使徒言行録11・9-26
使徒言行録9・1-20
使徒言行録8・1ー8
使徒言行録7
使徒行伝には、殉教者ステパノが「天を仰いだ」ことが記されています。イエス・キリストを力強く証ししたステパノはそのために議会に連れてこられ、大祭司の審問を受けました。ステパノの弁明に人々は激しく怒りましたが、ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていました。するとそこにイエスが神の右に立っておられるのが見えました。ステパノは思わず「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言いました。聖書の他の箇所では、イエスは神の右の座に座っておられるとありますが、このときは「立っておられた」のです。それは、議会での法廷に対して、主イエスご自身がステパノの弁護人として立っていてくださるということを意味していたと思います。また、この後ステパノはエルサレムの街の外に引き出され、石打ちの刑を受けますので、主イエスが立っておられたのは、ステパノの霊を天に迎えるためだったかもしれません。ステパノは石で打たれている間、自分に石を投げつける人たちのために「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈り続けました。
たしかに、「殉教」というのは特別なこと、殉教するほどの人は並外れてすぐれた信仰者なのかもしれません。しかし、天を仰ぐことは特別な信仰者だけのものではなく、すべての信仰者ができることです。殉教の時だけ天が開くのではなく、日常の祈りの中でも、天が開けて、神の栄光を、主イエスの栄光を見ることが許されるのです。主イエスは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)と言われました。「開けてもらえる」というのは「天の扉」のことです。真心から、また、熱心に祈る者のために天の扉は開き、その中にある神の恵みが与えられるのです。「主の祈り」を祈るとき、天を見上げ、神を仰ぎ見、心を込めて、「天にましますわれらの父よ」と呼び求めましょう。そのとき神は、わたしたちに、天におられるお方としてのご自身の栄光をわたしたちに示し、また、天の栄光を示してくださるのです。そのようにして、天がわたしたちにとってももっと身近なものになり、天を仰ぐことが喜びとなるのです。
(祈り)
神さま、あなたは天におられ、すべてを治めておられます。地上のものに、この世のことに思いが行きがちなわたしたちに、もっと天のことを思う思いを与えてください。そのために天からの書物、聖書に親しみ、天とのコミユニケーションである祈りに励むわたしたちとしてください。「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださった、主イエスのお名前で祈ります。
ロマーノ グアルディーニ、『ミサ聖祭に与るための準備』(A・ボナツィ私 訳)➅
霊的成長
霊的成長とは?
Ⅰ、無力さの中での神との出会い
・自分の無力さ(限界)に気づいた。「すべてを自分でしなければならない」「わたしが頑張ればなんとかなる」という考えが自分を行き詰まらせていたことを知った。
・自分を超えたもの(神)に心を向けた。「神」「永遠」「目に見えないもの」とのつながりを感じた。それでもなお自分を生かしているものに気づくことができた。神の愛を体験的に知ることになった。
Ⅱ、自分についての新しい見方
・自分のすばらしさを知った。「よいものすべてが失われたわけではない」ということに気づいた。自分を大切にするとはどういうことかが分かってきた。
・人との比較の中で自分を見ることをやめ、自分との比較の中で人を見ることをやめた。わたしは自分の価値を確認するために他人を利用する必要がない。
Ⅲ、人との新しいかかわり方
・わたしは、自分の人生の主人になった。自分の人生を人のせいにすることがなくなった。神の前に立つ者として周囲に振り回されない生き方を見いだした。
・人とのつながりを再発見した。いかに人から愛されてきたかということを発見したし、どう人に向かっていけばよいかが分かってきた。
Ⅳ、困難の中で前向きに生きる
・現実をありのままに見つめ、受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても、希望を失わず、前向きに生きることができる。
・死に直面してなお、いのちのすばらしさを信じている。この世のものをいとおしみ、かつこの世のものに縛られないと感じている。
Ⅴ、祈りと愛と奉仕に生きる
・祈りの中でいつも自分を見つめ、神のみ旨を見つめている。神のみ旨の実現と自分の霊的成長を何よりも大切に考えるようになった。みことばと聖体によって生かされるということの意味を知った。
・わたしは神に遣わされたものだと感じるようになった。日々の生活が輝きに満ち、愛と奉仕に生きる喜びを感じている。
(2008.05.10 koda)