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四旬節 第五月曜日
ヨハネ8・1-11
ヨハネは光と闇のコントラストを用いて、イエスが光であり、まことの証しと正しい裁きを行うかたであることを述べます。そのために姦通の女とイエスとの出会いを描きました。彼女は光の中を胸を張って歩くことができません。彼女は神を裏切り続けてきたイスラエル、全人類、わたしたちの象徴です。イエスは女を罪に定めず、救います。それが神の裁きです。イエスの裁きが正しく、その証しが真実なのは、イエスが父なる神と一致しているからです。ヨハネはイエスと父との一致を、イエスの由来と終極目標の面から述べます。「わたしは自分がどこから来たか・どこへ行くかを知っている」。イエスは父から派遣され、父のもとにもどることを知っているのです。人々はその秘密をしりませんから、イエスと御父との一致もしりません。人々には御父は見えません。だから、イエスは自分のことを自分だけで証ししているうそつきにすぎません。イエス一人の証言は無効だという結論になります。この世がイエスを受け入れない以上、イエスの父を知ることはできません。イエスを知れば、父についてもわかるはずです。イエスと父とは一致しているからです(ヨハネー4・7-10)。(荒)
私達は今住んでいる社会は平和な社会、民主主義に基づいた社会だと思っている人が多いでしょう。ところが本当の姿は違います。弱い立場の者を踏みつける、管理教育によって子供の人権を無視する社会でもあります。表向きの顔しか見えていない人に、現実を見えるように、イエスは光になって下さいます。
イエスと姦通の女が大勢の民衆、律法学者たち、ファリサイ派の人々に取り囲まれています。しかし、イエスが女と言葉を交わすのは、その女と一対一になってからです。イエスと真の意味で出会うには一対一となる時が求められるようです。イエスの「罪を犯したことのない者が...石を投げなさい」
という言葉は私たちを原点に立ち返らせます。大義名分を振りかざして人を裁く時、自分の貧しさは見えなくなっています。この世で唯一人を裁く権利のある方の「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、なんと私たちの心を解放し、真の自由へと向かわせてくれるものでしょう。
主よ、あなたともっと親しく出会わせてください。そしてあなたの言葉を私の心の奥深くに響かせてください。
四旬節 第五火曜日
ヨハネ8・21-30
ヨハネは、イエスが十字架にあげられることを、栄光へ高かめられたこととして捉えなおしました。信仰をもって受難の出来事を振り返ると、十字架は父の愛、子の愛の現れとなります。と同時に、イエスを信じない人びとのかたくななさも、大きな悲劇としてクローズアップされてきます。パウロはすでに、ユタヤ民族の救いと滅びについて、辛い思いで書きました。「かれらの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、かれらが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくてなんでしょうか」(ローマ11・15)。
パウロの宣教から五十年後、ヨハネの教会は、ユダヤ人よりも異邦人の方が多くなって、ユダヤ教の伝統や律法は過去の問題になっていました。ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教との対立を激化させ、イエスをメシアとして信じるかどうかをめぐって戦っていました。
ヨハネはイエスを信じないかたい心を、光に敵対する闇、「この世」、「下からの者」として表現しました。「あなたがたは下からの者、この世の者、自分の罪のうちに死ぬ」。
イエスが上からの者、「わたしはある」、すなわち、神の現存であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬでしょう。それは不信仰の罪であり、不幸でもあるのです。(荒)
イエスはご自分の行くところに人々が来ることができないと言われます。人々は、イエスがどこに行かれるかを知らず、また、イエスが
どこから来られたか、イエスが何者なのかをも知らないからです。その彼らからイエスは「あなたはどなたですか」という問いを引き出し
、最後には、「多くの人々がイエスを信じた」とあります。イエスの言葉に注意深く耳を澄ませ、その行いをよく見る時、イエスの背後に
おられる方が見えてきます。私の日々の生活の中に、このイエスがどのように息づいているでしょうか。今日、イエスを一層知り、イエス
に信頼して委ね、イエスの行くところに私も行くことができますように。

四旬節 第五水曜日
ヨハネ8・31-42
差別や偏見が自由を奪います。現代社会にも、差別や偏見によって自由を奪われた人びとがいます。難民、飢えた人びと、自分自身の衝動や欲にとらわれた人びと。
今日の第一朗読と福音書をつなげるキーワードは「自由」です。三人の青年はこの世の権力に対して自由を主張することが出来たのは、本当の神を信じたからです。ユダヤ人は神から選ばれた民族として、自由の子、アブラハムの子であることを誇りとしていました。そのプライドに妨げられて、真理に反対し、アブラハムが喜んで礼拝したであろうかた、イエスを殺そうとします。
イエスは父への愛のために自分をささげ尽くしました。それによってこの世の本当の姿が見えて、人は自己にとらわれている状態から解放されました。
イエスのことばに留まるなら(現代的に表現すれば、イエスと連帯する、イエスにつながることによって)真理はわたしたちを自由にし、解放します。イエスのいのちに結ばれることによって、自分のいのちを愛している孤立状態から、愛と奉仕によるいのちへと高められます。ヨハネは、「いけにえ」・「あがない」といった祭儀用語よりも、「自由」、「解放」という表現を用います。これはそのまま、現代的なことばとなって語りかけてきます。
イエスと連帯し、無知と不信仰から解放され、あらゆる偏見と束縛から自由になろう。真理そのものであるイエス、正義そのものであるイエス、自由を与えてください。信仰の自由を与えてください。(荒)
「真理は君たちを自由にする」とイエスは言っています。つまり私達はもともと自由ではありません。様々な偏見の奴隷になっています。
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イエスを信じて、従っているつもりでも、知らず知らずのうちに世の価値観に汚染され、奴隷になってしまうことがあります。今、わたしは何の奴隷になっているでしょうか。わたしの言動の源はどこからくるのでしょうか。神のみことばであるイエスを自分のうちに迎えて、耳を傾けているでしょうか。空しいことに心を向けず、さまざまな偶像に惑わされることなくみことばに宿る愛が、わたしたちの心を照らし、強め、清め、自由にしてくださいますように。sese07

四旬節 第五木曜日
「私はアブラハム以前からある」
ヨハネ8・51-59
イエスは自分自身については語らず、もっぱら神の自由について、神の働きの偉大さについて語りました。自分については神の沈黙に委ねました。それは、自分をメシアとして宣伝することよりも大いなることでした。
受難と復活を体験した弟子たちは、神の霊に満たされて、イエスのことばと生涯を振り返りました。かれは世の光だった。いのちのパンだった。かれは神のためにのみ生きた。自分の名誉を求めなかった。これらの考えはイエスの口に移され、イエスが自分の存在秘義を啓示する形で表現されました。「わたしは世の光である。わたしはいのちのパンである。道、真理、いのちである。わたしはアブラハム以前からある」。「わたしは自分の栄光を求めない。わたしの栄光を求めるかたがおられ、そのかたが裁いてくださる」。
アブラハムは神の子の栄光を待ち望んでいたのに、その子孫は、神の子がほんとうに来たとき、信じようとせず、石殺しにしようとします。神と人との和解の場、神殿からイエスは追放されます。イエスこそ神の現存の場、神殿そのものであったのに。罪の女を石殺しから救ったイエスは、ご自分の民から出て行かれました。(荒)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫といいながら、実はアブラハムらしくない生き方をしているように、私たちもキリストの弟子と自称しながら、実はキリストらしくない生き方をしているではないか。キリストを教会から追い出そうとしているのではないか。このような反省を促す福音です。
イエスの考えている「死」と、ユダヤ人の考えている「死」の間には、隔たりがあるようです。
イエスが、「わたしの言葉を守るなら、決して死ぬことがない」と断言できるのは、歴史を超え、この世を超え、永遠に生きておられる天の父を知っておられ、その方から聞いたことを語っているからでしょう。私たちもユダヤ人のように、生きるとは何か、本当のいのちとは何かを知っていると思い込んでいる。実は知らない…。キリストは私たちが知らないことを知っている。
こうしてイエスは私たちを永遠の命に招いておられます。
主よ、アブラハムのように信仰のまなざしでイエスを見、喜び、イエスの招きに応えていくことを教えてください。
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ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇~五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。
四旬節 第五金曜日
ヨハネ10・31-42
イエスは父に由来する善い業を行いました。その業によって、イエスを信じることができます。ところがユダヤ人(「ユダヤ人」のかわりに、「不信仰者」ということばを入れかえるとよくわかります)は、イエスの善い業よりも、イエスのことばを問題にします。善い業を認めることによって、それを行っている人物を受け入れ、またその人物を信じているので、言っていることも信じるというのが人間関係の基本です。ことばに振りまわされず、まず、その人の行為をよく見て判断しなければなりません。そのためには、じっくりと見ることが必要です。早急に、神の子かどうか、神からのものかどうか、いい人か、悪い人か、きめてしまおうとするところに、人間の浅はかな態度があります。(荒)
「わたしを信じなくても、わたしが行っている父の業を信じなさい。そうすれば、父なる神がわたしにおり、わたしが父なる神と一致していること、すなわち、神の子であることを悟るだろう」。
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エレミヤ預言者と同じようにイエスも大変せっぱ詰まった状況の中にいて、反対者から殺されそうです。けれども、神のささえを得て勝利をおさめる。イエスが誠意をつくし、どのように関わり続けてくださっても、頑なに、歯向かい続ける心がある。ヨハネ福音書が言いた
いのはこういうことだろう。
神を知りたいならイエスを見れば十分です。私達人間にとっては、神に出会う、神を知るチャンスは、イエス・キリストをおいてほかにありません。問題は、私達は神を本当に知りたいかどうかです。
イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだと。ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。
私たちも、ユダヤ人のように、日常生活で示される多くの善い業を見ても、それに気づかず通り過ぎてしまうことが結構あるのではないでしょうか。例えば、教会制度のお陰(業)で毎年四旬節と復活際を祝うことができます。様々な修道会のお陰(業)で色々な活動がなされている。様々なサービスに与ることができる。それは、当たり前ではない。ユダヤ人たちのように、「~が当たり前」というのであれば、それは自分の考えや価値観からしか、物事を見ていないからではないでしょうか。イエスは、御自分の「善い業を信じなさい」と言われ、そうすれば「父なる神とイエスとが一つである」ことを悟るだろうと言っておられます。
主よ、日頃何気なく見過ごしているあなたの善い業に気づかせて下さい。今も働かれるあなたの業すべてを通して父なる神を讃えることができますように。

四旬節 第五土曜日
ヨハネ11・45-56
大祭司カヤファは・知らずに預言しました。「一人の人が民にかわって死に、それによって全国民が滅びない方がよい」。イエスの死は、人間的な政治判断の結果であっても、神の目から見れば・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のためのあがないの死、身代わりの死でした。
ヨハネは・パウロほどあがないの死を強調しませんが、散らされた神の子らが一つになるための死を強調します。
とうとう最高法院を招集させるほど、イエスの存在はやっかいなものになっていました。民衆や弟子もイエスのメッセージの意味をよく理解できませんでしたが、権力者側はその意味をいやになるほど理解しました。そのメッセージが民衆に理解されたら自分たちが握っている権力は問われる可能性があると彼らには分かっていました。
これは大変な歴史の皮肉(運命)かもしれない。メッセージを必要とする人々はその意味を理解できず、自分の利益を何より考える人々にはピンと来ました。民衆はファリサイ派の話になれていて、全く違った観点からの話をするイエスの言葉の意味をよく読み取れませんでした。もしかすると私達もイエスのものの考え方にまだなれていないのかもしれない。
やはり、イエスのメッセージはすべての人、すべてのものを一つにまとめるものですから、それを理解するために広い心、開かれた姿勢が必要です。
私たちは、一人ひとりのひとが大切なんだと十分に知っています。しかし、カイアファの言葉「ひとりの人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなた方に好都合だとは考えないのか」という言葉は、私たちの心深くにも巣くっているのではないでしょうか。このことに気づくとき、「主よ、多くのひとのためという大義名分によって、小さくされた人々の中にいるあなたを滅びヘと運ぶことが無いようにお守り下さい」と祈らずにはおられません。どうか、わたしたち小さな者のために十字架の道を歩まれたとてつもないあなたの恵みを悟らせて下さい。

Holy Week     聖週間

受難の月曜日
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11

やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
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イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。

受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38

新しい家を建てる前に古い家を壊す作業はよく見かけます。聞くところによると、解体作業をする業者と建設する会社は違うそうです。仕事のタイプも違うし、労働者のスキルも違う、と。建設する場合は大工さんのような職人カタギが求められる。十分注意しながら進めなければならないのです。解体作業の場合は基本的に力づくで壊せばいい。
裏切りは家の解体作業のようなものです。短時間で長年住んだ家を壊すように、裏切りは人間関係を壊します。この聖週間にあたって、私はどちらのタイプに属しているのかを自問することは、とてもいいと思います。私は人間関係を壊すタイプなのか、それとも建設するタイプなのか、と。
解体業者は、社会に役立っています。裏切りも神の計画の中で何らかの役割を果たしているかのようです。神様は裏切りからも、よい結果を導きます。だからと言って、裏切りを行った人はどうでもいいということではないのです。ユダとペトロは全く異なった結果をもたらしたことからも分かるように、放っておくようなものではないのが明らかです。
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第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)とあるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、神の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。
ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということではないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)
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La messa a Santa Marta
Mai parlare male degli altri

Parlare male di qualcuno equivale a venderlo. Come fece Giuda, che vendette Gesù per trenta denari. E proprio prendendo spunto dal brano del vangelo di Matteo che preannuncia il tradimento dell’apostolo, nella breve omelia della messa celebrata la mattina di mercoledì 27 marzo nella cappella della Domus Sanctae Marthae, Papa Francesco ha messo in guardia dalla maldicenza. Con un invito esplicito e netto: «Mai parlare male di altre persone».

A loro il Papa ha voluto lasciare una riflessione sul gesto compiuto da Giuda, uno degli amici di Gesù, che non esita a venderlo ai capi dei sacerdoti. «Gesù è come una mercanzia: è venduto. È venduto in quel momento — ha sottolineato — e anche tante volte nel mercato della storia, nel mercato della vita, nel mercato della nostra vita. Quando noi facciamo una scelta per i trenta denari, lasciamo Gesù da parte».
Quando si va da un conoscente e il parlare diventa pettegolezzo, maldicenza, secondo il Papa «questa è una vendita» e la persona al centro del nostro chiacchiericcio «diviene una mercanzia. Non so perché — ha detto ancora il Pontefice — ma c’è una gioia oscura nella chiacchiera». Si inizia con parole buone, «ma poi viene la chiacchiera. E si incomincia quello “sp ellare”l’altro». Ed è allora che dovremmo pensare che ogni volta che ci comportiamo così, «facciamo la stessa cosa che ha fatto Giuda», che quando andò dai capi dei sacerdoti per vendere Gesù, aveva il cuore chiuso, non aveva comprensione, non aveva amore, non aveva amicizia.
E così Papa Francesco è tornato a uno dei temi a lui più cari, quello del perdono: «Pensiamo e chiediamo perdono», perché quello che facciamo all’altro, all’amico, «lo facciamo a Gesù. Perché Gesù è in questo amico». E se ci accorgiamo che il nostro parlare può fare del male a qualcuno, «preghiamo il Signore, parliamo col Signore di questo, per il bene dell’altro: Signore, aiutalo». Non devo essere io — ha quindi concluso — «a fare giustizia con la mia lingua. Chiediamo questa grazia al Signore».


誰かの悪口を言うことは、その人を売り込むことに等しい。イエスは商品のように売られる。歴史という市場、人生という市場、日常生活の市場でキリストは売られる。銀貨30枚の方がキリストよりも選ばれる。
ゴシップとか悪口は売却(ばいきゃく)である。ゴシップや悪口の対象となった人は商品となって、売られる。なんだか、おしゃべりには変な喜びがある。ユダもこのようにしていた。イエスに対して心を閉じていた。理解はなかった、愛まなかった。友情もなかった。(教皇フランシスコ、2013年3月26日)



受難の水曜日
マタイ26・14-25

使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」
主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
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ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
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「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。


「聖なる過越の三日間」

「過ぎ越し」

「ヘブライ語で《ペサハ》。すなわち《通り過ぎる》という動詞から来ている。エジプト脱出という神の救いのわざ全体うを表す重要なことばになった。」(『聖週間の典礼《会衆用》』、オリエンス宗教研究所、5頁)
過ぎ越しといえばエジプトからの脱出を思い出しますが、3500年前の昔話で正直言って他人ごとに聞こえる。キリストの過ぎ越しも2000年前の話でこれも昔話で身近に感じないでしょう。
過ぎ越しをもっと身近に感じるように考えてみたいと思います。

これはヘブライ語のことばからきていて、「変化」という意味もあります。
卵は鳥になる。これも過ぎ越し、変化、だから復活祭のシンボルです。神戸から梅田まで行くためには尼崎駅を過ぎ越さなければならない。人生も過ぎ越し、私たちは子供から、青年になって、大人になって、またおじいさん、おばあさんになる。けれども、おじいさん・おばあさんになっても、神様の目からみたら、みなまだ卵の状態です。今からどうなるのか、それは分かりません。言ってみれば、赤ちゃんに50歳になるのはどういうことかを説明してみるようなことです。小学生に親になることはどういうことか、教えてあげてみても分かる能力はないからね。人生において、私たちは様々な変化、過ぎ越しを体験してきました。どれもやさしいこととは限らない。子供は大人になっていく中で、思春期があったり、闘いがあったり、苦しいときがあったり、迷い、失敗もあります。けれども、振り返ってみて、色々あったけれども、それでも感謝できるなら、今からどうなるかを希望を持てると思います。
イエス・キリストは十字架という、最悪の過ぎ越しを引き受けて、新しい命のはじめりに変えてくださいましたから、とても大きな希望をもたらしてくださいました。
麦は変化してパンになります。ぶどうはつぶされてぶどう酒に変わります。キリストは残酷の死を受ける前の日に、自分の体を私たちのために、捧げもの、食べ物に変えてくさいました。キリストは仕方がないから、否応なしに死んだのではない。意識的に前の日にいやなことをとてもうれしいことに変えたのです。パンはキリストの体に過ぎ越す、変わることを可能にしました。昔のことばでいうと、「聖変化」です。
私たちは食事のときに、豚肉や野菜やケーキなどを食べます。その肉とか野菜は人間に必要なタンパク質になります。自然界には何百種類のタンパク質があるそうです。人間のタンパク質になれるのはたった16種類だそうです。これも不思議なことで、学者も完全に解明しているわけではない。どうやってパンはキリストの体になれるのか。これは赤ちゃんに新陳代謝(しんちんたいしゃ)のメカニズムを説明してみるようなことです。赤ちゃんは説明はいらないでしょう。素直に母乳を飲めば大きくなるだけです。不思議なことですが。私たちも素直にキリストの体をいただくと成長していくのです。卵の状態からきれいな鳥になっていくのです。
豚や鳥の肉は人間の肉となるといいましたが、キリストの肉の場合は、ちょっと違う側面があります。キリストの肉は人間の肉になるのではなく、逆なんです。キリストの肉を食べる人間は「キリストの体」と過ぎ越していくのです。そして、キリストのように人の足を洗うことのできる人間になるのです。





聖木曜日(主の晩餐の夕べ)    (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15

イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 (はんもく)がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。
 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
 私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
 アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
 ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
 何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
 イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)
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よく分かるようで分からない。分からないけれど、何か得体(えたい)の知れない深みがあって、その深みに誘い込まれていく。しかし、穴の奥に行けば行くほど暗くなり、自分が何処にいるのかも分からなくなる。でも、きっとそのもっと奥に光が輝いているのだろうと思って、どんどん深みに嵌る。ヨハネ福音書に記されている主イエスの業や言葉は、特にそういうものです。実に神秘的なのです。
 主イエスご自身が、今日の箇所でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われる。しかし、その直後には「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とおっしゃるのです。「後で分かるようになる」とおっしゃった直後に、「分かるか」と言われたって困ります。そして、さらに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃる。これは、将来のこととして言われているのではなく、現在のこととして言われているのです。主イエスの言葉を聴き、その業を見たその時現在のことです。「後で分かった時」ではありません。
 ヨハネの二重構造
しかし、そのことが分からないペトロが、「主であるあなたが、わたしの足を洗うなんて」と驚き、「決して洗わないで下さい」と言って拒否することは、罪の赦しと新しい命を拒否することなのであり、それは主イエスとの関りを拒否することでしかありません。
ここで言わずもがなのことを一つ言っておきますが、私たちは、聖書のことをよく知っている人のことを信仰深いと思い勝ちです。主イエスの業や言葉をたくさん知っていて、そらんじる事が出来るような人は信仰深いと思ってしまう。さらに原語を知っていたり歴史的背景を知っていたりすると、イエス様のことをよく知っていると思ってしまう。しかし、それとこれとは関係がないことです。もし、そうならいわゆる聖書学者が最も信仰深いということになりかねません。もちろん、学者の中にも信仰深い人、イエス様との関係が深い人はいます。しかし、聖書のあちこちをよく知らなくても、イエス様との関係の深い人はいくらでもいるのです。何が問題かと言うと、要するに、イエス様を罪の赦しを与えてくださる救い主として信じているかいないかなのです。私たちとイエス様との関係は、ただそこに関るのであって、それ以外のことでイエス様を幾ら知っていたとしても、それは何も知らないことと同じなのです。イエス様と三年間も寝食を共にして、そのすべての言葉と業を見てきたこの時のペトロは当時の誰よりもイエス様のことを知っていると言ってもよい人物ですけれど、でも、ここで主イエスに足を洗って頂かなければ、彼と主イエスは何の関わりもないのです。何を言った、何をしたと知っていることが、イエス様を知っていることではないし、まして信じていることではありません。そのことをよく踏まえた上で、やはり聖書をよく読むことは大事であることもまた言わずもがなのことです。
最後に、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉は何を語っているかに耳を澄ませたいと思います。この言葉を巡っては様々な解釈がありますし、考えれば考えるほど迷路に入るような気もしますけれど、興味深いことに、「体を洗った者」の「洗う」(luomai)は、「足を洗う」(niptw)の時に使われる言葉とは違います。そして、その「体を洗う」という言葉の用法を調べてみると、その一つは、ある人を祭司として任職する際に水で汚れを洗い清める場合に使われる言葉であることが分かりました。祭司の大事な仕事は、罪人に罪の赦しを与える犠牲を捧げる祭儀を司ることです。そういう聖なる仕事に就かせる為に聖別する。それが水で「体を洗う」ことなのです。
主イエスは、ユダを除くペトロを初めとする弟子たちに向かって「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけを洗えばよい」とお語りになりました。そこで洗い清められる汚れは、もちろん罪の汚れです。その汚れが既に清められている者。それは洗礼を受けた者を表すと私は思います。主イエスを信じる告白をして、水と霊による洗礼を受けた者は既に清められているのです。新たに生まれ、神の国に入れられているのです。そして、それは聖なる職務に就かせられることをも意味します。
毎週、罪の汚れを清められ、神様との平和を与えられた礼拝の最後にこの世へと派遣されることは、そのことを意味します。私たちは礼拝によって清められて、聖なる務めをするために派遣されるのです。他人の足を洗うために。

私たちキリスト者一人一人は、主イエスの十字架の死と復活の贖いの御業を信じる信仰において既に全身を清められています。しかし、私たちはこの世を肉体をもって歩く限り、絶えず悪の誘惑にさらされ、気付きつつも負け、気付くこともなく負けていることしばしばです。しかし、そういう私たちを主イエスは、この上なく愛し、愛し続けてくださっているのです。今日もこうして礼拝を与えられていること、御言が与えられ、聖霊が与えられ、主との交わりが与えられていることがその一つの証拠です。私たちは愛されています。赦されています。そして、今日も清められています。そして、今日も聖なる職務に就くように促され、そして祝福をもって派遣されるのです。その愛に応えて歩むことが出来ますように。祈ります。
 主イエスは過越祭の直前に、「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の者たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。その愛は、世にいるご自分の者たちのために過越の小羊として死ぬということです。そういう愛がここで言われている。
 そうなると、私は、いくらなんでも真似は出来ないと思う他ありません。このような愛は、主イエスだけが与えることが出来るものなのであって、その主イエスに「模範を示したのだ」と言われても、「はい、私もその模範に従います」と即座に応答など出来ません。しかし、主イエスは、それでも「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」とおっしゃる。理解だけではなく、あくまでも実行することをお求めになるのです。それは一体どういうことなのか?
よく教会の内外で、「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、「清く正しいクリスチャン」という言葉も聞きます。私たちも、信仰を持っていない人と自分たちを区別して、自分たちには罪がないかのように錯覚し、だから互いに愛し合えるかのように錯覚している場合もあると思います。私たちはえてしてそういう錯覚をしたいのです。しかし、錯覚は錯覚であって、現実ではありません。私たちは敬虔なクリスチャンであるかもしれません。でも、私たちはどうしようもない罪人です。それは教会生活を続けていれば分かることです。分かりたくないと目をつぶっていればいつまで経っても分かりません。でも、目を開けていれば分かる。御言によって目を開かれれば分かることです。私たちは誰もが罪人です。罪人だからこそ、主イエスによって罪を赦していただき、神の子として頂いたことを恵みとして受けることが出来るのです。信仰を与えられていない人と私たちの違いは、ただそこにあります。また、信仰を与えられていなかった当時の自分と、今の自分の違いもただそこにある。そして、恵みを恵みとして受ける道は、愛されたように愛し、赦されたように赦すということなのです。それ以外にはありません。恵みは応答することにおいて初めて実を結ぶのですから。




 
聖金曜日・主の受難の祭儀
ヨハネによる福音(18:1-19:42) 

ピラトの名が意味するもの
 
 まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。
この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
 それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
 第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。

(4)上に立つ者の責任
 しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。

http://www.km-church.or.jp/preach/

イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。

主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
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人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)

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昨日は主の晩餐を祝い、今日は主の受難で二日目、聖なる過ぎ越しの三日間は続きます。クライマックスは明日の徹夜際。徹夜際は火を灯(とも)して、「新しい火」の祝福ではじまります。そして、その火をろうそくにつけて光を作ります。
キリストはかつて、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12.49-53参照)とおっしゃいました。
イエスの十字架の死と復活は、イエスがこの地上に火を投じようとしてのことだったのです。イエスの思いは平和をもたらすことでも、地上の不正、不信仰のため、対立、分裂をもたらすことになるのでしょう。


キリストは「地上に火を投ずるために来た」。火は一つのシンボル(象徴)である(復活徹夜祭の「新しい火」 参照)。シンボルはたいてい複雑な内容を含んでいる。例えば、家に火がつくと、瞬く間に破壊される、消防車が来ても間に合わないこともある。すごい破壊力です。毎日のように私たちが作っているゴミは焼却炉で火で焼かれる。キリストは罪の力を破壊する。人類のゴミである罪を焼かれる。
 また、火はものに変化をもたらす。例えば、食べ物を考えてみましょう。生の肉が火をとおしてビーフステキとなる。お米はご飯となる。小麦粉はパンとなる。火はものに本質的な変化をもたらす。さらに、金属を溶かしてさまざまのものを作る。我々は住んでいる家を支えている鉄筋は火を通っている。電車の車輌もレールも火でできている。ガソリンは石油からとられています。石油は何千年も前に焼かれた木から出来上がりました。
 火は清める役割をもっている。医者さんは注射するときに針を火で消毒し、殺菌する。家畜の伝染病が起こると、伝染を絶つために死んだ動物を焼くしかない。
 火はまた光をもたらす。今でも私たちは祭壇の上にロウソクを使っている。キリストは「世の光」であると表すシンボルである。
また、火は暖かさ、ぬくもりをつくります。寒い冬の夜に家族はいろりを囲んで食事を食べます。
 ギリシア神話には火を初めて見つけたプロメテウスという人物がいます。彼は火を神々の住まいから盗んで人々のところに運んだといわれます。そのために罰を受けた。やはり、火は使い方によっては危ないものでもあると教える神話です。けれども、人類は火の使い方を見つけて以来手放すことはないです。生活に欠かせないものです。
キリストは罪を破壊し、清め、光とぬくもりをもたらす。また、生の人間をおいしいものに変える。キリストは人類に欠かせないものである。キリストを受け入れるのも、受け入れないのも、全く自由ですが、どちらにするかで結果はずいぶん異なります。

十字架という火から光が生まれます。十字架の光、キリストの光は、繁華街のようなキラキラ輝く光と違う。目をくらますまぶしい光、分別を失わせる光とは違う。「暗闇の中」に光るものです。つまり、人間の現実を見抜いた上で、人間の姿をありのままに見せる光です。



聖土曜日 

大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。

祈りのヒント

イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07

1 easter

毎日の福音
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復活の月曜日
マタイ28・8-15

救いの歴史において女性は中心的な役割を果たしています。イエスの復活のメッセージは婦人たちに託されています。神様は男女差別をしないことを意味します。当時の社会において女性は男性と同じような人間として扱われることはなく、むしろ人の目にふれないような所に生活する役割を与えられていました。

このようにして、復活はイエスの新しい生き方を表わすだけでなく、新しい人間関係、役割の見直しをもたらしているものです。差別意識、隔たりに支配された人間が、洗礼によって死に、平等、愛、正義に基づいた新しい人間に生まれ変わります。考えてみれば、洗礼を受けても古い生き方をし続けているならば、私たちにまだ復活のメッセージは届いていないということになります。そのメッセージを託された人々は、社会においてはあまり注目されないから、目を引かないから、権威をもつと思われていないから、私たちはそのメッセージを聴き損ねているかもしれない。(ステファニ)
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復活したイエスと出会った人たちには二つのタイプがあるようです。それは婦人たちと番兵たち、どちらもイエスの復活の知らせを受けました。婦人たちは何か手放しの喜びを持っている感じです。番兵たちは、そうではなく、世俗的にお金を得る機会にしました。復活したイエスに出会うのは大きな恵みですが、その時の私たちの態度はどうでしょうか。復活したイエスを心から迎え入れ、神の国の喜びと自由を生きることができますように。

復活の火曜日
ヨハネ20・11-18

電車や公共施設に置きっぱなしにされる品物はたくさんあるそうです。時には相当なお金を忘れる人もいるそうです。銀行の自動振込機の上に「お金を忘れないでください」と書いた一枚の紙があります。銀行員の話によると、人は忘れたものを探しに行かないらしいです。
ところがマリアは探していました。イエスが見つからなかったので「外に立って泣いていた」とあります。彼女は探し、ついにイエスに出会うことができました。もし彼女があきらめて帰ってしまったならば、多分イエスに会わなかったことでしょう。
小さな人を受け入れる人は私を受け入れるとイエスは教えていました。小さな人々、あまり注目されない人々、目を引かない人々を「探す」、注目するならば私たちもマリアと同じようにイエスに出会えます。(ステファニ)
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マリアは墓の中にイエスを探しましたが、イエスは墓の外でした。マリアが園丁だと思った人がイエスでした。キリストを信じる人々はイエスに出会いたいので教会に行ったり、巡礼をしたり、聖書を読んだり、黙想をしたりします。イエスは教会の中ではなくて教会の外、巡礼地の中ではなくて巡礼地の外、聖書や黙想の中よりも外の現実におられるかもしれない。そういう気持ちでもってこの復活節をすごしたい。私たちがそこには絶対いないと、思っているところにこそイエスがおられるかもしれない。
今、ここに、あなたを見出すことができますように。

復活の水曜日
ルカ24・13-35 

エマオに向かっていた弟子たちは聖書を知っていたでしょう。 しかし、聖書が分かると言っても、それは、たくさんの本を読み、勉強を重ねれば良いというものではありません。もちろん、知識は多いに越したことはありませんが、知識から理解へと進まなくてはなりません。知識は客観的なものですが、理解は、知ったこと、学んだことを自分のこととして当てはめることです。そこには主観的な作業が入ってきます。たとえば、小さいこどもでも暗唱聖句ができます。いや、こどものほうが、おとなよりたくさんの聖句を覚えることができるでしょう。詩篇23篇や、コリント第一13章などを全部暗記できるかもしれません。しかし、それを自分のものと理解しているかというと話は別です。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」という詩篇は、ある程度の人生の経験をしてはじめて理解できると思います。聖書のことばには、人生の体験を経ないとわからないものが数多くあります。私は神学校を卒業した時、聖書のことは何でも知っているように思っていました。しかし、毎週、毎週、ひとりびとりの現実の生活を考えながら説教しなければならなくなった時、私は、まだまだ聖書が分かっていないと思うようになりました。そして、様々な体験をして、聖書が分かるようになってきました。多くの人が「聖書は読むたびに別の意味を持って来る。」ということを感じています。聖書の「解釈」(interpretation)は一つかもしれませんが、その「適用」(application)はいくつもあって、ひとりひとりに、また、読むたびに違ってくるからです。聖書は、単に客観的に研究、分析するだけのものではありません。それは、神から「私」へのメッセージとして読むべきものなのです。

 そして、客観的な「知識」、主観的な「理解」へと進んだなら、次に、人格的な「信頼」へと進みましょう。聖書にある約束を信じて神に任せていく、聖書にある命令に聞き従う、聖書にある慰めによって心を満たす、聖書にある祈りのことばの通りに祈るというように、知識が理解に、理解が信頼に進んでこそ、「聖書が分かる」ようになるのです。そして、聖書が分かる時、私たちの目は開かれ、主イエス・キリストが分かるようになるのです。

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人生は与えられた道のりを歩むようなものだとよく例えられます。その中でさまざまな出会いがあります。先週大学の新入生に会いました。年齢と出身はいろいろですが、彼らの目の中に今の生活だけで満足しない、何かをつかみたいという気持ちが読めとれます。彼らは自分の人生の道で私とばったり会うことになりました。この出会いは私にとってどういう意味があるか今は分かりません。
エマオの二人が絶望感におそわれて歩いていました。何気なく近づいて来て聖書の話をしてくれたその人に何かあたたかいものを感じたでしょう。有難かったでしょう。そのために彼を誘って共にテーブルを囲んで食事をしたかったでしょう。一緒に食事した時にイエスだと気がつきました。道の途中、言葉を通じてのつながりでしたが、食事を通じてのつながりは心の中までふれました。私たちも毎日のミサにおいて生きたイエスにつながるのです。(ステファニ)
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イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。

 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。

 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。

 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。

 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。

復活の木曜日
ルカ24・35-48

毎年数百万人の子供が死んでいます。その死に対してテレビカメラが向けられることもなく、マスコミに注目されることなく、世界の人々にほとんど気づかれることもなく死んでいきます。これはユニセフ(国連児童基金)が毎年発表する「世界子供白書」に書いてあることです。
イエスは私たちと共に生きていることを示すのに手段として食事を使いました。世界の富は数ヶ国、そして少人数の手に収められて(牛耳られて)います。東京で一日に捨てられる食べ物によって、数十万人の腹を満たすことができます。神から造られた富が平等に分配されるということは数百万人の子供にいのちを与えることを意味します。
死ぬことが定められている子供たちに食べ物を与えることは、人間に実現できる復活です。人類が復活を信じていれば、抱えている問題を解決する知恵と力を見出すでしょう。(ステファニ)
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直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
復活したイエスに食事はいらないと思われがちですが、魚を食べられたのは何故でしょうか。これは弟子たちに理解させるため、弟子たちの目線に合わせるためでしょうか。なぜわからないの!といわずに、叱らないで相手に合わせて共感するところに優しさが感じられます。弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
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聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
  例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。
そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
 しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
 しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
 弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
 しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。
そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
 私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
 

 聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
 私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm

直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。

復活の金曜日
ヨハネ21・1-14 

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・弟子たちは、故郷であるガリラヤに戻って、そこで宣教を始めました。しかし、何も取れません(21:4)、何の成果も上がらなかった。弟子たちは失望し始めます。イエスの復活は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑でした。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されて私たちに伝道の使命を与えられたのであれば、それなりの成果が出るはずではないか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、再び漁に出ることにしました。

復活に生かされた生活

・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っています。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来ました。それにもかかわらず、イエスの到着が予定よりも遅くなると、不安になり、自分たちが出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものです。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうです。神が私たちを養って下さると信じていても、実際に失業してみると、「これからどのように暮らしを立てれば良いのか」と悩み始めます。

・今コロナウィルス感染拡大による営業自粛や外出自粛で、飲食店やホテル・旅館等は売り上げが半分や三分の一になり、家賃や給与が払えなくなり、事業継続が難しい状況に追い込まれています。個人でも解雇されたり、給与が減ったりで、明日の生活の目途が立たない人も出ています。国や自治体も様々の支援制度を打ち出していますが、手続きに時間がかかり、今日・明日の資金繰りにも窮迫し、心が折れ始めている人も出ています。「主は本当に私たちを養ってくれるのか」、信仰者の中にも疑う人も出てくるでしょう。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、これが私たちにとって最大の問題です。弟子たちもそうでした。イエスが復活されたことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていなかった。だからイエスが再び来られたのです。
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イエス様の弟子達は、まさに「イエスという人」に自分自身の人生を託していました。
つまり、弟子達にとって、主イエス様は、彼らの希望の星でした。
この方にさえ付いておれば、きっと将来は安泰だ。
きっと将来はこの方の下で、権力を手にいれて、羽振りをきかせる事が出来るはずだ。
程度の差こそあれ、彼らは全員がそういった思いで、この数日前まで、イエス様に従ってきたのでした。
 
さて、あの十字架の時のことでした。
 あれほどまでに忠誠を誓った筈のイエス様を、自分たちは、あんなにもあっけなく見捨ててしまった、命からがら逃げ出してしまった、あの不甲斐(ふがい)なさ。
それは彼らには、最初の勢いが良かっただけに、一層情けない、
思い出したくもない自らの行為でした。
或いは「意気揚々と故郷を出てきたものの、一体どんな顔をして家族の所に帰ればいいのか?」
あるいは、言い訳がましく、
「心ならずも、あの時には逃げ出してしまい、無様な所を見せてしまったが、それはここにいる全員が同罪だから、まあいいや」
「それに、自分たちは逃げただけだが、みんなのリーダーを気取って、偉そうにしていたペテロさんなんかは、イエス様を裏切ってしまったのだから、あの人に較べれば自分はましだ」きっと、こんな事ばかり考えていたのではないでしょうか?
 
あまつさえ、みんなからそんなふうに思われていただろうペテロに至っては、きっとその場にいたたまれなかったのではないでしょうか?
きっと彼はね、その場の誰よりも深く傷ついていたのだ、と思うのです。
そんなふうに、その場にいた全員が、あれやこれやと考えながら、きっとですね、自分だけは人よりはましだと言えるような、言い訳や逃げ道を考えていたかも知れません。
そうしましたら、その部屋の中に、まるで壁をすり抜けるようにして、イエス様が入ってこられたのです。
それが、20章までの出来事でした。
そこでね、彼らは、イエス様が生き返られたのだ、という事を知ります。そして大喜びをしたのです。
そして21章になるのですが、
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
とあります。
もう一度お姿を現された、と書いてあるのですね。
という事は、あの部屋の中で、弟子達にお姿を顕されたイエス様は、皆に顔をお見せにはなっただけで、またすぐに、いなくなられた、という事なのですね。
 
つまり、弟子達は、「イエス様は復活されたのだ、だったら、前と同じように、もう一度、この方に従って行けばいい」
きっとそう考えたのではないでしょうか?
まずは一安心した筈だったのですね。
会社がつぶれてしまって、どうしよう?と思っていたけど、大丈夫、再建されます、という事でみんな安心していた、すると又社長が雲隠れしてしまったぞ、というところではないでしょうか?
 
さて、みんなは、一体この時に、どう思ったのでしょうか?
 
聖書を読む、ということはね、こういう事を想像しながら読むのです。
すると、あれこれと考えが浮かんできて、とても楽しいのです。
 
さて、彼らはね、またまた、どうすればいいのか?と思い始めたのですよ。
そしてね、今回は、前の時とはちょっと事情が違います。
と言いますのは、彼らは、最初の時は、イエス様はもうおられない、死んでしまった、と思っていました。
だからそれなりに、自分の身の振り方さえ考えれば良かったのです。
はなはだ帰りにくいけれども、ほっかむりでもして知らん顔をして、親元にでも帰って、ほとぼりが冷めるまで待てばよかった。
ところが今回は、そうではなくて、イエス様は生きておられた。
じゃあ、プロジェクト復活だ、と思えば、またイエス様は見えなくなってしまいました
さあ、帰るに帰れない、と言ってこれから一体どうするの?
これは一体どういう事なんだ?
イエス様が蘇られたという事は分かったけれど、でもそれからが、わからんじゃないか?
イエス様は一体この私達に、なにをさせようというのだろうか?
そんな、ハテナマークがみんなの頭上にいくつも飛び回っていた、そんな数日を、彼らは過ごしていたのではないでしょうか?
 
彼らはね、見失っていたイエス様を見いだした、と思ったとたんに、又もや見失ってしまったのですね。
それで、「ガリラヤで会える、と言われたイエス様のお言葉だけを頼りに、このガリラヤ湖の畔まで来たのです。
しかし、それからどうすればいいのか分からない。
こういう時、というものを、私達も時折経験させられる時がありますね。
 
  (どうすればいいのか?みことばの約束を信じて待つのです)
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イエスは働くものの苦労をいやすために炭火を起こし、魚を焼いてパンも準備して待っていました。そして弟子たちを食事に招きます。弟子たちが取った魚、労働のみのり、いのちのかてになるために捧げます。湖のほとりの静けさを通して主のやさしさと弟子たちの感動が伝わってきます。
復活の物語は食事で終っていますが、それは、復活が天国における祝宴の始まりであることを暗示するためです。
ヨハネの好む七という数字が、七人の弟子で表わされ、多様性と一致、つまり完全さを象徴しています。153匹の魚と破れない網は、あらゆる時代の多種多様なキリスト者の、生き生きとした集まり、教会の一致と多様性を象徴しています。魚は初代教会では、イエスはキリスト、神の子と信じるキリスト者を表わす暗号に使われました。(荒)
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私たちはよくイエスと出会いたいと願って祈ります。しかしイエスは私たちの期待(希望)通りに現れません。復活したイエスはご自分が行きたい所に、行きたい時、ご自分のしたい方法で現れます。私たちがイエスと出会い、イエスに従うのは私たちの様式を捨ててイエスの様式を受け入れる時でしょう。主よ、あなたの導きに気づかせ、従わせてください。
復活の土曜日
マルコ16・9-15
弟子たちは、自分の故郷、社会的・経済的・精神的地盤から離れ、全く異なるメンタリティの人々の中に、異邦人のように入っていきます。「地のはてまで」、たよるものをなに一つ持たず、ただイエスが主であることだけを頼りにし、イエスだけを伝えるために、出かけていきます。
イエスが神の福音を宣教したように(マルコ1・14)、弟子たちも世界中どこでも福音を宣教します。福音宣教は、すでに神の力の介入の現れであり、全世界の救いを近づけます(引き寄せます)。「私は、あなたを国々の光として、地のはてまで、私の救いをもっていかせよう」(イザヤ49・6)とイザヤ書に書いてあります。イザヤは主の霊がダビデの子孫に注がれ、彼によってイスラエルが解放され、幼子が毒ヘビの穴に手を入れても害を受けない、平和な時代を予言していました。マルコは、そのような時代をもたらす者として、宣教する弟子たちを描きました。(荒)
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見た人が言うのを信じなかった。信じることの難しさです。死んだ人が復活して姿を現すということは、人間の理解をはるかに超えたこと、信じられなくて当然でしょう。それでも確実に、信仰は伝わってきています。それは確かに人間の業ではなく、神の業といえるでしょう。
主よ、信じる恵み、主の復活の喜び、希望、平和をもっと深く味わう恵みをお与えください。
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復活したキリストは、弟子たちの日常生活の中で、普段の仕事(魚を取る、朝の食事)の只中で現れる。しかし、それはキリストであると理解するのは、これは人間の能力をこえるのだ、と。普通の考え方、常識ではたりない。何も取れなかった夜を体験したあとに得られる認識である。深い祈り(瞑想)を通して得られる生命が必要である。

2 easter

復活節 第2月
ヨハネ3・1-8

キリストの復活を信じることによって、弟子たちは生まれ変わる体験をしました。イエスはかつてニコデモに語ったことが復活の後に、その意味が明らかになった。私たちは、キリストから聞いたことばはニコデモみたいに素直に受け止めるが、その意味は必ずしも分かると限らない。十字架で行き詰まって、復活する体験で初めて分かることがあります。弟子たちは、イエス様の十字架を見て、裏切り、復活したイエス様にゆるされ、イエス様のすごさを本当に体験したのでした。だからこそ命を捨て、証しすることができるようになったのでした。その伝えによって、キリスト教は成立したのです。
ファリサイ派の教師であるニコデモは、「神のもとから来られた教師」であると認めたイエスから、律法の理解や満たし方について新しい教えを期待していたのでしょう。ところが突然、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの答えを聞いて、その意外さに驚きを見せます。ニコデモはイエスの言葉《アノーセン》を「新しく」と理解して、イエスは「もう一度」《デウテロン》(二度目を意味するギリシア語)肉体が生まれることを語っておられるのだと誤解するのです。
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「新たに生まれかわる」とは、肉からではなく霊から生まれた者にかわること、自分の力に頼るあり方から、神の力、神の働きに心を開くあり方へとかわること。神の霊にすべてを委ねる時、私たちは神の国を見ることができます。それは神の正義と憐れみの支配する所です。神の霊が私をどこへ導くのかわかりませんが、心配せずに神の息吹に信頼しましょう。その時、希望と平和、喜び、慈しみに満ちた神の国に導かれるのです。
主よ、復活の栄光に満ちたあなたを信じます。「自分」という思いを取り去ってください。み旨のままに新しく生まれかわることができますように。

復活節 第2火
ヨハネ3・7-15

私たち人間は生きながら天に上り、上からこの世を眺めることはできません。この世の価値観の中に生まれて生きる、地からの者です。しかしイエス様だけでは、天からの者だと言われています。その天からの者が、この世に下りてきたと言うのです。天が上、地が下という空間的な意味ではなく、これは神の子のへりくだりを示す言葉でしょう。つまりこの世の価値観の中に、神の価値観を持ち込んでこられたのです。じつは、この世をこの世たらしめているのは、神の価値観なのですが。
私たち人間は、この世の価値観ですべてを判断しがちです。自分の立場から語るのであって、神の側に立つことは難しい。しかしイエス様は、神の側から語られたみ言葉です。つねに神の側に立って考え、それをこの世の言葉で語るのです。神の側と人の側の両方に立てる方なのです。ですから、この世の言葉であって、この世の言葉ではないのです。だからこそこの世を救う言葉なのです。私たちはこの世の価値観を、神に押しつけてはならないのです。かえってこの世の価値観を、神の価値観で見直さなければならないのです。
この風の比喩で大切なことは、風は「欲するままに吹く」とか、「あなたは風がどこから来てどこへ行くのか知らない」と言われているように、人間は風をコントロールすることはできないという事実です。風があることは、「その音を聞く」ことで分かります。すなわち、御霊の働きがあることは、力ある業(奇跡)が現れたり、人間の在り方を変えるという事実によって知ることができます。しかし、その御霊の働きを人間の側からコンロールすることはできません。御霊は「欲するままに」働かれます。人間は、ひれ伏して、あるいは虚心に、その働きに身を委ねるだけです。
では、どうすれば御霊の働きを身に受けることができるのでしょうか。この問題はすぐ後に取り上げられることになりますが、ここでは御霊の働きが、まったく人間の側の計らいとか努力を超えた、神の側から一方的に与えられる事態であることが指し示されています。
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水のこころ
                   高田敏子

            水は つかめません
            水は すくうのです
            指をぴったりつけて
            そおっと 大切に──

            水は つかめません
            水は つつむのです
            二つの手の中に
            そおっと 大切に──

            水のこころ も
            人のこころ も



         作者(高田敏子 Takada Toshiko) 1914(大正3)~1989(平成1)。




復活節 第2水
ヨハネ3・16-21

闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
 百聞は一見にしかずなどと言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見えると断言できるでしょうか。物質的なものが見えること、それはもちろん大事ですが、しかし本当はそれよりはるかに大切なものがあるのです。
 「心の目が見えているのか」。それが神様から今問われています。バルティマイと同じように、私たちこそ「私は何も見えていない人間です。私を憐れんでください。私は目が見えるようになりたいのです」と、何度も何度も叫ぶべきなのです。そして眠りからさめ、光そのものである神に照らされて、立ち上がり、光の中を歩めるよう、回心の恵みを願っていきましょう。

神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。

もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。
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彼らは使徒たちを捕えましたが、天使が彼らを連れ出したので、使徒たちはいのちのみことばを神殿の中でことごとく語りました。天使の存在を信じないサドカイ派の人たちに対して、天使が登場していることは興味深いです。サドカイ派の人たちは、物理的な方法によって物事が解決できると思っていました。目に見えるものだけが実在しており、目に見える物質的な手段を用いて、使徒たちを捕まえたと思いました。
 しかし、実際は、目に見えない存在のほうが目に見えるものよりも力があり、目に見えないものが目に見えるものを支配しているのです。パウロは牢獄に入っているとき、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(Ⅱテモテ2:9)」と言いました。また、主イエスは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)」とおっしゃられました。したがって、目に見えないみことばや私たちのたましいは、決して物理的な方法によって縛られることができません。

 ちょっと、どろぼうのことを考えてください。どろぼうは、真昼間にどろぼうをすることよりも、夜にしますね。それは、どろぼうという悪い行ないが明るみに出されるのを恐れるからです。イエスは、この光と暗やみの関係を用いられて、なぜ救われるという良い知らせを拒むのかを説明しておられます。つまり、悪い行ないを愛しているからです。自分が行なっている悪いことを続けたいからです。イエスを信じると、新たに生まれて、罪から離れて生きることを知っています。でも、罪から離れることは嫌なので、イエスのところに来ないのです。人はイエスを信じない理由をいくつも並べ立てますが、その理由はただ一つ、今の生活を変えたくないこと、自分が罪を犯しているのを認めたくないことにあります。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 イエス・キリストを信じるということは、真理を真理と認めることです。当たり前のことを当たり前のこととして受け入れることです。
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この御子を信じる者は永遠の命を与えられ、神との交わりに入っているのですから、もはや神からの断絶を意味する「裁き」はありません。それに対して、神との交わりに入るための唯一の道として神が世に遣わされた「ひとり子」を信じない者は、神との交わりに入ることを自分から拒否したのです
から、そのことがすでに神からの断絶、すなわち「裁き」なのです。
こうして、世の光として来られたイエスが、彼を信じるか拒否するかによって、地上の人々を光に属する者たちと闇に属する者たちに分けられるのです。これが裁きです。
「最後の審判」というように、神の裁きと言えば、未来にある、歴史の最後にあるというイメージがあります。 ヨハネ福音書では、神の裁きは将来のことではなく、現に今地上で始まっています。
この意味深いおことばを平べったく解釈すると、ウソに頼らないでいつも真実を求めて生きる人は、一時的にこまることがあっても、損しても、最終的に困ることはない、裁かれない、ということになる。逆に、隠れみのをしながら生きる人間、ネコババ(ねこじじ)しながら生きる人間、「家族のために」、「教会のために」と言いながら、実は自分のためにしか生きていない人は、一時的にうまくいっても、世間から認められても、最終的に裁きを受ける、困ってしまうようになる。神は心を見ていて、神の世界ではごまかしはきかないということでしょうか。
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神の愛はイエスの十字架と復活に示されています。人類のすべての罪を担うという愚かなまでの神の愛は、私たちが真に生き、永遠のいのちを得ることを願うものです。御子を信じる者は、もはや裁きを恐れることはありません。光と真理は神の愛とあわれみ、そのみ言葉のうちに、そして神と人間との喜びにあふれた生き生きした関係のうちにあります。光であり、真理である主と共に歩み、主に仕えるものになりましょう。そこに光が輝き、闇は光に照らされます。
主よ、自分に死に、キリストの光のうちに生きるものとなりますように。


復活節 第2木
ヨハネ3:31-36

「上から来られる方」となっていて、天からの来られたとはなっていないことに注目する必要があります。つまり今でも来られる。負けたように見えながら、その中でこそ神の愛の価値観が勝利したのです。この世の価値観の真ん中に、神の愛の価値観が十字架の形に打ち立てられています。私たちは神の価値観を十字架につけるべきではなく、私たちの不平不満をこそ、十字架につけるべきなのです。この世の価値観で十字架を見るのではなく、十字架の価値観によって、この世と私の人生を見るべきなのです。
地からの者は地に属し、地からのことを語る と言います。私たちのふだんのおしゃべりは、ほとんど地のことでしょう。天のことを語ろうとすると、何となく白けてしまうでしょう。修道院でさえ、いや修道院だからこそ、朝はサッカーの話で始まります。もちろん、地のことを話すことが悪いのではありません。地のことは大切です。また地のことも天のことにつながっており、厳密には地のことと天のことを分けられないのです。私たちは地に足をつけて生きているのですから、まず地のことが優先されても当たり前かもしれません。
  しかし、それでもなお、地のことだけを見ていたら、地のことは見えないことも確かなのです。地のことだけを見ていたら出口はなく、やがて地に失望するでしょう。地のことを本当に大切にしたかったら、天のことから見なければなりません。「天にまします、天におられる」と祈る時、天は上の天だけを意味するのではありませんが、また上の天をも意味します。やはり一日の始めに天を見上げ、それからしっかりと地を踏みしめて生きることが大切なのだと思います。永遠のいのちとは、死後の世界だけではなく、今から始まる。天を仰ぎながら、地上に生きる、これが永遠のいのちを得ることだとヨハネは言いたい。
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イエス以外の者は天から地に来た天界の啓示者ではない、「上から来られる方」、つまりキリストはイエス以外の者は地上で人間として体験した事柄の限度内で語るにすぎないと主張されていることになります。それに対して、「天から来る方(イエス)は、(天界で)見たこと、聞いたことを証ししておられる」のです。 イエスが神と一つなる方として直接神の言葉を語られるのは、神がイエスにご自身の霊を無制限に与えて、ご自身と完全な交わりの中に置いておられるからです。御霊による神とイエスの一体性は、次節で「御父と御子」の愛の交わりと表現され、神性における御父、御子、御霊の三位一体が、地上のイエスの姿に顕現しているとされることになります。
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「御子を信じる人は永遠の命を得」ます。御子を信じるとは、イエスを通してあらわされた神の愛を自分自身の内に満たしていただくことです。御子を受け入れることによって注がれる神の霊は私を神への憧れと一致へと導き、「自分」をむなしくして、ただキリストの命に与ることのみを渇望させます。そして喜びと希望のうちに御子に従う道が開かれます。キリストの十字架と復活を前にして、私たちは「あいまいな立場でいることはできません。懐疑的な知識人、ピラトは、出世のための順応主義ゆえに中立の立場をとろうと、部外者でいようとしましたが、まさにそのために正義とは反対の立場をとることになってしまいました。私たちは自分の立場を知らなくてはなりません。」(ベネディクト16世、聖金曜日:十字架の道行・ 説教 2006.4.14)。「神が”霊”を限りなくお与えに」(34節)なった、ぎりぎり間に合うようなものではないことを信じるかどうかに「永遠のいのち」はかかっています。

聖霊の七つの賜物…イザヤ書2章1~3節の記述に基づき、カトリック教会は聖霊が人間に与える七つの賜物を教えている。上智(知恵)sapientia・聡明(理解)intellectus・賢慮(判断)consilium・剛毅(勇気)fortitudo・知識scientia・孝愛(神さまを愛するこころ)pietas・敬畏(神さまを畏れるこころ)timor Dominiの七つである。
これらを求めると永遠の命を得る。

安定した生活、安全な生活、苦しみのない生活、トラブルのない生活、快適な生活。これを求めるとぎりぎりに間に合うことになる。


主よ、聖霊によって心の扉を開いてください。主の霊に導かれ、神の愛と御子イエスの証し人となれますようにお導きください。
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例えば私たちが聖地イスラエルに行きたいと思ったとします。しかし事情によって行くことができないとします。その時は、どうするでしょうか。イスラエルに行ったことのある人に話を聞くでしょう。そうすれば、行けなかったとしても何となくイスラエルの事情や、自然や気候はどうなっているかとか、食べ物は何がおいしいかとか、どういう暮らし方をしているとか‥‥イスラエルに行ったことのある人が話してくれれば分かるでしょう。 
 しかしもっとはっきり分かるのは、イスラエル人に聞けば一番良く分かるでしょう。そこに住んでいるのですから。そこから来たのですから。
 では「天国」のことはどうか。それはそこから来た方が一番良く知っているに違いありません。しかし「地から出る者」は地から出たのですから、天国のことは分かりません。また旧約聖書にも出てきますが、「預言者」という人たちがいました。預言者は、神の言葉を聞いて、そのまま伝えました。しかしこれも断片的なことしか分かりません。
 そうすると、天国のこと、神さまのことは、天から来られた方が一番良く分かるのです。ではそれは誰なのか、という話しなのです。‥‥それはもちろん、天から来られたただ一人の方、イエスさま、その方であるということです。
私たちは、イエスさまという方をどのように見ているのか。きょうの聖書を読んだ時に、そのことをあらためて、考えさせらるのです。


復活節 第2金
ヨハネ6:1-15

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大麦のパン5つと魚2匹というわずかな食べ物が癒しを求めて集まった大勢の人々のお腹と心を満たしました。イエスはわたしたちの必要のすべてをご存知です。わたしたちは、自分の持つわずかなものを主の前に差し出しているでしょうか。一人占めしていないでしょうか。自分の手の中にあるどんなに小さなものでも、イエスの前に差し出され、イエスによって祝福され、イエスのために用いられるとき、まわりの者と分ち合われ、それは何十倍にも何百倍にもなります。こうして、満ちたりた心と感謝の気持ちを味わうことができます。そこに平和がおとずれます。
いのちのパンである主よ、心の中にあるどんな思いも執着も手放して、あなたに委ねます。どうぞ一人一人の必要を満たしてください。
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私たちはキリストを信じて従っていくという時に、いろいろな心配があります。その心配の一つは、「キリストに従っていって、生活していけるのだろうか?食べていけるのだろうか?」ということがあるだろうと思います。きょうのイエスさまのなさる出来事は、イエスさまがちゃんと養って下さるという答えです。旧約聖書の出エジプト記で、神に従ってエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の放浪生活を体験しました。食べるものも飲み水もないのが荒れ野です。神さまに従って出て行ったのに、荒れ野の厳しい生活が待っていたのです。しかしその時、イスラエルの民は飢え死にしてしまったでしょうか? 飲み水が無くて死んでしまったでしょうか?‥‥そうではありませんでした。何もないはずの荒れ野に、神さまは毎朝地面の上に「マナ」という食べ物が現れるようにして下さいました。そして砂漠では、岩から真清水を流れ出させて下さり、人々の渇きを癒して下さいました。そのように、神さまに従って行った人々を、神さまは養って下さったのです。
 そしてそれと同じ事は、私も体験したところです。私が献身して、修道生活する時に生じる不安は、「蓄えもないのにどうやって暮らしていくことが出来るだろうか?」ということです。しかし神さまは御言葉を通して、献身するように導かれました。それに従っていきました。すると、不思議にもあちこちから助けが起こって、神学校生活を続けることが出来るようになったのです。主が養って下さったのです。

     
 フィリポは答えました。「みんなが少しずつ食べたとしても、200デナリオン分のパンでも足りないでしょう」と。200万円分パンを買っても足りない。フィリポの答えは「それは無理です」「あり得ない」という答えでした。フィリポは、常識的な答えをしたのです。フィリポが正常なのであって、この大群衆を食べさそうというイエスさまのほうがおかしいのです。
 
     御言葉に従う

 するとイエスさまは、弟子たちに群衆を座らせるように命じられました。‥‥座らせるというのは、食事のために座らせたのです。いったい5つのパンと2匹の魚で何をなさろうというのか?
 弟子たちは、イエスさまが命じられたとおり、群衆を地面に座らせました。イエスさまが何をなさるのか、何が起きるのかも分からないまま座らせました。これも大切なところです。弟子たちは何も分かっていなかった。イエスさまが奇跡をなさることも分かっていなかった。何が起きるのかも分からなかった。神の偉大な力にも目がふさがれていました。‥‥にもかかわらず、イエスさまがおっしゃったとおりに群衆を座らせたのです。そのように、分からなくても主の御言葉に従うということです。その結果、たった5つのパンと2匹の魚で大群衆を養うという、主の奇跡を経験することが出来たのです。
 私たちも聖書の御言葉について分からないことが多い。なぜそうなのか、分からないことがある。しかし分からなくても、主イエスを信頼して、その御言葉に従う時に、思わぬすばらしいことを体験するのです。

     感謝をなさる主

 イエスさまは、アンデレが連れてきた少年が持っていた、たった5つのパンと2匹の魚を受け取られると、「感謝の祈り」をなさいました。感謝の祈りをなさったのです。これっぽっちしかないのに、神さまに感謝をささげたのです。
 私たちはどうでしょうか。このような時に感謝をささげることが出来るでしょうか。「これっぽっちしかない」と文句を言わないでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚は、人間の手に持っている限りは5つのパンと2匹の魚でしかありません。しかしそれがイエスさまの手に渡った時に、事情が変わるのです。大きく用いられるのです。結果的にその1万人もの人々が満腹するという奇跡が起きました。ここに私たちは、大きな希望を与えられるのです。私たちも小さく少なく、弱い者です。しかしこの私たちが、自らを主のみ手に委ねた時、御言葉に従って委ねた時、それは考えられもしない大きな祝福となるのです。
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車に乗っている人たちの中で、車はどのようにして動いているのか、どんな技術が使われているのかを知っている人は、どのぐらいいるのでしょうか。多分少ないでしょう。けれでも、車が動いていることを疑う人は一人もいないのです。
テレビのスイッチを入れてテレビ番組やニュースを見ている人は、なぜそこに画像が移されているのか、なぜ遠くにいる場所や出来事はこんなに近くに見えるのかを分かっている人は少ないでしょう。けれどもテレビはちゃんと働いていると皆思うわけです。
同じように、私たちはキリストに対する信仰はどのように働らいているのか、なぜこうなっているのかを分からないこともあるでしょう。けれども、キリストの復活を本当に(本気で)信じた人々(例えば、マザーテレサ、ヨハネ。パウロ二世、アルベリオーネ神父など、2000年前から現在に至るまで)の生き方は変わったことは疑えないでしょう。キリストの復活はどうして可能なのか、分かる人は少ないでしょう。しかし、キリストの復活にはすごい力があるということは疑う余地はないのです。
誰か言ったように、信仰はレーダーのアンテナのようものです。レーダー (Radar) は電波を対象物に向けて発信し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を明らかにする装置である。レーダーを使えば、暗くても深い霧があっても、物事は見える。肉眼で見えないものでも、見えるのです。
"Faith is somewhat like a radar. It can see through a dense fog at a distance our eye cannot see" (Corrie ten Boom)

* 
コーリー・テン・ボーム(Cornelia Johanna Arnolda ten Boom、Corrie ten Boom、1892年4月15日 - 1983年4月15日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者である。テン・ブームはその体験を、同名の映画にもなった自伝『わたしの隠れ場』の共著で著した。1967年12月に、イスラエルから諸国民の中の正義の人の栄誉を受けた。





復活節 第2土
ヨハネ6:16-21

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「わたしだ。恐れることはない。」この言葉は、湖の上を歩いているイエスを見て恐れている弟子たちを安心させました。夕闇の嵐が吹きすさぶ中で、彼らは、どれほど不安におののいていたでしょうか。しかし救いなどないと思われる闇の中にも神は存在するのです。そこにイエスはおられます。
つらく苦しく、恐怖に負けそうな時こそ、イエスに耳を澄ませましょう。イエスを心に迎え入れるなら、私たちは素晴らしい目的地に着くでしょう。
主よ、困難にあるとき、あなたが訪れてくださっていることに気づかせてください。不安を癒し、目的地に導いてください。

3 easter

復活節 第3月
ヨハネ6・22-29

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 Riflessione sul segno eucaristico

Economia della grazia

Ossevatore Romano, 16 maggio 2023

Il segno eucaristico non rinvia in prima istanza alla croce ma all’economia della grazia: «La grazia e la verità vennero per mezzo di Gesù Cristo» (Giovanni, 1, 17). In effetti durante le settimane di Pasqua la liturgia propone, sia nel ciclo festivo che feriale, passi del quarto Vangelo in cui il segno eucaristico non è introdotto nella cena di addio ma dopo la moltiplicazione dei pani, attraverso il tema del pane disceso dal cielo. È associato alla manna: «Non è Mosé [...], ma è il Padre mio che vi dà il pane del cielo, quello vero» (Giovanni, 6, 32). È collegato all’economia della grazia, a quello status originario, sempre in atto, dal quale l’umanità è fuoriuscita non tanto a causa del peccato ma del nascondimento che segue al peccato e che produce separazione.

«Dove sei? Mi sono nascosto». Nascondersi da Dio non è possibile. Ma nascondersi a se stessi separa da se stessi e da Dio, separa dalla verità, porta verso una deriva di oscurità sempre più fitta. Gesù vede nella verità, vede nel buio fino in fondo, fino alla soglia più profonda del dolore che è l’assenza di Dio. «Padre, perché mi hai abbandonato!». Gesù penetra nell’abisso del cuore umano, non rifiuta niente. Assumendo quello che l’umanità non può patire, spalanca canali di grazia. Il segno eucaristico in Giovanni acquisisce una valenza dilatata che apre alla sovrabbondanza, come testimonia il segno della moltiplicazione dei pani: «Dopo aver reso grazie» (Giovanni, 6, 11). Il pane disceso dal cielo è il verbo incarnato che, pur entrando nell’umano, non perde la sua natura divina e pertanto riversa nell’umanità stanca e inaridita, sottoposta al giogo della forza, la vitalità sorgiva dell’atto creativo, la leggerezza della grazia. Verbo incarnato è l’espressione forte attraverso cui l’evangelista Giovanni sintetizza la straordinaria novità dell’annuncio: l’infinita potenzialità della parola creatrice, del verbo, è accolta in pienezza in un essere umano.

«In principio era il verbo» rinvia all’inizio della Genesi, all’opera creatrice. Si potrebbe declinare anche come: nel Padre era il Figlio. Evidente allusione alla Trinità, al movimento relazionale intrinseco a Dio. Se il Padre rimane misterioso e insondabile, il Figlio viene alla luce, è l’essere umano stesso, «Adamo, figlio di Dio» (Luca, 3, 38), che però solo nella piena maturità assume la potenzialità creatrice del Padre. Il Figlio nell’eterno è sempre nella pienezza, ma nel tempo lo diviene lentamente. Il verbo incarnato costituisce il punto di arrivo di un lungo processo di evoluzione che si realizza attraverso la relazione con Dio. Questo il senso stesso dell’attesa messianica. Il pane disceso dal cielo è la divina umanità di Gesù, è l’essere del Figlio mandato nel tempo. L’evangelista insiste particolarmente sul termine “mandato” che porta in sé la valenza semantica di inviato, angelo, e che nella Bibbia ha sempre connotati umani. Il Figlio è sempre mandato, ma solo dopo un lungo avvento trova le giuste condizioni per incarnarsi, trova l’innocenza originaria, lo stato di grazia.

L’economia della grazia richiede lo stato di grazia, per questo Maria è la porta che riapre il muro del nascondimento, della difesa, della morte. Implica la purità di cuore di chi completamente si affida. Richiede la fede. «Questa è la volontà del Padre mio: che chiunque vede il Figlio e crede in lui abbia la vita eterna: e io lo risusciterò nell’ultimo giorno» (Giovanni, 6, 40). Il Padre non vuole la morte del Figlio sulla croce, vuole che l’amore trionfi sulla terra, ma poiché dominano violenza, ingiustizia, odio, l’amore divino penetra assumendo in sé il dolore, patendo quanto l’umanità non è in grado di patire. La morte di Gesù sulla croce non ha il significato di risarcire Dio, è atto d’amore puro: «Io do la mia vita [...], nessuno me la toglie: io la do da me stesso» (Giovanni, 10, 17-18). E poiché chi vede il Figlio, vede il Padre, vuol dire che il Padre stesso porta in sé questo abisso di dolore, che l’amore puro cerca il non amore, desidera andare a colmare l’assenza di amore. La fede libera dalla difesa, dallo stato di nascondimento, permette di partecipare della grazia, di ricevere il perdono, il dono che non viene mai meno, il dono della vita che è vita eterna. L’excursus rintracciabile in Giovanni dilata talmente il significato eucaristico da farlo combaciare con la fede stessa. Più c’è affidamento, più si partecipa della grazia, più si incarna il segno eucaristico. Gesù si affida completamente al Padre, partecipa della grazia, si dona senza forzatura, per adesione totale all’amore puro, senza più scarti. L’amore desidera solo colmare ogni vuoto, entrare dove è assenza d’amore. Non forza, lascia che il tempo maturi le condizioni. Patisce, sta nella passione di quello che passa, non si ritrae.

Il segno eucaristico nel quarto Vangelo pervade interamente la vita pubblica di Gesù fin dall’inizio, quando il Battista lo riconosce: «Ecco l’Agnello di Dio, colui che assume il peccato del mondo» (Giovanni, 1, 29), chiara allusione alla Pasqua dei giudei, in cui però il rito è superato dalla vita, il memoriale attualizzato. Come già evidenziato, si definisce nell’immagine del pane disceso dal cielo che è Gesù stesso. Mangiare la sua carne, bere il suo sangue, significa radicarsi profondamente nella sua umanità, custode dell’essenza divina, dell’amore puro. Il probabile termine ebraico, bassar, carne, riguarda l’essere vivente nel suo insieme. Nell’ultima Pasqua poi, durante la cena d’addio, nei capitoli 13-17 riporta il discorso di commiato di Gesù attraverso cui rende partecipi misticamente i discepoli della comunione d’amore che lo unisce al Padre, che lo unisce a loro. Il segno eucaristico si dilata all’infinito rivelando che la grazia si effonde dalla corrente dell’amore trinitario che genera amore. Dove cade la resistenza, dove non c’è più difesa, ma totale fiducia, l’amore gratuito genera e si effonde. Il segno eucaristico rivela la sua vittoria sulla morte proprio attraverso questa infinita potenza generativa. Il culmine dello svelamento che avviene sulla croce — «li amò fino alla fine» (Giovanni, 13, 1) — porta pienamente alla luce l’insondabilità della misericordia, di quell’amore che si fa presente proprio dove è assenza di amore.

di Antonella Lumini

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つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。
これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、それをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違い
が出てくるのではないでしょうか。http://www.km-church.or.jp/index.html
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パンのふやしの奇跡を通してイエスの力を知った群衆たちは、イエスを求めて湖の向こう岸まで行きます。それは、イエスがパンを与えてくれたから、肉体的、世間的な意味での助けを与えてくれたからです。その群衆たちに向かってイエスは言います。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもな
くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と。
主よ、この世の思いから解放され、あなたのもとで安らぐ命、永遠の命だけを目指して生きることができますように。

復活節 第3火
ヨハネ6・30-35

パンは前に置いて見ているだけでは、命を養う糧にはなりません。取って食べなければなりません。そのように、復活者イエスを遠くから見ているだけでは、命にあずかることはできません。命のパンである復活者イエスのもとに来て、この方と結ばれ、一つになって生きるのでなければ、この方が与える命にあずかることはできません。この事態が、「わたしのもとに来る者」と「わたしを信じる者」という並行表現で語られます。自分を復活者イエスの中に投げ入れて委ね、この方と共に生きるという全存在的な生き方を指しています。これは、パウロの言う「エン・クリストー」に相当します。このように、復活者イエス・キリストに合わせられて生きる姿を、わたしは「キリスト信仰」と呼んでいます。
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イエスの言葉を信じられない人々は、あくまでもしるしを求めます。神の子である証拠を見せろというわけです。神の子ならモーセのようにパンを私たちに与えてみろと人々は言います。それに対して、イエスは「天からのパン」「命のパン」である自分自身をあなたたちに与えようと答えます。イエスのもとに行くとき、たとえ肉体が飢え渇くことがあったとしても、心の奥深くは永遠のいのちで満たされます。

------------ パン、つまり糧、食べ物は命を支える、命の営みに欠かせないものです。が、それは毒になる場合もあります。肥満な人、太りすぎの人は愛情不足の穴埋めとして、食べ過ぎて毒になるわけです。他に命を支えるものとして仕事があります。けれども、忙しすぎると仕事をストレスを生みます。また、人間関係も大切です。しかし、人に対して腹を立てると毒になります。私たちの生活を支えるものは全部このようなものです。1日1日ののメニューは、忙しさ、苛立ち、競争心、ヤキモチ、嫉妬、挫折感などなどです。こんな食生活ですと、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という福音書の言葉はピンときます。やはり、私たちも「天から降ってきて、世に命を与える」神のパンを必要としています。「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と祈りたいものです。
復活節 第3水
ヨハネ6・35-40


イエスは「わたしが命のパンである」と宣言されます。原文は《エゴー・エイミ》の後に補語として「命のパン」という句が置かれています。《エゴー・エイミ》は本来神の自己啓示の呼称であり、復活者イエスがその神的臨在を現されるときの定式ですが、ヨハネ福音書では地上のイエスがしばしばこの言葉を口にしておられます。これも、地上のイエスを語る形で復活者イエス・キリストを告知するという福音書の二重性の結果です。 著者ヨハネは、この《エゴー・エイミ》という句の後に補語として象徴語句(羊飼いとかぶどうの木など)を置いて、「わたしは~である」というキリスト論的宣言文を多く用いています。ここの文の意味は、《エゴー・エイミ》の重要性を訳出するためには、「わたしはある、命のパンとして」と訳す方が正確かもしれません。ここで、《エゴー・エイミ》は命のパンとして現れるのです。復活者として臨在される霊のイエスこそが、「命のパン」、すなわち人に永遠の命を与える方であるという主張が、六章全体の主題です。
パンは前に置いて見ているだけでは、命を養う糧にはなりません。取って食べなければなりません。そのように、復活者イエスを遠くから見ているだけでは、命にあずかることはできません。命のパンである復活者イエスのもとに来て、この方と結ばれ、一つになって生きるのでなければ、この方が与える命にあずかることはできません。この事態が、「わたしのもとに来る者」と「わたしを信じる者」という並行表現で語られます。
「わたしのもとに来る」や、「わたしを信じる」は、前置詞《エイス》を伴う表現で、自分を投げ込む行為です(二九節の講解を参照)。両方とも、自分を復活者イエスの中に投げ入れて委ね、この方と共に生きるという全存在的な生き方を指しています。これは、パウロの言う「エン・クリストー」に相当します。このように、復活者イエス・キリストに合わせられて生きる姿を、表しています。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/John06.htm#top
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「徴税人や遊女はあなたがたより先に神の国に入る」(マタイ21、31)。
イエスのもとに来ること、すなわちイエスを信じることは、人の側のはからいではなく、神が与えてくださる恵みの結果であるという信仰が、ここに表明されています。そのことは、多くの人(とくにユダヤ人)がイエスを信じないのは、神がその人たちをイエスに与えないからであって、人の計画や努力の彼方のことであることを意味しています。パウロがローマ書九~一一章で展開した「恩恵の選び」による、絶対的な神の主権的支配の思想を、ヨハネはこのように表現しているのです。
 
 人がイエスのもとに来るのは父の恩恵の選びの結果ですが、イエスのもとに来た者を、その人の人間的価値を問題にして受け入れたり拒んだりすることは決してない、とイエスは断言されます。イエスは自分のもとに来る者を、誰をも裁かず受け入れてくださいます。取税人や遊女などを受け入れて食卓を共にされたという共観福音書が語るイエスの姿は、神の絶対恩恵の支配を具体的に示していますが、それをヨハネはこのように表現するのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/John06.htm#top
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ヨハネによる福音書には、いわゆる「たとえ話」らしいたとえ話というものがありません。他の3つの福音書には、イエスさまがなさった「たとえ話」が多く記されています。しかしヨハネにはそのようなものがありません。どちらかと言うと、直球ストレートのようなイエスさまの言葉が多く記されているという印象を受けます。

私たちは食事をしないとお腹がすきます。たまには面倒だから一日ぐらい食べないでいよう、と思っても、やはり空腹には勝てません。お腹がすいて、どうにもならなくなります。
 実は私たちの真の命も同じではないでしょうか。私たちの霊魂、わたしたちの命そのものも、実はキリストのくださる「命のパン」をいただかないと、飢え渇いてどうにもならなくなるのではないかと思います。不安や怒りや、絶望が支配してしまって、生きる力が失われていくように思います。それで、私たちが空腹を満たすために、3度のご飯をいただくのと同じように、私たちの霊魂、わたしたちの命を満たすために、キリストのもとに行く。
今日の聖書の35節で、イエスさまを信じると言うことが、「わたしのもとに来る者」と言われていることは興味深いことです。‥‥イエスさまを信じるということは、イエスさまのところに行く、ということだとおっしゃっているのです。そうです。イエスさまのところに行くのです。自分一人でよいから、イエスさまに祈るのです。そして日曜日には共に礼拝する。
 私たちは、信仰生活をしていくと、やがて完全な信仰を得る、そういう境地に至る、ということではありません。イエスさまのもとを離れると、いつでもまた飢え渇いてしまいます。不安と恐れの中に戻ってしまいます。ただイエスさまの所にいるときだけが、平安と希望に変えられるときです。イエスさまの名によって、父なる神に祈る‥‥その時だけが、不安が平安に、絶望が希望へと変えられます。それゆえいつも主にすがりながら歩んでまいりましょう。


復活節 第3木
ヨハネ6:44-51

「運命」「第九」などの名曲で、現在もたくさんの人々に愛されている大作曲家、 ベートーベン。実は晩年のベートーベンは、聴覚障害に悩まされていました。音楽家にとって命とも言える耳が,だんだん聞こえなくなってきたのです。ベートーベンにとって音の世界が感じなくなった。もう存在しなくなった。
しかし彼は、そんな状態でも作曲を続けたと言われています。 ベートーベンが音を聴くために、タクト(指揮棒)を口にくわえた。タクトを口にくわえ、その先をピアノに押し付けたのです。ピアノからは大きな音がでていますから、ピアノ自体も震えています。 そのピアノの振動はタクトへと伝わり、タクトの振動は歯に伝わり、歯から頭蓋骨、 そして蝸牛へと伝わっていくのです。 こうしてベートーベンは音を聴いていたというわけです。
私たちも「永遠の命」ということに対して、非常に鈍い感覚をもっています。全く実感がわいてきません。




http://goldendance.jp/boneconduct/index.html
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「信じる者は永遠の命を得ている」と主は言われます。イエスを信じる者はこの世の命に死んでも、神の永遠の命に結ばれて生き続けるというのです。この言葉の意味は、生きている私たちにはまだ完全に分らないでしょう。ですが、この世へのこだわりから解放され、祈りの中で、出来事の中で、
共にいてくださるイエスに出会う時、永遠の命への希望によって力づけられるのです。主よ、どうか私たちを永遠の命へと導いてください。
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ここでの論理は循環しています。父から聞いて教えられた者だけが復活者イエスのもとに来ることができると宣言した直後に、父から教えられるのは復活者イエスによらなければならないと付け加えられています。この循環の外にいる者が、この循環の中に入るにはどうすればよいのでしょうか。そこには論理的な入口はありません。身を躍らせて飛び込む飛躍しかありません。復活者イエスの中へ自分の全存在を投げ込むのです。それが信仰です。
復活節 第3金
ヨハネ6:52-59

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イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは、一体どういうことなのでしょうか。何かを食べたり飲んだりする時、それらは消化され、体の隅々にまで行き渡って私たちの一部になります。その時、もはや私たちと食べ物、飲み物の間に区別はありません。完全に一つなのです。イエスの肉を食べ、血を飲むというのもそういうことではないでしょうか。ただ、キリストのパンの場合は逆になります。鶏の肉は私の一部分になるが、キリストのパンを食べる場合は、私はキリストのようになっていくのです。不思議なものですが、そういうことになると思います。
主よ、どうかあなたの命がわたしの体の隅々にまでゆきわたりますように。
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ヨハネ福音書は、生まれながらの人間が自然に生きている「いのち《ビオス》」とは別の、「上から」与えられる新しい種類の命を「永遠の命《ゾーエー》」と呼び、その命をこの世に告知するために書かれた福音書です。「永遠の命」の「永遠の」は、いつまでも続いて無くならないという時間的な意味ではなく、また(ユダヤ教のように)将来の永遠の世界(来世)で与えられる命という意味でもなく、人間が現在生きる命のことですが、それが生まれながらの自然のいのち《ビオス》とは別の種類の命であることを示しています。その命を指すときには、この福音書はいつも《ゾーエー》という語を用います。「永遠の」をつけて「永遠の《ゾーエー》」と言うときも多くありますが、「永遠の」をつけないで《ゾーエー》だけでこの別種の命を指すこともさらに多くあります。




復活節 第3土
ヨハネ6:60-69

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イエスの言葉を聞いて、多くの弟子たちがイエスのもとから去っていきます。イエスの肉を食べ、血を飲むという言葉の意味を理解できなかったからです。イエスの言葉が彼らの中に入り、彼らを満たしたならば理解できたことでしょう。しかし、人間の力で理解できることではありません。神のこと
を悟る霊を送られるのは神だけなのです。
主よ、どうかあなたの言葉を素直に受け入れる心をお与えください。私たちの内にあなたの霊を送り、あなたの言葉の意味を悟らせてください。

4 easter

復活節 第四月曜日
「私は羊の門である」
(B・C年)ヨハネ10・1-10

人は若いときは、一人で育った、大きくなったと思いがちです。しかし年をとって子どもを育てたり、いろいろの経験をすると、自分のしてきたことがだんだん小さくなって、人からしてもらったことがどんなに大きなものであったかがわかって来ます。信仰生活においても、イエスあっての自分であるという信仰が大事ではないかと思います。イエスのゆえに信じる者とされており、いまキリストのあかし人として立たされています。私たちの生きる根拠が常にイエスご自身にあることが大事です。「私は羊の門」と言われたのは、このことでしょう。私たちは時々、過ちを犯したり、イエスの恵みにあずかった者としてふさわしくないようなことを考えたりしています。しかしなお私たちはその中でイエスの慰め、励ましを与えられています。「私は門ある。私をとおって入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」。イエスを通して信仰生活はなされていかなければならない、ということを教えています。(榎本)
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わたしたちが命を豊かに受けるために、「その声」の主は一人一人の名を呼んでいます。御父の元にむけて先頭に立って行かれるイエスの声を聞き分けながらついて来なさい、と招いて居られます。
イエスについてゆくためには、私たちの中にある「自分の進むべき道を知っている」というファイリサイ的なおごりを捨てることが求められているようです。
主よ、あなたの声を聞き分け、それに従って歩む謙遜な心をお与え下さい。

「羊は私の声を聞き分ける」
(A年)ヨハネ10・11-18

イエスの言葉を聞いて、彼は悪霊にとりつかれていると言う人たちと、またそうでないと言う人たちがいました。人間の意見というのは、その人の立場によってさまざまです。人間の世界は相対的なものであることを忘れてはならないと思います。どんな偉い人がりつぱなことを言っても、それは絶対者の言葉ではない。私たちは絶対者の言葉に耳を傾けることによって、はじめて人の言葉を相対的なものとして聞いていくことができます。テープ・レコーダーに人の声を吹き込んで、あとで聞くと、すずめの鳴き声や自動車の音などが聞こえて来ます。あんな声があったのだろうかと思うのは、一生懸命人の言葉を聞いていたからでしょう。私たちがイエスの声を聞いているとき、他の音は聞こえなくなって来ます。私たちはしっかりとイエスの声を聞いて生きていくことが一番大事なことでしょう。(榎本)

復活節 第四火曜日
「わたしと父とは一つである」
ヨハネ10・22-30

「わたしと父とは一つである」ということばは、まさに聖書、啓示の頂点であると言えます。それは、三位一体の神の啓示であり、それはキリストがもたらした新約の世界に示された啓示の完成でもあるのです。このことは、ヨハネ福音書の中の、イエスの最後の祈りを思いおこせばすぐわかります。

「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みなが一つとなるように。(…)彼らもわたしたちにおいて一つになりますように」、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになりますように」(ヨハネ17・1~参照)。

十字架につけられるまえのキリストの祈りは、実はわたしたち人間を、父と子の関係の中に導こうとするものだったのです。そして今や、キリストの救いの業の目的が達成されるのです。今になって、やっと弟子たちは悟ったのです。

それはきょうの福音書からもわかります。よき牧者が、羊たちを導いていくところは、ほかならない神の住んでおられるところです。それは裏づけとなり、それに基づいて現在(現世)に生きる希望と力をいただけるのです。(森)
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イエスは、わたしたちに「永遠の命を与え」て下さり、「誰もわたしの手から奪うことはできない」と断言なさいます。これは、イエスが常に、時間と空間を越えて、死をも越えてわたしたちと共にいてくださることを確約して下さっているのではないでしょうか。
主よ、わたしの思いではなく、あなたの声だけに従ってゆくことが出来ますようお導きください。
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トマス・アクィナスは、今日の箇所でユダヤ人たちは信じようとしないことに関して、このようなコメントを書いています。「私は見えるのは太陽の光のおかげです。けれども、もし私はめを閉じるなら何も見えなくなります。しかし、それは太陽の責任ではなく、私の責任である」、と。

"[S]icut ego non possum videre lumen nisi illuminarer a sole, si autem clauderem oculos non viderem lumen, quod non esset ex parte solis sed ex parte mea, qui, claudendo oculos, praebeo causam ut non illuminer.([87487] Super Io., cap. 10 l. 5) "I can see thanks to the sun light, but if I close my eyes I cannot see, but that is not the fault of the sun, but mine".

 この場合、目というのは、おそらく信仰の目でしょう。目を閉じるというのは、この世のことしか見ようとしない態度でしょうか。キリストの言葉や業から大きな光が放たれます。素直な態度さえあれば、見えてくるはずである。ある人は信仰の恵みは与えられ、ある人は与えられない。それは、神の責任ではなく、人間側の問題だということになります。


復活節 第四水曜日
「わたしは光としてこの世に来た」
ヨハネ12・44-50

生きるとは、神に向かって歩むことでしたら、歩くために光が必要です。イエスは世の光であり、かれが教えた兄弟愛のおきては、その光の輝きであり、現れです。兄弟を愛する人は光の中にいます(Ⅰヨハネ2・9-11)。光の子として、イエスのあとに従って歩くとき、いのちの光を受けます。ヨハネは福音書の初めに、光について、荘厳に述べました。「みことばのうちにいのちがあった。このいのちは人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ1・4-5)。
光と闇の対立を人びとにあてはめると、次のようになります。「光は世に来たが、人びとは光よりも闇を愛した。かれらの業が悪かったからである。悪を行う人は光を憎み、光のほうに来ない。自分の行いがさらけ出されるのを恐れるからである。しかし、真理を行う人は光のほうに来る。その行いが神と一致してなされたということが明らかになるからである」(ョハネ3・19-21)。(荒)
パウロの言葉で言うならば、「昼歩くようにつつましく歩こうではないか」(ローマ13・13)。
まだ暗い夜です。渡世(よわたり)は難しいのです。昼になって昼のように歩くことはだれでもできるが、夜が明けていない時に、夜が明けているように生きていくところに、キリスト者の生き方があります。(榎本)
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わたしたちといつも共にいて下さり、わたし以上にわたしをご存知のイエスが、今、「わたしはお前を裁かない。お前を救うために来たのだ」と言って下さっています。何と有難いことでしょう。
主よ、暗闇の中に留まることがないように、あなたのことばで私たちの心を照らして下さい。

復活節 第四木曜日
「遣わされたものは遣わしたものにまさりはしない」
ヨハネ13・16-20

今日の福音書は、足洗いの意味を説明しています。弟子たちの中にはだれがいちばん偉いのかというような争い、反目(はんもく)がありました。自分が要職につきたいという野心が弟子たちの心の中にありました。人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしても自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。その弟子たちを前にして、主イエスはみずから進んで足を洗うしもべになられました。その姿のうちに、御父から派遣され、父のみ旨を行うイエスの生き方が読み取れます。主イエスと一致するためには、弟子たちも兄弟愛にそむく罪から互いに洗い清められなければなりません。しもべは主人より偉いではありません。主人がしもべの足を洗うなら、しもべも他の兄弟たちの足を洗うのは当然です。愛の負債を持つ者は、他の負債者に対して、当然要求できると思っている権利を捨て、ゆるしあい、兄弟の間柄になるべきです。それが、愛の秘跡、聖体祭儀の交わりの根本条件なのです。(榎本、荒)
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『わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった』(詩編41:10)という聖書の言葉が実現しなければならないのは何故なのでしょうか。それは、パンを食べている12弟子やわたしたち一人ひとりの弱さの極みにこそ、神の愛が現れるのだというメッセージではないでしょうか。
主よ、わたしの無力、わたしの弱さを悟らせて下さい。そして、そこにこそあなたがいて下さることを感じ取らせて下さい。
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「土足厳禁」ということばがある。日本家屋に入る前に靴を脱ぎます。泥足(どろあし)というように、家の外は汚い。足は結構汚いところを歩きます。手で人にふれる(肩をたたく、握手(あくしゅ)する)と、そこでコンタクト、交わりが生まれる。足でふれると失礼なことになります。また、足は頭から一番遠い体の部分です。同時に、足にマッサージをすると、それは体全体に効きます。足の裏に体の各部分につながるツボがあります。こうして考えてみると、なぜキリストは弟子たちの足を洗ったのか分かるような気がします。キリストは人間の足を洗うために来た。人間は生活する中で汚くなります。キリストはそれをどのように清めるかを弟子に教えました。そしてそのために弟子を遣わしました。それは、現在にまで至っています。キリストは弟子を通して全人類の足を洗っています。「私の遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ」るのであると。今日はこのみ言葉を黙想し、感謝したいと思います。

復活節 第四金曜日
「心を騒がせるな」
ヨハネ14・1-6

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。今日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。

ここに出てくるイエス様は、肉体をもって世にある者として、また肉体としては既に世を去ってしまった者として、その両方の立場を持って語っておられるのだし、それは同時に、過去の歴史的人物として語っている面と、今も霊において生きておられる神・キリストとして語っておられる面の両方を持っているということです。だから、ここに登場する弟子もまた、イエス様が十字架に磔にされる直前の弟子たちであると同時に、この福音書が書かれた当時の教会員でありまた今の私たちの姿でもある。そういうことなのです。
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私は子供の頃、近所の子供たちと二組に分かれて、よくサッカーをやっていました。私はその仲間の中で一番小さいものだったので、年長のリーダーが組み分けを決めるまで、私のこころはいつも騒いでいました。グループの中にとても上手な子が一人いました。私は彼のいる組に入れたくてたまらない。先輩たちはたいていその強い子のいる組に私を入れてくれました。小さい私など、本当は大したプレーは出来なかったが、その子と同じ組になると、私は急に大胆になります。実力ではともかく、口ではだれにも負けないぐらいの大口(おおぐち)をたたいて回ったものです。本人は気づいていなかったと思いますが、そばにいてくれるというだけでその子は、小さい私を力付け、勇敢(ゆうかん)な戦士にしてくれたのです。

しかし今の私にはもっと力のある頼もしい方がいつもついていて下さいます。キリスト同じ組に入れてもらったら、それは決して貧乏籤(くじ)ではないと思います。キリストだけでは十分、いや十分すぎるではないでしょうか。イエス・キリストを知る者にとって恐れるものは何一つないはずです。(村上)
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人間には「帰る」ところが必要だといわれています。一日働いた後「家」に帰る。旅した後も家に帰りたくなるのです。「わたしの父の家」とは、わたしたち人間すべての魂のあこがれの場所です。イエスの人としてのこの世での生は、そこに行くために用意して下さった道、そこに迷わず到達するために示して下さった真理、そこに行き着くために与えて下さった命です。このように、キリストを中心にキリスト者の生き方が描かれています。
主よ、道であり、真理であり、命であるあなたの愛の中にわたしたちを憩わせて下さい。
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ヨハネ14・6
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

道、真理、命である自分を通らなければ、だれも父なる神のもとに行けないとイエスは言います。
日本では剣道、柔道、茶道(さどう)、華道(かどう)など、「道」のつくことばがたくさんあります。道教、禅仏教に由来する伝統でしょうが、自分の身をみがき、道を習い、究めていくことを通して達する窮地(きゅうち)に、すばらしいものがあることを、誰でも理解できるのではないでしょうか。
主よ、どうか私たちが真理であり、命である「イエス」の道を最後まで歩み、永遠の命に達することができますように。

復活節 第四土曜日
「わたしを見たものは父を見た」
ヨハネ14・7-14

この目で神を見ることができれば信じられるのですが、と言う人がいます。霊的存在者である神が人となってこの世に誕生してくださらなければ、人間は肉限で神を見ることはできませんが、神は御子イエスを実際にこの世に生れさせ、これを実現されました。そして人々はこのお方を見た。しかし皮肉なことに、当時の人々はこの現実のゆえにつまずきました。イエスが神であるという事実、目で神を見ることができるという事実につまずいたのです。神を肉眼で見ることができたのに、いや見えたからこそ人々はイエスにつまずいたのです。
私たちはイエスの時代から大切な歴史的教訓を学ぶことができます。ユダヤ人の多くは、その宗教的な偏見のゆえにイエスにつまずきました。しかしこうした中でイエスを神の子と信じた人々もいたのです。彼らは「イエスのことば」を聞いて信じた。イエスのことばに信頼するからイエスについて深く知ることができたのです。それは私たちの時代も全く同じであると言えます。イエスのことばは今、聖書という形をとって私たちに語られています。この聖書のことばを受け止めて信じられなければ、たとい肉限でイエスを見たとしても決して信じないでしょう。重要なのは肉の目で見ることではなく、なるべく素直な(清い)心の目で見ることなのです。(村上)

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「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とイエスはおっしゃいます。この文章をアラジンのランプのような感覚で受け止めたら、意味がおかしくなります。イエスが求めていることは全ての人が救われること、神の国が実現することですので、それらに関する願いを必ずかなえてくださる、という意味になります。
この言葉は、個人的な問題の解決や、一時的な悩みの特効薬ではありません。そのようなことをかなえることが本人にとってプラスになるとは限らないので、その時々の判断は神様に任せたほうがいいのです。人間にとって悩みや苦しみは大切な体験なので、これらを避けることはイエスの望みではありません。(ステファニ)
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私たちには見ることができない神である天の父を、イエスを通して見ることができるようにと、イエスは「業そのもの」を示されます。イエスは、御自分を信じて受け入れる者の内で働かれ、御父のもとに招きます。こうしてイエスを身に帯び、イエスの名によって願うことは何でもかなえてくださるといわれます。
主よ、あなたの招きに応える道を示して下さい。あなたに全幅の信頼を置き、あなたの示される業を行っていくことができますように。

5 easter

復活節第5月曜日
ヨハネ14:21-26
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イエスはこの世に来られてから、自分のことではなく自分をお遣わしになった方のことを知らせました。しかし私たちはしばしば、私を慈しみ、派遣した方のことより、自分のこと、自分自身を現わそうと、力を尽くしているのではないでしょうか。
神が一人一人をいとおしむ心に倣い、自分を忘れて人びとを大切にしていくことができますように。
復活節第5火曜日
ヨハネ14・27-31a

私たちは自分の安定した生活を構えて、そこから一歩も出ない範囲において、イエスに従っているのではないでしょうか。そしてイエスがだめになったら、他へ 鞍替え (くらがえ)することが、そんなに苦しむことなしにできる範囲に自分をおいているのではないでしょうか。教会に誘われたからつい行ってみたというぐらいで、イエスのために少しも苦しまない、心が騒がない。クリスチャンであるゆえに辱めを受けるようになってきても、私にとってイエス以外に主はないということが言えるでしょうか。
昔、ポリカルポという人が、ローマの兵隊に捕らえられ、キリストをのろえ、のろったら釈放してやる、のろわなかったら生きたまま火の中に放り込むと言われたとき、私は今日までイエスに一度も裏切られたことはない、そのイエスに対して私は裏切ることはできない、と言って、殉教したという話がある。
自分のかって気ままに、今日は神を信じようと思い、今日は忙しいからイエスのことはほうっておこうというような、自分の都合で信仰生活をしている者には、多分イエスの平和、慰めのことばは決して心の中に響いてこないでしょう。(榎本)
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「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエス様はおっしゃいました。これはミサでも唱えられています。しかしイエス様の与える平和は世が与えるようなものではないと、同時に指摘されています。これはどういう意味でしょう。
ベトナム戦争の頃、反戦運動が高まり、上から押し付けられた価値観に疑問を出していきました。その際、愛と平和が何より大切とされました。もちろんこの運動が間違っているわけはありません。しかしその愛と平和の主張には、今さえ良ければいい、嫌なことは嫌、快楽に浸っていればいい、あらゆる苦痛から逃れられればいい、個人の自由が何より大事。苦労・忍耐などばかげたこと、束縛されるのはいや、自分の感情に素直になるのがいい。こうした社会の制約や束縛から解放され、「好きなら一緒。嫌いになれば別れる」という自由な考え方。それは、家庭を簡単に壊すことになっていきました。世が与えるような平和。世が求める平和。たとえば、このような結末をもたらした平和だと思います。 ではイエス様の言う平和とはなんでしょう。それは単なる感情とか楽だ、心地よいとか言うものではなく、忍耐、苦しみのかなたにというより、忍耐、苦しみのなかにもあるものだと思います。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_155.htm
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復活したイエスが弟子たちに現われて、初めに伝えた言葉は「平和」です。私たちもミサで平和の挨拶を交わして、互いに平和を持つことが出来るように願います。この心を騒がせない平和、おびえない平和を伝えることが出来ますように。

復活節第5水曜日

ヨハネ15・1-8

「私につながって、実を結びなさい」。これが、最後の晩餐におけるイエス様の遺言です。逃げまどう弟子、裏切ることになるユダ、さらには現代、同じキリスト者の名の下に争い合っている世界。それらをすべて知っているイエス様がこのように語ったのです。「つながる」と言えば現代人は携帯電話を思い出すでしょう。
携帯電話は便利で、人間にとって実り多いもので、だからこそ普及しました。電波は今もたえず一人ひとりの人間とつながりを持つべく、発せられています。しかしその携帯の実りも、人間は自ら、あるいは不注意で、ないがしろにしてしまうことがあります。それはいつも人間の側の責任であり、使われないままの携帯電話なら、何ら実を結ばず、投げ捨てられるだけなのです。 
 また神様は語ります。「携帯が無線基地局とつながっていないなら何の役に立つのか(エゼ15:2-5)。なぜあなたは電源を切り、バッテリーが切れた状態のまま平気でいるのか。つながらない携帯に何の用があるのか。そんな携帯は解約し、資源ゴミに出すしかないではないか」。
 無線基地とつながっていなさい。電源を切らず、充電させていなさい。いつも、たえず、最後まで持っていなさい」。    http://jns.ixla.jp/users/moseos194/
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ただ木につながっているだけで実がなるとイエスは言っていません。木につながっていて、そして手入れを受けるのは大切です。言い換えますと、ただ洗礼を受けた、誓願をたてたからといって、信仰の実をみのらせるとは限らない。生活の見直し、反省が必要です。共同体の中でお互いにもまれて分かち合い、そして必要なときに要らない部分、じゃまとなる部分を切り落とす覚悟が大切です。

同じ木につながっていることは、イエスとのつながりだけでなく、互いのつながりをもしめしています。一人の悩みは皆の悩みで、一人の喜びは皆の喜び。そういう人間関係を通して神の子となるために訓練を受けます。神の子を育てる場として教会があります。けっして、儀式だけの教会ではありません。(ステ)「私のことば」があなたたちに留まっているならとは、兄弟愛を実践することです。
兄弟愛は祈りの条件になっていますが、同時に、兄弟愛は祈りの内容そのものです。「望むものをなんでも願いなさい」。この願いは兄弟愛を求める祈りにほかなりません。兄弟たちが互いに愛し合うとき、父は栄光を受けます。父の子供たちが、父の愛を反映させているからです。(荒)
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「わたしにつながっていなさい。」つながっているとはイエスに留まるという意味でしょう。私たちとイエスの関係がぶどうの木と枝の関係であれば、枝が木から独立して勝手に生きようとするなら、枯れてしまうだけです。ぶどうの木と枝は一つであるように創られているのです。
私たちが木と枝のようにしっかりとイエスに留まることが出来ますように
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「あなたがたは枝である」(5節)という宣言と「わたしにつながっていなさい」(4節)という命令は、一見矛盾するようです。しかしその表現は、信仰の本質をついていると思います。イエス・キリストはぶどうの木として、わたしたちに関係をもち、私たちひとりひとりをその枝として結び付けてくださる。しかもそれを自分から積極的に言われる。それは確かな事実です。
 しかし私たちは、それをそのまま受けとめるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまう。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまうのではないでしょうか。「信じない者は既
に裁かれている」(ヨハネ3:18)と言われているとおりです。「従っていく」という呼びかけへの応答が伴っていなければ、本当に「聞いた」「信じた」ということにはならないでしょう。
http://www.km-church.or.jp/preach/
復活節第5木曜日
ヨハネ15・9-11
現代社会では、喜びを感じながら生活している人々があまりにも少ない気がします。私たちはいつも、自分の喜びを求めています。しかしめったに、喜びに満たされることはありません。喜びがあっても、それは非常にはかないものです。それは私たちの求める喜びが往々にして人から(奪い取る)期待するものだからでしょう。
私たちには、人間的な喜びがあります。おいしいものを食べたり、親しい人と会ったり、願ったものが得られた時などです。また同時に、人間的な悲しみもあります。失敗したり、人間関係のトラブルで悩んだり、解決できない問題にぶつかったりした時です。
キリストが約束する喜びは、そのどちらにも浸透しています。人間的な喜びの中にも信仰的な喜びが満ちており、人間的な悲しみの中にも、信仰的な喜びが満ちているのです。つまりどちらにも含まれ、その二つの矛盾したものを止揚する(むすぶ)絶対的な喜びなのです。御父の愛に感謝し、人々を一方的に愛することです。これはだれにも奪い去られることのできない喜びです。本当の喜びは人から奪うものではなく、与えるものだからです。与えることによって、私たちの喜びは満たされるのです。(静)
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父が私たちに掟をくださったのは私たちが父から離れないため、また永遠の喜びをいただくためです。
しかし私たちは掟を守ることを難しく考えてしまいます。イエスはこの難しさから私たちを解放させるために一つの掟、すなわち愛にまとめました。
互いに愛し合うことを通して、イエスの喜びが私たちの内に満たされますように。
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「坊主憎けりゃ袈裟まで」という諺があるように、いやな先生から学んだことがらがいやになる、いやな上司から命令されたことは憎いと思う。私たち皆はこういう経験があるから、今日の福音書にある、掟と愛の関連性はもう一つぴんと来ないと思う。一般の人々も、愛と掟を結び付けるのは分かりやすいことではないでしょう。愛と掟はむしろ相容れないではないかと、これは一般的な考え方でしょう。
これを理解しやすくするために、愛してくれる人から何かを教えてもらった体験を思い出す必要があると思います。例えば、私は父親を思い出す。うちは畑があったから、父は中学生の頃私にトラクターの乗り方、運転の仕方を教えてくれた。「こうしたらいいんだよ」、「あれしたらだめよ」というような感じですが、今から考えるとすごくありがたく思う。私は40年近く無事故で車の運転して来れたのは父のお陰だと思っています。
こういして、神のおきては愛であるとちょっと分かるような気がします。詩編119(日課で昼に唱える詩編ですが)にこういう言葉がある、「愛するあなたのすすめをいだき、あなたのおきてに思いを潜(ひそ)める。」今日はこういう言葉を黙想しましょう。


復活節第5金曜日
ヨハネ15・12-17
おきてを守ることによって、神への愛を表わすのでしょうか。それとも、神を愛するためにおきてを守るのでしょうか。神に愛されているから、自分から自発的におきてを守ろうとするのではないでしょうか。しかしいつも、神への愛を感じるわけではありません。実は、感覚的に神の愛を全く感じない時も多いのです。ではその時は、おきてを守らなくてもいいのでしょうか。いいえ、そうではありません。かえっておきてを守ることによって、神の愛を証明できるのです。
鶏と卵のように、どちらが先でもありません。だいたい、愛とおきてをパラレルに考えることが間違いなのです。なぜならイエスのおきては、○○をしてはいけないといった消極的なものではなく、「互いに愛し合うこと、これが私のおきてである」というものだからです。だから愛とおきては、対照的なものではけっしてありません。愛はおきてを成り立たせる原理なのです。感情をこめて愛することも、おきてを守ることも、ともに、この神の愛の中に止揚されるのです。つまり愛はすべての対立、矛盾を統合する原理なのです。
おきて、イコール愛することなのです。人に迷惑をかけない、人のいやがることをしないといった、消極的なものではないのです。もちろん、親を愛し、友達を大事にしなさいというおきてもあるでしょう。しかしそれらのおきても、神の愛という基盤を失ったら、親をとるか友達をとるか、と分裂してしまうでしょう。やはり神を愛する愛で、親も友人も愛さなければならないのです。(静)
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僕、召使いは、主人の言われたとおりにしなければなりません。自分の判断を差し挟む余地はありません。しかし私たちと主イエスの関係は、そうではない。イエス・キリストの思いを知って、納得してそれに従う。だから「友」だとおっしゃるのです。
 その「友」は、私たちのこの世のすべての友を超えています。この世の友は、どんなに親しくても裏切られる可能性があります。「世の友われらを捨て去る時も、祈りにこたえて慰め」(『讃美歌21』493)てくださる。この世の友がどうであろうと、イエス・キリストだけは真の友になってくだ
さる。そのイエス・キリストが、ご自分の命をかけて、私たちを召されるのです。そうしたことを受けとめて、この方に従っていきたいと思います。それを受け入れる時に、私たちの人生が新しく見え、新しくなっていくのではないでしょうか。イエスさまを通して私たちが生きてゆくために必要なエネルギーと知恵と導きとが豊かに与えられるのです。だから心配はいらない。
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イエスは弟子たちと新しい関係を作ろうとしています。イエスが弟子たちを選ばれたとき、主人と僕の関係ではなくて友の関係になることを望まれました。その友情関係は、「わたしがあなたがたを愛したように」という、イエスの大きな愛に導かれて成り立ちます。
イエスの愛を受け入れ、この愛に従い、イエスの友となることができますように。
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「神様から預かったものをいつかお返しする日が来る」と考えたら、「天の国とはツタヤ(レンタルビデオ屋)みたいなもの。神様はツタヤの店長、天使はアルバイトの店員。私たちはビデオテープ、赤ちゃんは新作ビデオ」という感想がうまれる。この言葉は、恵まれた人生を歩んでいると感じている人にとっても、逆に人目に不運と見られるような経験をしている人にとっても、それぞれに大きな意味を持った言葉であると思います。
 環境に恵まれ、お金に恵まれ、あるいは才能に恵まれている。人からそう思われ、自分でもそう思う。そういう人は、ただ、自分はラッキーだと思ったり、いや自分の努力でそれを得たのだと思ったりしてはならないでしょう。そこに私たちの傲慢が入ってきます。またその恵みを自分自身のために
用いるにとどめてはならないと思います。神様は何らかの意図があって、そうした恵み、そうした賜物を与えられたのだということを、考えなければなりません。そこに神様の選び、目的というものを見抜く目を持っていただきたいと思います。
 
復活節第5土曜日
ヨハネ15・18-21

ヨハネは兄弟愛と正反対な生き方を「世の憎しみ」と呼んでいます。この世と弟子たちは対立します。イエスに従う人は兄弟たちを愛し、兄弟のためにいのちをささげます。この世も自分たちのものを愛しますが、自分のものとして愛するために、人を自分に従属させ、自由を奪い、奴隷にします。キリスト者は世の憎しみに対して、同じ憎しみによって対抗するのではなく、愛のおきてを守ることによって戦います。イエスの弟子はイエスと同じ運命を受けます。イエスの名のために憎まれます。(荒)
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この世にはいつの時代も、神に逆らう力、不信や憎しみが溢れています。しかし同時に救援の対象でもあり、それ故にイエスはこの世界のただなかで神の愛を全うされました。
私たちも悪の力に流されずに、イエスの福音を伝えていくことができますように。
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「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18節)。先ほど申しあげましたように、イエス・キリストはこの翌日に十字架かけられて死んでいくことになるのです。そのことを承知しながら、この言葉を語られたのでしょう。
 イエス・キリストと「世」の関係は、二面的です。一方で、「世」(この世)はイエス・キリストの伝道の対象であり、愛の対象でありました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16~17)。
 しかし他方では、「世」はイエス・キリストを知らず、イエス・キリストを憎むのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(同1:10~11)。イエス・キリストは「世」のために祈られるのですが(17:21)、「世」は聖霊を受け入れないし(14:17)、従ってイエスを受け入れません。それゆえに、イエス・キリストは「世」を裁くために来たのではないにもかかわらず(3:17)、結果として「世」に対する裁きとならざるを得ないのです。「信じない者はすでに裁かれている」(3:18)という言葉は、そうした状態を指しているのだと思います。しかしイエス・キリストは、そういう「世」に打ち勝っていくのです(16:33)。

6 easter

復活節第6月曜日
ヨハネ15:26-16:4a

「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(2~3節)。
非常に今日的な言葉ではないでしょうか。戦争をしかけたアメリカもそうですが、それ以前にテロでもって世界を変えようとする過激派も「自分は神に奉仕している」と考えているのかも知れません。しかしそれももちろん、神様の御心を知らないと言わなければならないでしょう。

真理の霊
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。最後に、聖霊について触れられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあって
も、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。

罪、義、裁き
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(8節)。今、罪とはこういう風に考えられている。義とはこういう風に考えられている。裁きとは、こういう風に考えられている。しかしそれらは全部誤っている。聖霊が、この三つについて、その正しい理解を与えてくれると、おっしゃいました。しかしその後のイエス・キリストの説明は、なかなかわかりにくいものではないでしょうか。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(9~11節)。
一般的に罪とは、旧約聖書の律法に違反することと考えられていましたが、この時イエス・キリストは、イエス・キリストを信じないこと、それが最大の罪であると言われたのです。これは、逆に言えば、イエス・キリストを信じることによって、他のすべての罪から解放される、その一点に集中し
ているということです。それを信じないならば、どんなに自分を正しく神様の方へ持っていこうとしても、罪は残ると言おうとされたのでしょう。
わかりにくいのは、二番目の義についてです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。義というのは、聖書の中で最もわかりにくい言葉のひとつでしょう。本来的には、「正しさ」、「神様との正しい関係」をあらわす言葉です。旧約聖書では
、人はそれを、律法を守ることによって示すとされていました。しかし、どんな人間であっても、それを完全に示すことはできないので、矛盾に陥ってしまいます。イエス・キリストは、それとは違った道を示されました。イエス・キリストが十字架と復活を経て父なる神様のもとへ行って、一体とな
られる時にはじめて、私たちと神様の関係が正しい関係と認められる、「義」が成立するということを言おうとされているのではないでしょうか。
三番目、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。イエス・キリストの時代、そしてヨハネ福音書が書かれた時代にも、クリスチャンたちは、迫害の最中にありました。あたかもこの世の支配者であるかのようにふるまっている人たちがいました。しかしそれらすべては本当
の支配者ではなくて、神様が本当の支配者であることが明らかになる時が来ると言おうとされたのではないかと思います。
聖霊には二つの働きがあるということを申し上げました。一つはイエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、そこから離れて行ってしまわない。しかしながら、それでいて過去のものになってしまわない。「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。今日のところでもそれと同じことが示されているのではないでしょうか。

復活節第6火曜日
ヨハネ16:5-11 

 

 

#恵みについて

 私が本当のキリスト教と出会ったのは、高校生の時でした。宗教の授業で、マスール(シスター)が、「キリスト教は、ご利益宗教ではないのです。病気でつらい時、一般には神様、どうか病気を治してくださいと祈りますが、私たちはその苦しみに耐えられる強さをお与えください、と、祈ります。」と。

 これは驚きでした。それまで、商売繁盛、家内安全、無病息災などを願う祈りしか知りませんでしたから。自分にとってつらいこと、世間的にマイナスのことが、実は大きなお恵みなのだと知るには、多くの年月を要しました。が、今は少しだけ理解しています。

 ロザリオの祈りへの導きは、人間関係のつらさからでした。心の中の怒りや汚いもやもやを背負いかね、昔のロザリオを持って近所の山のルルドに行き、マリア様につらさを訴えながらうろ覚えの天使祝詞(アヴェマリア)を唱えました。そしてそこで大きな癒しをいただいたのでした。これが大きな一歩となりました。

私は先天的な骨格形成不全のため、50代で大きな手術を受けるまで、脚に痛みを抱えていました。そのことですら、実は大きなお恵みだったことに、今気づいています。この歳で、痛みがなく歩ける幸せ!山のルルドにお参りをすることが、何と楽しいことか! 

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肉体をもったイエス・キリストと、共に過ごすことが許された弟子たちは、とても幸運であったと思いますが、その時イエス・キリストは、時間と空間の制限を受けて、ある特定の場所におられたわけです。ですから逆に言えば、肉体をもったイエス・キリストが去って行かれるからこそ、肉体に束縛
されない聖霊(弁護者)として、いつでもどこでも、どの弟子に対しても、共にいてくださることが可能になる。イエス様はそのことを、弟子たちに、告げようとされたのです。

聖霊には二つの働きがある。一つはイエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、そこから離れて行ってしまわないように。しかしながら、同時にそれでいて過去のものになってしまわないように。「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。今日のところでもそれと同じことが示されているのではないでしょうか。
イエス・キリストが十字架と復活を経て父なる神様のもとへ行って、一体となられる時にはじめて、私たちと神様の関係が正しい関係と認められる、「義」が成立するということを言おうとされているのではないでしょうか。
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この祭壇とこの朗読台はここで何十年存在してきた。朝昼晩ずっと向かい合っている。けれども、互いに意識し合っていないので、その関係から何も生まれない。外の庭には同じ種類の木二本たっている。何十年も一緒に生きてきた。枝も触れ合っています。互いに意識し合っているかどうか、分かりません。もしかしたら、雄と雌でそれで実を結ばせているかもしれない。隣の民家には人が住んでいます。顔見知りでしょう。ある程度意識し合っているかもしれないが、それほど深い付き合いになっていないかもしれない。
さまざまな存在の仕方がある。無意識的に向かい合っている関係もあれば、意識し合って、愛し合っている関係もある。息子はオーストラリアにいても、日本に住んでいる母親の心にはいつも彼の居場所がある。遠いからかげはちょっと薄いが、電話一本ですぐに大きな存在になります。
イエス・キリストはいつも我々と一緒におられると約束しました。その存在の仕方はどのようになっているのか、今日はこれについて考えて黙想しましょう。
"Ci sono molti modi di essere presenti. Se due alberi si trovano l'uno vicino all'altro, sono presenti l'uno all'altro, ma in un senso del tutto esteriore ed imperfetto. Non sanno nulla l'uno dell'altro, non si preoccupano l'uno dell'altro e, nonostante la loro vicinanza, rimangono estranei l'uno all'altro.
La presenza nel vero senso della parola comincia solo nel momento in cui due esseri si conoscono spiritualmente e si mettono l'uno di fronte all'altro consapevolmente. Ciò permette loro di avere interiormente una sorta di immagine l'uno dell'altro, per cui l'altro ha, per così dire, una seconda esistenza in colui con il quale è in rapporto. E se una presenza di questo genere è mantenuta nella maggior parte delle persone che si incontrano, essa può diventare una realtà potente in chi ci conosce e ci ama. L'immagine dell'altro che ognuno porta in sé è, per così dire, carica di realtà. Anche la solitudine può essere piena della presenza dell'altro" (Balthasar).



復活節第6水曜日

ヨハネ16:12-15

 

 思えば、お恵みはあちらにもこちらにも。日常の暮らしの中で。仕事の場で。

昨年は、趣味のスケートにのめり込んで優先順位がめちゃくちゃになっていた時、小さな怪我をし、しばらくスケートができなくなりました。それについて、いろいろな考え方ができるでしょう。以前の私なら、ああ、しくじった、損した、とだけ思ったことでしょう。また、信仰的に見れば、趣味を優先した私を、神が罰したという見方も出来るかもしれません。でも、私はこう考えています。執着から逃れられずに苦しむ私を、神が解放してくださったのだと。実際、この時はどんなにホッとしたことでしょう。

神父様の言葉 「なんでも、その人がお恵みだと思った時に、それは本当のお恵みになるのです」………きっと、その通りなのだと思います。  さて、写真は、山のルルドの帰り道のものです。木々の枝が重なって、十字架のように見えるのは偶然なのか。私は、山のお参りを励ましてくださる神様のサインと思って、単純に喜んでいます。 お恵みに感謝  エリザベト 追記〜〜本当につらい時には、自分についても癒しを願いますね。また、他の人の病気や怪我については、もちろん、痛み、苦しみの軽減と、治癒を祈ります。(重要ポイント)

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キリストは弟子たちに慰めと励ましを与えつつ、ご自分は去って行こうとされます。長い、長い説教でありますが、「いくら言葉を尽くしても、あなたたちは今理解することはできないだろう」と言いながら、言葉を置いていかれました。この時弟子たちは、まだ不十分な理解のまま、これらの言葉を
あたためていったのでしょう。そして十字架と復活の後に、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないかと思います。
そのことは今日の私たちにもあてはまることであります。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。
今日は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。み言葉は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単
なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれるもの、それがみ言葉です。そうした思いで、この聖書に取り組んでいきたい、そのようにして自分の信仰を深めていき
たいと思います。
なぜこういう目にあわなければならないのか理解できない。そうした思いをもつこともきっとあるでしょう。そうした中にあって、私たちは、聖書が約束している終わりの日には、喜びが待っている。宴が待っている。その事柄に目を向けながら、今を生き抜いていく力を得たいと思います。
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6. 日本人の「道」の思想
内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書)を読んでいて、日本人の「道」についての面白い論述があった。日本人はどんな技術も「道」にしてしまう。柔道、剣道、茶道、華道、香道。この何でも道にしてしまう思想の本質は何か。要するに、道の思想とは、この道の果てに「完全」があるという思想で、今はわたしは「道の途中」にあるという現状認識である。「日暮れて道遠し」とか、「学ならぬままで死んでも、悔いなし」という価値意識である。この場合重要なことは「道上にいる」ということ、「途上」とか「途中」ということで、これからのことはよく分からないし、先の方は見通しがついていないが、とにかく一歩づつ進めば、完成にに至るという信念である。その信念さえあれば、現在の自分がいかに未完でも、未熟でも、あるいは先のことが理解できなくても正当化できる。この道の思想は師弟関係において具体化される。弟子は師に勝らない。弟子が不出来でも師は完全である。わたしにはわからないことがたくさんあるが、先生はすべてを理解している。
ここで論じられている道の思想は聖霊論と重なる。師はもちろんイエス・キリストである。わたしたちはイエス・キリストを目標として生きているが、キリストのことを理解している訳ではない。そこに到達する道が「霊の導き」である。霊に導かれて一歩一歩進めが、たとえ牛歩のような歩みでも、必ずいつかはイエス・キリストに到達できる。たとえ、到達できないで死んでも、悔いはない。重要なことはその道の上にいるかどうかということである。

復活節第6木曜日

ヨハネ16:16-20


イエス・キリストの弟子たちへの別れの言葉が続いています。イエス・キリストは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残そうとしておられるのがよくわかります。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。弟子たちは、イエス・キリストの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。はりつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができません。
この時になっても、まだイエス・キリストが明くる日に十字架にかかって死ぬことになるということを、誰も信じることができなかったのでありましょう。
この時、弟子たちは不安と恐れのただ中にありました。まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。
弟子たちにとって、主イエスと一緒に過ごした「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたでしょうが、その後の悲嘆にくれる「しばらく」の間は、とても長く感じたことでしょう。しかしそれもずっと続くわけではない。この「しばらく」の間は、あなたがたを苦しめる者が勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それはやがて過ぎ去る、やがて覆(くつがえ)されることになる。そういう風に、イエス様はおっしゃったのです。
この最初の「しばらくすると」の後は、イエス・キリストの受難、十字架の死を指していると思いますが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。
ヨハネ福音書は、ルカのようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしておりません。復活と聖霊降臨が同時的です。復活のイエス・キリストが弟子たちの家を訪れ、(鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて)、そして息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのです(ヨハネ20:22)。



復活節第6金曜日

ヨハネ16:20-23a

昨日の新聞にシスター渡辺和子の書籍は、5万部を突破したということで、広告が載っていました。タイトルは面白い、『置かれた場所で咲きなさい』。なるほど、セメントの隙間、アスファルト固めた道路の穴からきれいな花が咲いたりします。私たちは必ずしも好ましい状況に置かれていると限らない。けれども、どこでも咲くことができる、と。
今日のヨハネ福音書に、弟子にお別れを告げるイエスのことばがあります。そのことばに本当に深い意味が込められていると思いますが、こういう側面もあるのではないかと思います。
「闇の中に置かれたがゆえに、それまで知らなかったさまざまの「明るさ」のありがたさが分かるのです。それこそ、「当たり前が輝いて」見えるのです。
「踏まれても踏まれてもなお咲くタンポポの笑顔かな」(俳句、作者不詳)。
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「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22~23節)。それは復活と聖霊降臨の日に起こったことであると言えますが、現代の私たちにしてみれば、今もイエス・キリス
トは見える形ではおられません。分かる人にだけ分かる、目に見えない形で臨在してくださっています。しかし「その日」にはすべての人の目に明らかなように、謎が解けるような形で一緒にいてくださる。23節を見ますと、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります
。なぜ尋ねないのか。もうあきらめたのか。そうではありません。すべての疑問が解けるのです。イエス様と顔と顔を合わせて一体となるような世界が実現するということを言おうとしているのではないでしょうか。

私たちを悲しませる最たるものは、やはり死でありましょう。死によって、私たちは愛する人と無理やり引き裂かれる経験をします。しかし、その死さえも永久に滅ぼしてくださる、と言われるのです。
聖書を読んでいるとわからないことがたくさん出てきます。内容が難しくて理解できないということもありますし、内容はわかるけれども、今の自分には受け入れることができない、というものもあるでしょう。
なぜこういう目にあわなければならないのか理解できない。そうした思いをもつこともきっとあるでしょう。そうした中にあって、私たちは、聖書が約束している終わりの日には、喜びが待っている。宴が待っている。その事柄に目を向けながら、今を生き抜いていく力を得たいと思います。

あなたがたは苦しむだろう。しかしそれは産みの苦しみと同じもので、苦しみを経て新しいいのちが誕生するのであり、その誕生の喜びのためにこの苦しみはすっかり忘れ去られる、そういった苦しみのだよ、と。だから苦しむだろうけれど、絶望してはいけない。新しい命が生み出されたとき、悲しみ、苦しんでいたあなた方は、きっと心から喜ぶことになる、その喜びはどんなことをしても、あなたがたから奪い去ることはできない。疑問を持ったり、不安に駆られたりするのはしばらくの間ですよ。


復活節第6土曜日

ヨハネ16:23b-28

この時、イエス・キリストは、まだ肉体をもった形で、弟子たちと共におられました。しかし去っていかれた後、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われているのです。ですから私たちは、今まさに、「その日には」という時を生きているということになるでしょう。
私たちは、「主キリストによって」、「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りの形式をもっています。教会へ初めてやって来て、どうやって祈ったらいいかわからない、という中で、私たちはそうした祈りの枠組み、呼びかけとこの締めくくりの言葉を学ぶのです。「イエス・キリ
ストの名によって祈ります」という時に、イエス・キリストが確実に父なる神様のもとに届けてくださるという風に、私たちは理解しています。


「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。ヨハネ福音書の中で、たとえと言いますと、「わたしはよい羊飼いである」とか「わしはまことのぶどうの木である」とかを思い起こしますが、そういうさまざまな言いかえをなしながら、ご自分が誰であるかということを示されてきました。しかしもう今はたとえには頼らない。今ここで、十字架への道を歩み始めようとする。まさにその行為、歴史的な行為を通して、自分が何をするために来たかを示されるということです。十字架は単なるたとえではない。神からの人類に対する直接な語りかけです。

7 easter

復活節第7月曜日

ヨハネ16:29-33

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての注釈を抜きにして、私たちの心に、直接、響いてくる言葉です。これこそが聖書の究極のメッセージであると言ってもいいのではないでしょうか。

若者には若者なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。いや子どもにだって、子どもなりの悩みがあるものです。どうしてもそこから抜け出すことができない。そこで押しつぶされそうになる。このところで、苦難、悩み、と訳された言葉は、圧迫、重圧というニュアンスのある言葉です。それはどんなに文明が発達しようと変わらないものです。医学は発達し、さまざまな病気が克服されてきましたが、それと同時に、新しい病気も生まれてきました。
機械は発達し、多くのものを作れるようになりましたが、それだけ忙しくなりました。乗り物が発達し、どこへでも行けるようになりましたが、それだけ活動半径が広がり、仕事が多くなり、かえって押しつぶされそうになります。コンピューターが発達し、どんどん世界が広がりましたが、それだけ問題も世界規模で広がってしまいました。現代人には、現代人ならではの悩み、ストレスがあります。メンタルクリニックが、これまで以上に重要な時代になってきました。
そうした中、先ほどの16章33節の言葉こそは、私たちが、どんな困難な課題、苦しみ、悩みに遭遇しようとも、自分を見失わないで生き抜く、そしてそれを乗り越えていく人生の秘訣が含まれているのではないでしょうか。しかもそれは単なるまやかし、先のことを見ない、深く悩まない、というのではなくて、真の解決が、ここに示されていると思います。イエス・キリストの遺言とも言える長い別れの説教の締めくくりの言葉でありますが、まさに遺言中の遺言、結論です。この言葉を告げるために、イエス・キリストは、この世に来られたと言っても過言ではないでしょう。

しかしそれによっても、私たちはどこまでも誤解している部分があります。この時、弟子たちも「今、分かりました」というのですが、イエス・キリストは、「今ようやく、信じるようになったのか。だか、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31~32節)とおっしゃった。
またまた弟子たちを不安にさせるような言葉です。しかし実際、そのようになっていくのです。このすぐ後、イエス・キリストは逮捕されます。その時、弟子たちは、去って行ってしまうのです。イエス・キリストはそのことさえも、既にご承知であった。承知の上で、弟子たちを受け入れておられる。
そして同じように私たちを受け入れてくださっているのです。私たちも「今、分かりました。信じます」と言いながら、次の瞬間にはどうなるか分からない、そういう不安定なものであります。それを承知しながら、イエス様は、そのもう一つ先まで見越して、励ましておられるのです。
イエス様御自身、みんな去ってしまって、ひとりぼっちになってしまうと言いながら、それでも父なる神様が共におられると語られました。これはもう一つ次の時代に、弟子たち自身が経験することです。みんなが去って、弟子たちがひとりぼっちにされてしまう時が来る。
それでもあなたがたはひとりではない。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14:18)。そういう御言葉が二重写しになってくるのであります。そして「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と、締めくくられたのでした。
私たちは、毎週の礼拝で「使徒信条」を唱えていますが、この「使徒信条」の一番終わりに、「永遠の命を信ず」という箇条があります。
天に召された方々を思う時に、そうした信仰に立って、その方々の信仰を私たちも引き継ぎながら、私たちも新たな一歩を踏み出してまいりましょう。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7火曜日

ヨハネ17:1-11a

「あなたがた皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」と、今日の第一朗読でパウロは自分の最後を意識しています。福音書では、「時が来ました」、「わたしは、もはや世にはいません。みもとに参ります」とキリストも自分の最後を語っています。人生の最後から見て、人生には何が大事なのか分かってきます。「福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。そして、「主にお仕えしてきました」、「一つ残らず、あなたがたに伝え、また教えてきました」とパウロは振り返ります。「永遠(本当)の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とイエスは言います。
私たちはどれほど自分の最後を意識しているでしょうか。人生の最後に一番大事な仕事が残っていると言われます。人生を無駄にしないためにどうしたらよいでしょうか。自分の最後から見て、今自分が心配していること、恐れていること、または望んでいる、欲しがっていることは、どの程度のものかを考えたことはないでしょうか。
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この後、イエス・キリストは、こう祈られました。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17:1)。少しわかりにくい言葉であるかも知れません。父なる神が栄光を受けるために、父が遣わされた子(イエス・キリスト)が栄光を受けなければならない。子なるイエス・キリストが栄光を受けることによって、父なる神様に栄光が帰せられるのです。それは、父なる神様が神様として立てられるということです。しかし、それは内容的に言えば、人の目に華々しいようなことではなく、実際には十字架にかかって死ぬことを指しています。それを通してでしか、神様に栄光が帰せられないのです。人が人として、神様の前に立つために、本当に立つためには、それを経なければならない。そのことを、イエス・キリストは、ここで心して受けとめておられたのです。
「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2節)。この前半は、先ほど申し上げた言葉で言えば、イエス・キリストは王の王として、まことの支配者として立てられたということです。そうであるがゆえに、イエス・キリストは、すべての人に永遠の命を与えることができるようになりました。
そして有名な3節、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」永遠の命とは、まことの神様を知ることと、イエス・キリストを知ることだ。そういう風に書き記されています。この言葉は、イエス・キリストご自身の言葉であるのかどうか。あるいは、福音書記者ヨハネの言葉がイエス・キリストの言葉の中に挿入されたのであろうと議論されます。イエス・キリストが、ご自分のことを指して「イエス・キリストを知ることです」という言い方は、不自然ではないか、また文体も、少し違いがあるということです。私たちにとっては、どちらでもいいことかと思います。いずれにしろ、内容的にいえば、神様を知ることとイエス・キリストを知ること、それこそが永遠の命だと、ここで宣言されているのです。
私たちは、永遠の命と言いますと、すぐにいつまでも死なないことだと思いますが、そしてそれは必ずしも間違っているわけではありませんが、もっとも大事なこととして、神様を知ること、イエス・キリストを知ることだと言うのです。そして聖書が言う「知る」というのは非常に深い意味を持っています。交わりを指しています。聖書では特に、男女の交わりを指して「知る」と言う言葉を使いますが、そこからも分かりますように、私たちと神様が一体となること、イエス・キリストと一体となること、それが永遠の命であると、告げられているのです。
そのことがあるがゆえに、私たちの肉体の死、それさえも絶対的なものではない。むしろイエス・キリストの命の中に、私たちも含み入れられ、神様、あるいはイエス様と一つとなること、それによって、私たちは肉体の死を超えて、イエス・キリストにつながっていることを、今生きている生の中で、すでに前もって経験することが許されているのではないでしょうか。
今日は、このヨハネ福音書に合わせて、詩編第90編を読んでいただきました。

「あなたは人を塵に返し
『人の子よ、帰れ』と仰せになります。
千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
夕べにはしおれ、枯れて行きます。」
(詩編90:3~6)

この詩は、親しい人の死に直面した時に、書いたのではないかと、私は想像するのです。この詩に、「祈り。神の人モーセの詩」という題が付けられています。もちろん実際には、後代の詩人が、モーセの名前でモーセの心を詠んだものでありましょう。
モーセは、聖書によりますと、120歳まで生きたと伝えられています(申命記34:7)。普通の人よりも長く生きたということは、祝福のしるしでありましたが、それでもいくら長生きしようとも、いつか死ぬということには変わりありません。遅いか早いかの違いであります。これはどんなに医学が発達した現代でも同じことであります。永遠にこの肉体の命が続くことはあり得ないのです。しかしそうした私たちの肉体の命のはかなさを思いながら、この詩人は、嘆きから不信仰にいたるのではなく、信仰を貫き、告白するのです。

「主よ、あなたは、代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(同1~2節)。
親しい人の死に直面した時に、私たちは人の世のはかなさを思います。そして信仰をもって歩んで来た人が、どうしてこういう死を迎えなければならないのか。この人の信仰は一体何だったのか。どうして助けてくださらなかったのか。遺された者には割り切れない複雑な思いが募ります。ぽっかりと穴が空いてしまったような空虚感。「神も仏もあるものか」と嘆くこともあるでしょう。しかしそう思ったところで、自暴自棄になったところで、慰めを得られるわけではありません。
むしろそうした時に、神様の「時」を思い、そして神様のなさることが、私たちの思いを超えて、最もよい時を備えてくださったのだという信仰をもつ中で、生きる力を与えられていくのではないでしょうか。

ここはイエス・キリストの大祭司の祈りと呼ばれるところです。祭司の中の祭司、大祭司として、イエス・キリストが執り成しの祈りをしてくださっているのです。十字架にかかられる直前の長い祈りです。これほど長いイエス・キリストの祈りが記されている箇所は、他にありません。これは弟子たちへの長い別れの説教に続く祈りです。弟子たちを置いて去って行かなければならない。その弟子たちのための執り成しの祈りです。
そしてこの後、18章からいよいよ受難物語が始まるのです。ここにはイエス・キリストがどのような方としてこの世界に来られたか、また何のために来られたかということが示されているのです。ここに神様の歴史(それは救いの歴史に他なりません)が、大きな視野で描かれています。歴史の意味と目的が、ここに示されています。その大きな流れの中で、クリスマスの意義を考えることは意義深いことではないでしょうか。
「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。ここに「わたしをお遣わしになったように」と、さらりと記されていますが、これが受肉ということに他なりません。17章2節には、「あなたは子にすべての支配する権能をお与えになりました」という言葉がありました。それはイザヤ書9章5節で預言されていたことの成就であると言えるでしょう。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、
永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵の業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章5~6節)

この「万軍の主の熱意」こそが、クリスマスを生み出したのです。この預言は、イスラエルの歴史を通して成就するのですが、それを超えて神様の支配は全世界に及んでいくということまで指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストによって、その御心が成就し、さらにイエス・キリストから弟子たちが派遣されることへとつながっていくのです。そしてそこには、大きな一つの目的があります。 「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。ここに歴史の意味と目的が記されています。ここにこそ、神様の御心があると言えるでしょう。

世から選び出された弟子たちは、世から選び出された者であるということです。「世から選び出して、わたしに与えてくださった人々」とあります。この世から召しだされている。最初、弟子たちのいた場所は、他の人々と同じ場所であります。そこから、自分の弟子として選び出されていく。出発点です。最初は、クリスチャンとこの世の間には区別はなかったと言うことができるでしょう。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」(6節)。しかしもっとさかのぼって言えば、もともと神様のものであったけれども、今、その神様がはっきりとわかるようにしてくださったということになるでしょうか。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7水曜日

ヨハネ17:11b-19

世から選び出された弟子たちは、皮肉なことにというか、当然なことにというか、世に憎まれる者として立っている。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」(14節)。この世と対立する部分がどうしても出てくる。イエス・キリスト自身が世に憎まれて、そして十字架にかかって死んでいかれたわけですから、そのイエス・キリストに従っていく弟子たちも、多かれ少なかれ、この世と対立する部分が出てきます。同じではない。その中から選び出されて、この世と対峙するかのようにして、異質なものとしてある、ということです。

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(14節)。前の聖書では、「この世のものではない」という言葉でした。主イエスは、この世に来られましたが、そのふるさとは天にある者として生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言われました。そのイエス・キリストに従って生きる弟子も同じように、この世に属さない者となるのです。
それは、私たちの意志によってそうなると言うよりも、イエス・キリストが聖別してくださるのです。イエス・キリストは、こう祈ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(17節)。
こういう話を聞いたことがあります。あるミッションスクールの高校生の女の子が、夜、公園を歩いていて、痴漢に襲われそうになった。ふと学校で覚えた聖書の言葉を思い出して、それを口にした。「わたしはこの世のものではない。」そうすると、痴漢が逃げていったそうです。
私たちは、この世に属していない者として、寄留者のように生きているのです。天に国籍を持つ者として、地上を生きている。それがクリスチャンの姿です(フィリピ3:20参照)。

この世から憎まれ、この世に属さない者として生きるのですが、この世から離れてしまうわけではありません。何か隠遁するかのように生きるのではありません。再びこの世の中へと遣わされていく。11節に、「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」とあります。
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)と言われました。さらに「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)とあります。クリスチャンはこの世に迎合しないけれども、この世から遊離して生きるのではない。逃げることはできません。
この世の真っ只中で生きる。この世の中から召しだされて、イエス・キリストのものとされ、聖別されて、再び、この世へと遣わされて行くのです。
「洗礼を受けるということは、私たちがキリストのものとなる。キリストと共に死んで、キリストと共に復活することだ。」ローマの信徒への手紙の6章に書いてあります。
キリストのものとして、この世と対立しながらも、この世の真っ只中で生きていく。そこには、イエス・キリストのこの世への愛があります。この世はイエス・キリストを憎み、イエス・キリストを死に追いやったわけですが、イエス・キリストは、この世をどこまでも愛されました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この父なる神の愛を独り子イエスも受け継がれましたが、その弟子となる者も、同じように、世を愛していくことが求められているのです。http://www.km-church.or.jp/preach/

ミサの一番最初に私たちは「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。その由来はヨハネ福音書の「み名の神学」です。今日の福音者もそうです。「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」

 「み名」とは何を指しているでしょうか。たとえば、徳川時代には「大名」(だいみょう)というのがありました。人気のテレビ番組で「水戸黄門」(徳川家)がいましたね。彼は大変力持ちでしたが、正体を明かすと、「家紋」(かもん)を見せるとみな従う。

私たちは、名だけのものに優越感をもつことはないでしょうか。出生地、出身校(東大)、役職(課長、部長)、肩書き(東大名誉教授)などに、結構、振り回されることがあると思います。それから、トレード・マーク「住友」「三井」 TOYOTA、NISSAN、LEXUS(力強さ、カッコよさがみなぎる)。そして、「ブランド名(めい)」などにも。アルマーニ、ヴェルサーチ、イヴ・サンローラン、ルイ・ヴィットン。その背景にはそれぞれの生活スタイル、価値観、生き方があります。私たちイエスを信じる者は、イエスの名こそが誇りです。イエスの名が、私たちの誇り、力となりますように今日祈りたいと思います。

復活節第7木曜日

ヨハネ17:20-26


ヨハネ福音書は、13章後半から16章まで、イエス・キリストの弟子たちに対する長い別れの言葉を記していましたが、その後の17章は、イエス・キリストの長い執り成しの祈りです。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」という言葉に続いて、「父よ、時が来ました」(1節)と、イエス・キリストの祈りが始まります。
6節から19節は、イエス・キリストの目の前にいる弟子たちのための執り成しの祈りでありますが、それを受けて、今日の20節から26節は、後の弟子たちのための執り成しの祈りです。
「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。
イエス・キリストの祈りは、空間的にも時間的にも、大きく広がっていきます。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々。」まだ存在しない後の教会の人々をも見ておられる。キリストが教会の誕生を夢見たのです。その人々のために、イエス・キリストがここで祈られたということは、この祈りには、私たちも含まれているということです。私のために、私たちのために、イエス・キリストは、すでに十字架の前夜、祈ってくださっていたのでした。また「彼らの言葉によってわたしを信じる」ということで、福音宣教のわざが、まさに説教、みことばの奉仕という手段によって担われていくということを、改めて深く、重く考えさせられます。
そして「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(21節)。ここでイエス・キリストと父なる神はすでに一体であるということが前提になっています。
父なる神様はイエス様のうちにおられ、イエス様も父なる神様のうちにおられる。三位一体というキリスト教の教義があります。父と子と聖霊が三つにして一つであるという教義です。それを基礎にしながら、イエス様と父なる神様の交わりのただ中にすべての人を入れるような、大きな祈りです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。何とスケールの大きな祈りでしょうか。イエス様の宣教の目的が、外へ外へと広がって、すべての人がひざをかがめてあがめるようになることと同時に、すべての人が一つになる。イエス・キリストの名のもとに一つになるということが見えてまいります。

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スイスの有名な神学者バルタザール(H.U. von Balthasar, 1905-1988)には有名な著作がある。タイトルは、直訳すると「真理は交響曲(コウキョウキョク)的である」(Die Wahrheit ist symphonisch. Aspekte des christlichen Pluralism, 1972)。交響曲(シンフォニー)には何十種類の楽器(バイオリン、ピアノ、フルート、オボエ、ファゴットなどなど)が「交わって響く」ように、神の真理も多様性で豊かなものである。バラバラに引かれると不愉快な音になるが、楽譜どおりにやれば大変素晴らしい調和、メロディーになる。モーツァルトやバッハ、べーへトベンなどはたくさん作曲しています。音楽を聴くと平凡な世界から別世界に運ばれるように、ヨハネ福音書を聞くと私たちは別世界、神の世界に惹かれれます。宇宙に大変豊かな多様性と一致がある、交わりがある、ハーモニーがある。ヨハネ福音書はこのハーモニーを感じさせてくれる交響曲である。
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「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(23節)。エキュメニカル運動というのは、ただ単に伝統や思想の違う教会がお互いに妥協して、一致点を見出してやっていくことではありません。イエス・キリストがすでに、父なる神様との間にもっておられる豊かな交わりに、私たちも引き入れられて一つになっていくということが根底にあるのです。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(22節)。この言葉こそは、エキュメニカル(キリスト教一致)運動の基礎となった言葉なのです。
この「わたしたち」というのは、イエス・キリストと父なる神のことですが、イエス・キリストと父なる神が一つであるように、弟子たちも、そしてさらに後のすべての人たちが一つであるように、というイエス・キリストの祈りの言葉です。

「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)。
ヨハネ福音書では、「世」と言う言葉が二重の意味で用いられている。「世」はイエス・キリストや父なる神様と敵対するものであると同時に、イエス様が愛して、愛して、愛し抜かれた、イエス様の愛の対象でありました。「世」の方はそれを知りませんでした。
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)。イエス様が「わたしのいるところに彼らもおらせてください」と祈られたのですから、これほど力強く、慰めに満ちた言葉はないでしょう。「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。 そして続けます。

「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(25~26節)。
ここに宣教の最終目的が記されています。まだ見ていない、弟子たちの言葉によってこれから信じるようになる人々。空間的にも時間的にも大きな広がりをもっています。その人たちがすべて一つになる。主をあがめ、紛争がなく、愛の内に一つとなっていく。イエス様はそういう幻を見ておられたのです。そしてそうしたことは、やがて「その日」に完全に達成されるものでありましょうが、私たちはやがてくるそうした神様の御国を仰ぎ見ながら、それをすでに先取りするように一致の夢を見ることを許されているのではないでしょうか。ミサ(エウカリスチア、聖体祭儀)というのは、まさにそうしたキリストにあって私たちが一つであることを心にする時であり、またそれを味わうことによって、キリストご自身が私たちの身に宿っていただく時であります。http://www.km-church.or.jp/preach/



復活節第7金曜日

ヨハネ21:15-19

イエスはペトロが裏切ったことを責めません。そのかわり、新しい使命を与えます。イエスのために、羊たちの牧者になるように招きます。ペトロが「愛します」と三回誓うのは、司教や司祭の叙階式を思い出させます。
人生におけるあらゆる使命への招き、召命は、恵みであると同時に、十字架の恵みです。イエスはそれを若いときと年をとったときの生き方にたとえて説明します。若いとき、エネルギーにあふれ、理想に燃えているとき、自分で帯をしめて行きたい所に行くことができます。時間や場所に左右されず、自分の思うままに、行動できます。年をとると、自分の思うように行動することができなくなり、自分の意志に反して、しかも縛られて身動きできない状態で、十字架に釘付けにされて、望んでいない仕事や場所を通して、主イエスへの愛を表します。
イエスはペトロがどのような死にかたをして神に栄光を帰すかを預言しました。それはペトロの殉教を示すだけではなく、イエスのために、日々、死んでいく生き方を示したのです。ペトロは羊たちのために、いのちをささげる牧者となり、イエスに似た者となりました。そのとき「主よ、あなたを愛しています」という祈りは聞き入れられたのです。(荒)
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ペトロは、イエス・キリストが三回も同じことを尋ねてこられたので、悲しくなりました。
普通は二回までではないでしょうか。コンピューターの暗証番号(パスワード)でも、「確認のため、もう一度入力してください」とよく出てきますが、三回はありません。
もっとも耳の遠いお年寄りとお話をしていると、時々、こういうことがあります。「また同じことを聞いてる。」話が堂々巡りします。「さっき答えたばっかりなのに。何回も同じことを聞いて。おじいちゃん、もうこれで三回目だよ。」
それにしても、なぜ三回も同じことを聞かれたのか。それは恐らく多くの人が指摘するように、ペトロが三度、「イエス・キリストを知らない」と否定したことと関係があるのでしょう。
イエス・キリストは、そんなペトロの気持ちを思いやって、三回、ペトロに「私はあなたを愛しています」と言わせたのではないでしょうか。一回ごとに、ペトロがイエス・キリストを否定したことを取り除くようにして赦し、そして三回、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられる。これは、恵みの命令です。いったん挫折し、もう弟子と呼ばれる資格がなくなったような者をさえ、もう一度立たせて、遣わされるのです。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7土曜日

ヨハネ21:20-25
ペトロがその答えを聞いた後、彼が振り返れば、そこに愛する弟子、すなわち恐らくヨハネであろう人物が目に留まりました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と尋ねました。私たちは主イエスの招きに応え、それに従うのですが、どうも人のことが気になります。「自分は、年をとると、行きたくないところへ連れて行かれるそうだけれども、彼は一体、どうなのか。自分だけ、そういう目に遭うのか」。この二人は筆頭(ひっとう)格の弟子で、ある意味でよきライバルのような弟子であったかと思います。ヨハネ福音書は、そのような書き方をします。
そのようなペトロの問いに対して、イエス・キリストは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言われました。非常にまわりくどい言い方ですね。この言葉から、「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった」(23節)とあります。さらに、この21章の筆者は、「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」と、くどい程に説明するのです。
恐らく、この21章が書かれた当時の状況として、第一に「ペトロは殉教した。しかし愛する弟子と呼ばれた人は、殉教はせず、長生きした」ということがあったのでしょう。第二の状況は、その愛する弟子も長生きはしたけれども、やがては死んだということでしょう。そこで「イエス様は、『死なない』とは言われませんでしたよ」ということを伝えようとしているのだと思います。

私たちがこの言葉を読む時に心に留めるべきことは、イエス・キリストの召し出し方です。「あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。「人は人、あなたはあなた」ということです。ペトロが、この答えを聞いて、どう反応したかは書いてありません。しかしこの問いは、いつも繰り返し、繰り返し、私たちの心にのぼってくるものです。それは、ペトロの好奇心を表していると同時に、この福音書が書かれた当時の人々の好奇心をも表しています。そして、私たちの好奇心にも通じるものです。
イエス・キリストへの従い方、宣教の仕方というものは、それぞれに異なっております。その生涯の歩み方もそれぞれに違っております。ペトロのように殉教のような形で生涯を閉じる人もありますし、「愛する弟子」のように長生きをして、長い間イエス様に仕える人もあります。それは、神様が私たちのために備えられることであります。
神父・修道者の中にも、いろんなタイプがあります。目立たない生涯を生き抜く人もいますし、いわば、この世的に「成功する」人もいます。そして神父・シスターといえども、どうも他の同僚のことが気になることがあります。
現場の教会ではなく、大学の教師になる人もあります。この世的には、どうもその方が成功したかのように見えます。(社会的評価が高いからでしょうか)もちろん神学校の教師、中学高校の教師になる人もいます。しかしこれは、どちらがいいか、どちらが正しいか、ということではありません。それぞれの仕方で召し出され、それぞれの仕方で従っていく。それでいいのです。
「主よ、この人はどうなるのですか。」この世的に成功し、輝けば輝く程、「どうなってるの。イエス様の生き方と随分、違うね」という素朴な問いが出てくる。しかしそのような問いに対して、主はこう答えられるのです。
「人は人、あなたはあなた。人のことは気にするな。」「あなたは誰にも増して、そして何にも増して、私を愛するか。」「あなたは、あなたの仕方で、真っ直ぐに私に従ってきなさい。」私たちは、その呼び声に、「はい」と答えて従って行くかどうかが問われているのです。
このことは聖職者だけのことではないでしょう。クリスチャン一人一人も同じことがあるのではないでしょうか。清貧に生き抜く信仰者もいますし、社会的に成功し、名声を得る人もいます。しかしながらそうした人が、その地位にいるからこそできる大きな働きをすることもしばしばあります。神様の人の用い方の不思議さというのを思わざるを得ません。http://www.km-church.or.jp/preach/