カナヅチとクギ

金づちしか持っていないと、すべてが釘に見える」という言葉がありますが、それと同じように、ある言葉遣いの比重が自分の中で大きくなりすぎてしまうと、大抵のことをその語彙(ごい)で理解・表現し、その考えに則って人や世界と関わることになりかねません。それが「言葉に乗っ取られる」ことです。

私たちの生活には、「言葉に乗っ取られる」経験があちこちにあります。「それってあなたの感想ですよね」などの論破につながるタイプの言葉を多用していると、他人の話を取るに足らないノイズとして扱い、黙らせることが習慣化してしまうことがありうるように。

他にも、「すべては努力の問題だ」「配られたカードで勝負しないといけない」「置かれた場所で咲きなさい」といったタイプの言葉遣いで物事を考えがちになると、ほとんどすべての問題や状況を「自己責任論」の視点で考えがちになります。


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教会憲章16番

教会憲章

16




本人のがわに落度がないままに,キリストの福音ならびにその教会を知らないが,誠実な心をもって神を探し求め,また良心の命令を通して認められる神の意志を,恩恵の働きのもとに,行動によって実践し
ようと努めている人々は,永遠の救いに達することができる(33)。また本人のがわに落度がないままに,まだ神をはっきりと認めていないが,神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも,神はその摂理に基づいて,救いに必要な助けを拒むことはない。事実,教会は,
れらのもとに見いだされるよいもの,真実なものはすべて福音への準備であって(31),ついには生
命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。しかし,しばしば人
,悪魔に欺かれて,自分たちの考えの中にむなしく迷い,神の真理を偽りと置き変えて,創造主よ
りも被造物に仕えたり(ローマ12125参照),あるいは神なしにこの世に生きそして死んでゆくなど,絶望のきわみにさらされている。したがって,神の栄光とこれらすべての人々の救いとを念ずる教会は,「全被造物に福音をのべ伝えよ」(マルコ1616参照)との主の命令を忘れることなく,
布教活動を励ましささえるよう熱心に努力するのである。


31検邪聖省,指針(19491220):AAS42(1950),p.142 参照。
32 聖卜マス, Summa Theol., III, q.8, a. 3, ad 1 参照。
33検邪聖省,ボストンの大司教にあてた書簡,Dz.3869-72参照。
34カエサレアのエウセビオス,Praeparatio Eoangelica, I,1:PG 21 28 AB.


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聖者と死者のコラボレーション

聖者と死者のコラボレーション


「諸聖人の日」の翌日が「死者の日」。このことを不思議に感じたことはないでしょうか。「聖なるもの」と「死するもの」が自然に結びつくことなど通常ではありえないことです。そのコラボレーションを可能にするところがキリスト教「信仰」の妙なのです。
古代ローマ時代、一般的な「死」は恐れの対象であり、墓場は絶望に満ちた場所でした。ゆえに古代ローマ人は生活空間である城壁の中に墳墓を決してつくらず、城壁の外で葬りの場を設け、死と日常を切り離していました。
そんな通念をキリストの死と復活の福音がすっかり変えてしまいました。「永遠の命」の希望をもって生きた人の墓は、その人の追憶の場になると同時に、その人が生前用いた遺物をも「追憶」のしるしへと変化させました。
 特に信仰のゆえに命を賭ました殉教者への特別な思いが、
「死者」を「聖者」へと昇華させました(古代の聖者はほぼ例外なく殉教者)。「聖遺物」はやがて、その人のペルソナの宿るものとして大切にされ、そこから超自然的な力がもたらされると信じたキリスト者たちが、社を設け、その中心の祭壇の上に「聖遺物」を埋め込むようになりました。すなわち、聖堂は、「墓所」であると同時に、「聖者」のエネルギーの満ち満ちた場となったのです。聖者の葬られた場所は、この地上と神の国をむすぶ結節点でもありす。こうして、キリストの信仰をもって亡くなった「死者」は、「神」と人をむすぶ大切な役割を担うことになりました。
日本人にとって墓場は、葬られた方への生前の感謝を表し保護を願う場という意味が大きいようで、つまりは現実志向かもしれません。一方、キリスト教の墓地は、いずれ帰っていくべき「故郷」、大切な人々と再会できる未来への希望を強く感じさせます。この違いは、キリスト者の「信仰」というファクターから説明できます。
亡くなったあの人は、かならず「天国」にいて神の近くにある。だからこそ、その墓所は神の国と結びつく。永遠の命、そして復活の希望という信仰なしにはこの感覚は決して生まれないでしょう。もちろん、私たちの信仰は「死者の蘇生」を期待するものではありません。その復活がどのようなかたちで実現するか誰も知りません。ただ、二千年前、数百人に示された、「キリストの復活」の証言が私たちに、あのキリストと同じように復活すると確信させているのです。「死は終わりではない」イエス・キリストがみずからお示しになったその出来事のうちに、私たちは「死者」を尊び、「聖者」を追慕し、「またお会いしましょう」という希望のうちに、今、この瞬間を生きることができているのです。

(川村信三・イエズス会司祭)
「聖書と典礼」より


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Solo Dios basta

「なにものにも乱されるな
  なにものにも驚くな
  すべては過ぎ去るが
  神は変わらない
  忍耐が
  すべてに至る道
  神を体験している人は
  なにも欠くことがない
  神のみで満ち足りる」(『詩』:Poesias 9〔『アビラの聖女テレサの詩』高橋テレサ訳、聖母の騎士社、1992年、51頁〕)。


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