エフェソ 1-3

エフェソ 1

宅急便の荷物のラベル

パウロがここで賛美しているご聖霊の働きは、一言でいうと、「証印」であります。私たちが、キリストにあって、真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたら、聖霊によって証印を押されます、とパウロは言っています。「証印」というのは、かつて、貿易の貨物がだれのものであるかを明らかにするためのスタンプでありました。昔は、今のように紙のラベルに印刷するのではなく、蝋(ろう)があって、自分の指輪の印を、まだ柔らかい蝋に押しつけました。それが固まったのが証印であるわけです。
  この手紙を読んでいるのは、エペソにいる信徒たちでした。エペソは、当時、貿易中継都市としてもっとも栄えた都市の一つでした。東の国々から、世界の中心地であるローマに対して数多くの貨物が輸送されました。そのエペソにおいて、貿易商人たちは、自分たちが売るための商品を梱包して、それから、今話しました「証印」を押しました。これが自分たちのものであることを、こうして証明したのです。積荷された船は次に、コリントの町を通って、イタリヤのポテオリという港町に行きます。ポテオリからローマは近くにあり、この港からローマじゅうに製品がポテオリで積荷は降ろされますが、そのときに、どの荷物がだれのものか証印によって判断するのです。貿易商人は使いを送って、自分の荷物を探させます。その使いは、「あった、あった!」と言って、主人の指輪の証印と、ろうそくに型どられた印の跡と照合した荷物を持ってくるのです。
  パウロは、エペソにいる人たちがよく知っている、この出来事を用いて、神の贖いのご計画について説明しているのです。私たちは、この貿易商人の商品であります。貿易商人、つまり所有者は神でありキリストです。私たちが、救いの福音を聞いて、信じたときに、神は私たちに、私たちがキリストのものであることの証印を押してくださったのです。それは、目に見える証印ではありません。神の聖霊ご自身が、証印となってくださっているのです。
  これはとてつもない霊的祝福です。私たちは、まだすべてのものが贖われているのを見ていません。私たちのからだは、相変わらずアダムから引き継いだところの罪を宿しているし、この世界もまだキリストの支配に従っていません。キリストの血によって、すべてのものは神の支配下にあるのですが、すべての者が神に従っているわけではないのです。ダビデが油注がれて、王となったのにもかかわらず、サウルがしばらくの間、王位に着いていました。同じように、キリストは今、神の右の座に着いておられるのに、悪魔は不法に、自分の王座をこの世に置いています。しかし、すべてのものがキリストの足下に来る日が来るのです。まず、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者になる時が来ます。そして万物が変えられて、すべてのものが、自然も、国も、経済も、政治も、文化も、教育も、家族関係も、すべてがキリストに服従する時が来ます。したがって、神は、すべてのものをご自分のものにしておられますが、その所有権をまだ行使されていないのです。
  その間、私たちも、また被造物も、自分たちが贖われるのをうめいて、待っているような状態にいるのです。しかし、私たちには、その道程にともにおられて、助け、慰めてくださる方がおられるのです。その方がパレクレトス、聖霊であります。創世記の学びをおぼえおられますか、アブラハムのしもべエリエゼルは、イサクの妻になる人を探しに行きました。リベカがいました。リベカは、エリエゼルの言い寄りに従い、彼とともにイサクのところに行くことを決めました。そこからイサクが住んでいるところまでは、かなり長い道のりです。しかし、その道すがら、エリエゼルはリベカに花婿イサクのことを話したことでしょう。彼がどのような人であるか、彼が父からどれほどの財産を受けているのかなどを話し、さまざまな言葉で彼女を励まし、慰め、助け、イサクに目を向けさせたはずです。これがご聖霊の働きなのです。聖霊は、この暗き世において、私たちを慰めてくださいます。キリストの栄光を知らせてくださり、私たちが苦しみの中にいても、希望を持つことができるようにしてくださっているのです。
  私たちはちょうど、証印を押されて、ポテオリに向かっている貨物のようであります。まだ所有者のものとなっていません。しかし、証印があるので、確かに所有者の手の中に入ります。その時が待ち遠しいです。所有者が、「これはわたしのものだ。」と言ってご自分のものとされる時が近いのです。このように、ご聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われていることを確認してくださるのです。
それでは次の節に行きます。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
  ここの「保証」というのは、「手付け金(てづけきん)」とか「頭金(あたまきん)」と訳すことができます。高い買物をするとき、自分が必ずそれを購入することを確かにするために、手付け金を払いますね。例えば家やマンションを買うときは、売主と買主の間で契約を結びます。そのときには、買主は購入代金の一部を売主に払います。それは、買主が、他の良い物件が見つけて、それに乗り移ってほしくないからです。買主が買うと言っているので、その間、他の人には売らないようにしておきます。けれども、途中で気が変わって、契約をキャンセルしたら、その間に本当は他の人が買ったかもしれないその機会を失ってしまいます。ですから、手付け金を受け取って、確かに買主が購入を完了させる保証としているのです。
  そして、パウロは、聖霊が、この手付け金であると言っています。神が私たちを贖ってくださるのですが、本当に贖ってくださることを保証するために、その祝福の一部を、私たちに与えてくださったのです。私たちが今得ているのは、神が与えてくださるところの祝福のごく一部です。ご聖霊によって、私たちに平安が与えられ、キリストの愛によって満たされ、言葉で言い表すことのできないほどの喜びに満たされ、私たちは、ああ、なんと祝福されているのであろうかと思います。けれども、それは頭金でしかないのです。天における祝福のほんの少しなのです。ですから、神の御国がいかに栄光に富んでいるものであるかを、知ることができるのでしょう。

エフェソ 2

組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
新しいマンションの建設現場
 これは面白いですね。エルサレムのヘロデの神殿がまだ完成していませんでしたが、私たちもまだ完成しておらず、建築中であるとされています。私たちが集まるときに、相手に期待しすぎる傾向がありますね。けれども、「鉄が鉄を研ぐ」という箴言の言葉があるように、互いに成長するために存在するのです。相手の不完全さを見てもがっかりしないでください。むしろ、不完全な者どおしで、成長できることを喜びとしてください。
イスラエルは、神を礼拝するために神殿に行きましたが、なんと私たちは、その神殿そのものになっているのです。それは神の御霊が私たちのうちに生きてくださっているからです。
 このように、私たちは、遠く離れていた者たちから、神の御住まいそのものになってしまいました。また、罪の中に死んでいた者から、天にキリストとととに座する者となってしまいました。「以前のあなたと今のあなた」です。私たちはどれほど、このすばらしい恵みの豊かさに浴しているでしょうか。あたかも、だれかから請わなければいけないように、貧乏人を装っていることはないでしょうか。神は、すべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。キリストにあって、私たちは満ち満ちています。

エフェソ 3

神が私たちに秘められた計画を持っておられるとは、どういうことなのでしょうか。ちょっとたとえで話してみましょう。あなたが有能な大工さんで、棟梁であるとします。自分の愛する人と結婚することになりました。その人は、この女性を愛し、その愛をどのように示せばよいか考えています。そうだ、彼女のために別荘を建築してあげよう。だまって内緒でそれを建てるのだ。彼女が好きなデザイン、色彩、好みなどを考えながら建てよう。そして、あなたは、妻に隠して建築をはじめます。二年の歳月が経ちました。結婚記念日のときに、「ちょっとプレゼントがあるんだ。」と言って、彼女を別荘まで連れていきます。まさにあなたのあらゆる技能をもって出来上がった最良の別荘です。
 これがmusthrion(ムステリオン)、秘められた計画であります。神は、永遠の昔から、私たちのために計画を立てておられました。神のあらゆる知恵と思慮深さをもって、ご自分の恵みを明らかにする方法を考えられました。そしてそれを、ずっとお隠しになっていたのです。旧約時代の聖徒たちにさえ隠しておられました。おぼえていますか、ダニエルが御使いから受けた幻について、理解できずに悩んでいたときに、御使いは、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(12:4)」と命じました。あの神の人ダニエルでさえ知らなかったこと、また他の偉大な預言者も知りたいと思いながら知らされていなかったこと、それを私たちは今、知らされているのです。
2C ともにあずかる者 6-7
 そして、この計画は次のとおりです。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
 異邦人がユダヤ人とともに、神の相続人となること。一つのからだ、あるいは神の家族の中に入ること。そして、ユダヤ人とともに約束にあずかることです。これは実はすでに、エペソ書2章で、パウロが語っていることでした。異邦人は、神もない希望もない者たちであったけれども、キリストの十字架によって隔ての壁が壊され、二つが一つになる。新しいひとりの人に作り上げられる、とありました。
ユダヤ人でもなく異邦人でもない、まったく新しいアイデンティティーを持つことになりました。つまり、「キリストにある者」です。「だれでもキリストのうちにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされたのです。」という言葉です。

ルカ 11

ルカ  11

 「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。』」

 祈るときは、まず祈る相手がだれであるかを知らなければなりません。祈る相手は、「父」であります。つまり、私たちが神を父とするような親密で、個人的な関係がなければ、祈りをすることはできないということです。私たちはとかく、祈ること自体に重きを置いてしまいます。「私はクリスチャンなのだから、とにかく祈らなければいけない。」というように、儀式的に義務的になってしまいます。けれども、もし私たちが、神が父であることを知ったらどうでしょうか。自ずと祈りへと導かれるのではないでしょうか。その方と意志伝達をしたいと思うはずです。ですから、祈るときには、その相手がだれであるかを意識しなければいけません。

 「御国が来ますように。」

 祈る相手がわかったら、今度は、その方の考えておられること、願っておられること、計画されていることが実現するように願います。自分の願いや考えよりも、信頼する父が願っておられること、考えておられることが実現することほうが、もっと有益だからです。私たちが、父ご自身のなさることを自分の喜びとするとき、父は私たちにご自分の願いを置いてくださいます。そして、それを私たちが願うと、その願いはかなえられるのです。

 私たちの日ごとの程を毎日お与えください。

 今度は、実際の生活の場面で、父に生きて働いていただくようにします。日ごとに、毎日お与えくださいと、毎日願うことが強調されていますね。いつも、絶えず、父に自分の身をゆだねていかなければいけません。「ここの部分は自分でいろいろやるから、後で神さま、あの部分をやってください。」というようなものではないのです。糧とあるように、物質的なことに父が関心を持っておられることを認めます。

 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

 今度は、実際の生活の場面でも、霊的なこと精神的なことについてです。つまり、神との関係と、人との関係について祈ります。クリスチャン生活にとって、例えば、病気になったとか、盗難にあったとか、そのような不幸は不幸に数えられません。苦しみは、しばしば神から与えられる賜物です。けれども、罪を犯すことは神との関係を崩します。すぐに関係の修復のために取り組まなければいけません。また、例えば夫婦が貧乏になっても、問題ではありません。けれども、けんかをしていれば問題です。ですから、神との関係、人間関係のために、父が働いてくださるように祈ります。

 私たちを試みに合わせないでください。

 最後に、御国の外にいる者から守られるように祈ります。使徒ヨハネは、「わたしたちは神からの者であり、全世界は、悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)」 と言いました。私たちは、つねにこの世と接触しているので、受ける誘惑も大きいのです。ですから、私たちが誘惑に立ち向かうことができるように祈ることは大切です。


 



 

 
 


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ヨブ記 3

ヨブ記 3

 しかし、ヨブはそれをいま剥ぎ取られてしまいました。そこで彼は、もっとも基本的な問いかけを口にしたのです。それは、「なぜ自分が生まれたのか」という問いかけです。なぜ自分が生まれたのか、なぜ自分が生きているのか、自分がいま生きている意味は何なのか?という疑問です。

 私たちは、普段はこのような問いかけはしないでしょう。しかし、この疑問の答えることが実は私たちが生きている上で至上命題なのです。生まれたときにも、また死ぬときにも、私たちは裸であり、何か持ってきたわけでもないし、何か持っていくこともできません。

 しかし、私たちの人生の物差しは、主が言われた「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか。」になっています。今の日本人に、自分が生きている価値を聞いたときに、この世の中で成功するための教訓は話せるかもしれませんが、なんで自分が生存しているのかという根本的な問いかけは答えることができません。けれども、これがもっとも早く見つけなければいけない解答なのです。

 それを主イエス・キリストは、「永遠のいのち」と言われています。単に肉体が生きることではありません。また、精神的に幸せな状態を保つことでもありません。なぜ自分が生きているのか、ヨブのようにすべてが剥ぎ取られたときに、それでも生きている価値があると言える霊のいのちを持っていることです。

ヨブ記 9

これは地上で起こっていることだけを見れば、現実です。正しい者も悪者も同じ災いを受けます。罪のない人が酷い目にあいます。そして裁判所では正しい裁判が行なわれません。ヨブは、「もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。」と言っています。彼は神の主権に焦点を合わせています。もちろん人の罪が、そして世の制度が、そして悪魔が不正な裁判をさせる背後に存在します。けれども、これらのものはみな神の許しあって起こっていることです。神はすぐにでも、人を、この世を、悪魔を滅ぼすことができますが、それをあえてなさいません。もちろん、これは人々が自分で神を愛する選択をすることができるようにするためのものですが、神の主権の中で起こっていることです。

人生のなやみとはそのように深く、結局神、生ける神との出会い以外に解決の道がないことを思わせられる。


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天の元后 聖マリア

天の元后 聖マリア

Inno alla Vergine - Dante Alighieri
Vergine Madre, figlia del tuo figlio,
umile e alta più che creatura,
termine fisso d'eterno consiglio,

tu se' colei che l'umana natura
nobilitasti sì, che 'l suo Fattore
non disdegnò di farsi sua fattura.

Nel ventre tuo si raccese l'amore,
per lo cui caldo ne l'eterna pace
così è germinato questo fiore.

Qui se' a noi meridiana face
di caritate; e giuso, intra i mortali,
se' di speranza fontana vivace.

Donna, se' tanto grande e tanto vali,
che qual vuol grazia e a te non ricorre,
sua disianza vuol volar sanz'ali.

La tua benignità non pur soccorre
a chi domanda, ma molte fiate
liberamente al dimandar precorre.

In te misericordia, in te pietate,
in te magnificenza, in te s'aduna
quantunque in creatura è di bontate.

Dante, Paradiso XXXIII, 1-21

マリアへの祈り

ダンテ『神曲』新訳刊行準備中のイタリア文学者・原基晶さんによる、「天国篇」第三十三歌(『神曲』最終歌)冒頭、「マリアへの祈り」の翻訳連ツイをまとめました。

「処女であり母、あなたの息子の娘、/あらゆる被造物より身を卑しくし、かつ崇高、/
永遠の御心の定まれるまと的 、/あなたこそは人類を/この上なく高貴にされた方、それゆえに創造主は/自らを人の被造物とされることを厭わなかった。

あなたの胎内で再び愛が燃え上がったのだ 。/その暖かさにより、永遠の平和のうちに/
この花はこのように双葉を開いた 。/

ここであなたは、我らへと慈愛を放つ/南中した松明 であり、下界では、必滅の者達にとり/生ける希望の泉だ。

貴婦人 よ、あなたはかくも偉大、かくもお力を持ち、/
ゆえに恩寵を望んで、なお、あなたの助けを求めぬ者の、/
その希望は翼なしに飛ぼうとしている。/
あなたの慈しみは求める者を/
救うだけでなく、寛い心で/幾度も求めに先んじられる。

あなたのうちに慈悲があり、あなたのうちに憐れみがあり、/
あなたのうちに寛い心があり、あなたのうちに、/
被造物のうちにある、あらゆる善が一つになっている。/

今、この者、宇宙の奈落の底から/ここまで、霊を備える魂を/
一人一人見ながら至り、/恩寵にかけてあなたに願う、究極の至福に向かって/
さらなる高みへと目を見開きながら昇っていけるほどの、/
大いなる力が与えられんことを。

そして我は、この者の視力のためほどには/
己の視力のために燃え上がったことはなく、/
その我が願いのすべてをあなたに捧げん、願いの至らぬことなきを願わん、
あなたの祈りにより、この者に巣食う必滅ゆえの/
あらゆるもや靄が消散し、/究極の至福がこの者にそのすべてを顕さんがため。

女王よ、あなたが望めばそれはなされるがゆえ、/
我はさらにあなたに祈る、これほどのことを見た後でも、/
この者の心が健全なままでいられることを。

原基晶 @motoakihara 2012-12-24 22:46:19




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Mythbuster Extraordinare: How Benedict Tackled False Christologies.

Mythbuster Extraordinare: How Benedict Tackled False Christologies.

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Christians sense there is something radically wrong in trying to put Christ into strange molds, where long-held Christian beliefs about Christ are attacked from all sides. As Benedict stated in his Dunwoodie address to seminarians, to see Christ’s face ” … is a discovery of the One who never fails us; the One whom we can always trust…”
 
The past century was characterized by ideologies about human nature and society, some of which are now collecting in the dustbins of history. Even in Christian circles, there were attempts to recast Christ as someone reflecting the scholarship, ideology, or mood of the times. Perhaps, this arose out of a kind of boredom with traditional depictions of Christ, perhaps from pride, or just plain delusion. In a work by Romano Guardini, entitled The Humanity of Christ: Contributions to a Psychology of Jesus (1963), Guardini stated:
Our minds, dulled by everything said and written on the subject, can no longer comprehend the passion with which for centuries the early Christians fought out the issues of Christology. 1
Guardini saw that Christological distortions would be an especial problem in his times, an attempt to revolutionize our understanding of Christ, a kind of myth-making in keeping with the ideologies at hand.  Some post-Enlightenment, Christological illusions depict Jesus as a social prophet, Jewish rabbi, movement founder, healer, revolutionary, meek friend, psychotherapist, not to mention the pre- and post- Easter Jesus, among many others. One particularly harmful depiction was the one commonly known as the “Jesus of History.” Pope Emeritus Benedict XVI made it his special mission to be a mythbuster hereto engage in a determined deconstruction of this particular false depiction of Christ.

The “Jesus of History

“Jesus of history” portraits are presented as factuala product of the historical-critical method of biblical exegesiswhich arose in the context of increasing archaeological and scientific discoveries in the late 18th and 19th centuries. They emphasized the historically verifiable, the reasonable, in contrast with the Jesus of living tradition, the “Jesus of faith”the latter seen as imbued with pious and comforting accretions, but with little basis in historical fact. Some early researchers in the quest for the “Jesus of history” were: Romano Guardini, The Humanity of Christ: Contributions to a Psychology of Jesus(1885-1968), whose Deism led him to reject the reality of miracles; David Friedrich Strauss (1808-1874), who asserted that the supernatural elements of the Gospels could be treated as myth; and Ernest Renan (1823-1892), who asserted that the biography of Jesus ought to be open to historical investigation just as is the biography of any other man.
In Jesus of Nazareth (2007), Benedict prefaces his critique of the historical critical method by acknowledging that it is a useful first step, which “remains  an indispensable dimension of exegetical work” because “it is of the very essence of biblical faith to be about real historical-critical events.” 2 In fact, the encyclicals Providentissimus Deus (1893), Divino Afflante Spiritu (1943), and Pontifical Biblical Commission documents had encouraged historical research. Without recognizing Christianity’s historical dimension, Benedict says, there is a danger of gnosticism, stressing personal enlightenment alone. Christianity, Benedict stresses, lies on the factum historicum, not symbolic ciphers, or concepts alone:
“Et incarnatus est”—When we say these words, we acknowledge God’s actual entry into real history. 3
That having been said, Benedict goes on to critique  the views of ”Jesus as history” scholars, such as:  Adolf von Harnack (1851-1930), Martin Dibelius (1883-1947), and Rudolf Bultmann (1884-1976). They viewed the probable and measurable as solely of value, relegating miracles to the realm of doubt or myth. 4  Benedict explains that even outstanding biblical scholars, such as Schnackenberg, can end up constrained by its methods. 5 The historical-critical method fueled hermeneutical suspicion about everything in some quarters, and sparked  ‘‘anti-Christologies,” leaving genuine seekers for Christ submerged in endless scholarly conflicts and questioning, wondering if the Gospels themselves were genuine. The shifting hypotheses of exegetes, as Avery Dulles noted, led to neglect of tradition, and historical research became “the highest doctrinal authority of the Church.” 6
Some of the damaging legacy which undermined traditional Christological portraits, can be seen in this website account:
Jesus is not the only-begotten Son of God sent to earth to die for our sins. Rather, he is one of us who, as a man, simply had an unusual degree of experiential contact with God. He says remarkably little about himself. Having found freedom himself, his only goal is to help us find it. 7
Another “Jesus of History” came from Father John Meier, professor of New Testament at Washington, D.C.’s Catholic University of America, who declared in A Marginal Jew (1991), that “on painstaking deductions from the New Testament” and “other knowledge about the Graeco-Roman cultures in which Jesus and his followers moved”that Jesus was probably married, had four brothers and sisters (not cousins), and that he was born in Nazareth not Bethlehem. 8
Most Christological portraits—especially those à la Bultmann—deconstruct Jesus to be an ordinary, first century, Jewish rabbi, about whom little can be said, except that Jesus is not the “person” the reader thought he was, that is, the Son of God, as proclaimed in Scripture and tradition for millennia. After perpetual deconstruction, Benedict notes, scholars often are then obliged to resort to novel reconstructions in order to explain how everything came about, their “sheer fantasy” based on their philosophical proclivities. 9

Obfuscating theologians

The historical-critical method thus becomes a meta-method, a broad funnel through which continual Christological deconstruction and reconstruction flows, blind to its own philosophical assumptions, breaking the memoria ecclesiae, ensnaring the innocent. Benedict interprets the passage: “Whoever causes one of these little ones who believe in me to sin, it would be better for him if a great millstone were hung around his neck and he were thrown into the sea” (Mark. 9:42), as not only referring to sexual abuse victims, but also to victims of obfuscating theologians and exegetes, who deconstruct and obscure Christ’s face. 10 Similarly, Benedict has quoted Joseph Gnilka’s view that “The devil presents himself as a theologian,” especially one involved in biblical exegesis. 11
The “crisis” Benedict referred to is that of conflicting historical-critical theories, which instead of unveiling the traditional Jesus of the Johannine, Synoptic, and Pauline Christologies, have created biblical cataracts for hapless seekers. Benedict underlines the method’s unreasonableness in highlighting the “word” (and its endless interpretations) as opposed to the unique “event” of endlessly exposing “discontinuities” of text; and insisting that “simple” accounts are original and believable, while “complex” accounts are later Hellenic, mythic impositions on earlier Semitic paradigms—the paradigms and myths selected according to the writer’s taste. The historical-critical method’s major flaw is that it is anti-historical in the sense that it is not open to revelation of a unique historic event, of God entering time, the basis of any Christology.

Deconstructing the hermeneutic of suspicion

Benedict sees the philosophical roots of historical-criticism (especially in Bultmann) in the Kantian  belief that the noumenon—the thing-in-itself—cannot be known, and only the methods of natural science can recreate Christ. This constitutes an unreasonably narrowed focus, an ostracism of metaphysics, an ontological phobia. In a skillful volte-face, Benedict applies a similar hermeneutic of suspicion to the methods of the scholars themselves, saying: “What we need might be called a criticism of criticism.” 12 Praising a doctoral dissertation by Reiner Blank, entitled: “Analysis and Criticism of the Form-Critical Works of Martin Dibelius and Rudolph Bultmann,” as a “fine example of a self-critique of the historical-critical method,” he enlists Heisenberg’s  “Uncertainty Principle” in his attack:
Now, if the natural science model is to be followed without hesitation, then the importance of the Heisenberg principle should be applied to the historical-critical method as well. Heisenberg has shown that the outcome of a given experiment is heavily influenced by the point of view of the observer. 13
Thus, in the Heisenbergian spirit, Benedict critiques the “Jesus of history” for its uncertainties! He does so  under two main headings in Jesus of Nazareth. First, he says that the historico-critical method is restricted to leaving the biblical word in the past, which contradicts the Gospel’s claim that Jesus is the eternal Logos who is not confined to time. The Scriptures reach out to all, beyond the past, the moment “a voice greater than man’s echoes in Scripture’s human words.” 14 Jesus’ revelation of God “really did explode all existing categories, and could only be understood in the light of the mystery of God.” The words and events of Christ’s “life” transcend time and “one must look at them,” Benedict says, “in light of the total movement of history, and in light of history’s central event, Jesus Christ.” 15 True, Christology requires openness to divine revelation as a fact in itself, even if one takes into account  Heisenberg’s understanding of the human predisposition to  perceive this reality in a manner suited to the knower.
Benedict describes the second major limitation of  “Jesus of History” portraits as presupposing “the uniformity of the context within which the events of history unfold,” therefore treating ”biblical words it investigates as human words.” 16 This eradicates Jesus’ supra-human claim that he came to do his Father’s will. Highlighting this in his essay on Guardini’s book, The Lord, Benedict says:
The figure and mission of Jesus are “forever beyond the reach of history’s most powerful ray” because “their ultimate explanations are to be found only in that impenetrable territory which he calls ‘my Father’s will.’” 17
Benedict goes on to say,”One simply cannot strip ’the Wholly Other,’ the mysterious, the divine, from this Individual. Without this element the very Person of Jesus himself dissolves.” 18 When, as is recounted in Jesus of Nazareth, the rabbinical scholar, Jacob Neusser, reads the Gospels with an open mind, he concludes that the dramatic, universal, plainly understood message of the New Testament is Christ himself, who is the Son of God, and who invites us into this heavenly family. Benedict, implicitly asks, if a Jewish scholar can see it, why can’t Christian exegetes?
Jesus understands himself as the Torah—the word of God in person … Harnack, and the liberal exegetes, went wrong in thinking that the Son, Christ, is not really part of the Gospel about Jesus … The truth is that he is always at the center of it … The vehicle of universalization is the new family whose only admission requirement is communion with Jesus, communion in God’s will. 19
So radical is the claim that “Jesus understands himself as the Torah“—the center and living unity of the Old and New Testaments—that the Jewish scholar is so overwhelmed that he can hardly absorb it, recognizing its extraordinary claim as one that Buddha, Mohammed, or other religious leaders never made. Benedict uses the rabbi’s fresh observations to perform myth-busting on historical deconstruction, reminding us that “humble submission to the word of the sources” dynamically unveils Jesus—and “he who sees Christ, truly sees the Father; in the visible is seen the invisible, the invisible one.” 20
The distortions of the “Jesus of History” are now, in fact, becoming “history” for Christ—not Christophobia—always arising in eloquent simplicity out of the hazy distortions, and rusting ideologies, of past and current deceptions. Christians sense there is something radically wrong in trying to put Christ into strange molds, where long-held Christian beliefs about Christ are attacked from all sides. As Benedict stated in his Dunwoodie address to seminarians, to see Christ’s face ” … is a discovery of the One who never fails us; the One whom we can always trust. In seeking truth, we come to live by belief because, ultimately, truth is a person: Jesus Christ.” 21  Re-awakening Christians from their historical-critical hypnosis, in a very clear way, has relegated the “Jesus of History” to the realm of mummified theories, unveiling Christ, who always invites our trust throughout the ages. This relentless and successful myth-busting  of a “learned” but false depiction of Christ will be one of Benedict’s most profound and lasting legacies, now, and in the time to come.
  1. Romano Guardini, The Humanity of Christ: Contributions to a Psychology of Jesus. 3rd Edition. (NY: Random House, 1964). Originally published in German as Die Menschliche Wirklichkeit Des Herrn.  in 1958 by Werkbund-Verlag, Wurzburg.
    http://www.ewtn.com/library/CHRIST/HUMAN.TXT (Retrieved 8/2/2009).
  2. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), xvi.
  3. Ibid., xv.
  4. Ibid., xi-xix: 34-38. Similar points were made by Ratzinger in a previous lecture and publication. Joseph Cardinal Ratzinger, “Biblical Interpretation in Crisis: On the Question of the Foundations and Approaches of Exegesis Today,” in R. J. Neuhaus, ed., Biblical Interpretation in Crisis (Grand Rapids : William B. Eerdmans, 1989). Originally delivered as an Erasmus Lecture at St. Peter’s Lutheran Church in New York City on 27 January 1988. Also available at: http://www.catholicculture.org/library/view.cfm?recnum=5989 Retrieved 3/21/2013).
  5. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), xiii.
  6. Avery Cardinal Dulles SJ, “Benedict XVI: Interpreter of Vatican II,” Laurence McGinley Lecture, Fordham University, October 25, 2005. Article also appears as: Avery Cardinal Dulles SJ, “From Ratzinger to Benedict,” First Things, October 2006. Quotation taken from website containing this article: http://www.firstthings.com/article.php3?id_article=86
  7. http://www.circleofa.org/articles/PortraitOfJesus.php (Retrieved 3/4/2012).
  8. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE4DA133FF930A15751C1A967958260(2/2/2011).
  9. Joseph Ratzinger, God and the World, (San Fransisco: Ignatius press, 2000), p 227.
  10.  Joseph Ratzinger, The Nature and Mission of Theology, (San Fransisco: Ignatius, 1993) p.67-68.
  11. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), p.34.
  12. Erasmus Lecture: http://www.catholicculture.org/library/view.cfm?recnum=5989 .
  13. Erasmus Lecture: http://www.catholicculture.org/library/view.cfm?recnum=5989 .
    Benedict makes the same point in an article entitled On the 100th anniversary of the Pontifical Biblical Commission, Relationship Between Magisterium and Exegetes,” L’Osservatore Romano, Weekly Edition in English, July 23, 2003, p. 8, where Benedict says: “… we have also learned something new about the methods and limits of historical knowledge. Werner Heisenberg verified, in the area of the natural sciences, with his “Unsicherheitsrelation,” that our knowing never reflects only what is objective, but is always determined by the participation of the subject as well, by the perspective in which the questions are posed and by the capacity of perception.”
  14. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), p xvi.
  15. Erasmus Lecture, http://www.catholicculture.org/library/view.cfm?recnum=5989 .
  16. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), pxvii.
  17. Joseph Cardinal Ratzinger, “Guardini on Christ in our century.” Retrieved from: https://www.ewtn.com/library/homelibr/thelord.txt (4/10/2014).
  18. Ibid.
  19. Pope Benedict XVI, Jesus of Nazareth, (London: Bloomsbury, 2007), pp. 110, 116.
  20. Josph Ratzinger,”Jesus Christ Today,” Communio, Vol 17, 1990, p. 80.
  21. http://www.ssmi-us.org/downloads/ssmi-vocation-dunwoodie.pdf
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avatar About Dr. Wanda Skowronska, Ph.D.
Wanda Skowronska is an educational psychologist, living and working in Sydney, Australia. She has done pro-life counselling for Family Life International, and regularly writes for the Catholic journal, Annals. She completed a Ph.D. at the John Paul II Institute in Melbourne, Australia, in 2011, and is currently working on a book on Catholic involvement in early modern psychology.

エゼキエル 年間第19水

ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし……

                エゼキュル書10・2

エルサレム滅亡についての幻である。炭火というのは神の火であり、さばきをされる火である。さばきの火がエルサレムにまき散らされるのである。
エルサレムは、現実にはバビロンの軍隊によって壊滅に帰したわけであるが、そのエルサレム滅亡は、神が亜麻布を着た人に言った言葉が成就したのである、と示しているのである。バビロンの軍隊によって壊滅したということは、当時の王様が若かつたとか、軍隊が弱かったとか、政治家が怠慢であったとか、いろいろ考えられるだろう。しかし、それらは表面的なことであり、その奥では、不信の都エルサレムを滅びにいたらせたのは神であったのである。神殿の申でいまわしいことが行なわれ、町には神の嘆かれることが行なわれている。町はもはや神の選び、神の恩寵を受けて存在する意味がなくなっている。
だから神の意志によって神が臨まれたのである。ただ単にそのような思想を持つというのではなく、一つの歴史解釈を、上からの示しによって可能ならしめているのである。
 戦後まもなく、私たちが奪い合うようにして読んだ本に「日本の傷をいやすもの」というのがあった。矢内原忠雄先生が書いたもので、当時の青年たちがむさぼるようにして読んだものである。町にはまだ本らしい本も出ていない頃であった。矢内原先生はその本に「日本はアメリカに負けたのではないのだ、日本は神によって滅んだのだ、その滅んだ日本をいやすものは神以外にはない、本当に神に帰る以外に日本の復興はないのだ」という意味のことを書かれた。
 当時、軍隊やエ場から帰った人たちがキリスト教に目標を見いだし、神のご用に役立ちたいと献身していった。エゼキエルは、壊滅に帰したエルサレム、バビロンによって打ち負かされたエルサレムは、神によってなされたものであったことを、幻によって示されたわけである。
 神殿は、もはや神の住むべき所ではなくなったので神は去られた。あるじのいない神殿、あるじのいない教会になってしまった。
 神殿のすばらしさは外側の荘厳さにあるのではなく、そこに神が臨在しているかどうかにあるのである。教会もまた同じである。そこがどんなにみすぼらしくとも、キリストが臨在している所、すべてのものを満たしているかたが、満ち満ちている所が教会であると言われでいるが、本当に神が臨在し、神の手、神の言葉が見られたり、聞かれたりする所が教会でなければならない。
 教会は、キリストの血潮にあがない取られた所であって、キリストのいましたもう所であり、神のみ霊の満ちている所であらねばならない。そしてキリストの臨在する場として自らととのえていく努力をしなければならないと思う

榎本保朗、『旧約聖書一日一章』、主婦の友社、1977年

日本の傷を医す者 白日書院 1947

年間第15火

イザヤ書

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

 主がユダをお守りになったのに、アハズには神に対する信仰は全くありませんでした。そのため、心が大きく動揺させています。アハズはまことの神、主以外のものであれば、何でも頼ろうとする臆病な人間でした。シリヤにやられたら、その勝利を収めさせたのはダマスコの神々だということで、ダマスコの神々を寄せ集め、アッシリヤが力をふるうと、そこの神殿の祭壇の図面に基づいて、祭司にアッシリヤの宗教の祭壇を造らせました。

 主に願いを立てるということには、人格的な成熟が要求されます。単なる願い事ではなく、心と尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主を愛するという、全人格的な付き合いが必要となるのです。一夜だけを共にする不倫関係と、何十年も一緒に暮らす夫婦関係と全然違うのと同じです。けれどもアハズは、生ける神との関係を避けて、コンビニでインスタント食品を買うように、よさそうな神々を手軽に入手して、それを拝んでいたのです。

 私たちも試練や苦しみがあると、他の安易な方法を取る誘惑が出てきますね、それです。

マタイ11・20-24

 イエスが比べておられるツロとシドンのとソドムの町は、いずれも神のさばきを受けましたが、神についてその多くを知りませんでした。けれども、コラジンとベツサイダとカペナウムは、見えない神の完全な現れであるキリストを目の当たりにしているのに、それでも悔い改めなかったのです、。これらすべての町を神はさばかれるのですが、少しだけ神のことを知らされた町と、多く知らされた町では、多く知らされた町の方が罰が重いのです。

 私たちはよく、「イエス.キリストの福音を聞いた事のない人は、死んだ後それでも地獄に行くのですか」という質問を聞きます。それに対する答えは、第一に、神は公正な方であり、神はえこひいきをなさいません。第二に、神について多くの知識を与えられたものはそのさばきは重く、少ない人はさばきは軽いと言う事です。神は私たちの知っていることのみに責任を問われるのです。ですから、そういう質問をする人には必ずこういいます。「あなたは、すでにイエス・キリストについての知識が与えられました。何も聞いたことのない人たちのことを心配するよりも、自分のことを心配されたらどうなのですか。」こうして、ご自分のことをはっきり知ったのに、それでも拒んだ町々をイエスは責められました。
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イザヤ10:5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
 イスラエルは、アッシリヤを通して神によって裁かれましたが、ではアッシリヤ自身はどうなるのでしょうか?そのような疑問が出てくるかと思います。主は、その答えを今、与えておられます。
 一つは、主は積極的に、アッシリヤを用いられたという事実を知らなければいけません。「わたしの怒りの杖」「わたしの憤り」「わたしは、送り、襲えと命じ、わたしが略奪を命じ、踏みにじることをさせた」と、神が介入されている様子が描かれています。
10:7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
 アッシリヤ自身は、自分たちが神の怒りの器として用いられているとは考えませんでした。そして、ただ滅ぼすこと、断ち滅ぼすことしか考えなかった、とあります。歴史的にアッシリヤは非常に残酷な国民として知られています。遺跡として出てくるものの中には、彼らが引き連れる奴隷の体の一部がなくなっているものが多いです。耳を引きちぎったり、鼻をもぎとったりと残酷なことをして、人々を恐怖によって従わせていました。
 聖書の中で終始一貫、教えられている真理があります。それは神がすべてのことに主権をお持ちで、全てものを動かし、神の支配から漏れるものは何一つない、ということです。もちろん神は悪を行なうような方では絶対になく、悪は罪から、そして悪魔から出ているものですが、それらをも神は後にご自分の栄光のために用いられるのです。
 私がスーパーマーケットの魚部門で働いているとき、コスト削減ということで、魚のあらゆる部分を捨てないで、加工するなりして商品にしなさい、とマネージャーが言っていましたが、神はどのようなつまらないものでも、ご自分の栄光と目的のために用いられます。
 神が唯一、ご介入されない部分があります。それは人間の自由な意思です。北イスラエルがあれだけ神をないがしろにしていたのに、神はすぐに彼らを裁かれなかったのは、彼らに自由意志があることを尊重されたからです。そしてアッシリヤがイスラエルや他の諸国の民をことごとく滅ぼすようにされたのも、アッシリヤ人の自由意志を尊重されたからです。
 だから神はいつも、私たちが自分で選択して、神を認め、神をあがめることを待っておられます。自分が神を認めなくても何も変わらないではないか、と言って、神はいないと結論づけることに対して、神は怒りを発せられます。
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イザヤ26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。
 主がこの地上に戻って来られて裁きを行われる時に、地上の住民は義を学びます。この日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます、という告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることを願っている、ということです。
 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と主は言われました。福音において、私たちは始めに自分の罪を示されます。それでへりくだり、その罪を悲しみます。それで罪の赦しを経験して、また信仰によって義と認められたことを経験した人は、今度は実際に義となる日を待ち望みます。主が戻って来られて、罪そのものを取り除いてくださり、キリストと似た者にしてくださる日を待ち望むのです。
 私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31)」と言いました。
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イザヤ38:7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。38:8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。
 興味深い記事です。この日時計はヒゼキヤの父アハズが作ったものですが、イザヤは同じようにアハズに「しるしを求めなさい」と言いました。アハズは拒みました。主が彼に関わろうとされるのを、彼自身が拒んだのです。
 けれども、ここではヒゼキヤが積極的にしるしを求めています。ここではそれがはっきり書かれていませんが、この章の最後、また列王記第二20章を読むと彼のほうから、自分が確実に癒されて、主の宮に上れるようになるしるしを求めています。
 そして日時計の影が十度あとに戻るというのも、ヒゼキヤが積極的に求めたものです。列王記第二20章には、イザヤは十度進むか、十度戻るかという選択を与えましたが、ヒゼキヤは十度戻るほうが難しいから、という理由で戻るほうを求めています。自分の人生に主が関わるのを強く願ったヒゼキヤと、それを拒んだアハズの対比を見ることができます。
 ところでこの日時計ですが、新改訳聖書の下の説明に、直訳が「度」または「階段」であるとあります。この日時計は階段になっていたようです。みなさんは、この出来事についてどう思われるでしょうか?かつて、ヨシュアが敵を追跡しているときも日がとどまりましたが、科学的な自然現象の説明をどのようにすればよいでしょうか?
 私にはその説明が要りません。天と地をお造りになられた方ですから、日を十度戻すことも容易におできになるでしょう。神は、時間をも創造された方です。何も、地球の自転を止められるような物理的なことを行なわれなくても、タイムマシーンのように時間そのものを戻すことも容易におできになるでしょう。
神にはできないことはない(お告げ)




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