなる動きがあったはずです。私達の周囲にくり返し、たえず現われる、戦争、殺人、強盗、わいろ、さぎ、レイプ、暴力などは、そうした根っ子からふきでてくるのです。私達のうちには、自分でも計ることのできない暗い欲望の淵が生きています。それは自分で見定めることもできず、ときには自分で抑えることもできないほど、あらしのように荒れ狂うときもあります。「しかし、私は言っておく」とイエスがいうとき、イエスは殺人や姦淫という外面よりも、むしろ、そうした行為の根っ子である人間の欲望を指摘しようとするのです。私達が、自分のうちにある醜い不条理な欲望に対決していくことを求めているのです。それが、いつまた外に形をとって現われるか、わからないのです。(森)
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手を切り捨て目をえぐり出せ、教会は(どの時代でも)この言葉を文字通り実行すべきだと受け取っていない。もしそうしたのであれば、教会は片目片手のない男で溢れたことでしょう。また、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はありません。当然、この言葉は象徴的に理解されてきました。すなわち、心の中で姦淫の罪を犯さないために、イエスの弟子は自分にとってもっとも価値あるものも放棄する覚悟が必要である、という理解です。
この理解は、目や手に「右の」という形容詞がついていることからも補強されます。すなわち最も価値のあるものを意味します。それをも切り捨てる覚悟が、ここで求められているのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/MAT_11.htm#top
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14、26)
キリストの弟子となることは、個人の内面、生活の最もプライベートな領域にまで食い込むことであると。外面的なものではない。
年間 第十土曜日
「誓ってはいけない」
マタイ5・33-37
誓うということは、何を表すのでしょうか。人はなぜ誓いを立てるのでしょうか。天に誓って、地に誓って、この白髪頭(しらがあたま) などに誓って、おおげさに誓ってみせて、結局おのれの正しさを主張することなのです。自分の言っていることは本当だと、自分の絶対の正しさを人に認めさせようとするのです。
しかし、天は神の玉座(神のもの)、地は神の足台だとイエスは言います。あなた達は髪の毛一本も、白くも黒くもできないのだ、と言います。これは白髪染(しらがぞ)めのことを言っているのではありません。それはしょせん見せかけですから。ただ自分の正しさを証明する道具として神を引き合いに出すな、ということでしょう。
天の父は、髪の毛一本一本を数えておられる、つまり神は天地を統(す)べ治めておられる、というのです。私達は神を統べ治めて、私の正しさのために神を利用してはいけないというのです。神の正しさを証明するために、私を誓いとしてささげるのです。神の愛を証しするために私自身を利用していただき、そのためにこの身をささげつくすことを誓うのです。(静)
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本日の主イエスの教えは、「誓ってはならない」ということです。『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』というのは、旧約聖書の中に出てくる教えです。
たしかにその通りです。真実を誓って言った言葉にウソ偽りがあったのではどうしようもありません。何を信用してよいやら分からなくなってしまいます。ですから、誓った以上はそれが果たされなくてはならないでしょう。
しかし同時に私たちは、そういう誓いの言葉というものを守るということが難しいことを知っております。すぐに私が思い浮かべたのは、国会で政治家が証人喚問などをするときです。これは真実だけを述べることを誓い、約束するわけです。しかしそれがいかにいい加減なものであったかということを、国民はイヤと言うほど見せつけられました。選挙の公約もそうでしょう。私はいい気になって政治を批判しようというのではありません。私たち自身にも同じことが言えるのです。
イエスさまは「誓ってはならない」と言ったが、教会では誓っているではないか、と思われる方もあるでしょう。
例えば、教会の結婚式でも誓います。
しかし、この教会の結婚式での誓約=誓いは、このあと司祭が2人のために祈るのです。そこを忘れてはならないのです。
つまり、神さまがその2人の気持ち、約束を祝福し、守るように支えて下さい、ということです。神さまが支えて下さらなければ、誓い、約束すらあやふやとなって行くであろうことを前提にしているのです.
結婚式だけではありません。私たちが、クリスチャンとなるとき、キリストについていこうと決心するとき、つまり洗礼式の時も、誓約をいたします。これも、クリスチャンとなった最初のころは、新しく生まれ変わった喜びに満たされ、誓いの言葉も心から告白できるとしても、やがてマンネリ化する、あるいはつらいことに出会う、時には試練にさえ出会うことがある‥‥その時、同じ言葉を持って告白できるか、ということです。「やはり神などいない!」‥‥そう叫びたくなるような時に、はたして「私は主を信じる」と言い続けることができるでしょうか?
洗礼式の誓約の時にも、祈りがそのあとにあるのです。祈りをもって洗礼が成り立つのです。洗礼を受けた兄弟姉妹が、神の支えによってはじめてその後を歩んでいくことができるのです。神がその告白を支え、あらゆる危害から守ってくださり、導いていって下さるように祈る‥‥その時初めて洗礼が成り立つのです。クリスチャンの新しい歩みができるのです。
祈りなくして誓いというものは成り立ちません。これは、聖霊の支えなくして私たちは進んでいけないということです。
大学の先生は英語でProfessorといいます。これも、ラテン語語の語源profiteorをたどって行くと、誓いというようなものです。公にみなの前でPRO、真理をのべることを職業としているという意味です。
私たちの誓いは、政治家のようなものではなく、せめて結婚式、あるいは洗礼式のような誓いになるように今日祈りたいと思います。
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11 per annum
年間 第11月曜日
マタイ5・38-42
論語 学而第一 1
01-01 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
子(し)曰(いわ)く、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あり)、遠方(えんぽう)より来(き)たる。亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(いきど)おらず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
孔子は、学問に人生を捧げ、弟子を得て喜んだ。また、世間から理解されず、位を失ったこともあり、命の危険にさらされたこともあった。それでも、「慍(いきど)おらず」というのは、人間の最高の知恵です、と。キリストは、人間の最高の知恵への神様からの答えであった。
----------
きょうのイエスさまの御言葉は、ただ主なる神さまを信じるときだけに成り立つ言葉です。それゆえ、イエスさまのこの言葉もまた、格言や名言とは全く違うことが分かります。イエスさまのおっしゃった御言葉は、神を信じるとはどういうことなのかを教えているのです。
それは自分で復讐することをやめて、神様に復讐をお任せすることです。また、その理不尽な相手をさえも、神様は変えてくださることができる。いちいち復讐していたのでは相手は変わることがない、相手が神さまを信じることはないでしょう。また、自分自身も平安を失うでしょう。「いつか復讐してやる」という思いでいっぱいになり、悔しくて腹が立って、それでは神を信じないのと同じです。しかし神様にお任せすることができたとしたら平安です。自分自身は復讐心から解放されるし、また、「どうして私がこんな目にあわなければならないのか?」という怒りからも解放されるのです。(nibanmati)
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誰かが右の頬を打つなら、左の頬を向ける、下着を取ろうとする者には、上着をも取らせる、求める者には与える、この愚かと思えるような寛大さは、神の愛の特徴です。そこには、十字架の知恵があります。私の弱さを憐れみ、すべてを与え続けてくださる主に立ち返り、神の国を広げていくことができますように。(seseragi)
年間 第11火曜日
マタイ5・43-48
第一朗読(列王記)の「災いをくだす」神と、福音書の「悪人の上にも太陽を上らせる」神とは、自分の中でどのように重なって、折り合っているのか。この辺について、多分しばらく悩む必要があると思われます。悪と不正を見て見ぬふりできない神、正義を求める神とすべての人間を等しく愛する神、すべての人の救いを望んでおられる神はどのように、矛盾なく語らえるのかは、哲学的に神学的に難題であるが、一応「悪を憎み、悪人を憎まず」、または「罪を憎み、罪びとを憎まない」あたりに落ち着くかと思います。
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ある新興宗教の入門書の中でキリスト教の「愛」を批判しているところがありました。キリスト教の愛は、「愛さなければならない」という一つの規範として考えられている。愛は努力すべきものとしてとらえられている。人間は愛を説かれても、それは観念論であり、実行不可能なことを押しつけている。愛を説くキリスト教の世界で戦争が絶えなかったという事実に、この矛盾があらわれている。‥‥たしかに半分当たっているところがあるように聞こえます。
もしキリストのこの教えが、「愛さなければならない」というおきてを説いたものだとしたら、それはたしかに実行不可能な無理難題をイエスさまは押しつけているように思えます。つまり、「そんなことは無理です」と言うほかないのです。自分を迫害し、いじめ、苦痛を与え、滅ぼそうとする、そういう人を愛することはできないのです。
「敵」ではなく「隣人」なら愛せるのか?
そもそも、「敵」を愛するということはもちろんできないことですが、では、「隣人」なら愛することができるのでしょうか?私たちの身近な人なら愛することができるのでしょうか? これも考えてみると、また困ってしまいます。‥‥敵ではなくて隣人なら愛することができると問われれば、これも「はい」とは言えないのではないでしょうか?‥‥何十年も連れ添ってきた夫婦も離婚することがあります。お金がからむと、肉親の間でさえ、骨肉の争いを演じるのが私たち人間の姿です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」などという言葉は、遠い遠い世界の夢物語のように聞こえくるかもしれないが、実は人間社会が成り立つための基本条件になっています。(nibanmati)
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 太陽の恵み、雨の恵みがある。大自然の恵みはすべての人に等しく注がれています。悪人にも善人にも豊かに注がれている。大自然を見つめる時(きれいな日の出・日没)、否、自然に打たれる時に(台風)、私たちは自分の小ささ、自分の狭いこだわりなどに気づかされ、突然パーンと殼がはじけて割れるような、目からうろこが落ちるような体験をすることがあります。時々遠くに目を向けること(星空)。悪人にも善人にも等しく注がれる太陽の恵み、雨の恵みに思いを馳せてゆくこと。つまり自分を越えたものとつながって生きること、生かされていることを知ること。それが私たちを自分の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみに囚われていたところ(私たちの「バビロン捕囚」)から解放してくれるのだ、そう思います。それは神の聖霊による捕囚からの新しい解放なのです。
こうして、今日の第一朗読(具数年)のことばがわかるような気がします。「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」
年間 第11水曜日
マタイ6・1-6;16-18
現代は自己PRの時代です。あちらこちらに広告版があります。24時間CMに囲まれています。教会でも広告塔を造ります。イエスはそんな私たちに対して、最も大切な方に忠実に生きるようにと願っています。目を外に向けて神から離れるより、自分の奥深いところに入ってイエスに従うことが
出来ますように。(seseragi)
---------------
イエスさまは何をおっしゃりたいのでしょうか? まず私たちが思いますことは、「施しなどの善行をするときは、仰々(ぎょうぎょう)しくやらないで、さりげなくやれ」ということではないかと思います。これは施しに限らない、とにかく人助けをするような場合、あるいは功徳となるようなことをする場合、恩着せがましくするな、あるいは、目立たないようにやれ。そのほうが立派である、というふうに考えるのではないでしょうか。
「俺はこんなに良いことをしたんだぞ」と言わんばかりの自慢げな態度というものは、鼻持ちならないものです。いわゆる「自慢話」ほど、イヤな気分にさせるものはありません。‥‥そうすると、せっかく良いことをしても、かえって評判を落とすことになるのです。だから、さりげなく良いことをしなさい、そすればかえってあなたの評判は高まることになる‥‥‥‥そのようにこのイエスさまの教えを受け取っているのではないでしょうか?
こういう捉え方は十分できると思いますが、もっと深い意味があります。さりげなく、あるいは隠れておこなった良いことについて、結局は、人からほめられたり、人から認められたりすることを期待しているのです。つまり、外見上の形はどうあれ、人からの報いを結局は期待することになるのです。きょうイエスさまが私たちに教えておられることは、そうではない。神を信じることとはどういうことかを教えるものです。‥‥すなわち、ただ神からの報いだけを期待するということです。これは、例えばこの世の誉れを捨てた修道者に励みのことばとなります。
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キリスト教の歴史を見て分かるのは、もめごとは多くて一致を造るのは難しい。修道会や教会の現場にも、競走やもめごとは結構多い。まぁ、人間関係はややこしいという現実は元々あります。しかし、教会独特な原因があります。今日の福音書はそれを示しています。祈りや奉仕というもの味を知り始めた者にサタンが放つ二つの矢は、高慢と偽善。教会関係の活動は常にこの毒に曝されている。「聖なることをする人はえらい」というこの世の価値観の教会版をサタンは注入する。「神父様えらい、シスターえらい」と言われて、それをばねに生きようとおもったらおしまい。いくらよいことをしてもそれは全部ウソになります。ですから、対策は、もし自分の内面に「鼻がうごめく」のを察知したら、イエスの勧めは「正反対のことをしなさい。」
マタイ5・38-42
論語 学而第一 1
01-01 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
子(し)曰(いわ)く、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あり)、遠方(えんぽう)より来(き)たる。亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(いきど)おらず、亦(また)君子(くんし)ならずや。
孔子は、学問に人生を捧げ、弟子を得て喜んだ。また、世間から理解されず、位を失ったこともあり、命の危険にさらされたこともあった。それでも、「慍(いきど)おらず」というのは、人間の最高の知恵です、と。キリストは、人間の最高の知恵への神様からの答えであった。
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きょうのイエスさまの御言葉は、ただ主なる神さまを信じるときだけに成り立つ言葉です。それゆえ、イエスさまのこの言葉もまた、格言や名言とは全く違うことが分かります。イエスさまのおっしゃった御言葉は、神を信じるとはどういうことなのかを教えているのです。
それは自分で復讐することをやめて、神様に復讐をお任せすることです。また、その理不尽な相手をさえも、神様は変えてくださることができる。いちいち復讐していたのでは相手は変わることがない、相手が神さまを信じることはないでしょう。また、自分自身も平安を失うでしょう。「いつか復讐してやる」という思いでいっぱいになり、悔しくて腹が立って、それでは神を信じないのと同じです。しかし神様にお任せすることができたとしたら平安です。自分自身は復讐心から解放されるし、また、「どうして私がこんな目にあわなければならないのか?」という怒りからも解放されるのです。(nibanmati)
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誰かが右の頬を打つなら、左の頬を向ける、下着を取ろうとする者には、上着をも取らせる、求める者には与える、この愚かと思えるような寛大さは、神の愛の特徴です。そこには、十字架の知恵があります。私の弱さを憐れみ、すべてを与え続けてくださる主に立ち返り、神の国を広げていくことができますように。(seseragi)
年間 第11火曜日
マタイ5・43-48
第一朗読(列王記)の「災いをくだす」神と、福音書の「悪人の上にも太陽を上らせる」神とは、自分の中でどのように重なって、折り合っているのか。この辺について、多分しばらく悩む必要があると思われます。悪と不正を見て見ぬふりできない神、正義を求める神とすべての人間を等しく愛する神、すべての人の救いを望んでおられる神はどのように、矛盾なく語らえるのかは、哲学的に神学的に難題であるが、一応「悪を憎み、悪人を憎まず」、または「罪を憎み、罪びとを憎まない」あたりに落ち着くかと思います。
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ある新興宗教の入門書の中でキリスト教の「愛」を批判しているところがありました。キリスト教の愛は、「愛さなければならない」という一つの規範として考えられている。愛は努力すべきものとしてとらえられている。人間は愛を説かれても、それは観念論であり、実行不可能なことを押しつけている。愛を説くキリスト教の世界で戦争が絶えなかったという事実に、この矛盾があらわれている。‥‥たしかに半分当たっているところがあるように聞こえます。
もしキリストのこの教えが、「愛さなければならない」というおきてを説いたものだとしたら、それはたしかに実行不可能な無理難題をイエスさまは押しつけているように思えます。つまり、「そんなことは無理です」と言うほかないのです。自分を迫害し、いじめ、苦痛を与え、滅ぼそうとする、そういう人を愛することはできないのです。
「敵」ではなく「隣人」なら愛せるのか?
そもそも、「敵」を愛するということはもちろんできないことですが、では、「隣人」なら愛することができるのでしょうか?私たちの身近な人なら愛することができるのでしょうか? これも考えてみると、また困ってしまいます。‥‥敵ではなくて隣人なら愛することができると問われれば、これも「はい」とは言えないのではないでしょうか?‥‥何十年も連れ添ってきた夫婦も離婚することがあります。お金がからむと、肉親の間でさえ、骨肉の争いを演じるのが私たち人間の姿です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」などという言葉は、遠い遠い世界の夢物語のように聞こえくるかもしれないが、実は人間社会が成り立つための基本条件になっています。(nibanmati)
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 太陽の恵み、雨の恵みがある。大自然の恵みはすべての人に等しく注がれています。悪人にも善人にも豊かに注がれている。大自然を見つめる時(きれいな日の出・日没)、否、自然に打たれる時に(台風)、私たちは自分の小ささ、自分の狭いこだわりなどに気づかされ、突然パーンと殼がはじけて割れるような、目からうろこが落ちるような体験をすることがあります。時々遠くに目を向けること(星空)。悪人にも善人にも等しく注がれる太陽の恵み、雨の恵みに思いを馳せてゆくこと。つまり自分を越えたものとつながって生きること、生かされていることを知ること。それが私たちを自分の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみに囚われていたところ(私たちの「バビロン捕囚」)から解放してくれるのだ、そう思います。それは神の聖霊による捕囚からの新しい解放なのです。
こうして、今日の第一朗読(具数年)のことばがわかるような気がします。「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」
年間 第11水曜日
マタイ6・1-6;16-18
現代は自己PRの時代です。あちらこちらに広告版があります。24時間CMに囲まれています。教会でも広告塔を造ります。イエスはそんな私たちに対して、最も大切な方に忠実に生きるようにと願っています。目を外に向けて神から離れるより、自分の奥深いところに入ってイエスに従うことが
出来ますように。(seseragi)
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イエスさまは何をおっしゃりたいのでしょうか? まず私たちが思いますことは、「施しなどの善行をするときは、仰々(ぎょうぎょう)しくやらないで、さりげなくやれ」ということではないかと思います。これは施しに限らない、とにかく人助けをするような場合、あるいは功徳となるようなことをする場合、恩着せがましくするな、あるいは、目立たないようにやれ。そのほうが立派である、というふうに考えるのではないでしょうか。
「俺はこんなに良いことをしたんだぞ」と言わんばかりの自慢げな態度というものは、鼻持ちならないものです。いわゆる「自慢話」ほど、イヤな気分にさせるものはありません。‥‥そうすると、せっかく良いことをしても、かえって評判を落とすことになるのです。だから、さりげなく良いことをしなさい、そすればかえってあなたの評判は高まることになる‥‥‥‥そのようにこのイエスさまの教えを受け取っているのではないでしょうか?
こういう捉え方は十分できると思いますが、もっと深い意味があります。さりげなく、あるいは隠れておこなった良いことについて、結局は、人からほめられたり、人から認められたりすることを期待しているのです。つまり、外見上の形はどうあれ、人からの報いを結局は期待することになるのです。きょうイエスさまが私たちに教えておられることは、そうではない。神を信じることとはどういうことかを教えるものです。‥‥すなわち、ただ神からの報いだけを期待するということです。これは、例えばこの世の誉れを捨てた修道者に励みのことばとなります。
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キリスト教の歴史を見て分かるのは、もめごとは多くて一致を造るのは難しい。修道会や教会の現場にも、競走やもめごとは結構多い。まぁ、人間関係はややこしいという現実は元々あります。しかし、教会独特な原因があります。今日の福音書はそれを示しています。祈りや奉仕というもの味を知り始めた者にサタンが放つ二つの矢は、高慢と偽善。教会関係の活動は常にこの毒に曝されている。「聖なることをする人はえらい」というこの世の価値観の教会版をサタンは注入する。「神父様えらい、シスターえらい」と言われて、それをばねに生きようとおもったらおしまい。いくらよいことをしてもそれは全部ウソになります。ですから、対策は、もし自分の内面に「鼻がうごめく」のを察知したら、イエスの勧めは「正反対のことをしなさい。」
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神の愛は、「見てもらおう」とする愛ではないので、ある意味「隠されて」います。「人からほめられよう」とする愛ではないので、「気づかれない」。逆に、人から軽んじられ、あざけられ、捨てられます。
神の愛は、「えっ、こんな仕方で? こんなところに?」と、ふと気づかれるような、香るような愛です。垣間見て気づくような愛、「隠された愛」なのです。
人間の愛というのは、それを受ける者には、時に重荷になることがあります。人を圧迫することもあります。しかし、「隠された愛」「垣間見られる愛」「ふと耳にして知る愛」は、決して押しつけになりませんし、重荷になりません。
神の愛も、押しつけでも重荷でもありません。隠されているからです。御子イエス・キリストの十字架に現された愛、それを誰も理解しませんでした。人間の ために、神の御子が命を注ぎだしておられる時、御子は人から見捨てられ、あざけられ、罵られました。十字架の愛には、一種の「神の孤独」があります。父な る神は、それを引き受け、最愛の子を失う孤独を引き受けて、神ご自身が隠された者となられました。そのようにして、神は、どこまでも人間の傍らに立とうと されるのです。
ローマの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」。聖霊が、神の愛 を私たちの内に注いでくださいます。そして聖霊は、私たちのために、「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と言います。神の霊は、私たちを 圧倒し押し倒すようにでなく、私たち人間の思いの下で、うめきながら、耐えるように働いておられます。
「隠れたところにおられる私たちの父」、その愛を「隠れたところで」発見する。それはいかに甘美な経験でしょうか。そこで私たちは、イエス様が「アッバ、父よ」と祈られた、あの交わりに入るのです。
年間 第11木曜日
マタイ6・7-15
父なる神は私たちに必要なことを私たちよりご存知です。神に信頼して祈る人は、自分に行なわれる全てが神の恵みだと信じるのです。主よ、あなたの愛に信頼します。(sese)
-------
父なる神は、祈ることを待っておられるのです。祈りとは会話です。私たちの神が生きておられる父であるから、会話になるのです。子供が親に、「ピアノを買ってくれ」と言う。理由を聞けば、「ピアニストになりたい」と言う。そこで親は考えます。そして「どうせ三日坊主なのではないか」と思
って、しばらく買わないでおく。すると、毎日のように、「買ってほしい」ということを言う。そしてまた考えます。「これは本気かもしれない。」そしてよく考えて買ってやるのではないでしょうか。そこには親と子のコミュニケーションがあります。
私たちの父である神もまた同じです。それは父なる神だからです。祈りはこの神との会話です。願い事があり、感謝があり、相談がある。私たちを愛しておられる父なる神と祈るというとき、それは、ただ自分の要求をかなえてもらうために、神を操ろうとする偶像礼拝とは全く違う、生きた交わり
となるのです。そういう神様を私たちは礼拝しているのです。感謝します。 (nibanmati)
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「み名のとうとまれことを」と祈るとき、私たちは、常に聖である神のみ名を人々も聖なるものとみなすように、すなわち、その名を侮ることのないように自分自身を諭します。神のみ名を聖なるとみなすことは、神にではなく人に益をもたらします。
また、神の国は望もうと望むまいと必ず来ますが、「み国の来たらんことを」と祈るとき、み国が訪れ、私たちがみ国に入って治めるのにふさわしい者となるように、み国に対するあこがれを駆り立てるのです。
「み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを」と祈るとき、私たちを従順にしてくださるよう、神に願っているのです。それは、神の使いたちが天において神のみ旨を行っているのと同じように、私たちもそれを行うようになるためです。
「我らの日用のパンを今日我らに与えたまえ」と祈るとき、「今日」という言葉によって、この世にいる間ということを表します。この祈りによって、この世で生きるために十分な糧を願っていると考えられます。パンは主食ですから、パンという言葉は糧のすべてを表しています。あるいは、この嘆願によって、信者たちが受けている秘跡をいただくように願っていることも考えられます。この秘跡は、この世にいる間に必要ですが、現世的な幸福を得るためではなく、あの永遠の幸福を獲得するために必要なのです。
「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と祈るとき、何を神に願わなければならないか、そして、神からそれをを受けるに値する者となるために何をしなければならないかということを自分自身に思い起こさせます。
「我らを試みに引きたまわざれ」と祈るとき、神の助けが私たちから離れないように願います。それは、だまされて誘惑を承諾しないように、あるいは、疲れて誘惑に屈伏しないようにするためです。
「我らを悪より救いたまえ」と祈るとき、どんな悪にも苦しまない幸福な状態に私たちはまだ達していないことを考えるよう自分自身を諭します。主の祈りのこの最後の嘆願は、きわめて広い意味をもっています。したがって、キリスト者はどのような苦悩にあっても、この嘆願を述べて嘆き、涙を流し、祈りをここから始め、これを長く思いめぐらし、これで祈りを終らなければなりません。つまり、主の祈りのこれらの言葉によって表されていることがらが、私たちの心に思い起こされなければならないのです。
主の祈り以外のどのような言葉で祈るとしてもーー祈りに先立つ主への想いを表すために、主への想いからわき起こる言葉であれ、その想いを保ち続けることばであれーー正しく、ふさわしく祈っているなら、必ず主の祈りに含まれていることを祈ることになります。そこで、もしある人が福音書のこの祈りとは異なることを祈るなら、それは不正な祈りとは言わなくても、肉的に祈っていることになります。これをどうして不正な祈りと呼ばないのでしょうか。霊によって再び生まれた人は、霊的にだけ祈らなければならないからです。」
(アウグスティヌス、「プロバへの手紙」130.『毎日の読書』第8巻、カトリック中央協議会、29頁以下)
祈りには、終わりがあります。いつまでも何十時間も続けて祈っているというわけにはいきません。祈り終えて、立ち上がって、またもとの生活に戻っていくのです。そうすると、そこには現実の世界があります。現実の生活があるのです。私たちが、寝たり起きたりし、食べたり飲んだり、仕事をしたり、家事をしたり、人と会ったり‥‥というごく当たり前の生活があります。祈りを終えて、そこに戻っていくのである。それは、この礼拝を終えた後、またもとの現実の生活の中に戻っていくのと同じです。
いつまでも父なる神との祈りという霊的な交わりの中に浸っていたいと思うことがあります。しかし祈りは終わる時が来ます。そして、生活に戻ります。そうするとそこには現実があるのです。おもしろいことばかりではない。自分の思うとおりにいくことばかりではありません。つらいことが待っているかもしれません。イヤなことに出会うかもしれません。神を信じていない人たちと接していかなくてはなりません。
私にも経験があります。一人になって「密室の祈り」をする。そして時には、祈りの中で神さまからの素晴らしい感動を与えられ、喜びがあふれ、充実した祈りの時間となることがあります。まさに神さまがそこにいることが分かり、その神の衣の裾に触れるような思いがすることがある。ああ、すばらしかった、と思って祈り終わる。そして外に出ていきます。すると、そういうときに限って、人からおもしろくないことを言われたりするのです。それで、腹が立ってしまいます。怒りがこみ上げてきます。平安などいっぺんにどこかに飛んでいってしまうんです。そして、はっと気がつく。少し前に味わった、あの充実した祈り、感謝、喜びはいったいどこに行ってしまったのだろう?と。‥‥私たちはまことに弱いのです。
イエスさまはそういうことをご存じで、主の祈りを教えられたのです。私たちがつまづきやすく、せっかくの神の御言葉を聞きながら、なかなか立ちきることができない。そういう私たちをご覧になって、「だからあなたがたはダメなのだ」とは言われなかったのです。そういう弱い私たちが、なお神さまの道を歩むことができるために、この「主の祈り」をお教えになった。そして最後にこの祈りの言葉を教えられたのです。
私たちは、この礼拝のあと、またこの世の生活に戻ります。私たちを神様への信仰から引き離そうとするいろいろな誘惑や試練があります。しかしそのとき、主の祈りが私たちを支えてくれるのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、イエスさまによって守られて歩むのです。
年間 第11金曜日
マタイ6・19-23
「虫が食ったり、さびが出たり、またはどろぼうに盗まれるような財産をいくら積んだからとて、それはしばらく、ある程度の用をするものに過ぎない。」‥‥昔1匹のキツネがいた。垣根の向こう側にはぶどう畑があって、キツネはそれを食べたいのだが、垣根の小さい穴を通り抜けることができない。そこでキツネは三日間断食をして腹を細くして、垣根を通り抜けることができた。キツネはぶどう畑のぶどうを腹一杯食べて、帰ろうとしたところ、今度は腹がふくれて外に出られなくなってしまった。それでまた三日間断食をして腹を細くしてようやく出てきた。‥‥そしてこう書いています。「今裸でこの世に入ってきて、また裸でこの世を出ていく人間の運命も、大いにこのキツネと似たところがあるではないか。それであるから私どもは目前の利欲に迷って、人間の大道を踏み迷うようなことがあってはならない。『欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘るる』。金銭は神からの預かりもものと思い、責任を持って扱い、都合のつく限りそれを用いて、神と人とに尽くさねばならない。」 nibanmati
---------------
「体のともし火は目である」(22)
この花がどんな色をしているとか、ここには誰が来ているとか、あるいは教会に行くにはどこをどう通っていったらよいのかとか、そういうことは目を通して分かります。そしてこれは、なぜ目を通して分かるかと言えば、太陽や電器の光がその花だとか、人だとか、道とか建物にあたって、それが反射して私たちの目に入ってくるわけです。目が物にあたってはね返った光を感知して、物が見えたり色が分かったりするわけです。ですから、目が、光の窓となっているわけです。
つまり、目があったとしても光がないと、それはなにも見えないということになります。
そうするとイエスさまがおっしゃった、「体のともし火は目である」というのは、目という窓を通して、光を取り入れる、という意味になります。目をつむればなにも見えない。目を開けば、映像が飛び込んでくる。これは反射した光が飛び込んでくるのです。
イエスさまのおっしゃったことは、メガネをかけている者にとってはよく分かります。冬の寒い季節ですと、外から暖かい所に入ってくると、たちまちメガネが曇って、見えなくなってしまいます。あるいは、ラーメンを食べようとしてどんぶりに口を近づけると、すぐに湯気でメガネが曇って見えなくなってしまいます。‥‥するとこれは、目は開けているのだが、湯気で遮(さえぎ)られて見えなくなってしまうということになります。それで、どこに麺があり、どこに何ががあるのか、ということが分からなくなる。‥‥イエスさまの言葉で言えば、「濁っていれば全身が暗い」ということでしょう。
そしてそれが、肉体の目であれば、それは目のご不自由な方でも立派に生活をしていく手段があるわけですが、「心の目」が見えなかったり、「濁って」いたりすると、それはイエスさまの言葉で言えば23節の後半の言葉となります。=「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
光の方を向く
すると、では「光」とはなんのことなのか、そして心の「目」が澄んでいるということはどういうことなのでしょうか。「心の目が澄んでいる」などと言われますと、「ああー、自分はダメだ。自分の心は清くない」と思います。
「心が清いか、清くないか」ということで言えば、私の心も清くありません。‥‥不平不満を持つことがあるし、腹を立てることがある、何事も感謝したいがなかなかそうはできない‥‥という自分があるわけです。
しかしイエスさまはそんなことを言われたのでしょうか。ここでイエスさまが言われたことは、「心が澄んでいる」ということではありません。「目」が澄んでいる、ということです。そして目が光を自分の中に取り入れる窓なのですから、その光を見ているということです。光を見ている、光の方を向いているから、心の「目」という窓がそちらに向かって開いているから、光が飛び込んできて、自分の内側を照らすのです。
では光とはなんのことなのか。今日の答唱詩編(愚数年)にあるように、「主を仰ぎ見て、光を受けよう」(詩編34)、またヨハネによる福音書には‥‥(ヨハネ 1: 9)「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」、また、(ヨハネ 8: 12)「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
聖書は、イエス・キリストが私たちを照らす光であると言っています。
光がなければ、ものを見ることが出来ません。そしてきょうの聖書は、私たちが、私たちの心を何に向けているかということを問うているのです。‥‥私たちの心が光である神さま・イエスさまの方を向いているのか。もしそうなら、そのキリストの光りが心の目を通して差し込んできて、私たちの内側を明るく照らすのです。
しかし神さま・イエスさまのほうを向いていないならば、その光りは差し込まなくなって、内側が暗くなるのです。
キリストが光である
光があってこそ、何があるかが分かります。光があってこそ、何をしたらよいかが分かります。私たち自身の心は澄んでいないかもしれない。しかしそれは問題ではありません。この罪にまみれた私たちであっても、光であるお方の方を向いているかどうかということなのです。光の方を向いていれば、そのキリストの光が射し込むのです。 nibanmati
年間 第11土曜日
マタイ6・24-34
「明日のことまで思い悩むな」とイエスは言われます 。何を食べるか、何を着るかなどは二次的なことです 。それらのことは神が、愛を込めて配慮して下さるのです 。私たちが悩まなければならないことは、どの位、そしてどのように 、神と関わっているのか、ではないでしょうか。
主よ、あなたからすべてを期待しすべてを委ねる子どものような信仰 と信頼を私たちの心に大きく育んでください。
-----------
。「主人」という言葉は、日本では夫婦のうちの夫のことを妻が呼ぶ 言葉として使われます。もっともこれは昔の日本のなごりが生きてい る言葉であって、現代では、妻のほうが実際には主人のように主導権 を握っている場合もあるでしょう。それはともかく、この場合でも 、「二人の主人に仕える」ことはできません。そんなことをしようと したら、結婚が成り立たないのです。
サラリーマンであれば、例えば会社を午後5時に引けた後 、夜はどこかの飲み屋でアルバイトをする、というようなこともでき るわけですが、
このことは、どちらかを選ばなければならないときに 、はっきりするのです。昔ある友人が、同時に二人の女性に結婚を申 し込みました。「数を打てば当たる」ということでしょうか 。私はそれを聞いて、「あほか」と言いました。そんなことを知れば 、どちらの女性も去っていくでしょう。
つきつめて言えば、神が本当の主人であるのか、それともお金が本当 の主人であるのか、ということです。言葉を変えて言えば、 「私を食べさせてくれるのは、神さまなのか、それともお金なのか ?」、どちらなのか、という問いです。
私たちはなんと答えるでしょうか? 「背に腹は代えられない」と言うでしょうか? 「神さまというのは、単に精神的慰めを与えてくれるだけで 、食わしてくれたり現実に奇跡を起こして助けてくれるわけではない 」と言うのでしょうか? もしそうだとしたら、私たちの神さまというのは、信じていても仕方 がない神さまです。私たちは、そんな神さまのために 、貴重な時間を割いて礼拝したり献金をささげたりするのではありま せん。
しかし私たちが今ここにこのように来て、礼拝をし、献金をささげ 、また日々御言葉を読んで、主イエスの御心に生きるようになりたい と願うのは、私たちの神さまが聖書に記されているとおり今も生きて 働いていてくださる神さまだからではないでしょうか。主イエス ・キリストの父なる神さまこそ、真の神さまであり 、私たちの主人だと信じるからではないでしょうか。
キリストを信じるということは、キリストの奴隷となることです 。他の言葉で言えば、「キリストの僕」となることです 。キリストが主人であり、私たちがその僕です。
神の愛は、「えっ、こんな仕方で? こんなところに?」と、ふと気づかれるような、香るような愛です。垣間見て気づくような愛、「隠された愛」なのです。
人間の愛というのは、それを受ける者には、時に重荷になることがあります。人を圧迫することもあります。しかし、「隠された愛」「垣間見られる愛」「ふと耳にして知る愛」は、決して押しつけになりませんし、重荷になりません。
神の愛も、押しつけでも重荷でもありません。隠されているからです。御子イエス・キリストの十字架に現された愛、それを誰も理解しませんでした。人間の ために、神の御子が命を注ぎだしておられる時、御子は人から見捨てられ、あざけられ、罵られました。十字架の愛には、一種の「神の孤独」があります。父な る神は、それを引き受け、最愛の子を失う孤独を引き受けて、神ご自身が隠された者となられました。そのようにして、神は、どこまでも人間の傍らに立とうと されるのです。
ローマの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」。聖霊が、神の愛 を私たちの内に注いでくださいます。そして聖霊は、私たちのために、「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と言います。神の霊は、私たちを 圧倒し押し倒すようにでなく、私たち人間の思いの下で、うめきながら、耐えるように働いておられます。
「隠れたところにおられる私たちの父」、その愛を「隠れたところで」発見する。それはいかに甘美な経験でしょうか。そこで私たちは、イエス様が「アッバ、父よ」と祈られた、あの交わりに入るのです。
年間 第11木曜日
マタイ6・7-15
父なる神は私たちに必要なことを私たちよりご存知です。神に信頼して祈る人は、自分に行なわれる全てが神の恵みだと信じるのです。主よ、あなたの愛に信頼します。(sese)
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父なる神は、祈ることを待っておられるのです。祈りとは会話です。私たちの神が生きておられる父であるから、会話になるのです。子供が親に、「ピアノを買ってくれ」と言う。理由を聞けば、「ピアニストになりたい」と言う。そこで親は考えます。そして「どうせ三日坊主なのではないか」と思
って、しばらく買わないでおく。すると、毎日のように、「買ってほしい」ということを言う。そしてまた考えます。「これは本気かもしれない。」そしてよく考えて買ってやるのではないでしょうか。そこには親と子のコミュニケーションがあります。
私たちの父である神もまた同じです。それは父なる神だからです。祈りはこの神との会話です。願い事があり、感謝があり、相談がある。私たちを愛しておられる父なる神と祈るというとき、それは、ただ自分の要求をかなえてもらうために、神を操ろうとする偶像礼拝とは全く違う、生きた交わり
となるのです。そういう神様を私たちは礼拝しているのです。感謝します。 (nibanmati)
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「み名のとうとまれことを」と祈るとき、私たちは、常に聖である神のみ名を人々も聖なるものとみなすように、すなわち、その名を侮ることのないように自分自身を諭します。神のみ名を聖なるとみなすことは、神にではなく人に益をもたらします。
また、神の国は望もうと望むまいと必ず来ますが、「み国の来たらんことを」と祈るとき、み国が訪れ、私たちがみ国に入って治めるのにふさわしい者となるように、み国に対するあこがれを駆り立てるのです。
「み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを」と祈るとき、私たちを従順にしてくださるよう、神に願っているのです。それは、神の使いたちが天において神のみ旨を行っているのと同じように、私たちもそれを行うようになるためです。
「我らの日用のパンを今日我らに与えたまえ」と祈るとき、「今日」という言葉によって、この世にいる間ということを表します。この祈りによって、この世で生きるために十分な糧を願っていると考えられます。パンは主食ですから、パンという言葉は糧のすべてを表しています。あるいは、この嘆願によって、信者たちが受けている秘跡をいただくように願っていることも考えられます。この秘跡は、この世にいる間に必要ですが、現世的な幸福を得るためではなく、あの永遠の幸福を獲得するために必要なのです。
「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と祈るとき、何を神に願わなければならないか、そして、神からそれをを受けるに値する者となるために何をしなければならないかということを自分自身に思い起こさせます。
「我らを試みに引きたまわざれ」と祈るとき、神の助けが私たちから離れないように願います。それは、だまされて誘惑を承諾しないように、あるいは、疲れて誘惑に屈伏しないようにするためです。
「我らを悪より救いたまえ」と祈るとき、どんな悪にも苦しまない幸福な状態に私たちはまだ達していないことを考えるよう自分自身を諭します。主の祈りのこの最後の嘆願は、きわめて広い意味をもっています。したがって、キリスト者はどのような苦悩にあっても、この嘆願を述べて嘆き、涙を流し、祈りをここから始め、これを長く思いめぐらし、これで祈りを終らなければなりません。つまり、主の祈りのこれらの言葉によって表されていることがらが、私たちの心に思い起こされなければならないのです。
主の祈り以外のどのような言葉で祈るとしてもーー祈りに先立つ主への想いを表すために、主への想いからわき起こる言葉であれ、その想いを保ち続けることばであれーー正しく、ふさわしく祈っているなら、必ず主の祈りに含まれていることを祈ることになります。そこで、もしある人が福音書のこの祈りとは異なることを祈るなら、それは不正な祈りとは言わなくても、肉的に祈っていることになります。これをどうして不正な祈りと呼ばないのでしょうか。霊によって再び生まれた人は、霊的にだけ祈らなければならないからです。」
(アウグスティヌス、「プロバへの手紙」130.『毎日の読書』第8巻、カトリック中央協議会、29頁以下)
祈りには、終わりがあります。いつまでも何十時間も続けて祈っているというわけにはいきません。祈り終えて、立ち上がって、またもとの生活に戻っていくのです。そうすると、そこには現実の世界があります。現実の生活があるのです。私たちが、寝たり起きたりし、食べたり飲んだり、仕事をしたり、家事をしたり、人と会ったり‥‥というごく当たり前の生活があります。祈りを終えて、そこに戻っていくのである。それは、この礼拝を終えた後、またもとの現実の生活の中に戻っていくのと同じです。
いつまでも父なる神との祈りという霊的な交わりの中に浸っていたいと思うことがあります。しかし祈りは終わる時が来ます。そして、生活に戻ります。そうするとそこには現実があるのです。おもしろいことばかりではない。自分の思うとおりにいくことばかりではありません。つらいことが待っているかもしれません。イヤなことに出会うかもしれません。神を信じていない人たちと接していかなくてはなりません。
私にも経験があります。一人になって「密室の祈り」をする。そして時には、祈りの中で神さまからの素晴らしい感動を与えられ、喜びがあふれ、充実した祈りの時間となることがあります。まさに神さまがそこにいることが分かり、その神の衣の裾に触れるような思いがすることがある。ああ、すばらしかった、と思って祈り終わる。そして外に出ていきます。すると、そういうときに限って、人からおもしろくないことを言われたりするのです。それで、腹が立ってしまいます。怒りがこみ上げてきます。平安などいっぺんにどこかに飛んでいってしまうんです。そして、はっと気がつく。少し前に味わった、あの充実した祈り、感謝、喜びはいったいどこに行ってしまったのだろう?と。‥‥私たちはまことに弱いのです。
イエスさまはそういうことをご存じで、主の祈りを教えられたのです。私たちがつまづきやすく、せっかくの神の御言葉を聞きながら、なかなか立ちきることができない。そういう私たちをご覧になって、「だからあなたがたはダメなのだ」とは言われなかったのです。そういう弱い私たちが、なお神さまの道を歩むことができるために、この「主の祈り」をお教えになった。そして最後にこの祈りの言葉を教えられたのです。
私たちは、この礼拝のあと、またこの世の生活に戻ります。私たちを神様への信仰から引き離そうとするいろいろな誘惑や試練があります。しかしそのとき、主の祈りが私たちを支えてくれるのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、イエスさまによって守られて歩むのです。
年間 第11金曜日
マタイ6・19-23
「虫が食ったり、さびが出たり、またはどろぼうに盗まれるような財産をいくら積んだからとて、それはしばらく、ある程度の用をするものに過ぎない。」‥‥昔1匹のキツネがいた。垣根の向こう側にはぶどう畑があって、キツネはそれを食べたいのだが、垣根の小さい穴を通り抜けることができない。そこでキツネは三日間断食をして腹を細くして、垣根を通り抜けることができた。キツネはぶどう畑のぶどうを腹一杯食べて、帰ろうとしたところ、今度は腹がふくれて外に出られなくなってしまった。それでまた三日間断食をして腹を細くしてようやく出てきた。‥‥そしてこう書いています。「今裸でこの世に入ってきて、また裸でこの世を出ていく人間の運命も、大いにこのキツネと似たところがあるではないか。それであるから私どもは目前の利欲に迷って、人間の大道を踏み迷うようなことがあってはならない。『欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘るる』。金銭は神からの預かりもものと思い、責任を持って扱い、都合のつく限りそれを用いて、神と人とに尽くさねばならない。」 nibanmati
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「体のともし火は目である」(22)
この花がどんな色をしているとか、ここには誰が来ているとか、あるいは教会に行くにはどこをどう通っていったらよいのかとか、そういうことは目を通して分かります。そしてこれは、なぜ目を通して分かるかと言えば、太陽や電器の光がその花だとか、人だとか、道とか建物にあたって、それが反射して私たちの目に入ってくるわけです。目が物にあたってはね返った光を感知して、物が見えたり色が分かったりするわけです。ですから、目が、光の窓となっているわけです。
つまり、目があったとしても光がないと、それはなにも見えないということになります。
そうするとイエスさまがおっしゃった、「体のともし火は目である」というのは、目という窓を通して、光を取り入れる、という意味になります。目をつむればなにも見えない。目を開けば、映像が飛び込んでくる。これは反射した光が飛び込んでくるのです。
イエスさまのおっしゃったことは、メガネをかけている者にとってはよく分かります。冬の寒い季節ですと、外から暖かい所に入ってくると、たちまちメガネが曇って、見えなくなってしまいます。あるいは、ラーメンを食べようとしてどんぶりに口を近づけると、すぐに湯気でメガネが曇って見えなくなってしまいます。‥‥するとこれは、目は開けているのだが、湯気で遮(さえぎ)られて見えなくなってしまうということになります。それで、どこに麺があり、どこに何ががあるのか、ということが分からなくなる。‥‥イエスさまの言葉で言えば、「濁っていれば全身が暗い」ということでしょう。
そしてそれが、肉体の目であれば、それは目のご不自由な方でも立派に生活をしていく手段があるわけですが、「心の目」が見えなかったり、「濁って」いたりすると、それはイエスさまの言葉で言えば23節の後半の言葉となります。=「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
光の方を向く
すると、では「光」とはなんのことなのか、そして心の「目」が澄んでいるということはどういうことなのでしょうか。「心の目が澄んでいる」などと言われますと、「ああー、自分はダメだ。自分の心は清くない」と思います。
「心が清いか、清くないか」ということで言えば、私の心も清くありません。‥‥不平不満を持つことがあるし、腹を立てることがある、何事も感謝したいがなかなかそうはできない‥‥という自分があるわけです。
しかしイエスさまはそんなことを言われたのでしょうか。ここでイエスさまが言われたことは、「心が澄んでいる」ということではありません。「目」が澄んでいる、ということです。そして目が光を自分の中に取り入れる窓なのですから、その光を見ているということです。光を見ている、光の方を向いているから、心の「目」という窓がそちらに向かって開いているから、光が飛び込んできて、自分の内側を照らすのです。
では光とはなんのことなのか。今日の答唱詩編(愚数年)にあるように、「主を仰ぎ見て、光を受けよう」(詩編34)、またヨハネによる福音書には‥‥(ヨハネ 1: 9)「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」、また、(ヨハネ 8: 12)「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
聖書は、イエス・キリストが私たちを照らす光であると言っています。
光がなければ、ものを見ることが出来ません。そしてきょうの聖書は、私たちが、私たちの心を何に向けているかということを問うているのです。‥‥私たちの心が光である神さま・イエスさまの方を向いているのか。もしそうなら、そのキリストの光りが心の目を通して差し込んできて、私たちの内側を明るく照らすのです。
しかし神さま・イエスさまのほうを向いていないならば、その光りは差し込まなくなって、内側が暗くなるのです。
キリストが光である
光があってこそ、何があるかが分かります。光があってこそ、何をしたらよいかが分かります。私たち自身の心は澄んでいないかもしれない。しかしそれは問題ではありません。この罪にまみれた私たちであっても、光であるお方の方を向いているかどうかということなのです。光の方を向いていれば、そのキリストの光が射し込むのです。 nibanmati
年間 第11土曜日
マタイ6・24-34
「明日のことまで思い悩むな」とイエスは言われます 。何を食べるか、何を着るかなどは二次的なことです 。それらのことは神が、愛を込めて配慮して下さるのです 。私たちが悩まなければならないことは、どの位、そしてどのように 、神と関わっているのか、ではないでしょうか。
主よ、あなたからすべてを期待しすべてを委ねる子どものような信仰 と信頼を私たちの心に大きく育んでください。
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。「主人」という言葉は、日本では夫婦のうちの夫のことを妻が呼ぶ 言葉として使われます。もっともこれは昔の日本のなごりが生きてい る言葉であって、現代では、妻のほうが実際には主人のように主導権 を握っている場合もあるでしょう。それはともかく、この場合でも 、「二人の主人に仕える」ことはできません。そんなことをしようと したら、結婚が成り立たないのです。
サラリーマンであれば、例えば会社を午後5時に引けた後 、夜はどこかの飲み屋でアルバイトをする、というようなこともでき るわけですが、
このことは、どちらかを選ばなければならないときに 、はっきりするのです。昔ある友人が、同時に二人の女性に結婚を申 し込みました。「数を打てば当たる」ということでしょうか 。私はそれを聞いて、「あほか」と言いました。そんなことを知れば 、どちらの女性も去っていくでしょう。
つきつめて言えば、神が本当の主人であるのか、それともお金が本当 の主人であるのか、ということです。言葉を変えて言えば、 「私を食べさせてくれるのは、神さまなのか、それともお金なのか ?」、どちらなのか、という問いです。
私たちはなんと答えるでしょうか? 「背に腹は代えられない」と言うでしょうか? 「神さまというのは、単に精神的慰めを与えてくれるだけで 、食わしてくれたり現実に奇跡を起こして助けてくれるわけではない 」と言うのでしょうか? もしそうだとしたら、私たちの神さまというのは、信じていても仕方 がない神さまです。私たちは、そんな神さまのために 、貴重な時間を割いて礼拝したり献金をささげたりするのではありま せん。
しかし私たちが今ここにこのように来て、礼拝をし、献金をささげ 、また日々御言葉を読んで、主イエスの御心に生きるようになりたい と願うのは、私たちの神さまが聖書に記されているとおり今も生きて 働いていてくださる神さまだからではないでしょうか。主イエス ・キリストの父なる神さまこそ、真の神さまであり 、私たちの主人だと信じるからではないでしょうか。
キリストを信じるということは、キリストの奴隷となることです 。他の言葉で言えば、「キリストの僕」となることです 。キリストが主人であり、私たちがその僕です。
12 per annum
年間 第十二月曜日
「まず自分の目から丸太を取り除け」
マタイ7・1-5
私たちには、この世のことも神の世のことも見えないくせに、人の欠点だけはよく見えるのです。いや、よく見えると思っているのです。それも小さなおが屑(くず) はよく見えるのですが、自分のことはさっぱり見えていないのです。しかも、見えていないということも見えていないのです。ですから親切らしく「兄弟よ、あなたの目のチリを取らせてください」などと言うのです。何という思いあがりでしょう。いかにも兄弟思いのように見えますが、じつは自分のほうがずっと上等な人間だと思いこんでいるのです。その丸太のように太くて大きい傲慢が、自分にはちっとも見えないのです。
心やさしく、へりくだっているイエス様の弟子になって学ぶ必要があるでしょう。装(およそ)った思いやりの裏にひそむ、丸太のような思いあがり、肥大したエゴイズムが見えてくるでしょう。心のおごりを捨て、神の前にへりくだった時、エゴのくもりのない目で、ありのままの兄弟を見ることができ、チリ、おが屑などを取り除くこともできるようになるのです。(静)
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ある本に、あなたがいま刑務所に入っていないとすれば、それは刑務所に入っている人のような試練,試みにあわなかっただけである。そういう試みにあなたもあえば、同じことをするだろう。あなたはそういうことから守られていただけであるということが書いてあった。 私たちは人を殺したり、物を盗んだりすることはなかった。しかし、極限の状況に立たされると、はたしてどんな生き方をしただろうかといいことを考えるなら、けっして自信のあるようなことは言えない。そういう意味で、自分の弱さを忘れたり、自分が棚上げになってはだめだと思う。そういう弱い自分を忘れた信仰、変革は、実のない殻のようなものだと思う。仮に人に注意する場合でも、弱さをもった者の悲しみを負いながらその人に話すことが大事である。(榎本)
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あなたが人を扱うのと同じ基準で、神はあなたを扱われる‥‥!
主イエスは言われました、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(1~2節)
この言葉は、一見、ことわざのような教訓を言っているように聞こえます。「口は災いのもと」というような教訓です。人のことを悪く言えば、自分も悪く言われる‥‥何となく常識的に分かるような気がします。
しかしここではそれ以上のことです。つまり、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ」‥‥というのは、誰か他人からさばかれると言うよりも、父なる神さまからさばかれるということだからです。ジョン・ウェスレーはこのように言っています=「おそるべきことば。神がきびしいか、あわれみ深くあるかは、いわば、私たちは自分で選ぶのだ。」‥‥つまり、私たちがさばくその相手に向ける厳しい目、厳しい言葉、非難する基準‥‥その同じ基準で私たちは神さまからさばかれるというのです。私たちがある人の過ちを赦さないで厳しくさばけば、神さまもまた私たちの過ちを見逃さないで厳しくさばかれる‥‥そういうことになります。
これはひどいことです。神さまからそのように扱われては、たまったものではありません。神さまが祝福と言うよりは、重荷になってしまいます。つまり、このイエスさまの言葉は、単なる人生訓や教訓を説いているのではありません。この世で生きていくための知恵を語っているのではないのです。神さまとの関係で、神さまの与える祝福や平安といった賜物を受けるために、そして神さまの御心に従って生きるための道を語っておられるのです。
おが屑ならば風が吹いてほこりが舞って、目に入ることはあるでしょう。しかしいくら何でも、丸太が目に入るわけがない。大きすぎます。その入るはずのない丸太が目に入っている。‥‥つまりこのたとえは、相手の過ちが「おが屑」だとすると、あなたの過ちは「丸太」ほども大きいのだということです。
そうすると少し不思議な感じがします。‥‥これはお互いに、自分の罪が「丸太」で、相手の罪が「おが屑」だということなのでしょうか。「そのぐらいに思っていればいいのだ。本当はお互い同じぐらいの罪なのだけれども、相手よりも自分の罪のほうが大きい、というように考えておけばうまく行くのだ」ということなのでしょうか。
そうするとこれはまた、単なる処世訓、道徳というようなことになってしまいます。たしかに、人間というものは自分には甘いが、人には厳しいものです。‥‥誰かが自分の悪口を陰で言っていると知れば、烈火のごとく怒るのに、自分は平気で人の悪口を言う、というのが人間です。だから、人に対してよりも自分に対してひどく厳しくするぐらいでちょうどよいのだ、と考えれば、このイエスさまの言い方も分かるような気がします。しかしそれでは、変でしょう。なぜなら、イエスさまは大げさを言うような方ではありませんし、イエスさまは真実を語る方だからです。(nibanmati)
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人を裁きたくなる時、人の目の中のおがくずが気になる時、その時こそ立ち止まり、その気持ちが私の心の内のどこからくるのか、確かめる必要があります。それは自分の力を振りかざす、傲慢で愚かな自己中心的な力によるものでしょう。私達人間は誰でもこの偽善者の傾向を持っています。偽善者である部分に気付き、それを素直に認める時、御父の豊かな愛を実感することができます。そして私の内の御父とつながる良心が、少しずつ見えてくるのではないでしょうか。
主よ、今日も人々の関わりの中で示されるあなたの愛を実感し、私の内の良心を成長させることができますように。(sese)
年間 第十二火曜日
「狭い門から入りなさい」
マタイ7・6、12-14
神を本気で信じていくとき、道は広くない。わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命に通じる道に行くことはできない。神はないかもわからない、なくて
もよいではないか、と周りの人々から言われる。私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことが大事である。その道を見いだす人は少ない。そこに信仰者の闘いがある。同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けるかも知れない、信じない人から迫害、敵意などを受けることがある。
そういうせっぱ詰まった中で生きていかなければならない。しかし、どんなに厳しい道であろうと。「主はわたしの牧者、私は欠けることがない」(詩篇23・1)と歌うことができるのである。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、険しい道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の牧場をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかる。広いところにいたらそのことはわからない。狭い門から入ってはじめてわかるのである。(榎本)
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一般社会では、「狭い門」ということば、新聞などでは受験の競争率が激しいことに対して用いられている。しかし、イエスが用いた本来の意味では、「それを見出す者は少ない」(14)ということばからわかるように、だれもが殺到するのとは逆に人目に付かないような小さな門のことだと言われている。
当時のユダヤ人は、イエスが語った、悔い改めと信仰によって救われるという福音などは、あまり人々の注目を引くことがなかった。それに対してほとんどの人はこの世的な力、勢力に期待を寄せていた。その道は大勢の人々が行きますので「広い道」、「大きい門」でした。それは「滅びに至る」道であった。しかし、この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに多いのです。(山口)
人々はキラキラと輝くものに引かれ、そのトリコになりやすい。ところが本当に価値あるものが、小さなもの、地道のもの、謙虚なものにあるかもしれない。「人々がほしがるものは、少ない人々(エリート)によってしか所有されえないようなもの、それは分配されれば、価値が減ってしまいます。さらに持っている部分を楽しむことによって満足させるよりも、持っていない部分が欠けていることによって、いっそう悲しみをおぼえるのです。でも、本当に価値あるのものは、減ったりしないで、羨望も伴わない、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反して失うことのできないようなものでなければならない」(パスカル、425)。
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天国にはいり、また神さまにお会いしたいのだけれども、それは難しくて、人よりも厳しい修行をしなければ入ることができない、多くの善行を積まなければならない、そうでなければ入れない、だから狭い門である、ということなのでしょうか?
イエスさまは、すべての人が救われるために十字架におかかりになったのです。一部のエリートだけが救われるのではないはずです。どんな罪人でも、救われる。天の神にお会いすることが出きる。それがイエスさまの十字架です。ですから、イエスさまの門は、本当は「広い門」のはずです。
ところがここでは、「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。 例えば、園田教会の門の前で毎日たくさんの人々が通っています。
ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思っているでしょう。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。(nibanmati) 日常の雑多な出来事の中から狭い門を見いだすことのできる恵みを願います。
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今週はアブラハムの物語が朗読されます。今日の箇所をはじめて聞く人はどのような印象を受けるでしょうか。アブラハムは神から土地をもらったり、子孫をもらったりして、なんだか「神頼み」のような生き方をしていたのか。現代人は「神頼み」的な生き方を嫌うでしょう。自分の力でお金を稼いで生活するのは、常識でしょう。自分を支えることのできない弱い者がいれば、ちゃんと税金を集めて福祉事業で対応する、と。神はいらない。これは神なき自力主義になります。アブラハムは決して「神頼み」に生きた人物ではない。自分の力で頑張ったひとでした。かといって、自力主義でもなかった。自分は頑張れる力は神からの贈り物ですから。アブラハムは、「神頼み」でもない、自力主義でもない、それとは別の道、信仰の道をはじめて見つけたのです。
年間 第十二水曜日
「偽預言者を警戒しなさい」
マタイ7・15-20
イソップ物語には「烏とキツネ」という話しがあります。「或る烏がおいしい肉を盗んで木の上にとまりました。キツネが彼を見て、その肉を盗んでやろうと思って、烏のカッコがよくて美しいとほめました。その上、烏どものうちで一番で彼が王様になるにふさわしい、そしてもし彼が声をもっていたら、きっとそうなることだろうけれども、というふうにほめました。そして、烏は声ももっていることをキツネに見せてやろうと思って、肉を離して大きな声で鳴きました。キツネは駈け寄って、その肉を盗んで逃げました」と。「この話しは、考えない人によく向きます」と書いてあります。
この話しを、政治、経済に当てはめて見るとどうなるでしょうか。政治家や経済人の言葉や約束ではなく、その実から判断すべきです、とイエスは教えます。クスグッタイことを言われると人間はそれらを表どうりに信じてしまいます。しかし、クスグッタイことを言うのは、まさに偽預言者なのです。
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本物とにせ者を見分ける目安は、その人が、人々をイエスさまという良い木に結びつけようとしているのか違うのか、という点です。‥‥ここではイエスさまが語られた教えと異なることなく、イエスさまを指し示し、人々をイエスさまのほうへ導くのであれば預言者です。しかし、そこを少しはずれて、人間のほうへ、その人自身へ結びつけようとするならば、本物ではありません。神さまと私たちの間をとりなすのは、イエスさま以外にはいないのです。私たちは、イエスさまにつながらなければなりません。私たちのために命を捨てて愛してくださったのはイエスさまなのです。
「上手な説教」というものは、なんの意味もありません。いくら話が上手であっても、それが良い木であるイエスさまへとつなげることができなかったとしたら、その説教は失敗です。説教によって自分を高めたりしてしまうならば、それは人々をイエスさまにつないだのではなく、自分につないだことになる。そんな木は、切り倒されて火に投げ込まれるのです。 nibanmati
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私の実であるわたしの行動、言葉、思いはどんな実でしょうか。良い実を実らせているつもりでも
羊の皮をかぶった偽預言者からのものかもしれません。 イエスは私達に「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と自分の生活の振り返りを勧めています。今日私がとった行動、言葉、思いは良い木につながっていたでしょうか?私の律法ではなく聖霊の導きによってゆっくり振り返ってみるように招かれます。
主よ、私に良い木を見分けるための真の知恵と真の自由をお与えください。今日もぶどうの木であるイエスにつながり、良い実を結ぶことができますように。sese
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モーセは不信仰のため約束の地に入れなかった。ダビデは部下の妻を奪い、部下自身を殺させた。ヤコブは父親をだました。そして、今日の第一朗読のアブラハムはそばめを持ったいた。このように、聖書の偉大な人物は道徳的にちょっとかけているように、不完全なまま描かれている(J.Ratzinger, Truth and Tolerance, Ignatius, 2003 参照 )。他の宗教の創立者と比べて、例えばお釈迦様はよく断食し、瞑想を行います。孔子は礼儀正しさと知恵を追求しますが、聖書の人物は完璧な人間には見えない。アブラハムは断食もしないし、どろどろとした現実の中で生きています。ここに、大事なメッセージが含まれています。つまり、不完全で弱い人間に人間からではない力が働いてることが明らかにされるのです。
パウロは言うように(2コリ4・7)、「私たちはこのような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。
年間 第十二木曜日
マタイ7・21-29
自分の業績、今までしてきた仕事を誇ることが当然の気持ちでしょうが、主のみ名のために働いたとは思っても、もしかしたら私の名のために働いたのかもしれません、と思うのが信仰の素直な気持ちなのです。恥ずかしげもなく「主のみ名によって」と連発できるものではないはずです。
人がもし本当に神を愛していれば、あれもこれもしました、とは言えないはずです。あれもこれもしなかった、これもあれもしたかったのに…と考えるでしょう。したことを数え立てるより、できなかったことを数え立てるでしょう。だからといって信仰生活は 根暗(ねくら、卑屈)な生き方ではありません。
愛しているからこそ、足らなかった、十分ではなかったと思うのです。それは自分が行ったことの数よりも、相手の重大さを考えているからです。
もう一つの側面。私があれをした、これをしたと考えるのは、あくまでも自己中心です。しかし、ああもこうもしてあげたかったと考える時は、相手を中心に考えている時です。
相手の価値を高く見積もれば見積もるほど、自分の行いの不足を感じさせられるのです(ピリピ2:3 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」)。これは自分中心に、自分はこんなこともあんなこともできたのに‥‥と考えていることとは違います。あれをしてもこれをしても、どんなことをしても十分とはけっして思えない、これは愛の現れなのです。たとえ色々なことをしたとしても「やるべきことをした取るに足りないしもべ」(ルカ17・10)であると思えるのです。(静)
年間 第十二金曜日
「御心ならば」
マタイ8・1-4
この人には、人に言えない多くの苦しみがあったでしょう。人のことを考える余裕はまったくなく、ただ自分の不幸な状態を嘆いたでしょう。そしてだれ一人、この惨めさから自分を救ってくれる人はいないのです。
しかし彼がイエス様に出合った時、ぶしつけに「直してください」と自分の願望をイエスに押し付けるようなことはせず、「みこころならば、私を直してください」大変ひかえめに願っています。
どうしても治りたい、とせつないほど思っていたはずです。本当は、ぜひ、ぜひ清くしていただきたい。でもそれはあなたのお望みしだいです、と。イエス様の自由を尊重しています。
彼はどこまでも謙虚であった。自分の意志よりも、神のみこころを第一にしたのである。これが普通の御利益信仰とは異なるところである。この人の祈りは、キリスト者として完璧で、すごい成熟度を示しています。
「直してくれれば信じるが、そうでなければ信じない」と言うのとは根本的に違います。彼は「心の貧しい人」であった。そのうえ、彼は「私をきよめることがおできになります」と、イエスのメシヤとしてのカを認め、信じていたのである。
イエスは彼の信仰を認めて、彼にさわられた。らい病は汚れた病気で、その病人にさわる人も汚れると考えられていた。しかも、さわると感染するとされていた。しかしイエスは、そんなことには少しもこだわらずに彼にさわったのである。ここに、自分のことは顧みず、人々から見捨てられて孤独な生活を送っている人を救おうという、イエスの愛と情熱が示されている。(静、山口)
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イエスに従った大勢の人たちは、イエスが自分の望みをかなえてくれたり、社会に大きな変化をもたらしてくれるのではないかと思っていたのではないでしょうか。しかしこの重い皮膚病の人は「主よ、御心ならば」と言います。彼は自分の望みと神の望みは必ずしも同じではないことを知っています。
また「治してください」ではなく「清くすることがおできになります」とも言います。患っている病を治してもらうだけではなく、私そのものを清めてほしい と言っているのではないでしょうか。彼は罪深い自分を知っています。そして主は自分を愛し養ってくれていることも知っています。
主よ苦しみ、悲しみの時もあなたの計らいの内にあることを知る恵みを願います。今日も謙虚に祈り、あなたの愛の内に生きることができますように。(sese)
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アブラハムは99歳のときに、やっと子供を授けられました。99という数字ですが、これは4千年前のことですから、おそらく違う数え方(数え年ではないが)があったでしょう。また、99歳で子供を生むというのは、人間にできることではないので、マリアへのお告げのような意味合いがあるでしょう。
とにかく、99歳の老人に向って「全き者であれ」とはちょっときつい言葉のように思われます。しかし、神とはこのように、どのような人に対しても大きな期待をかけておられる方です。私は年寄りだから、私はまだ若者にすぎないから(エレミヤ)、私は口の重い人間だから(出エジプト4・10)、私は忙しいから(ルカ14・15以下)と、私たちは自分の状態に固執(こしゅう)しやすい。
しかし主はただアブラハムに求めるだけではない。主は、彼に向って「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と求める前に、「私は全能の神である」と宣言しておられる。アブラハムもこの主にあってはじめて全き者となり得るのです。人は皆この全能の主にあってこの偉大な力によって強くされるのです(エフェソ6・10)。その全き歩みもまた主からいただくのです。
今の教会には高齢者が多いのですが、その中で家族、教会、地域のために献身的に尽くしておられる方は少なくないのです。そして、神よりの豊かな慰めといたわりをうけています。その姿はまことに美しいものです。
私たちも、どんな状態であろうとも、アブラハムの子孫としてその栄光にあずかることがゆるされるのです。信仰とは神によって神に生きることです。
年間 第十二土曜日
「ただ、一言おっしゃってください」
マタイ8・5-17
フィリピンのルパング島に三十年間いた小野田(イチロウ)さんは、戦争が終わっても、世界の情勢が変わろうと、新聞を見ようと、父親が来ようと、上官の命令がなければ隠れる所から出てこなかった。私は、この小野田さんのことから言葉の力というものを感じさせられます。あの人は上官の命令をまともに聞いた。そのまともさが小野田さんのすべてであった。上官の命令がなければ、動かないのが部下の姿である。信仰者はそのことから学ぶことができると思います。まともさということは、言葉をかえて言えば、忠実、真実ということである。信仰とは、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信親していくことである。
百人隊長は、ローマ軍の軍人であったが、単に権力を振り回して部下を屈服させていたのではないことがわかります。上から与えられる自分の権威を知り、一番上にある神の権威に気づいているのです(「上には上がある」という言い方があるように)。人は自分の性格、文化を通して神に出会います。イエスはこの外国の軍人の心にふれたように、すべての文化と全ての人の心にふれる力をもっています。
「あなたにはできないことはありません。たとえ、この現実がどんなに難しくても、また人の力でどうすることもできないほど不自由な状態になっていても、あなたの言葉には不可能はありません。ただお言葉だけでけっこうです」という百人隊長の言葉の故に、イエスは「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。イエスが私たちに求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、神の言葉にまともに生きていくかということです。(榎本)
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百人隊長は、大勢の僕の中の一人がどんな状況かよく知っており、その一人のために自分自身で主に懇願しに行きます。主のみ前における自分の貧しさを自覚しながら、主の権威がどこまでも及ぶことに信頼して寄り頼みます。イエスはこれに対して、「これほどの信仰を見たことがない」と言われます。私達は一人の苦しむ人のために、今すぐ一人で行動できるでしょうか。この百人隊長のように主に懇願することはできそうです。
この地球上には苦しむ人がたくさんいます。その人たちのために祈ること、遠く離れていても主の権威が及ぶことに信頼し、癒しを願うことは今すぐに私一人でもできます。主は私に「あなたが信じたとおりになるように」と言っておられます。
「まず自分の目から丸太を取り除け」
マタイ7・1-5
私たちには、この世のことも神の世のことも見えないくせに、人の欠点だけはよく見えるのです。いや、よく見えると思っているのです。それも小さなおが屑(くず) はよく見えるのですが、自分のことはさっぱり見えていないのです。しかも、見えていないということも見えていないのです。ですから親切らしく「兄弟よ、あなたの目のチリを取らせてください」などと言うのです。何という思いあがりでしょう。いかにも兄弟思いのように見えますが、じつは自分のほうがずっと上等な人間だと思いこんでいるのです。その丸太のように太くて大きい傲慢が、自分にはちっとも見えないのです。
心やさしく、へりくだっているイエス様の弟子になって学ぶ必要があるでしょう。装(およそ)った思いやりの裏にひそむ、丸太のような思いあがり、肥大したエゴイズムが見えてくるでしょう。心のおごりを捨て、神の前にへりくだった時、エゴのくもりのない目で、ありのままの兄弟を見ることができ、チリ、おが屑などを取り除くこともできるようになるのです。(静)
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ある本に、あなたがいま刑務所に入っていないとすれば、それは刑務所に入っている人のような試練,試みにあわなかっただけである。そういう試みにあなたもあえば、同じことをするだろう。あなたはそういうことから守られていただけであるということが書いてあった。 私たちは人を殺したり、物を盗んだりすることはなかった。しかし、極限の状況に立たされると、はたしてどんな生き方をしただろうかといいことを考えるなら、けっして自信のあるようなことは言えない。そういう意味で、自分の弱さを忘れたり、自分が棚上げになってはだめだと思う。そういう弱い自分を忘れた信仰、変革は、実のない殻のようなものだと思う。仮に人に注意する場合でも、弱さをもった者の悲しみを負いながらその人に話すことが大事である。(榎本)
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あなたが人を扱うのと同じ基準で、神はあなたを扱われる‥‥!
主イエスは言われました、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(1~2節)
この言葉は、一見、ことわざのような教訓を言っているように聞こえます。「口は災いのもと」というような教訓です。人のことを悪く言えば、自分も悪く言われる‥‥何となく常識的に分かるような気がします。
しかしここではそれ以上のことです。つまり、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ」‥‥というのは、誰か他人からさばかれると言うよりも、父なる神さまからさばかれるということだからです。ジョン・ウェスレーはこのように言っています=「おそるべきことば。神がきびしいか、あわれみ深くあるかは、いわば、私たちは自分で選ぶのだ。」‥‥つまり、私たちがさばくその相手に向ける厳しい目、厳しい言葉、非難する基準‥‥その同じ基準で私たちは神さまからさばかれるというのです。私たちがある人の過ちを赦さないで厳しくさばけば、神さまもまた私たちの過ちを見逃さないで厳しくさばかれる‥‥そういうことになります。
これはひどいことです。神さまからそのように扱われては、たまったものではありません。神さまが祝福と言うよりは、重荷になってしまいます。つまり、このイエスさまの言葉は、単なる人生訓や教訓を説いているのではありません。この世で生きていくための知恵を語っているのではないのです。神さまとの関係で、神さまの与える祝福や平安といった賜物を受けるために、そして神さまの御心に従って生きるための道を語っておられるのです。
おが屑ならば風が吹いてほこりが舞って、目に入ることはあるでしょう。しかしいくら何でも、丸太が目に入るわけがない。大きすぎます。その入るはずのない丸太が目に入っている。‥‥つまりこのたとえは、相手の過ちが「おが屑」だとすると、あなたの過ちは「丸太」ほども大きいのだということです。
そうすると少し不思議な感じがします。‥‥これはお互いに、自分の罪が「丸太」で、相手の罪が「おが屑」だということなのでしょうか。「そのぐらいに思っていればいいのだ。本当はお互い同じぐらいの罪なのだけれども、相手よりも自分の罪のほうが大きい、というように考えておけばうまく行くのだ」ということなのでしょうか。
そうするとこれはまた、単なる処世訓、道徳というようなことになってしまいます。たしかに、人間というものは自分には甘いが、人には厳しいものです。‥‥誰かが自分の悪口を陰で言っていると知れば、烈火のごとく怒るのに、自分は平気で人の悪口を言う、というのが人間です。だから、人に対してよりも自分に対してひどく厳しくするぐらいでちょうどよいのだ、と考えれば、このイエスさまの言い方も分かるような気がします。しかしそれでは、変でしょう。なぜなら、イエスさまは大げさを言うような方ではありませんし、イエスさまは真実を語る方だからです。(nibanmati)
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人を裁きたくなる時、人の目の中のおがくずが気になる時、その時こそ立ち止まり、その気持ちが私の心の内のどこからくるのか、確かめる必要があります。それは自分の力を振りかざす、傲慢で愚かな自己中心的な力によるものでしょう。私達人間は誰でもこの偽善者の傾向を持っています。偽善者である部分に気付き、それを素直に認める時、御父の豊かな愛を実感することができます。そして私の内の御父とつながる良心が、少しずつ見えてくるのではないでしょうか。
主よ、今日も人々の関わりの中で示されるあなたの愛を実感し、私の内の良心を成長させることができますように。(sese)
年間 第十二火曜日
「狭い門から入りなさい」
マタイ7・6、12-14
神を本気で信じていくとき、道は広くない。わいわい騒いでいる人たちといっしょに行きたいと思っていたのでは、命に通じる道に行くことはできない。神はないかもわからない、なくて
もよいではないか、と周りの人々から言われる。私はそれでも神を信じて生きるのであると、神にいっさいをささげ、生涯をかけていくことが大事である。その道を見いだす人は少ない。そこに信仰者の闘いがある。同じ信仰者からも批判、誤解、嫉妬、排斥などを受けるかも知れない、信じない人から迫害、敵意などを受けることがある。
そういうせっぱ詰まった中で生きていかなければならない。しかし、どんなに厳しい道であろうと。「主はわたしの牧者、私は欠けることがない」(詩篇23・1)と歌うことができるのである。
平坦な道を行っているとき、羊飼いは何もしないが、険しい道になれば彼は一匹ずつ抱いて広いところへ連れていく。草原がなくなれば必死になって緑の牧場をさがし、水ぎわに羊たちを連れていく。そのとき、羊飼いがどのように私のことを思っていてくれるかがわかる。広いところにいたらそのことはわからない。狭い門から入ってはじめてわかるのである。(榎本)
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一般社会では、「狭い門」ということば、新聞などでは受験の競争率が激しいことに対して用いられている。しかし、イエスが用いた本来の意味では、「それを見出す者は少ない」(14)ということばからわかるように、だれもが殺到するのとは逆に人目に付かないような小さな門のことだと言われている。
当時のユダヤ人は、イエスが語った、悔い改めと信仰によって救われるという福音などは、あまり人々の注目を引くことがなかった。それに対してほとんどの人はこの世的な力、勢力に期待を寄せていた。その道は大勢の人々が行きますので「広い道」、「大きい門」でした。それは「滅びに至る」道であった。しかし、この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに多いのです。(山口)
人々はキラキラと輝くものに引かれ、そのトリコになりやすい。ところが本当に価値あるものが、小さなもの、地道のもの、謙虚なものにあるかもしれない。「人々がほしがるものは、少ない人々(エリート)によってしか所有されえないようなもの、それは分配されれば、価値が減ってしまいます。さらに持っている部分を楽しむことによって満足させるよりも、持っていない部分が欠けていることによって、いっそう悲しみをおぼえるのです。でも、本当に価値あるのものは、減ったりしないで、羨望も伴わない、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反して失うことのできないようなものでなければならない」(パスカル、425)。
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天国にはいり、また神さまにお会いしたいのだけれども、それは難しくて、人よりも厳しい修行をしなければ入ることができない、多くの善行を積まなければならない、そうでなければ入れない、だから狭い門である、ということなのでしょうか?
イエスさまは、すべての人が救われるために十字架におかかりになったのです。一部のエリートだけが救われるのではないはずです。どんな罪人でも、救われる。天の神にお会いすることが出きる。それがイエスさまの十字架です。ですから、イエスさまの門は、本当は「広い門」のはずです。
ところがここでは、「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。 例えば、園田教会の門の前で毎日たくさんの人々が通っています。
ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思っているでしょう。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。(nibanmati) 日常の雑多な出来事の中から狭い門を見いだすことのできる恵みを願います。
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今週はアブラハムの物語が朗読されます。今日の箇所をはじめて聞く人はどのような印象を受けるでしょうか。アブラハムは神から土地をもらったり、子孫をもらったりして、なんだか「神頼み」のような生き方をしていたのか。現代人は「神頼み」的な生き方を嫌うでしょう。自分の力でお金を稼いで生活するのは、常識でしょう。自分を支えることのできない弱い者がいれば、ちゃんと税金を集めて福祉事業で対応する、と。神はいらない。これは神なき自力主義になります。アブラハムは決して「神頼み」に生きた人物ではない。自分の力で頑張ったひとでした。かといって、自力主義でもなかった。自分は頑張れる力は神からの贈り物ですから。アブラハムは、「神頼み」でもない、自力主義でもない、それとは別の道、信仰の道をはじめて見つけたのです。
恵みはものではない。人間のいのちが変わることを意味します。恵みは神の賜物であるが、これは人間のいのちという賜物とはまた異なるものです。それは神がご自身を人間に与えることであり、それによって人は神を知り、愛することができるようになる。
年間 第十二水曜日
「偽預言者を警戒しなさい」
マタイ7・15-20
イソップ物語には「烏とキツネ」という話しがあります。「或る烏がおいしい肉を盗んで木の上にとまりました。キツネが彼を見て、その肉を盗んでやろうと思って、烏のカッコがよくて美しいとほめました。その上、烏どものうちで一番で彼が王様になるにふさわしい、そしてもし彼が声をもっていたら、きっとそうなることだろうけれども、というふうにほめました。そして、烏は声ももっていることをキツネに見せてやろうと思って、肉を離して大きな声で鳴きました。キツネは駈け寄って、その肉を盗んで逃げました」と。「この話しは、考えない人によく向きます」と書いてあります。
この話しを、政治、経済に当てはめて見るとどうなるでしょうか。政治家や経済人の言葉や約束ではなく、その実から判断すべきです、とイエスは教えます。クスグッタイことを言われると人間はそれらを表どうりに信じてしまいます。しかし、クスグッタイことを言うのは、まさに偽預言者なのです。
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本物とにせ者を見分ける目安は、その人が、人々をイエスさまという良い木に結びつけようとしているのか違うのか、という点です。‥‥ここではイエスさまが語られた教えと異なることなく、イエスさまを指し示し、人々をイエスさまのほうへ導くのであれば預言者です。しかし、そこを少しはずれて、人間のほうへ、その人自身へ結びつけようとするならば、本物ではありません。神さまと私たちの間をとりなすのは、イエスさま以外にはいないのです。私たちは、イエスさまにつながらなければなりません。私たちのために命を捨てて愛してくださったのはイエスさまなのです。
「上手な説教」というものは、なんの意味もありません。いくら話が上手であっても、それが良い木であるイエスさまへとつなげることができなかったとしたら、その説教は失敗です。説教によって自分を高めたりしてしまうならば、それは人々をイエスさまにつないだのではなく、自分につないだことになる。そんな木は、切り倒されて火に投げ込まれるのです。 nibanmati
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私の実であるわたしの行動、言葉、思いはどんな実でしょうか。良い実を実らせているつもりでも
羊の皮をかぶった偽預言者からのものかもしれません。 イエスは私達に「あなたがたはその実で彼らを見分ける」と自分の生活の振り返りを勧めています。今日私がとった行動、言葉、思いは良い木につながっていたでしょうか?私の律法ではなく聖霊の導きによってゆっくり振り返ってみるように招かれます。
主よ、私に良い木を見分けるための真の知恵と真の自由をお与えください。今日もぶどうの木であるイエスにつながり、良い実を結ぶことができますように。sese
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モーセは不信仰のため約束の地に入れなかった。ダビデは部下の妻を奪い、部下自身を殺させた。ヤコブは父親をだました。そして、今日の第一朗読のアブラハムはそばめを持ったいた。このように、聖書の偉大な人物は道徳的にちょっとかけているように、不完全なまま描かれている(J.Ratzinger, Truth and Tolerance, Ignatius, 2003 参照 )。他の宗教の創立者と比べて、例えばお釈迦様はよく断食し、瞑想を行います。孔子は礼儀正しさと知恵を追求しますが、聖書の人物は完璧な人間には見えない。アブラハムは断食もしないし、どろどろとした現実の中で生きています。ここに、大事なメッセージが含まれています。つまり、不完全で弱い人間に人間からではない力が働いてることが明らかにされるのです。
パウロは言うように(2コリ4・7)、「私たちはこのような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。
年間 第十二木曜日
マタイ7・21-29
自分の業績、今までしてきた仕事を誇ることが当然の気持ちでしょうが、主のみ名のために働いたとは思っても、もしかしたら私の名のために働いたのかもしれません、と思うのが信仰の素直な気持ちなのです。恥ずかしげもなく「主のみ名によって」と連発できるものではないはずです。
人がもし本当に神を愛していれば、あれもこれもしました、とは言えないはずです。あれもこれもしなかった、これもあれもしたかったのに…と考えるでしょう。したことを数え立てるより、できなかったことを数え立てるでしょう。だからといって信仰生活は 根暗(ねくら、卑屈)な生き方ではありません。
愛しているからこそ、足らなかった、十分ではなかったと思うのです。それは自分が行ったことの数よりも、相手の重大さを考えているからです。
もう一つの側面。私があれをした、これをしたと考えるのは、あくまでも自己中心です。しかし、ああもこうもしてあげたかったと考える時は、相手を中心に考えている時です。
相手の価値を高く見積もれば見積もるほど、自分の行いの不足を感じさせられるのです(ピリピ2:3 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」)。これは自分中心に、自分はこんなこともあんなこともできたのに‥‥と考えていることとは違います。あれをしてもこれをしても、どんなことをしても十分とはけっして思えない、これは愛の現れなのです。たとえ色々なことをしたとしても「やるべきことをした取るに足りないしもべ」(ルカ17・10)であると思えるのです。(静)
年間 第十二金曜日
「御心ならば」
マタイ8・1-4
この人には、人に言えない多くの苦しみがあったでしょう。人のことを考える余裕はまったくなく、ただ自分の不幸な状態を嘆いたでしょう。そしてだれ一人、この惨めさから自分を救ってくれる人はいないのです。
しかし彼がイエス様に出合った時、ぶしつけに「直してください」と自分の願望をイエスに押し付けるようなことはせず、「みこころならば、私を直してください」大変ひかえめに願っています。
どうしても治りたい、とせつないほど思っていたはずです。本当は、ぜひ、ぜひ清くしていただきたい。でもそれはあなたのお望みしだいです、と。イエス様の自由を尊重しています。
彼はどこまでも謙虚であった。自分の意志よりも、神のみこころを第一にしたのである。これが普通の御利益信仰とは異なるところである。この人の祈りは、キリスト者として完璧で、すごい成熟度を示しています。
「直してくれれば信じるが、そうでなければ信じない」と言うのとは根本的に違います。彼は「心の貧しい人」であった。そのうえ、彼は「私をきよめることがおできになります」と、イエスのメシヤとしてのカを認め、信じていたのである。
イエスは彼の信仰を認めて、彼にさわられた。らい病は汚れた病気で、その病人にさわる人も汚れると考えられていた。しかも、さわると感染するとされていた。しかしイエスは、そんなことには少しもこだわらずに彼にさわったのである。ここに、自分のことは顧みず、人々から見捨てられて孤独な生活を送っている人を救おうという、イエスの愛と情熱が示されている。(静、山口)
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イエスに従った大勢の人たちは、イエスが自分の望みをかなえてくれたり、社会に大きな変化をもたらしてくれるのではないかと思っていたのではないでしょうか。しかしこの重い皮膚病の人は「主よ、御心ならば」と言います。彼は自分の望みと神の望みは必ずしも同じではないことを知っています。
また「治してください」ではなく「清くすることがおできになります」とも言います。患っている病を治してもらうだけではなく、私そのものを清めてほしい と言っているのではないでしょうか。彼は罪深い自分を知っています。そして主は自分を愛し養ってくれていることも知っています。
主よ苦しみ、悲しみの時もあなたの計らいの内にあることを知る恵みを願います。今日も謙虚に祈り、あなたの愛の内に生きることができますように。(sese)
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アブラハムは99歳のときに、やっと子供を授けられました。99という数字ですが、これは4千年前のことですから、おそらく違う数え方(数え年ではないが)があったでしょう。また、99歳で子供を生むというのは、人間にできることではないので、マリアへのお告げのような意味合いがあるでしょう。
とにかく、99歳の老人に向って「全き者であれ」とはちょっときつい言葉のように思われます。しかし、神とはこのように、どのような人に対しても大きな期待をかけておられる方です。私は年寄りだから、私はまだ若者にすぎないから(エレミヤ)、私は口の重い人間だから(出エジプト4・10)、私は忙しいから(ルカ14・15以下)と、私たちは自分の状態に固執(こしゅう)しやすい。
しかし主はただアブラハムに求めるだけではない。主は、彼に向って「あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と求める前に、「私は全能の神である」と宣言しておられる。アブラハムもこの主にあってはじめて全き者となり得るのです。人は皆この全能の主にあってこの偉大な力によって強くされるのです(エフェソ6・10)。その全き歩みもまた主からいただくのです。
今の教会には高齢者が多いのですが、その中で家族、教会、地域のために献身的に尽くしておられる方は少なくないのです。そして、神よりの豊かな慰めといたわりをうけています。その姿はまことに美しいものです。
私たちも、どんな状態であろうとも、アブラハムの子孫としてその栄光にあずかることがゆるされるのです。信仰とは神によって神に生きることです。
年間 第十二土曜日
「ただ、一言おっしゃってください」
マタイ8・5-17
フィリピンのルパング島に三十年間いた小野田(イチロウ)さんは、戦争が終わっても、世界の情勢が変わろうと、新聞を見ようと、父親が来ようと、上官の命令がなければ隠れる所から出てこなかった。私は、この小野田さんのことから言葉の力というものを感じさせられます。あの人は上官の命令をまともに聞いた。そのまともさが小野田さんのすべてであった。上官の命令がなければ、動かないのが部下の姿である。信仰者はそのことから学ぶことができると思います。まともさということは、言葉をかえて言えば、忠実、真実ということである。信仰とは、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信親していくことである。
百人隊長は、ローマ軍の軍人であったが、単に権力を振り回して部下を屈服させていたのではないことがわかります。上から与えられる自分の権威を知り、一番上にある神の権威に気づいているのです(「上には上がある」という言い方があるように)。人は自分の性格、文化を通して神に出会います。イエスはこの外国の軍人の心にふれたように、すべての文化と全ての人の心にふれる力をもっています。
「あなたにはできないことはありません。たとえ、この現実がどんなに難しくても、また人の力でどうすることもできないほど不自由な状態になっていても、あなたの言葉には不可能はありません。ただお言葉だけでけっこうです」という百人隊長の言葉の故に、イエスは「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。イエスが私たちに求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、神の言葉にまともに生きていくかということです。(榎本)
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百人隊長は、大勢の僕の中の一人がどんな状況かよく知っており、その一人のために自分自身で主に懇願しに行きます。主のみ前における自分の貧しさを自覚しながら、主の権威がどこまでも及ぶことに信頼して寄り頼みます。イエスはこれに対して、「これほどの信仰を見たことがない」と言われます。私達は一人の苦しむ人のために、今すぐ一人で行動できるでしょうか。この百人隊長のように主に懇願することはできそうです。
この地球上には苦しむ人がたくさんいます。その人たちのために祈ること、遠く離れていても主の権威が及ぶことに信頼し、癒しを願うことは今すぐに私一人でもできます。主は私に「あなたが信じたとおりになるように」と言っておられます。
13 per annum
年間 第13月
マタイ8・18-22
イエスは「人の子には枕するところもない」と言います。ガリラヤのあちこちを宣教し、ときには野宿することもあったでしょう。私たちは、野宿してでも神の愛を人々に伝えたいという気持ちを持っているでしょうか。イエスのように、福音宣教することで、人から賞賛され、見返りを期待し、安定した生活に、「枕して」いないか振り返ってみたいものです。
主よ、あなたに従うための覚悟を私たちの心に注ぎ込んでください。sese07
年間 第13火
マタイ8, 23-27
別の問題で入院中の旦那さんが認知症と診断されました。奥さんは非常に困っています。確かに、これは準備できることではないし、これからどうなるのか、全く分からない世界、恐ろしい世界が開いてきます。まさに、「主よ、助けてください、おぼれそうです」。
何十年夫婦生活をしてきて、自分の力でできていると思い込んでいるなら、平凡に見える日常の中に、それほど神の助けを自覚していないなら、限界に直面しておびえるしかない。今日の弟子たちのように。イエスは眠っているというのは、実は眠っているのは弟子たちの信仰です。いつも共にいてくださるイエスは、「なぜ怖がるのか」と、たしなめながら、より深い交わりへと招かれる。人は困難に逢うと、必死に神の助けを求める。
「信仰の薄い者よ」‥‥なんというありがたいおことばでしょうか。イエスさまは、「信仰の薄い者よ」とおっしゃって、愛想を尽かして弟子たちを見捨てたのではないのです。信仰の薄い弟子たちのために、起きあがって、助けてくださったのです。すると「信仰の薄い者よ」という言葉は、叱られている言葉ではなく、信仰の薄い私たちをも見捨てないで、救ってくださる、あわれみの言葉となります。感謝ではないですか。
信仰の薄い私たちのために、十字架へと向かって下さる主の姿がここにあります。 (niban)主に委ね、信頼して、常にあなたに助けを求める謙虚さをお与えください。
年間 第13水
マタイ8, 28-34
このことは、その地方に豚の群れが飼われていたことに関連付けられます。豚の群れが飼われているとしたら、普通それは食用肉のためであると考えます。しかし、ユダヤ人はモーセの律法によって、豚を食べることが禁じられていました。このことからも、ユダヤ文化より、シリア系などの異邦人の文化が強い地方であることが理解できます。
強調点
ガダラ人の地方に、凶暴な悪霊つきの男が二人いたということ、また、誰も彼らの居る道を通れない程であったということが一つの強調点と言えます。そのような強力な霊を追い出せるということが、イエスの力や権威の強調になります。
また、この悪霊の追い出しの奇跡では、悪霊が乗り移った豚の群れ全体が湖に駆け下りて溺れ死んだと記されています。たくさんの豚の群れという表現が使われていますが、マルコによる福音書の並行記事では、およそ二千匹という数字が示されています。そのようなたくさんの豚を動かせるということで、いかにその悪霊が強かったかということと、その強い悪霊を追い出したイエスがいかに権威と力有る存在かということが強調されます。
人々の言動でわかること
悪霊につかれていた男達がを使って、悪霊が「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と言わせています。悪霊にはイエスがどのような存在であるかがわかっていたということです。また、イエスに彼らを苦しめるような力や権威が有るということがわかります。
どうしてイエスが悪霊に「行け」と言って許可を与えたかについて、Gillは飼い主がユダヤ人であったら、律法に反して豚を食用に育てていたことへの罰の可能性も有るという見解を示していますが、Barnesなどを読むと、律法は商用の飼育までは禁じおらず、ハスモン朝以前は食べなければ商売として豚を飼育することは許されていたということが書かれています。従って、豚の飼い主がユダヤ人であったか異邦人であったかに関係なく、いかに強い悪霊であったかということと、イエスがそれを追い出すことのできる権威と力の有る神の使者であることを示すためであったと考えるのが良さそうに思います。
町中の人たちが来て、イエスにどうかここから立ち去ってくださいと願ったと書いてあります。Barnesは、豚の損害について文句を言おうとして来たが、イエスを実際に見てその権威ある様子に恐れて、ただ去るように願うしかなかったのではないかというように説明しています。Gillは、その人たちには何かの良心の呵責が有ったので、豚の損害について文句を言わず、もっと酷い災いが来ないように、去るように願ったのではないかという見解を示しています。他の注解では、異教の理解では、奇跡や魔術を行う者が出現すると、その地方には災いが来るということだったので、ユダヤ人的な理解をしてイエスをメシアとして崇めることをせず、去るように願ったのだという見解を示しています。個人的にはこの三つ目の立場がより納得できるように思えます。
マタイは記録していませんが、ルカは、悪霊を追い出してもらった男が、イエスについて行きたいと願ったが許されず、自分の町で神がいかに大きな業をしてくださったかを言い伝えるように命じられたことを記録しています。イエスは異邦人の地方にも、効果的に神の国の到来のメッセージを広げるために、このような方法を用いられたのだと考えられると思います。
今回は、締め括りの言葉などは記録されていません。
この奇跡物語が伝えようとしていること
1)今までの奇跡物語は、病気の癒しの奇跡に中心が有りました。今回は、特に悪霊の事例を示すことによって、病気、疾病という肉体的な問題だけではなく、悪霊という霊的な問題についても力と権威が有ることを示し、イエスが神の使者、救い主であることを示す意図が有ると思われます。
2)また、ガダラ人の地方という、シリア系の人が多い地区での出来事を記録することにより、神の救いの計画は、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも向けられているということを読者に示す意図が有ったと思われます
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最近、報道される殺人事件と重ね合わせて考えて見ると、悪霊にとりつかれた人間は、昔のことではない、他人事でもないことがわかります。
悪霊つきは人間社会から追い出され、人の住まない場所、墓場(はかば)に住んでいます。自分ばかりでなく、人をも傷つけ、不幸に引きずり落とします。人から傷つけられまいとして、孤独のカプセルの中に閉じこもり、人とかかわりがないことを自由だと思ったりします。しかし、その孤独に耐え
られなくなると、人のことなどおかまいなく、自己主張の叫びをあげ、人を支配し、振り回します。悪からの解放は、自我の叫びをやめて、神の言葉に服すことによって始まります。
神の国では、すべての悪霊は裁かれ、無力にされます。そのことがすでにイエスによって始まりました。悪霊は必死の抵抗を試みます。「まだその時ではないのに、しかも、ここ、けがれた異邦人の地に来て、私たちを苦しめようとするのか」。けれども、悪霊は神の言葉によって滅ぼされます。(荒
)神の働きを見たい。しかし、それは、波風が立たない限りにおいて‥‥そのように人は思わないでしょうか。しかしイエスさまはどうでしょうか。イエスさまは、ご自分を求める群衆を湖のあちら側に置いたまま、嵐を超えて、やってきてくださるのです。イエスさまは犠牲を払い、弟子たちを巻き
込んで、嵐の海を乗り越えてやって来られた。それはいったい何のためであったかと言えば、この二人の哀れな男を救うためでした。そしてイエスさまから見たら、豚二千匹よりも、この二人の男のほうが尊かったのです。
これが私たちの主イエス・キリストです。主イエスはこの同じ愛を持って、私たちの一人一人の所に近づいてきてくださるのです。その愛は確かです。主イエスは、最後には十字架でご自分を犠牲にして、私たちを救ってくださったからです。ここに愛があります。この愛に支えられて、日々を歩む
のです。
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今日の福音は私たちを悩ます悪霊について語ります。ある時、自分の生活を振り返り新しい生活を始めようと思っても「あれをやめたら楽しみがなくなる」「あの人が間違っているのであって、自分は正しい」などという思いが私たちの心を混乱させることはないでしょうか。
悪霊たちが、水の中で死んだという表現は、出エジプトでのエジプト軍の全滅や、洗礼での罪のゆるしを思い起こさせます。
悪霊が「神の子、かまわないでくれ。」「ここに来て、我々を苦しめるのか」と叫んだのは、悪の力が、イエスの前では勢いがなくなることを示している。私たちは日々の生活の中で、イエスの存在をどれほど歓迎しているだろうか。祈るための時間はなくても、テレビを見たり遊ぶ時間は十分に(たっぷり)取るなど、もしかしてイエスより悪の力を歓迎しているのではないだろうか。いつも共にいてくださるイエスに、「えらい邪魔だな」と思われるときでも、心を向けることができますように。
年間 第13木
マタイ9・1-8
身体の病を治す医者は社会の中でかなり高い地位をもち、人の命を預かる権威をもっています。
体の病気よりも愛にそむいた罪、心の傷の方は深く、重くて、どこに行っても、いかに時間がたっても消えません。人々の罪を数えることで自分たちを権威付けていた一部の律法学者たちは、イエスが人々の罪を赦すのを見て神への冒涜だと感じます。もし律法に違反した罪が簡単に赦されるのならば、彼らの権威も簡単にゆらいでしまうと思ったのでしょう。律法学者たちは、自分たちこそ神の権威を持ったものであり、イエスではないと言いたかったのでしょう。イエスはその考えを見抜き、本当の権威が誰にあるのかを示されます。わたしたちの中にも、他人を罪に定めて自分を権威付けようとすることはないでしょうか。主よ、あなたは本当の力と赦しを持っておられます。あなたにすべてを差し出し、従うことができますように。
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ダビデはこう祈りました。「詩篇51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎を
ことごとくぬぐってください。 51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」キリストは神の赦しを地上にもたらします。「人の子」イエスは神の栄光と力を示し、天地の創造主のいつくしみにたち戻るように人々を招きます。「天と地のすべての権能は私に与えられた」(マタイ29・18)。罪と病気から回復させる権能は、神にのみ属する権能ですが、復活さ
れた主イエスは、ご自分に与えられた権能を、さらに弟子たちに与えました(マタイ16・19、18・18)。
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安息日に中風の人を癒したイエスをとがめた律法学者のように私たちはなかなか、良い行いをありのままに認めることができない。発言力の弱い人の立場に立つ人を、規則に沿わないとか効率が悪いという理由で社会から排除しがちではないだろうか。
イエスに倣って、真実を見つめる眼差しと、癒しあうことの出来る共同体を作る勇気を与えてください。
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Genesi 22
Il punto più emozionante del dialogo — a cui si aggiunge Dan, un amico giornalista ebreo e ateo — giunge con il disvelamento del sacrificio di Abramo. Al Dio (Elohim, nel testo ebraico) che sembra esibire un’arbitrarietà pu- ra, perché si presenta ad Abramo chiedendogli il sacrificio del fi- glio, si contrappone un altro Dio (Yhwh, nel testo ebraico) che gli trattiene la mano, segnando la fi- ne dei sacrifici cruenti. Tutto l’episodio viene di conseguenza interpretato come una sorta di vaccinazione spirituale, così de- scritta da Simon: «La Genesi racconta che si può arrivare al vero Dio credendo in quello fal- so, e che un po’ alla volta si può passare dal sacrificio assurdo all’alleanza di vita».
un libro della psicanalista francese Marie Bal- mary, uscito nel 2005 (Paris, Éditions Albin Michel) e nel 2008 pubblicato in Italia dalle Paoli ne: Il monaco e la psicanalista.
Osservatore romano 24 agosto 2013
wə·hā·’ĕ·lō·hîm, וְהָ֣אֱלֹהִ֔ים God
mal·’aḵ מַלְאַ֤ךְ the angel Yah·weh יְהוָה֙ of the LORD
創世記 / 22章 1節
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
11:創世記 / 22章 11節
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12: 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
年間 第13金
マタイ9・9-13
「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻るべきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。
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「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスは言われた。私たちの内には、嫌いな人を排斥し、格好よい人を尊敬する傾向があるようですが、イエスの生き方はこれとは正反対で、誰一人として差別することなく、どんな人をも歓迎します。イエスの生き方に倣い、いやな人を受け入れることができるよう導いてください。
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人は誰でも、他人との比較の中で生きています。だから、劣等感は必ずつきまといます。優越感と劣等感は、表裏一体、時には表、時には裏と顔を変え形を変えてて心に現れます。そんな中で、何とかして、自分は自分という誇りと、立ち位置を見つけながら、人は生きているのです。
人は、他人と比べて、劣等感を抱いたり、優越感を抱いたり、他人を差別して自分の立ち位置を確かめたり、敵と味方に分かれて闘ったり、争ったり憎んだり、ドロドロした愛憎の世界を作り出すことように造られているのではありません。
優越感にしがみつくのは傲慢です。けれど、劣等感に閉じこもるのも傲慢です。いずれも、過剰に自我に執着しています。傲慢は病です。魂の病です。だから、私たちも医者を必要としています。
年間 第13土
マタイ9・14-17
イエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に災難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。現代でも、災難で死者がでると、私たちは一分間の黙祷をすることがあります。けれども本当にその人たちの死を悼むのであれば、一分ではなく、一日でも、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食をしたらよいと思います。一分だけでは、ちょっと偽善者のように見えるかもしれない。
とにかく、キリストのもたらした福音はユダヤ教の手直しではなく、仏教の手直しでもなく、日本の伝統的な宗教への継ぎ当てでもなく、「虐げられている人々」の解放運動(解放の神学のLiberation、J.B. Metzの政治神学のEmancipation参照)という政治的プログラムへの付足しでもなく、全く新しいものなのです。
もしかすると、私たちにはその新しさは何なのか、ピンとこないかもしれない。あるいは、若いときにわかった、洗礼を受けた時に分かったが、今はそれを見失ったかもしれない。ですから、新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振る舞い方を選び取っていく、選びなおしていく生き方は、何なのかを知る恵みを願い求めましょう。
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かつて、1970年頃の時代というのがありました。それまでの古い秩序に疑問が出され、学生は教授をつるし上げ、ゲバ棒を持って街頭に繰り出しました。古い価値観が否定され、既成の観念が破壊されることが新しいことだとされました。
そういうとき、キリスト教会もまた大いに揺れました。古い価値観を否定するといった風潮が教会にも流れ込み、それが「聖書を疑う」ということへとつながっていきました。そして、「イエスはキリストではない」とか、「イエスは弱いものと徹底的に連帯して生きた革命家である」というような、イエスさまを、毛沢東やチェ・ゲバラと並べるようなことまで起きました。聖書の中の奇跡を否定し、復活を弟子たちによる作り話だとし、唯物論の影響を受けたものもありました。そして、「復活だ奇跡だということよりも、社会的弱者と連帯して生きたイエスのように行動することがキリスト教だ」と叫ばれました。そういうことが、「新しいこと」とされたのです。そして、牧師という職務を否定したり、礼拝をやめてしまって、会堂でイスを丸く並べて、礼拝の代わりに討論会にしてしまったような教会もあったと聞きます。
こういうことは、「新しい」というものではなく、すべて破壊しただけで、何も生み出すことはできませんでした。その結果、教会は長い混乱の時代に入ってしまい、低迷していきました。宣教とはすべて神の奇跡です。人を主のもとに導くというのは最大の奇跡です。その奇跡を否定してしまった
のですから、宣教になるはずがありません。
ですから、破壊ということと新しくするということとは違うのです。変える必要のないもの、変えてはいけないもの、それは教会にとっては聖書であり、教会の信仰告白であり、イエス・キリストの福音です。
一方、変わっていくものがあるはずです。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編96:1)とありますし、コリントの信徒への第二の手紙5:17には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。神様の恵みはいつも新しいからです。
時々私は、ヨハネの黙示録を引用して、「天国は暇ではない。天国に行っても、ずっと飲んだり食べたり昼寝しているのではない。天国では礼拝をしている」と語ります。確かに黙示録を読むと、神の国では、玉座にいます全能なる神と、その右に座しておられるイエス・キリストを賛美し、礼拝し
ている光景が、何度も繰り返しでてきます。神を賛美し、そして神と小羊なるイエス・キリストから、新しい御言葉が語られる。そこで新しい感動があるのです。だから神の国ではそれこそ、いつも「新しい歌」が歌われるのです。地上の礼拝は天国の礼拝を映し出すものなのです。 そうすると、中には、「天国の礼拝も退屈そうだ。いつも同じ神様が御言葉を語るのでは、飽きてしまうのではないか?」などと思う方もいるでしょう。けれども、そのようなことはないのではないかと思います。なぜなら、神様というのは永遠、無限の方です。いっぽう、わたしたちは宇宙から見たらまったくちっぽけなものです。チリのような存在です。宇宙のこと、また反対に、わたしたちの目の前にある物質がいったいどのようにして成り立っているのか、というミクロのこと、わたしたちはそれすらも分からないのです。ではどうしてそれらを造られた永遠・無限の神様のことを知り尽くすことができるでしょうか? わたしたちは、天国の礼拝においては、いつも神の新しいメッセージに心を新たにされ、新しい歌を歌い、永遠に成長していくのです。神の国においてはさらに変えられ、成長していくのです。退屈なのではない。新鮮な神のメッセージを常に聞くことができる。永遠に新しく変えられていくのです。 神は古くて新しい方である。古いというだけでダメになるのではない。神はもっとも古いお方である。そして神は同時に、もっとも新しいお方でもある。 nibanmati
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福音の新しさ
2コリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
マルコ1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1コリ11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
福音はいつも新しいはずです。よそに新しさを探す必要はないはずです。
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今日のみ言葉で、ぶどう酒は洗礼を通していただく恵み、皮袋は私たちの生き方と考えられます。洗礼を受けた後も、古い生き方にしがみついていると皮袋は破れ、いただいた恵みは無に帰し、神と共に生きるという最高の喜びを見失ってしまうのではないでしょうか。
新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振舞い方を選び取って生きて行くことができますように。
マタイ8・18-22
イエスは「人の子には枕するところもない」と言います。ガリラヤのあちこちを宣教し、ときには野宿することもあったでしょう。私たちは、野宿してでも神の愛を人々に伝えたいという気持ちを持っているでしょうか。イエスのように、福音宣教することで、人から賞賛され、見返りを期待し、安定した生活に、「枕して」いないか振り返ってみたいものです。
主よ、あなたに従うための覚悟を私たちの心に注ぎ込んでください。sese07
年間 第13火
マタイ8, 23-27
別の問題で入院中の旦那さんが認知症と診断されました。奥さんは非常に困っています。確かに、これは準備できることではないし、これからどうなるのか、全く分からない世界、恐ろしい世界が開いてきます。まさに、「主よ、助けてください、おぼれそうです」。
何十年夫婦生活をしてきて、自分の力でできていると思い込んでいるなら、平凡に見える日常の中に、それほど神の助けを自覚していないなら、限界に直面しておびえるしかない。今日の弟子たちのように。イエスは眠っているというのは、実は眠っているのは弟子たちの信仰です。いつも共にいてくださるイエスは、「なぜ怖がるのか」と、たしなめながら、より深い交わりへと招かれる。人は困難に逢うと、必死に神の助けを求める。
「信仰の薄い者よ」‥‥なんというありがたいおことばでしょうか。イエスさまは、「信仰の薄い者よ」とおっしゃって、愛想を尽かして弟子たちを見捨てたのではないのです。信仰の薄い弟子たちのために、起きあがって、助けてくださったのです。すると「信仰の薄い者よ」という言葉は、叱られている言葉ではなく、信仰の薄い私たちをも見捨てないで、救ってくださる、あわれみの言葉となります。感謝ではないですか。
信仰の薄い私たちのために、十字架へと向かって下さる主の姿がここにあります。 (niban)主に委ね、信頼して、常にあなたに助けを求める謙虚さをお与えください。
年間 第13水
マタイ8, 28-34
このことは、その地方に豚の群れが飼われていたことに関連付けられます。豚の群れが飼われているとしたら、普通それは食用肉のためであると考えます。しかし、ユダヤ人はモーセの律法によって、豚を食べることが禁じられていました。このことからも、ユダヤ文化より、シリア系などの異邦人の文化が強い地方であることが理解できます。
強調点
ガダラ人の地方に、凶暴な悪霊つきの男が二人いたということ、また、誰も彼らの居る道を通れない程であったということが一つの強調点と言えます。そのような強力な霊を追い出せるということが、イエスの力や権威の強調になります。
また、この悪霊の追い出しの奇跡では、悪霊が乗り移った豚の群れ全体が湖に駆け下りて溺れ死んだと記されています。たくさんの豚の群れという表現が使われていますが、マルコによる福音書の並行記事では、およそ二千匹という数字が示されています。そのようなたくさんの豚を動かせるということで、いかにその悪霊が強かったかということと、その強い悪霊を追い出したイエスがいかに権威と力有る存在かということが強調されます。
人々の言動でわかること
悪霊につかれていた男達がを使って、悪霊が「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と言わせています。悪霊にはイエスがどのような存在であるかがわかっていたということです。また、イエスに彼らを苦しめるような力や権威が有るということがわかります。
どうしてイエスが悪霊に「行け」と言って許可を与えたかについて、Gillは飼い主がユダヤ人であったら、律法に反して豚を食用に育てていたことへの罰の可能性も有るという見解を示していますが、Barnesなどを読むと、律法は商用の飼育までは禁じおらず、ハスモン朝以前は食べなければ商売として豚を飼育することは許されていたということが書かれています。従って、豚の飼い主がユダヤ人であったか異邦人であったかに関係なく、いかに強い悪霊であったかということと、イエスがそれを追い出すことのできる権威と力の有る神の使者であることを示すためであったと考えるのが良さそうに思います。
町中の人たちが来て、イエスにどうかここから立ち去ってくださいと願ったと書いてあります。Barnesは、豚の損害について文句を言おうとして来たが、イエスを実際に見てその権威ある様子に恐れて、ただ去るように願うしかなかったのではないかというように説明しています。Gillは、その人たちには何かの良心の呵責が有ったので、豚の損害について文句を言わず、もっと酷い災いが来ないように、去るように願ったのではないかという見解を示しています。他の注解では、異教の理解では、奇跡や魔術を行う者が出現すると、その地方には災いが来るということだったので、ユダヤ人的な理解をしてイエスをメシアとして崇めることをせず、去るように願ったのだという見解を示しています。個人的にはこの三つ目の立場がより納得できるように思えます。
マタイは記録していませんが、ルカは、悪霊を追い出してもらった男が、イエスについて行きたいと願ったが許されず、自分の町で神がいかに大きな業をしてくださったかを言い伝えるように命じられたことを記録しています。イエスは異邦人の地方にも、効果的に神の国の到来のメッセージを広げるために、このような方法を用いられたのだと考えられると思います。
今回は、締め括りの言葉などは記録されていません。
この奇跡物語が伝えようとしていること
1)今までの奇跡物語は、病気の癒しの奇跡に中心が有りました。今回は、特に悪霊の事例を示すことによって、病気、疾病という肉体的な問題だけではなく、悪霊という霊的な問題についても力と権威が有ることを示し、イエスが神の使者、救い主であることを示す意図が有ると思われます。
2)また、ガダラ人の地方という、シリア系の人が多い地区での出来事を記録することにより、神の救いの計画は、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも向けられているということを読者に示す意図が有ったと思われます
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最近、報道される殺人事件と重ね合わせて考えて見ると、悪霊にとりつかれた人間は、昔のことではない、他人事でもないことがわかります。
悪霊つきは人間社会から追い出され、人の住まない場所、墓場(はかば)に住んでいます。自分ばかりでなく、人をも傷つけ、不幸に引きずり落とします。人から傷つけられまいとして、孤独のカプセルの中に閉じこもり、人とかかわりがないことを自由だと思ったりします。しかし、その孤独に耐え
られなくなると、人のことなどおかまいなく、自己主張の叫びをあげ、人を支配し、振り回します。悪からの解放は、自我の叫びをやめて、神の言葉に服すことによって始まります。
神の国では、すべての悪霊は裁かれ、無力にされます。そのことがすでにイエスによって始まりました。悪霊は必死の抵抗を試みます。「まだその時ではないのに、しかも、ここ、けがれた異邦人の地に来て、私たちを苦しめようとするのか」。けれども、悪霊は神の言葉によって滅ぼされます。(荒
)神の働きを見たい。しかし、それは、波風が立たない限りにおいて‥‥そのように人は思わないでしょうか。しかしイエスさまはどうでしょうか。イエスさまは、ご自分を求める群衆を湖のあちら側に置いたまま、嵐を超えて、やってきてくださるのです。イエスさまは犠牲を払い、弟子たちを巻き
込んで、嵐の海を乗り越えてやって来られた。それはいったい何のためであったかと言えば、この二人の哀れな男を救うためでした。そしてイエスさまから見たら、豚二千匹よりも、この二人の男のほうが尊かったのです。
これが私たちの主イエス・キリストです。主イエスはこの同じ愛を持って、私たちの一人一人の所に近づいてきてくださるのです。その愛は確かです。主イエスは、最後には十字架でご自分を犠牲にして、私たちを救ってくださったからです。ここに愛があります。この愛に支えられて、日々を歩む
のです。
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今日の福音は私たちを悩ます悪霊について語ります。ある時、自分の生活を振り返り新しい生活を始めようと思っても「あれをやめたら楽しみがなくなる」「あの人が間違っているのであって、自分は正しい」などという思いが私たちの心を混乱させることはないでしょうか。
悪霊たちが、水の中で死んだという表現は、出エジプトでのエジプト軍の全滅や、洗礼での罪のゆるしを思い起こさせます。
悪霊が「神の子、かまわないでくれ。」「ここに来て、我々を苦しめるのか」と叫んだのは、悪の力が、イエスの前では勢いがなくなることを示している。私たちは日々の生活の中で、イエスの存在をどれほど歓迎しているだろうか。祈るための時間はなくても、テレビを見たり遊ぶ時間は十分に(たっぷり)取るなど、もしかしてイエスより悪の力を歓迎しているのではないだろうか。いつも共にいてくださるイエスに、「えらい邪魔だな」と思われるときでも、心を向けることができますように。
年間 第13木
マタイ9・1-8
身体の病を治す医者は社会の中でかなり高い地位をもち、人の命を預かる権威をもっています。
体の病気よりも愛にそむいた罪、心の傷の方は深く、重くて、どこに行っても、いかに時間がたっても消えません。人々の罪を数えることで自分たちを権威付けていた一部の律法学者たちは、イエスが人々の罪を赦すのを見て神への冒涜だと感じます。もし律法に違反した罪が簡単に赦されるのならば、彼らの権威も簡単にゆらいでしまうと思ったのでしょう。律法学者たちは、自分たちこそ神の権威を持ったものであり、イエスではないと言いたかったのでしょう。イエスはその考えを見抜き、本当の権威が誰にあるのかを示されます。わたしたちの中にも、他人を罪に定めて自分を権威付けようとすることはないでしょうか。主よ、あなたは本当の力と赦しを持っておられます。あなたにすべてを差し出し、従うことができますように。
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ダビデはこう祈りました。「詩篇51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎を
ことごとくぬぐってください。 51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」キリストは神の赦しを地上にもたらします。「人の子」イエスは神の栄光と力を示し、天地の創造主のいつくしみにたち戻るように人々を招きます。「天と地のすべての権能は私に与えられた」(マタイ29・18)。罪と病気から回復させる権能は、神にのみ属する権能ですが、復活さ
れた主イエスは、ご自分に与えられた権能を、さらに弟子たちに与えました(マタイ16・19、18・18)。
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安息日に中風の人を癒したイエスをとがめた律法学者のように私たちはなかなか、良い行いをありのままに認めることができない。発言力の弱い人の立場に立つ人を、規則に沿わないとか効率が悪いという理由で社会から排除しがちではないだろうか。
イエスに倣って、真実を見つめる眼差しと、癒しあうことの出来る共同体を作る勇気を与えてください。
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Genesi 22
Il punto più emozionante del dialogo — a cui si aggiunge Dan, un amico giornalista ebreo e ateo — giunge con il disvelamento del sacrificio di Abramo. Al Dio (Elohim, nel testo ebraico) che sembra esibire un’arbitrarietà pu- ra, perché si presenta ad Abramo chiedendogli il sacrificio del fi- glio, si contrappone un altro Dio (Yhwh, nel testo ebraico) che gli trattiene la mano, segnando la fi- ne dei sacrifici cruenti. Tutto l’episodio viene di conseguenza interpretato come una sorta di vaccinazione spirituale, così de- scritta da Simon: «La Genesi racconta che si può arrivare al vero Dio credendo in quello fal- so, e che un po’ alla volta si può passare dal sacrificio assurdo all’alleanza di vita».
un libro della psicanalista francese Marie Bal- mary, uscito nel 2005 (Paris, Éditions Albin Michel) e nel 2008 pubblicato in Italia dalle Paoli ne: Il monaco e la psicanalista.
Osservatore romano 24 agosto 2013
wə·hā·’ĕ·lō·hîm, וְהָ֣אֱלֹהִ֔ים God
mal·’aḵ מַלְאַ֤ךְ the angel Yah·weh יְהוָה֙ of the LORD
創世記 / 22章 1節
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
11:創世記 / 22章 11節
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12: 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
年間 第13金
マタイ9・9-13
「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻るべきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。
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「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスは言われた。私たちの内には、嫌いな人を排斥し、格好よい人を尊敬する傾向があるようですが、イエスの生き方はこれとは正反対で、誰一人として差別することなく、どんな人をも歓迎します。イエスの生き方に倣い、いやな人を受け入れることができるよう導いてください。
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人は誰でも、他人との比較の中で生きています。だから、劣等感は必ずつきまといます。優越感と劣等感は、表裏一体、時には表、時には裏と顔を変え形を変えてて心に現れます。そんな中で、何とかして、自分は自分という誇りと、立ち位置を見つけながら、人は生きているのです。
人は、他人と比べて、劣等感を抱いたり、優越感を抱いたり、他人を差別して自分の立ち位置を確かめたり、敵と味方に分かれて闘ったり、争ったり憎んだり、ドロドロした愛憎の世界を作り出すことように造られているのではありません。
優越感にしがみつくのは傲慢です。けれど、劣等感に閉じこもるのも傲慢です。いずれも、過剰に自我に執着しています。傲慢は病です。魂の病です。だから、私たちも医者を必要としています。
年間 第13土
マタイ9・14-17
イエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に災難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。現代でも、災難で死者がでると、私たちは一分間の黙祷をすることがあります。けれども本当にその人たちの死を悼むのであれば、一分ではなく、一日でも、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食をしたらよいと思います。一分だけでは、ちょっと偽善者のように見えるかもしれない。
とにかく、キリストのもたらした福音はユダヤ教の手直しではなく、仏教の手直しでもなく、日本の伝統的な宗教への継ぎ当てでもなく、「虐げられている人々」の解放運動(解放の神学のLiberation、J.B. Metzの政治神学のEmancipation参照)という政治的プログラムへの付足しでもなく、全く新しいものなのです。
もしかすると、私たちにはその新しさは何なのか、ピンとこないかもしれない。あるいは、若いときにわかった、洗礼を受けた時に分かったが、今はそれを見失ったかもしれない。ですから、新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振る舞い方を選び取っていく、選びなおしていく生き方は、何なのかを知る恵みを願い求めましょう。
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かつて、1970年頃の時代というのがありました。それまでの古い秩序に疑問が出され、学生は教授をつるし上げ、ゲバ棒を持って街頭に繰り出しました。古い価値観が否定され、既成の観念が破壊されることが新しいことだとされました。
そういうとき、キリスト教会もまた大いに揺れました。古い価値観を否定するといった風潮が教会にも流れ込み、それが「聖書を疑う」ということへとつながっていきました。そして、「イエスはキリストではない」とか、「イエスは弱いものと徹底的に連帯して生きた革命家である」というような、イエスさまを、毛沢東やチェ・ゲバラと並べるようなことまで起きました。聖書の中の奇跡を否定し、復活を弟子たちによる作り話だとし、唯物論の影響を受けたものもありました。そして、「復活だ奇跡だということよりも、社会的弱者と連帯して生きたイエスのように行動することがキリスト教だ」と叫ばれました。そういうことが、「新しいこと」とされたのです。そして、牧師という職務を否定したり、礼拝をやめてしまって、会堂でイスを丸く並べて、礼拝の代わりに討論会にしてしまったような教会もあったと聞きます。
こういうことは、「新しい」というものではなく、すべて破壊しただけで、何も生み出すことはできませんでした。その結果、教会は長い混乱の時代に入ってしまい、低迷していきました。宣教とはすべて神の奇跡です。人を主のもとに導くというのは最大の奇跡です。その奇跡を否定してしまった
のですから、宣教になるはずがありません。
ですから、破壊ということと新しくするということとは違うのです。変える必要のないもの、変えてはいけないもの、それは教会にとっては聖書であり、教会の信仰告白であり、イエス・キリストの福音です。
一方、変わっていくものがあるはずです。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編96:1)とありますし、コリントの信徒への第二の手紙5:17には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。神様の恵みはいつも新しいからです。
時々私は、ヨハネの黙示録を引用して、「天国は暇ではない。天国に行っても、ずっと飲んだり食べたり昼寝しているのではない。天国では礼拝をしている」と語ります。確かに黙示録を読むと、神の国では、玉座にいます全能なる神と、その右に座しておられるイエス・キリストを賛美し、礼拝し
ている光景が、何度も繰り返しでてきます。神を賛美し、そして神と小羊なるイエス・キリストから、新しい御言葉が語られる。そこで新しい感動があるのです。だから神の国ではそれこそ、いつも「新しい歌」が歌われるのです。地上の礼拝は天国の礼拝を映し出すものなのです。 そうすると、中には、「天国の礼拝も退屈そうだ。いつも同じ神様が御言葉を語るのでは、飽きてしまうのではないか?」などと思う方もいるでしょう。けれども、そのようなことはないのではないかと思います。なぜなら、神様というのは永遠、無限の方です。いっぽう、わたしたちは宇宙から見たらまったくちっぽけなものです。チリのような存在です。宇宙のこと、また反対に、わたしたちの目の前にある物質がいったいどのようにして成り立っているのか、というミクロのこと、わたしたちはそれすらも分からないのです。ではどうしてそれらを造られた永遠・無限の神様のことを知り尽くすことができるでしょうか? わたしたちは、天国の礼拝においては、いつも神の新しいメッセージに心を新たにされ、新しい歌を歌い、永遠に成長していくのです。神の国においてはさらに変えられ、成長していくのです。退屈なのではない。新鮮な神のメッセージを常に聞くことができる。永遠に新しく変えられていくのです。 神は古くて新しい方である。古いというだけでダメになるのではない。神はもっとも古いお方である。そして神は同時に、もっとも新しいお方でもある。 nibanmati
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福音の新しさ
2コリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
マルコ1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1コリ11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
福音はいつも新しいはずです。よそに新しさを探す必要はないはずです。
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今日のみ言葉で、ぶどう酒は洗礼を通していただく恵み、皮袋は私たちの生き方と考えられます。洗礼を受けた後も、古い生き方にしがみついていると皮袋は破れ、いただいた恵みは無に帰し、神と共に生きるという最高の喜びを見失ってしまうのではないでしょうか。
新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振舞い方を選び取って生きて行くことができますように。
14 per annum
年間 第十四月曜日
「触れさえすれば治してもらえる」
マタイ9・18-16
お母さんは赤ちゃんを抱けば抱くほど、安心するので、元気な子供が育つと心理学者が言っています。触れ合いは人間にとってとても大切な体験です。社会的に見ても、同じことが言えます。例えば「汚い」と思われる人と握手したり、触れたりする人はいないであろう。こうして、社会的な隔たり、差別も生まれるのです。差別する社会はやはり健全な社会ではない。差別される側も、差別する側も損すると言われています。
出血のとまらない女性はけがれた者として社会からしめだされていました。イエスはそのようなタブーに12年間もしばられていた女性を解放します。「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った」。私達の造り主、親である神に触れることによって、スキンシップを持つことによって、安心できて、元気な生活ができるようになるのです。
マルコ福音書(5・26)によれば、彼女は病気の治療のために財産を使い果たしたが、よくなるどころか、悪くなるばかりであった。これは、孤独や寂しさを紛らわすために全財産を使う現代人の姿勢に似ています。
年間 第十四火曜日
「収穫の主に願いなさい」
マタイ9・32-38
私達は、だれかを信仰に導こうと考えるとき、その人に多くの期待を持ちます。あの人がもっと熱心に教会へ行ってくれたらとか、もっとまじめに聖書を読んでくれたらと思い、またそういうふうになるように仕向けたりする。しかし、大事な事は、自分が神をしっかりと信じることである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16・23)ということばがある。私達の家族、共同体に信仰の問題があれば、召し出しの問題があれば、それは私達自身に問題があるのである。神には救いについて深いご計画がある。今これとこれの問題があるのは、あなたの不信仰のためだと、せっかちにきめてはいけないと思うが、イエスを信じているかどうかを反省することが大事ではないかと思う。
働き手が少ないということに関しては、イエスは「もっと頑張りなさい」、「もっとうまくやりなさい」と言わずに、「主に願いなさい」と言いいます。これは信仰の問題でなければなんでしょう。イエスが注目されることは、活動力ではなくて、どのように神を信じているかということである。そしてどこまでもイエスに対して深い信頼を持って生きていくとき、そこでイエスの栄光を見ることができるのである。
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第1は、福音宣教が収穫に例えられ、収穫の主は神であると語られます。宣教の主体は神なのです。宣教は神が主人で、神が責任を持っておられ、神が働き人を遣わしておられるのです。私たちは神の管理しておられるの畑で働く働き人に過ぎません。宣教活動の中でさまざまな失敗や挫折を味わうこともありますが、神が私たちのすべての奉仕の業を生かし用いて完成してくださいます。神に信頼して、なすべきことをなしていくのです。
第2は、「収穫は多い」と言われた主イエスのお言葉を正面から受け止めることです。多くの人は、この主イエスのお言葉の逆を考えるのではないか。「収穫は少ない」と。しかし、ここも神の畑なのです。田畑の実りがそうであるように、人間が稔りを作るのではなく、収穫の主が収穫を生み出してくださいます。収穫には時がある。働き人は神の生み出してくださる収穫を刈り取るだけです。伝道する時、悲観は禁物です。あきらめてはならない。神は不思議なことをなさるお方です。信仰には遠いと思う人が思いもかけない方法で救いに導かれるのです。悲観主義に陥ることなく積極的な伝道を展開していく時に、豊かな収穫を実感するのです。
第3は、「働き手が少ない」。そのために「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われた。「働き手が少ない」とは、シスターや神父の数が足りないことか。それもあるが、宣教の緊急性を表す言葉なのです。麦でも米でも収穫には時期がある。一定の時期、一週間か2週間の内に刈り取らねば一年間の労働が無駄になってしまう。刈入れ時を失った穀物は虚しく朽ちてしまう。収穫の時を失ってはならない。そのため主の手もとにいる全ての弟子72人が動員されたのです。「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とは、自分を除いて、自分を脇に置いて、「他の人が働き手となるように」ということではない。他人ごとではない。この私に対して、あなたに対して、働き人となるようにということです。旧約預言者イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と祈ったように祈れということなのです。
収穫のための働き手というと、稲を刈り、脱穀する表立つ働きを考えてしまう。表だった働き手も必要です。しかし、その人たちだけで収穫のすべての働きが出来るのではありません。「二人ずつ」がここで生きてくるのです。食事を作る人、子守をする人、手筈(てはず)をつける人、いろいろな人の働きがあって収穫はなされるのです。表に立つ人、人目には立たない裏で働く人も必要なのです。表に立って説教する人、その説教者を支える人、来会者を暖かく迎える人、裏で配慮をしてくれる人、祈りでとりなす人、そのような人たちによって福音の伝道はなされるのです。すべての人が働き手です。若い者も年老いた者も、男も女も、健康な人も病む人も、キリストに贖われた者はキリストの弟子であり働き手なのです。それぞれの状況の中で、キリストの証人・働き手として祈り、奉仕するのです。
年間 第十四水曜日
「行って」
マタイ10・1-7
この言葉は、福音宣教の姿勢をよく教えていると思う。まず「行って」、ということは、出ていく、進んでいくことを表す。人が来るのを、座って待っているのではない。自分のほうから出ていくのである。アブラハムみたいに、よく知らない国に向かって出かける。自分の中に閉じこもっていては出て行ったことにはならない。相手のことを考えなければ、出て行く気持ちにもならないでしょう。内に閉じた信仰は、もう信仰ではない。つねに外に開かれていなければ、信仰は死んでしまう。
信仰と宣教とはひとつのことなのである。宣教することによって、信仰はいきいきと生かされるものなのである。宣教しない信仰は、すでに死に向かうものなのです。信仰はつねに前向きでありつつ、人のために宣べ伝える時、いちばん自分のためになるのです。自分のことしか考えない信仰というものは、すでに信仰に矛盾しているのです。信仰はつねに自分の価値観、考え方、願望、自分の物事から飛び出して前に進みつつ、人々に宣べ伝えていくものなのです。(静)
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「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」
十二人は派遣されたとき「異邦人の道に行ってはならない」とイエスに言われました。これはイエスが異邦人を差別しているからではなくて、どれだけイスラエル人のことを心配していたかの現れです。せっかく、救いの歴史において長い関わりを持ちながら、一番肝心な時に切り捨てられることをイエスは黙って見ていられませんでした。そのためにイエスは十二人を通じてイスラエル人に神の国のメッセージをあらためて説明する道を選びます。それでも彼らから理解してもらえなければ、しかたがありません。神の国のメッセージの正しい理解はイスラエル人にとってさえ大変難しかった、受け入れにくかったのであれば、今日の私たちにとっては難しいということは、無理のないことでしょう。
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「権能をお授けになった」
イエス様は十二人を選び、彼らに「権能(Exousia, Potestas)をお授けになった」とあります。「権能」ということばは、おそらく翻訳されたときに丁寧に選ばれた言葉だと思います。「権利」、「権力」の権(この字は「はかり」「おもり」という意味)と「能力」の能。そして、この権能は、「汚れた霊に対する」ものであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患(わずら)いをいやすため」のものです。現代風にいえば、生活、生き方、人生を変える力、よくする力。人間の生活にマイナスとなるようなものを除く力です。私たちもそうですが、実際に、キリストの弟子に出会って、人生、生き方を帰られた人は多いと言えるでしょう。ほかにも生き方を変える力はあります。例えば、お金もそうです。お金は人の生活、生き方をよくしたり、悪くしたりする。政治的な権力もそうです。あるいは暴力を使う軍隊や警察の強制力、拘束力。しかし、使徒たちに授けられた権能は違います。お金の力、政治的力は長く続かない、もろいものです。この権能は二千年近く続いているし、世界的な広がりがあります。このように考えてみると、やはりこの権能はこの世的なものではない、神からの力だということは分かります。今日はこの神の力に与かるように祈りたいと思います。「神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ」(詩編105、偶数年の答唱詩編)。
年間 第十四木曜日
「ただで受けたのですから、ただで与えなさい」
マタイ10・7-15
ただで、と訳されている語は「賜物(たまもの)として」という意味です。賜物として与えられたということは、まったくその権利がないのに、ふさわしくないのに、値打ちがないのに、という意味です。ふさわしかったり、値打ちがあるのなら、それは賜物ではなく、たんなる支払いになってしまうのです。神の恵みは一方的なのです。
しかし私たちは、自分は恵みにふさわしい者だと望たいのです。ですから私たち人間にとって、ただで与えられたと考えることは、プライドを傷つけられることなのです。ただで与えられたことを認めると、何だか自分が安っぽくなった気がするのです。また同時に、自分の持っているものを、ただで与えるのが惜しくなるのです。
そして私が与えるとすれば、私にふさわしい人にだけ与えるべきだと考えるのです。それにふさわしくない人になど、けっして与えたくないのです。せっかく与えたものがむだになることは、とても耐えられないことなのです。そのうえ、たとえふさわしいと思った相手に与えても、私たちは必ず報いを要求(期待)します。もし報いが与えられない時には、怒り狂ったりするのです。「もう二度と与えるものか」と考えることもあります。これではただで与えていることにはなりません。
私たちはただで受けた、といっても、ただの安物を受けたのではありません。とても支払いきれないほど高価なものだからこそ、ただでくださったのです。それを深く悟るなら、今度は私も、ただですべてを人々に与えることができるのでしょう。私がふさわしくないと思っている人(それは私が勝手にそう判断しているだけで、本当にそうかはわからないが)にも見かえりも期待せずに与えることができるのでしょう。自分の力で、何かを持っている人は、そう思っている分だけ神の恵み(賜物)を受け取れないのです。自分が空だと思っている人こそ、神の豊かな富みを受けとって、人と分け合っても、損しないのです。(静)
「触れさえすれば治してもらえる」
マタイ9・18-16
お母さんは赤ちゃんを抱けば抱くほど、安心するので、元気な子供が育つと心理学者が言っています。触れ合いは人間にとってとても大切な体験です。社会的に見ても、同じことが言えます。例えば「汚い」と思われる人と握手したり、触れたりする人はいないであろう。こうして、社会的な隔たり、差別も生まれるのです。差別する社会はやはり健全な社会ではない。差別される側も、差別する側も損すると言われています。
出血のとまらない女性はけがれた者として社会からしめだされていました。イエスはそのようなタブーに12年間もしばられていた女性を解放します。「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った」。私達の造り主、親である神に触れることによって、スキンシップを持つことによって、安心できて、元気な生活ができるようになるのです。
マルコ福音書(5・26)によれば、彼女は病気の治療のために財産を使い果たしたが、よくなるどころか、悪くなるばかりであった。これは、孤独や寂しさを紛らわすために全財産を使う現代人の姿勢に似ています。
年間 第十四火曜日
「収穫の主に願いなさい」
マタイ9・32-38
私達は、だれかを信仰に導こうと考えるとき、その人に多くの期待を持ちます。あの人がもっと熱心に教会へ行ってくれたらとか、もっとまじめに聖書を読んでくれたらと思い、またそういうふうになるように仕向けたりする。しかし、大事な事は、自分が神をしっかりと信じることである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16・23)ということばがある。私達の家族、共同体に信仰の問題があれば、召し出しの問題があれば、それは私達自身に問題があるのである。神には救いについて深いご計画がある。今これとこれの問題があるのは、あなたの不信仰のためだと、せっかちにきめてはいけないと思うが、イエスを信じているかどうかを反省することが大事ではないかと思う。
働き手が少ないということに関しては、イエスは「もっと頑張りなさい」、「もっとうまくやりなさい」と言わずに、「主に願いなさい」と言いいます。これは信仰の問題でなければなんでしょう。イエスが注目されることは、活動力ではなくて、どのように神を信じているかということである。そしてどこまでもイエスに対して深い信頼を持って生きていくとき、そこでイエスの栄光を見ることができるのである。
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第1は、福音宣教が収穫に例えられ、収穫の主は神であると語られます。宣教の主体は神なのです。宣教は神が主人で、神が責任を持っておられ、神が働き人を遣わしておられるのです。私たちは神の管理しておられるの畑で働く働き人に過ぎません。宣教活動の中でさまざまな失敗や挫折を味わうこともありますが、神が私たちのすべての奉仕の業を生かし用いて完成してくださいます。神に信頼して、なすべきことをなしていくのです。
第2は、「収穫は多い」と言われた主イエスのお言葉を正面から受け止めることです。多くの人は、この主イエスのお言葉の逆を考えるのではないか。「収穫は少ない」と。しかし、ここも神の畑なのです。田畑の実りがそうであるように、人間が稔りを作るのではなく、収穫の主が収穫を生み出してくださいます。収穫には時がある。働き人は神の生み出してくださる収穫を刈り取るだけです。伝道する時、悲観は禁物です。あきらめてはならない。神は不思議なことをなさるお方です。信仰には遠いと思う人が思いもかけない方法で救いに導かれるのです。悲観主義に陥ることなく積極的な伝道を展開していく時に、豊かな収穫を実感するのです。
第3は、「働き手が少ない」。そのために「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われた。「働き手が少ない」とは、シスターや神父の数が足りないことか。それもあるが、宣教の緊急性を表す言葉なのです。麦でも米でも収穫には時期がある。一定の時期、一週間か2週間の内に刈り取らねば一年間の労働が無駄になってしまう。刈入れ時を失った穀物は虚しく朽ちてしまう。収穫の時を失ってはならない。そのため主の手もとにいる全ての弟子72人が動員されたのです。「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とは、自分を除いて、自分を脇に置いて、「他の人が働き手となるように」ということではない。他人ごとではない。この私に対して、あなたに対して、働き人となるようにということです。旧約預言者イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と祈ったように祈れということなのです。
収穫のための働き手というと、稲を刈り、脱穀する表立つ働きを考えてしまう。表だった働き手も必要です。しかし、その人たちだけで収穫のすべての働きが出来るのではありません。「二人ずつ」がここで生きてくるのです。食事を作る人、子守をする人、手筈(てはず)をつける人、いろいろな人の働きがあって収穫はなされるのです。表に立つ人、人目には立たない裏で働く人も必要なのです。表に立って説教する人、その説教者を支える人、来会者を暖かく迎える人、裏で配慮をしてくれる人、祈りでとりなす人、そのような人たちによって福音の伝道はなされるのです。すべての人が働き手です。若い者も年老いた者も、男も女も、健康な人も病む人も、キリストに贖われた者はキリストの弟子であり働き手なのです。それぞれの状況の中で、キリストの証人・働き手として祈り、奉仕するのです。
年間 第十四水曜日
「行って」
マタイ10・1-7
この言葉は、福音宣教の姿勢をよく教えていると思う。まず「行って」、ということは、出ていく、進んでいくことを表す。人が来るのを、座って待っているのではない。自分のほうから出ていくのである。アブラハムみたいに、よく知らない国に向かって出かける。自分の中に閉じこもっていては出て行ったことにはならない。相手のことを考えなければ、出て行く気持ちにもならないでしょう。内に閉じた信仰は、もう信仰ではない。つねに外に開かれていなければ、信仰は死んでしまう。
信仰と宣教とはひとつのことなのである。宣教することによって、信仰はいきいきと生かされるものなのである。宣教しない信仰は、すでに死に向かうものなのです。信仰はつねに前向きでありつつ、人のために宣べ伝える時、いちばん自分のためになるのです。自分のことしか考えない信仰というものは、すでに信仰に矛盾しているのです。信仰はつねに自分の価値観、考え方、願望、自分の物事から飛び出して前に進みつつ、人々に宣べ伝えていくものなのです。(静)
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「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」
十二人は派遣されたとき「異邦人の道に行ってはならない」とイエスに言われました。これはイエスが異邦人を差別しているからではなくて、どれだけイスラエル人のことを心配していたかの現れです。せっかく、救いの歴史において長い関わりを持ちながら、一番肝心な時に切り捨てられることをイエスは黙って見ていられませんでした。そのためにイエスは十二人を通じてイスラエル人に神の国のメッセージをあらためて説明する道を選びます。それでも彼らから理解してもらえなければ、しかたがありません。神の国のメッセージの正しい理解はイスラエル人にとってさえ大変難しかった、受け入れにくかったのであれば、今日の私たちにとっては難しいということは、無理のないことでしょう。
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「権能をお授けになった」
イエス様は十二人を選び、彼らに「権能(Exousia, Potestas)をお授けになった」とあります。「権能」ということばは、おそらく翻訳されたときに丁寧に選ばれた言葉だと思います。「権利」、「権力」の権(この字は「はかり」「おもり」という意味)と「能力」の能。そして、この権能は、「汚れた霊に対する」ものであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患(わずら)いをいやすため」のものです。現代風にいえば、生活、生き方、人生を変える力、よくする力。人間の生活にマイナスとなるようなものを除く力です。私たちもそうですが、実際に、キリストの弟子に出会って、人生、生き方を帰られた人は多いと言えるでしょう。ほかにも生き方を変える力はあります。例えば、お金もそうです。お金は人の生活、生き方をよくしたり、悪くしたりする。政治的な権力もそうです。あるいは暴力を使う軍隊や警察の強制力、拘束力。しかし、使徒たちに授けられた権能は違います。お金の力、政治的力は長く続かない、もろいものです。この権能は二千年近く続いているし、世界的な広がりがあります。このように考えてみると、やはりこの権能はこの世的なものではない、神からの力だということは分かります。今日はこの神の力に与かるように祈りたいと思います。「神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ」(詩編105、偶数年の答唱詩編)。
年間 第十四木曜日
「ただで受けたのですから、ただで与えなさい」
マタイ10・7-15
ただで、と訳されている語は「賜物(たまもの)として」という意味です。賜物として与えられたということは、まったくその権利がないのに、ふさわしくないのに、値打ちがないのに、という意味です。ふさわしかったり、値打ちがあるのなら、それは賜物ではなく、たんなる支払いになってしまうのです。神の恵みは一方的なのです。
しかし私たちは、自分は恵みにふさわしい者だと望たいのです。ですから私たち人間にとって、ただで与えられたと考えることは、プライドを傷つけられることなのです。ただで与えられたことを認めると、何だか自分が安っぽくなった気がするのです。また同時に、自分の持っているものを、ただで与えるのが惜しくなるのです。
そして私が与えるとすれば、私にふさわしい人にだけ与えるべきだと考えるのです。それにふさわしくない人になど、けっして与えたくないのです。せっかく与えたものがむだになることは、とても耐えられないことなのです。そのうえ、たとえふさわしいと思った相手に与えても、私たちは必ず報いを要求(期待)します。もし報いが与えられない時には、怒り狂ったりするのです。「もう二度と与えるものか」と考えることもあります。これではただで与えていることにはなりません。
私たちはただで受けた、といっても、ただの安物を受けたのではありません。とても支払いきれないほど高価なものだからこそ、ただでくださったのです。それを深く悟るなら、今度は私も、ただですべてを人々に与えることができるのでしょう。私がふさわしくないと思っている人(それは私が勝手にそう判断しているだけで、本当にそうかはわからないが)にも見かえりも期待せずに与えることができるのでしょう。自分の力で、何かを持っている人は、そう思っている分だけ神の恵み(賜物)を受け取れないのです。自分が空だと思っている人こそ、神の豊かな富みを受けとって、人と分け合っても、損しないのです。(静)
安いもの買いの銭失い。
ただより高いものはない。
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旅には、袋も持って行ってはいけない、二枚の下着もいけない、履物もいけない、杖もいけない。」
つまり、「いけない」「いけない」「あれもダメ、これもダメ」と、まるでお母さんが子供に口を酸っぱくして言うような印象を受けるのです。なるほど考えてみると、金貨、銀貨、銅貨というのは、要するにお金のことであるわけですから、まとめて「お金を持っていってはならない」と一口に言えば良さそうなものですが、イエスさまはここで細かく言っておられるのです。現代ふうに言えば、「1万円札も5千円札も千円札もダメ、五百円玉も100円も50円も10円も5円も1円もダメ」と言われているようなものです。要するに誰も拡大解釈したり、聞き間違えのないように細かく言っておられる。要するに、お金も持ち物も何も持って行くな、何も持たないで、福音宣教の旅に出かけなさい、とお命じになっているのです。
そうしますと、私は出張の旅に、忘れ物をしますといやなので、チェック・リストで「何か忘れ物がないか、切符は持ったか、下着は持ったか、本はあったか、ひげ剃りは持ったか、財布は持ったか、財布の中にクレジットカードは入れたか‥‥」などと確認するわけですが、そういうことをしてはダメだ、とここでイエスさまはおっしゃっているのかと言えば、そうではないわけです。私たちが日常の生活の中で、何も持たないで旅に出かけなさい、出張に出かけなさい、と命じられているのではありません。
福音宣教に出かけるときの、心構えなのです。イエス・キリストのことを知らない人々の所へ出かけていく、イエスさまのことを宣べ伝えるために行く。その時に、何も持って行く必要はないと言うのです。
神さまが助けてくれることを知るために 何も持たない体験をしなければならない。
私たちは、自分に足りないものがれば、不安を覚えるでしょう。 しかし実は、それは恵みなのです。たとえ、お金がなくても、ものがなくても、知恵がなくても、健康がなくても、その「ない」ところに神の業が現れるからです。
年間 第十四金曜日
「人々を警戒しなさい」
マタイ10・16-23
人々に注意しなさい、と警戒をうながすのですが、同時に人々を恐れてはならない、と26節で命じられます。イエス様はこの世の現実をよくご存じです。この世が、けっして甘い世界ではないことをです。弱肉強食の狼の論理で動いていることをです。ですから注意深い警裁が必要ですが、また人間を恐れるな、とも言われます。狼の論理が支配するこの世ですが、その一人一人は、やはり弱い人間だからでしょう。
だれかを信じなくては生きていけない人間ですし、一人では生きられず、身内や家族を信じ、愛しているのです。人殺しを何とも思わないマフィアの親分でも、愛人だけには心を許している、ということもあります。どんなひどい人間でも、妻か子どもか腹心(ふくしん)の部下を信じざるを得ないのです。人を見下す必要もありませんが、人を恐れる必要もないのです。弱みを持たない人は一人もいないのです。愛へはあと一歩のところです。
人々に警戒しなさいということは、ただ用心することなのです。ここでイエス様は、むち打たれたり、殺されたり、迫害されたりするという、マイナスの面を強調しています。しかし迫害とか苦しみというのは、じつはそれほど信仰にとって危険なものではないのです。(教会の歴史を見ればわかるように)人間にとっていちばん危険なものは、むしろ賞賛(世間的栄光)です。
人は弱い者を迫害しますが、強い者にはすり寄ってくるのです。弱い者には強く、強い者には「へいこら」する、へつらうのが狼(世間)の論理なのです。宣教者はこうした論理に負けないように用心しなければならない。苦難は人をみがきこそすれ、めったに人をだめにしません。苦しみも迫害も、確かに私たちの信仰をためします、もっと強くするのです。しかし、世間的な栄光も私たちの信仰に試練を与え、だめにする危険性をもっています。
賞賛、人気は簡単に人をだめにします。人は苦しみに耐えても、栄光には耐えにくいのです。ほんのちょっとした栄光で、だめになった人はたくさんいます。人は厳しい言葉より、甘い言葉を好みます。きつい言葉は耳にいたい、ほめ言葉は気持ちいいのですが、危険なのです。ですから人々に気をつけろ、と言うのです。(静)宣教には、一時的な情熱ではなく、迫害に耐える忍耐が必要です。
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元々はことわざ「渡る世間に鬼は無い」をもじったタイトルで、とかく人間関係では苦労させられるというぼやきの意味合いを込めたタイトルだが、今やこの「渡る世間は鬼ばかり」という任期番組(TBSテレビ)があります。知名度が高いとすら言われている。「渡る世間は鬼ばかり」は今日の福音書にぴったりだと思います。特に「渡る」とはよく言いえています。道を渡る前に左右を見る、川や海を渡るときのように何が起こるのかわからない、とにかく危険は多い、気をつけないといけない。そのなかで、「蛇のように賢く」、「鳩のように素直」とはどういう意味を持ってくるのか、今日黙想したいと思います。『渡る世間に鬼は無い』とは、「世間の未知の人はこわく見えるが、皆困った人を助けるようなやさしい心を持っている」(広辞苑)という意味だそうです。「どちらが賢いでしょうか?」
「渡る世間に鬼は無い」と信じて生きるか
「渡る世間は鬼ばかり」と注意して生きるか
信じたほうがいい時/相手と、注意したほうがいい時/相手がある/いるのでしょう。
その時々に、うまく使い分けることができれば理想的でしょうか。
世間では鬼は多いから、自分も鬼になろうと考えるクリスチャン、神父もいます。しかし、それではあまり意味はないですね。やはり、クリスチャンというのは、世間とはちょっと違う持ち味をもった方がいいでしょう。昔は、Perseverantia 堅忍(けんにん)の全う、堅忍の恵みを求める祈りがありました。堅忍の賜物を祈りながら生活をすることがどれほど大切か考えさせられます。
年間 第十四土曜日
「人々を恐れてはならない」
マタイ10・24-33
私たちは、いろいろのものを恐れます。死ぬことを恐れ、生きることを恐れます。病を恐れ、明日の生活が成り立たなくなることを恐れます。時には十年先、二十年先のことまで恐れます。
人々を恐れるということは、人の評判を恐れるということでしょう。何か人から言われるのではないか、悪く思われたり、悪く言われたらどうしよう、と考えます。人の視線を気にし、人々のうわさを気にします。そして悪く言われたりするとガッカリし、すべてがむなしくなったりします。つまり人を恐れるということは、人にしばられていることを意味します。人からの評価にがんじがらめになっているのです。
人を恐れるな、とイエス様は言います。それは人を無視し、人の評判を気にせず信念を貫き、自分の好きなように、強引にマイウェイを、とおっしゃったわけではありません。なぜなら、恐るべき方、神を恐れよ、とおっしゃるからです。
神を恐れるとはどういうことでしょう。人の評価より神の評価を気にしろ、ということでもあるでしょう。人の評価というものは、えてして自分勝手なもので、何とでも言えるものですし、また何とでも言うのです。ですからそれにたよっていたら、何の行動もとれないということなのでしょう。何の行動もとらなくても、人は必ず何かを言うに決まっています。だから人の言うことを気にせず信念を貫け、ということではありません。
神の評価こそ私に対する正しい評価であり、けっして間違うことがないものです。神にどう評価されるかを、第一に考えることが、神を恐れることなのでしょう。すべてをお見通しの神のまなざしの中で、厳しさとやさしさに満ちたまなざしのなかで、まず正しくあろうとすることが一番大切なことなのです。人の評価を軽んじるのではなく、人の評価にとらわれない自由な生き方を持つことです。世間の見方を恐れる間は、まだ神との関係がしっかりしていないことを示していると思います。(静)
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旅には、袋も持って行ってはいけない、二枚の下着もいけない、履物もいけない、杖もいけない。」
つまり、「いけない」「いけない」「あれもダメ、これもダメ」と、まるでお母さんが子供に口を酸っぱくして言うような印象を受けるのです。なるほど考えてみると、金貨、銀貨、銅貨というのは、要するにお金のことであるわけですから、まとめて「お金を持っていってはならない」と一口に言えば良さそうなものですが、イエスさまはここで細かく言っておられるのです。現代ふうに言えば、「1万円札も5千円札も千円札もダメ、五百円玉も100円も50円も10円も5円も1円もダメ」と言われているようなものです。要するに誰も拡大解釈したり、聞き間違えのないように細かく言っておられる。要するに、お金も持ち物も何も持って行くな、何も持たないで、福音宣教の旅に出かけなさい、とお命じになっているのです。
そうしますと、私は出張の旅に、忘れ物をしますといやなので、チェック・リストで「何か忘れ物がないか、切符は持ったか、下着は持ったか、本はあったか、ひげ剃りは持ったか、財布は持ったか、財布の中にクレジットカードは入れたか‥‥」などと確認するわけですが、そういうことをしてはダメだ、とここでイエスさまはおっしゃっているのかと言えば、そうではないわけです。私たちが日常の生活の中で、何も持たないで旅に出かけなさい、出張に出かけなさい、と命じられているのではありません。
福音宣教に出かけるときの、心構えなのです。イエス・キリストのことを知らない人々の所へ出かけていく、イエスさまのことを宣べ伝えるために行く。その時に、何も持って行く必要はないと言うのです。
神さまが助けてくれることを知るために 何も持たない体験をしなければならない。
私たちは、自分に足りないものがれば、不安を覚えるでしょう。 しかし実は、それは恵みなのです。たとえ、お金がなくても、ものがなくても、知恵がなくても、健康がなくても、その「ない」ところに神の業が現れるからです。
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ヨセフは、今まで、神がいろいろなところで働かれたのを見ました。しかし、これが最も偉大で知恵のある働きです。兄達がヨセフを売ったという罪はあります。しかし、神はその悪事さえも用いて、イスラエルの家が飢きんから救われるようにされました。そして、ヨセフは、「心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」と言いました。そのような赦しの心、優しさがつくられたのは、神が全てのことを支配し、すべての事を働かせて、益としてくださるのを身をもって体験したからです。
これが、人を赦す原動力です。自分に罪を犯したり、悪い事をする人が現れても、神がそれを益に変えて下さる事を認める事が出来ます。「あの人は、こんな悪い事をした。」で終わってしまえば、確かに怒りや苦味が出てくるでしょう。けれども、「神が、このことを赦されて、私がもっとキリストの似姿に変えられていき、何か素晴らしい事が、ここから現れる。」と考えるならば、私たちは、自分に罪を犯した人を、豊かに赦す事が出来ます。大事なのは、神の主権を認める事です。そして、神の愛を信じる事です。そうすれば、自ずと人を赦す心が造り出されます。
年間 第十四金曜日
「人々を警戒しなさい」
マタイ10・16-23
人々に注意しなさい、と警戒をうながすのですが、同時に人々を恐れてはならない、と26節で命じられます。イエス様はこの世の現実をよくご存じです。この世が、けっして甘い世界ではないことをです。弱肉強食の狼の論理で動いていることをです。ですから注意深い警裁が必要ですが、また人間を恐れるな、とも言われます。狼の論理が支配するこの世ですが、その一人一人は、やはり弱い人間だからでしょう。
だれかを信じなくては生きていけない人間ですし、一人では生きられず、身内や家族を信じ、愛しているのです。人殺しを何とも思わないマフィアの親分でも、愛人だけには心を許している、ということもあります。どんなひどい人間でも、妻か子どもか腹心(ふくしん)の部下を信じざるを得ないのです。人を見下す必要もありませんが、人を恐れる必要もないのです。弱みを持たない人は一人もいないのです。愛へはあと一歩のところです。
人々に警戒しなさいということは、ただ用心することなのです。ここでイエス様は、むち打たれたり、殺されたり、迫害されたりするという、マイナスの面を強調しています。しかし迫害とか苦しみというのは、じつはそれほど信仰にとって危険なものではないのです。(教会の歴史を見ればわかるように)人間にとっていちばん危険なものは、むしろ賞賛(世間的栄光)です。
人は弱い者を迫害しますが、強い者にはすり寄ってくるのです。弱い者には強く、強い者には「へいこら」する、へつらうのが狼(世間)の論理なのです。宣教者はこうした論理に負けないように用心しなければならない。苦難は人をみがきこそすれ、めったに人をだめにしません。苦しみも迫害も、確かに私たちの信仰をためします、もっと強くするのです。しかし、世間的な栄光も私たちの信仰に試練を与え、だめにする危険性をもっています。
賞賛、人気は簡単に人をだめにします。人は苦しみに耐えても、栄光には耐えにくいのです。ほんのちょっとした栄光で、だめになった人はたくさんいます。人は厳しい言葉より、甘い言葉を好みます。きつい言葉は耳にいたい、ほめ言葉は気持ちいいのですが、危険なのです。ですから人々に気をつけろ、と言うのです。(静)宣教には、一時的な情熱ではなく、迫害に耐える忍耐が必要です。
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元々はことわざ「渡る世間に鬼は無い」をもじったタイトルで、とかく人間関係では苦労させられるというぼやきの意味合いを込めたタイトルだが、今やこの「渡る世間は鬼ばかり」という任期番組(TBSテレビ)があります。知名度が高いとすら言われている。「渡る世間は鬼ばかり」は今日の福音書にぴったりだと思います。特に「渡る」とはよく言いえています。道を渡る前に左右を見る、川や海を渡るときのように何が起こるのかわからない、とにかく危険は多い、気をつけないといけない。そのなかで、「蛇のように賢く」、「鳩のように素直」とはどういう意味を持ってくるのか、今日黙想したいと思います。『渡る世間に鬼は無い』とは、「世間の未知の人はこわく見えるが、皆困った人を助けるようなやさしい心を持っている」(広辞苑)という意味だそうです。「どちらが賢いでしょうか?」
「渡る世間に鬼は無い」と信じて生きるか
「渡る世間は鬼ばかり」と注意して生きるか
信じたほうがいい時/相手と、注意したほうがいい時/相手がある/いるのでしょう。
その時々に、うまく使い分けることができれば理想的でしょうか。
世間では鬼は多いから、自分も鬼になろうと考えるクリスチャン、神父もいます。しかし、それではあまり意味はないですね。やはり、クリスチャンというのは、世間とはちょっと違う持ち味をもった方がいいでしょう。昔は、Perseverantia 堅忍(けんにん)の全う、堅忍の恵みを求める祈りがありました。堅忍の賜物を祈りながら生活をすることがどれほど大切か考えさせられます。
年間 第十四土曜日
「人々を恐れてはならない」
マタイ10・24-33
私たちは、いろいろのものを恐れます。死ぬことを恐れ、生きることを恐れます。病を恐れ、明日の生活が成り立たなくなることを恐れます。時には十年先、二十年先のことまで恐れます。
人々を恐れるということは、人の評判を恐れるということでしょう。何か人から言われるのではないか、悪く思われたり、悪く言われたらどうしよう、と考えます。人の視線を気にし、人々のうわさを気にします。そして悪く言われたりするとガッカリし、すべてがむなしくなったりします。つまり人を恐れるということは、人にしばられていることを意味します。人からの評価にがんじがらめになっているのです。
人を恐れるな、とイエス様は言います。それは人を無視し、人の評判を気にせず信念を貫き、自分の好きなように、強引にマイウェイを、とおっしゃったわけではありません。なぜなら、恐るべき方、神を恐れよ、とおっしゃるからです。
神を恐れるとはどういうことでしょう。人の評価より神の評価を気にしろ、ということでもあるでしょう。人の評価というものは、えてして自分勝手なもので、何とでも言えるものですし、また何とでも言うのです。ですからそれにたよっていたら、何の行動もとれないということなのでしょう。何の行動もとらなくても、人は必ず何かを言うに決まっています。だから人の言うことを気にせず信念を貫け、ということではありません。
神の評価こそ私に対する正しい評価であり、けっして間違うことがないものです。神にどう評価されるかを、第一に考えることが、神を恐れることなのでしょう。すべてをお見通しの神のまなざしの中で、厳しさとやさしさに満ちたまなざしのなかで、まず正しくあろうとすることが一番大切なことなのです。人の評価を軽んじるのではなく、人の評価にとらわれない自由な生き方を持つことです。世間の見方を恐れる間は、まだ神との関係がしっかりしていないことを示していると思います。(静)
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イスラエルは息子ヨセフがまだ生きていることを聞きました。生きているだけでなく、エジプト全土を支配していることを聞きました。ヨセフは、父とその家族が全員エジプトに下ってくるようにお願いしました。飢きんがあと5年続くので、このままでは飢え死にしてしまうからです。それで、イスラエルはすぐに身支度を整え、家族と一緒に大移動を開始しました。
けれども、彼はふと、こう思ったことでしょう。「自分の父アブラハムとイサクは、このカナンの地に住んだ。私も、パダン・アラムで妻と子どもを得てから、カナンの地の戻ってきた。ここは、神の約束の地であり、私は今まで、ここに、留まってきたのだ。それなのに、今、ここを離れてよいものか。」と、彼は考えたにちがいありません。それで、ベエル・シェバにきたときに、神に伺いを立てたのです。神がこの移住を喜んでおられるのか、エジプトに行くことを神は願っておられるのか、ヤコブは知りたいと思いました。いけにえをささげた場所は、父イサクが住んだベエル・シェバです。神はベエル・シェバで、イサクに現れてくださいました。
ですから、この場所でいけにえをささげることは、神の約束を思い出し、神との交わりをし、神に自分をささげるときを持つことです。私たちも、日々の生活の決断において、神に立ち戻り、主のみこころをうかがわなければいけません。
神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」
神は、ヤコブを愛されていました。ヤコブよ、ヤコブよ、と優しく語り掛けておられます。そして、ヤコブは、「はい。聞きたくないことは、聞かないというような条件つきの聞き方ではなく、何でもお話ください、という無条件の聞き方でした。
ある小冊子に、お父さんが子どもを呼ぶときに、好き勝手な聞き方をしていることが書かれていました。「ほら、部屋の掃除をしなさい。」とか、「ほら、ちゃんと、宿題をしなさい。」とお父さんが言っても、子供達から何の反応もありません。けれども、「アイスクリーム買ってきたぞ。」とか、「ディズニー・ランドに行こう!」と言うと、子供達はどこからともなく、ふって沸いたように出てきます。私たちも、神の御言葉に対して、そのような聞き方をしていないでしょうか。聞きたくないことは聞かない。自分勝手に解釈することはありませんか。けれども、ヤコブは、夜眠っているときに、「はい。ここにいます。」と言いました。何でも聞きます、いつでも聞きます、という態度をもっていたのです。
いろいろな約束を与えられて、ヤコブを安心させておられます。1つ目の約束は、エジプトで、ヤコブを大いなる国民にすると約束されたのです。アブラハムがこの約束を受けてから、もう215年たちますが、まだ70人の家族しかいませんでした。けれども、エジプトに下っていったら、大いなる国民にすると約束されたのです。事実、イスラエルが430年エジプトに滞在してから、大人の男性だけでも60万人になっていたことが、出エジプト記12章に書かれています。そして、神ご自身がヤコブとともにエジプトに下ると約束されました。彼は、異国の地でひとりぼっちになりません。神がともにおられて、彼を励まし、慰め、力を与え、まもってくださいます。イエスも弟子達に、「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束されています。
さらに、神ご自身が必ずヤコブを導き上らせると約束してくださいました。ヤコブは、自分がずっとカナンの地に滞在して、神の祝福の約束が実現されると思っていました。しかし、そうではなく、エジプトにいるイスラエル人が、カナンの地に導かれることによって約束が実現します。アブラハムには、自分の子孫が外国に行って、寄留者になり、奴隷とされ、苦しめられることが伝えられていました(15:13)。彼らは、こうした苦しみと奴隷の状態から救い出されて、約束の地に連れ戻され、祝福を受けます。
これを言い換えると、贖いと言います。これはもともと、「買い戻す」という商業用語で、奴隷を代金をはらって自分のものとすることを言います。神が、奴隷状態になっている民を買い戻し、ご自分の民にすることが、ここで言う贖いです。私たちが贖われるというのは、罪の奴隷状態から贖われることです。神はご自分の子を代価にして、罪の奴隷になっていた私たちを買い戻してくださいました。ですから、神がヤコブに約束してくださったのは、救いの約束であり、将来、必ず救い出される保証をしてくださったのです。そして、神は、ヤコブの死を息子ヨセフが見届けてくれる約束もしてくださいました。安心して死ぬことができる保証をしてくださったのです。
ヤコブは、神の御声に聞き従いました。そして、すべての財産、すべての子孫を連れて行きました。何か一部を残して主に従ったのではなく、全部従いました。神を全面的に信頼したのです。「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3:5-6)」とソロモンは言っています。
15 per annum
年間第15月
マタイ10・34~11・1
ここで主イエスがおっしゃりたいことは、37節に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより、息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とありますように、父や母よりも第一にイエスさまを愛しなさい、息子や娘よりもさらにイエスさまを愛しなさい、ということです。‥‥すなわちここで主イエスがおっしゃっていることは、他の誰よりも第一にイエスさまを愛しなさい、ということです。言い換えれば、他の誰よりも、まずイエスさまに従いなさい、ということです。
その結果、反発が起きることがあるのです。家の者の理解が得られず、対立することがあるのです。アシジの聖フランシスコは出家したときに、父親の反対を受けました。今でも、家族の反対を押し切って、あるいは親に勘当(かんどうdisinheritance)されてまでして、神父やシスター道を歩むために献身する人がいるのです。そのようなことは、聖職者だけのぶつかる問題ではありません。普通の信者の中にも、家族の反対、あるいは無理解の中から、いわば戦いの中から教会に集まってこられる方々がいるのです。
そういう者にとって、きょうのイエスさまの言葉は、なんと慰めに満ちていることでしょうか。親に勘当されてまで、神様に献身して神学校に入る者、父母、嫁姑の反対を押し切って、礼拝に集う者‥‥。もちろん家族を愛していないわけではない。だからこそ、悩むのです。「これでいいのだろうか?」と。「もしかしたら自分は間違ったことをしているのではないだろうか?」と。「聖書も、父母を敬うことを教えているではないか?」と。
なぜ、ここまで問い詰められるのであろう、なぜ、自分の生活の中で、自分の家族との生活の中で、その平和を奪うような言葉を、聞かなければならないのであろう。そういう思いで、ですから、この言葉もまた、父母や、息子娘を愛さなくてもよい、というのではないのです。父母や、息子娘を愛する以上に、まず主イエスを愛し、主イエスに従うことを求めておられるのです。niban
年間第15火
マタイ11・20-24
例えば、私が外務大臣に対して、「辞職してもらう」と言っても、何も起きません。そんな権限は私にはないからです。しかし、内閣総理大臣が同じことを言えば、外務大臣は辞めざるを得ないのです。総理大臣にはその権限がある、力があるからです。それと同じように、イエスさまに与えられている力、イエスさまにある力、その力の現れがここで言う「力あるわざ」ということであり、「奇跡」のことです。
ここに私たちは、「奇跡」=力あるわざ、というものが何のために行われるのか、ということの意味を知ることができるのです。すなわち、奇跡は悔い改めさせるためにある、ということです。言い換えれば、奇跡を行うことがイエスさまの目的なのではない、ということです。あくまでも奇跡を行うということは、悔い改めさせるために行われるのであることがよくわかります。そしてイエスさまの目的は、人々が悔い改める、ということであることが、よく分かります。そこを間違えてはなりません。 niban
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生き物に欠かせないものの一つには、水があるでしょう。水は化学的には、水素と酸素からなっています。水素二つと酸素一つ、H2O。この水素と酸素の結合は非常に安定したもので、しかも大量にできるのはなぜでしょうか。不思議のものです。水は氷ると氷は水より少し軽くなります。実際、氷を見ずに中に入れると浮かびます。もし、氷は水より重いのであれば、海洋は底から凍り、地球は氷の塊になってしまう。これは、水素原子の独特な特性によります。これも不思議なことです。
生き物は吸っている空気には、二酸化炭素があります。炭素一つと酸素二つ、CO2。空気の4.5%までになっても問題ない。不思議なのはこのCO2はなぜ、一酸化炭素(CO)にならないのか。簡単にできそうなのに。これも不思議です。
問題に出会った時、救いの手が差し伸べられて恵みに感謝したり、自分の小ささを認めることはあるかもしれません。しかし、空気のようにあまり意識していない恵み、人間の理解を超える奇跡によって今の私の命があることにどれほど気づいているでしょうか。
主よ、あなたの恵みと憐れみなしに生きていけないことに気づかせてください。そして、いつも感謝してあなたの愛に応えていくことができますように。sese05
年間第15水
マタイ11・25-27
神の知恵は人間的な知恵をはるかに超えています。そのすばらしさを世に示すため、天の父は幼子のような者をお選びになりました。イエスが私たちに天の父を示されるのは、ひとえに私たちの小ささゆえです。
父なる神をよりよく知り、その愛のうちに生きることができるように、主よ、いつも幼子のような単純さを、お与えください。sese05
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自分のことをえらいと思っている人や、権力や名誉を求める人ではなく、幼子のように力のない人たちに、神さまは自らを現されるのだ。物事を神様の観点からみるのは、自分の力に頼っていては、不可能なことだといやというほどしめされた。自分は30年以上神学・哲学(神のことを調べる学問)をやってきたが、このように言われると、 なんだかふりだしにもどった感じです。 ここで思いますのは、von Balthasarのすばらしいことば。Von Balthasarは20世紀の偉い神学者であるが、彼は神学は「跪いた神学」(„kniende Theologie“ つまり、神の前で祈りながら営まれる神学)
Cfr Hans Urs von Balthasar, Theologie und Heiligkeit, Aufsatz von 1948 in: Verbum Caro. Schriften zur Theologie I, Einsiedeln 1960, 195-224でなければならないと訴えた。
「神はその力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、見捨てられた人を高められる」(ルカ1)
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イスラエルで子どもは、律法をまだ学んでいないのだから、人間ではないとさえ思われていた。律法を学んで初めて人間になると考えられていたからです。 しかしイエスはむしろ「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。これは御心に適うこと」といって、子どもであることに価値を認めました。実際子どもをとても大事にしました。
別の箇所で、「子どもにならなければ、神の国に入ることはできない」とありますが、ここでむしろ0歳児をイメージする必要があります。 今日の言葉は、「神様が本当の親なのだから、神様にすべて委ねるしかない赤ん坊になれ!」と言う意味です。 赤ん坊はまったく無力です。しかし親の愛に守られながらしっかり育っていきます。親がいるから何の恐れも要らない。安心していられる。 ましてその親が神様ならば、完璧です。
神はいるかどうか分からない。いたとしても、とにかく確かな認識ではない。だから自分だ頑張るしかない、と思う人は多いかも知れません。けれども、それもどの程度の認識であろうか。それは聖書で言う傲慢の罪ではないか。それこそ「知恵ある者や賢い者」の認識ではないか。むしろ、神が父であることを誇りにすべきではないか。そして自分が無力であること、小さいことを誇りにできるではないか。 イエス様でさえそうだったのでした。赤ん坊として生まれたとき、そして十字架にかけられたとき。 たとえば年をとることも無力になること。これこそイエス様が大切にした神の子どもであり、幼きイエスのテレジア(リジューの聖テレジアの目指した小さきものです。 神を親として持っている。だからその神様を信じ、すべて神様に委ねる、赤ん坊の心を持って、小さいものとして生きる決意を新たにしましょう。
年間第15木
「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」
マタイ11・28-30
。‥‥「くびき」というのは、牛の首の所にあてる木です。牛の首にくびきという木をあてて、車を引かせたり、すきを引かせて土を掘り起こさせたりします。つまり、牛を農作業で働かせるために自由を奪う道具です。
不思議なことをイエスさまはおっしゃる。私たちは「この世のくびき」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのではないか。だから、「休む」というのは、そういうこの世の重荷、この世のくびきから解放されて、自分の好きなようにすることではないか。自分にかけられたくびきがなくなってしまうことが、重荷が取り去られて、休まることではないのか‥‥そう思うでしょう。
それなのに、イエスさまは、この世のくびきをおろす代わりに、イエスさまのくびきを負え、と言うのです。「これでは、また違う重荷が負わせられるのではないか?」と私たちは思うのではないでしょうか。「私たちを縛りつけるくびきなど、なんにもなくて、自分の好きなようにして、自分の思ったとおりにできる。それが、重荷をおろすことであり、休むことだ」‥‥そう思う。ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、イエスさまのくびきを首にかけなさいとおっしゃるのです。
「疲れる原因がなくなりさえすれば、疲れることはないのではないか」と私たちは思います。 例えば、生活上の不安を覚え、重荷を負い疲れている人は、大金持ちになればもう疲れることはないだろう、と。もっと言えば、大金持ちになって、しかも権力を手にして、何でも自分の意のままにすることができたとしたら、どんなに楽だろうか、と。食べることに心配せずにすみ、住むところも広い屋敷で、自分をしばる律法もおきてもない、自由で、何でも手に入る‥‥そんなふうになったら疲れるということはないだろう‥‥そのように思います。しかしそれは違っているのです。
くびきがとれて何もなくなったのは、一見良いことだと思う。しかしそれは、また別のくびきがいつの間にか自分の首に掛かって苦しめていくようになっているのです。新しい別の重荷がのしかかっている。 人間関係で、疲れ果てる。職場の人間関係、家庭内の人間関係‥‥。そういう煩わしさから離れて、「誰もいないところに行って、一人になりたい!」と思うでしょう。誰もいないところで一人で‥‥無人島でしょうか。最初はよいでしょう。しか
しすぐに、猛烈な孤独感に襲われるでしょう。「誰でも良いから、話し相手になってくれ!」と言って、叫び出したくなるでしょう。
イエスさまのくびき(つまり、その教え)を掛ける。その結果、この世の他のくびきは取り除かれるのです。イエスさまの荷を負う。しかしそれは軽い荷です。そして、他の重い荷物は取り除かれる。そういうことなのです。
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くびきとは家畜に鋤や鍬などの農具を引かせるために首に背負わせる木です。ピッタリしていないとなかなか労働がつらい。名説教家は、ナザレのイエスの作ってくれるオーダーメイドのピッタリしたくびきのことだと語ったことがあるようです。
また、くびきには二頭のウシを並べてかつがせたようです。旧約聖書の中には異なった種類の家畜を一つのくびきにつけることは禁じられています(申命記22:10には「牛とろばとを組にして耕してはならない」とある)。キリストの軛とは、片方はイエスさまが背負ってくださり、もう片方は自分で背負うようなものなのでありましょう。主ご自身が私の重荷を背負ってくださる。主の軛は負いやすく、その荷は軽いと言われるのは、主が私と(四国のお遍路様ではないですが)同行二人(どうぎょうににん))で歩んでくださることを意味しています。
実は人生においても自分にピッタリの居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。
このキリストのみ声の中に、このお方との軛を背負い合う関係の中に、私たちのための居場所がある。心からホッとできる安らぎの場所がある。
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「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。このイザヤ書で示される苦難のしもべは、イエス・キリストのことを預言しています。 「富んでおられたのに、貧しくなられた。それは、彼の貧しさによって私たちが富む者になるため」(IIコリ8)。--私たちに代わって、イエスはこの世の貧しさを担って下さった。経済的な貧しさ、あらゆる人間の苦悩、重荷、病、そして罪を担ってくださった。イエスは私たちと共にいて、痛み・苦しみを取り、代わりに担いで、元気を与えて下さっている。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
私たちは、それなのに、なかなか自分の重荷を降ろそうとしません。神様に委ねるどころか、自分ひとりで一生懸命抱え込もうとしていることすらあります。一所懸命誠実であろうとして、自分のだけでなく、他人の重荷まで負おうとして、押しつぶされそうになっている人さえいます。 しかし、ただ自分の今の十字架を背負えばいい。他のさまざまな十字架は、イエス様がすべて負ってくださっているのです。 私たちには罪を赦してくださる神様がいます。永遠の命の希望があります。私のことを特別に大切だと思ってくださっている神様がついていてくださっています。 だからまず第一に、自分で解決できないような重荷や思い煩いは神様に負ってもらいましょう。 次に、強い確信に基づく自分の訴えや、それに反対するものへの裁きも、神様にお委ねし、お任せしましょう。
年間第15金
マタイ12・1-8
ここで注意しなければならないことは、イエスさまは、「そんな細かいこと言わなくても良いじゃあないか。大目に見なさい」とおっしゃったのではないということです。「そんな固いことを言うな」という理由で、反論なさったのではない。そこを注意しなければならないと思うのです。
今ファリサイ派の人々が、イエスさまの弟子たちを律法違反の罪でとがめた。そのことが、いかに間違っているか、ということを、イエスさまは他の聖書の個所を取り上げて、まじめに反論なさっているのです。決して、「固いことを言うな」とおっしゃったわけではない。「聖書」というのは、私たちにとって、まさしく宗教的な書物です。つまり、神の国、神様をおぼろに映し出す鏡そのものと言って良い。神の国と、この世の私たちをとりなす聖書
。その大切な聖書を、あなた方ファリサイ派は間違って用いているというのです。
律法はもともと、神への愛、人への愛を実行するために与えられたものでした。イエスは、憐れみの心が律法の規則よりも先にあることを、私たちにさとします。
主よ、あなたが私たちの心に与えてくださった愛の掟を第一として、実践していくことができるよう、導いてください。sese05
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ダビデに、神聖なパンを与えたのは祭司であるから問題ない。また、律法は神様のものだから、神様が麦の穂を積んで食べても良いとおっしゃれば、それはよいに決まっている。同じように、弟子たちに今、麦の穂を積んで食べることをゆるしたのがイエスさまだから、律法違反にならないのです。なぜなら、イエスさまは、神の子だからです。神様の御心に従うために律法がある。その神様が、良いと言ったのだから、良いに決まっているのです。
例えば、わたしがだれかに自分のものをあげようとする。すると、そこに関係のない第3者がやってきて、「これこれ、それをもらってはダメですよ。それはアンドレア神父のものだからですよ。」‥‥これはおかしなことです。持ち主本人が、あげると言っているのですから、良いに決まっているわけです。
神の御子が「良い」と言っているのに、ファリサイ派の人々は、「それは神様の御心に背くことだからダメだ」というのはおかしいのです。持ち主が「良い」と言えばよいのです。それをとがめるのは、「本末転倒」というものです。すなわち、ファリサイ派の人々は、イエスさまが実はどなたであるのか、ということが全く分かっていないのです。
イエスがどなたであるかが分かれば、すべてが分かってくる
祭司が安息日に仕事をしても良い、という例を引き合いに出されたのも同じことです。祭司というのは、神様にお仕えする人です。だから安息日に仕事をしても良いというか、安息日に祭司が仕事をしなかったら、人々は神様を礼拝する事ができない。まさに、牧師が日曜日に仕事をしなかったら、教会の礼拝が成り立たないのと同じです。
これもイエスさまが神の御子であるとすると分かってくる。イエスさまのそばで、イエスさまに従っているのが弟子たちです。その御子イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕えているとしたら、それは良いことなのです。
今わたしは、弟子たちがイエスさまに仕えている、と申しました。しかし弟子たちがイエスさまに仕えて働いているようには見えない。むしろ弟子たちのほうが、イエスさまに助けていただき、イエスさまに仕えていただいているように、聖書を読んでいると思えます。でも、イエスさまは弟子たちがご自分に仕えていると言わんばかりです。弟子たちはただ、イエスさまのそばにいるに過ぎないのに、です。
ここにイエスさまのメッセージがあります。ただイエスさまのそばにいる、何もイエスさまのお役に立っているわけではない。しかし、それにもかかわらず、イエスさまは喜んでくださるのです。ただイエスさまのそばにいるだけしかできない。しかしその弟子たちを、イエスさまは、神殿で神様に仕えている祭司と同じように扱ってくださるのです。
「神殿よりも偉大なもの」‥‥神殿よりも偉大なものと言えば、それはもう、神様しかありません。「神殿よりも偉大なものがここにある」というイエスさまの言葉は、その神様がここにおられる、ということです。言い換えれば、イエスさまのいるところが、神様のいるところだ、ということをおっしゃっているのです。
すなわちきょうの聖書は、イエスさまこそ神の御子だ、ということを認めないと、何も分かりません。イエスさまはそのことを、はっきりとではないが、鏡におぼろに映すようにおっしゃっているのです。そしてこのことは、やがて、イエスさまが十字架にかけられ、そして復活なさったときに、明らかとなったのです。
祭司しか食べてはならないパンをダビデに与えた祭司アヒメレクは、サウル王によって殺されていまいました。言わば、祭司アヒメレクは命がけでダビデにパンを与えたことになります。主イエスも、そうでした。弟子たちに、そして私たちに、命のパンを与えるために、命をかけてくださったのです。十字架で命を投げ出して、私たちに命のパンを与えてくださったのです。
年間第15土
マタイ12・14-21
私たちひとりひとりは、まるで、ここに書かれているように、傷ついた一本の葦のようではありませんか。‥‥川や湖の岸辺に群生している葦。その一本が傷ついたとしても、誰も気にもとめないのではないでしょうか。葦の茎が一本傷ついている。今にも折れそうだ。どうしますか? そんなことはどうでもよいことでしょう。あるいは、いっそのこと折って捨ててしまうでしょう。
ところが、主イエスは違うというのです。そこに引用されているイザヤ書の言葉のように、「彼は傷ついた葦を折らず」というのです。イエス様から見ると、傷ついて、今にも折れそうな葦を折らない。つまり何とか再びピンと立つように、なさるというのです。この「葦」は、原語では単数形なのです。つまり、たくさん生えているうちのたった一本の葦。それがどうなろうと誰も気にもとめない。しかし主イエスは、そんなどうでもよいような一本の葦でさえ、目を留めて、あわれんで、何とかして再びたつようにしてくださる方だというのです。これが私たちの主イエス・キリストという方です。
たった一人のこのわたしのために
まさに私自身も、私たちひとりひとりも、今にも折れそうな一本の葦かもしれない。なかなか神様の御言葉を信じきることのできない自分があり、また様々な問題を抱えている。私という人間一人ぐらい、折れても捨てられても、誰も何ともないし、世界から見て何の影響もないかもしれない。どうでもよいことです。しかし主イエスから見ると違う。一本の葦が傷ついているのをあわれんで、このわたしたちのところに近づき、やっていけるようにして
くださるというのです。
希望のともしびを消さない主イエス
「くすぶる灯心を消さない」‥‥昔の部屋の中の照明は、灯火でした。ランプと言えるほどのものではなく、お皿に油を入れ、糸を寄りあわせて造った芯を浸して火をつける、というものです。それがくすぶるというのは、お皿に油がなくなったのでしょうか。主イエスは、その油をつぎ足して、消えないようにするというのでしょう。
私たちは、希望を失ってしまいそうになることがあります。パレスチナの平和もそうです。あるいは、そんなに大きなことではなくても、毎日の生活の中で、その人間関係で、あるいは健康のことで、あるいは生活の心配のことで、子育てや親子の関係のことで‥‥。神様への信仰も、くすぶって、消えてしまいそうになることがあります。希望が失せてしまいそうになることがあります。
しかし主イエスは、そこに油を足して、再び灯が明るくともるようにしてくださる。それが私たちの主イエス・キリストであるというのです。どうかこの主イエスが、この1週間も皆さんと共に歩んでくださいますように。そして、なるほどその通りであった、というあかしの生まれますように。 niban
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マタイ10・34~11・1
ここで主イエスがおっしゃりたいことは、37節に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより、息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とありますように、父や母よりも第一にイエスさまを愛しなさい、息子や娘よりもさらにイエスさまを愛しなさい、ということです。‥‥すなわちここで主イエスがおっしゃっていることは、他の誰よりも第一にイエスさまを愛しなさい、ということです。言い換えれば、他の誰よりも、まずイエスさまに従いなさい、ということです。
その結果、反発が起きることがあるのです。家の者の理解が得られず、対立することがあるのです。アシジの聖フランシスコは出家したときに、父親の反対を受けました。今でも、家族の反対を押し切って、あるいは親に勘当(かんどうdisinheritance)されてまでして、神父やシスター道を歩むために献身する人がいるのです。そのようなことは、聖職者だけのぶつかる問題ではありません。普通の信者の中にも、家族の反対、あるいは無理解の中から、いわば戦いの中から教会に集まってこられる方々がいるのです。
そういう者にとって、きょうのイエスさまの言葉は、なんと慰めに満ちていることでしょうか。親に勘当されてまで、神様に献身して神学校に入る者、父母、嫁姑の反対を押し切って、礼拝に集う者‥‥。もちろん家族を愛していないわけではない。だからこそ、悩むのです。「これでいいのだろうか?」と。「もしかしたら自分は間違ったことをしているのではないだろうか?」と。「聖書も、父母を敬うことを教えているではないか?」と。
なぜ、ここまで問い詰められるのであろう、なぜ、自分の生活の中で、自分の家族との生活の中で、その平和を奪うような言葉を、聞かなければならないのであろう。そういう思いで、ですから、この言葉もまた、父母や、息子娘を愛さなくてもよい、というのではないのです。父母や、息子娘を愛する以上に、まず主イエスを愛し、主イエスに従うことを求めておられるのです。niban
年間第15火
マタイ11・20-24
例えば、私が外務大臣に対して、「辞職してもらう」と言っても、何も起きません。そんな権限は私にはないからです。しかし、内閣総理大臣が同じことを言えば、外務大臣は辞めざるを得ないのです。総理大臣にはその権限がある、力があるからです。それと同じように、イエスさまに与えられている力、イエスさまにある力、その力の現れがここで言う「力あるわざ」ということであり、「奇跡」のことです。
ここに私たちは、「奇跡」=力あるわざ、というものが何のために行われるのか、ということの意味を知ることができるのです。すなわち、奇跡は悔い改めさせるためにある、ということです。言い換えれば、奇跡を行うことがイエスさまの目的なのではない、ということです。あくまでも奇跡を行うということは、悔い改めさせるために行われるのであることがよくわかります。そしてイエスさまの目的は、人々が悔い改める、ということであることが、よく分かります。そこを間違えてはなりません。 niban
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生き物に欠かせないものの一つには、水があるでしょう。水は化学的には、水素と酸素からなっています。水素二つと酸素一つ、H2O。この水素と酸素の結合は非常に安定したもので、しかも大量にできるのはなぜでしょうか。不思議のものです。水は氷ると氷は水より少し軽くなります。実際、氷を見ずに中に入れると浮かびます。もし、氷は水より重いのであれば、海洋は底から凍り、地球は氷の塊になってしまう。これは、水素原子の独特な特性によります。これも不思議なことです。
生き物は吸っている空気には、二酸化炭素があります。炭素一つと酸素二つ、CO2。空気の4.5%までになっても問題ない。不思議なのはこのCO2はなぜ、一酸化炭素(CO)にならないのか。簡単にできそうなのに。これも不思議です。
問題に出会った時、救いの手が差し伸べられて恵みに感謝したり、自分の小ささを認めることはあるかもしれません。しかし、空気のようにあまり意識していない恵み、人間の理解を超える奇跡によって今の私の命があることにどれほど気づいているでしょうか。
主よ、あなたの恵みと憐れみなしに生きていけないことに気づかせてください。そして、いつも感謝してあなたの愛に応えていくことができますように。sese05
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奇跡などないと言う人がいます。奇跡を信じず、自分の行動でのみを信じます。
人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、奇跡など何も起こらないと思って生きること。
もうひとつは、あらゆるものが奇跡だと思って生きること。
"There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle." これはEinsteinの言った言葉として伝えられることはあるのですが、実はそうじゃない。とにかく,生きていること、今ここにいること、目の前に広がる全てを奇跡だと思って見てみてくだい。あらゆるものが奇跡だと感じて過ごしてみてください。
大正生まれの平均寿命は50歳以下でした。私は大正生まれでしたら、もう生きていない。
ちょっとしたきっかけで脳梗塞や認知症を起こすことがあります。だから、今朝、早いのに、私は皆さんの前で、ちゃんと話しできるのは、奇跡。いとも簡単にできなくなりますから。
今日は、私はシスターたちのところでご馳走になります。もし、私はアフリカで生まれていたら、今日は食べられないかもしれない。そういう子供たちは実際何百万人います。
年間第15水
マタイ11・25-27
神の知恵は人間的な知恵をはるかに超えています。そのすばらしさを世に示すため、天の父は幼子のような者をお選びになりました。イエスが私たちに天の父を示されるのは、ひとえに私たちの小ささゆえです。
父なる神をよりよく知り、その愛のうちに生きることができるように、主よ、いつも幼子のような単純さを、お与えください。sese05
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自分のことをえらいと思っている人や、権力や名誉を求める人ではなく、幼子のように力のない人たちに、神さまは自らを現されるのだ。物事を神様の観点からみるのは、自分の力に頼っていては、不可能なことだといやというほどしめされた。自分は30年以上神学・哲学(神のことを調べる学問)をやってきたが、このように言われると、 なんだかふりだしにもどった感じです。 ここで思いますのは、von Balthasarのすばらしいことば。Von Balthasarは20世紀の偉い神学者であるが、彼は神学は「跪いた神学」(„kniende Theologie“ つまり、神の前で祈りながら営まれる神学)
Cfr Hans Urs von Balthasar, Theologie und Heiligkeit, Aufsatz von 1948 in: Verbum Caro. Schriften zur Theologie I, Einsiedeln 1960, 195-224でなければならないと訴えた。
「神はその力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、見捨てられた人を高められる」(ルカ1)
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イスラエルで子どもは、律法をまだ学んでいないのだから、人間ではないとさえ思われていた。律法を学んで初めて人間になると考えられていたからです。 しかしイエスはむしろ「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。これは御心に適うこと」といって、子どもであることに価値を認めました。実際子どもをとても大事にしました。
別の箇所で、「子どもにならなければ、神の国に入ることはできない」とありますが、ここでむしろ0歳児をイメージする必要があります。 今日の言葉は、「神様が本当の親なのだから、神様にすべて委ねるしかない赤ん坊になれ!」と言う意味です。 赤ん坊はまったく無力です。しかし親の愛に守られながらしっかり育っていきます。親がいるから何の恐れも要らない。安心していられる。 ましてその親が神様ならば、完璧です。
神はいるかどうか分からない。いたとしても、とにかく確かな認識ではない。だから自分だ頑張るしかない、と思う人は多いかも知れません。けれども、それもどの程度の認識であろうか。それは聖書で言う傲慢の罪ではないか。それこそ「知恵ある者や賢い者」の認識ではないか。むしろ、神が父であることを誇りにすべきではないか。そして自分が無力であること、小さいことを誇りにできるではないか。 イエス様でさえそうだったのでした。赤ん坊として生まれたとき、そして十字架にかけられたとき。 たとえば年をとることも無力になること。これこそイエス様が大切にした神の子どもであり、幼きイエスのテレジア(リジューの聖テレジアの目指した小さきものです。 神を親として持っている。だからその神様を信じ、すべて神様に委ねる、赤ん坊の心を持って、小さいものとして生きる決意を新たにしましょう。
年間第15木
「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」
マタイ11・28-30
。‥‥「くびき」というのは、牛の首の所にあてる木です。牛の首にくびきという木をあてて、車を引かせたり、すきを引かせて土を掘り起こさせたりします。つまり、牛を農作業で働かせるために自由を奪う道具です。
不思議なことをイエスさまはおっしゃる。私たちは「この世のくびき」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのではないか。だから、「休む」というのは、そういうこの世の重荷、この世のくびきから解放されて、自分の好きなようにすることではないか。自分にかけられたくびきがなくなってしまうことが、重荷が取り去られて、休まることではないのか‥‥そう思うでしょう。
それなのに、イエスさまは、この世のくびきをおろす代わりに、イエスさまのくびきを負え、と言うのです。「これでは、また違う重荷が負わせられるのではないか?」と私たちは思うのではないでしょうか。「私たちを縛りつけるくびきなど、なんにもなくて、自分の好きなようにして、自分の思ったとおりにできる。それが、重荷をおろすことであり、休むことだ」‥‥そう思う。ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、イエスさまのくびきを首にかけなさいとおっしゃるのです。
「疲れる原因がなくなりさえすれば、疲れることはないのではないか」と私たちは思います。 例えば、生活上の不安を覚え、重荷を負い疲れている人は、大金持ちになればもう疲れることはないだろう、と。もっと言えば、大金持ちになって、しかも権力を手にして、何でも自分の意のままにすることができたとしたら、どんなに楽だろうか、と。食べることに心配せずにすみ、住むところも広い屋敷で、自分をしばる律法もおきてもない、自由で、何でも手に入る‥‥そんなふうになったら疲れるということはないだろう‥‥そのように思います。しかしそれは違っているのです。
くびきがとれて何もなくなったのは、一見良いことだと思う。しかしそれは、また別のくびきがいつの間にか自分の首に掛かって苦しめていくようになっているのです。新しい別の重荷がのしかかっている。 人間関係で、疲れ果てる。職場の人間関係、家庭内の人間関係‥‥。そういう煩わしさから離れて、「誰もいないところに行って、一人になりたい!」と思うでしょう。誰もいないところで一人で‥‥無人島でしょうか。最初はよいでしょう。しか
しすぐに、猛烈な孤独感に襲われるでしょう。「誰でも良いから、話し相手になってくれ!」と言って、叫び出したくなるでしょう。
イエスさまのくびき(つまり、その教え)を掛ける。その結果、この世の他のくびきは取り除かれるのです。イエスさまの荷を負う。しかしそれは軽い荷です。そして、他の重い荷物は取り除かれる。そういうことなのです。
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くびきとは家畜に鋤や鍬などの農具を引かせるために首に背負わせる木です。ピッタリしていないとなかなか労働がつらい。名説教家は、ナザレのイエスの作ってくれるオーダーメイドのピッタリしたくびきのことだと語ったことがあるようです。
また、くびきには二頭のウシを並べてかつがせたようです。旧約聖書の中には異なった種類の家畜を一つのくびきにつけることは禁じられています(申命記22:10には「牛とろばとを組にして耕してはならない」とある)。キリストの軛とは、片方はイエスさまが背負ってくださり、もう片方は自分で背負うようなものなのでありましょう。主ご自身が私の重荷を背負ってくださる。主の軛は負いやすく、その荷は軽いと言われるのは、主が私と(四国のお遍路様ではないですが)同行二人(どうぎょうににん))で歩んでくださることを意味しています。
実は人生においても自分にピッタリの居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。
このキリストのみ声の中に、このお方との軛を背負い合う関係の中に、私たちのための居場所がある。心からホッとできる安らぎの場所がある。
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「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。このイザヤ書で示される苦難のしもべは、イエス・キリストのことを預言しています。 「富んでおられたのに、貧しくなられた。それは、彼の貧しさによって私たちが富む者になるため」(IIコリ8)。--私たちに代わって、イエスはこの世の貧しさを担って下さった。経済的な貧しさ、あらゆる人間の苦悩、重荷、病、そして罪を担ってくださった。イエスは私たちと共にいて、痛み・苦しみを取り、代わりに担いで、元気を与えて下さっている。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
私たちは、それなのに、なかなか自分の重荷を降ろそうとしません。神様に委ねるどころか、自分ひとりで一生懸命抱え込もうとしていることすらあります。一所懸命誠実であろうとして、自分のだけでなく、他人の重荷まで負おうとして、押しつぶされそうになっている人さえいます。 しかし、ただ自分の今の十字架を背負えばいい。他のさまざまな十字架は、イエス様がすべて負ってくださっているのです。 私たちには罪を赦してくださる神様がいます。永遠の命の希望があります。私のことを特別に大切だと思ってくださっている神様がついていてくださっています。 だからまず第一に、自分で解決できないような重荷や思い煩いは神様に負ってもらいましょう。 次に、強い確信に基づく自分の訴えや、それに反対するものへの裁きも、神様にお委ねし、お任せしましょう。
年間第15金
マタイ12・1-8
ここで注意しなければならないことは、イエスさまは、「そんな細かいこと言わなくても良いじゃあないか。大目に見なさい」とおっしゃったのではないということです。「そんな固いことを言うな」という理由で、反論なさったのではない。そこを注意しなければならないと思うのです。
今ファリサイ派の人々が、イエスさまの弟子たちを律法違反の罪でとがめた。そのことが、いかに間違っているか、ということを、イエスさまは他の聖書の個所を取り上げて、まじめに反論なさっているのです。決して、「固いことを言うな」とおっしゃったわけではない。「聖書」というのは、私たちにとって、まさしく宗教的な書物です。つまり、神の国、神様をおぼろに映し出す鏡そのものと言って良い。神の国と、この世の私たちをとりなす聖書
。その大切な聖書を、あなた方ファリサイ派は間違って用いているというのです。
律法はもともと、神への愛、人への愛を実行するために与えられたものでした。イエスは、憐れみの心が律法の規則よりも先にあることを、私たちにさとします。
主よ、あなたが私たちの心に与えてくださった愛の掟を第一として、実践していくことができるよう、導いてください。sese05
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ダビデに、神聖なパンを与えたのは祭司であるから問題ない。また、律法は神様のものだから、神様が麦の穂を積んで食べても良いとおっしゃれば、それはよいに決まっている。同じように、弟子たちに今、麦の穂を積んで食べることをゆるしたのがイエスさまだから、律法違反にならないのです。なぜなら、イエスさまは、神の子だからです。神様の御心に従うために律法がある。その神様が、良いと言ったのだから、良いに決まっているのです。
例えば、わたしがだれかに自分のものをあげようとする。すると、そこに関係のない第3者がやってきて、「これこれ、それをもらってはダメですよ。それはアンドレア神父のものだからですよ。」‥‥これはおかしなことです。持ち主本人が、あげると言っているのですから、良いに決まっているわけです。
神の御子が「良い」と言っているのに、ファリサイ派の人々は、「それは神様の御心に背くことだからダメだ」というのはおかしいのです。持ち主が「良い」と言えばよいのです。それをとがめるのは、「本末転倒」というものです。すなわち、ファリサイ派の人々は、イエスさまが実はどなたであるのか、ということが全く分かっていないのです。
イエスがどなたであるかが分かれば、すべてが分かってくる
祭司が安息日に仕事をしても良い、という例を引き合いに出されたのも同じことです。祭司というのは、神様にお仕えする人です。だから安息日に仕事をしても良いというか、安息日に祭司が仕事をしなかったら、人々は神様を礼拝する事ができない。まさに、牧師が日曜日に仕事をしなかったら、教会の礼拝が成り立たないのと同じです。
これもイエスさまが神の御子であるとすると分かってくる。イエスさまのそばで、イエスさまに従っているのが弟子たちです。その御子イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕えているとしたら、それは良いことなのです。
今わたしは、弟子たちがイエスさまに仕えている、と申しました。しかし弟子たちがイエスさまに仕えて働いているようには見えない。むしろ弟子たちのほうが、イエスさまに助けていただき、イエスさまに仕えていただいているように、聖書を読んでいると思えます。でも、イエスさまは弟子たちがご自分に仕えていると言わんばかりです。弟子たちはただ、イエスさまのそばにいるに過ぎないのに、です。
ここにイエスさまのメッセージがあります。ただイエスさまのそばにいる、何もイエスさまのお役に立っているわけではない。しかし、それにもかかわらず、イエスさまは喜んでくださるのです。ただイエスさまのそばにいるだけしかできない。しかしその弟子たちを、イエスさまは、神殿で神様に仕えている祭司と同じように扱ってくださるのです。
「神殿よりも偉大なもの」‥‥神殿よりも偉大なものと言えば、それはもう、神様しかありません。「神殿よりも偉大なものがここにある」というイエスさまの言葉は、その神様がここにおられる、ということです。言い換えれば、イエスさまのいるところが、神様のいるところだ、ということをおっしゃっているのです。
すなわちきょうの聖書は、イエスさまこそ神の御子だ、ということを認めないと、何も分かりません。イエスさまはそのことを、はっきりとではないが、鏡におぼろに映すようにおっしゃっているのです。そしてこのことは、やがて、イエスさまが十字架にかけられ、そして復活なさったときに、明らかとなったのです。
祭司しか食べてはならないパンをダビデに与えた祭司アヒメレクは、サウル王によって殺されていまいました。言わば、祭司アヒメレクは命がけでダビデにパンを与えたことになります。主イエスも、そうでした。弟子たちに、そして私たちに、命のパンを与えるために、命をかけてくださったのです。十字架で命を投げ出して、私たちに命のパンを与えてくださったのです。
年間第15土
マタイ12・14-21
私たちひとりひとりは、まるで、ここに書かれているように、傷ついた一本の葦のようではありませんか。‥‥川や湖の岸辺に群生している葦。その一本が傷ついたとしても、誰も気にもとめないのではないでしょうか。葦の茎が一本傷ついている。今にも折れそうだ。どうしますか? そんなことはどうでもよいことでしょう。あるいは、いっそのこと折って捨ててしまうでしょう。
ところが、主イエスは違うというのです。そこに引用されているイザヤ書の言葉のように、「彼は傷ついた葦を折らず」というのです。イエス様から見ると、傷ついて、今にも折れそうな葦を折らない。つまり何とか再びピンと立つように、なさるというのです。この「葦」は、原語では単数形なのです。つまり、たくさん生えているうちのたった一本の葦。それがどうなろうと誰も気にもとめない。しかし主イエスは、そんなどうでもよいような一本の葦でさえ、目を留めて、あわれんで、何とかして再びたつようにしてくださる方だというのです。これが私たちの主イエス・キリストという方です。
たった一人のこのわたしのために
まさに私自身も、私たちひとりひとりも、今にも折れそうな一本の葦かもしれない。なかなか神様の御言葉を信じきることのできない自分があり、また様々な問題を抱えている。私という人間一人ぐらい、折れても捨てられても、誰も何ともないし、世界から見て何の影響もないかもしれない。どうでもよいことです。しかし主イエスから見ると違う。一本の葦が傷ついているのをあわれんで、このわたしたちのところに近づき、やっていけるようにして
くださるというのです。
希望のともしびを消さない主イエス
「くすぶる灯心を消さない」‥‥昔の部屋の中の照明は、灯火でした。ランプと言えるほどのものではなく、お皿に油を入れ、糸を寄りあわせて造った芯を浸して火をつける、というものです。それがくすぶるというのは、お皿に油がなくなったのでしょうか。主イエスは、その油をつぎ足して、消えないようにするというのでしょう。
私たちは、希望を失ってしまいそうになることがあります。パレスチナの平和もそうです。あるいは、そんなに大きなことではなくても、毎日の生活の中で、その人間関係で、あるいは健康のことで、あるいは生活の心配のことで、子育てや親子の関係のことで‥‥。神様への信仰も、くすぶって、消えてしまいそうになることがあります。希望が失せてしまいそうになることがあります。
しかし主イエスは、そこに油を足して、再び灯が明るくともるようにしてくださる。それが私たちの主イエス・キリストであるというのです。どうかこの主イエスが、この1週間も皆さんと共に歩んでくださいますように。そして、なるほどその通りであった、というあかしの生まれますように。 niban
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16 per annum
年間 第十六月曜日
「ヨナのしるし以外は与えられない」
マタイ12・38-42
人はいつの時代でも、しるしや奇跡を求めます。「奇跡を見せれば信じてやる」と。これは本当でしょうか。本当に奇跡を見れば人は信しるのでしょうか。じつは奇跡から信仰に至るのは、めったにないことなのです。聖書の中でも、奇跡を見て信じた人は非常に少ないのです。むしろ奇跡を見る前に信じた、信じたから奇跡が起こった、と言うのは一般的です。人は奇跡を素直に認めるかというと、そうでもないのです。何かと合理的に解釈しようとするからです。そして合理的に説明できるなら、それを奇跡だとは思いません。じつは合理的説明の付かない現実、不可思議なしるしがあることに普通人々は気づかないのです。むしろ、あたりまえのことだと思ってしまうのです。
「しるしを欲しがる」ということは、自分の考えどおりになるように求めることでしよう。だからこそ、求めたら、欲しがるなら奇跡は絶対に与えられないのです。求めなくなった時に、しるしは見えてくるものなのです。自分の狭い要求を捨てた時、ありのままの奇跡が見えてくるのです。(静)
年間 第十六火曜日
「ここに私の母、私の兄弟がいる」
マタイ12・46-50
母、兄弟は血のつながりで結ばれています。イエスも母マリアや親戚と同じ血で結ばれ、同じ家族、親族、階級、メンタリティによって共通の文化遺産を受け継いでいます。しかし神の国では、同じ血によってではなく、同じ信仰によって、天の父の子らが兄弟として結ばれます。自然的な血縁関係によってではなく、父の子イエスの血によって兄弟の契りが結ばれ、父と子らとの関係が結ばれます。イエスのことばは剣のように父母兄弟をわけます(マタイ10・35-36)。主イエスと弟子の関係は、上下関係から(マタイ10・24)、兄弟同士の横の関係になります。天の父はわたしたちに聖母マリアを母として、イエスを兄弟として、すべての人を兄弟姉妹として与え、同じ神の愛の共同体に招き入れます。教会はこの神秘を「聖徒の交わり」ということばで表しまします。信仰による交わりは、自然的な関係よりも強く、もっと時間にたえて、永遠につながるのです。(荒)
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考えて見れば、兄弟姉妹、親など、血の繋がりがあっても、とても悪い関係に生きる人が少ないのです。自分の野心や欲望を優先して自分の子供に対する責任を怠ったり、または子供を虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただの色々な援助や資金の源としてしか見ない子供も沢山います。家族の中で色々な問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。
血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、わたしたちの幸福を妬ネタむ恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛を頂くことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒すということなのです。
●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。
子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。
年間 第十六水曜日
「ある種は道端に落ちた」
マタイ13・1-9
種は、芽を出して実を結ぶ可能性を秘めたものです。しかしその可能性は、種の中で眠っています。ある条件が整うまで、つまり芽を出して、きちんと育つための条件がそろうまで、種は眠り続けます。時として、何千年も眠り続ける種もあります。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものである。だから、聖書をそのまま信じていくということが最も正しい読み方とは言えないと思います。二千年という時間や、日本と.ハレスチナという空間的な隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように聖書を読んでいくことは、私たちの都合で曲げてしまうことになると思います。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということである。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。
イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるのだということであり、このことをしっかり覚えたいと思う。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受けとめていったならば、[御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力をもっているのです。(榎本)
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3万年前の氷河期に自生していたナデシコ科の花を咲かせることに、ロシアのチームが成功した。シベリアの永久凍土に埋まっていた植物の化石の一部を培養して育てた。古代から現代によみがえらせた最古の植物になるという。 古代の植物を現代に復元させた例は、数千年前の縄文時代の古代ハスなどがある。
化石は、地下38メートルに埋まっていた。氷河期のリスがエサをためていた巣穴から見つかった。状態が良い化石を選んで、めしべの組織の一部を採取、培養して育てたところ、1年後に白い花が咲いた。
シベリアの永久凍土で見つかった約3万年前の植物の実から種を取り出し、花を咲かせることにロシアの研究チームが成功し20日、米科学アカデミー紀要に発表した。絶滅した植物の再生や新たな生物資源としての利用が期待できるという。
開花したのはナデシコ科の「スガワラビランジ」。チームは北東シベリアの川岸にある永久凍土を調査し、リスが食料貯蔵用に開けたとみられる穴からスガワラビランジの実を発見。付近の年間平均気温は氷点下7度で、凍った状態で保存されていたとみられる。実に含まれる放射性炭素による年代測定法で約3万年前のものと判明した。(朝日新聞 2012年2月22日朝刊)
年間 第十六木曜日
「見ても見えず、聞いても聞えない」
マタイ13・10-17
イエス様は、神の国のことをたとえ話で教えました。たとえ話は、真理をわかりやすくするために使われます。しかし、わかりやすくすると同時に、真理を隠すためにも使われるのです。理解しようとする人に神の国の秘義(秘密)をあかし、攻撃しようとする人の目から隠すためなのです。
たとえ話は、話し手であるイエス様の立場に立ってみると、真理が見えてきます。しかし私たちの側に立って考えると、秘義が隠れてしまうのです。イエス様を知る人は、たとえ話の意味を理解します。イエス様をまず愛する人が、たとえ話の探い意味を知り、悟り、種々の教えを学ぶのです。自分を中心に、つまりこちら側の人間を中心に考える限り、たとえ話は障害になります。神中心に考えてみる時、そのたとえ話のみごとさがよく見えてくるのです。
たとえ話を理解するか理解しないかは、イエス様を信じているのか、それとも自分自身だけを愛しているのかを示す、はかりの一つなのです。(静)
年間 第十六金曜日
「あるものは百億、あるものは六十倖、あるものは三十倍」
マタイ13・18-23
どうしてイエス様は百倍、六十倍、三十倍とだんだん数を減らしたのでしょう。普通、私たち人間の数え方なら、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶ、と話すのではないでしょうか。少ないほうからだんだん多い方へいき、ついに完全な百倍の実を結ぶとしたほうが、私たちにとってはわかりやすく、感動的ではないでしょうか。低いところから努力して、だんだん完璧になっていく方が、完全なものから不完全なものにいくよりは、ずっと教育的なのです。ではなぜイエス様は、それをわざわざ反対にしたのでしょうか。
おそらくはその道徳的・教訓的なにおいを消すためだったのかもしれません。低いところから努力して高いところを目指すとなると、もうこれは努力主義になってしまいます。他人と比較して、その実りの多少を計算することになります。そして多く実を結んだ人は立派で、そうでない人は劣(おと)った人になってしまうのです。人の目から見たら確かに、三十倍実を結んだ人より、百倍結んだ人のほうがずっと立派とみなされるでしょう。しかし信仰的に神の目から見たら、結果ではないことも確かなのです。人は結果を問いますが、神はむしろ結果より、人の心をごらんになります。だとすると、イエス様の目は私たち人間とは違って、神の価値観を示しているのです。(静)
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この「種」とは、御国の言葉、すなわち御言葉のことだというのです。‥‥イエスさまの言葉、神の言葉=みことばを、人々に語る=まく。ところが、畑にまいた麦の種がすべて順調に育つのではないように、みことばもすべて人の中で成長するのではない、ということになります。当時の農業というものは、今の時代よりもずっとたいへんでした。まず、一粒の種が、芽を出して麦の穂を実らせたときに、どのくらいになるのか。清水恵三によると、現在の麦は、1粒から60粒~100粒になると書いています。しかし、この時代は、せいぜい10粒、豊作でも30粒といった程度だったようです。だから、昔は、農民はたくさんいたのに、収穫はそれほど多くはないということになるのです。生産性が低かったわけです。
だから、1粒1粒の種を、大切にまいたことでしょう。1粒でもむだにすることがないように、大切にまいたのです。それでも道ばたに落ちる種がある。また、パレスチナは、石の多いところだそうです。そしてまた深く耕さないので、畑の土の下には石があるかもしれない。それが石地です。また、この地方にはイバラという植物がある。このイバラは、一般には、鋭いトゲがついている植物を言うのだそうです。そして根が丈夫で固い。パイプの材料になるそうです。だから、そういうところに麦が落ちても、十分に成長することができません。‥‥そういう光景が思い浮かびます。
私たちがこのたとえ話を聞いて、犯しやすい誤りは、自分自身を裁いてしまうということだろうと思います。‥‥「どうせ自分は、悪い土地なのだ。良い土地ではないのだ。だからいくら教会に通っても、聖書を読んでも、どうせ豊かな実を結ぶことはできないのだ」と、投げやりになってしまうことです。
これらは、間違っています。何が間違っているかといえば、決めつけている点です。「あの人は、石だらけの土地なのだ」「あの人は、茨の生えた土地なのだ」とか、「自分はどうせ道ばたなのだ」「だからいくら教会に通っても、聖書を読んでもダメなのだ」と決めつけることです。
信仰には、「素質」というものはありません。この世の出来事は「素質」というものが必要かもしれません。世界の一流のサッカー選手になるには、やはり「素質」というものが必要でしょう。生まれもっての体格、身長、運動神経‥‥いくら努力といっても、あそこまでになるには、やはり天性というか、生まれもっての素質というものが必要でしょう。しかし、信仰には「素質」というものは、まったくないのです。みんな平等です。信仰の「才能」などというものはないのです。生まれつき「神さまに近い人」などというものはありません。才能も素質も、実は信仰には全く関係ありません。それゆえ、イエスさまにとっては、物事についての知識もないような幼子が天国の住人だとされるのです。
年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30
親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。
「ヨナのしるし以外は与えられない」
マタイ12・38-42
人はいつの時代でも、しるしや奇跡を求めます。「奇跡を見せれば信じてやる」と。これは本当でしょうか。本当に奇跡を見れば人は信しるのでしょうか。じつは奇跡から信仰に至るのは、めったにないことなのです。聖書の中でも、奇跡を見て信じた人は非常に少ないのです。むしろ奇跡を見る前に信じた、信じたから奇跡が起こった、と言うのは一般的です。人は奇跡を素直に認めるかというと、そうでもないのです。何かと合理的に解釈しようとするからです。そして合理的に説明できるなら、それを奇跡だとは思いません。じつは合理的説明の付かない現実、不可思議なしるしがあることに普通人々は気づかないのです。むしろ、あたりまえのことだと思ってしまうのです。
「しるしを欲しがる」ということは、自分の考えどおりになるように求めることでしよう。だからこそ、求めたら、欲しがるなら奇跡は絶対に与えられないのです。求めなくなった時に、しるしは見えてくるものなのです。自分の狭い要求を捨てた時、ありのままの奇跡が見えてくるのです。(静)
年間 第十六火曜日
「ここに私の母、私の兄弟がいる」
マタイ12・46-50
母、兄弟は血のつながりで結ばれています。イエスも母マリアや親戚と同じ血で結ばれ、同じ家族、親族、階級、メンタリティによって共通の文化遺産を受け継いでいます。しかし神の国では、同じ血によってではなく、同じ信仰によって、天の父の子らが兄弟として結ばれます。自然的な血縁関係によってではなく、父の子イエスの血によって兄弟の契りが結ばれ、父と子らとの関係が結ばれます。イエスのことばは剣のように父母兄弟をわけます(マタイ10・35-36)。主イエスと弟子の関係は、上下関係から(マタイ10・24)、兄弟同士の横の関係になります。天の父はわたしたちに聖母マリアを母として、イエスを兄弟として、すべての人を兄弟姉妹として与え、同じ神の愛の共同体に招き入れます。教会はこの神秘を「聖徒の交わり」ということばで表しまします。信仰による交わりは、自然的な関係よりも強く、もっと時間にたえて、永遠につながるのです。(荒)
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考えて見れば、兄弟姉妹、親など、血の繋がりがあっても、とても悪い関係に生きる人が少ないのです。自分の野心や欲望を優先して自分の子供に対する責任を怠ったり、または子供を虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただの色々な援助や資金の源としてしか見ない子供も沢山います。家族の中で色々な問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。
血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、わたしたちの幸福を妬ネタむ恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛を頂くことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒すということなのです。
●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。
子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。
年間 第十六水曜日
「ある種は道端に落ちた」
マタイ13・1-9
種は、芽を出して実を結ぶ可能性を秘めたものです。しかしその可能性は、種の中で眠っています。ある条件が整うまで、つまり芽を出して、きちんと育つための条件がそろうまで、種は眠り続けます。時として、何千年も眠り続ける種もあります。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものである。だから、聖書をそのまま信じていくということが最も正しい読み方とは言えないと思います。二千年という時間や、日本と.ハレスチナという空間的な隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように聖書を読んでいくことは、私たちの都合で曲げてしまうことになると思います。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということである。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。
イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるのだということであり、このことをしっかり覚えたいと思う。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受けとめていったならば、[御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力をもっているのです。(榎本)
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3万年前の氷河期に自生していたナデシコ科の花を咲かせることに、ロシアのチームが成功した。シベリアの永久凍土に埋まっていた植物の化石の一部を培養して育てた。古代から現代によみがえらせた最古の植物になるという。 古代の植物を現代に復元させた例は、数千年前の縄文時代の古代ハスなどがある。
化石は、地下38メートルに埋まっていた。氷河期のリスがエサをためていた巣穴から見つかった。状態が良い化石を選んで、めしべの組織の一部を採取、培養して育てたところ、1年後に白い花が咲いた。
シベリアの永久凍土で見つかった約3万年前の植物の実から種を取り出し、花を咲かせることにロシアの研究チームが成功し20日、米科学アカデミー紀要に発表した。絶滅した植物の再生や新たな生物資源としての利用が期待できるという。
開花したのはナデシコ科の「スガワラビランジ」。チームは北東シベリアの川岸にある永久凍土を調査し、リスが食料貯蔵用に開けたとみられる穴からスガワラビランジの実を発見。付近の年間平均気温は氷点下7度で、凍った状態で保存されていたとみられる。実に含まれる放射性炭素による年代測定法で約3万年前のものと判明した。(朝日新聞 2012年2月22日朝刊)
年間 第十六木曜日
「見ても見えず、聞いても聞えない」
マタイ13・10-17
イエス様は、神の国のことをたとえ話で教えました。たとえ話は、真理をわかりやすくするために使われます。しかし、わかりやすくすると同時に、真理を隠すためにも使われるのです。理解しようとする人に神の国の秘義(秘密)をあかし、攻撃しようとする人の目から隠すためなのです。
たとえ話は、話し手であるイエス様の立場に立ってみると、真理が見えてきます。しかし私たちの側に立って考えると、秘義が隠れてしまうのです。イエス様を知る人は、たとえ話の意味を理解します。イエス様をまず愛する人が、たとえ話の探い意味を知り、悟り、種々の教えを学ぶのです。自分を中心に、つまりこちら側の人間を中心に考える限り、たとえ話は障害になります。神中心に考えてみる時、そのたとえ話のみごとさがよく見えてくるのです。
たとえ話を理解するか理解しないかは、イエス様を信じているのか、それとも自分自身だけを愛しているのかを示す、はかりの一つなのです。(静)
年間 第十六金曜日
「あるものは百億、あるものは六十倖、あるものは三十倍」
マタイ13・18-23
どうしてイエス様は百倍、六十倍、三十倍とだんだん数を減らしたのでしょう。普通、私たち人間の数え方なら、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶ、と話すのではないでしょうか。少ないほうからだんだん多い方へいき、ついに完全な百倍の実を結ぶとしたほうが、私たちにとってはわかりやすく、感動的ではないでしょうか。低いところから努力して、だんだん完璧になっていく方が、完全なものから不完全なものにいくよりは、ずっと教育的なのです。ではなぜイエス様は、それをわざわざ反対にしたのでしょうか。
おそらくはその道徳的・教訓的なにおいを消すためだったのかもしれません。低いところから努力して高いところを目指すとなると、もうこれは努力主義になってしまいます。他人と比較して、その実りの多少を計算することになります。そして多く実を結んだ人は立派で、そうでない人は劣(おと)った人になってしまうのです。人の目から見たら確かに、三十倍実を結んだ人より、百倍結んだ人のほうがずっと立派とみなされるでしょう。しかし信仰的に神の目から見たら、結果ではないことも確かなのです。人は結果を問いますが、神はむしろ結果より、人の心をごらんになります。だとすると、イエス様の目は私たち人間とは違って、神の価値観を示しているのです。(静)
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この「種」とは、御国の言葉、すなわち御言葉のことだというのです。‥‥イエスさまの言葉、神の言葉=みことばを、人々に語る=まく。ところが、畑にまいた麦の種がすべて順調に育つのではないように、みことばもすべて人の中で成長するのではない、ということになります。当時の農業というものは、今の時代よりもずっとたいへんでした。まず、一粒の種が、芽を出して麦の穂を実らせたときに、どのくらいになるのか。清水恵三によると、現在の麦は、1粒から60粒~100粒になると書いています。しかし、この時代は、せいぜい10粒、豊作でも30粒といった程度だったようです。だから、昔は、農民はたくさんいたのに、収穫はそれほど多くはないということになるのです。生産性が低かったわけです。
だから、1粒1粒の種を、大切にまいたことでしょう。1粒でもむだにすることがないように、大切にまいたのです。それでも道ばたに落ちる種がある。また、パレスチナは、石の多いところだそうです。そしてまた深く耕さないので、畑の土の下には石があるかもしれない。それが石地です。また、この地方にはイバラという植物がある。このイバラは、一般には、鋭いトゲがついている植物を言うのだそうです。そして根が丈夫で固い。パイプの材料になるそうです。だから、そういうところに麦が落ちても、十分に成長することができません。‥‥そういう光景が思い浮かびます。
私たちがこのたとえ話を聞いて、犯しやすい誤りは、自分自身を裁いてしまうということだろうと思います。‥‥「どうせ自分は、悪い土地なのだ。良い土地ではないのだ。だからいくら教会に通っても、聖書を読んでも、どうせ豊かな実を結ぶことはできないのだ」と、投げやりになってしまうことです。
これらは、間違っています。何が間違っているかといえば、決めつけている点です。「あの人は、石だらけの土地なのだ」「あの人は、茨の生えた土地なのだ」とか、「自分はどうせ道ばたなのだ」「だからいくら教会に通っても、聖書を読んでもダメなのだ」と決めつけることです。
信仰には、「素質」というものはありません。この世の出来事は「素質」というものが必要かもしれません。世界の一流のサッカー選手になるには、やはり「素質」というものが必要でしょう。生まれもっての体格、身長、運動神経‥‥いくら努力といっても、あそこまでになるには、やはり天性というか、生まれもっての素質というものが必要でしょう。しかし、信仰には「素質」というものは、まったくないのです。みんな平等です。信仰の「才能」などというものはないのです。生まれつき「神さまに近い人」などというものはありません。才能も素質も、実は信仰には全く関係ありません。それゆえ、イエスさまにとっては、物事についての知識もないような幼子が天国の住人だとされるのです。
年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30
親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。
17 per annum
年間 17月
マタイによる福音(13:31-35)
からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。
年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)
アウグスティヌスの有名な言葉があります。
「神はどんな悪も行われえないようにするよりも、悪からも善を生ぜしめるようにするほうが良いとお考えになった」
なるほど、毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれない。普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思うけれども、仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑だ。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」という信頼、喜びを忘れちゃったら、神さまが私たちに与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるってことになってしまう。
神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。
煉獄(れんごく)って、そんなようなことかもしれないですね。カトリックには、天国に行く前に浄めのプロセスとして煉獄に入るっていう伝統的な考え方がありますけど、神さまのみもとに行くとき、神さまご自身に全部きれいにしてもらって、清らかな麦畑としていただいてから、神さまに迎えいれてもらえるってことです。これは、福音でしょう。希望です。こういう福音を信じて、自分は本来そのような良い麦畑だと受け入れることこそが、救いなんじゃないですか。自分は毒だと思い込むとか、その毒を抜き続けようとして疲れ果てるかではなく、イエスさまの福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。
他人の毒麦を抜こうとする人。「あなた、ちょっと鼻毛(はなげ)が出ていますよ」(笑)みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。
あの政治家を抜いたらホントに国は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かってるはず。抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが、真実じゃないですか。神さまは毒麦つきの世界をおゆるしになっているんです。私たちはその中で、良い麦を見るべきじゃないですか。忍耐強く、良い麦をこそ育てるべきじゃないですか。人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならない。(福音の村)
---------------
イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
-------
人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。
年間 17水
マタイによる福音(13:44-46)
私たちの周囲には無数の善意の人々がいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人々がたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練に打ち倒されたり、信頼する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ち上がらいたいと願っている人々もいます。そうした人々は、何かに飢え、何かを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人々なのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています(畑の中に隠されている宝のように)。「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「疲れた者、重荷を負うものは私のもとに来なさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできる方が、与えられているにもかかわらず、だれも言葉をかけないといって嘆き苦しむ人々がいます。
「私はすでに世に勝っている」と、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺し続ける人々がいます。「あなたの罪は許された」といって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできる方がいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人々がいるのです。
キリストは、すべての人々の求めに、願いに、答えることができるだけの光と力と愛を持っているのですから、もし、人々がそれに気が付けば、それこそすべてを捨てて、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエスとの出会いを大切にすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもない喜びであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるでしょう。
しかし、現実には、残念ながら、人々の飢え、渇きとイエスとの出会いがなかなかおこらないのです。私たちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。
どうしてでしょうか。人々の責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。
私(森一弘)はそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人々の方に責任があるような気がいたします。現代の人々の問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。私たちは、もっともっと努力して、宝であり、真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。
-------
天の国は、持ち物をすっかり売り払って買うほどにすばらしいのです。天の国を見つけた者は、「わたし」という小さな枠から自由になります。神の愛に信頼するなら、もう自分のために何も心配はいりません。 seseragi
--------------------
主イエスの世界は、「献身」の世界です。自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。 「献金」あるいは「維持費」のようなものとは全然違う。献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。 ですから、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように朝の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。仕事の時間も神様に捧げます。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。 nibanmati
年間 17木
マタイによる福音(13:47-53)
マクベス 『マクベス』(Macbeth) 第5幕第5場 シェイクスピア。夫人の死の報せを聞いて、マクベスがつぶやく台詞。その人生観が垣間見える。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.
明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる 物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。
人生は愚か者が語る物語で、騒ぎも意気込みもえらいが、たわいのないものだ。
また、サルトルは、「人間は一つの無益な受難(意気込み)である。( L' homme est une passion inutile.) 」(『存在と無』、松浪信三郎訳)と言っている。
今日の福音書は、網というイメージを使って、私たちは神の手の中にいるという感覚を教えています。水の中にあるものは見えないが、網をかけると見えてくる。人生は、歴史は無意味に見えても、その中身は分かるときが来る。
また、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人」に関しては、リチャード・ニーバーの有名な祈りを思い出します。
神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの
冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
-------
新しいものと古いものが入っている倉を持っている人といえば、それは便利に違いありません。現代のふつうの若い人の家では、新しい物しかありません。古いものがないし、あっても、それをとってしまっておく倉がないからです。しかし、例えば、もちつきなどは、昔の杵(きね)と臼(うす)でついた餅がうまいでしょう。また、停電になったとき、懐中電灯の調子が悪かったということになりますと、ローソクが必要となります。
このように、新しいものもある、古いものもある、ということになると、どんな事態にも対応できます。パウロはピリピ人への手紙でこう言っている‥‥(フィリピ 4:11~13)「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道
を知っており。富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 nibanmati (粘土が陶工の手の中にあるように」(偶数年、第一朗読)、私たちも神の手の中にいるという感覚を学ぶようなことです。
年間 17金
マタイによる福音(13:54-58)
顔見知りの者が、人々を驚かせるようなすばらしいことを言ったら、わたしは語る内容をすぐに受け入れられるでしょうか。大したことはないと思ったり、同郷の者としてその偉大さにあやかろうしたりすることがあるかもしれません。わたしたちは目に見えるものにつまずきがちです。
人は目に見えるものを見ますが、神は心を見ます。信じる心がないところでは、イエスの恵みも生かされることがありません。
主よ、私を「心」を観る者としてください。あなたがわたしたちを愛してくださったようにわたしも人を愛し、信じる者になれますように。seseragi
-----------------
人々は、自分たちと同じ生活を送っていたイエスにつまづいた。
つまずく、というのは、イエスさまを信じることができなかった、ということです。人の子としてのイエスさまを、小さい頃から知っていたばかりに、イエスさまが神の国の福音を携えてきた時に、「えー?なんで?こいつが?」と思ったのです。つまりこの人々は、先入観にとらわれてしまって、本当のことが見えなかったのです。
わたしにも思い当たることはいくつかあります。たとえば、私は25歳で神父にないましたが、なったばかりの頃は、世間の人から、「神父さんというのは、もっと立派な人だと思った」などと言われたものです。まあ、やがて歳をとって、白髪になると思うのですが。しかしそれも本質とは何の関係もないことのはずです。神父というものは人生相談をする職業ではないからです。「人生経験があればいいことですが、神父として一番必要なことは、神の言葉を聞いて、それを語るということだ」と。 人生相談をしたいなら、そういう相談に乗ってくれる人はたくさんいます。人間の常識としての人生
のアドバイスがほしければ、そちらに行けばよろしい。しかし教会でなければ聞くことができないことというのがあるのです。それが神の言葉です。そして教会を通してでなければできないことというのがある。それが、キリストと出会うということです。教会がいくら社会に奉仕しても、あるいはバ
ザーや慈善事業で多くの人が集まったとしても、もしそこで神の言葉を聞くことができず、またキリストがそこにおられなかったとしたら、それはもはや教会とは呼べないものです。逆に言えば、いろいろなことが不十分であったとしても、みすぼらしい教会でも、神父が下手でも、そこで神の言葉が
語られ、またキリストが臨在しておられるなら、それでよいと言えるのです。
しかしナザレの人々は、この世のことにとらわれてしまって、イエスさまと共におられる神様を見ることができなかった。イエスさまの語る言葉に、神の言葉を聞き取ることができなかった。イエスさまのなさるわざに、神の働きを見ることができなかったのです。実にもったいないことです。これ
が「不信仰」ということです。nibanmati
-------------
人々は感動を求めて、ディズネイランドや
マタイによる福音(13:31-35)
からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。
年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)
アウグスティヌスの有名な言葉があります。
「神はどんな悪も行われえないようにするよりも、悪からも善を生ぜしめるようにするほうが良いとお考えになった」
なるほど、毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれない。普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思うけれども、仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑だ。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」という信頼、喜びを忘れちゃったら、神さまが私たちに与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるってことになってしまう。
神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。
煉獄(れんごく)って、そんなようなことかもしれないですね。カトリックには、天国に行く前に浄めのプロセスとして煉獄に入るっていう伝統的な考え方がありますけど、神さまのみもとに行くとき、神さまご自身に全部きれいにしてもらって、清らかな麦畑としていただいてから、神さまに迎えいれてもらえるってことです。これは、福音でしょう。希望です。こういう福音を信じて、自分は本来そのような良い麦畑だと受け入れることこそが、救いなんじゃないですか。自分は毒だと思い込むとか、その毒を抜き続けようとして疲れ果てるかではなく、イエスさまの福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。
他人の毒麦を抜こうとする人。「あなた、ちょっと鼻毛(はなげ)が出ていますよ」(笑)みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。
あの政治家を抜いたらホントに国は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かってるはず。抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが、真実じゃないですか。神さまは毒麦つきの世界をおゆるしになっているんです。私たちはその中で、良い麦を見るべきじゃないですか。忍耐強く、良い麦をこそ育てるべきじゃないですか。人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならない。(福音の村)
---------------
イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
-------
人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。
年間 17水
マタイによる福音(13:44-46)
私たちの周囲には無数の善意の人々がいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人々がたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練に打ち倒されたり、信頼する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ち上がらいたいと願っている人々もいます。そうした人々は、何かに飢え、何かを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人々なのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています(畑の中に隠されている宝のように)。「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「疲れた者、重荷を負うものは私のもとに来なさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできる方が、与えられているにもかかわらず、だれも言葉をかけないといって嘆き苦しむ人々がいます。
「私はすでに世に勝っている」と、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺し続ける人々がいます。「あなたの罪は許された」といって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできる方がいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人々がいるのです。
キリストは、すべての人々の求めに、願いに、答えることができるだけの光と力と愛を持っているのですから、もし、人々がそれに気が付けば、それこそすべてを捨てて、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエスとの出会いを大切にすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもない喜びであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるでしょう。
しかし、現実には、残念ながら、人々の飢え、渇きとイエスとの出会いがなかなかおこらないのです。私たちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。
どうしてでしょうか。人々の責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。
私(森一弘)はそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人々の方に責任があるような気がいたします。現代の人々の問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。私たちは、もっともっと努力して、宝であり、真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。
-------
天の国は、持ち物をすっかり売り払って買うほどにすばらしいのです。天の国を見つけた者は、「わたし」という小さな枠から自由になります。神の愛に信頼するなら、もう自分のために何も心配はいりません。 seseragi
--------------------
主イエスの世界は、「献身」の世界です。自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。 「献金」あるいは「維持費」のようなものとは全然違う。献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。 ですから、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように朝の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。仕事の時間も神様に捧げます。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。 nibanmati
年間 17木
マタイによる福音(13:47-53)
マクベス 『マクベス』(Macbeth) 第5幕第5場 シェイクスピア。夫人の死の報せを聞いて、マクベスがつぶやく台詞。その人生観が垣間見える。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing.
明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる 物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。
人生は愚か者が語る物語で、騒ぎも意気込みもえらいが、たわいのないものだ。
また、サルトルは、「人間は一つの無益な受難(意気込み)である。( L' homme est une passion inutile.) 」(『存在と無』、松浪信三郎訳)と言っている。
今日の福音書は、網というイメージを使って、私たちは神の手の中にいるという感覚を教えています。水の中にあるものは見えないが、網をかけると見えてくる。人生は、歴史は無意味に見えても、その中身は分かるときが来る。
また、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人」に関しては、リチャード・ニーバーの有名な祈りを思い出します。
神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの
冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
-------
新しいものと古いものが入っている倉を持っている人といえば、それは便利に違いありません。現代のふつうの若い人の家では、新しい物しかありません。古いものがないし、あっても、それをとってしまっておく倉がないからです。しかし、例えば、もちつきなどは、昔の杵(きね)と臼(うす)でついた餅がうまいでしょう。また、停電になったとき、懐中電灯の調子が悪かったということになりますと、ローソクが必要となります。
このように、新しいものもある、古いものもある、ということになると、どんな事態にも対応できます。パウロはピリピ人への手紙でこう言っている‥‥(フィリピ 4:11~13)「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道
を知っており。富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 nibanmati (粘土が陶工の手の中にあるように」(偶数年、第一朗読)、私たちも神の手の中にいるという感覚を学ぶようなことです。
年間 17金
マタイによる福音(13:54-58)
顔見知りの者が、人々を驚かせるようなすばらしいことを言ったら、わたしは語る内容をすぐに受け入れられるでしょうか。大したことはないと思ったり、同郷の者としてその偉大さにあやかろうしたりすることがあるかもしれません。わたしたちは目に見えるものにつまずきがちです。
人は目に見えるものを見ますが、神は心を見ます。信じる心がないところでは、イエスの恵みも生かされることがありません。
主よ、私を「心」を観る者としてください。あなたがわたしたちを愛してくださったようにわたしも人を愛し、信じる者になれますように。seseragi
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人々は、自分たちと同じ生活を送っていたイエスにつまづいた。
つまずく、というのは、イエスさまを信じることができなかった、ということです。人の子としてのイエスさまを、小さい頃から知っていたばかりに、イエスさまが神の国の福音を携えてきた時に、「えー?なんで?こいつが?」と思ったのです。つまりこの人々は、先入観にとらわれてしまって、本当のことが見えなかったのです。
わたしにも思い当たることはいくつかあります。たとえば、私は25歳で神父にないましたが、なったばかりの頃は、世間の人から、「神父さんというのは、もっと立派な人だと思った」などと言われたものです。まあ、やがて歳をとって、白髪になると思うのですが。しかしそれも本質とは何の関係もないことのはずです。神父というものは人生相談をする職業ではないからです。「人生経験があればいいことですが、神父として一番必要なことは、神の言葉を聞いて、それを語るということだ」と。 人生相談をしたいなら、そういう相談に乗ってくれる人はたくさんいます。人間の常識としての人生
のアドバイスがほしければ、そちらに行けばよろしい。しかし教会でなければ聞くことができないことというのがあるのです。それが神の言葉です。そして教会を通してでなければできないことというのがある。それが、キリストと出会うということです。教会がいくら社会に奉仕しても、あるいはバ
ザーや慈善事業で多くの人が集まったとしても、もしそこで神の言葉を聞くことができず、またキリストがそこにおられなかったとしたら、それはもはや教会とは呼べないものです。逆に言えば、いろいろなことが不十分であったとしても、みすぼらしい教会でも、神父が下手でも、そこで神の言葉が
語られ、またキリストが臨在しておられるなら、それでよいと言えるのです。
しかしナザレの人々は、この世のことにとらわれてしまって、イエスさまと共におられる神様を見ることができなかった。イエスさまの語る言葉に、神の言葉を聞き取ることができなかった。イエスさまのなさるわざに、神の働きを見ることができなかったのです。実にもったいないことです。これ
が「不信仰」ということです。nibanmati
-------------
人々は感動を求めて、ディズネイランドや
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの
ようなところに行きます。身の回りの現実には、あまり感動がない、灰色で、当たり前、どっちかというとつまらないこと、みすぼらしいことは多い。けれども考えてみれば、いつも住んでいる家の窓の外を見るだけでも、すばらしい景色のときもある。普段出会っている人々の中にも、気をつけて接すれば、様々なドラマ、悲しみ、喜びがある。本にすれば立派な文学になる。音楽にすれば立派な協奏曲になる。
自分のそばに座っている人は深い信仰体験を持っているかもしれない。それでも、ほとんど気がつかない。そう考えることもないでしょう。
キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ナザレの人々はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くない。
年間 17土
マタイによる福音(14:1-12)
ヘロデのようなことを自分は決してしないだろうと思うとき、くもりのない目で、自分の姿を見つめているでしょうか。「自分」という殻を守るために弱みを隠し、自分の物差しに合わせて相手を裁く時、そこにあるのは自己への執着です。この執着は恐れを生み、自分も人をも殺してしまいます。
神は、わたしたちが互いにいたわり、思いやり、受け入れ、生かしあうために命をくださいました。
主の声に聞きしたがいましょう。自分のすべてを手放したとき、主の恵みは豊かに注がれ、恐れはなくなり、真の自由へと導かれます。そのとき心の目と耳は開かれます。
主よ、わたしが守るものは主の愛だけです。わたしを強め、義のために生きる勇気をください。
キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ナザレの人々はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くない。
年間 17土
マタイによる福音(14:1-12)
ヘロデのようなことを自分は決してしないだろうと思うとき、くもりのない目で、自分の姿を見つめているでしょうか。「自分」という殻を守るために弱みを隠し、自分の物差しに合わせて相手を裁く時、そこにあるのは自己への執着です。この執着は恐れを生み、自分も人をも殺してしまいます。
神は、わたしたちが互いにいたわり、思いやり、受け入れ、生かしあうために命をくださいました。
主の声に聞きしたがいましょう。自分のすべてを手放したとき、主の恵みは豊かに注がれ、恐れはなくなり、真の自由へと導かれます。そのとき心の目と耳は開かれます。
主よ、わたしが守るものは主の愛だけです。わたしを強め、義のために生きる勇気をください。
1.人を見ているとブレた生き方になる
ヘロデの問題は、「人を見てしまう」というところです。一番大切にすべき神様が見えていない。一番恐れるべきかを恐れず、人の評価が気になってしまうというところです。ヘロデ自身は、ヨハネが正しいということがわかっていましたが、その行動を変えることができませんでした。そうして、ヨハネの首を要求された時も、人の顔色やメンツを重んじてしまい、結局、人に利用されるだけの生き方しかできなくなってしまいました。
私たちは、人の評価よりも、恐れるべき方を恐れなければなりません。聖書の言葉を聞くだけでなく、具体的な行動となって現れるような聞き方をしなければなりません。そうしないと、ずるずると罪の世界に引きずり込まれていって、結局は身を滅ぼす生き方しかできなくなってしまいます。
ヘロデの問題は、「人を見てしまう」というところです。一番大切にすべき神様が見えていない。一番恐れるべきかを恐れず、人の評価が気になってしまうというところです。ヘロデ自身は、ヨハネが正しいということがわかっていましたが、その行動を変えることができませんでした。そうして、ヨハネの首を要求された時も、人の顔色やメンツを重んじてしまい、結局、人に利用されるだけの生き方しかできなくなってしまいました。
私たちは、人の評価よりも、恐れるべき方を恐れなければなりません。聖書の言葉を聞くだけでなく、具体的な行動となって現れるような聞き方をしなければなりません。そうしないと、ずるずると罪の世界に引きずり込まれていって、結局は身を滅ぼす生き方しかできなくなってしまいます。
18 per annum
年間 第18月曜日 (A年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・1-2、10-14
「聞きなさい、そして悟りなさい」
私たちの耳は、かなり音を選別して聞いています。鳥の声に興味を持っている人は、都会の雑音の中でも、その声を聞き分けます。つまり人間は、自分の好きなものは聞こえ、いやなことは聞こえないのです。つごうのよいことは聞こえても、つごうの悪いことは聞こえないお年寄りを、笑うことはできないのです。神に興味がなければ、神の声も人の出す雑音にかき消されてしまうでしょう。真理を求めていれば、真理の声をいつか聞き分けられるでしょう。見て悟るより、まず「聞け」と言われます。話すことはやさしいのですが、聞くことはむずかしいと思います。学ぶということは、聞くことでしょう。読むことも聞くことでしょう。聞くことからすべてが出発するのです。赤ちゃんも聞くことから発達していきます。
聞くことができれば、悟ることも可能になります。悟りは自分一人でひねり出すものではありません。生きている自然、人、神から聞く姿勢からおのずと生まれてくるのです。
私の天の父が植えなかった植物は、みな抜き取られます。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
年間 第18月曜日 (B、C年) 年間 第18火曜日(A年)
マタイ14・13-21
人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese
年間 第18火曜日 (B、C年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ14・22-36
ペトロたちがいどみかかってくるあらしに動転し、混乱します。凡人のようなもろさがばくろされます。
これをみても、神の力強さを体験することが、自分の弱さやもろさを卒業することではないことがわかります。いくら信仰をもっても、迷いやすさ、感じやすさ、崩れやすさ、傷つきやすさは、人間が人間であるかぎりはいつまでもついてまわります。信仰とは、そうした現実の中で神をみつめていく目であり、そうした現実の中で神の愛と力の確かさに自分をゆだねていく行為です。それが、しっかりと自分の心に根づいていなければ、あらしがおこれば、簡単に消えてしまうことになるのです。信仰が軽いものであればあらしとともに、どこかに吹きとんでしまいます。信仰は本来、不安と恐れから人間を解放する力であり、平安と希望を与える光であるはずです。しかしそれは、現実のあらしの中で試され、鍛えられてゆらぐことのないものになっていくのです。日々のどろどろしたありのままの人生の迷いや苦しみの中で、ひざまずき、葛藤しながら、徐々に徐々に根づき、成長していくものなのです。人生のあらしの恐ろしさに圧倒されて、思わず神から目をそらしてしまう自分の心にむちうて、神の方に心の目をあげようとする努力の繰り返しで、本当の信仰が育っていくのです。
-----------------
信仰と不信仰の違いは、どこにあらわれるのでしょう。不信仰は、弟子たちに見られるように、恐怖をもたらします。信仰は、ゲネサレトの病人達のように、イエスに近寄る気持ちをもたらします。私たちは、イエスが自分の隣におられることに気付いているのでしょうか、
それともこの世がもたらす「嵐」の恐怖に飲み込まれているのでしょうか。
病人達がイエスを探してイエスがいるところに出向いて行ったように、いつもイエスの姿を求めることができますように。sese
年間 第18水曜日 http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・21-28
「そのときには、私はイスラエルの神となり、彼らは私の民となる」(エレミア31・1)。神様の「時」がある。人間は望んでいることをなさる時がある。福音のカナンの女は、まだその時ではないと言われた。しかし、彼女は願い続けることで、スケジュールを早めた。立派な信仰によってその時を来させた。カナの結婚式の場面でも、「私の時はまだ来ていない」と言われたマリアは、とにかく信じ続けた。それで、その時を先に実現させた。早めに来させた。信仰は山を動かす(マタイ17・20)だけではなく、時を早めることもできる。信仰は、未来を近づける。未来を現在に存在させる。私たちが望んでいることは、いつ実現できるか。私たちが望んでいる福音宣教はいつ実現できるか。待っている恵みは何か。
「はっきり言っておく、あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたがわたしの名によっては何にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16,23-24)
「祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11,24)
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18,19)
---------
福音書を読み続けてきて、わたしたちはいつの間にか、「イエスさまは、困っている人を助けて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。「人が、いっしょうけんめい頼んだならば、イエスさまはその言うことを聞いて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。わたしたちに置き換えて言えば、「わたしがこんなにいっしょうけんめいお願いして祈っているのだから、神さまが聞いてくれて当然だ」と思わないでしょうか。
その時、あまりにもわたしたちは、「自分中心」「人間中心」になってしまっているのではないでしょうか。つまり、「この人がこんなに頼み込んでいるのだから、イエスさまは聞いてくれて当然だ」と。「わたしがこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」、「こんなに困っているのだから、助けてくれて当然だ」、「こんなに頭を下げているのだから、願いが叶えられて当然だ」‥‥もっと言いますか? そして願いが聞かれなかったら、「こんなにお願いしているのに、聞いてくれないとは何事だ!」「役に立たない神さまだ」と言って、席を蹴って行ってしまう。
しかしそこには、「ではイエスさまの都合はどうなのか?」ということが少しも考えられていないのです。「主はどのようにお考えなのか」「神さまのご計画はどうなのか」‥‥そのように主イエスの御心、神の御心を思い計るということ、神を第一にするということが、なくなってしまっているのです。そのことに気がついた時、きょうの聖書は解き明かせるように思います。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
「よく祈り、よく働いて、その他のことはすべて神様に任せましょう」 "I pray hard, work hard, and leave the rest to God." ~ Florence Griffith Joyner
-----------------------
私たちが本気で求めているものは何でしょうか。きょうだいのために、私たちはどれほど願っているでしょうか。本気で願い求める気持ちがなければ、憐れみ深い神が共におられても、現実の中でそのありがたさを体験することができないでしょう。
私にとって本当に大切なものに気づかせてください。そして何度でも、いくら時間がかかっても、あきらめずに願うことができますように。
年間第18木曜日
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」
マタイ16・13-23
種まきのたとえ話で、種が岩(Petrode マタイ13・5参照)の上に落ちたという箇所があります。そこで、すぐに目を出すが根がないためにすぐ枯れてしまいます。説明としては、迫害に耐えられない信仰と言われます。これは、まさにペトロのような信仰でした。このようなもろい信仰の上に教会を立ててもいいのか。しかも、そこに神の国の「鍵」を授けてもいいのか。
確かにペトロは立派な答えを出します。けれども、おそらくその言葉の中身を誤解しています。十分深く理解していません。しかし、キリストに叱られて、また十字架の体験を通して自分が悪かったということを理解するようになって回心をします。悔い改めます。何回も回心します。使徒言行録の第十章には、ペトロはコルネりウスというローマの軍人に出会って、信仰はユダヤ人に限られるものではないと、自分の考えを改めます。回心、悔い改め、自分が悪かった、考えをあらためる、これらが岩であり、そこに教会が立てられ、天の国への鍵であり、それに黄泉の力は対抗できない。
--------
イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。自動車のキーを差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験があります。車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。
年間 第18金曜日
マタイ16・24-28
全世界とまで考えていなくても、けっこう些細なことの中でも、自分の理想通りにしたい、支配したい、上に立ちたい、などの思いが密かに生じてくるものです。どうすることが私にとって本当に意味のあることなのか、幸せなことなのか落ち着いて振り返ってみればわかります。力をもって周りの人々を従わせることか、人々と愛し合いながら共に歩んでいくことか。
自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことの幸いを、もっと深く悟ることができますように。sese
年間 第18土曜日
マタイ17・14-20
「限界だ!」という時を誰もが体験したことがあるでしょう。限界は何のためにあるのでしょうか?
限界は、次の段階に行くためのしるしではないでしょうか。その次の段階とは限りない信仰の世界だと思います。わたしの信仰がからし種一粒ほどでも、それは限りない大きさにつながっているのです。
限界とぶつかるとき、限りないこと信仰をもって、乗り越えていくことができますように。sese
マタイ15・1-2、10-14
「聞きなさい、そして悟りなさい」
私たちの耳は、かなり音を選別して聞いています。鳥の声に興味を持っている人は、都会の雑音の中でも、その声を聞き分けます。つまり人間は、自分の好きなものは聞こえ、いやなことは聞こえないのです。つごうのよいことは聞こえても、つごうの悪いことは聞こえないお年寄りを、笑うことはできないのです。神に興味がなければ、神の声も人の出す雑音にかき消されてしまうでしょう。真理を求めていれば、真理の声をいつか聞き分けられるでしょう。見て悟るより、まず「聞け」と言われます。話すことはやさしいのですが、聞くことはむずかしいと思います。学ぶということは、聞くことでしょう。読むことも聞くことでしょう。聞くことからすべてが出発するのです。赤ちゃんも聞くことから発達していきます。
聞くことができれば、悟ることも可能になります。悟りは自分一人でひねり出すものではありません。生きている自然、人、神から聞く姿勢からおのずと生まれてくるのです。
私の天の父が植えなかった植物は、みな抜き取られます。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
年間 第18月曜日 (B、C年) 年間 第18火曜日(A年)
マタイ14・13-21
人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese
年間 第18火曜日 (B、C年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ14・22-36
ペトロたちがいどみかかってくるあらしに動転し、混乱します。凡人のようなもろさがばくろされます。
これをみても、神の力強さを体験することが、自分の弱さやもろさを卒業することではないことがわかります。いくら信仰をもっても、迷いやすさ、感じやすさ、崩れやすさ、傷つきやすさは、人間が人間であるかぎりはいつまでもついてまわります。信仰とは、そうした現実の中で神をみつめていく目であり、そうした現実の中で神の愛と力の確かさに自分をゆだねていく行為です。それが、しっかりと自分の心に根づいていなければ、あらしがおこれば、簡単に消えてしまうことになるのです。信仰が軽いものであればあらしとともに、どこかに吹きとんでしまいます。信仰は本来、不安と恐れから人間を解放する力であり、平安と希望を与える光であるはずです。しかしそれは、現実のあらしの中で試され、鍛えられてゆらぐことのないものになっていくのです。日々のどろどろしたありのままの人生の迷いや苦しみの中で、ひざまずき、葛藤しながら、徐々に徐々に根づき、成長していくものなのです。人生のあらしの恐ろしさに圧倒されて、思わず神から目をそらしてしまう自分の心にむちうて、神の方に心の目をあげようとする努力の繰り返しで、本当の信仰が育っていくのです。
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信仰と不信仰の違いは、どこにあらわれるのでしょう。不信仰は、弟子たちに見られるように、恐怖をもたらします。信仰は、ゲネサレトの病人達のように、イエスに近寄る気持ちをもたらします。私たちは、イエスが自分の隣におられることに気付いているのでしょうか、
それともこの世がもたらす「嵐」の恐怖に飲み込まれているのでしょうか。
病人達がイエスを探してイエスがいるところに出向いて行ったように、いつもイエスの姿を求めることができますように。sese
年間 第18水曜日 http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・21-28
「そのときには、私はイスラエルの神となり、彼らは私の民となる」(エレミア31・1)。神様の「時」がある。人間は望んでいることをなさる時がある。福音のカナンの女は、まだその時ではないと言われた。しかし、彼女は願い続けることで、スケジュールを早めた。立派な信仰によってその時を来させた。カナの結婚式の場面でも、「私の時はまだ来ていない」と言われたマリアは、とにかく信じ続けた。それで、その時を先に実現させた。早めに来させた。信仰は山を動かす(マタイ17・20)だけではなく、時を早めることもできる。信仰は、未来を近づける。未来を現在に存在させる。私たちが望んでいることは、いつ実現できるか。私たちが望んでいる福音宣教はいつ実現できるか。待っている恵みは何か。
「はっきり言っておく、あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたがわたしの名によっては何にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16,23-24)
「祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11,24)
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18,19)
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福音書を読み続けてきて、わたしたちはいつの間にか、「イエスさまは、困っている人を助けて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。「人が、いっしょうけんめい頼んだならば、イエスさまはその言うことを聞いて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。わたしたちに置き換えて言えば、「わたしがこんなにいっしょうけんめいお願いして祈っているのだから、神さまが聞いてくれて当然だ」と思わないでしょうか。
その時、あまりにもわたしたちは、「自分中心」「人間中心」になってしまっているのではないでしょうか。つまり、「この人がこんなに頼み込んでいるのだから、イエスさまは聞いてくれて当然だ」と。「わたしがこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」、「こんなに困っているのだから、助けてくれて当然だ」、「こんなに頭を下げているのだから、願いが叶えられて当然だ」‥‥もっと言いますか? そして願いが聞かれなかったら、「こんなにお願いしているのに、聞いてくれないとは何事だ!」「役に立たない神さまだ」と言って、席を蹴って行ってしまう。
しかしそこには、「ではイエスさまの都合はどうなのか?」ということが少しも考えられていないのです。「主はどのようにお考えなのか」「神さまのご計画はどうなのか」‥‥そのように主イエスの御心、神の御心を思い計るということ、神を第一にするということが、なくなってしまっているのです。そのことに気がついた時、きょうの聖書は解き明かせるように思います。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
「よく祈り、よく働いて、その他のことはすべて神様に任せましょう」 "I pray hard, work hard, and leave the rest to God." ~ Florence Griffith Joyner
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私たちが本気で求めているものは何でしょうか。きょうだいのために、私たちはどれほど願っているでしょうか。本気で願い求める気持ちがなければ、憐れみ深い神が共におられても、現実の中でそのありがたさを体験することができないでしょう。
私にとって本当に大切なものに気づかせてください。そして何度でも、いくら時間がかかっても、あきらめずに願うことができますように。
年間第18木曜日
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」
マタイ16・13-23
種まきのたとえ話で、種が岩(Petrode マタイ13・5参照)の上に落ちたという箇所があります。そこで、すぐに目を出すが根がないためにすぐ枯れてしまいます。説明としては、迫害に耐えられない信仰と言われます。これは、まさにペトロのような信仰でした。このようなもろい信仰の上に教会を立ててもいいのか。しかも、そこに神の国の「鍵」を授けてもいいのか。
確かにペトロは立派な答えを出します。けれども、おそらくその言葉の中身を誤解しています。十分深く理解していません。しかし、キリストに叱られて、また十字架の体験を通して自分が悪かったということを理解するようになって回心をします。悔い改めます。何回も回心します。使徒言行録の第十章には、ペトロはコルネりウスというローマの軍人に出会って、信仰はユダヤ人に限られるものではないと、自分の考えを改めます。回心、悔い改め、自分が悪かった、考えをあらためる、これらが岩であり、そこに教会が立てられ、天の国への鍵であり、それに黄泉の力は対抗できない。
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イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。自動車のキーを差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験があります。車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。
年間 第18金曜日
マタイ16・24-28
全世界とまで考えていなくても、けっこう些細なことの中でも、自分の理想通りにしたい、支配したい、上に立ちたい、などの思いが密かに生じてくるものです。どうすることが私にとって本当に意味のあることなのか、幸せなことなのか落ち着いて振り返ってみればわかります。力をもって周りの人々を従わせることか、人々と愛し合いながら共に歩んでいくことか。
自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことの幸いを、もっと深く悟ることができますように。sese
年間 第18土曜日
マタイ17・14-20
「限界だ!」という時を誰もが体験したことがあるでしょう。限界は何のためにあるのでしょうか?
限界は、次の段階に行くためのしるしではないでしょうか。その次の段階とは限りない信仰の世界だと思います。わたしの信仰がからし種一粒ほどでも、それは限りない大きさにつながっているのです。
限界とぶつかるとき、限りないこと信仰をもって、乗り越えていくことができますように。sese
19 per annum dispari
年間第19月
「魚の口から銀貨一枚」
マタイ17・22-27
魚の口から銀貨が一枚とりだされるというようなことが、あまりにも不思議なことです。それは奇跡と言うよりは、なにかミスター・マリックの手品を見ているような気がします。まじめだと思っていた聖書が、なにか急に「むかし話」(桃太郎)のように感じられるような、そういう思いがした人もいるかもしれません。「そもそも、結局『神殿税』を払うのなら、いさぎよく財布から払えばよさそうなものを、なぜ湖に行って魚を釣ってその口から銀貨を取り出して支払うというような、そんな手の込んだことをされたのか?」と、そんなふうにも思えるのです。
当時のユダヤ教では、成人男子は神殿維持費として年に2ドラクマの神殿税を納めなければなりませんでした。賃金の二日分です。
この税金を集める者がペトロに、「あなたたちの先生は(神殿税の)2ドラクマを納めないのか」と質問します。これはイエスがユダヤ教律法を順守していないという詰問です。ペトロは、イエスの返答を確認しないで、その場をとりつくろい、「納めます」と答えます。
この税金の比喩の語録は、イエスの子としての自覚を示す重要な語録ですが、同時にこの語録は、「神殿より偉大な者がここにある」(一二・六)という語録と共に、イエスが子としてユダヤ教の神殿祭儀を超えておられたことをも指し示しています。それにもかかわらず、イエスが(そしてイエスに従い、イエスを信じるユダヤ人の共同体が)神殿税を納め、神殿祭儀を守るのは、あくまで「彼ら(ユダヤ人たち)をつまずかせないため」であるという言葉が続きます。イエスは言われます、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
「銀貨」《スタテール》は4ドラクマ相当の銀貨で、ちょうどイエスとペトロの二人分の神殿税に相当します。この段落は、そうしなさいというイエスの言葉で終わっており、釣った魚の口に銀貨が見つかり、それでペトロが二人分の神殿税を納めたという事実は報告されていません。魚の口の中に見つかる銀貨で税を納めるという象徴的な説話で、神から賜る収入の中から(ペトロは漁師でした)律法の規定に従い神殿税を納めるように勧めていると見られます。
この段落は、神殿崩壊前のユダヤ人信徒の状況を反映しており、イエスを信じるユダヤ人信徒は、イエスと共に神の子供として神殿税や祭儀規定から自由であるが、ユダヤ教徒としての立場から、周囲のユダヤ人をつまずかせないために、神殿税を納め祭儀を守っているのだと主張しています。このユダヤ人信徒の伝承をマタイが継承してここに置いたと見られます。そうであれば、イエスを信じる者は律法から自由であるという理解は、パウロやヘレニズム異邦人キリスト教だけでなく、ユダヤ人キリスト教の中にもあったことになります。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_26.htm#top
年間第19火
マタイ18・1-5,10,12-14
大人の価値観は、誰にも頼ることなく、自分の足で立つ独立した人になることです。いつまでも、周りの人や親に寄りかかっていてはいけないのです。一人前になって一人立ちしなければ、笑われてしまいます。子供はまったく違います。親や周りの人なしに、自分一人では生きられません。親を頼り、周囲の人々の支えで生きています。自分の存在を在らせ支えてくれる両親の存在は、大前提となって、否定することなど不可能です。たとえその親が人間的に考えれば、欠点だらけの不完全な存在だとしても、子供にとっては唯一絶対の存在なのです。大人になるということは、自立することです。頼ることは子供っぽいことと考え、もう誰にも頼らずにやっていける、ということでしょう。
「魚の口から銀貨一枚」
マタイ17・22-27
魚の口から銀貨が一枚とりだされるというようなことが、あまりにも不思議なことです。それは奇跡と言うよりは、なにかミスター・マリックの手品を見ているような気がします。まじめだと思っていた聖書が、なにか急に「むかし話」(桃太郎)のように感じられるような、そういう思いがした人もいるかもしれません。「そもそも、結局『神殿税』を払うのなら、いさぎよく財布から払えばよさそうなものを、なぜ湖に行って魚を釣ってその口から銀貨を取り出して支払うというような、そんな手の込んだことをされたのか?」と、そんなふうにも思えるのです。
当時のユダヤ教では、成人男子は神殿維持費として年に2ドラクマの神殿税を納めなければなりませんでした。賃金の二日分です。
この税金を集める者がペトロに、「あなたたちの先生は(神殿税の)2ドラクマを納めないのか」と質問します。これはイエスがユダヤ教律法を順守していないという詰問です。ペトロは、イエスの返答を確認しないで、その場をとりつくろい、「納めます」と答えます。
この税金の比喩の語録は、イエスの子としての自覚を示す重要な語録ですが、同時にこの語録は、「神殿より偉大な者がここにある」(一二・六)という語録と共に、イエスが子としてユダヤ教の神殿祭儀を超えておられたことをも指し示しています。それにもかかわらず、イエスが(そしてイエスに従い、イエスを信じるユダヤ人の共同体が)神殿税を納め、神殿祭儀を守るのは、あくまで「彼ら(ユダヤ人たち)をつまずかせないため」であるという言葉が続きます。イエスは言われます、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
「銀貨」《スタテール》は4ドラクマ相当の銀貨で、ちょうどイエスとペトロの二人分の神殿税に相当します。この段落は、そうしなさいというイエスの言葉で終わっており、釣った魚の口に銀貨が見つかり、それでペトロが二人分の神殿税を納めたという事実は報告されていません。魚の口の中に見つかる銀貨で税を納めるという象徴的な説話で、神から賜る収入の中から(ペトロは漁師でした)律法の規定に従い神殿税を納めるように勧めていると見られます。
この段落は、神殿崩壊前のユダヤ人信徒の状況を反映しており、イエスを信じるユダヤ人信徒は、イエスと共に神の子供として神殿税や祭儀規定から自由であるが、ユダヤ教徒としての立場から、周囲のユダヤ人をつまずかせないために、神殿税を納め祭儀を守っているのだと主張しています。このユダヤ人信徒の伝承をマタイが継承してここに置いたと見られます。そうであれば、イエスを信じる者は律法から自由であるという理解は、パウロやヘレニズム異邦人キリスト教だけでなく、ユダヤ人キリスト教の中にもあったことになります。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_26.htm#top
年間第19火
マタイ18・1-5,10,12-14
大人の価値観は、誰にも頼ることなく、自分の足で立つ独立した人になることです。いつまでも、周りの人や親に寄りかかっていてはいけないのです。一人前になって一人立ちしなければ、笑われてしまいます。子供はまったく違います。親や周りの人なしに、自分一人では生きられません。親を頼り、周囲の人々の支えで生きています。自分の存在を在らせ支えてくれる両親の存在は、大前提となって、否定することなど不可能です。たとえその親が人間的に考えれば、欠点だらけの不完全な存在だとしても、子供にとっては唯一絶対の存在なのです。大人になるということは、自立することです。頼ることは子供っぽいことと考え、もう誰にも頼らずにやっていける、ということでしょう。
しかし、うっかりすると、大人になるということは、神にさえたよる必要はない、何とか自分の力でやっていける、困った時にだけたよればいい、ということにもなってしまうのです。しかし、本当の大人は、人間の親子関係を相対化した上で、神との関係を絶対化出来る人でしょう。つまり不完全な親ではなく、完全な親である父として神を再認識することではないでしょうか。私が困った時たよることは大切なことですが、それだけの神ではなく、百パーセント完全な親としての父なる神の、子供であったのだという喜びと誇りを持つことが、真の成熟した信仰に生きる、真の大人の条件ではないでしょうか。完全な自立と完全な依存が大人の信仰なのです。
----------ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(ユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。神の支配とは恩恵の支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恩恵を恩恵として無条件に受け取り、恩恵に全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恩恵の場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。イエスご自身がそのような「無者」の典型です。
「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_27.htm#top
年間第19水
マタイ18・15-20
まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります(一五節)。その場合、相手を赦すことが前提になっています。
続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(一六節)という規定には、申命記一九章六節のような規定が反映しています。このような「二人または三人の証人の口によって確定される」という考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の《エクレーシア》に共通であったようです(たとえばコリントⅡ一三・一)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もありうるのですから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。
この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は《エクレーシア》(教会)と呼ばれ、その成員は《アデルフォス》(兄弟)と呼ばれていました。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_27.htm#top
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必ずかなえてくださると保証してくださっていることは、自己中心的な欲望や願いではあり得ないでしょう。なぜなら、わたしたちが心を一つにするためには、自分中心ではなく、相手を大切にする心が必要だからです。心を一つにして集うところに、キリストもまた居てくださるというのは何と心強いことでしょうか。
主よ、どんなときにも、あなたが共にいてくださることを心に留めながら、あなたに心を合わせて仲間たちと働くことが出来ますように。sese06
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ひどいことをされた。そういう場合、世間ではどうするでしょうか。けんかをしたり、あるいはその人の悪口を言いふらす、ということをするのではないでしょうか。しかし主イエスがおっしゃった方法はそういうこの世の方法とはまったく違っています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃる。世間ではふつうはそんなことをしません。しかし主はそのようにおっしゃる。いったいなぜでしょうか?何のためにでしょうか?イエスさまが続けておっしゃるのは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と。‥‥「兄弟を得る」、ここを原文に即して直訳すると、「あなたの兄弟を得た」となります。すなわち、私たちが本当の兄弟姉妹となるということになります。ある人が自分に対して罪を犯す。それで行って、ふたりだけのところでそれが罪であること、間違っていることを忠告する。そしてそれを聞き入れたなら、あなたは本当の兄弟を得たことになるのだ、と主はおっしゃるのです。
そのように、世間では、あるいはキリストを信じる前は、自分に対して過ちを犯す人を突き放し、切り捨てる。陰でボロクソに悪口を言って溜飲(リュウイン)を下げる、そういう対応をすると。ところが教会では、まさに罪を犯した当の本人であるその人の所に行って、それが神さまに対する罪であることを忠告しなさいというのです。それはなんのためか。兄弟を得るためであるというのです。切り捨てるのではなく、教会の枝として主イエスのもとにつなぎとめるためであるということです。
(Ⅰコリント 12:26)「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」‥‥という御言葉があります。教会はキリストの体であって、わたしたちはそのキリストの体の一部分である。それぞれ1人1人が、ある人は手であり、ある人は足であり、ある人は目であり、ある人は髪の毛であり‥‥という具合に、教会というキリストの体のそれぞれが一部分であると使徒パウロは教えています。ですからそれぞれ1人1人が大切な存在なのですね。その一つが罪を犯したとき、それを切って捨てるのではなく、何とかそれがキリストの体の一部として悔い改めるように導くのは、そう考えてみると当然なことに思われます。 「二人だけのところで」というのはポイントだと思います。国会中継の党首討論などを見ていると、あれは絶対にお互いにゆずりませんね。それぞれ自分を弁護し、絶対に相手が間違っているということを主張し続ける。わたしなどは、たとえば小泉さんが「ああ、なるほど。菅さんの言う通りかもしれませんね。ごめんなさい」というふうに言ったらどうかな、と思うのですが絶対にそんなことはしない。なぜかと言えば国会議員ががみんな見ているわけですし、テレビでも中継されている。そうすると見栄や体裁というものが大事になってくるわけです。しかも自分の立場というものがある。そうすると、どんなに自分が間違っていると思っても、そういう見栄や体裁のために謝らない。そういうことになるのです。みんなの前でいきなり罪を指摘されたら、だれだって意固地になるでしょう。
主イエスはそういうことをご存じで、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられる。教会員みんなの前で忠告しなさいとはおっしゃらなかった。二人だけのところで、です。相手を切り捨てるのではなく得るためです。相手の心を開き、何とかして過ちに気がつくようにさせるためです。
nibanmati
年間第19木
マタイ18・21~19・1
日本には、「仏の顔も3度まで」ということわざがあります。講談社発行の『日本語大辞典』によると、その意味は、「どんなにおだやかな人でも、何度もひどいことをされれば腹を立てるたとえ」とありました。常識では「3度まで」のところを「7回まで」と言ったのですから、イエスさまも「そうだね。それぐらい忍耐すれば良いよ」とお答えになると思ったことでしょう。
ところがイエスさまの答えは、予想外の驚くべき答えでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
「七の七十倍」は単純に言えば、490回です。しかしもちろんここで主イエスは、「490回まで赦しなさい」という回数のことをおっしゃったのではありません。これはいわば、「無限に」赦すということです。驚くべきことです。人間の常識を越えています。それはもう、人間が何かがんばって、赦しがたい人を赦す、ということではありません。そんなことはできそうもありません。
これがきょうのたとえ話です。主イエスは、このようにして、なぜ赦すべきかを教えられました。それは、わたしたちが神によって赦されているということなのです。しかしこのたとえ話を聞いた人は思うでしょう。「わたしはそんな多くの罪を犯していない」と。しかしそれは人間から見た理屈です。神さまから見たら、わたしたち一人一人がこの話に出てくる家来のようだというのです。金額にたとえれば3千億円というような、途方もない、とても一生かかっても返済できないような罪、過ちを赦してもらっているのだと。それはただ神のあわれみだと。
キリストは何のために十字架にかかられたのでしょうか。それはわたしたちひとりひとりの罪を赦すためです。言い換えれば負債を免除するためです。わたしたちは、そんなにも大きな負債があり、しかもそれが十字架によってゆるされていると知ったときに、神の愛を知るでしょう。
nibanmati
年間第19金
マタイ19・3-12
本日の聖書の個所を聞いて、おそらく単なる離婚禁止の話に聞こえるのではないでしょうか? 離婚をすることがよいのか悪いのか、あるいは、どういう場合ならば離婚をすることができるのか、神さまはどういう状況ならば離婚をゆるしてくれるのだろうか‥‥そのように、どのような離婚なら神の御心に背かないのかとか、神の戒めに違反しないのか、とかそういう話として聞こえてしまうのではないかということです。 特に離婚については、カトリック教会が離婚を認めていない。そういうことが頭にあるものだから、結局きょうの聖書の話を、離婚を認めるか認めないかという法律論議として聞いてしまいやすいのです。
3節を見ると、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして」と書かれています。純粋にイエスさまに教えを乞う気持ちでイエスさまに近づいてきたのではない。イエスさまを試そうという、非常に高慢な気持ちで近づいてきたのです。試す、試験をするというのは、先生が生徒を試験するわけで、ファリサイ派の人々はイエスさまよりも高い所に立って、イエスさまを試そうというのです。純粋に分からなくて質問しているのではない。自分たちの答があるのに、イエスさまを罠にかけるためにこのように質問している。つまり、「イエスが何か変なことを言ったら、捕らえて死刑台に送ってやる」というような、たいへんひどい目的でこのような質問をしているのです。
きょうの聖書では、誰ひとりとしてイエスさまの言葉につまずかない者はいなかったのです。
そうするとわたしたちは、実は、自分の欠けたところに気がつかざるを得ない。主イエスの言葉はそういう御言葉です。律法を教えておられるのではない。あの金持ちの議員が悲しみに沈まざるを得なかったように、わたしたちも「主よ、罪人のわたしをあわれんでください」と胸を打って嘆くということに導かれるのです。
これは何も夫婦関係だけではない。この世の人間関係もそうです。神さまは、お互いに信頼し合うものをしてわたしたちを造られたはずです。しかし人間関係に破れが生じる。傷つけ合うということが起こってくる。わたしたち人間に罪があるからです。そこで相手を責めるばかりではなく、自分の欠け、罪に気がつくように主は導かれるのです。
そのようにきょうの聖書の個所は、わたしたちを主のもとへと導くのです。2節に主イエスが多くの人々の病気を癒された、ということがちょっと出てきます。癒し主なる主、わたしたちの人間の間をいやしてくださる主のもとにいくしかありません。しかしそこに希望があるのです。主のもとに行ったとき、救いが与えられるからです。
nibamati
年間第19土
「子どもと天の国」
マタイ19・13-15
きょうの聖書を読むと、「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」というのはどのときかと言うと、その直前まで、主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりがありました。そのとき、ということになるでしょう。今までの経緯からして、ファリサイ派の人々は、イエスさまを訴える口実を見つけるために、イエスさまのところに近づいたと思われます。ですから、ある意味ではたいへん緊迫したやりとりがあったということになります。言葉を換えて言えば、「真剣なおとなの話」ということになるでしょう。
そんなことがあった直後ということになります。イエスさまのところに、そのような子供たちが手を置いて祈ってもらうために連れられてきたのです。
ところが弟子たちがそれを叱りました。弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか? 「今はそんな時ではない。後で来なさい」ということでしょうか。それとも、子供がうるさいから、「あっちに行け」ということなのでしょうか。‥‥いずれにしても、弟子たちはここに子供を連れて来るのはふさわしくないと思ったのです。そして親たちを叱った。
この弟子たちの行動を見て、おそらく多くの人たちは「当然だ」とか「しかたがない」と思うでしょう。特にイエスさまの時代というのは、子供というのは数に入らなかった時代です。弟子たちが子供を連れてきた親たちを叱ったのも当然と言えるでしょう。 ところが主イエスは、親たちを叱った弟子たちを叱ったのです。そして言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
マルコはそのお言葉を「アーメン、わたしは言う」という句で始めており、この語録の重要性を示しています。マルコ(一〇・一五)では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」となっています。「子供のように」、すなわち自分からは何もできない、何も提供するものがないという無の立場で、神が差し出してくださっている恩恵を受け入れるのでなければ、神の国に入ることはできないというのです。この自分を無として恩恵を受け入れることが信仰です。イエスはここで、「信仰によって神の国に入る(救われる)」という福音の根本を語っておられるのです。
「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_27.htm#top
年間第19水
マタイ18・15-20
まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります(一五節)。その場合、相手を赦すことが前提になっています。
続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(一六節)という規定には、申命記一九章六節のような規定が反映しています。このような「二人または三人の証人の口によって確定される」という考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の《エクレーシア》に共通であったようです(たとえばコリントⅡ一三・一)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もありうるのですから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。
この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は《エクレーシア》(教会)と呼ばれ、その成員は《アデルフォス》(兄弟)と呼ばれていました。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_27.htm#top
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必ずかなえてくださると保証してくださっていることは、自己中心的な欲望や願いではあり得ないでしょう。なぜなら、わたしたちが心を一つにするためには、自分中心ではなく、相手を大切にする心が必要だからです。心を一つにして集うところに、キリストもまた居てくださるというのは何と心強いことでしょうか。
主よ、どんなときにも、あなたが共にいてくださることを心に留めながら、あなたに心を合わせて仲間たちと働くことが出来ますように。sese06
---------------------
ひどいことをされた。そういう場合、世間ではどうするでしょうか。けんかをしたり、あるいはその人の悪口を言いふらす、ということをするのではないでしょうか。しかし主イエスがおっしゃった方法はそういうこの世の方法とはまったく違っています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃる。世間ではふつうはそんなことをしません。しかし主はそのようにおっしゃる。いったいなぜでしょうか?何のためにでしょうか?イエスさまが続けておっしゃるのは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と。‥‥「兄弟を得る」、ここを原文に即して直訳すると、「あなたの兄弟を得た」となります。すなわち、私たちが本当の兄弟姉妹となるということになります。ある人が自分に対して罪を犯す。それで行って、ふたりだけのところでそれが罪であること、間違っていることを忠告する。そしてそれを聞き入れたなら、あなたは本当の兄弟を得たことになるのだ、と主はおっしゃるのです。
そのように、世間では、あるいはキリストを信じる前は、自分に対して過ちを犯す人を突き放し、切り捨てる。陰でボロクソに悪口を言って溜飲(リュウイン)を下げる、そういう対応をすると。ところが教会では、まさに罪を犯した当の本人であるその人の所に行って、それが神さまに対する罪であることを忠告しなさいというのです。それはなんのためか。兄弟を得るためであるというのです。切り捨てるのではなく、教会の枝として主イエスのもとにつなぎとめるためであるということです。
(Ⅰコリント 12:26)「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」‥‥という御言葉があります。教会はキリストの体であって、わたしたちはそのキリストの体の一部分である。それぞれ1人1人が、ある人は手であり、ある人は足であり、ある人は目であり、ある人は髪の毛であり‥‥という具合に、教会というキリストの体のそれぞれが一部分であると使徒パウロは教えています。ですからそれぞれ1人1人が大切な存在なのですね。その一つが罪を犯したとき、それを切って捨てるのではなく、何とかそれがキリストの体の一部として悔い改めるように導くのは、そう考えてみると当然なことに思われます。 「二人だけのところで」というのはポイントだと思います。国会中継の党首討論などを見ていると、あれは絶対にお互いにゆずりませんね。それぞれ自分を弁護し、絶対に相手が間違っているということを主張し続ける。わたしなどは、たとえば小泉さんが「ああ、なるほど。菅さんの言う通りかもしれませんね。ごめんなさい」というふうに言ったらどうかな、と思うのですが絶対にそんなことはしない。なぜかと言えば国会議員ががみんな見ているわけですし、テレビでも中継されている。そうすると見栄や体裁というものが大事になってくるわけです。しかも自分の立場というものがある。そうすると、どんなに自分が間違っていると思っても、そういう見栄や体裁のために謝らない。そういうことになるのです。みんなの前でいきなり罪を指摘されたら、だれだって意固地になるでしょう。
主イエスはそういうことをご存じで、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられる。教会員みんなの前で忠告しなさいとはおっしゃらなかった。二人だけのところで、です。相手を切り捨てるのではなく得るためです。相手の心を開き、何とかして過ちに気がつくようにさせるためです。
nibanmati
年間第19木
マタイ18・21~19・1
日本には、「仏の顔も3度まで」ということわざがあります。講談社発行の『日本語大辞典』によると、その意味は、「どんなにおだやかな人でも、何度もひどいことをされれば腹を立てるたとえ」とありました。常識では「3度まで」のところを「7回まで」と言ったのですから、イエスさまも「そうだね。それぐらい忍耐すれば良いよ」とお答えになると思ったことでしょう。
ところがイエスさまの答えは、予想外の驚くべき答えでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
「七の七十倍」は単純に言えば、490回です。しかしもちろんここで主イエスは、「490回まで赦しなさい」という回数のことをおっしゃったのではありません。これはいわば、「無限に」赦すということです。驚くべきことです。人間の常識を越えています。それはもう、人間が何かがんばって、赦しがたい人を赦す、ということではありません。そんなことはできそうもありません。
これがきょうのたとえ話です。主イエスは、このようにして、なぜ赦すべきかを教えられました。それは、わたしたちが神によって赦されているということなのです。しかしこのたとえ話を聞いた人は思うでしょう。「わたしはそんな多くの罪を犯していない」と。しかしそれは人間から見た理屈です。神さまから見たら、わたしたち一人一人がこの話に出てくる家来のようだというのです。金額にたとえれば3千億円というような、途方もない、とても一生かかっても返済できないような罪、過ちを赦してもらっているのだと。それはただ神のあわれみだと。
キリストは何のために十字架にかかられたのでしょうか。それはわたしたちひとりひとりの罪を赦すためです。言い換えれば負債を免除するためです。わたしたちは、そんなにも大きな負債があり、しかもそれが十字架によってゆるされていると知ったときに、神の愛を知るでしょう。
nibanmati
年間第19金
マタイ19・3-12
本日の聖書の個所を聞いて、おそらく単なる離婚禁止の話に聞こえるのではないでしょうか? 離婚をすることがよいのか悪いのか、あるいは、どういう場合ならば離婚をすることができるのか、神さまはどういう状況ならば離婚をゆるしてくれるのだろうか‥‥そのように、どのような離婚なら神の御心に背かないのかとか、神の戒めに違反しないのか、とかそういう話として聞こえてしまうのではないかということです。 特に離婚については、カトリック教会が離婚を認めていない。そういうことが頭にあるものだから、結局きょうの聖書の話を、離婚を認めるか認めないかという法律論議として聞いてしまいやすいのです。
3節を見ると、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして」と書かれています。純粋にイエスさまに教えを乞う気持ちでイエスさまに近づいてきたのではない。イエスさまを試そうという、非常に高慢な気持ちで近づいてきたのです。試す、試験をするというのは、先生が生徒を試験するわけで、ファリサイ派の人々はイエスさまよりも高い所に立って、イエスさまを試そうというのです。純粋に分からなくて質問しているのではない。自分たちの答があるのに、イエスさまを罠にかけるためにこのように質問している。つまり、「イエスが何か変なことを言ったら、捕らえて死刑台に送ってやる」というような、たいへんひどい目的でこのような質問をしているのです。
きょうの聖書では、誰ひとりとしてイエスさまの言葉につまずかない者はいなかったのです。
そうするとわたしたちは、実は、自分の欠けたところに気がつかざるを得ない。主イエスの言葉はそういう御言葉です。律法を教えておられるのではない。あの金持ちの議員が悲しみに沈まざるを得なかったように、わたしたちも「主よ、罪人のわたしをあわれんでください」と胸を打って嘆くということに導かれるのです。
これは何も夫婦関係だけではない。この世の人間関係もそうです。神さまは、お互いに信頼し合うものをしてわたしたちを造られたはずです。しかし人間関係に破れが生じる。傷つけ合うということが起こってくる。わたしたち人間に罪があるからです。そこで相手を責めるばかりではなく、自分の欠け、罪に気がつくように主は導かれるのです。
そのようにきょうの聖書の個所は、わたしたちを主のもとへと導くのです。2節に主イエスが多くの人々の病気を癒された、ということがちょっと出てきます。癒し主なる主、わたしたちの人間の間をいやしてくださる主のもとにいくしかありません。しかしそこに希望があるのです。主のもとに行ったとき、救いが与えられるからです。
nibamati
年間第19土
「子どもと天の国」
マタイ19・13-15
きょうの聖書を読むと、「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」というのはどのときかと言うと、その直前まで、主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりがありました。そのとき、ということになるでしょう。今までの経緯からして、ファリサイ派の人々は、イエスさまを訴える口実を見つけるために、イエスさまのところに近づいたと思われます。ですから、ある意味ではたいへん緊迫したやりとりがあったということになります。言葉を換えて言えば、「真剣なおとなの話」ということになるでしょう。
そんなことがあった直後ということになります。イエスさまのところに、そのような子供たちが手を置いて祈ってもらうために連れられてきたのです。
ところが弟子たちがそれを叱りました。弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか? 「今はそんな時ではない。後で来なさい」ということでしょうか。それとも、子供がうるさいから、「あっちに行け」ということなのでしょうか。‥‥いずれにしても、弟子たちはここに子供を連れて来るのはふさわしくないと思ったのです。そして親たちを叱った。
この弟子たちの行動を見て、おそらく多くの人たちは「当然だ」とか「しかたがない」と思うでしょう。特にイエスさまの時代というのは、子供というのは数に入らなかった時代です。弟子たちが子供を連れてきた親たちを叱ったのも当然と言えるでしょう。 ところが主イエスは、親たちを叱った弟子たちを叱ったのです。そして言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
マルコはそのお言葉を「アーメン、わたしは言う」という句で始めており、この語録の重要性を示しています。マルコ(一〇・一五)では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」となっています。「子供のように」、すなわち自分からは何もできない、何も提供するものがないという無の立場で、神が差し出してくださっている恩恵を受け入れるのでなければ、神の国に入ることはできないというのです。この自分を無として恩恵を受け入れることが信仰です。イエスはここで、「信仰によって神の国に入る(救われる)」という福音の根本を語っておられるのです。
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