16 per annum

年間 第十六月曜日
「ヨナのしるし以外は与えられない」
マタイ12・38-42


人はいつの時代でも、しるしや奇跡を求めます。「奇跡を見せれば信じてやる」と。これは本当でしょうか。本当に奇跡を見れば人は信しるのでしょうか。じつは奇跡から信仰に至るのは、めったにないことなのです。聖書の中でも、奇跡を見て信じた人は非常に少ないのです。むしろ奇跡を見る前に信じた、信じたから奇跡が起こった、と言うのは一般的です。人は奇跡を素直に認めるかというと、そうでもないのです。何かと合理的に解釈しようとするからです。そして合理的に説明できるなら、それを奇跡だとは思いません。じつは合理的説明の付かない現実、不可思議なしるしがあることに普通人々は気づかないのです。むしろ、あたりまえのことだと思ってしまうのです。
「しるしを欲しがる」ということは、自分の考えどおりになるように求めることでしよう。だからこそ、求めたら、欲しがるなら奇跡は絶対に与えられないのです。求めなくなった時に、しるしは見えてくるものなのです。自分の狭い要求を捨てた時、ありのままの奇跡が見えてくるのです。(静)

年間 第十六火曜日
「ここに私の母、私の兄弟がいる」
マタイ12・46-50


母、兄弟は血のつながりで結ばれています。イエスも母マリアや親戚と同じ血で結ばれ、同じ家族、親族、階級、メンタリティによって共通の文化遺産を受け継いでいます。しかし神の国では、同じ血によってではなく、同じ信仰によって、天の父の子らが兄弟として結ばれます。自然的な血縁関係によってではなく、父の子イエスの血によって兄弟の契りが結ばれ、父と子らとの関係が結ばれます。イエスのことばは剣のように父母兄弟をわけます(マタイ10・35-36)。主イエスと弟子の関係は、上下関係から(マタイ10・24)、兄弟同士の横の関係になります。天の父はわたしたちに聖母マリアを母として、イエスを兄弟として、すべての人を兄弟姉妹として与え、同じ神の愛の共同体に招き入れます。教会はこの神秘を「聖徒の交わり」ということばで表しまします。信仰による交わりは、自然的な関係よりも強く、もっと時間にたえて、永遠につながるのです。(荒)
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考えて見れば、兄弟姉妹、親など、血の繋がりがあっても、とても悪い関係に生きる人が少ないのです。自分の野心や欲望を優先して自分の子供に対する責任を怠ったり、または子供を虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただの色々な援助や資金の源としてしか見ない子供も沢山います。家族の中で色々な問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。
血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、わたしたちの幸福を妬ネタむ恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛を頂くことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒すということなのです。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。


子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。



年間 第十六水曜日
「ある種は道端に落ちた」
マタイ13・1-9


種は、芽を出して実を結ぶ可能性を秘めたものです。しかしその可能性は、種の中で眠っています。ある条件が整うまで、つまり芽を出して、きちんと育つための条件がそろうまで、種は眠り続けます。時として、何千年も眠り続ける種もあります。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものである。だから、聖書をそのまま信じていくということが最も正しい読み方とは言えないと思います。二千年という時間や、日本と.ハレスチナという空間的な隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように聖書を読んでいくことは、私たちの都合で曲げてしまうことになると思います。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということである。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。
イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるのだということであり、このことをしっかり覚えたいと思う。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受けとめていったならば、[御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力をもっているのです。(榎本)
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3万年前の氷河期に自生していたナデシコ科の花を咲かせることに、ロシアのチームが成功した。シベリアの永久凍土に埋まっていた植物の化石の一部を培養して育てた。古代から現代によみがえらせた最古の植物になるという。 古代の植物を現代に復元させた例は、数千年前の縄文時代の古代ハスなどがある。

化石は、地下38メートルに埋まっていた。氷河期のリスがエサをためていた巣穴から見つかった。状態が良い化石を選んで、めしべの組織の一部を採取、培養して育てたところ、1年後に白い花が咲いた。

シベリアの永久凍土で見つかった約3万年前の植物の実から種を取り出し、花を咲かせることにロシアの研究チームが成功し20日、米科学アカデミー紀要に発表した。絶滅した植物の再生や新たな生物資源としての利用が期待できるという。

開花したのはナデシコ科の「スガワラビランジ」。チームは北東シベリアの川岸にある永久凍土を調査し、リスが食料貯蔵用に開けたとみられる穴からスガワラビランジの実を発見。付近の年間平均気温は氷点下7度で、凍った状態で保存されていたとみられる。実に含まれる放射性炭素による年代測定法で約3万年前のものと判明した。(朝日新聞 2012年2月22日朝刊)


年間 第十六木曜日
「見ても見えず、聞いても聞えない」
マタイ13・10-17

イエス様は、神の国のことをたとえ話で教えました。たとえ話は、真理をわかりやすくするために使われます。しかし、わかりやすくすると同時に、真理を隠すためにも使われるのです。理解しようとする人に神の国の秘義(秘密)をあかし、攻撃しようとする人の目から隠すためなのです。
たとえ話は、話し手であるイエス様の立場に立ってみると、真理が見えてきます。しかし私たちの側に立って考えると、秘義が隠れてしまうのです。イエス様を知る人は、たとえ話の意味を理解します。イエス様をまず愛する人が、たとえ話の探い意味を知り、悟り、種々の教えを学ぶのです。自分を中心に、つまりこちら側の人間を中心に考える限り、たとえ話は障害になります。神中心に考えてみる時、そのたとえ話のみごとさがよく見えてくるのです。
たとえ話を理解するか理解しないかは、イエス様を信じているのか、それとも自分自身だけを愛しているのかを示す、はかりの一つなのです。(静)

年間 第十六金曜日
「あるものは百億、あるものは六十倖、あるものは三十倍」
マタイ13・18-23


どうしてイエス様は百倍、六十倍、三十倍とだんだん数を減らしたのでしょう。普通、私たち人間の数え方なら、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶ、と話すのではないでしょうか。少ないほうからだんだん多い方へいき、ついに完全な百倍の実を結ぶとしたほうが、私たちにとってはわかりやすく、感動的ではないでしょうか。低いところから努力して、だんだん完璧になっていく方が、完全なものから不完全なものにいくよりは、ずっと教育的なのです。ではなぜイエス様は、それをわざわざ反対にしたのでしょうか。
おそらくはその道徳的・教訓的なにおいを消すためだったのかもしれません。低いところから努力して高いところを目指すとなると、もうこれは努力主義になってしまいます。他人と比較して、その実りの多少を計算することになります。そして多く実を結んだ人は立派で、そうでない人は劣(おと)った人になってしまうのです。人の目から見たら確かに、三十倍実を結んだ人より、百倍結んだ人のほうがずっと立派とみなされるでしょう。しかし信仰的に神の目から見たら、結果ではないことも確かなのです。人は結果を問いますが、神はむしろ結果より、人の心をごらんになります。だとすると、イエス様の目は私たち人間とは違って、神の価値観を示しているのです。(静)
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この「種」とは、御国の言葉、すなわち御言葉のことだというのです。‥‥イエスさまの言葉、神の言葉=みことばを、人々に語る=まく。ところが、畑にまいた麦の種がすべて順調に育つのではないように、みことばもすべて人の中で成長するのではない、ということになります。当時の農業というものは、今の時代よりもずっとたいへんでした。まず、一粒の種が、芽を出して麦の穂を実らせたときに、どのくらいになるのか。清水恵三によると、現在の麦は、1粒から60粒~100粒になると書いています。しかし、この時代は、せいぜい10粒、豊作でも30粒といった程度だったようです。だから、昔は、農民はたくさんいたのに、収穫はそれほど多くはないということになるのです。生産性が低かったわけです。
だから、1粒1粒の種を、大切にまいたことでしょう。1粒でもむだにすることがないように、大切にまいたのです。それでも道ばたに落ちる種がある。また、パレスチナは、石の多いところだそうです。そしてまた深く耕さないので、畑の土の下には石があるかもしれない。それが石地です。また、この地方にはイバラという植物がある。このイバラは、一般には、鋭いトゲがついている植物を言うのだそうです。そして根が丈夫で固い。パイプの材料になるそうです。だから、そういうところに麦が落ちても、十分に成長することができません。‥‥そういう光景が思い浮かびます。

私たちがこのたとえ話を聞いて、犯しやすい誤りは、自分自身を裁いてしまうということだろうと思います。‥‥「どうせ自分は、悪い土地なのだ。良い土地ではないのだ。だからいくら教会に通っても、聖書を読んでも、どうせ豊かな実を結ぶことはできないのだ」と、投げやりになってしまうことです。
これらは、間違っています。何が間違っているかといえば、決めつけている点です。「あの人は、石だらけの土地なのだ」「あの人は、茨の生えた土地なのだ」とか、「自分はどうせ道ばたなのだ」「だからいくら教会に通っても、聖書を読んでもダメなのだ」と決めつけることです。
信仰には、「素質」というものはありません。この世の出来事は「素質」というものが必要かもしれません。世界の一流のサッカー選手になるには、やはり「素質」というものが必要でしょう。生まれもっての体格、身長、運動神経‥‥いくら努力といっても、あそこまでになるには、やはり天性というか、生まれもっての素質というものが必要でしょう。しかし、信仰には「素質」というものは、まったくないのです。みんな平等です。信仰の「才能」などというものはないのです。生まれつき「神さまに近い人」などというものはありません。才能も素質も、実は信仰には全く関係ありません。それゆえ、イエスさまにとっては、物事についての知識もないような幼子が天国の住人だとされるのです。

年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30


親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。

17 per annum

年間 17月
マタイによる福音(13:31-35) 

 からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。


年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)


アウグスティヌスの有名な言葉があります。
 「神はどんな悪も行われえないようにするよりも、悪からも善を生ぜしめるようにするほうが良いとお考えになった」
 なるほど、毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれない。普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思うけれども、仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑だ。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」という信頼、喜びを忘れちゃったら、神さまが私たちに与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるってことになってしまう。
神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。
 煉獄(れんごく)って、そんなようなことかもしれないですね。カトリックには、天国に行く前に浄めのプロセスとして煉獄に入るっていう伝統的な考え方がありますけど、神さまのみもとに行くとき、神さまご自身に全部きれいにしてもらって、清らかな麦畑としていただいてから、神さまに迎えいれてもらえるってことです。これは、福音でしょう。希望です。こういう福音を信じて、自分は本来そのような良い麦畑だと受け入れることこそが、救いなんじゃないですか。自分は毒だと思い込むとか、その毒を抜き続けようとして疲れ果てるかではなく、イエスさまの福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。
他人の毒麦を抜こうとする人。「あなた、ちょっと鼻毛(はなげ)が出ていますよ」(笑)みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。
あの政治家を抜いたらホントに国は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かってるはず。抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが、真実じゃないですか。神さまは毒麦つきの世界をおゆるしになっているんです。私たちはその中で、良い麦を見るべきじゃないですか。忍耐強く、良い麦をこそ育てるべきじゃないですか。人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならない。(福音の村)
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イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
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 人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。

年間 17水
マタイによる福音(13:44-46) 


私たちの周囲には無数の善意の人々がいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人々がたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練に打ち倒されたり、信頼する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ち上がらいたいと願っている人々もいます。そうした人々は、何かに飢え、何かを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人々なのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています(畑の中に隠されている宝のように)。「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「疲れた者、重荷を負うものは私のもとに来なさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできる方が、与えられているにもかかわらず、だれも言葉をかけないといって嘆き苦しむ人々がいます。
「私はすでに世に勝っている」と、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺し続ける人々がいます。「あなたの罪は許された」といって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできる方がいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人々がいるのです。
キリストは、すべての人々の求めに、願いに、答えることができるだけの光と力と愛を持っているのですから、もし、人々がそれに気が付けば、それこそすべてを捨てて、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエスとの出会いを大切にすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもない喜びであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるでしょう。
しかし、現実には、残念ながら、人々の飢え、渇きとイエスとの出会いがなかなかおこらないのです。私たちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。
どうしてでしょうか。人々の責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。
私(森一弘)はそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人々の方に責任があるような気がいたします。現代の人々の問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。私たちは、もっともっと努力して、宝であり、真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。

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天の国は、持ち物をすっかり売り払って買うほどにすばらしいのです。天の国を見つけた者は、「わたし」という小さな枠から自由になります。神の愛に信頼するなら、もう自分のために何も心配はいりません。 seseragi
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主イエスの世界は、「献身」の世界です。自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。  「献金」あるいは「維持費」のようなものとは全然違う。献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。  ですから、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように朝の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。仕事の時間も神様に捧げます。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。 nibanmati


年間 17木
マタイによる福音(13:47-53) 



マクベス   『マクベス』(Macbeth) 第5幕第5場 シェイクスピア。夫人の死の報せを聞いて、マクベスがつぶやく台詞。その人生観が垣間見える。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing. 

明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる 物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。

人生は愚か者が語る物語で、騒ぎも意気込みもえらいが、たわいのないものだ。

また、サルトルは、「人間は一つの無益な受難(意気込み)である。( L' homme est une passion inutile.) 」(『存在と無』、松浪信三郎訳)と言っている。 
今日の福音書は、網というイメージを使って、私たちは神の手の中にいるという感覚を教えています。水の中にあるものは見えないが、網をかけると見えてくる。人生は、歴史は無意味に見えても、その中身は分かるときが来る。

また、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人」に関しては、リチャード・ニーバーの有名な祈りを思い出します。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの
冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
-------
新しいものと古いものが入っている倉を持っている人といえば、それは便利に違いありません。現代のふつうの若い人の家では、新しい物しかありません。古いものがないし、あっても、それをとってしまっておく倉がないからです。しかし、例えば、もちつきなどは、昔の杵(きね)と臼(うす)でついた餅がうまいでしょう。また、停電になったとき、懐中電灯の調子が悪かったということになりますと、ローソクが必要となります。
 このように、新しいものもある、古いものもある、ということになると、どんな事態にも対応できます。パウロはピリピ人への手紙でこう言っている‥‥(フィリピ 4:11~13)「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道
を知っており。富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 nibanmati (粘土が陶工の手の中にあるように」(偶数年、第一朗読)、私たちも神の手の中にいるという感覚を学ぶようなことです。



年間 17金
マタイによる福音(13:54-58) 

顔見知りの者が、人々を驚かせるようなすばらしいことを言ったら、わたしは語る内容をすぐに受け入れられるでしょうか。大したことはないと思ったり、同郷の者としてその偉大さにあやかろうしたりすることがあるかもしれません。わたしたちは目に見えるものにつまずきがちです。
人は目に見えるものを見ますが、神は心を見ます。信じる心がないところでは、イエスの恵みも生かされることがありません。
主よ、私を「心」を観る者としてください。あなたがわたしたちを愛してくださったようにわたしも人を愛し、信じる者になれますように。seseragi
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人々は、自分たちと同じ生活を送っていたイエスにつまづいた。
つまずく、というのは、イエスさまを信じることができなかった、ということです。人の子としてのイエスさまを、小さい頃から知っていたばかりに、イエスさまが神の国の福音を携えてきた時に、「えー?なんで?こいつが?」と思ったのです。つまりこの人々は、先入観にとらわれてしまって、本当のことが見えなかったのです。
わたしにも思い当たることはいくつかあります。たとえば、私は25歳で神父にないましたが、なったばかりの頃は、世間の人から、「神父さんというのは、もっと立派な人だと思った」などと言われたものです。まあ、やがて歳をとって、白髪になると思うのですが。しかしそれも本質とは何の関係もないことのはずです。神父というものは人生相談をする職業ではないからです。「人生経験があればいいことですが、神父として一番必要なことは、神の言葉を聞いて、それを語るということだ」と。 人生相談をしたいなら、そういう相談に乗ってくれる人はたくさんいます。人間の常識としての人生
のアドバイスがほしければ、そちらに行けばよろしい。しかし教会でなければ聞くことができないことというのがあるのです。それが神の言葉です。そして教会を通してでなければできないことというのがある。それが、キリストと出会うということです。教会がいくら社会に奉仕しても、あるいはバ
ザーや慈善事業で多くの人が集まったとしても、もしそこで神の言葉を聞くことができず、またキリストがそこにおられなかったとしたら、それはもはや教会とは呼べないものです。逆に言えば、いろいろなことが不十分であったとしても、みすぼらしい教会でも、神父が下手でも、そこで神の言葉が
語られ、またキリストが臨在しておられるなら、それでよいと言えるのです。
 しかしナザレの人々は、この世のことにとらわれてしまって、イエスさまと共におられる神様を見ることができなかった。イエスさまの語る言葉に、神の言葉を聞き取ることができなかった。イエスさまのなさるわざに、神の働きを見ることができなかったのです。実にもったいないことです。これ
が「不信仰」ということです。nibanmati
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人々は感動を求めて、ディズネイランドや
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの
ようなところに行きます。身の回りの現実には、あまり感動がない、灰色で、当たり前、どっちかというとつまらないこと、みすぼらしいことは多い。けれども考えてみれば、いつも住んでいる家の窓の外を見るだけでも、すばらしい景色のときもある。普段出会っている人々の中にも、気をつけて接すれば、様々なドラマ、悲しみ、喜びがある。本にすれば立派な文学になる。音楽にすれば立派な協奏曲になる。
自分のそばに座っている人は深い信仰体験を持っているかもしれない。それでも、ほとんど気がつかない。そう考えることもないでしょう。
キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ナザレの人々はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くない。

年間 17土

マタイによる福音(14:1-12) 

ヘロデのようなことを自分は決してしないだろうと思うとき、くもりのない目で、自分の姿を見つめているでしょうか。「自分」という殻を守るために弱みを隠し、自分の物差しに合わせて相手を裁く時、そこにあるのは自己への執着です。この執着は恐れを生み、自分も人をも殺してしまいます。
神は、わたしたちが互いにいたわり、思いやり、受け入れ、生かしあうために命をくださいました。
主の声に聞きしたがいましょう。自分のすべてを手放したとき、主の恵みは豊かに注がれ、恐れはなくなり、真の自由へと導かれます。そのとき心の目と耳は開かれます。
主よ、わたしが守るものは主の愛だけです。わたしを強め、義のために生きる勇気をください。

1.人を見ているとブレた生き方になる

 ヘロデの問題は、「人を見てしまう」というところです。一番大切にすべき神様が見えていない。一番恐れるべきかを恐れず、人の評価が気になってしまうというところです。ヘロデ自身は、ヨハネが正しいということがわかっていましたが、その行動を変えることができませんでした。そうして、ヨハネの首を要求された時も、人の顔色やメンツを重んじてしまい、結局、人に利用されるだけの生き方しかできなくなってしまいました。

 私たちは、人の評価よりも、恐れるべき方を恐れなければなりません。聖書の言葉を聞くだけでなく、具体的な行動となって現れるような聞き方をしなければなりません。そうしないと、ずるずると罪の世界に引きずり込まれていって、結局は身を滅ぼす生き方しかできなくなってしまいます。

18 per annum

年間 第18月曜日  (A年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・1-2、10-14

「聞きなさい、そして悟りなさい」

私たちの耳は、かなり音を選別して聞いています。鳥の声に興味を持っている人は、都会の雑音の中でも、その声を聞き分けます。つまり人間は、自分の好きなものは聞こえ、いやなことは聞こえないのです。つごうのよいことは聞こえても、つごうの悪いことは聞こえないお年寄りを、笑うことはできないのです。神に興味がなければ、神の声も人の出す雑音にかき消されてしまうでしょう。真理を求めていれば、真理の声をいつか聞き分けられるでしょう。見て悟るより、まず「聞け」と言われます。話すことはやさしいのですが、聞くことはむずかしいと思います。学ぶということは、聞くことでしょう。読むことも聞くことでしょう。聞くことからすべてが出発するのです。赤ちゃんも聞くことから発達していきます。
聞くことができれば、悟ることも可能になります。悟りは自分一人でひねり出すものではありません。生きている自然、人、神から聞く姿勢からおのずと生まれてくるのです。
私の天の父が植えなかった植物は、みな抜き取られます。

http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
 
年間 第18月曜日 (B、C年)  年間 第18火曜日(A年)
マタイ14・13-21

人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese

 
年間 第18火曜日  (B、C年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ14・22-36

ペトロたちがいどみかかってくるあらしに動転し、混乱します。凡人のようなもろさがばくろされます。
これをみても、神の力強さを体験することが、自分の弱さやもろさを卒業することではないことがわかります。いくら信仰をもっても、迷いやすさ、感じやすさ、崩れやすさ、傷つきやすさは、人間が人間であるかぎりはいつまでもついてまわります。信仰とは、そうした現実の中で神をみつめていく目であり、そうした現実の中で神の愛と力の確かさに自分をゆだねていく行為です。それが、しっかりと自分の心に根づいていなければ、あらしがおこれば、簡単に消えてしまうことになるのです。信仰が軽いものであればあらしとともに、どこかに吹きとんでしまいます。信仰は本来、不安と恐れから人間を解放する力であり、平安と希望を与える光であるはずです。しかしそれは、現実のあらしの中で試され、鍛えられてゆらぐことのないものになっていくのです。日々のどろどろしたありのままの人生の迷いや苦しみの中で、ひざまずき、葛藤しながら、徐々に徐々に根づき、成長していくものなのです。人生のあらしの恐ろしさに圧倒されて、思わず神から目をそらしてしまう自分の心にむちうて、神の方に心の目をあげようとする努力の繰り返しで、本当の信仰が育っていくのです。
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信仰と不信仰の違いは、どこにあらわれるのでしょう。不信仰は、弟子たちに見られるように、恐怖をもたらします。信仰は、ゲネサレトの病人達のように、イエスに近寄る気持ちをもたらします。私たちは、イエスが自分の隣におられることに気付いているのでしょうか、
それともこの世がもたらす「嵐」の恐怖に飲み込まれているのでしょうか。
病人達がイエスを探してイエスがいるところに出向いて行ったように、いつもイエスの姿を求めることができますように。sese





年間 第18水曜日   http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・21-28

「そのときには、私はイスラエルの神となり、彼らは私の民となる」(エレミア31・1)。神様の「時」がある。人間は望んでいることをなさる時がある。福音のカナンの女は、まだその時ではないと言われた。しかし、彼女は願い続けることで、スケジュールを早めた。立派な信仰によってその時を来させた。カナの結婚式の場面でも、「私の時はまだ来ていない」と言われたマリアは、とにかく信じ続けた。それで、その時を先に実現させた。早めに来させた。信仰は山を動かす(マタイ17・20)だけではなく、時を早めることもできる。信仰は、未来を近づける。未来を現在に存在させる。私たちが望んでいることは、いつ実現できるか。私たちが望んでいる福音宣教はいつ実現できるか。待っている恵みは何か。
「はっきり言っておく、あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたがわたしの名によっては何にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16,23-24)
「祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11,24)
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18,19)
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福音書を読み続けてきて、わたしたちはいつの間にか、「イエスさまは、困っている人を助けて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。「人が、いっしょうけんめい頼んだならば、イエスさまはその言うことを聞いて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。わたしたちに置き換えて言えば、「わたしがこんなにいっしょうけんめいお願いして祈っているのだから、神さまが聞いてくれて当然だ」と思わないでしょうか。
その時、あまりにもわたしたちは、「自分中心」「人間中心」になってしまっているのではないでしょうか。つまり、「この人がこんなに頼み込んでいるのだから、イエスさまは聞いてくれて当然だ」と。「わたしがこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」、「こんなに困っているのだから、助けてくれて当然だ」、「こんなに頭を下げているのだから、願いが叶えられて当然だ」‥‥もっと言いますか? そして願いが聞かれなかったら、「こんなにお願いしているのに、聞いてくれないとは何事だ!」「役に立たない神さまだ」と言って、席を蹴って行ってしまう。
 しかしそこには、「ではイエスさまの都合はどうなのか?」ということが少しも考えられていないのです。「主はどのようにお考えなのか」「神さまのご計画はどうなのか」‥‥そのように主イエスの御心、神の御心を思い計るということ、神を第一にするということが、なくなってしまっているのです。そのことに気がついた時、きょうの聖書は解き明かせるように思います。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
「よく祈り、よく働いて、その他のことはすべて神様に任せましょう」 "I pray hard, work hard, and leave the rest to God." ~ Florence Griffith Joyner
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私たちが本気で求めているものは何でしょうか。きょうだいのために、私たちはどれほど願っているでしょうか。本気で願い求める気持ちがなければ、憐れみ深い神が共におられても、現実の中でそのありがたさを体験することができないでしょう。
私にとって本当に大切なものに気づかせてください。そして何度でも、いくら時間がかかっても、あきらめずに願うことができますように。

年間第18木曜日
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」
マタイ16・13-23

種まきのたとえ話で、種が岩(Petrode マタイ13・5参照)の上に落ちたという箇所があります。そこで、すぐに目を出すが根がないためにすぐ枯れてしまいます。説明としては、迫害に耐えられない信仰と言われます。これは、まさにペトロのような信仰でした。このようなもろい信仰の上に教会を立ててもいいのか。しかも、そこに神の国の「鍵」を授けてもいいのか。

確かにペトロは立派な答えを出します。けれども、おそらくその言葉の中身を誤解しています。十分深く理解していません。しかし、キリストに叱られて、また十字架の体験を通して自分が悪かったということを理解するようになって回心をします。悔い改めます。何回も回心します。使徒言行録の第十章には、ペトロはコルネりウスというローマの軍人に出会って、信仰はユダヤ人に限られるものではないと、自分の考えを改めます。回心、悔い改め、自分が悪かった、考えをあらためる、これらが岩であり、そこに教会が立てられ、天の国への鍵であり、それに黄泉の力は対抗できない。
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イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。自動車のキーを差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験があります。車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。 
 
 
年間 第18金曜日
マタイ16・24-28

全世界とまで考えていなくても、けっこう些細なことの中でも、自分の理想通りにしたい、支配したい、上に立ちたい、などの思いが密かに生じてくるものです。どうすることが私にとって本当に意味のあることなのか、幸せなことなのか落ち着いて振り返ってみればわかります。力をもって周りの人々を従わせることか、人々と愛し合いながら共に歩んでいくことか。
自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことの幸いを、もっと深く悟ることができますように。sese

年間 第18土曜日
マタイ17・14-20

「限界だ!」という時を誰もが体験したことがあるでしょう。限界は何のためにあるのでしょうか?
限界は、次の段階に行くためのしるしではないでしょうか。その次の段階とは限りない信仰の世界だと思います。わたしの信仰がからし種一粒ほどでも、それは限りない大きさにつながっているのです。
限界とぶつかるとき、限りないこと信仰をもって、乗り越えていくことができますように。sese

19 per annum dispari

年間第19月
「魚の口から銀貨一枚」
マタイ17・22-27

魚の口から銀貨が一枚とりだされるというようなことが、あまりにも不思議なことです。それは奇跡と言うよりは、なにかミスター・マリックの手品を見ているような気がします。まじめだと思っていた聖書が、なにか急に「むかし話」(桃太郎)のように感じられるような、そういう思いがした人もいるかもしれません。「そもそも、結局『神殿税』を払うのなら、いさぎよく財布から払えばよさそうなものを、なぜ湖に行って魚を釣ってその口から銀貨を取り出して支払うというような、そんな手の込んだことをされたのか?」と、そんなふうにも思えるのです。
当時のユダヤ教では、成人男子は神殿維持費として年に2ドラクマの神殿税を納めなければなりませんでした。賃金の二日分です。
この税金を集める者がペトロに、「あなたたちの先生は(神殿税の)2ドラクマを納めないのか」と質問します。これはイエスがユダヤ教律法を順守していないという詰問です。ペトロは、イエスの返答を確認しないで、その場をとりつくろい、「納めます」と答えます。

この税金の比喩の語録は、イエスの子としての自覚を示す重要な語録ですが、同時にこの語録は、「神殿より偉大な者がここにある」(一二・六)という語録と共に、イエスが子としてユダヤ教の神殿祭儀を超えておられたことをも指し示しています。それにもかかわらず、イエスが(そしてイエスに従い、イエスを信じるユダヤ人の共同体が)神殿税を納め、神殿祭儀を守るのは、あくまで「彼ら(ユダヤ人たち)をつまずかせないため」であるという言葉が続きます。イエスは言われます、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
 
 「銀貨」《スタテール》は4ドラクマ相当の銀貨で、ちょうどイエスとペトロの二人分の神殿税に相当します。この段落は、そうしなさいというイエスの言葉で終わっており、釣った魚の口に銀貨が見つかり、それでペトロが二人分の神殿税を納めたという事実は報告されていません。魚の口の中に見つかる銀貨で税を納めるという象徴的な説話で、神から賜る収入の中から(ペトロは漁師でした)律法の規定に従い神殿税を納めるように勧めていると見られます。
 
 この段落は、神殿崩壊前のユダヤ人信徒の状況を反映しており、イエスを信じるユダヤ人信徒は、イエスと共に神の子供として神殿税や祭儀規定から自由であるが、ユダヤ教徒としての立場から、周囲のユダヤ人をつまずかせないために、神殿税を納め祭儀を守っているのだと主張しています。このユダヤ人信徒の伝承をマタイが継承してここに置いたと見られます。そうであれば、イエスを信じる者は律法から自由であるという理解は、パウロやヘレニズム異邦人キリスト教だけでなく、ユダヤ人キリスト教の中にもあったことになります。

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年間第19火

マタイ18・1-5,10,12-14

大人の価値観は、誰にも頼ることなく、自分の足で立つ独立した人になることです。いつまでも、周りの人や親に寄りかかっていてはいけないのです。一人前になって一人立ちしなければ、笑われてしまいます。子供はまったく違います。親や周りの人なしに、自分一人では生きられません。親を頼り、周囲の人々の支えで生きています。自分の存在を在らせ支えてくれる両親の存在は、大前提となって、否定することなど不可能です。たとえその親が人間的に考えれば、欠点だらけの不完全な存在だとしても、子供にとっては唯一絶対の存在なのです。大人になるということは、自立することです。頼ることは子供っぽいことと考え、もう誰にも頼らずにやっていける、ということでしょう。
しかし、うっかりすると、大人になるということは、神にさえたよる必要はない、何とか自分の力でやっていける、困った時にだけたよればいい、ということにもなってしまうのです。しかし、本当の大人は、人間の親子関係を相対化した上で、神との関係を絶対化出来る人でしょう。つまり不完全な親ではなく、完全な親である父として神を再認識することではないでしょうか。私が困った時たよることは大切なことですが、それだけの神ではなく、百パーセント完全な親としての父なる神の、子供であったのだという喜びと誇りを持つことが、真の成熟した信仰に生きる、真の大人の条件ではないでしょうか。完全な自立と完全な依存が大人の信仰なのです。
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ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(ユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。神の支配とは恩恵の支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恩恵を恩恵として無条件に受け取り、恩恵に全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恩恵の場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。イエスご自身がそのような「無者」の典型です。
「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
 
 ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。
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年間第19水

マタイ18・15-20

まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります(一五節)。その場合、相手を赦すことが前提になっています。
続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(一六節)という規定には、申命記一九章六節のような規定が反映しています。このような「二人または三人の証人の口によって確定される」という考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の《エクレーシア》に共通であったようです(たとえばコリントⅡ一三・一)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もありうるのですから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。
この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は《エクレーシア》(教会)と呼ばれ、その成員は《アデルフォス》(兄弟)と呼ばれていました。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのです。
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必ずかなえてくださると保証してくださっていることは、自己中心的な欲望や願いではあり得ないでしょう。なぜなら、わたしたちが心を一つにするためには、自分中心ではなく、相手を大切にする心が必要だからです。心を一つにして集うところに、キリストもまた居てくださるというのは何と心強いことでしょうか。
主よ、どんなときにも、あなたが共にいてくださることを心に留めながら、あなたに心を合わせて仲間たちと働くことが出来ますように。sese06
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ひどいことをされた。そういう場合、世間ではどうするでしょうか。けんかをしたり、あるいはその人の悪口を言いふらす、ということをするのではないでしょうか。しかし主イエスがおっしゃった方法はそういうこの世の方法とはまったく違っています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃる。世間ではふつうはそんなことをしません。しかし主はそのようにおっしゃる。いったいなぜでしょうか?何のためにでしょうか?イエスさまが続けておっしゃるのは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と。‥‥「兄弟を得る」、ここを原文に即して直訳すると、「あなたの兄弟を得た」となります。すなわち、私たちが本当の兄弟姉妹となるということになります。ある人が自分に対して罪を犯す。それで行って、ふたりだけのところでそれが罪であること、間違っていることを忠告する。そしてそれを聞き入れたなら、あなたは本当の兄弟を得たことになるのだ、と主はおっしゃるのです。
 そのように、世間では、あるいはキリストを信じる前は、自分に対して過ちを犯す人を突き放し、切り捨てる。陰でボロクソに悪口を言って溜飲(リュウイン)を下げる、そういう対応をすると。ところが教会では、まさに罪を犯した当の本人であるその人の所に行って、それが神さまに対する罪であることを忠告しなさいというのです。それはなんのためか。兄弟を得るためであるというのです。切り捨てるのではなく、教会の枝として主イエスのもとにつなぎとめるためであるということです。
(Ⅰコリント 12:26)「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」‥‥という御言葉があります。教会はキリストの体であって、わたしたちはそのキリストの体の一部分である。それぞれ1人1人が、ある人は手であり、ある人は足であり、ある人は目であり、ある人は髪の毛であり‥‥という具合に、教会というキリストの体のそれぞれが一部分であると使徒パウロは教えています。ですからそれぞれ1人1人が大切な存在なのですね。その一つが罪を犯したとき、それを切って捨てるのではなく、何とかそれがキリストの体の一部として悔い改めるように導くのは、そう考えてみると当然なことに思われます。 「二人だけのところで」というのはポイントだと思います。国会中継の党首討論などを見ていると、あれは絶対にお互いにゆずりませんね。それぞれ自分を弁護し、絶対に相手が間違っているということを主張し続ける。わたしなどは、たとえば小泉さんが「ああ、なるほど。菅さんの言う通りかもしれませんね。ごめんなさい」というふうに言ったらどうかな、と思うのですが絶対にそんなことはしない。なぜかと言えば国会議員ががみんな見ているわけですし、テレビでも中継されている。そうすると見栄や体裁というものが大事になってくるわけです。しかも自分の立場というものがある。そうすると、どんなに自分が間違っていると思っても、そういう見栄や体裁のために謝らない。そういうことになるのです。みんなの前でいきなり罪を指摘されたら、だれだって意固地になるでしょう。
 主イエスはそういうことをご存じで、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられる。教会員みんなの前で忠告しなさいとはおっしゃらなかった。二人だけのところで、です。相手を切り捨てるのではなく得るためです。相手の心を開き、何とかして過ちに気がつくようにさせるためです。
nibanmati


年間第19木

マタイ18・21~19・1

日本には、「仏の顔も3度まで」ということわざがあります。講談社発行の『日本語大辞典』によると、その意味は、「どんなにおだやかな人でも、何度もひどいことをされれば腹を立てるたとえ」とありました。常識では「3度まで」のところを「7回まで」と言ったのですから、イエスさまも「そうだね。それぐらい忍耐すれば良いよ」とお答えになると思ったことでしょう。
 ところがイエスさまの答えは、予想外の驚くべき答えでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
 「七の七十倍」は単純に言えば、490回です。しかしもちろんここで主イエスは、「490回まで赦しなさい」という回数のことをおっしゃったのではありません。これはいわば、「無限に」赦すということです。驚くべきことです。人間の常識を越えています。それはもう、人間が何かがんばって、赦しがたい人を赦す、ということではありません。そんなことはできそうもありません。
これがきょうのたとえ話です。主イエスは、このようにして、なぜ赦すべきかを教えられました。それは、わたしたちが神によって赦されているということなのです。しかしこのたとえ話を聞いた人は思うでしょう。「わたしはそんな多くの罪を犯していない」と。しかしそれは人間から見た理屈です。神さまから見たら、わたしたち一人一人がこの話に出てくる家来のようだというのです。金額にたとえれば3千億円というような、途方もない、とても一生かかっても返済できないような罪、過ちを赦してもらっているのだと。それはただ神のあわれみだと。
 キリストは何のために十字架にかかられたのでしょうか。それはわたしたちひとりひとりの罪を赦すためです。言い換えれば負債を免除するためです。わたしたちは、そんなにも大きな負債があり、しかもそれが十字架によってゆるされていると知ったときに、神の愛を知るでしょう。 
nibanmati


年間第19金

マタイ19・3-12

本日の聖書の個所を聞いて、おそらく単なる離婚禁止の話に聞こえるのではないでしょうか? 離婚をすることがよいのか悪いのか、あるいは、どういう場合ならば離婚をすることができるのか、神さまはどういう状況ならば離婚をゆるしてくれるのだろうか‥‥そのように、どのような離婚なら神の御心に背かないのかとか、神の戒めに違反しないのか、とかそういう話として聞こえてしまうのではないかということです。 特に離婚については、カトリック教会が離婚を認めていない。そういうことが頭にあるものだから、結局きょうの聖書の話を、離婚を認めるか認めないかという法律論議として聞いてしまいやすいのです。
3節を見ると、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして」と書かれています。純粋にイエスさまに教えを乞う気持ちでイエスさまに近づいてきたのではない。イエスさまを試そうという、非常に高慢な気持ちで近づいてきたのです。試す、試験をするというのは、先生が生徒を試験するわけで、ファリサイ派の人々はイエスさまよりも高い所に立って、イエスさまを試そうというのです。純粋に分からなくて質問しているのではない。自分たちの答があるのに、イエスさまを罠にかけるためにこのように質問している。つまり、「イエスが何か変なことを言ったら、捕らえて死刑台に送ってやる」というような、たいへんひどい目的でこのような質問をしているのです。
きょうの聖書では、誰ひとりとしてイエスさまの言葉につまずかない者はいなかったのです。


そうするとわたしたちは、実は、自分の欠けたところに気がつかざるを得ない。主イエスの言葉はそういう御言葉です。律法を教えておられるのではない。あの金持ちの議員が悲しみに沈まざるを得なかったように、わたしたちも「主よ、罪人のわたしをあわれんでください」と胸を打って嘆くということに導かれるのです。
 これは何も夫婦関係だけではない。この世の人間関係もそうです。神さまは、お互いに信頼し合うものをしてわたしたちを造られたはずです。しかし人間関係に破れが生じる。傷つけ合うということが起こってくる。わたしたち人間に罪があるからです。そこで相手を責めるばかりではなく、自分の欠け、罪に気がつくように主は導かれるのです。
 そのようにきょうの聖書の個所は、わたしたちを主のもとへと導くのです。2節に主イエスが多くの人々の病気を癒された、ということがちょっと出てきます。癒し主なる主、わたしたちの人間の間をいやしてくださる主のもとにいくしかありません。しかしそこに希望があるのです。主のもとに行ったとき、救いが与えられるからです。
nibamati


年間第19土
「子どもと天の国」
マタイ19・13-15

きょうの聖書を読むと、「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」というのはどのときかと言うと、その直前まで、主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりがありました。そのとき、ということになるでしょう。今までの経緯からして、ファリサイ派の人々は、イエスさまを訴える口実を見つけるために、イエスさまのところに近づいたと思われます。ですから、ある意味ではたいへん緊迫したやりとりがあったということになります。言葉を換えて言えば、「真剣なおとなの話」ということになるでしょう。
 そんなことがあった直後ということになります。イエスさまのところに、そのような子供たちが手を置いて祈ってもらうために連れられてきたのです。
 ところが弟子たちがそれを叱りました。弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか? 「今はそんな時ではない。後で来なさい」ということでしょうか。それとも、子供がうるさいから、「あっちに行け」ということなのでしょうか。‥‥いずれにしても、弟子たちはここに子供を連れて来るのはふさわしくないと思ったのです。そして親たちを叱った。
 この弟子たちの行動を見て、おそらく多くの人たちは「当然だ」とか「しかたがない」と思うでしょう。特にイエスさまの時代というのは、子供というのは数に入らなかった時代です。弟子たちが子供を連れてきた親たちを叱ったのも当然と言えるでしょう。 ところが主イエスは、親たちを叱った弟子たちを叱ったのです。そして言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
マルコはそのお言葉を「アーメン、わたしは言う」という句で始めており、この語録の重要性を示しています。マルコ(一〇・一五)では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」となっています。「子供のように」、すなわち自分からは何もできない、何も提供するものがないという無の立場で、神が差し出してくださっている恩恵を受け入れるのでなければ、神の国に入ることはできないというのです。この自分を無として恩恵を受け入れることが信仰です。イエスはここで、「信仰によって神の国に入る(救われる)」という福音の根本を語っておられるのです。

20 per annum

年間第20月

マタイ19・16-22

金持ちに対するイエスさまの言葉を聞いて、わたしたちは、「ああ、自分は金持ちでなくて良かった」と言うのでしょうか?
 しかしわたしたちもまた、この青年ほどではないにしても、持ち物を有し、そしてそれを売り払って貧しい人に施すことにできない自分を発見するでしょう。ですからわたしたちもまたこの主イエスの言葉を聞いて、悲しい顔をしなくてはならないでしょう。もしこのイエスさまの言葉を聞いて、何も感じないとしたら、わたしたちはまじめに主イエスの言葉を聞いていないのです。中途半端にしか聞いていないのです。もしそうだとしたら、わたしたちよりも、悲しみながらイエスさまの前を去って行ったこのお金持ちの青年の方が、ずっと良いということになるでしょう。
 わたしたちもまたこの主イエスの言葉を聞いたときに、驚き、悲しみ、嘆いて立ち去る思いになるのが、本当に主イエスの言葉を聞いているということになるでしょう。
 あるいは、全財産を施して、主イエスに従った人がいるかも知れません。実際にそういう人もいるのです(例えば、修道者)。しかしもしそうしたとしても、わたしたちの目の前にはコリントの信徒への第一の手紙の13章3節の聖書の言葉が立ちふさがります。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」‥‥たとえ全財産を貧しい人のために施したとしても、「愛がなければ」何の益もないと言うのです。言い換えれば、何のために貧しい人の全財産を施すのか、ということです。もしそれが、「自分が天国に行って永遠の命を得るために、全財産を貧しい人に施す」というのであれば、それはその貧しい人を愛するという心から出ているのではなくて、自分が救われるために貧しい人を利用するということになってしまうのです。だとしたらそれは完全でもないと。
完全になるということはなんとむずかしいことでしょう。完全になるということは、まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と言えるでしょう。そのように考えていったとき、わたしたちは弟子たちと同じように、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言わざるを得なくなるでしょう。完全な人などいないのです。「私は神の御心に従って、完全に神さまの御心を行ってきました。だから天国に入れてください。永遠の命を与えてください」‥‥そのように言える人などいないのです。「わたしは、善いことをしてきました。だから天国に入れてください」などと言える人はいないのです。私たちが言うことができるとすれば、「主よ、罪人の私をあわれんでください」という言葉だけです。 この金持ちの青年のもったいなかったことは、自分が完全ではないことを知って悲しむまでは良かったのですが、そのあとイエスさまの前を立ち去ってしまったことです。しかしもしこの青年が、今自分の目の前にいる方が、「人間にはできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃる方であることを知ったならば、違ったことでしょう。目の前にいるイエスというお方が、不完全で罪人であるこの私たちのために、十字架にかかってくださる方であることを知ったならば、立ち去ることはなかったでしょう。むしろこう言ったことでしょう。「主よ、罪人の私をあわれんでください」と。
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私たちはたれでも弱点を持っています。しかしその弱い部分を人に見せたくない、自分も見たくないのです。たいてい弱点は奥深くに隠しているので簡単に触れることはできません。自分の弱点を認めなければ完全になるのは不可能です。
触れられたくない、手放したくない私の密かなこだわりを主に従うために開け放していくことができますように。
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人は誰でも弱さ、欠点、欠けているものがあります。難しいのは、事実、本人自身がそれに気づいていないあるいは認めたくないことが多いのです。聖人といえども完全、完璧な人ではありません。
聖なる人とはそれを自覚し、認め、神の助けを求める人ではないでしょうか。今日は、神のみ前に
謙虚にこのことを悟り、ありのままの自分を差し出す恵みを願いましょう。





年間第20火

マタイ19・23-30

イエスは弟子たちに「金持ちが天の国に入るのは難しい」ことを語ります(一九・二三~二六)。そして、その難しさを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスらしい比喩で重ねて強調されます。この比喩は、金持ちが天の国に入る難しさを誇張したユーモラスな表現です。「針の穴」はエルサレムの城壁にあったごく小さいくぐり穴を指しているという解釈は必要ないでしょう。
この「難しさ」は、人間が最高の能力を発揮しても達成できないという種類の難しさではありません。自分を無とすることの難しさです。イエスが金持ちの青年に財産を放棄することを求められたのは、今まで掟を守って行った善行にさらにもう一つの高度の善行を加えるように求められたのではなく、自分の善行や価値に頼る立場を放棄することを求められたのです。自分を放棄することは、資産や地位や教養などを多く持っている者ほど難しくなります。そういうものを持たない者、自分に頼るものを何も持たない「貧しい者」が神の国に入るのです。イエスの神の国の告知は、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」で始まっています。
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人は皆、自分の家族の絆を大事にしています。しかし、イエスのために父、母、兄弟、姉妹を捨てるということば通り単純にとるとしたら、皆が一人暮らしになるかもしれません!しかし、イエスのたとえ話しは、世の考えや常識では計られません。イエスが何を云わんとしておられるのでしょうか。
神の国は捨てたものが百倍の報いを、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるのです。その真意を汲み取る恵みを願いましょう。sese07
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今日のイエスの言葉は、救いの難しさを感じさせます。信仰というのは難しいことをあきらめることではなくて、そこに希望をもつことです。限界に直面する時こそ、強くなれるのが信仰の神秘でしょう。
自分の貧しさを認め、主により頼んで従っていく恵みを与えてください。



年間第20水

マタイ20・1-16

神の思いと人の思い神の正義と人の正義は如何に違うことでしょう。その間には推し量ることのできない開きがあるようです。それでも神は人からの応答を必要とされます。その応答なしに神の国には入ることが出来ません。われわれの応答とは出会うために自分から出て行くことです。主よ、自分から出てあなたの思い、あなたの正義に出会わせてください。sese07
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農業にとって、収穫の時期というのはとても大切な時期であることは言うまでもないことでしょう。特にブドウなどの果物の収穫というのは、その収穫するタイミングというのが、1日遅くても早くても上質のものが取れないというほどのものだそうです。昼の12時に雇った労働者は夕方6時まで6時間、そして午後3時に雇った労働者は、3時間しか働く時間がありません。しかしこの主人は、そのように何度も広場へ足を運んで、人を雇うのです。
 しかもそれで終わりではありません。全く驚いたことに、この主人は、なんともう夕方になってしまった午後5時にも、広場へ出かけていって、労働者を雇おうとするのです! 午後5時に雇ったとすると、日没まで1時間しかありません。これは、いくらぶどう園が忙しいと言っても、全く割に合わないことではないでしょうか。1時間しか働けないのに、わざわざ広場へ行って労働者を雇おうとするなど、この主人はまったくどうかしています。まるで、ひとりでも雇われないまま家に帰るものがいないように、わざわざ人を捜し回っているとしか思えない。おかしな主人です。
多く働いた者の不満が爆発!
みなさんは、どう思われますか? みなさんは、このたとえ話を読んで、どのように思われましたか。朝から働いた者と一緒になって、口をとがらせて、この主人を非難しますか?
 このたとえ話を読む時に、大切なことは、「ではわたしはこの登場人物の中の、だれに該当するだろうか?」ということです。朝一番に雇われた人ですか? 午前9時に雇われた人ですか? あるいはせめて昼の12時に雇われた人ですか? それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった者ですか? ‥‥あなたは自分が、このうちのどの人にあたると思いますか?
そして実は、わたしたちは、本当は、みんな、この最後に雇われた者なのです。
わたしたちはみな、実は夕方5時に雇われ、1時間しか働かなかったものです。1日分の正当な支払いを受ける資格のない者なのです。罪人なのです。不十分な者なのです。神の子とされる資格のない者なのです。神様のすばらしい祝福を受ける資格のないものなのです。にもかかわらず、わたしたちが主イエスのみもとに行く時、主イエスはわたしたちについておっしゃるのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と。すばらしい神の恵みです。nibanmati
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人の寿命は様々です。こればかりは人間には決められません。人の目には、長く働いた方が良いことのように思われます。しかし神から見ると、私たちの価値は働いた時間で決められるのではなく、どのような心で生きたかにかかってくるようです。主の完全な愛の内に留まり、いつも喜び、感謝して生きることができますように。
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士師記11・29ー39とマタイ22・1-14についての短いホミリア

今日の第一朗読と福音は、神への応答と招きに関わる深い教えを私たちに示しています。士師記では、エフタの娘の物語を通して、人間の誓いや責任の重さが描かれます。父エフタの誓いは誤りでしたが、それでも娘は父を尊重し、神の計画に従う姿勢を見せます。この物語は、私たちが無責任な誓いを避けつつも、与えられた状況の中で神の意志に忠実であることの重要性を教えます。父親母親の誤りで子供が犠牲になるということは、昔も今もよくあるのです。

一方、マタイの福音では、王の結婚の宴への招きの比喩が語られます。神の招きはすべての人に向けられていますが、応じるかどうかは私たちの自由意志に委ねられています。招きに背く者、招きを軽んじる者はその恵みを失ってしまいます。ここで重要なのは、正しい心で神の招きに応えること、つまり「神の前にふさわしい服」を着るように、心を整えて迎えることです。

両方の箇所は、神の招きと人間の応答の関係を示しています。私たちは、日々の生活の中で小さな「神からの招き」にも耳を傾け、誠実に応えることで、神の祝福にあずかることができます。イフタの娘のように、与えられた状況に忠実であり、福音の招きにふさわしい心で応じることを心がけたいものです。

ルツ記1・1-22とマタイ22・34-40

今日の第一朗読では、ルツ記の冒頭が読まれます。ここでは、食べ物も家族も失ったナオミが故郷に戻り、義理の娘ルツの忠実さと献身に支えられる姿が描かれます。ルツはナオミに従い、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と誓います。この姿は、信仰と愛に基づく忠実さ、そして困難の中で互いに支え合うことの美しさを示しています。

福音書では、イエスが律法の中で最も大切な掟を問われ、「あなたの神を愛し、隣人をあなた自身のように愛せよ」と答えます。ここで強調されているのは、神への愛と隣人への愛が切り離せないということです。信仰は単なる儀式や知識ではなく、日々の生活における行動と関わりの中で表されます。

ルツの姿勢と福音の教えは通じています。困難や損失の中でも、私たちは神を信頼し、隣人に愛をもって接することが求められています。今日、私たちもルツのように忠実であり、イエスの言葉を実生活で生かすことで、神の愛を具体的に表すことができます。

マリアはルツの信仰とイエスの教えを一つに結び合わせ、その成就を生きた存在です。




年間第20木

マタイ22・1-14

大通りを歩いている人を誰でも連れてきたのだけれども、礼服を着ていない人が一人いたというのです。そしてその人を外に放り出したというのです。そうすると、先ほどまでの喜びに、冷や水を浴びせられたような気分になります。「本当にわたしも天国の婚宴の席に招かれているのだろうか?」と。「わたしは結局この人のように外に放り出されてしまうのではないか?」と。
 だいたい、通りを歩いていたら連れてこられたのです。「礼服なんか用意しているはずがない」と思われることでしょう。しかし、当時は、ちゃんと王様の宮殿に礼服が用意されていたのです。ですから、通りを歩いていただけで、普段着を着たままの人でも、宮殿の中で宮内庁の職員が礼服に着替えさせてくれたのです。
 ということは、この礼服を着ていない人は、宮内庁の職員が礼服に着替えさせてくれるというのに、それを断った人、ということになります。
 ではこの「礼服」(ギリシア語:endymia)というのはいったい何のことを言っているのでしょうか?
ヨハネの黙示録(19,8)によれば、「正しい行い」である。しかし、7章では、天国の神の前での礼拝の光景が描かれています。万民の民が天国で神を礼拝している。そしてその人たちはみな「白い衣」(stole)を着ていると書かれています。それが天国の礼服です。そしてその白い衣とは、「小羊の血で洗って白くした衣」であると言われています。「小羊の血」とは、十字架でイエスさまが流された血です。その血によって、罪にまみれていた私たちの衣が白くされた。清い者とされたのです。それが神様の礼服です。
 ですから、このたとえ話の中で、礼服を着なかった人というのは、十字架のイエスさまを拒否した人と言うことになるでしょう。イエスさまを受け入れなかった人です。
天国では、小羊なるイエス・キリストの婚宴が開かれるということが黙示録にも書かれています(黙示録19:9)。
 こうしてきょうのたとえ話は、天国の婚宴の晩餐会の席をとにかく大勢の人で埋めたい神様の強い意志と願いがあらわれています。神様は多くの人で天の国を埋めたいのです。道を歩いている人を誰でも連れてきてでも、多くの人と祝いたい。それが神様の御心です。それがはっきりとあらわれています。そして誰でも天の国にはいることができるようにするために、イエスさまを十字架にかけて、礼服を用意した。その礼服を着ればよいのです。主イエスを信じるのです。
 この後のミサは、その天の国の婚宴の祝宴を指し示しているものです。洗礼を受けている人は、まだそこに導かれていない多くの人が、この祝宴に預かることができるようにとりなしの祈りをしつつ、聖餐を受けましょう。
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現代は、イエスの時代よりもイエスについてよく知っており、イエスについて説明する人も多く、
イエスについて教える人も増加し、イエスの道を歩む方法も知っているようです。しかし実際に行う人は少ないのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とはこのことを言っているのではないでしょうか。主よ、知っても行なわないものではなく、実行するものにならせてください。
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「子供が人見知りをする」という言い方があります。つまり、見馴れない人を見て泣いたり、はにかんだり、または嫌ったりすることです。せっかく楽しい場であっても子供はまったく楽しめない。地獄は、天国に行ったときに神に対して「人見知りをする」ようなことだと言われています。天国で天使たちと聖人たちは神の栄光をたたえ、賛美し、感謝するわけです。この世で神の栄光、神の賛美、感謝と馴染みのない人は、天国に行ったときに困ってしまう。
まるで、言葉の分からない、習慣を知らない外国で結婚式に参加するようなことです。最高に楽しい時、場所なのに、全く楽しめない、むしろ大嫌いな状態になります。それは、地獄です。私たちは、この世でどの程度神様に馴染んだか、神に感謝したか、その栄光を賛美したか、その分だけ楽しめるというわけです。
さて、神の国を外国と感じるか、それともなじみ深い自分の祖国と感じるかは、私しだいです。



年間第20金

マタイ22・34-40

自分が愛されていることを感じる人は大きな力を持っています。困難に囲まれても必ず立ち上がります。勿論、その愛は神からの愛ですが、人を通して感じます。また、いろいろな出来事を通してわかります。私たちが神の愛を信じ、その愛を分ち合っていくことは、私たちを愛して創られた神にとって最も大きな喜びでしょう。
神を愛し、人を愛することを通して、神の国を広げていくことができますように。sese06
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自分が愛されていることを感じる人は大きな力を持っています。困難に囲まれても必ず立ち上がります。勿論、その愛は神からの愛ですが、人を通して感じます。また、いろいろな出来事を通してわかります。私たちが神の愛を信じ、その愛を分ち合っていくことは、私たちを愛して創られた神にとって最も大きな喜びでしょう。神を愛し、人を愛することを通して、神の国を広げていくことができますように。
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私たちは「世界人類」を愛することは、ある意味では簡単にできるのです。あるいは、普段あまり顔を合わさずに、時々出会う程度の人を愛することは簡単なのです。ニコニコした笑顔を作って、「こんにちは」といえばもうそれで良いのですから。しかしイエスさまは「世界人類を愛しなさい」とはおっしゃいませんでした。それは簡単にできるからです。しかし「隣人」を愛することは難しいのです。毎日のように顔を合わせ、イヤでもその人の顔を見ないといけない‥‥。そういう人を愛することは難しいのです。裁判でも、泥沼の争いになるのは、たいてい夫婦や肉親や利害関係がからむ人です。
 私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を愛することはほんとうに難しいのです。
 だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱え、愛することのできない自分を発見するのです。
     キリストの愛
 そうすると、聖書は私たちに向かって、できもしないことを命じているのでしょうか。自分を愛してくれる人、あるいは自分が好きな人を愛することは簡単なことです。しかし、自分のイヤな人を愛するのは、今見てきたように、とても難しいことであり、そんなことはしたくないのです。だから、不可能です。聖書は、無理難題を私たちに押しつけて、「ホラ、できないだろう。だからお前はダメなのだ」と言うのでしょうか。
 しかし、わたしたちは、そのようにありえない愛を注いでくださった方がおられることを思い出す必要があります。それは主イエス・キリストです。イエスさまは、神さまが命じても、言うことをきかない私たち、自己中心で、隣人を愛することもできない私たちを、「だからダメだ、だから地獄行きだ」とはおっしゃらなかったのです。そういう愛のない私たちを愛してくださったのです。そして十字架にかかられたのです。
 すなわち、イエスさまは、神を憎み、神の悪口を言う者、あるいは神に従おうとしない者をも愛されたのです。そのしるしが十字架なのです。神の敵であった者、神の敵であった私たちを愛されているのです。そこに隣人を愛するキリストの姿があります。
 私たちはそのようなキリスト・イエスさまの愛によって神に受け入れられているのです。だから、私たちは、なかなか神を愛し、隣人を愛するということが難しいのですが、私たちを愛する方のおっしゃることに、従っていこうと歩み始めるのです。キリストによって励まされながら。そういう歩みを、キリストは、祝福してくださるということです。


年間第20土

マタイ23・1-12

人には、見せびらかしたいもの、隠したいものもあります。見せびらかしは虚勢であり、偽りを露出することです。真実を生きる人は、慎ましく控え目なのが特徴です。高ぶるものは低くされ、自分を低くするものは、高くされるこの福音のパラドックスは真実なのです。
真実を生きる恵みを願いましょう。sese07
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福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。もう随分前になりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判である。大学教授第一人者と呼ばれていたが、自分の権威を利用し禁止されているにもかかわらず非加熱製剤(加熱処理しなければならないのにしない)を患者に輸血しエイズに感染させたという記事やテレビ放映を思い起こします。会議に出席した他の人は意見は無視され再び発言出来なくなったと苦しい発言していました。この記事で私は人間地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思い、自分の心の中にも社会的地位、名誉がない者であっても人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」とキリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心として僕にふさわしい生活を送る一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)

21 per annum dispari

年間第21月  週日

マタイ23・13-22

ここでイエスは、弟子たちと対立し迫害する律法学者・ファリサイ派の誤りを暴露することで、彼らを反面教師として、彼らの誤りに陥らないように警告されるのです。彼らの誤りは「偽善」という語で要約されます。イエスは彼らの教えそのものを批判しているのではありません。彼らの誤りは「言うだけで、実行しない」点にあるというのです。
律法学者たちは、自分たちこそ民を神の道に導く「案内人」であるとしていました。それに対して、マタイは彼らの議論の愚かさを誓いに関する議論を取り上げて暴きます。マタイは律法学者たちの議論を二組取り上げて(神殿と神殿の黄金、祭壇とその上の供え物)、尊い方(尊さの源泉)にかけて誓った誓いは無効で、尊くない方(尊くされる方)にかけて誓った誓いが有効だとする彼らの議論の愚かさ(論理的矛盾)をつきます。しかし、だからイエスの弟子たる者は尊い方にかけて誓いをしなければならない、と言っているのではありません。ここのマタイの議論はあくまで律法学者たちの土俵での議論です。彼らの立場に立っても、その議論は矛盾し愚かなものだと批判しているのです。また、神殿にかけて誓う者はその中に住んでおられる方(神)にかけて誓っているのであり、天にかけて誓う者も神にかけて誓っているのだから、誓う者は自分が結局神にかけて誓っていることを自覚しなければならないと説教しているのでもありません。イエスはいっさいの誓いを否定されました(五・三三~三七)。その箇所の講解で詳しく見たように、イエスは完全な神の信実を見ておられたので、神の信実に支えられて生きる者の言葉も、無条件に信実でなければならない、誓いによって信実を保証する言葉とそうでない言葉を区別してはならない、とされたのです。マタイは、この神の信実の次元を見ることができない律法学者たちの誓いについて議論が、いかに愚かであるかを暴いて見せるのです。

http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_28.htm#top


年間第21火

マタイ23・23-26

いくらきれいな食器でも、その中に盛られている料理や飲み物が食べられない物では話になりません。だからイエスさまは、「まず杯の内側をきれいにせよ」とおっしゃるのです。つまり、あなたがたは自分の外側ばかりをきれいに見せかけているが、心の中は美しくないということです。
悪さばかりしている人のことを「偽善者」とは言いません。最初から悪いわけですから、偽善も何もない。「偽善者」というのは、外見は善さそうに見えるが、実は悪い人のことを言うわけですね。だから、悪そうに見える人は悪いことをしても「やっぱり」ということになるだけで、「偽善者」とは言いません。しかし言うことが立派で、品行方正そうに見える。しかし、実態はこんな人だった、という時にそれは「偽善者」と言われるわけです。
 しかしそうすると、クリスチャンというのは、ある意味で皆「偽善者」と呼ばれかねないところにいるわけです。たとえば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というイエスさまの言葉を教会に行けばよく聞きます。しかし私たちは、イエスさまの後についていきたいから、「隣人を愛そう。自分のことを悪く言う人でも愛そう。受け入れよう」とする。しかしなかなかできません。自分のことについて悪口を言っている人をゆるそうとするのですが、むずかしい。できない。それで、ついつい人の悪口を言ったりする。腹を立てたりする。あるいは困っている人がいても知らん顔をする。自分のことを自慢したりする。‥‥そうすると「偽善者」だと言われているような気がしてくるのです。「クリスチャンは偽善者だ」などと言われたりする。それで落ち込んだりするのですね。
「じゃあ、どっちみち人を愛することができないのなら、最初から神なんか信じなければいいじゃあないか。教会なんか行かないほうがいいじゃないか」というのでしょうか。最初から自分の好きなようにして、気の向くまま、したい放題、悪いこともし放題、そのほうが自分に正直で、裏表がなくて、「偽善者だ」などと言われることもない。‥‥そういうことでしょうか。そういうことをイエスさまはおっしゃっているのでしょうか。
 しかし、そうではありません。人間にはできない。人間にはできないけれども、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。 そういう中身をしっかりと信念として持つことではないでしょうか。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat140.html


年間第21水

マタイ23・27-32

人間というものは、自分勝手な生きものです。生きている預言者の声は聞きたくもないし、目ざわりなのです。それは預言者が、つねに神の側に立って発言したので、耳が痛かったからです。でも殺されてしまえば、記念碑や墓を建て、その死を悼むのです。生きた神の言葉に聞き従うより、死んだ預言者を敬う方が楽なのです。そして図々しくも、自分たちだったら預言者に聞き従っただろう、などとしゃあしゃあ(sfacciato)として言うのです。しかしやることは、結局先祖たちと同じことをしてしまうのです。神のみ言葉のほうを抹殺してしまうのですから。殺すのが都合よければ、もっともらしい理屈をつけて殺します。墓を建てて顕彰(けんしょう)するのが都合よければ、美しい記念碑をつくって徳をたたえるのです。
 つまり人間は神をさえ、自分の都合のよいように扱うのです。自分の都合すべての行動の原理なのです。でもそこに救いはないのです。自分勝手だからこそ、人は救われなければならないのです。(静)
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律法学者とファリサイ派の人々は、自分たちが預言者の時代に生きていたなら、預言者たちを迫害する側にはつかなかっただろうと言いました。神さまに従っていただろう、と言うのです。自分たちは偽善者ではない。自分たちは完全に神さまに従っている、と。それをイエスさまは警告なさっているのです。悔い改めがないのです。自分には、神さまの憐れみや助けがなくても、ちゃんと正しく歩んでいけると思っているのです。しかしこのあと彼らは実際に、目の前のイエスさまという、神の御子を十字架につけていきました。
 ファリサイ派の言っていることは、私たちにとっては、たとえば、「もしわたしがイエスさまの時代に生きていたのなら、決してイエスさまを見捨てなかっただろう」ということです。いかがでしょうか?
 弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げました。弟子のうちユダはイエスさまを銀貨30枚で売りました。ペトロは、「死んでもイエスさまに従います」と誓いましたが、いざイエスさまが捕らえられた時、「おまえもイエスの仲間か?」と問われて、「そんな人は知りません」と3回もイエスさまのことを否認しました。しかしもし私たちがその時、イエスさまの弟子であったとしたら、イエスさまを見捨てなかったでしょうか? 否認しなかったでしょうか? 裏切らなかったでしょうか? 信仰を捨てなかったでしょうか?
 いっぽう、イエスさまを見捨ててしまい、イエスさまが十字架にかかってしなれ、墓に葬られたあと、自分たちの偽善に気づき、その弱さに気がついて、絶望していた弟子たちのところに、復活のイエスさまが現れてくださいました。自分の力では何も良いことができない、偽善にしかならない、自分も神の御子を十字架につけてしまった一人だと気がついた弟子たちに、復活のイエスさまが近づいてきてくださったのです。そしてそこからふたたび、全く新しい人生が始まったのです。それが復活の主と共に歩む人生です。
 わたしたちも、自分の力では、まともに歩んでいけない、偽善者である、ということに気がついた時に、山上の説教の最初のイエスさまの言葉が心に響いてくるのです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国は、その人たちのものである」(5:3)という御言葉が。それは自分が偽善者であると気がついた者を見捨てるのではなく、招いて下さる主の言葉です。
 わたしもイエスさまを十字架にかけたうちの一人である。そのことに気がついた時に、神さまが新しく始めて下さるのです。それゆえ私たちは、自分の力でするのではなく、「神さまどうかわたしを変えて下さい」と祈る道があるのです。 http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat140.html
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 彼らの問題は、人に良く見られたいという虚栄心と、人を恐れる心でした。そのために、外側をきよくすることに専念していましたが、心の態度をきよめることには手を出していなかったのです。これは、私たちの肉が持っている根本的な問題です。私たちは過剰なまで(無意義のうちに)、他人が自分をどう思っているか、どう見ているかによって自分の行動を決めますが、その心の状態は非常に自己中心的です。けれども、多くの場合、そうしたものが文化の中で美徳と考えられています。白い墓のように見えます。私たちは世間体を気にしたり、義理で動いたり、多数派の意見に自分を合わせたりしますが、それが自己中心と受け止められずに、親切であるとか、協調性があるとかと言われるのです。

わをもってとうとしとなす
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉

 私はかつて、クリスチャンであることは両親に反抗しているのではないか、と思いました。いつも親に従う自分が理想の姿であると考えたからです。しかし、それは、親を大切にしているのではなく、自分が良い子に見られたいという肉の思いであることが後に分かりました。その思いから解放されるには、キリストの十字架を見つめることです。自分の肉がキリストとともに十字架につけられたことを信じなければなりません。それによって初めて、他人を気にする生活から他人を愛する生き方に変わっていくのです。つまり、内側をきよめれば、外側をきよめることになります。


年間第21木

マタイ24・42-51

「キリストの再臨」とか「世の終わり」ということがないと思う人でも、自分自身の命に終わりがあることは、みな知っているわけです。
 そうすると今日のイエスさまのお言葉を読むときに、たとえば、「たった今現在、キリストが再臨されたとしたらどうだろうか?」とか、あるいは、再臨ということが信じられないという人も「今、自分の人生が終わりを迎えたとしたらどうだろうか?」‥‥と考えて読むと良いのではないかと思います。
 「さあ、今この世のあなたの命は終わる」と言われたら、どうするでしょうか。「ちょっと待ってくれ」と言わないでしょうか? あるいは「どうぞ」と言うでしょうか? 自分自身はどうだろうか。そんなことを考えざるを得ません。「ちょっと待ってくれ。まだしたいことがある。やり残したことがある」と言いたいかもしれない。 あるいはキリストを信じている人でも、「今来られては困る」と言いたい方もいるかもしれません。「いまはちょうど、あの人に腹が立って腹が立って、とても赦せる状態ではない。だからイエスさまの言葉に逆らっている。だからイエスさま、もうしばらくして、あの人を赦せるようになってから、もう一度再臨してください」と言う人もいるかもしれません。「そうしたら天国に入れてもらえるから」と。あるいは、「ああ、イエスさま、昨日だったら良かったのに。きのうだったら、神さまに対する賛美と感謝があふれて、おまけに人助けもしたり、昨日だったら良かった。でもきょうは、悪いことをしたから今日では困ります」と言いたい人もいるかもしれない。「今から善行をたくさんしますから、それから迎えに来てください。そうして天国に入れてください」と言いたい人もいるかもしれません。‥‥
 要するに、今日のイエスさまのお話を聞いたとき、「わたしは今イエスさまが再臨され、自分のこの世の人生が終わったとしても良いだろうか?」ということになるだろうと思います。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?(実際にキリスト教の歴史では。そのように考え、結婚もしないで禁欲生活をし断食と祈りをして、いつも熱心に礼拝していたグループもあったほどです。) わたしたちがおそれおののいて、ビクビクして緊張した信仰生活を送るためにそうおっしゃるのではない。むしろ、そんな弱い私たちさえも見捨てないで、むしろご自分が代わりに十字架へ行ってくださる、その愛をもっておっしゃるのです。私たちではなく、主イエスが裁きを受けられたのです。ですから私たちは、感謝を持って、喜びをもって、自発的に主イエスに従っていくのです。自らの力では、目を覚ましていることすらできない自分であることを知り、イエスさまにおすがりするのです。イエスさまにおすがりし続けるのです。nibanmati
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・終末、世の終わりと言う考え方は、東洋思想にはない。東洋思想にとって歴史は円環である。春が終われば夏が来て、やがて秋になり冬になり、そして再び春が来る。季節が巡るように歴史もめぐる。しかし、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが終末だ。この終末を死に喩えてみると判りやすい。私たちは今日生きている、明日も生きるだろう、恐らくは明後日も。しかし、終わりの日は必ず来る。明日は今日の繰り返しではない。聖書が「目を覚まして待っていなさい」ということは、「私たちは死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問いかけている。私たちにとって終末を覚えるとは、私たち自身の死を覚えることだ。
・死は私たちの理解を超える出来事だ。死んだらどうなるのか、誰も知らない。知らないから怖い。怖いから、人は死を見つめようとしない。多くの人は将来の死を忘れて現在を楽しもうとするが、それは何の解決にもならない。
目を覚ましている=死を見つめる。死を見つめた時、私たちは大事だと思っていたものが、実は本当に大事なものではなかったことを見出す。お金があっても死の前には役立たないし、生涯をかけた仕事にしても死ねば意味がなくなる。死を見つめることによって、私たちはこの世の出来事が全て過ぎ去るもの、相対的なものにしか過ぎないことを知り、それらから自由になる。
死への準備教育(しのじゅんびきょういく、death education)とは、人間らしい死を迎えるにはどうすべきか、に関する教育をいう。
必ず訪れる「死」を見つめることによって、限り有る「生」を充実させることを目的とする内容が多い。
上智大学教授のアルフォンス・デーケンが、1982年頃から「死への準備教育」を提唱している。「死を見つめることは、生を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を問い直すことだ。」と、デーケンは唱えている。特に、余命を宣告された人の心のケアの重要性を訴えている。
デーケンの支持団体としては、「東京・生と死を考える会」(1999年5月創立)などが結成されている。



年間第21金

マタイ25・1-13

壺に入った油とは何でしょうか。賢い人がともし火と一緒に持っているもの。それなしに、とも火は消えてしまいます。壺の中には人に分けるほど油が入らないようです。それは私がみことばを味わい、喜びと希望を感じる心の奥の部分に似ています。その感動を人に伝えても相手にはうまく伝わりません。その喜びは私と神の間の出来事であり、人には分けられない神聖な出来事だからでしょう。
この油は、全ての人の心の内にあり、そのカリスマにおのおの違ったともし火を輝かせることができるものでしょう。今日もみことばを味わい私の油にともし火を灯すことができますように。sese07
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わたしはおとめになってランプの油が切れた経験はありませんが、車のガソリンが切れてしまったという経験はあります。ガソリンがなくなってしまうと、これはもうどうしようもありません。いくらアクセルを踏んでもダメです。そこで思い出したのは、「そうか、自分はJAFに入っている」ということでした。それですぐに、それまで一度も使ったことのないJAFに電話をかけました。すると20分ぐらいしてJAFの人が、ガソリンを持ってきて入れてくれました。聖書では一般に「油」とは、神さまの下さる賜物のことをあらわしています。たとえばこう書かれています。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」(第一ヨハネ2:20)。また、第二コリント1:21では、「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」と言われています。
コロサイの信徒への手紙の2章6~7節にこう書かれています。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
 なぜ私たちは感謝の生活をするのでしょうか。感謝できそうもないことばかりなのに、感謝することができるのでしょうか。それは、主イエスが十字架によって私たちの罪を代わりに負い、天の国に招き入れてくださるからです。聖霊の油を与えてくださるからです。だから感謝することができるのです。
 それ故きょうのたとえ話は、天の国に入れなかった人にポイントがあるのではなく、同じように眠りこんでしまって、天の国に入れていただく資格がないのに、キリストが下さる油によって天の国に入れていただいたおとめのほうにポイントがあります。主イエスにすがるのです。主イエスに油をいただくのです。私たちは油が無くなったとき、どうすればよいかを知っているはずです。キリストの名を呼ぶということです。 nibanmati
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このたとえを読んで、「5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめ」ではなく、「油を人に分けてあげない5人の意地悪なおとめと、分けてもらえなかった5人の可哀想なおとめ」の話だと感じる人もいるようです。もちろん、イエスが油を用意していたほうのおとめたちを評価していることは確かです。「なぜ油を分けてあげないのか?」そこにこのたとえ話を理解するヒントがあるのかもしれません。この油は「人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのではないでしょうか。たとえば「その人自身の生き方」。親は子どもに良いものをたくさん与えることはできますが、子どもの生き方は最終的にその子自身が選ぶしかありません。誰もその人の代わりにその人の人生を生きることはできない、そういう意味で人に分けてあげられないものが問われているのだとも言えるでしょう。
天国のこと、信仰のこと、そこでは他の人は、それが親であれ、夫であれ、妻であれ、どんな親しい人であっても、自分の助けにはならない。そこでは全く一人で、他人に依存することもなく、神の前で人生の決算をしなければならないということ。


年間第21土

マタイ25・14-30

人によっては、「5タラントンと、1タラントンではずいぶん違いがある。神さまは差別しているのではないか?」と、考える人もいるかもしれません。この主人が神さま(あるいはイエスさま)だとしたら、神さまは不公平ではないか?ということでしょうか?‥‥しかしそもそも1タラントンでも大きな額なのです。それに、聖書には「それぞれの力に応じて」と書かれています。何億円もご主人様のお金を預かって、そんなに大きな責任を負うことはできない、と思う人もいるでしょう。多くの額を預かるということは、大きな責任を負うことでもあります。ですから、かえって負担になる人もいるのです。ですからこの主人は、それぞれの人の力に応じて、つまり一人一人を差別しているのではなくて、その人のことを考え、その人に十分無理なく管理できる額を預けた、というべきでしょう。
主人は僕を深く信頼しているからこそ財産を預けることができました。また「それぞれの力に応じて」という深い愛からです。額の大小ではなく、用いたのかどうかが問題です。
「結果の平等」ではなく、「機会の平等」です。
このたとえ話の中で不思議なことは、使ったけれども損をした人が登場しないことです。使った人が必ずもうけている。主人から預かったものを用いた人が必ず増やしているのです。‥‥つまり神さまの与える賜物は、用いれば必ず増えるということです。どんどん増えていくのです。そしてまたそう信じることが期待されています。
 教会の活動もそうです。わたしたち自身は、無力です。しかし、わたしたちに与えてくださる神さまの賜物は、わたしたちの想像を超えて実を結ぶことのできるすばらしいものが与えられているのです。

22 per annum dispari

年間第22月

ルカ4・16-30

ルカによる福音書によれば、イエスの宣教の開始の言葉がこのヨベルの年、主の恵みの年がわたしが来たことによって、「この日に成就した」ということです。このヨベルの年が単に理想で終わるのではなく、わたしが来たことによっていよいよ実現するのだというのです。これはあの洗礼者ヨハネの宣教の開始の内容とは随分違います。ヨハネは人々に「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられるとお前達は思っているのか」といって悔い改めを迫ったのです。それに対してイエスは人々に無条件でまず神のめぐみの年が来たことを告げ知らせて、人々に悔い改めをせまったのです。イエスはもう神の報復については告げないのです。

 これはイソップの物語に出てくる「北風と太陽」の話しに似ております。北風は激しい冷たい風で旅人の着ている外套をはがそうとして失敗いたします。しかし太陽は旅人の着ている外套を脱がすことに成功するという話しです。激しい風が吹けば吹くほどわれわれは自分の身をちぢこませ、自分の着ている外套で自分を防御するのです。しかし太陽の暖かい熱を受けるとき、われわれのかたくなな心はやわらぎ自分の外套をぬいで、自分から解放されていくのです。
 
 イザヤ書で預言されている「主のめぐみの年」には、まず「貧しい者に福音が宣べ伝えられる」ということだと宣言されます。貧しい人がただちに金持ちになることではないのです。福音が宣べ伝える、福音とはなによりも、貧しい者が抱えている借金がもう棒引きにされる、もう借金を返さなくてもいいということです。いきなり貧しい者が金持ちになるのではないのです。なによりも借金が取り消されること、赦されることなのです。
 
 ゼロから出発することが許される、こんなうれしいことはないのです。それはいきなり金持ちになることよりももっと喜ばしいことなのではないか。もっと張り切れること、生き甲斐が与えられることではないか。ここで言われている「貧しい者」とはただ経済的な意味のことだけではないでしょう。ここで言われていることは、やはりわれわれの罪が何よりも言われていることです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke9.htm


年間第22火

ルカ4・31-37

悪霊にとりつかれるとは、どのようなことなのでしょうか?……自己中心の思い、人に対する悪い思い、嫉妬、人を傷付けるあり方、また、自分の心に傷を抱えている、また、私達の弱さ、愚かさ、鈍さ…私達は、そういうもの全てから解放される必要があります。しかし、自分の力では解放されないのです。イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する神の力を持っていると、聖書は言うわけです。

 あるいは外から、逆境が、苦難が、圧迫的な状況が、私達を抑え付けています。色々なものが私達を捕らえていますから、私達は多くのストレスを抱えています。気付いているストレスも、気付いてすらいないストレスもあるでしょう。…何がそこから私達を解放してくれるのでしょうか。

 イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する力を持っています。真理の御言葉の光に照らされて、私達は目を開かれて、初めて自分のありのままの姿が見えるようになります。自分を取り巻く状況の本当の姿が見えるようになります。そして何よりも大切なことは、神様……全ての支配者であり、解決者、解放者である神様……が、見えるようになるのです。

 自分には出来ない解放、他人に頼っても駄目なことが、神の御言葉の力によってもたらされて来るのです。それが、イエス様が宣言したことであり、聖書が教えていることだと思います。


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私たちは毎日のように、「権威のある」キリストの言葉を聞いて、キリストによって悪霊から開放され、癒される体験をしています。不安な気持ち、苛立ち、妬(ねた)み、傲慢、無関心、抑えがたい欲望、再び悪霊に拘束されないようにみ言葉とともに私たちは生きることができます。
この汚れた悪霊は、いわゆる悪魔、サタンとは違って、人間に対して独立した存在としてではなく、人間の心に住みつく、何かに依存してすみつかないと存在できないものとして描かれているのが特徴です。そしてその悪霊が住み着く人間は、その人間その人が実はなにものかに依存しないと生きていけない人間なのではないか。そういう病に陥っている人なのではないか、その心の隙につけ込まれて悪霊を自分の中に住まわせてしまっているのではないか。つまり悪霊に住み着かれてしまっている人は、どこか大変依存心の強い人、自立していない人、なにものかに支配されないと生きていけない人なのではないか。

私たちを自由にするため来たイエスに、悪霊は、「我々を滅ぼしに来たのか」と敵意を表します。イエスは、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると悪霊は出て行きます。しかし悪霊は自分の外にあるのでしょうか。自分の中にもあるのではないでしょうか。自分の弱さ、完璧ではないことを恐れ、また認めたくないのはその一つでしょう。しかし、私たちの弱さを通して、イエスの力が現われてくるのにそれを信じようとしません。聖パウロのように、自分の弱いところを感謝すること、そこに神が働いて下さるでしょう。私たちの恐れより、イエスの権威ある一言だけで私たちの弱さを神の栄光に変容することが出来るのです。恐れるな!あなたに信頼します。

その汚れた悪霊につかれた人は安息日に会堂にいたのです。会堂にいて、聖書の話しを聞いていたのです。静かに聖書の話しを聞くのが好きだったのです。そこは大変居心地のよい場所だったのです。ある意味では、この人は宗教が好きだったのです。信仰が好きだった。しかしそこにイエスが来た。そしてそのイエスの言葉には権威があった。人をただ安住させるというような甘い言葉ではなかった。人の魂を揺さぶるような権威ある言葉を語った。それで彼はそれまでおとなしく聖書の話しを聞いていたのですが、突然「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と叫びだしたのです。
これは、子供の反抗期ににています。思春期の子供は、親や先生など、権威のある人に反発するような行動。子供が自立するために必要だと言われます。
自立するということは、もういっさい人に依存しないということではない、人との交わりを断つということでもないし、人を信頼しないということではないのです。子供を自立させようとして親はその点で誤解して、ただ子供を突き放すことが子供を自立させるということだと考えがちだけどそうではないと言っております。自立するということと、人と連帯することとは結びついてることなのです。親の愛をしっかりと感じ取っている子供がはじめて自立して、生き生きと遊び回ることができるのです。もし親の愛が不安定であるならば、子供はなかなか自立できないのです。自立したとしても変にがんばって自立する、ゆがんだ形で、つまりいっさい人を信じないというかたちで自立してしまうのではないかと思います。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/


年間第22水

ルカ4・38-44

イエスは「シモン(ペトロ)の家」に入った、つまり「教会共同体」に入った。それは助けるため、癒すためです。シモンの姑は病気だとは、驚くべきことではない。人間が病んでいる、人類は病んでいるのは普通の状態です。健康な人のためではなく、病人のために来た、正しい人のためではなく罪人のために来たとおっしゃる方を人間が、人類が、必要としています。病気が、悪が残っている間は主に仕えることができません。私たちも「枕(まくら)もとに立って」いただく必要がある、熱を「叱って」いただいて心身ともに元気にさせていただく必要がある。イエスは教会の中で癒す力を働かせておられる。外にもさまざまの病気を抱える沢山の人々が待っているからです。私たちはイエスの癒す力を感じなければならない。悪霊はキリストの手によって追い出されます。自分で仕事はできない時は、人の手を借りることがある。同じように私たちも「手を置いて」もらう必要がある。時々、私たちは手で心に秘められたいろいろなことを表します。今日このように考えてみましょう。私たちの手は愛を表しているでしょうか。人を助ける姿勢を表しているでしょうか。
イエスが汚れた霊を追い出したり、病をいやしたといううわさが広がると、いろいろな病気になやむ者をイエスがひとりびとりに手をおいていやされたというのであります。そして悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら人々から出ていった。しかしイエスは彼らを戒めて、物をいうことをお許しにならなかった、なぜかというと、彼らがイエスがキリスト、つまりメシア、救い主だということを知っていたからであると記されております。その前の記事でも汚れた霊が「あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」といいますと、イエスは「黙れ」と、言われております。悪霊によって「イエスはキリストである」と信仰の告白されることをイエスはお許しにならなかったということであります。なぜなら、悪霊によってイエスはキリストであると告白されたり、叫ばれても、それは本当の意味で信仰の告白にはならないからです。キリストを信じるために、違う証しが必要です。それは、十字架と復活を見た人々の証しです。



年間第22木

ルカ5・1-11

自分達は魚を取るということに関しては専門家なのです。イエスは大工の子なのです。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした」というシモンの答えはそういう思いがあったと思います。それでもシモンは「しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言った。漁が不作であるなんてことは、漁師にとってはあるいは日常茶飯事のことではないかと思います。しかしこの時はやはりそういうことが何日も続いたのかもしれません。彼らは疲れ切っていたのかもしれません。それでイエスの言葉に従う気持ちが動いたかのかもしれません。自分達の知識に行き詰まりを感じ始めていたのかもしれません。少し大げさに言うと、人間の限界を感じ始めていたのかも知れません。そういう時に、自分達の外部の人の声が新鮮に思えた。漁というものは、夜しかできないものだ、漁というのは、この場所でしかできないものだという自分たちの長い間積み上げてきた経験というものがあった。しかしそれがいつのまにか固定観念になってしまっていた。
専門馬鹿という言葉がありますけれど、専門家というのは、やはり自分たちの経験を絶対化しがちであります。しかし自分達の経験、知識というものがそれほど絶対的なものかということです。
シモン・ペテロは「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、沖へこぎ出して網をおろしてみたのです。信仰にとって大事なことは、この「しかし」という接続詞だとある人がいっております。「しかし」「にも拘わらず」という接続詞が大切なのだと言い聞かされました。信仰というのは、神を信じるということですから、ある時には自分を信じることをけ飛ばして、あるいは人間の経験とか知識とか常識とか蹴飛ばして、飛躍して、「しかし、にも拘わらず」一歩沖へこぎ出す、そういう冒険をしてみる、「しかし」と言って飛び込んでみる、そうしないと信仰にはならないのだとよく言われたものです。もちろん、なにも闇雲に飛び込むわけではないのです。「しかし、お言葉ですから」という、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉に対する信頼があって、始めてこの「しかし」という言葉が生み出されるのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke11.htm


年間第22金
ルカ5・33-39

新しい葡萄は新しい革袋が必要だとイエスが今日教えてくださった。私たちは「新しく出発しよう」
と何度も思いながら、新しい出発というよりも同じことの繰り返しだけになってしまう場合が多いようです。古い習慣、気持ちのいい習慣も失いたくない、守りたいのです。しかしイエスの愛は新しい人生をもたらす愛であり、私たちが理解する愛とは異なっています。私たちが持っている古い“革袋”は捨てなければならないのです。
パソコンでも、Windows XPで出来るソフトはWindows Vistaに出来るわけはないのです!新しい葡萄は神からいただきますが、新しい革袋は私たちが創らなければならないのです。
主よ、あなたからいただく新しいぶどう酒を受け入れる新しい革袋をととのえることの真の意味を悟らせて下さい。sese07
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固定観念は、心理学の用語で、人が何かの考え・観念を持つとき、明らかに過ちであるか、おかしいと思える場合、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、その考えを訂正することがないような観念を指す。
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コロサイ書の第一朗読では、キリストが「見えない神の姿」として描かれ、万物の創造とその完成における中心的な存在であることが示されています。この宇宙の根源にして救いの完成者であるお方が、私たちと共におられるのです。

福音書では、人々がイエスに弟子たちの断食について問いかけますが、新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえを通して、神の新しい働きが既存の枠組みでは受け入れられないことを示されました。

全てを新しく造られるキリストは、私たちの日常生活にも変革をもたらします。そのためには、私たち自身が古い慣習や考え方に固執せず、新しい皮袋のように柔軟で開かれた心を持つことが必要です。

「万物がキリストにおいて一つにされる」という救いの完成を目指し、私たちもまた日々新たにされていきましょう。


このホミリアは、信者がキリストの新しい命に心を開き、自らの生活を刷新するための招きとして活用できます。

年間第22土

ルカ6・1-5

神から与えられた掟は、神と人、人と人との正しい関わりを保つ神の恵み。命を優先させ、人を生かすために働くイエスこそ、安息日の主です。イエスは私たちのうちに何が最も大切なのかを示し、神の恵みと祝福に招いてくださいます。
主よ、あなたの安息に与らせてください。日々の生活の中で、神の御心を見極める眼をお与えください。sese06