23 per annum dispari

年間第23月
ルカ6・6-11

なぜこんなにまで安息日律法というものが厳格に守られるようになったのかといいますと、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時からだったようであります。バビロンの捕囚としての生活、そこではもちろん自分たちの神を礼拝する神殿はないのです。そういうところで自分たちのいわばアイデンティティ、日本語に訳しますと、自己同一性とか訳される言葉ですが、つまり、自分が自分であることの自覚ということなのですが、自分たちがイスラエルの民であるということの自覚です、そのアイデンティティを保つためには、週の終わりの日の安息日を厳格に守るということで、自分たちが神に選ばれた民であるということを自覚しようと考えたわけです。しかしそれがだんだんエスカレートとしていって、イエスが活躍した時には、律法学者・パリサイ人たちがまるで秘密警察のようにして、人々が安息日律法をきちんと守っているかどうかを監視するようになっていったのです。

安息日のおきての起源というのは、申命記五章一二節の言葉にあるのです。そこにはこう記されております。「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息を守ることを命じられたのである」。
 ここをみますと、安息日でまず一番しなければならないことは、自分たちが使っているしもべ、はしためを休ませることのようです。それはイスラエルの民みずからがあのエジプトで奴隷の民としてさんざん苦労し、そこから主の手によって解放されたのだから、その神の救いのみ手をいつも覚えるために、奴隷達を休ませなくてはならないということです。ですから、安息日は、奴隷の立場にいる人々、また虐げられている人々、弱い立場にいる人に休息を与える、そのことによって主の救いを思い起こす日として守るということです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke14.htm
人が生きる上で、法律、規則、ルールなどを守ることは必要なことです。しかし、何のためであるのか、その精神を忘れがちです。このイエスがもっとも嫌われた律法主義的な生き方は、身近な所に、自分の中にもよくある事ではないでしょうか。主よ、すべての事を神と隣人を愛するためという律法の大原則を忘れることなくあなたの掟を自由に喜んで生きることができるようお導きくたさい。sese07

年間第23火
ルカ6・12-19

パウロがいいますように、「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみよ、。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」とありますように、その人が優秀な人間だから、その人を選んだのではないのです。何か会社に役立つ者を選ぶのではないのです。あくまで福音の宣教のためです。
 福音とは、「この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」という性質のものです。それは「弱い時にこそ強い」と告白できるような性質のものです。だから神は弱い者を選ばれるのです。ただ知者をはずかしめ、この世の強い人をはずかしめるのは、あくまで神がなさるのであって、選ばれた弱い人が強い人をはずかしめるのではないのです。強い人、優秀な人を選ばないで、弱い人を選ぶことによって、神がそうなさるのであって、選ばれた弱い人、愚かな人が何か見返すようにして知者を、強い人を辱めるのではないなのです。もしそれならば、大変人間的な恨みがこもることでしかないのです。ですから、選ばれた弱い人、愚かな人は、強い人に対して誇ることなんか何ひとつできないのです。ただ神を誇る以外にないのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke15.htm

年間第23水
ルカ6・20-26

「福音の真髄はどこにあるのか。」
それを私たちに示してくださるのが、今日の主イエスの「八つの幸い」です。
これは単なる教えの頂点ではありません。
新しい掟の宣言であると同時に、**神ご自身の姿を描き出す“神の肖像画”**でもあります。

神の幸い=神の本質
→ 八福は「人への要求」ではなく「神の自己紹介」。

私たちの神は、満ちあふれる幸いの神です。
愛そのものであり、三位一体、すなわち完全な交わり、完全な家族です。
しかし同時に、神は愛に飢え、愛に渇くお方でもあります。
だからこそ、御子イエスのうちにおいて、
神は泣き、憎まれ、侮辱され、追い出されることを選ばれました。

それでも神は喜びます。
なぜなら、人を神の幸いへと招くためには、
神ご自身の涙と苦しみ、そして十字架が必要だったからです。
神はその苦しみのうちにさえ、私たちへの愛の成就を見て、
喜びに躍るお方なのです。

私たちの神は、幸いと喜びの満ちあふれる源です。
そして私たちの召命は、その幸いにあずかることです。
もし私たちが神の前に、貧しく、飢え渇く者として立つなら、
神はその渇きを満たし、
私たちの喜びは完全なものとなるでしょう。

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これはご承知のように、マタイによる福音書では、いわゆる、「山上の垂訓」、今ではもうそういう言葉はあまり使われませんが、今では「山上の祝福」とか「山上の説教」とか、いわれている部分にあたります。マタイではこうなっております。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子達がみもとに近寄ってきた。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた」
 マタイによる福音書では、山の上での説教になっているのに対して、ルカによる福音書では、山を下りてからの祝福、説教、になっていて、そこにマタイとルカの違いを見ることもできるかもしれません。マタイのほうでは、イエスが山の上で教えられると、人々はその教えにひどく驚いたというのです。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである、というのです。そこでのイエスは威厳に満ちておりました。だからと言ってマタイによる福音書によるイエスがいつも威厳に満ち、権威にみちていた、いわば威張っていたというわけではありませんが、少なくもこの教えに関しては、山の上で、山といいましても丘のような低い山でしょうが、それでも山の上から権威をもって教えられたのです。しかしそれに対してルカによる福音書では、山からおりて、平地に立たれ、われわれと同じ平面に立たれてわれわれを祝福し、われわれに教えられたと書くのです。それはルカによる福音書では、イエスの誕生の記事で、救い主であるイエスは飼い葉おけの中で誕生したという記事でもわかりますように、イエス・キリストはわれわれの低さの中に立ってくださる救い主と描かれているのです。
われわれの幸福観というのは、なにかをしたら、なにかを変えたら、幸福になるという考えかたになれすぎているのではないかと思います。ですから、マタイによる福音書にある「心の貧しい者はさいわいである」という言葉を聞くと、あわてて「心を貧しくしなくては幸福になれないのではないかと思って、心を貧しくしなくてはならないと思い始めるのではないかと思います。
ここでは、貧しくなったら幸福になるとか、飢えたら、泣いたら幸福になるという、われわれの心のありかたとか、生き方を要請しているのではなく、「今貧しいあなたがた、今現に飢えているあなたがた、今泣いている人々は幸いだ」ということであります。これはほかの人が言ったら、なんの力にもならない言葉ではないかと思います。目の前にいる貧しい人に対して、それどころか今飢えている人を前にして、こんなことをいったら、どやされるような言葉です。イエス・キリストだからこそ、この祝福には力があるのです。それはどういうことかといいますと、今おかれている現状を違った視点から見直してみたらどうかということではないかと思います。
われわれの人生には、自分の現状を変えたくても変えられない現状というのはいくらでもあります。自分はなにももっていない、自分は一タラントとしかあたえられていないという現状は、なかなかかえられないものであります。どんなに努力しても変えられないという現状というのがあります。重い病気におちいってしまうということもそうであるかもしれません。愛する人を亡くしたという現状はもう変えられません。イエスはそういう人々に向かって、「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがのものである」というのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke16.htm



年間第23木
ルカ6・27-38

愛というのは、報酬を求めないというのです。しかしその後、「何も当てにしないで貸してやれ、そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子になるであろう」とあります。「そうすれば受ける報いは大きく」というのです。それでは結局は報いを求めての愛かということになります。これはルカによる福音書だけにある言葉です。ルカによる福音書の教えはきわめて庶民的です。具体的という特徴があります。従って無報酬の愛などという高級な愛について語っても、やはり人に親切にすれば、また人から親切にされたいと望むことは当然なのだ、ということなのかもしれません。しかしそれにしても「何も当てにしないで貸してやれ、」といっておきながら、すぐそのあとで「そうすれば受ける報いは大きく」というのはどうしてなのでしょうか。この報いは、この場合神からの報いということではないかと思います。だからすぐ「そうすれば受ける報いは大きく」といった後、「あなたがたはいと高き者の子となる」言われるのであります。つまり「何も当てにしないで貸してやれば、神からの報いはある」だから、直接相手からの報いを当てにしないで、貸してあげなさいということです。その報いというのは、高利貸しが利息つきの返済を求めるような直接的な報いではないのです。しかしそうかと言って、愛というのは無償の愛だなどと高尚ぶることもないのです。報いを求める愛でいいのです。しかしそれは最後的には神からの報いをあてにする愛です。そのような無報酬の愛をしていれば、必ず神からの祝福があるということを確信し、またそれを期待してもいいのです。それを全く期待しないほうが、その愛は少し高ぶった愛になるのかもしれません。マタイによる福音書もまた、「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事をみておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言われているのです。ここでも天の父からの報いを求めるということ、そして天の父からの祝福を当てにするということがもっとも信仰的な姿勢なのだと言われているのです。
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「人をさばくな。」この言葉は、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」と、言われた後に、続けて言われたという形になっております。「慈悲深くなる」ということが、「人をさばかない」ということなのだということになって、考えさせられるのです。「人をさばかない」ということが、人に対して慈悲深くなるということなのだというのです。われわれは本当にすぐ人をさばきたがるものです。人をさばくということは楽しいのです。人の悪口をいうことは、われわれにとって最大のストレス解消になるくらいに楽しいものなのです。人を裁くと言うときには、なにか自分が相手よりも優位な立場に立っているような気がするからであります。自分に正義があるように思ってしまうからであります。ちょっと自分が人から悪口を言われたり、批判めいたことを言われただけで、一晩眠れない夜を過ごしたことはどなたも経験していると思います。それが相手が決してそれほど悪意がなくてもであります。その言われたことが的を得ているからであります。人からさばかれるということ、人から批判されるということがどんなにつらいことか、そしてまた人を批判することがどんなに楽しいことかということが関連づけられています。そういうわれわれが「人をさばかない」と心に決めるということは、それだけで慈悲深くなれるのです。
日本語のことわざに、「情けは人のためならず」ということわざがありますが、今日では、それは「情けは人のためにするのではない、自分のためにするのだ」という意味に誤解して使われているようですが、もちろんそうではなく、それは「情けというのは、人のためにしておけばやがていつかは自分に帰ってくるものだ、だから人に情けをかけておけば損はないのだ」という意味です。それはなんとかして、人に情けをかけることができるようにと促すことわざです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke18.htm


年間第23金
ルカ6・39-42

「弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう」と言われている。この言葉は、ここで使われますと、大変わかりにくい意味ですが、この文脈から言えば、「師」というのは、イエス・キリストのことでしょう。弟子というのは、イエスの弟子ということになります。つまり、イエス・キリストは人を裁かないかたである、そういう先生の弟子であるあなたがも人を裁いてはいけないということのようです。イエスの弟子だからと威張り腐って、人よりも上に立って、人を批判し、裁く、そういう人は盲人だというわけです。それは自分の目の中に丸太になっておりますが、要するに、自分には欠点や過ちをいくらでも犯す者であるのに、まるで自分はそんなことはないかのように思って人の目にある塵、「おがくず」になっておりますが、人の小さな欠点を重箱(じゅうばこ)の隅(すみ)をつつくようにして、ほじくり出し、批判する、それはまるで盲人が盲人を手引きするようなものだと関連付けられています。
その前に、「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、情け深い」とあり、そうして「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」という句があって、それに続いて「人をさばいてはならない。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」と、続きますから、慈悲深い父なる神によってわれわれの罪がゆるされる、その現実のなかで、われわれは始めて人の罪をさばかないということができるようになるのではないかと思います。
主イエスは、「人をさばくな」といわれましたが、律法学者・パリサイ人たち、時の権力者を真っ向から裁いているのです。イエスほど厳しく人を裁いた人はいないかもしれません。そのイエスが「人をさばくな」というのは、何か矛盾しているのでなはいかと思うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、人間の罪を最後にはご自分が担って、身代わりになってその罪に対する罰を引き受け、罰せられる覚悟があったからこそ、あれほど律法学者たちの罪を糾弾できたのではないかと思います。本当に慈悲深い者になれる時、またわれわれは人の目にあるちりを正しく取り除くことができるし、その罪を指摘し、ある時には激しく糾弾することもできるのです。親の子に対する怒り、訓練、教育は、愛があるからこそできることであるし、愛があったならば、当然それをしなければならないのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke18.htm

年間第23土
ルカ6・43-49

われわれには本当に「木はその実でわかる」のだろうか。もしそうであるならば、偽善者がこの世にはびこることはないはずです。最近、日本で繰り返し、いわゆるカルト的な宗教の詐欺行為が問題になっております。われわれからみれば、どうしてそんなつまらないことにやすやすと騙されてしまうのかと思いたくなるものです。われわれからみれば、その実がよい実かわるい実かはすぐわかると思うのにです。「その実でわかる」とイエスはいいますが、本当はわれわれにはなかなかその木がいい木であるかどうかは、ただその実をみただけではわからないのではないかと思うのです。イエスだからそう言えるのであって、われわれにはわからないのではないかと思います。
 それは偽預言者とか偽宗教の問題だけでなく、人の問題でも、その人が本当にいい人なのか悪い人なのかは、その人の言動からはわからないことが多いのではないかと思います。よほど鋭い洞察力とか、あるいは意地の悪い疑い深さをもっていないと、「木はそれぞれその実でわかる」というわけにはいかないのではないかと思います。
それではどうしたらよいか。本物と偽物を見分けるコツというようなものがあるのだろうか。
 宝石を鑑定する人の話を聞いたことがありますが、宝石を鑑定する技術をみがくためには、まず最初は本物の宝石だけを見ることに専念することが大切なのだということを聞いたことがあります。本物の宝石と偽物の宝石を前においてその違いを判別しようとしてもなかなかできるものではないというのです。そういうことをするのではなく、まず本物の宝石だけを二年なり三年なり、見続けること、それが本物と偽物を見分ける技術を身につけるコツだそうであります。
そのためにも、われわれはイエス・キリストという本物を十分見つめなければならないと思います。ただ口先だけで、「主よ、主よ」と呼ぶのではなく、本当にわかるまで見つめるのです。

24 per annum

 年間 第 24週間


 

年間 第 24月
ルカ7・1-10

どう信じるのか?

 私たちはイエスさまをどう信じるのでしょうか?
 「自分にはできない。だからイエス様にもできない」と信じるのでしょうか? そうすると、イエスさまがおっしゃった「信じたとおりになるように」という言葉は、祝福の言葉ではなく、呪いの言葉となってしまいます。そんなことなら、最初からイエスさまを信じないほうがよかったのです。
 「自分にはどうすることもできない。」これは正しいのです。しかし、ここで終わってはならないのです。「自分にはどうすることもできないけれども、イエス様には解決できる」というところに行くべきです。
 ここで注意して申し上げておかなくてはならないことは、百人隊長が、イエスさまの前に愛をもって、へりくだったことです。愛がなく、神の前にへりくだることもなく、ただ神さまを自分の意のままに操ろうとして、形だけへりくだり、「信じ」ても、意味がないということです。イエスさまが主人であり、わたしたちが僕です。この関係をひっくり返してはなりません。また、自分の欲のために神を利用しようとしてはなりません。
 聖書を読み、祈り、礼拝することなしに、神を信じるようになることはできません。まず主の僕となって、心から主を礼拝しましょう。 nibanmati


年間 第24火
ルカ7・11-17

「若者よ、私はあなたに言います。起きなさい」


私たちは、深き悲しみや罪の中で、また死を前にし、人に支えられて歩んでおります。「町の人たち(v12)」の存在は、母親にとってどれほどの支えであったことでしょう。自分の苦しみを、信頼のおける人に聴いてもらい、どれほど慰められ、勇気づけられることでしょうか。しかし、同時に、人には届かない悲しみがあることも真実なことです。本当の意味での完全な癒しと慰めは、人によるのではなく、神によることを、聖書は告げます。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。(v13)」「かわいそうに思い(v13)」との言葉は、人の存在の深みを動かす感情を意味し、新約聖書において、主イエスだけに用いられています。人には用いられていません。「泣かなくてもよい。(v13)」いのちを与える力ある言葉でした。(v14、v15)「かついでいた人たちが立ち止まった(v14)」主イエスは、棺に手をかけ、墓に向かっていた息子と悲嘆に暮れていた母親の道を留められました。そして「起きなさい。」と告げられ、死んでいた息子が生き返り、同じく絶望に死んでいたとも言える母親のところに息子を返し、母親をも生き返らせたのです。


息子が生き返ったことは、旧約聖書に約束された救い主の徴でした。(7:22~23参照、v16→1:68、79参照)v13で「主(v13)」と記しています。主イエスは、人間の罪の悲しみを深く悲しみ、その罪を背負い、身代わりに十字架に架かり、神の裁きを受け、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えて下さる「いのちの主」です。主イエスは、人生の不条理で悲嘆に暮れている私たちを真に慰め生き返らせて下さいます。また、私たちの家族、共同体の関係を回復へ導いて下さいます。主イエスは、失った息子を母親に返されました。(①前の箇所、ローマの百人隊長とその僕の関係が元に戻ったことを記す②「救いがこの家に(ルカ19:9)」③「あなたもあなたの家族も(使徒16:31)」)主イエスは、その人を罪から救うだけではなく、その人の属する共同体に回復を与えられます。神なしでは、私たちの崩れた関係は、崩れていく一方ではないでしょうか。墓に向かっていく道に進んでいくだけではないでしょうか。しかし、そこに神の救いの働きがなされるとき、立ち止まり(v14)、癒されていくのです。そして、私たちはやがて肉体の死を迎えますが、死は決して絶望ではなく、主イエスが死に打ち勝ち、復活されたように、私たちを、神のもとへ、完全な慰めの場である天の御国へと導き入れて下さるのです。

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私たちの信仰、愛、希望、感謝の心、暖かい思いやりなどは、時々新鮮さを失い、古くなったり眠ったり、あるいはまったく死んでしまうときがあります。「若者よ、起きなさい」ということは、若々しい姿で再び立ち上がりなさい、ということでしょう。病気になり、死に、もう冷たくなっていても、イエス様のみ言葉は、いつも私たちの心に呼びかけているのです。もう一度暖かい心、みずみずしい心、新鮮ではつらつとした信仰、愛を取り戻しなさい、と命じてくださるのです。
 そしてその命令は、たんなる言葉だけでなく、実際に私の内に力を与えて、立ち上がる勇気を湧き出させてくださるのです。私たちが立ち上がろうとさえすれば、冷たくなっていた体に温かい血が流れ始め、起き上がって愛を語れるようになります。神と人、人と人との間に、血の通った関係を取り戻すことができるのです。
 いつも古びない信仰、希望、愛を持つために、まずイエス様の呼びかけに耳を傾けましょう。

一時期死を延ばされた人は、私たちへのしるしとなります。実は私たちも毎日毎日死んで、毎日毎日神によって延命されている身であることを、わからせるためです。
 命はもともと私のものではなく、神からの預かりものであることを悟らせるためでしょう。それは毎日の命が、けっしてあたりまえの命ではなく、毎日毎日失われていく、かけがえのない大切なものなのだ、ということを教えるためでしょう。死ぬことがなければ人間はけっして命の大切さなどに気づかないでしょうから。

人は確かに死を恐れます。死を恐れない人はいないでしょう。しかしまた、あくまでも死が確実であるからこそ、残された生を大切にできるのです。もし死ななくなれば、生の意味も失われてしまいます。死刑判決を受けた人にとって、残された生涯がいとおしく、輝いて見えるように、死で終わるものであるからこそ、今の生がはかなくとも美しいものなのでしょう。ダラダラと続く終わりのない生は、刑罰ではあっても、けっして生き生きとしたものになりません。失われるものであるからこそ、価値があるのです。

実は私たち人間がすべて、このもろい生と命を大切にするようにと、呼びかけられている死刑囚なのです。
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人は人生で三回泣く。一回目は母の胎内を出る時、二回目は愛する人を失った時、最後はこの世と別れる時だ』と言われます。また人生には三度と言わず、涙の谷とも呼ぶべきだとも言われます。詩編42編には「昼も夜もわたしの糧は涙ばかり」(4節)という言葉がありますが、涙ばかりを糧とす
るような、身を切られるような痛みを伴う悲しい別れが人生には確かにあるのです。
そのような中で、キリストの言葉が響いてくる。「もう泣かなくともよいのだ」と。ここに「もう泣かなくともよい」と言って、涙をぬぐい取ってくださるお方がいる。このお方ご自身、十字架という涙の谷を味わい尽くしたお方です。人々の苦しみや悲しみを深い憐れみをもってご自身のはらわたで受け止めてくださるお方です。そして、実はこのキリストの奇跡は、2000年前のあの時だけではなく、2000年の歴史を越えて、ずっと実現し続けてきたと教会は告白してきたのだと思います。「キリストのからだ」である教会を通して、キリストは今もこの地上で生きて働いておられるのです。キリストのあわれみのみ業を実現することは、キリストに従う者の使命でもあります。キリストは、このような小さき者をも用いるほど憐れみに充ちておられるということです。
 キリストの愛と憐れみが私たちを捉える時、そこに不思議な出来事が起こる。死の力によっても打ち砕かれることのないキリストのいのちに生きることが可能となるのです。  「もう泣かなくともよい」と言ってくださるお方が私たち一人ひとりの新しい一一日の歩みを守られるようお祈りいたします。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/59.htm
日々、命を与えてくださる主に、感謝と賛美を捧げることができますように。

年間 第24水
ルカ7・31-35

今日の福音書は見事に現代をも捉えています。現代の人々は、感動を失っている、なにごとにも感動しようとしない、白けているのです。
 しかし一方で、何事にも感動しない人生、何事も醒めていて、ある一定の距離をおいて生きていく生き方というものがどんなにつまらないものかとも思います。それよりは、一生のうち一度も騙されない人生を歩んで、白けた人生を歩むよりは、それよりは、一度くらい騙(だま)されてもいい、何ものかに心をゆさぶられて、自分の全存在をそれに賭けるくらいの人生のほうが楽しいではないか、豊かではないかという気もするのです。
イエス・キリストを本当の救い主として、今われわれは自分の全存在を賭けてイエスに従っている、従っていこうとしている、その用意と覚悟をしている、そういうわれわれによって、イエス・キリストの笛によって踊ったことが本当によかったのだと今われわれはこの世に証しをしなくてはならないのです。 http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke22.htm



年間 第24木
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」
ルカ7・36-50

「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」といわれると、私たちは人を愛するためには、できるだけ沢山の罪を犯したほうが、愛がわかるんだとイエスは言っているのではないかと思わないでしょうか。みなこの罪ある女のように悪いことをたくさんしないとイエスを愛せないし、あるいは神の愛も受けられないということなのでしょうか。
沢山の罪を積み重ねたからといって、神の愛がわかるわけではないのです。罪をたくさん犯せば犯すほど、罪に対しては鈍感になるだけではないでしょうか。従ってどんなに罪が赦されてもひとつもそれについて感動もしなければ、感謝もせず、ただ(うまくいったぞ)しめたもうけものをしたという程度にしか思わないのです。沢山の罪をおかせば、罪に対して鈍感になるだけです。従って罪が無条件に赦されれば赦されるほど、しめたもうけものをしたと、罪の赦しに対しても鈍感になるだけです。問題は罪の量の多さではないのです。罪の自覚の深さの問題です。
「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と、愛という言葉をイエスは使っているのです。ここはむしろ感謝という言葉のほうがふさわしい気がするのです。しかしイエスは愛という言葉を使っているのです。イエスがお考えになっている愛、そして聖書の示す愛というのは、罪が赦されたということから始まるものだということなのです。愛は単なる親切ではない。単なるボランティア活動ではない。ましてファリサイ派の人々や律法学
者たちが示すような律法を満たすような意味での愛ではない。自分の罪を深く自覚し、その罪がイエス・キリストによって赦され、神によって赦された、そのことから出てくる生き方、それが愛なのだということです。それ以外の愛は愛ではないのだと言うぐらいです。それはパウロが語るように、どんなに自分の全財産を人にほどこし、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である、と言われている愛、つまり罪赦されたということから出る愛でなければ、どんなに全財産を人に施し、自分を犠牲にしても、信仰があったとしても、それは愛にはならないということです。罪赦された者の愛、それ以外の愛は、パウロがいう「愛は寛容であり、情け深い、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない」という愛にはならないということです。
愛は自分の罪に対する深い自覚と、その罪が神によって赦されたということから始まるのです。今日はこのことについて黙想しましょう。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke23.htm
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親鸞の有名な言葉がある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をば」、善人も往生(おうじょう 極楽浄土に生まれ変わること)できるのだから、悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象となることを説きました。

この教えの背景には、次のような浄土真宗の独自の理解があります。
人間の行う「善行」ですら本質的には不完全であり、真の意味での善人はいないと考えました。つまり、自分を「善人」と考えている者であっても、その善行は自己中心的であり、完全に純粋なものではないという認識です。逆に、自分を「悪人」と自覚している者こそ、自分の力では救われないことを認め、阿弥陀仏に救いを求めることができるのです。
この逆説的な教えは、当時の厳しい仏教的な修行や戒律に頼る救いの道に対して、親鸞が新たに提唱したものです。

また、マルチン・ルターは、「大胆に罪を犯せ、しかし、それ以上に大胆に信じ、キリストにおいて喜びなさい(pecca fortiter sed fortius fide et gaude in Christo)」と言いました。パウロは、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書いています。人は、神のあわれみが及ばないほどに不従順であること
はできない。だから、やってごらん。恐れる必要はない。臆病であってはならない。ルターが言ったように、「大胆に罪を犯してみよ」----そしてどれほど大きなあわれみを神から求められるか見るがいい。しかしもし神の慈悲のゆえに、罪を肯定するのであれば、神の慈悲を悪用することですから、誤解を招きやすい、危険になります。



年間 第24金
ルカ8・1-3

私たちは現代に生きていますし、それも現代の教会に生きていますから、こういう記述にさほど違和感を感じずに読んでしまうかもしれません。しかし、少し前までは、男女の席が決まっていることはよくありました。私の子供の頃育った教会も、礼拝堂の右側に男性が座り、左側に女性が座っていました。日本でもそうだったという話を聞いたことがあります。それは教会の信仰に基づく決まりではなく、かつての日本の儒教的な教育の影響でしょう。今は、男女が渾然一体となっています。この方がキリストの教会らしいことは言うまでもありません。
イエス様の時代のユダヤ人社会においては、成人男子と女や子どもとでは画然とした違いがありました。神殿の造りも、成人男子の庭には女や子どもは入れませんでした。律法学者、民の長老、祭司長という社会の上層にいる人々は皆男です。そして、ラビと呼ばれる律法学者の弟子たちも皆男です。女はいません。
 そういう男中心のユダヤ人社会、あるいは「この世」の中に、イエス様は「神の国が到来した」ことを告げるのです。それは、非常に過激というか、激烈なことです。まさに古い革袋の中に、新しいぶどう酒が注ぎ込まれてくるようなことだからです。権力を持った男たちが、そんなことを許すはずもありません。拒絶するのは当然のことです。
イエス様と「一緒に」いたのはあの「十二人」だけではなく多くの「婦人たち」もいたという、ことが当時の社会の中でどれほど常識外れのことであるかは、お分かりいただけると思います。婦人たちがいる。彼女らはそれぞれの持ち物を提供しあって、主イエスと弟子たちの一行に奉仕をしていました。この現実の中に既に、神の国とは何であるかが明らかにされているのです。
七」は完全数ですから、手の施しようがないほど心身の障碍(しょうがい)、あるいは病魔に襲われていたのだと思います。「悪霊」とは神様に敵対する力です。だから、マリアはその力に完全に支配されている罪深い女、ということにもなります。祭司だとか律法学者たちは、尚更彼女をそういう罪人として見たはずです。そして、救いようがないと見たのです。しかし、イエス様は断固として彼女をかばい、弟子の一人として接します。
このマリアに対して、ヨハナは、全く対極にある女性だと思います。彼女はガリラヤの領主ヘロデの家令の妻です。高級官僚の妻です。
 マリアとは生涯顔を合わせるはずもない女性です。仕を捧げているのです。スサンナはここにしか出てきませんし、どういう女性かは分かりません。マグダラのマリアとヨハナ、この二人はイエス様と一緒にいる女性たちの代表でしょう。しかし、その二人はこの世ではとても一緒にいるような人たちではありません。ただ、主イエスにおいてのみ一緒におり、共に奉仕を捧げることが出来る女性たちなのです。
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昔からマグダラのマリアは、売春婦であったと言われてきました。べつに根拠があったわけではありませんが、七つの悪霊を持っていたということからには、きっと売春をしていたにちがいないと考えられたからです。
 七つという数は、完全さを表しています。(「七福神」参照)。ですから、完全に悪霊に取りつかれていたか、あるいは本当に七つの悪霊にとらえられていたのでしょうか。つまり神と人間のかかわりを、あらゆる方法で壊そうとする悪の勢力のことです。
 もちろんその中に売春が入っていなかったとは言えませんが、もっと精神的な罪だった可能性もあります。本物の神を差し置いて迷信に走ったとか、偶像崇拝に走ったこと(旧約聖書では、偶像崇拝を姦淫と呼んでいます)とも考えられます。もしかしたら神に向かうべき情熱が七つの迷信、七つの偶像に向けられたのかもしれません。多神教は、それぞれ神が分業していて、商売繁盛は○○の神、縁結びは○○の神、というふうにたくさんの神仏を拝まないと、罰が当たってしまうのです。
 しかしマリアはイエス様に出会い、それを通して天の御父への愛に目覚め、七つの迷信から解放されたのです。売春婦だったというのは、長年のぬれぎぬかもしれないのです。しかしたとえ売春婦であったとしても、七つの悪霊にとりつかれていたマリアが、初代婦人会会長(!?)になれたのは、周りの人々が寛大だった「からでしょう。
 もちろん悪にたけた人が回心した場合、善に向かう力も強いものです。しかし下手すると、人にもそれを要求し、つまり自分の体験をふりかざして、超善人になってしまう危険性もあります。自分の過去に悪におしつぶされることもなく、それをひそかに誇ることもなく、また回心したことを見せびらかして、回心していない人々を裁くこともなく、つねに謙虚に会長の務めを果たすことこそ、マリアの回心の最も美しい実りであり、またもっともむずかしい課題だったのでしょう。
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イエスさまは、その宣教活動の多くを旅の生活として過ごされました。それは「放浪(ほうろう)の旅」と言ってよいもので、その厳しさを「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と述懐されたこともありました。ここからは、旅の道すがら、あるいは野宿の朝、野原の狐や空の鳥を眺めながら、ご自分の旅の厳しさを思い巡らしたイエスさまの姿がしのばれます。ところで、イエスさま一行はどのようにして収入を得ていたのでしょう? 旅を続けうる経済的後ろ盾は何だったのでしょう? それは、ただ人々の施しにだけ支えられる旅でした。」。「七つの悪霊」とはさまざまな病気を抱えていた状態を表しているのでしょう。病気をいやされイエスの一行に加わった女性たちは「奉仕していた」と言われますが、単なる身辺(しんぺん)の世話係というよりも、女性の弟子たちと言ったら良さそうです。どの福音書もイエスの十字架上での死と埋葬を見届け、3日目の朝、空(から)の墓を見つけた女性たちのことを伝えています。彼女たちの多くは、農夫や漁師のおかみさんたちでした。

 一方、農家のおかみさんたちには、こう呼びかけられます。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」(28~30節)

 当時の農家のおかみさんは一体何枚服を持っていたでしょう? 着飾ったり化粧をしたりすることは、一生のうち何回あったでしょう? 「衣服のことで思い悩む。」これはデートのときに何を着ようか、といった現代の「悩み」とは対極にあるものです。
 さて、イエスさまは、こうしたおかみさんに、ひたすら我慢せよ。今与えられているもので充分ではないか、と教えておられるのでしょうか? 私にはそのようには思えません。そうではなく、イエスさまは、ご自身、農夫やおかみさんと同じ生活をしながら、いやそれよりも厳しい放浪の旅をしながら、人間として貧しいながらも生きる上でもっとも大切なこと、すなわち神さまを信頼することを呼びかけられたのです。
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七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアを筆頭に、婦人たちは、イエスに癒していただいた感謝と喜びの心から、イエスの福音宣教の旅に付き従い、一行に奉仕していました。
第一朗読でパウロは力強くキリストの復活をといています。復活信仰こそ私たちの根本的な恐れを癒します。このように、イエスが私にしてくださったことをより深く悟るなら、イエスに従う旅の辛さも乗り越えることができるでしょう。
主よ、私を罪の闇から救われた、あなたの慈しみをより深く悟らせてください。その感謝と喜びを、
日々の奉仕の中で生きることができますように。 sese


年間 第24土
ルカ8・4-15

種を蒔く人は始めから道ばたに種を蒔く人はいないでしょう。岩にいばらに蒔く人はいないでしょう。蒔く人はもちろん良い地に蒔こうとして蒔くのです。しかし蒔いているうちに風に吹かれてほかの地に行ってしまったということでしょう。
イエスが伝えようとした福音が決してすぐさま人に受け入れられるものではないというイエスの予測というか覚悟とい
うか、警告というものなのかも知れません。それはなぜか、イエス・キリストのなさった福音宣教のやりかたが基本的には言葉による宣教だからです。
言葉による宣教・告知というのは、それを聞く人の態度によって大きく左右されるということなのです。言葉は言葉自体のもつ力というものがありますが、しかしこちらがどんなに言葉を発しても、聞く相手が聞く耳をもっていないならば、それは有効に働かないということです。
言葉というものは、力づくで相手に何かを押し付けることは簡単にできるものではない。こればかりは大事だ、良い心でしっかりと聞き、守らないと聞き手のものにならないというところがあります。ですから、イエスのとられた宣教方式、それは今日われわれの教会が受け継いでいる、宣教のやりかた、説教を中心とした宣教のやりかたは、聞き手の対応に、聞き手の自由に左右されるということです。つまりそれは心の暴力というべき洗脳というようなやりかたではなく、これは極めて人格的なやりかたであるということです。人格的であるということは、相手の立場を無視してむりやりに押しつけるものではないからです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリ1:18-21 )
 
 

25 per annum pari

年間第 25月
ルカ8・16-18

「どう聞くべきかに注意しなさい」とイエスは言われます。神のことばをどのように聴くかに、「ともし火」のようになれるかどうかがかかっています。へりくだって神のことばに耳を傾ける時、私たちは主の道を悟り、歩むことが出来るようになります。草原の動物たちは、より大きな動物に襲われないよう耳を澄まします。私たちも、全身で神の想いを聴くことができますように。sese06


年間第25火
ルカ8・19-21

12歳の主イエスが両親の心配をよそに神殿に残り,神についての話を聞き,質問している。必死で探し回って主を見つけた両親が,「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」,ととがめるようにして言うと,主はおっしゃる,「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを,知らなかったのですか」。人間の親であれば当然するであろう反応が,主イエスの前にはどうも通じないようなのです。何か普通の子供,ふつうの人間にはない,特別なことが,この人の身の上には起こっている,それが何なのかは分からないけれども,とにかく家族があれこれちょっかいを出すべきことではないようだ,そういったことを家族は感じ取っていただろうと思うのです。それがルカがマリアについてたびたび記している言葉です,「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。主がお生まれになった時,この乳飲み子を拝みに来た羊飼いたちが天使たちのお告げがあったことを語った時も,「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた」(2:19)のです。主イエスのことを兄弟たちが心配したり,その行っていることを気味悪がったりする時,母マリアは今は静かに見守るように兄弟たちを諭し導いていたのではないでしょうか。主イエスとその家族たちとの間には,つかず離れずの関係があったのではないでしょうか。家族であるには違いないけれども,この人は家族以上の関係を,この地上にもたらそうとして来ておられる。それが何なのかは今ははっきり分からないけれども,とにかく主イエスがなしていることを今は邪魔せずに静かに見守らなければならない。それが,この家族たちの中にできていた暗黙の了解だったように感じられるのです。

戦国時代にあらわれた孟子においては、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親[注釈 1]や年長者[注釈 2]に対する親愛・敬愛[注釈 3]を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した[2]。
父子の親
父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。
君臣の義
君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
夫婦の別
夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる[注釈 4]。
長幼の序
年少者は年長者を敬い、したがわなければならない[注釈 5]。
朋友の信
友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。
孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした[2]。なお、『中庸』ではこれを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としている[1]。
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なぜイエスはこの時わざわざご自分の肉親に対して冷たいとも思われる態度を示したのでしょうか。イエスはやはり特別な使命をもった存在なのであって、人間的な血のつながりとか人間的な情で、イエスを動かそうということであってはならないということです。イエスはそうした狭い関係に閉じこめてはならないのであって、「神の御言葉を聞いて行う者こそ、あるいは神のみ心を行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのだ」ということです。イエスは肉と言うつながりの家族関係をここで一度否定して、新しい家族関係を造ろうとされたということができると思います。それはなぜかというと、血のつながりという家族関係というのは、自分を守る、自分だけを守るということ、自分の一族だけを守るという人間の利己的な集団になりがちだからです。ある意味では、自分を捨てるためには、あの甘いぬくもりになりがちな家族関係を切り捨てなくてはならないのです。
   家族に対する感情は、やはり家族の人びとに限られていて、すべての人に施すわけにいかない、ということは解らない人がいるだろうか。本能的なものです。それは文明のもたらしたもののかげに奇妙に隠されているが、依然として残っている。生来的に私たちは直接に愛するのは、やはり身内の者や同国人であって、人類愛は間接的なもの後天的なものにすぎない。両者のちがいは本性上のちがいであって、単なる程度の差ではない。人類へは回り道をしなければならない。キリスト教は人類を愛せよと呼びかけているのは、神を通して、神においてだけである。
 確かに、他人の生命、財産を尊重する義務は社会生活の基本だと思われる。そして、健全な宗教は、その義務に神聖な重みを与える。ところが、社会自体がこのような基本的な義務を停止するときもあるのではないかとベルグソン(『道徳と宗教の二源泉』)は指摘しています。裏切り、欺瞞はもとより、殺人や略奪でさえもゆるされるばかりでなく、何と手柄になる。これは、戦争の状態ですが、たとえば経済というのもきれいごとではすまない。企業どおしの競争においてもルールは停止されることがある。ですから、隣人愛や人類愛は、やはり「神のことばを聞いて行う者」が必要になってくるのです。

拙論、「神の存在を知る道」(6)、英知大学キリスト教文化研究所紀要、第16巻、2001年参照。






年間第25水
ルカ9・1-6


この箇所を読む時に少しとまどうことがあります。それはこの弟子達がどうして福音を宣べ伝える資格があるのだろうかということなのです。彼らはイエスの十字架を前にしてみなイエスを裏切り、そこから逃げた弟子達です。そういう弟子達に果たして福音というものが宣べ伝える資格があるのだろうかという疑問です。挫折を経験し、イエスの十字架と復活を知らされ、復活の主イエスにお会いし、聖霊を与えられた弟子たちならば、分かります。しかしこの時の弟子達はまだそういう挫折を経験してないのです。十字架という、福音のもっとも中心的な場に立っていない弟子達によって、どうして福音が宣べ伝えられるのだろうか。
これはいわば、教会生活の経験のまだ浅い、求道者によって福音の伝道がなされるということです。
 しかしイエスはそのことは十分承知していたのではないかと思います。マタイによる福音書では、弟子を派遣するときに、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものだ。だからへびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われているのです。イエスのほうでは弟子達の挫折は十分予測はしているのです。それでもあえてここで弟子達を、自分から離して弟子達だけを伝道に派遣しているのです。
福音を宣べ伝える人間はどうでもいいのかと言えばもちろんそんことはないことは明らかです。福音は宣べ伝える人間の資質とかその方法によって、福音がゆがめられてしまうということはいくらでもあります。ただ神のみを信頼して、この世のもの、お金とか、そういうものに頼って福音宣教するなと
いうことです。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke29.htm
「下着は二枚持って行くな。」着の身着のままで行け。あとはすべて主にゆだねよ」。私たちも、今日、それぞれの家庭に、学校に、職場に派遣されています。私たちに働く悪霊はどのような霊でしょうか?私たちの癒すべき病気は何でしょうか?私たちが無力なことを神は御存知です。神が私たちを通して、その愛を表わされますように祈りましょう。
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dispari

今日の聖書箇所、エズラ記9章5~9節とルカ9章1~6節には、私たちにとって大切な二つの教えが示されています。それは、「悔い改め」と「神への信頼」です。

まず、エズラ記です。イスラエルの民は、神の掟に背き、異邦人との結婚などで神との契約を乱してしまいました。その現実を前に、エズラは民を代表して神の前に跪き、心から悔い改めます。「神よ、私たちは本当に罪深い者です」と、率直に告白するのです。ここに示されるのは、自分たちの弱さを認め、神の助けに依存する姿勢です。私たちも、日々の生活で自分の失敗や弱さを認めることから、神との関係を深めることが始まります。

次に、ルカ9章です。イエスは弟子たちに権威を与え、宣教の旅に送り出します。弟子たちは荷物を持たず、恐れずに神の導きに従います。ここでは、神への完全な信頼と行動が示されています。悔い改めたあとは、単に自分を責めるだけでなく、神の使命に従い、具体的な行動に移すことが大切です。

両者を比べると、共通するテーマが見えてきます。それは、神に信頼し、恐れずに使命を生きることです。エズラは悔い改めによって心を神に向け、弟子たちは行動によって神の国を広げました。悔い改めと行動、心と体が一つに合わさってこそ、信仰は生きたものとなります。

さらに、この二つの場面は、共同体の中での責任も示しています。エズラは民全体の罪を代表して神に告白しました。弟子たちも共同で宣教の旅に出ます。信仰は個人の内面だけのものではなく、家族や地域社会、教会全体に生きるものです。私たちも、悔い改めと行動を通して、周りの人々に神の愛を届けることが求められています。

結びに、今日のメッセージを一つにまとめるとこうなります。
**「悔い改めて神に信頼し、恐れずに与えられた使命を果たす」**こと。
エズラの祈りと、弟子たちの旅路は、私たちに信仰と行動の両立を教えてくれます。

皆さんも、この一週間、悔い改めと信頼をもって、神に従う歩みを一歩一歩進めていきましょう。




年間第25 木
ルカ9・7-9

イエスの到来の準備をした洗礼者ヨハネを不当な理由で殺してしまった領主ヘロデはこのイエスは洗礼者ヨハネのよみがえりだといううわさを聞いて、おびえたというのです(新共同訳では「戸惑った」となっていますが、ギリシア語のdiaporeoを参照)。領主ですから、その一帯ではもっとも権力をもっていた筈です。しかし彼は「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人はいったいだれなのだろう」と、おびえていた(diaporeo)というのです。彼は権力はもってはおりましたが、落ち着きがない、せっかくの権力を楽しめないということです。自分の犯した罪におびえていたのです。良心の声に、神の力に対抗する力はないのです。
私たちにもこの世の権力者を恐れる傾向があります。世間の評判を恐れ、人間関係において苦手な人の「力」を恐れたりします。けれども、権力のある人も人間ですから、それなりの弱み、悩みを持っています。いくら権力を持っていても、やはり神に勝てません。ですから、人間を恐れるよりも、神を畏れるべきだということを学んでおきたいと思います。

年間第25 金
ルカ9・18-22

ペトロは「神のメシア(キリスト)です」と告白しました。それに対してイエスはこの事は誰にもいうなと言われた後、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」と言われるのです。ペトロが「神のメシア(キリスト)です」と言ったのに対してイエスはご自分ののことを「神のキリスト」とは言わないで、「人の子は」と言っていることが大事なことなのだと、学者が指摘しております。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日目によみがえる」とイエスは言われるのです。「わたしは確かに、神の、神から派遣されたキリストだ、救い主だ。しかしその神から派遣されたわたしは人間として、人間の罪を担って、ひとりの人間として、罪人のように辱めを受けて、十字架で殺されることになるのだ」と言われたのです。これはパンの奇跡を通して人々が期待していたメシアとは全く異なるメシアの姿です。それは弟子達が、ペトロが期待していたメシア像とも違うものだったのです。
ここにイエス様の弟子たちに対する教育の姿勢、つまり勘違いを乗り越えて粘り強く弟子達を導く姿勢を、見て取ることができます。私たちもこういう教育に預かりたいと思います。実を言うと、こうやって私たちは毎日みことばを聴くことによって、イエス様のこういうきめの細かい教育を受けているのです。今日は感謝したいと思います。


年間第25 土
ルカ9・43b-45


悪霊を追い出し、病人を癒されるイエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われます。捕らえられ死刑になることの意味は弟子たちには分かりませんでいた。強いメシアを期待し、想像していたから怖くて質問もできませんでした。そして、イエスの死が、大切な息子を捧げる父なる神とイエスの愛のしるしであることも分かりませんでした。私たちのために命を捧げられたイエスの愛を心に深く刻むことが出来ますように。sese06
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今この瞬間にも、私たちの周りで、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」大きな政治権力のもとで、強い会社組織の中で、脆(もろ)い生活の場で、屠り場にひかれる羊のように。日常生活でも誰か犠牲者にされる場面は結構あります。「スケープゴート(身代わりの山羊)メカニズム」(R. Girard)が社会生活の基礎にあるといわれています。「十字架につけろ」と叫ぶ群集は、現実を知ろうとはせず、無関心を装(よそ)い、自分の殻だけを守りながら生きていく。イエスの言葉が理解できない弟子たちは、
わたしでもある。
主よ、「名ばかりの弟子」ではなく、あなたの言葉をよく聴くことができる弟子にしてください。
 

26 per annum pari

年間第26月

ルカ9・46-50

遊び疲れたのだろうか、親の腕の中でぐっすりと眠っている子どもを見かけることがある。
全てを親に委ねきった子どもの姿がある。自分の能力や努力に重きを置くと、
そこには絶えず人との比較がつきまとう。我意ではなく、神の思いに重心を移してみよう。
腕を広げて待っている、慈しみ深い父である神の姿が見えてくる。

年間 26火
ルカ9・51-56

キリストの弟子はキリストに従う歩みの中で反対、無理解、あるいは無関心に出会うことがあります。そのとき、キリストのように迫害者をゆるすように戒めています。神様を信じないと、キリスト教を信じないと呪われるぞと脅して福音を宣べ伝えるのではないということです。
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イエスを歓迎しなかった村を、弟子たちは罰しようともちかけます。しかし、イエスはそのような弟子たちを戒められました。なぜでしょうか。イエスは、人々が自由にイエスを選ぶことを望まれたのではないでしょうか。サマリアの人々がイエスを迎えなかったのは、イエスを選び、信じるための時が熟していなかったからではないでしょうか。その時を決めることができるのは、神だけです。
イエスはそのことを弟子たちに諭したのではないでしょうか。わたしたちは、自分と違う意見を持った人に対して、相手の意見を変えようとあせることがないでしょうか。人の心を変えられるのは神だけです。誰かを説得しようとするよりも、その人のために祈り、神の時に委ねることができますように。sese
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弟子のヤコブとヨハネはとんでもないことをいったのです。これもまた党派性、自分たちの仲
間だけが偉いんだという党派性むきだしの思いであります。現代風に言えば「原理主義」といったところであろうか。
ヤコブもヨハネもあの山の上での神秘的な出来事を経験した者たちであります(主の変容)。宗教的神秘的な体験しても俗っぽい人間のままです。
 それに対してイエスは、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方である」といい、またサマリヤの村を焼き払いましょうかというヨハネとヤコブを叱ったのです。イエスはますます「不信仰で曲がった時代にいつまで我慢できようか」という嘆きを強くもったのではないかと思います。 
 そうした中でイエスは天にあげられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられたというのであります。イエスがどんな思いで十字架の道を歩もうとされたかがわかるのです。 http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke32.htm
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disperi 2025

聖書箇所の要点

ゼカリヤ 8・20-23
• 多くの民と強い国々が「万軍の主を尋ねるために」エルサレムに来る。
• 異邦人たちは「神があなたがたと共におられる」と見て、ユダヤ人に従って主を求める。
➡ 神の救いはイスラエルにとどまらず、すべての国民に開かれている。

ルカ 9・51-56
• イエスはエルサレムに向かう決意を固める。
• サマリア人の村はイエスを受け入れない。
• ヤコブとヨハネは天から火を呼んで滅ぼそうと願うが、イエスは叱責する。
➡ 神の計画は拒絶に直面しても暴力ではなく、忍耐と十字架を通して実現する。


🔹 ホミリアの展開

1. 神の普遍的な招き

ゼカリヤは、救いが全人類に及ぶという希望を語ります。
「われわれも一緒に行こう。神があなたがたと共におられるからだ」と言って諸国の民がエルサレムに押し寄せる光景は、神が人を排除せず、むしろ全てを招いておられる姿を映し出します。

2. 招きへの人間の抵抗

しかしルカ福音書では、イエスがその救いの実現のためにエルサレムへと歩まれる途中で、サマリア人たちは拒絶します。
神の愛と招きは開かれているのに、人間の心は閉ざされることがある。

3. 人間の自然な反応と神の道

弟子たちは拒絶に対して怒り、裁きを望みます。しかしイエスはそれを退けます。
神の国は「報復」ではなく「忍耐と慈しみ」によって広がるのです。
ゼカリヤのビジョンは「国々が引き寄せられる」ものであり、イエスはその成就のために暴力を用いず、十字架による徹底した愛を選ばれます。

4. 今日の私たちへのメッセージ
• 排除か、招きか:私たちは人を閉め出すのか、それとも共に神を探し求めようとするのか。
• 報復か、忍耐か:自分が拒絶や不理解を受けたとき、弟子たちのように「火を下せ」と願ってしまわないか。
• 証しの力:ゼカリヤが描いたように、人々を引き寄せるのは「神が共におられる」という証しであり、それは愛と忍耐に生きる私たちの姿を通して現れます。


🔹 まとめの一言

ゼカリヤの預言は、すべての国々が神に引き寄せられるという壮大なビジョンを示しました。
イエスはその道を、暴力ではなく十字架の愛によって歩まれました。
私たちも今日、人を排除せず、報復を選ばず、むしろ「神が共におられる」という証しを生きることで、この預言の実現に参与していきましょう。



年間26水
ルカ9・57-62


 “弟子”と言うと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか? 私は真っ先に、“職人の世界”を思い浮かべました。大工であったり、伝統工芸であったり、いたまえ、何かを作る職人の世界では、それを始めようと思ったら、まずその道の棟梁(とうりょう)や師匠に弟子入りすることが多いと思います。そこで棟梁や師匠に、その道の技術と心を厳しくたたき込まれる。習い覚える。そうやって段々と成長し、一人前になって行く。そして、独り立ちしても、棟梁、師匠を仰ぎながら、その教えを心に刻(きざ)んで、その道を歩き続けていくのだと思います。そう言えば、茶道(さどう)や華道(かどう)でも、お弟子さんと言いますね。料理の世界で、どこかの店で修業することも“弟子”だと言って良いでしょう。

だから、自分はこの職場に、この家庭に、この学校に、この修道院に、この教会に “ここに”置かれた。神さまのご計画によって、この人生に召されたと信じて、自分の生活を引き受ける。自分の問題や悩みも引き受ける。目をそらさない。逃げない。投げ出さない。人のせいにしない。神さまが共にいて、私を支え、導いてくださると信じて生きる。それが、イエスさまに従う弟子の道だと思います。
 「わたしに従いなさい」。イエスさまは、私たちを弟子に招かれます。既に洗礼を受けている者も、繰り返し御言葉を通して招かれます。その声を心に受け止めて、“私はイエスさまの弟子だ”という感謝と誇りを持って、この道を歩いて行きましょう。
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私たちは「イエスに従います」と祈りつつ生活しています。しかし、都合が悪くなると自分の穴に入ってしまいます。イエスの呼びかけが解かっていても、「これがすんでから」「このことが納得できたら」と、その呼びかけの瞬間を大切に扱いません。この世の思い煩いや過去へのこだわりは、神の国を遠ざけてしまいます。
主よ、常に私たちに使命を示し、呼びかけておられるイエスの声に敏感になるようにしてください。「今」を大切に生きる真の知恵と恵みをお与えください。sese
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イエスは「私に従いなさい」と呼びかけています。今日の福音ではこの呼びかけに対して、様々な人が違う形で答えています。私の答えはどうでしょう。私はイエスにどのように従いたいのでしょうか。
イエスに従うことを後にしているのでしょうか。それとも、イエスの招きにすぐ応えているのでしょうか。イエスに従うということは、ある特別な時のことではなく、日常生活の中での人との関わりや一瞬一瞬の自分の決断において行うべきことでしょう。そのためにも常に祈りを通して、イエスとつながっていることが必要でしょう。
神の国にふさわしい人になるために、いつもイエスの呼びかけを優先し、忠実に従うことができる恵みを願いましょう。sese

年間26木
ルカ10・1-12

「途中でだれにも挨拶するな」と命じておられる。一見奇妙なこの命令は、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行から、たとえばキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうよなことを含んでいたと考えると理解しやすい。この命令は身の安全のために使命の緊急性を忘れるなという意味になる。これは目的地につくことに専念しなさいということだそうです。当時の社会ではあいさつするには一定の流儀というものがあったらしくて、そこでいたずらに時間をとるなということのようであります。あるいはあまり八方美人的になるなということかもしれません。
イエスが私に言われる、「行きなさい」と。私の背中をプッシュして。神の国のメッセージを伝えなさい、と。何を伝えるか、イエスが決めておられるようだ。私は、導かれるままに、導かれるところで、人に出会い、平和を願って語ろう。
あなたの望まれるところに私を遣わし、いつも共にいてください。sese
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イエスは今日の福音箇所で72人の弟子を派遣します。同じように私たちキリスト者も皆、福音を告げ知らせるためにキリストによって派遣されています。特に現代では、信徒が派遣の使命を果たすことに大きな期待がかけられています。福音宣教のために第一に必要なのは、すべての人に対する御父の愛を伝えたいという望みでしょう。そのために私たち自身が御父の愛に信頼している心の平和を保っていることが必要です。
今日、召し出しのために祈り、キリスト者皆がイエスから受けた福音宣教のミッションを喜んで生きる恵みを願いましょう。sese

年間26金
ルカ10・13-16
今日のイエスの言葉はいつになく厳しい。神の愛を受け入れない頑なさを戒める言葉である。
一体何を、なぜそれほどに、イエスは執拗に伝えようとしたのだろうか想像してみよう。
「お前は不幸だ」と言って嘆かれる主イエスの前に立つ。神の恵みに気づかないのは不幸だ、と聞こえてくる。呼びかけに応えて生きているかどうか、今歩んでいる道を、もう一度振り返ってみたい。
主よ、あなたの喜びが私の喜びとなるように、私の歩みを導いてください。
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今日の福音ではイエスの厳しい言葉が語られ、イエスのいらだちとも言える感覚が伝わってきます。
それは人々がなかなか彼のメッセージに「耳を傾けず」「拒む」からですが、逆にそれほどまでのイエスの神と福音にかける熱情を感じさせます。イエスに従おうとする私たちはそれほどまでの情熱を持ってイエスに耳を傾け、そのメッセージを周りの人々に伝えようとしているのでしょうか。
イエスのように私たちの心を燃え立たせていただけるように祈りましょう。sese
私たちがイエス様のその強いお心に気づかずに、背を向けて生きるならば、そこにはイエス様の激しい悲しみ、嘆きがある。私一人がどうなったからといって大したことではない、そういうことではないのです。その時にイエス様は、胸がつぶれるような思いで嘆かれる。それほどの強い思いをもって私たち一人ひとりを見ておられるのです。そしてこの箇所のようにイエス様は嘆いていらっしゃるのです。
キリストの弟子も、キリストと同じように、無視され、あるいは拒まれることがあります。けれども、私たちに対する無関心、侮辱などはキリストへの無関心、侮辱(十字架)とされ、キリストはそれを新たな力、希望に変えてくださるのです。

年間26土
ルカ10・17-24

今日の福音ではイエスが喜びに溢れて語られます。その喜びは派遣された弟子たちによって福音が伝えられたことによるものです。その弟子の多くは無学で貧しく「小さな人々」だったでしょう。そういう人たちだからこそ神さまの力は無限に働きます。人間の能力によって妨げられないからです。
イエスを通して、そして小さな人々を通して神の国が訪れます。私が神に頼るときにも同じことが起こります。
今日、幼子のようにイエスに信頼し、みことばに従い、神が私を通して働かれますように。
 

27 per annum

年間第27月 第2周年 (遇数年)

ルカ10・25-37

「隣人を自分のように愛しなさい」という律法についてイエスは、隣人は誰か、と問うよりも、あなたが隣人になりなさい、と勧めます。いつ、どんな時でも、私たちは誰かの隣人になることができるでしょう。その人をよく見て、近づき、その人の痛み、傷、悲しみ、あるいは喜びを共にするのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と、イエスは、今日、自分から出て行くように、安住から抜け出すようにと呼びかけられます。
主よ、あなたが大切にしている一人ひとりに心を開かせてください。その人に寄り添う勇気を与えてください。sese

年間第27火
ルカ10・38-42


教会で奉仕をする。余裕がある時は喜んで、楽しくできる。自分独りでもやろう、という意気込みがある。けれども、余裕がなくなってくると、“他の人はやっていない。どうして自分だけがこんなにやらなければならないのか”と不満が積り、奉仕することがむなしくなって来ます。だれも自分の奉仕を認めてくれていない、分かってくれない、そんな気持になります。マルタもそんな気持になったのに違いありません。
けれども、マリアの不満を聞いて、主イエスは、“マルタ、その通りだね。マリアにも手伝うように命じよう”とは言わないのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(41~42節)
 なかなか厳しい言葉です。言われた方は、やっぱり分かってもらえないと不満と悲しみを感じ、すねてしまうかも知れません。それでも主イエスははっきりと語ります。
主イエスの御言葉を聞かないマルタに何が起こっているのでしょうか。ずばり自己中心になっています。神中心になっていません。そして、自己正当化を起こしています。私はイエスさまをもてなしている。イエスさまのために奉仕している。だから、私は正しいのだ。何もしないマリアが、周りの人が間違っているのだ。それを認めようとしないイエスさまも間違っているのだ。そういう正当化が起こっています。直前の箇所で、律法の専門家が自分を正当化しようとした(29節)のと同じことです。
 けれども、それはマルタ自身の考えです。自分の思いです。主イエスの思いを汲み取ろうとはしていません。相手の気持や立場を考えて行動しようとはしていないのです。それは、聞こうとしないからです。聞こうとしないから、自己中心になるのです。
 マルタという名前、どんな意味を持っているかご存知ですか?いみじくも“女主人”という意味の名前です。まさに自分が主人になっています。自分が中心になっています。主イエスが人生の主人になっていない。そういう自分を切り替えて、主イエスを主人とする生き方をする。主イエスの言葉、神の御言葉に聞き従う生き方を選ぶ。それが、神を愛するということです。私たちの信仰生活にいちばん求められていることです。

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人は、話を聞いているだけでは生きてゆけないし、忙しく立ち働いているだけでは、生きている意味がわからない。マリアは、イエスの語られることに、我を忘れて聴き入っていた。
人は、何かに聴き入るとき、もう一つの世界を垣間見る。自分の住む世界を、別の光のうちに見る体験をする。自分から出て、話されることがらをそのままに、「それはそうだな」と思う。何かに耳を澄ます経験は、きっと神からの語りかけを含んでいる。sese04
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マルタのように「忙しさ」に奮闘(ふんとう)している姿は、現代社会に生きる多くの人たちの姿と重なります。たくさんの仕事に追われていれば、つい愚痴を言いたくなるのも分かります。しかし、「忙」という漢字が“心を亡くす”ことを表すように、「多くのことに思い悩み、心を乱す」ことを決して神は
望んでおられないでしょう。
どんな時でも一番大切なことを私たちの心を向けることができますように。sese05
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いつもわたしたちは何と多くのことを思い悩み、心を乱していることでしょうか。しかし、必要なことはただ一つ、イエスに聴き従うことです。
主よ、わたしの心をあなたの言葉に向けさせてください。わたしの思いではなく、あなたにより頼んで生活できるよう、導いてください。sese06

年間第27水
ルカ11・1-4


この祈りを唱えるとき、「わたしたち」という言葉に深い意味を感じる。この祈りを心から唱えられるとき、そこには「御国」がもう来ている。小さな者たちの一人である自分にとって、必要な物がなければ、本当に困窮してしまうと分かって、なお他者を思いやり、「わたしたち」のために願うことができるなら、その人は、「御国」の中にいる。自分が過ちを犯す者であり、もし罪を問われるなら弁護できないことを悟って、同じように他者にも感じ、「わたしたち」が赦し合えるように願えるなら、そこに、「御国」は来ている。sese04
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神に「父よ!」と呼びかけることができる…。なんと幸福なことでしょうか!イエスはこの最も幸いなことを私たちに示されました。しかもイエスは放蕩息子のたとえの中で、私たちの父が、「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」(ルカ15・20)するような父であることを示されたのです。
父よ、あなたの子である幸いをもっと深く悟らせてください。私たちの内に愛の喜びがあふれますよ
うに! sese05
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「父よ」という呼びかけは、イエスと御父のかかわりの中に私たちを導きます。神がいかに私たちの近くに親しくおられるか、この信頼感を味わう中で、祈りが始まります。
父の慈しみ深い息吹を受けながら、明日のことを思い煩うことなく、今日一日を精一杯生きて行けますように。sese06


年間 第27木曜日
ルカ11・5-13

? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだけのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸してくれと言ったりはしないでしょう。
神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で、「父よ、み旨なら、この
杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んでおられたことが実現したのです。
私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
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難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。?
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「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っています。
与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられているのに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいているのかもしれません。
主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese

年間第27金
ルカ11・15-26

イエスと悪魔(ベルゼブル(フェニキアのことば)・サタン・悪霊・現実のすべての暗い部分、否定的な部分)との戦いにおいて、人間には中立的な立場はありえない。「集めない者は散ら」すという言葉は、羊など家畜の群れについての言葉である。活発に動き回る羊の群れを積極的に集めなければ
、ばらばらに散り迷うであろう。それは人間にも当てはまる。神のことば、神の愛を受け入れるのにためらったり、言い訳をたてたり、屁理屈をいったりすると、それは悪魔に有利な状態を作り出すことになりかけない。神に対して自分をまもろうとするのは、悪魔の方についていってしまう危険を冒
すだけではなくて、結局自分自身は損することになる。
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神の働きはどうしたらわかるのでしょうか。神の働きはどこに見られるのでしょうか。もしかしたら、神の働きをベルゼブルの力と勘違いしてはいないでしょうか。わたしたちは得てして強いもの、富んでいるもの、勢いのあるものに引かれてしまい勝ちですが、小さく貧しい人々の間にこそ神の指が働いているのでしょう。
主よ、あなたの指の働きを見極め、それに従ってゆく知恵と勇気をお与えください。sese06
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ヨエル書の預言者は、こう叫びます。「ああ、その日よ! 主の日は近い。」(ヨエル1・15)
民は豊かさの中で神を忘れ、土地は荒れ、祭りの供え物も絶えました。
ヨエルは「シオンで角笛を吹け」と呼びかけます。
それは恐れのラッパではなく、目覚めのラッパです。
神が再び介入し、人の心をゆり動かす時が来た――それが「主の日」です。
マラキ書では、人々が嘆きます。「神に仕えても何の益があったのか。」(マラキ3・14)
神を敬っても報われないように見えるとき、信仰は試されます。けれどもマラキは言います。
「主を敬う者のために、わたしは記録の書を開く。」(3・16)
「主を畏れるあなたたちの上に、義の太陽が昇る。」(3・20)
つまり、「主の日」は、神が沈黙を破って、隠れた真実を照らす日。悪が栄えるように見える世の中で、義の光がついに輝き出す日です。
ルカ福音書でイエスは悪霊を追い出し、こう言われます。「もし神の指で悪霊を追い出しているなら、神の国はあなたたちのところに来ている。」(ルカ11・20)
ヨエルとマラキが待ち望んだ「主の日」は、イエスのうちにすでに始まっています。
悪の力が崩れ、神の支配が心の中に入り込む。
しかしイエスは警告します。「汚れた霊が出て行っても、心が空のままだと、七つの悪霊が戻ってくる。」(11・26)
つまり、「悪を追い出す」だけでは足りません。心を神の霊で満たすことが必要なのです。
空虚な心は、再び暗闇に支配されます。
ヨエルの角笛、マラキの光、イエスの言葉――三人の声が一つのことを語ります。
「主の日は、あなたの心から始まる。」
主の日は恐ろしい破壊ではなく、愛の審判です。それは、神が私たちの心の闇を照らし、
義の太陽のようにいやしの光を注ぐ日。ですから、私たちはこう祈りましょう:
「主よ、わたしの中の空いた場所を、あなたの霊で満たしてください。主の日が、滅びではなく、あなたの光の訪れとなりますように。」

年間第27土
ルカ11・27-28

今日の福音では、母マリアは二回幸いと言われています。一回目は自然に群集から湧き上がっています。これは、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1・42)という、エリザベトの祝福を思わせるのですが、人間的な幸せを指しています。だれでも
分かるような幸せです。 二回目は、「むしろ」という訂正のもとで、一回目を否定せずに、それ以上の幸せを知らせるのです。あたかも、秘密を 漏 ( も ) らすかのように。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2・19、51)から幸せです。これは、すべての信仰者に希望を与えるのです。 すべての母親のために祈りたいと思います。子供に信仰を証しし、伝達することにおいて本当の幸せを体験できるように。
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身内に立派な人がいると鼻高々になります。同郷に有名人がいると自分自身が有名であるかのように感じます。同国のひとが世界選手権で惨めな負け方をすると自分が惨めな感じにおちいることがあります。しかし、イエスはそのような世間的なつながりや価値観は幸いとは関係がないと言われているようです。
世間的なつながりに惑わされることなく、あなたの言葉を守り従って行けますように。sese06
 

28 per annum

年間 第28月曜日・パウロ会・'96/10/14
「ヨナのしるし」
ルカ 11・ 29-32

ヨナが説教した時には、ニネベの人々は、その神の声を認め、それに答えた。最後の審判の日には、ニネベの人々は立ち上がって、イエスの時代の人々を訴える、と書いてあります。イエスと同時代のユダヤ人たちは、かつてないほどの特権に恵まれたにも関わらず、キリストを受け入れるのを拒んだのです。このユダヤ人達の罪は、その特権があまりにも大きいだけに、いっそう徹底して訴えられるだろう。
特権と責任は同じものの「おもて」と「うら」なのです。特権のもっているこの二面性に心を留めて、それをどのように使うかを考える必要があります。
 例えば、私たちはみことばにふれる機会はたくさんもっています。そうでない人々もたくさんいます。みことばにふれる機会、祈る時間、共同体の支えなど、非常に恵まれた立場にいる。聖書ほど高価な書物はない。ところがそれはともすれば、「誰もがその名を耳にするが、誰も読むことのない書物」という、ある人の皮肉な定義にあてはまりかねない有様です。私たちは聖書にいつでもふれることのできる特権が与えられています。そして、その特権は、それに対して答えるという責任を伴っています。
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信仰とは、自分勝手な基準を作って、救い主を試そうとする態度から生まれないのです。むしろ、へり下って神を求める者に神は信仰を与えて下さるのです。
死人の世界から誰かをおくってと願う金持ちに対してアブラハムは言いました。「もし彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても彼らはその勧めを聞き入れはしないだろう」(ルカ16・31)。しるしを求める人間ではなく「神の言葉を聞いてそれを守る人たち」が「めぐまれている」(28)のです。
それでも、神は救い主を信じ得るために豊かなしるしを与えて下さいます。それは「ヨナのしるし」です。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。
イエスの十字架と復活こそ、天からしるしに匹敵する意味で、救い主のしるしです。現代人にとって、処女降誕や復活は、特別のつまづきとなっているようです。「そういう非科学的なことをいうからキリスト教は信じられない」というのです。イエスの時代、悪霊の追い出しを見た人々は、そんな小さな奇跡では、イエスを信じられない、と言いました。現代、復活を聞く人々は、そんな大きな奇跡では信じられない、というのです。不信仰は証拠の問題ではなく、心の「邪悪」(29)のためであることを思わされます。(山中)

年間 第28火曜日・パウロ会・チャペル '96/10/15
「杯や皿の外側をきれいにするが….」
ルカ11・37-41

 私たちは毎日のようにお風呂を入ります。それで体も心もすがすがしい気持ちになって一晩ぐっすり眠れるわけです。もし、誰かが長い間お風呂をしていない人に接するならば、私たちはおそらく、その人はくさいとかきたない人と感じます。今日の福音書できよめのしきたりをやぶったイエス様も同じように受け止められたかもしれない。
 でも、イエス様は言いたかったのは、体を洗うのはよいことだが、お風呂を入ったからと言って、心まで清められたと思ってはならない、ということでしょう。実は、まず心を考えるべきです。心を清めることこそ大事ですと。
 私たちは毎日、ていねいに、入念に体を洗ったりして、健康管理を心がけます。それは結構なことだが、同じように心の健康にも気を使えばいいのですが、精神的なストレス、心の疲れ、罪によって残る心のきず、毎日たまる心の「アカ」をとる努力をあまりしないのはなぜでしょうか?
 しかしまた、清めというものは、私の力によってできることではない。神に清めていただけなければならないのです。でもそのために、私たちはまず清められることを願わなければならない。清めていただく必要を感じなければならない。そしてまた、私の心から「よごれ」が生まれることを知らなければならないのですが、私の心を清められるのは神だけです。神から罪をゆるしていただいて、内側から清めていただくのです。神の側から、私たちの不完全な心と行動を、補ってもらうからこそ、清くなるのです。
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「器の中にある物を人にほどこせ」
イエスはここで、外側のみをきよめて内側は強欲と悪に満ちているファリサイ派の人々に具体的な挑戦を投げかけています。イエスはここで外見よりも魂が大切だ、というような目に見えない事柄ではなく、具体的な言葉で内側のきよめを迫られたのです。強欲からきよまるためには、魂の問題ではなく、具体的な解決として施しをしてみよ、とイエスは言われたのです。あなたという人間の外側ではなく、「内にあるもの」(所有物)を施すことが、あなたの人間性全体のきよめに必要だ、と言われたのです。
イエスは、ある時、律法を全て守っている、と自称している富める若者に対して、「持っている物をすべて売って貧しい人々に施せ」(18・22)と挑戦されました。律法を完全に守っているきれいな人間ならば、強欲からも解放されていて、自分の所有に対して自由であるはずなのです。
私たちは、抽象的な人生論、信仰論では美しくふるまえても、お金の問題になるといやしいことを考え、相手にたいしても卑しい邪推(ジャスイ)をしがちなものです。お金に魔力があるのは、私たちの内側が強欲に対して本当にきよめられていないからです。いつでもどこでも施しをすることがよいこととは限りませんが、必要な時には、人々のために自分の所有物を差し出すことのできる自由できよめられた心を持つべきなのです。(山中)

年間 第28水曜日・パウロ会  '96/10/16
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」
ルカ11・42-46

 律法学者やファリサイの人々のことがいろいろでてくるが、そこで共通していることは、外側ということです。信仰は内側を大事にしていくものであると思う。外側をととのえていけば内側がととのうというものではない。内側をいい加減にして外側だけを飾っていくというか、外側だけをよくしていこうとするのは、いつの時代でもどんな宗教でも陥りがちな欠点ではないかと思う。それをイエスは鋭く突いておられるのです。
 でも、聖書を読む場合、イエスが誰かに語られたとして読んでいくことは、これは「お話」として読んで、流してしまうのです。私に語られた言葉として読んで(聞いて)いなかったら、聖書読みの聖書知らずになるのです。自分が関係ない、という読み方をしていたのでは、聖書のすばらしさもわからない、神のみことばへの驚きも生まれてこない。
 私たちに語られた言葉として聖書を聞いていくときに、はじめて私たちが律法学者と同じように不幸であるということに気づく。そして私は自分を不幸にしているのは他人ではなく、ほかならないこの自分であるとみことばによって示されていく。ちょうど自分が、目で見てまっすぐな線を引いたと思っても正しい定規をあてるとゆがんでいることがわかると同じように、福音の言葉に自分をあわせていったとき、自分がどうなのかはわかるのです。
 そういうふうに聖書を読んでいかない人は、自分は人よりも偉いとか、一生懸命やっているとか、そういうことをいかにも大事なことのように思ってしまう。 自分が罪人だと知らない人間は、イエスの十字架はどうでもよいという気持ちになってくるが、私たちが謙遜になったとき、主の呼びかけが聞こえてくる。自分が愛されている罪人だと知るとき、イエスの十字架以外に救われる道がないという姿勢になるのです。(榎本) 
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人の評価を何よりも大事にする、最優先する生き方は、律法主義にだけではなく、どの社会・文化にも見られる生き方です。律法主義は、真面目な動機と立派な外見を持ちます。不真面目な教えと異なりますのでまじめな民衆の心をとらえます。しかし、優等生のように神の戒めを守っていきようとすればするほど、人は神の御心から遠く離れ、神に対する愛を失い、人間の名誉に心を配る誤った生き方に陥ってしまいます。不良化によってではなく、まじめに生きようとすることで人間性をおとしてしまう危険性を律法主義はもつのです。
ルカ福音書は、ファリサイ派とは縁もゆかりもない異邦人向けの福音書であるのに、ファリサイ派に関するイエスの嘆きを詳しく収録しました。それは、ファリサイ派的な生き方が信仰者は常に警戒せねばならない生き方だからです。福音のみがこの危険から人を救うのです。(山中)

年間 第28木曜日・パウロ会・チャペル  96/10/17
「預言者の血について責任を問われる」
ルカ11・ 47-54

亡くなった予言者の墓を建てることに熱心なら、なぜ、その熱心さを、いま語っている予言者のことばを聞くために使わないのか。神は、いまも語っておられるのに。イエス様の嘆きと怒りが聞こえます。
 もし、私はイエス様が生きていた時代に生きていたら、どのように振る舞ったか、考えたことがないでしょうか。もしかすると、私もキリストを十字架に釘つけた一人だったかもしれない。あるいは無関心のうちに通りかかった人々の一人だったかもしれない。今は無難だから十字架をたたえます。
 教会に行きますと、信者さん達が、いつも前の主任司祭がよかった、いまはちょっと、と言います。では、前の主任司祭に聞くと、彼の時代にも前の司祭の方がよかったと言っていました。
 私たちは、私も含めてですけれども、前の共同体はよかったとか、前の先生はよかったとか、前の院長よかったとか、思ったりしませんか? 今も(今こそ)神が語っておられるのに。まあ、なんと言いましょうか、結構わがままはびこっている人間が多くて、神の声を聞きたくないなら、いいわけをいくらでも作れるわけです。そして、いいわけを作る間は、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてしまうのです。 
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「知識のかぎ」といわれるのは、救いに至る知識のかぎです。律法学者たちは、旧約の御言葉に注釈を積み重ねることで、旧約の御言葉を学者の専門書としてしまったのです。旧約聖書が指し示していたやがて来るべき救い主像はおぼろげになり、規則に規則が積み重ねられて行きました。そして、旧約の指し示したキリストが現実に来られた時、この救い主を受け入れる事が人々にできなくなっていたのです。
 聖書は神の言葉であって、すべての神の民に向けられたのです。これは専門家の書ではなく、神の民全員の書なのです。聖書は難解な個所も多くありますが、明かに語る所も多くあって、救いのために必要な知識は、専門家でなくても、普通の人々が普通に熱心に読めば、理解することのできるものなのです。この知識のかぎを取り上げて、聖書と宗教を専門家のものとしてしまった点で律法学者は、わざわいなのです。(山中)
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朗読:ローマ3・21–30/ルカ11・47–54

兄弟姉妹の皆さん、
今日の二つの朗読は、いずれも「人間が神の前に正しい者となるとはどういうことか」を問いかけています。

パウロはローマ書でこう言います。

「今や、律法とは別に、神の義が示されました。」
つまり、神との関係において本当に大切なのは、外面的な行いではなく、神の恵みを信じて受け取る心だということです。
ユダヤ人であっても異邦人であっても、罪の現実から自由になるのはただ一つ、「キリストを信じる信仰によって」なのです。

この「神の義(δικαιοσύνη θεοῦ)」という言葉は、単なる「神の正しさ」ではありません。
むしろ「神が人を正しくしてくださる力」——つまり、神の憐れみの働きです。
私たちは自分の努力や功績ではなく、十字架のキリストを信じることで、その義にあずかります。
それは人間の誇りを打ち砕き、すべての人を同じ足もとに立たせる福音です。

一方、福音書でイエスはファリサイ派や律法学者に厳しく言われます。

「あなたたちは預言者たちの墓を建てるが、実際には彼らを殺した者たちの子孫だ。」
表面的には信仰深く見えても、神の言葉が本当に自分に挑戦してくるとき、それを拒む——
イエスはその偽りを暴かれます。

律法学者たちは、過去の預言者たちを讃えながら、いま目の前にいる「預言者なるイエス」を迫害しようとしていました。
つまり、神の言葉を「安全な過去のもの」として飾り立て、自分の生活を変えようとしなかったのです。

私たちも同じ誘惑にさらされています。
「信仰」は言葉や形式の中に閉じ込められ、神の生きた呼びかけに耳を閉ざす危険があります。
けれども、パウロが語るように、神の義は今も「示された」のです。
それは、ただ信じる者の心に働く力として。

ですから、私たちは自分の正しさではなく、神の恵みにより頼む信仰へと呼ばれています。
そのとき、律法や功績ではなく、感謝と謙遜のうちに生きる新しい義が生まれます。

最後に、今日の朗読を一言でまとめるならこう言えます:

「神の義は、私たちの手のわざではなく、神の御心のわざである。」

この真理を受け入れるとき、私たちの信仰は外面的な義務ではなく、内からあふれる恵みの応答となります。
それこそが、イエスが望まれた「真の義人」の姿なのです。


年間 第28金曜日
「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」
ルカ12・ 1-7

最近、「振り込め詐欺」というものはよく新聞などで報道されて、それに対する注意を呼びかけられています。 フアリサイ派に対する厳しいことばは(ルカ11・37-54)、その「偽善」に対する注意に似といます。内面の考えと外面の行為が一致せず、神を心から礼拝せずに、いけにえをささげているとき、それが偽善です。フアリサイ派のパン種とは、その偽善を指しています。マタイでは、かれらの教え(マタイ16・12)、マルコでは頑固さを指しています。 心の奥にかくされている思いが、やがて態度、行動、すべてに反映し、現れるように、偽善も自分ばかりでなく、まわりの人々にも影響を与え、腐敗させます。
パン種が小麦粉全体をふくらませるように、神を第一とせず、自分を第一とする不信仰、頑固さも、外面にも現れてきます。電話で内緒で言われたことは、銀行の振込みに現れます。
 内密なものが公に知れわたるパン種の原理は、偽善ばかりでなく、よい意味にもあてはまります。福音宣教がその一例です。イエスがひそかに弟子の心に、祈りのうちに述べたことを、弟子たちは、のちに公に宣教します。宣教はすべての人に向けられ、福音の内容も全部明らかにされます。真理を一部の人の独占物にしないのです。
 神を恐れるなら、すなわち、神を第一とするなら、この地上の権力を恐れず、地上の思い煩いでいのちをすりへらす必要はありません(ルカ12・16-21)。
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「多くの人を神への道の途中で立ち止まらせたのは、偽りの謙遜である。その謙遜は、実は傲慢を含んでいる。神から愛されるために、まず私たちが美しくなろうという考えが頭にこびりついているのである。
世俗の人々のように、注目を引くために身を飾ることが必要であると考え、そのように考える人には、神は私たちが美しいから愛してくださるのではなく、私たちは愛されているから美しくなるのだということがわからない。」(Pablo Guzmanの言葉。マグダレナ・E・トーレス=アルビ著、『雅歌に親しむ』、イー・ピックス出版、31頁参照)


年間 第28土曜日
「言うべきことは、聖霊がその時教えてくださる」
ルカ11・ 47-54

 イエスは、「いまから、なにを言うべきかを考えておきなさい」と言うかわりに、「証しのために、どう弁明しようかと考えないことに、いまから心にきめておきなさい」と勧めます。これは驚くべきことばです。反対者が反駁できない知恵のことばを、キリストご自身が与えてくださいます。それは、あたたかな愛のことば、聖霊です。聖霊を受けて、キリストに変身し、キリストがわたしたちにおいて、ご自身を示してくださいます。それが証しです。
知らずして罪をおかすことがあっても、父は子イエスの取りつぎによってゆるしてくださいます(ルカ23・34)。父はゆるそうと待ちかまえているのです。しかし、そのようなゆるしを拒絶するならば、つまり神が本当に罪をゆるすことがおできになるということを信じないなら、父と子の心を冒涜することになり、ゆるされることはないのです。(荒)

29 per annum

 
年間第29月
ルカ12.13-21

「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と愚かな金持ちのたとえで、主は私たちの「貪欲」に注意を促されます。これから一生楽しんで過ごせる、財産が出来たと安堵した金持ちでしたが、その夜、命が取り上げられました。せっかく貯えた財産は自分のためになりませんでした。
自分がいただいている恵みを決して人と分かち合おうとはせず、自分の楽しみのためにだけ宝を積んで神の前に豊かにならなかった者の愚かさに気付かせてくれます。
主よ、「受けるよりは、与える方が幸いである」(使徒言行録20.35)といわれたイエスご自身のことばを思い、自分のために宝を積むより、愛の業に生きて神の前に豊かになれますように。sese06
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国民幸福指数という言葉がありますが、貧しい国の国民が豊かな国の国民より幸福と感じている結果が出ています。いくら財産を持っていてもそれが幸福を保証することではなさそうです。経済的に復興しても霊的に破産することがあり、経済的に破産しても霊的に豊かになることができます。
主よ、あなたからいただいたものを今日、きょうだいたちと分かち合うことができますように。sese05


年間第29火
ルカ12.35-38

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ」と言われる者は本当に幸いです。なぜなら、主人が「そばに来て給仕してくれる」のですから。僕に仕えるこの主人はイエス以外には考えられないでしょう。イエスは私たちを食事の席に着かせ、ご自分を分かち合って下さり、永遠の命のパンを与えてくださるのです。
主よ、イエスの食卓にあずかることができるよう、いつ呼びかけがあっても応えられるよう目覚めて、ともし火をともして待っていることができますように。sese06
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幸福の条件として、一般的にいろいろと言われます。いい学校に入る、いい仕事を見つける、いい結婚相手に巡り会う、人から認められ、尊敬される、‥‥など。はたしてその通りでしょうか?また、幸福の条件は、ありのままの自分を受け入れること、「吾れ唯(ただ)足るを知る」こと、完ぺきよりは、成長を目指すこと、などとも言われます。しかし、イエスの教えは、少し違うようです。主人が帰ったときに目を覚ましている僕が幸福だというのです。だれかを待ち望み、その人に出会うのは、本当の喜びでしょう。私が出会いたいのは、だれでしょうか。sese04
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「たえず目覚めている」ということは、どういうことでしょうか。具体的に何を意味しているのでしょうか。生活・人生のすべての場面、事柄はキリストと関係がある。私たちの言動、行いは一つ一つ、そしてすべてが最終的にキリストにおいてその意味、その価値を見出す、ということを忘れない。また。主人が「帰ってきた」とき、考えられないようなことが起こる。つまり、主人は僕に使える。神の愛は、私たちが想像できることをはるかに超えて、私たちの心の望みを満たしてくださることを意味します。神様は僕となることは人間には考えにくいことです。けれども、イエスはまさにそういう生き方を示してくださった。
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京都の龍安寺というお寺に、右の図のように彫られたつくばいがあります。
このつくばいは、あまりにも有名なのでご存知の方も多いと思います。真ん中の水を入れる四角を共有すると上から時計回りに「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と読めます。文字通り読めば「私は満ち足りていることだけを知っている」という意味でしょうか。「吾唯足知」というのは、もともと禅問答のようですから、本来は一生かかっても悟る事ができないような、きっと難しい意味なのだと思いますが簡単に言ってしまえば「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である。」ということかと思います。 この満足することを知るということは幸せに生きる為には、とても大切な事だと思います。



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ローマ書
「善悪の木からの実を食べてはならない」という神のおきてに背いたその結果を、アダムの子孫である私たちも被らなければいけません。私たちは、アダムとともに、死んで、死んだ後に神のさばきを受けるという運命の中に入っている、というのがパウロの主張です。そうすると、私たちは、「ひどすぎる。アダムが行なったことなのに、私たちまで迷惑を被っているのか。」と考えるかもしれません。けれども、その不満は、アダムがキリストのひな型であることに気づくときには、なくなってしまいます。私たちは、罪と死においてアダムと一体化している一方で、義といのちにおいて、キリストと一体化しているのだ、というのがパウロがここで言いたいことなのです。

原発で働いている人の、たった一つの操作ミスによって、大ぜいの人が放射能をあびて死んでしまう可能性があるように、アダムの違反によって、多くの人が死んだのです。飛行機のパイロットは自殺したかったので、沢山の人が死にました。人間にはそういう運命みたいな現実がある。罪における連帯という現実。けれども、神においては、キリストが行なわれたことによって、私たちがまったく何も行なっていないので、そのキリストが行なわれたことにともなう祝福が、怒涛(大波)のごとく私たちに押し寄せる、というものなのです。満ち潮のときは全ての船は上がると言いますね。これも又事実なんです。ある小国において、原油が発見されて、その国の住民全体がまったく働かなくても裕福に暮らせるほど潤いがもたらされるように、キリストが行なわれたことによって、私たちに祝福が満ちあふれます。しかも、パウロは、「それにもまして」と言っています。たった一人の人間が多くの人を死にいたらしめるほど影響力を持っているのなら、神とキリストが行なわれたことは、どれほど私たちに影響を与えて、恵みに満たしてくださるだろう、とパウロは言っているのです。恵みは、罪と死に対して、勝ち誇っているのです。
 アダムとキリストが似ていたのは、一つの行為を行なったことです。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行ないました。それによって、すべての人が罪に定められました。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれました。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになります。

 

年間第29水
ルカ12.39-48

(ローマ6・12-18/ルカ12・39-48)

今日の二つの朗読は、ともに「自由」と「責任」という深いテーマを私たちに語っています。まずパウロはローマの信徒への手紙でこう言います。

「罪があなたたちの死すべき体を支配しないようにしなさい…
自分を神にささげなさい。あなたたちは罪の奴隷ではなく、義の奴隷となったのです。」(ローマ6・12-18参照)
一見、「奴隷」という言葉は自由と正反対のように思えます。しかしパウロは、真の自由とは「自分勝手に生きること」ではなく、「神に仕えること」にあると言います。罪に仕えるとき、人は自分の思い通りに生きているようでいて、実は内側から縛られています。怒りや嫉妬、欲望や恐れに支配されてしまう。
しかし、神の義に仕えるとき、私たちはようやく本当の自分に戻る。愛し、与え、ゆるす人間として生きられるようになるのです。

ルカ福音書でイエスは言われます。「多く与えられた者には、多く求められる」(ルカ12・48)

主人の帰りを待つ僕のたとえは、まさにこの「責任ある自由」を教えています。
神は私たちに自由を与えましたが、それは放任の自由ではありません。主人のいない間に、他人を打ち叩き、勝手に飲み食いするような自由ではなく、主人の心を知り、その意志を果たす自由です。神の目から見て、最も自由な人とは、最も忠実な人です。
「主よ、あなたが望むことを、私の手で行わせてください」と言える人こそ、パウロの言う「義の奴隷」、すなわち神の友としての自由を生きる人なのです。
最後に、聖アウグスティヌスの言葉を思い出しましょう。

"Servire Deo, regnare est." 「神に仕えることは、王であることだ。」

神に仕えるとき、私たちは他の何にも支配されない。
今日の御言葉は、私たちの心をもう一度この真理に向けて整えてくれます。
罪の奴隷ではなく、愛の僕として歩む――
それがキリストにおける自由の道なのです。
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「すべて多く与えられた者は、多く求められる」どんな恵みも多く与えられた者、多く任された者は、その責任が大きいのでしょう。我々には実際になにが任されているのでしょうか。自分の才能、能力、知識、健康、財産などななど。しかしそんなに大きなものではないかもしれません。周りの人々にほほえんだり、親切な挨拶をしたり、このように些細なことが私たちに任されているかも知れません。
それより、私たちはキリストを通して神の愛と赦しを受け、永遠のいのちを与えられたことを知りました。それはパウロが言うように「計り知れない富」(エフェ3.7、偶数年の第一朗読)です。このいただいた恵みをどのように使うか、どのように応えていくかが問われるのでしょう。
主よ、あなたの心に適うことをいつも求め、人々の中におられるあなたに忠実に仕え、人の子が思いがけない時に来てもよいように目覚めて生きることができますように。sese06 sese05
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いつも目を覚ましていなさい」と言われますと、ペトロが「主よ、この譬えを話しておられるのは、わたしたちのためですか、それとも、みんなの者のためなのですか」と、主イエスに問うのです。終末に備えて常に目をさましていなくてはならない、そのように緊張して生活していなくてはならないのは、大変なことだ、それは特別に自分たちだけがしなくてはならないことなのですか、という思い、自分たちだけが、特別に緊張をしいられる、いわば不利な立場におかれる、そのことに対する責任回避の言葉なのではないかと思います。ほかの人にはそれほど厳しいことは要求されないが、自分たちにはそのように厳しいことが要求されるのですか、という思いからでた言葉ではないかと思われます。
 
 それに対してイエスは直接ペトロの質問に答えることはしないで、さらに譬えを続けます。前と同じような譬えなのですが、「主人が召使いたちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令はいったいだれか」というのであります。そしてもうひとつの家令の姿として、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使いを打ちたたき、飲んだり食べたりして酔っぱらっているならば、主人が気がつかないうちに帰ってきて、そうしたところを見られる、そしてその家令は、主人から厳罰に処せられるだろうというのであります。
 そして主イエスは、「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず、勤めもしなかった僕は多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるような事をした者は、打たれかたが少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」と言われのであります。ここに来て、主イエスの譬えの真意がはっきりするのです。つまりペトロの質問、「これは自分たちに対してされたたとえなのか、それともみんなの人にも当てはまるたとえなのか」という質問に対する答えは、これは何よりも弟子たち、お前たちに対して与えられたものだということであります。弟子たち、お前たちこそ、みんなに率先して終末的な緊張感をもって毎日を過ごさなければならないということを言われるのです。
 
 弟子たちだけは特別だというのです。それをペテロは自分たちだけは特別に何か損するような気持ちで、それは自分たちだけに特別に厳しいことが要求されることなのですか、という思いから質問したのに対して、主イエスは弟子たちに対して「お前たちは多く与えられた者だ」というのです。だから「多く求められるのだ」というのであります。「お前たちは多く任せられた者だ、だから多く要求されるのだ」というのであります。つまり弟子たちは多くの恵みを与えられた者だと、イエスはペテロとは全く別の視点から弟子たちを見ておられるのです。お前たちはみんなよりも特別に恵また者ではないか、だから多くのことが要求されるのは当然だろうのというのであります。ペテロは自分たち弟子は何か特別に責任を課せられ損するような気分でいるのに対して、イエスはそうではない、お前たちは特別に恵まれた存在だ、といのうのです。
 
  「時に応じて定めの食事を備える忠実な僕」としての生活をするのであります。それは自分だけがうまいものを食べるという生活ではなく、時に応じて人々に食事をさせる、そういう奉仕する仕事を忠実に淡々としつづける僕です。

  そして忠実でない僕とはどういう僕なのかといいますと、「主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使いたちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば」という僕のことであります。つまりこの僕たちは僕でありながら、「主人の帰りがおそい」つまり、主人が不在であるということをいいことにして、自分が主人のごとくに振る舞っている人々のことです。ただめちゃめちゃな生活をする、酒に酔っぱらうということではなく、僕でありながら、主人のごとく振る舞うということが厳しくしかられているのです。Ekyamada
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ローマ書

 ささげなさい、という命令です。自分は罪に対して死んだとみなしていくことによって、私たちのからだに罪は働かなくなりますが、そこまででは、ちょうど、自動車のギアがバックになっていたのをニュートラルにしただけです。それからさらに一歩進んで、自分の手足を神にささげなければいけません。この「ささげる」と言うギリシヤ語は、「並んで立つ」とか、「近くに立つ」という意味があります。つまり、罪を犯させるようなつまずきの近くに立たないということです。そして、良いもののそばに立ちなさい、という命令です。例えば、自分がパチンコをしてしまって、やめられない、とします。帰り道にパチンコ店が並んでいるとします。パチンコをする誘惑に打ち勝つためには、どうすればよいでしょうか。パチンコのお店に近づいたとき、祈りをすればよいのでしょうか。聖書のことばを思い出せばよいのでしょうか。違います。パチンコがある通りをさけて帰宅すればよいのです。とても簡単ですね。これが不義の器として罪にささげてはいけない、ということです。と同時に、私たちは、義の器としてささげることができます。たとえば、このように礼拝に参加しています。これは、自分のからだを義の器としてささげていることです。多くの人は、自分が調子悪いとき、教会に行きたくないと思います。もっと、きよくなってから、霊的に良い状態のときに教会に行こうとします。間違いですね。その逆です。弱いから、礼拝に来るのです。ある牧師が、こう言いました。「神は、牧師がほんとうに弱い人間だから牧師に召したのだと思う。祈りとみことばに専念しなければ、容易に罪に陥ってしまうことをご存知で、そのような働きに召してくださった。」本当にそうだと、私は思いました。
罪に対して死んでいる、という原則の次は、「神の奴隷とされた」という原則があります。私たちは、完全に主体性のある存在ではないことを知るべきです。私たちは何かの奴隷になっているのです。何かに自由にされているのであれば、他の何かに従っています。ここでパウロは、神から自由になっているのであれば、同時に罪の奴隷になっていると言っています。「クリスチャンは、窮屈で、苦しそうだなあ。自分のしたいことができないではないか。」と言います。けれども、クリスチャンは例えばこう言います。「ええ、だって、酒飲んで、酔っ払わなくたって、大声で笑えるし、自分のこと話せるぜ。お酒がなければ楽しめないの?ずいぶん、不自由だね。」ですから、神の奴隷であれば、罪から自由にされています。結局、どちらにおいても奴隷なのですが、どちらの奴隷でいるかは私たちが選択することになります。 

 

年間第29木
ルカ12.49-53

ここで言う「対立して分かれる」、「"分かち"」とは、イエスが言われた「分裂」(ルカ12・51以下)を、単なる対立ではなく信仰における決断を通して生じる具体的な出来事として理解する言葉です。例を挙げて説明しましょう。
🔹事例1:家族の中の分かち
たとえば、ある人が真剣に信仰を生きようと決め、
毎週ミサに行くようになったとします。
すると家族の中で、
「そんなことに時間を使うの?」とか
「前の方が気楽だったのに」といった反応が生まれることがあります。
これは単なる意見の違いではなく、
**光に向かう心と、まだ光を恐れる心の"分かち"**が表面化した瞬間です。
痛みを伴いますが、それによってその人の信仰はより純粋なものになります。
これがイエスの言う「火」によって起こる"分かち"です。
🔹事例2:職場や社会での分かち
職場で不正を見過ごさず、正直に報告する。そのことで周囲から孤立することもあるでしょう。しかし、それは義に生きる選択であり、パウロが言う「義に身をゆだねる」行為そのものです。ここでも、「火」は心を清め、真理に立つ勇気を与えます。
このように「分かち」とは、人と人を引き裂く破壊的な分裂ではなく、真理に基づいて新しい関係へと移るための聖なる分離です。
古い自分、古い関係、古い価値観を手放す「小さな十字架」でもあります。
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「わたしは火を地上に投じるためにきたのだ。ここで言われている「火」とは何か。火というのは焼き尽くす火ですから、聖書ではいつも裁きを表す時があります。しかしここでは主イエスは「火がすでに燃えていたなら」と言われておりますから、単なる裁きではなく、救いです。人々が救われることを主イエスがなによりも願って、そのためにこの世にこられたからです。
 しかしその救いはただ人々が喜んで受け入れるような救いではないのです。それは裁きを含んだ、あるいは、裁きを通しての救いなのです。どういう裁きなのか。マタイ福音書では、「平和ではなく、剣だ」と言うのです。そして「平和でなく、分裂だ」といわれるのです。
 平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来たのだというのです。「今から後は、一家の内で五人が相分かれ、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立する」というのです。まず家族関係が崩壊する、分裂するというのです。ここでは驚くべきことに、主イエスがこの世に来たのは、この世が分裂状態だからこの地上に平和をもたらすために来たのだというのではないのです。この世があまりにも平和だから、剣を投げ込むために来た、そして分裂を引き起こすためにイエスは来たのだというのです。
 
 イエスの誕生の時に天使たちは、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、みこころにかなう人々に平和があるように」という賛美の声があります。つまりイエスがこの地上に来られることによって、平和が訪れるというのです。しかしここでは平和ではなく、分裂だというのです。それはイエスの誕生のところでも、「み心にかなう人々に平和が」といっておりますから、手放しの平和ではないのだということです。みこころにかなう者に与えられる平和だということです。
 
 家族関係の平和というのは、しばしば誰かの犠牲、犠牲というと大げさかもしれませんが、誰かの我慢といったらいいかもしれません、そういう誰かの我慢によってその家族の平和が保たれている場合が多いのではないか。夫のわがままで乱暴な振る舞いに対して他の家族のものが我慢して、平和が保たれているのかもしれない。妻のヒステリーをみんなが我慢して平和が維持されているのかもしれません。しかしそれが崩壊する。そして分裂が起こる。
 分裂というのは、いつも自己が激しく主張される時に起こるものです。主イエスが来たことによってなぜ分裂が起こるのか。それはイエスが正しいことを述べるからです。イエスは律法学者やパリサイ人に対して正しいことを述べる、そうすると彼らはそれに反発してイエスを殺そうとするのです。彼らがイエスのいわれたことに本当にそうですと、その正しさを受け入れれば、分裂は起こらないのです。しかしそれができない。正しさが明らかにされるということは、人間の罪が明らかにされるということです。われわれは自分の罪が明らかにされるときは、前以上に自分のことを主張し始めるのです。自分を弁護するために、自分の罪を隠すためにますます自分を主張し始めるのです。前以上にです。イエスが現れる前よりも、イエスがいらして、正しいことを述べると、それに反発して、もっと自己主張が激しくなるのです。家族の場合、たとえば、夫であり、父親が横暴(おうぼう)である時に、それに対して妻や子供があなたは横暴ですと言い出しますと、夫は、父親は前以上に横暴になるのではないでしょうか。それまでは言葉による横暴だった者が、今度は暴力をふるうようになるのではないか。
 
 罪人はその罪が指摘されれば、罪を悔いるのでなはく、ますます前以上に罪を増し加えていって、ますます罪人になっていくのではないか。 家族の間の平和が本当に相手を受け入れ、許しあうということに成り立っている平和ならば、問題はないのです。しかし家族の間の平和はしばしば誰かの我慢によって辛うじて成り立っている場合が多いのではないか。

主イエスは「わたしは火を地上に投げ込むためにきたのだ。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それでイエスは「火を地上に投げ込むために、洗礼を受けねばならない」というのです。これはいうまでもなく、ご自分が十字架で死ぬということを指しております。イエスはすでにヨハネから洗礼を受けているわけです。それなのにここでは「わたしが受けねばならない洗礼」といっているのです。
 
  イエスは、「火を投げ込むためにこの地上にきた」というのです。そしてその「火」が本当の火になるためには、自分が十字架で死ななくてはならないのだというのです。単なる火だけでは、それは裁きに終わってしまう。そして人間の罪を指摘し、それを裁くというだけの裁きだけでは、裁かれた人は、律法学者やファリサイ人、祭司長たちのように、ますます自分の罪を隠すために、弁護するためにいきりたち、ますます自己を前以上に主張し始め、ただ分裂だけで終わってしまうことになるのです。それで主イエスは、ご自分は最後には自分が死ぬことによって、その罪を自分が引き受け、その罪を自分があがない、その罪を赦す、そうでなければ、罪の問題は本当には解決しないことを知っておられたのです。
 家族の問題でも、父親の横暴でも、母親のヒステリーでもそれを指摘するだけでは真の解決にはいたらないで、そうした上でやはりその罪を赦し、その人を受け入れるという覚悟がなければ真の平和は訪れないのではないかと思います。
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「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」(エフェ3・18)なさい、というパウロのことばはありますが(偶数年の第一朗読)。今日の福音書はそれを説明するかのようです。
イエスは愛の火を投じ、それが地上に燃え広がることを命がけで切望しておられます。しかし、そのためには受けなければならない洗礼があるのです。イエスの十字架の死と復活は、イエスがこの地上に火を投じようとしてのことだったのです。イエスの思いは平和をもたらすことでも、地上の不正、不信仰のため、対立、分裂をもたらすことになるのでしょう。
主よ、洗礼により、イエスの愛の火をともされた者が、イエスと苦しみを共にして愛の火が地上に広がり、真の平和をもたらすことができますように。
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私たちは祈るとき、よく、イエスに出会いたいと願っています。でも、心からそう願っているでしょうか?イエスとの出会いによって、今まで自分が積んできた全てのものを失うかもしれません。そんな予感から、心のどこかで、イエスとの出会いを避けていることがあるかもしれません。この世における困難、痛み、弱さの只中で、主よ、あなたの愛を生き抜くことができますように。sese05
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洗礼を受けた時のことを思い出してみます。どんな気持ちだったでしょうか?これから、私は新しく生まれる‥‥これから、私は神の子になる‥‥これから、私はイエスの友になる‥‥そんな喜びがあったかもしれません。今日の福音には、「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。イエスを信じることは、決断と覚悟を伴います。新たに生まれ、神の子とされて、イエスの友になるということは、福音という新しい観点で生活を見直して生きることなのです。sese04
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キリストは「地上に火を投ずるために来た」。火は一つのシンボル(象徴)である(復活徹夜祭の「新しい火」 参照)。シンボルは大体複雑な内容を含んでいる。例えば、家に火がつくと、瞬く間に破壊される。毎日のように私たちが作っているゴミは火で焼かれる。キリストは罪の力を破壊する。人類のゴミである罪を焼かれる。
 また、火はものに変化をもたらす。例えば、食べ物。生の肉が火をとおしてビーフステキとなる。お米はご飯となる。小麦粉はパンとなる。火はものに本質的変化をもたらす。さらに、金属を溶かしてさまざまのものを作る。我々は住んでいる家を支えている鉄はを通っている。電車の車輌もレールも火でできている。
 火は清める役割をもっている。医者さんは注射するときに針を火で消毒し、殺菌する。家畜の伝染病が起こると、伝染を絶つために死んだ動物を焼くしかない。
 火は光をもたらす。今でも私たち祭壇の上にロウソクを使っている。キリストは「世の光」であると表すシンボルである。
また、火は暖かさをつくります。寒い冬の夜に家族はいろりを囲んで食事を食べます。
 ギリシア神話には火を初めて見つけたプロメテウスという人物がいます。彼は火を神々の住まいから盗んで人々のところに運んだといわれます。そのために罰を受けた。やはり、火は使い方によっては危ないものでもあると教える神話です。けれども、人類は火を見つけて以来手放すことはないです。生活に欠かせないものです。
キリストは罪を破壊し、清め、光とぬくもりをもたらす。また、生の人間をおいしいものに変える。キリストは人類に欠かせないものである。キリストを受け入れるのも、受け入れないのも、全く自由ですが、どちらにしても結果は同じではない。
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ローマ書
パウロはここで、基本的に、「これからもあなたがたは服従しつづけなさい。」と言っています。あるいは、信じつづけなさい、ということです。福音を初めに信じた大学の学生のことを思い出します。彼の場合、家族にも親にもクリスチャンがおらず、社会には新興宗教がはびこり、宗教アレルギーの学生が多い中で、クリスチャンになりました。また、これから自分で道を切り開き、企業に入り、昇進して、人々に認められるビジネスマンになるという野望も、神のみこころであれば捨てるかもしれないという決断も必要でした。あらゆる自分の願いや思惑を、聖書のことばに明け渡して、それでクリスチャンになったのです。同じようにこれからも歩んでいきます。これからも、他の人々が行なっていることや思っていることに反しても、神の呼びかけに応えていき、自分の願いや考えではなく、神の考えておられることを優先していく決断が続いていくのです。これが、パウロが話している、義の奴隷としてささげて、聖潔に進むことであります。 
罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます。けれども、聖潔に至る実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。聖潔に進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。信じたら、どんなに罪を犯しても神に赦されているのだから天国に行ける、と教える人がいますが、聖書に照らすと明らかに間違いです。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Ⅰコリント6:9-10)」とパウロが言いました。神の奴隷とされているのですから、必ず聖潔の実を結ぶのであり、聖潔の実が結ばれる結果として永遠のいのちを持ちます。

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ここで二つのことが対比されています。報酬と賜物です。私たちは罪を犯すことにより、その当然の報いとして死に至ります。けれども、永遠のいのちを持つときには、私たちが行なったことではなく賜物として受け入れるのです。神は、イエス・キリストにあって行なわれたものを、私たちに与えてくださいます。それを受け取るのが私たちの仕事であり、私たちがしなければいけないことは、唯一、信じることなのです。

 ですから、聖潔に進むことは、完全に神の恵みなのです。私たちが行なうことではなく、神がキリストを通して、すでに行なってくださったことなのです。古い自分はもうすでに、キリストとともに死にました。また、もうすでに、神の奴隷とされました。私たちは、これからもこのことを信じつづけ、受け取りつづけていきます。信じるときに、神の御霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちが自分ではできなくなっていることを行なってくださるのです。どうぞ、この新しい歩みの中に入ってください。自分がこれまで克服できなかった罪、悪習慣、それらをどうか、もうすでにキリストともに十字架につけられたことを信じてください。ただ信じるだけなのです。死んでいるとみなすだけで、私たちのうちで、神の御霊が、聖めの働きを行なってくださいます。問題は、自分の意思力が弱いからではなく、この御霊の働きの中に入っていなかったからです。神が用意されている義の賜物を受け取っていないからです。けれども、神の賜物として受け取るときに、神が私たちのうちで、新鮮な御霊の働きを行なってくださいます。


年間第29金
ルカ12.54-59

 ここでイエスはいきなり「偽善者よ」ということばが出てきます。どうして天気の模様を見分けることを知りながら、今の時代を見分けられないことが偽善者になるのでしょうか。われわれが天気の模様、雲を見てにわか雨がくると予想する、そのためにあわてて洗濯物を取り込むというようなことをします。われわれが天気の模様を知ってそれに備えるのは、みな自分の生活の利益のためです。しかし今の時代を見分けるということは、つまり神の裁きの時が近いことを見分ける、それに心構えをするということは、単に自分の利益のためにそうするということでは、もうおいつかないのです。何でも自分の生活上利益のために行動を起こす。あるいは、自分の目先の利益のことばかりに目をいっているからもっと大事な神の終末の裁きに対してわれわれは鈍感になってしまっているということです。それを主イエスは「偽善者よ」という言葉でいわれていることではないかと思います。
 
 更に主イエスは「また、あなたがたはなぜ正しいことを自分で判断しないのか」といいます。終末に備えるためには、「自分で正しいことを判断しなくてはならない」というのです。そしてその「正しい判断」とは何かということを言うのです。「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへゆくときには、途中でその人と和解するように努めなさい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを役人に渡し、役人はあなたを牢屋に投げ込むであろう」というのです。ここでは自分を訴える者と何よりも和解することが大事なことで、それが「正しい判断」だというのです。ここは何か割り切れないものが残るかもしれません。つまりここではもう何が正しいのかという真理問題(どっちが悪いか)は問われていない、なによりも早く仲直りしなさい、和解しなさいということが勧められているのです。真理問題ならば、裁判官のところに行って、堂々と争えばいいのにと思います。それが正しい判断のように思えます。しかしここではもう真理問題よりは和解のほうが大事だというのです。
 
 ここには主イエスのわれわれ人間に対するするどい洞察があるのではないかと思います。われわれの真理問題、もめごと、人間関係というものも、結局は自分がいかに正しいかということを主張することにすぎない、またいかに自分にとって利益をもたらすかという問題にすぎないのではないか。自分を訴えるものがいるということは、やはり自分の側になんらかの理由で巻き込まれるものがあるということです。それならば、その自分の非を早く認めて、もう自分を主張しないで、和解をしたほうがいいということになります。ここで言われている「和解」とはただ妥協とか調停するということではないのです。自分の非を認めるということです。謝るということです。
 終末に備えてわれわれが目を覚まして、それに備えるということは、自分の罪を認め、自分の非を認めて、それに備えるということです。
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「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」日常生活の中で、自然現象を見て天候を見分けることをしているのに、神からのしるしを読み取る力を育てているでしょうか。今は神からのしるしがイエスを通して与えられています。
主よ、イエスに従って生きるよう呼びかけられているわたしたちが、神のまなざしを持って何が正しいかを判断し、互いに心から和解し合うことで、神の道を歩むことができますように。sese06
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私たちは毎日のように天気予報をテレビ・新聞などで見ます。それに為替相場の動向、ドル・株価の変化、健康の指数、経済の詳しいデータも毎日ぬようにテレビ・新聞にのります。人々はそれを見て社会の動きを読みとって敏感に反応します。天気予報のアナウンサーは出かけるときに傘をもって、とか着る服まで親切に教えてくれます。私たちはそれに関心をもって敏感に反応します。しかし、聖書について、魂の救いについて考えさせてくれる番組はありません。あってもそれに耳をかさないのです。そんな私たちをイエス様は「偽善者」と呼んでいます。なぜだろうか。本当の幸せはどこか
らくるのか、なぜもっと真剣に考えないのか、そういうお叱りでしょう。主よ、あなたのみことばにいつも心を向け、あなたのささやかな呼びかけに応えていくことができますように。
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晴佐久昌英、『十字を切る』、120頁以下

「ただいま」
正(しょう)太郎くんが学校から帰ってきました。お母さんはお買いものに行っているようです。正太郎君くんはランドセルを部屋に放り込むと、お母さんにいつも言われていたとおり手を洗い、うがいをしました。きれい好きのお母さんが毎日洗うタオルからは、いい香りがします。リビングルームに入ると、テーブルの上にお花が飾ってあり、メモがありました。
「正太郎へ。お帰りなさい。冷蔵庫におやつが入っています。ちゃんとお祈りして食べてね。今夜はカレー。いい子にして待っててね」。
カレーの大好きな正太郎くんは、思わず「やったー」と叫ぶと、冷蔵庫からおやつをだし、十字を切りました。
正太郎くんは幸せ者です。お母さんの愛に包まれて、毎日何の心配もなく暮らしています。お母さんの愛そのものは目に見えませんが、おうちの中にいるだけでそこにお母さんの愛があふれているのがわかります。タオルもお花もおやつも、お母さんが家族のために整えたものですから、タオルに触れればお母さんの愛を感じるし、お花を見ればお母さんの愛が見えるし、おやつを食べればお母さんの愛を味わえます。そもそも、おうち自体がお母さんの愛の表れですし、正太郎くん自身がお母さんの愛のしるしですから、すべてはお母さんの愛の中なのです。

正太郎くんが生まれてきたのは、偶然ではありません。どうしてもわが子がほしいという親心、親の強い願いがあったからこそ生まれてきたのです。
この世界は、神の親心によって創られました。私たちの生活にはそれを感じられるしるしはいっぱいあります。それらを感じられない人にたいしは、今日の福音書は「偽善者よ」と叫んでいます。
ーーーーー
ローマ書
 この文章は、日本語で読むと難しいのですが、すべて英語の直すと理解できます。原理も、律法もみな、Lawだからです。ですから、ここで4つの原理を見出します。一つは、先ほどから話している神の律法です。神が、これこれこうしなさい、と命じられていることです。そして二つ目は、その律法を喜んでいる、心の律法があります。それを行なってみたいと願っている法則です。けれども、三つ目に、からだの律法があります。からだの中に悪が宿っている原理があるのです。そこで、罪の原理があります。からだに悪が働く原理によって、罪をどうしても犯してしまう原理が働いているのです。これでは、たしかに、「罪に売られた者」です。罪によってがんじがらめになったのです。

2B その解決 - 「主イエス・キリスト」 24-25
 けれども、解決があります。次をご覧ください。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 えっ、なんでこれが解決なの?逆に敗北宣言ではないですか?と思われるかもしれません。そうなんです、敗北宣言ができるようになったとき、私たちに初めて希望が見出されます。13節からのパウロの言葉に注目してください。何回、「私は」という言葉が出てきたのでしょうか。新改訳には、ここまで21回出てきました。この「私が」が問題だったのです。これは、神のみことばを行ないたい、聖い生活を送りたいと願うクリスチャンならだれでも陥る過ちです。私たちはこう祈ります。「主よ。おゆるしください。朝にデボーションを持つことができませんでした。必ず、次の朝には、持つようにします。」こう神に約束するのですが、その時点で、「私は、次の朝には、持つようにします。」という、自分の肉に拠り頼んでしまっている過ちがあるのです。思い出してください。パウロは、「私たちは罪に対して死んだ者であり、神に対して、キリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」と言いました。けれども、私たちが、自分がキリストともに十字架につけられていることを忘れた瞬間に、この「私が」という動作をしてしまい、それゆえ、からだの原理によって罪が働き、自分は行ないたくないと強く願っているのに行なってしまうのです。

 失敗すると私たちは、さらに何とかして、それを行なわないように努力します。けれども、ますます、行なえないどころか、してはならないことまでするようになります。そしてついに、パウロの叫びである、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言うことができるのです。チャックはよく、このことを説明するのに、水の中で溺れている人を助けるためのレスキュー隊のレッスンを話します。溺れている人を助けるとき、その人がまだ元気なときは助けることはできません。助けようとすると、その人は自分にしがみついて、自分までもが溺れてしまう危険があるからです。けれども、溺れている人が、もう自分はだめだと思ったとき、自分でもがくのをあきらめたときに、初めて手を差し伸べることができるそうです。救いは自分にはない、と知ったそのときに、私たちに道が切り開かれます。




年間第29土
ルカ13.1-9

ガリラヤというのは、イエスが育ったところです。エルサレムから遠く離れておりますが、そこは反ローマ帝国の政治運動の盛んなところだったようです。それでこのビラトに殺された人々もあるいはそういうグループだったかもしれないと言われております。その人々が殺された。その上彼らの捧げる神への供え物である動物の血に混ぜられるという屈辱的な目に会ったというのです。そういう残酷な目にあったのは、きっと彼らがよほど悪いことをしていたからではないかという思い込めて、イエスに報告したと思われます。なにか普通以上の理不尽な災難にあった人をみますと、その原因がわからない時には、われわれはなにか理屈をつけてその理由を探そうする、そうしないと安心がいかないのです。そういう理由付けをして、彼らがそのような悲惨な目にあったのは、彼らの罪に原因があったのだ、しかしわれわれはそれほどの罪を犯しているわけではないから、そのような悲惨な目にあわないだろうと安心したいのです。それに対して主イエスは「そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのです。このイエスの「そうではない」という言葉が、因果応報という考え、あるいは祟りという考えを否定した言葉なのかどうかという問題があります。

つまり自分を因果応報の適用範囲から遠ざけて、自分を安全地帯において、他人の悲惨さを眺めるという気楽な無責任な姿勢をイエスはここで戒められたのだというこです。イエスはここでは他人の陥っている悲惨な状況をみて、それに因果応報という思想を当てはめて他人を裁くという態度を厳しく戒められたということです。自分の現在の安泰している状況から考えて、自分はそれほど悪いことはしていないと考える、だから、こういう幸福な状況に自分はあるのだとあぐらをかいている、そういう姿勢をイエスは厳しく戒められたのだということになります。罪とか、罰とかという問題は、他人を非難したり、裁くために利用していけないので、それはいつも自分の問題として考えるべきだということです。

現代人は因果応報とか祟りという思いからは無縁だと言われる。しかしその考えを追放すると同時に、われわれ現代人は人間の罪に対する深い認識まで追放してしまったのではないか。そのために罪というものを人間の環境のせいにしたり、政治的なものに押しつけようとしたりするのです。しかし罪というものは、いつでも不合理なものをその中に潜めております。罪というものは、人間がどんなに合理的な知恵で分析したり、解決をはかろうとしても決してそれを解決などできないものです。

そしてそのあと、主イエス・キリストは一つの譬えを語ります。この園丁はイエス・キリストのことです。なんとかしてわれわれが自分の罪に気づき、悔い改めさせようとして忍耐強く待っておられる、そのようにしてとりなしの祈りを捧げて待ってくださる園丁がおられる、それなのにどうしてお前たちは悔い改めようとしないかのというのです。そしてそのかたはとうとう最後には、ただわれわれの悔い改めを待つだけではなく、とうとう最後にはわれわれの代わりに十字架についてくださろうとしているかたなのです。悔い改めとは、自分の罪に気づくことです。そしてその悔い改めを忍耐強く待ち、とりなしてくださるかたがおられるということに気づくことです。そして自分の罪に気づくとは、自分の罪に対する罰を誰かが身代わりに引き受けている、そのようにして自分の罪は赦されている、そのことに気づくことです。そのようにして自分の罪を自覚すること、それが悔い改めるということです。
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今まで何かを待つあるいは待たせる経験がありますか?人と待ち合わせをする時、電車を待つ時、何年ぶりの友たちとの約束、干害(かんがい)のとき雨を待っている農夫の心、収穫を待っている耕作人(こうさくにん)、何よりも人間の成熟を待つ経験がありますか。我々は待つ時があり、待たせる時があります。おん父は私たちが悔い改めることを待っているかもしれません。私は主に、何を待たせているでしょうか。主よ、それを直ちに実行する力を与えてください。sese05
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人が生きる歳月を重ねていくとき、時間的な年齢、精神的な年齢、健康上の年齢と、分けて考えることができるかもしれません。詩編には、人の一生は七十年、八十年、と記されていますが、現代、平均寿命はさらに延びています。植物は、実を結ぶと落ちます。私たち人間の寿命が延びるのは、もしかすると、まだ実を結ばないから?物理的には平均九十年でも、精神的に実を結んでいるでしょうか。
主よ、私が人間として実を結ぶとは、どういう意味なのでしょう?どうぞ教えてください。